初めの揺れが収まって、取材先と一緒に部屋を出ましたが、エ
レベーターはもちろんストップしています。
そこで、部屋に戻り、外を見まわしました。
大勢の人が、ビルから外に出て、公園や広場に集まっているの
が見えます。
倒壊した建物はなく、火や煙が出ている様子もありません。
建設現場の背の高いクレーンも、大揺れはしたのでしょうが、
倒れたりすることなく、ともかくも、立っています。
神戸市は、直下型地震の直撃を受け、地震の直後に、多くの建
物が倒壊しました。
木造の建物は、直下の地震に突き上げられ、突き上げられた後
はそのまま落下したので、ぺしゃんこにつぶれました。
マンションは、一階部分の壁を減らし、ロビーを広く取った新
しい建物が増えていました。しかし、壁を減らしてロビーを広く
したのがアダとなりました。一階部分が地震に耐えきれず、ぐしゃ
りとつぶれ、二階から上がだるま落としのように、落ちていました。
神戸は、それが、地震の直後に、起きたのです。ですから、地
震のすぐ後に、街が破壊された感じになりました。
そういう光景を実際に見ているので、東京の街を見回して、東
京はひとまず大きな被害を受けずに済んだなと感じました。
神戸は、そもそも、地震の直後に街が崩れてしまい、そうやっ
て落ち着いて周囲を見渡すという状況さえ、なくなっていたのです。
ですから、東京は、ひとまずは、よかったと思いました。
これが、東京直下型の地震なら、東京は、大変だったでしょう。
しかし、テレビをつけると、各地から、とんでもない光景が次々
に飛び込んできました。
初めは、千葉県市原市の石油化学コンビナートで、地震のため、
火災が発生したというニュースが入ってきました。石油タンクに
火が入ったら大変だと思いました。
しかし、1時間、1時間30分と、時間がたつとともに、それ
どころではない、とんでもない映像がどんどん入ってきました。
津波です。
津波は、東北の街を広範に襲ったのですが、映像として、最初
に入ってきたのは、仙台空港の様子でした。
拠点空港には、テレビ局が万一に備えてカメラを定点設置して
いるので、地震後の様子が映ったのです。
目を疑いました。
津波が空港に押し寄せているのです。
えっ?と思って見ていると、押し寄せた津波が滑走路に達し、
滑走路にある旅客機を、次々に押し流し始めました。
滑走路上には、旅客機が何機も駐まっています。
それが、まるで、おもちゃの飛行機であるかのように、軽々と
押し流されるのです。
隣りあった飛行機同士、水の力で衝突し、絡み合って流されて
いきます。
滑走路の端から津波が来て、滑走路をまるまる飲み込んでしま
うのを、テレビの映像は、冷酷に映し出していました。
想像を超えた光景に、これは、現実のものではなく、映画か何
かではないかと思うほどでした。
2001年9月11日には、アメリカがテロに襲われ、ニュー
ヨークの貿易センタービル(WTC)に旅客機が突っ込みました。
最初の旅客機が突っ込んだ後、速報を見てNHKを見ると、今度
は、次の旅客機がもうWTCの残ったビルに突っ込んでいく映像
が流れました。
そのときは、一機目が突っ込んだビデオ映像かと思ったのです
が、アナウンサーが、震える声で、これはいま目の前で起きてい
る映像ですと話しています。
しかし、ちょっと現実のものとは思えない映像でした。
2011年3月11日に、仙台空港を津波が襲う光景をテレビ
で見て、現実のものではないような感じを受け、この感覚はどこ
かで味わったことがあると、思いました。
デジャブといってもいいのでしょう。
そのころ、石巻や気仙沼、陸前高田、南三陸町など、東北の太
平洋岸の街は、やはり、津波に襲われていました。
しかし、空港と違って、定点設置したテレビカメラがあるわけ
ではないので、その映像は、すぐには入ってきません。
市町村の防犯カメラで撮影された映像や、避難した人が携帯で
撮った映像が、テレビ局に届き、テレビ電波に乗って日本中、そ
して、世界中の人が見るようになったのは、そのもう少し後にな
ります。
さて、まさにその時、福島では、原発が津波に襲われていたの
です。
しかし、地震が起きてしばらくの間は、福島原発の状況は、伝
えられませんでした。なにしろ、テレビカメラがあるわけでもな
いし、そもそも、東電の東京の本社でも福島原発の状況は把握で
きてません。
我々が、地震のものすごい揺れと、その後に来た津波に、必死
に対応している間に、原発事故というとんでもない事態が起きて
いたのです。
11日は、夕方になると、テレビでも、各地の津波の映像が放
送され始めました。
実は11日は金曜日です。
東京で仕事をしているサラリーマンは、週末を控え、無理して
でも、家に帰りたいところです。
しかし、交通機関は、ほぼストップしています。
とくに鉄道は、JRも、私鉄も、地下鉄も、完全に止まってし
まいました。
幸い、東京は道路が無事だったので、車は動いています。
いま、幸いと書きましたが、動いていると言っても、すぐ、も
のすごい渋滞になりました。
バス乗り場やタクシー乗り場は、長蛇の列となっています。
もし、バスやタクシーに乗っても、この渋滞では、どうにも動
きが取れません。
そこで、多くのサラリーマンが郊外の自宅を目指し、歩いて帰
り始めました。
横浜方面に向かう国道1号線沿いの歩道、国道246号線沿い
の歩道、千葉・茨木に向かう千住大橋、浦和・大宮方面、あるい
は立川・八王子方面、どの道も、歩いて帰る人であふれかえって
います。
翌日が土曜日ですから、みんな、無理してでも、家に帰りたい
のです。
夜になると、私が閉じ込められていた高層ビルも、試験的にエ
レベーターを動かすようになりました。
そこで、このエレベーターで外に出ました。
あちこち歩いてみましたが、コンビニは、どこも、パンやおに
ぎりが売り切れています。
立派だったのはホテルで、帝国ホテルなどは、ロビーを一般に
開放し、毛布も配っていました。家に帰れないサラリーマンやO
Lは、ロビーでそのまま、毛布にくるまって夜を明かしました。
反対に、対応が悪かったのはJRで、駅のシャッターを早くに
下ろしてしまいました。せめて、駅の構内に入れれば、寒い中で
も、風ぐらい防いで夜を明かせたのにと思います。このへんは、
JRは、どうしても、旧国鉄の体質を引きずり、対応が役所的で
す。
JRは、あかんね。
私は、試験的に動いているエレベーターをつかまえ、取材先と
一緒にいた会議室に戻りました。
そこでテレビを見ながら、夜を明かしました。
朝、10時ごろになると、電車が動き始めました。
それに乗って、ようやく家に向かいました。
ひと晩、夜明かしした人たちが、動き始めた電車に集まったた
め、朝、東京から郊外に向かう電車がラッシュになるという珍し
い状況でした。
土曜日の午後、ようやく、家に着き、やれやれと、ほっと一息
ついたところに、今度は、福島原発の事故の様子が、明らかにな
ってきたのです。
そこからは、また、別のストーリーになります。
今回は、3月11日の様子を、書き留めました。
当時のことは、また折に触れて、書き留めていきたいと思います。
今回は、ひとまず、ここまでとします。