人生は 五 七 五

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神の祝福がありますように
(by mother teresa)

やっぱゲーム派と読書派、最終的には違うな、、

2008-12-13 21:47:30 | Weblog
何かゲーム、全然興味なくなってきた。wiiが当たって、色々見に行ったんだけど、全然面白そうじゃないんだな。もう歳かな。Nintendo DSでもとも思ったんだけど、やはりなんか見ている間に詰まんなくなってきた。

ゲームって結局、戦う色々歩くちょっと物語がある、そんな感じだよね。戦う所はゲームだから基本的に勝つために考えて必要な処理をして勝つあるいは負ける、これなんだな。まあゲームって言うのは戦いだな。

ゲーム派はこの勝負ってのが好きなんだと思う。勝つために色々考えるとか、そう言うのが好きなんだな。囲碁とか将棋なんて何歳になっても勝とうと頑張っていらっしゃる諸氏には、本当に敬服致します。

読書派はこの勝負ってのがそんなに好きでなくて、分からないことが分かる、知らないことを知る。この知識好きが、読書派なんだな。ただ読書でも物語を読むのが好きなのと、実用書が好きなので色々あってこれまた大変だけどね。

ゲーム好きで読書好きもいるからね。これって基本的に物語のあるゲームで、物語好きが、両派に属するんだろうな。

つまりだ、目の前にある問題があって、それをどうやって解くか考えるのが、ゲーム派、その問題がそもそも何であるのか問題ってのは何なのか、それを考えるのが読書派ってこともないかもしれないけど、大体読書派。

ってな感じだな

学問とか科学が物質的豊かさを与えてくれた、じゃー精神的豊かさは、、

2008-12-12 23:43:20 | Weblog
科学とか、学問とか、ちと考えてみた。

我々は、学問とか科学技術のお陰で、物質的豊かさは享受できましたね。これは非常に幸せなことです。メタボなんて気にしなければ行けない時代なんて、江戸時代は考えられませんでした。しかし、この技術とか学問とかを学んだために、我々は、失うものも出て来ました。

それが、我々の精神を支える迷信とか信仰とか真実とか科学とかでは全く考えること、解決することのできない分野ですね。

例えば、太陽は神であり人々の希望であり、生き甲斐でした。エネルギーそのものです。しかし、科学は太陽を火の塊で非常に危険であり、希望でも我々を生かすエネルギーでもなんでもないというようなことを解明しました。

僕らの精神的な支えは壊されてしまいましたね。何を信じればいいのか分からなくなりますね。でも気にすることないんです。太陽は我々にとって依然として、神であり希望であり、我々を生かすエネルギーなんです。なぜなら地球の上にいる限り、太陽が危険なことはないんです。火の塊だからと言って落ちてくることはないんです。地震や家の火事の方が怖いんです。

太陽の光を浴びた時に、そういう感じがするでしょ。なら太陽は依然として、古代から変わらないんです。信仰としての太陽と、科学としての太陽を分けて考えれば良いわけです。そして我々は分けて考えることができるようになっているんです。不思議な能力を授けてもらいました。

科学や学問は信仰の対象にはなりません。真実や事実を幾ら知っても、我々は安定しないし心の平安は保たれません。キリストでは神は愛の源と言うことになっていますが、実は神というのはこの世界をこの通りに統治しているだけで、何でもないのかもしれません。そもそも神など居ないのかもしれません。

学問や科学では、見えないもの論理的でないもの、説明できない物は全て排除しますね。その中では神は不在の可能性は高いんです。

しかし、神は不在でいないと言われても、先の太陽と一緒で心の平安や希望などは生まれてこないんですね。心を健康に保つためには、信仰が必要なんです。それは科学や学問とは違うんです。学問では否定したり議論にならないものでも、人が生きる上では必要な物もあるんです。その必要な物が信仰心であり、神なんですね。

自分が生きる上でも希望であり、命綱でもあるんです。そう言う物を見つけた時に人は本当に生きることができるのではないでしょうか。

何か分からないけど不安だとか、イライラするとか、憂鬱だとか、これは僕らがメタボになるほど物質に囲まれて生きている代償で、信仰心を無視しているからなんですね。しかし完全に無視できる物でもないので占いとか精神世界とか、そう言う目に見えない物に惹かれてしまうんですね。

人は物質がなくても生きていけませんが、精神的な栄養がなくても生きていけないんですね。このように作られたというのは本当に不思議だと思います。

神はただ我々の所にいて、良いことも悪いこともそのまま見ていると考えるより、常に我々のことを気にして下さって、暖かい愛を注いで下さっていると考えた方が、生きる上で幸せじゃないですか。

つまり自分が幸せに感じられる考え、人と上手く生きていく考え、そう言う思想とか信仰を持つことが大切なんです。そうすれば、苦しいこと辛いこと楽しいこと嬉しいことがあっても、人生が終わるまで生き続けることができるんですね。

でこの精神的な部分を充実させてくれるのが、まあメタボになっちゃ行けませんが、宗教であり信仰でないのかなと思うわけです。もしかしたら新興宗教で微妙に怪しいのはメタボ宗教なのかも。

そんな感じですね

神を信じるとか祈りって、つまりカウンセリンクじゃー

2008-12-11 12:58:05 | Weblog
人々が神を信じなくなって久しくなるな。

でも神は居るんだよ。神が不在になって人々の精神的平安とか安定が脅かされるようになって、出てきたのがカウンセリングだろう。

カールロジャーズって有名なカウンセラーが居るんだけど、この人は、自己実現とか、クライアント中心療法とか言っているんだけど、つまり、相手を受容して相手が自分で応えを見つけられるように暖かく話を聞くってことらしいんだけどね。

此ってカウンセラーが祈りの相手になるような感じだよね。神が居る場合は自分の中だか外だかの神に祈る、つまり神と対話するってこと何だけど、神が不在だと神に祈るわけに行かないから、人間に祈るってことはないんだけど、人間と対話するって感じなんだな。人間中心主義だからな。神は居ちゃまずい。

でもカウンセラーて金かかるし、自分の自己実現可能にするのかどうか、ハッキリ言って人依存だよね。そんなことするより、どうせなら神信じて、まあ神に任せちゃう場合は自己実現とは言えないけど、生きた方が良いんじゃないかな。

つまり自己実現と神の導きによって生きるって、同じことなんだな。まあ自己実現だと、対話の対象者が居ないからカウンセラーになるわけで、神の導きだと、神に自分を捧げる場合だと、神という対話者が居るから彼に話しかけるって感じだな。

現代は科学主義で実証主義で神不在になったから、科学的学問的なカウンセラーなんて必要になったわけで、宗教があれば、そんなもの要らないんだな。まあどっちに金が行くかだな。宗教に払うかカウンセラーに払うか。

まあ、自分は宗教の方が共同体の中で様々な人と交流できて、良いと思うな。カウンセリングだとカウンセラーと独りだけで、その他の交流とかないから、ちとつまんないな。

でも仏教は、微妙に孤独だな。あんまり共同体とかで集団という考え方ない感じだ。新興宗教は別ね。そこがちとつまんない。

カソリックだと、告解(懺悔)とかあるからね、少し神父さんと対話らしきものあるからカウンセラーっぽくなるな。

何か神っていた方が良い気がするな。

ってな感じだ。

全て自分の責任って辛くないか、、

2008-12-11 11:52:53 | Weblog
何かと話が宗教になっちゃうけど、宗教って言われるとえーとなっちゃうけどね。自分もそうだった。そもそも歴史勉強したり、マルクスの話聞いたり、オウムの事件とか、何かと良くない話が多いよな。

だから敬遠しちゃうんだけど、そんなに敬遠する必要もないのかなって感じだ。

此は昔友達が言ってたんだけどね、宗教に入っている人、神を信じている人って、基本的に良い人が多いってね。結構自分を取り巻く環境に、宗教信じている人いたんだけど、良く考えてみると確かに良い人多かったな。

でも、自分の責任と判断で生きて来て、燃えついてしまった人、どうにも自分の計画通りには行かなかった人、色々自分に言いつけても過去を諦められない人、人は当てにならないとか、裏切られちゃうとか、要するに現実の世界で袋小路に入ってしまった人、そんな人が最後に頼れるところ、それが神じゃないかって思うな。

後は、夢とか希望とか段々無くなってきた歳の人とかもだな。若い内は夢があるんだな。希望があるんだな。で、その夢や希望が実現できるって信じているんだな。しかし、若いというのは時間があるってことで能力があるってことでも、実現できるってことでも実はないんだな。夢は大きければ大きいほど、それが挫折したときに受ける心的打撃も大きいぞ。だからあんまり大きい夢は持たない方が良いんだけどね。

そんな心境の人は、自分の意志で動くのを辞めて、神の意志で動いてみたら良いんじゃないかなって思うんだな。自分を神に委ねてしまって良いんじゃないかなって。自分で生きろとか、人に頼るなとかそんな感じで育ってきたけど、自分の判断だって所詮世間の判断だろ。世間で良いと言われたものが自分に良いし、世間で悪いって言われたものが自分にとっても悪いだろう。

そんな判断じゃ疲れちゃうんじゃないか。だから、世間でなく神の判断で生きるのが良いと思うぞ。自分の責任なんて辞めて、神の責任にして任しちゃおう。

聖書で言う此だな。

"O My Father, if it is possible, let this cup pass from Me; nevertheless, not as I will, but as You will."

聖書って原語古代ギリシャ語らしいけど、あれむずい。

あーあ、俺も流石に神頼みになるとはな、全く思わなかったな。Nieztsche 愛読していたんだからな。今も読んでいるけど。ただ、普通の人、強がっているけど弱い人デカイ夢を持っている人、凡人かどうか分からない人は若い内に改心しちゃった方が良いと思うぞ。

まあ、いきなり宗教だとなんか怪しいところだと、神とか言っちゃって、金イコール神なんて言うとんでもない宗教に行っちゃうと問題だから、人間の欲を減らすのが宗教なのに増幅してどうすんだって感じだな、神に頼らず金に頼ってどうすんだって感じだよ。金は神から与えられるものだから、神に戻しなさいなんて宗教家に言われたら、何も言えないもんな。

だから、まあまずは、ひろさちや師匠の本とか、マザーテレサとか、この辺から読んで、徐々に神を信じて色々宗教心を養ったら良いんじゃないかな。

もっとも宗教って怪しいんじゃないって思っている人は神を信じても大丈夫だよ。その懐疑心は既に神の恵みだから、神を信じたって減らないよ。常に警戒しているはずだ。

ってな感じだ


立川南口に美味しいチャンポンやあるぞ

2008-12-10 10:28:43 | Weblog
知られざる立川に、ちょっと高いけど、美味しいチャンポン屋がある。

その名も、

東京チャンポン

場所は、南口のスカイラークの道か、もう一つ手前か先の道を左に曲がったところにある。

オーソドックスチャンポンが740円ちと高いけど、量も多いし野菜も多いし旨い。ちと量多いから自分はいつも麺を半分にして貰っている、券を自販機で買うので値段は一緒。

チャンポン好きはお試しあれ。

まあ、安いのなら言わずと知れたリンガーハットだよね。あそこは良い。

ってな感じだ

美しいく見せたいと思う人は、皆美しいぞ

2008-12-10 00:18:32 | Weblog
街歩いていたりして、色々な人がいるよな、おばあちゃんとか、ちびまるこみたいにがきんちょから、色々いて面白い。

美しく見せようとしている人もいるよな。最近美しく見せようとしている人はみんな美しく見えるようになってきたよ。化粧したり、綺麗な服着たり、みんな綺麗だな。眩しくて輝いているよ。馬子にも衣装。

だから、美しく見せようとしてる人はみんな美しいから、大丈夫。ただ其れは表面的な美しさだから、それで恋が始まるとか、なんとかはまた別だろうな。

俺は自分のこと美しく見せようとできないけどな。毎日普通に生きるだけで精一杯で、美しくしようなんて、ちと余裕ないっす。それはそれで良いんだよ。

ってな感じだ

日曜日にプロテスタントの教会行ってみた、、Power for Living

2008-12-09 12:40:30 | Weblog
日本のプロテスタントは、あれだな、アメリカ製。

でもこの行った教会中々格好良い。30人ぐらいしか入れない感じで凄く狭いんだけど、木製の床とか壁とか、結構格好良い。教会はプロテスタントの方が良いな。

プロテスタントって、パンだけでなくワインも配るんだな。おもろい。

牧師さんから最後話しかけられて、結構フレンドリー、で冊子を貰った。
Power for Living ってな本だ。なんだ此って、読んで見たんだけど、
中々キリスト教しているというか、どっかの怪しい冊子ではないんだな。

まさにキリスト教ってこんな感じみたいだなって事が書いてある。他のキリスト教の本とかと似たようなことが書いてあるんだな。でも、ちょっと成功宗教すれすれのような書き方もしてある。キリスト教を信じたから成功しましたとは言っていないんだけれど、キリスト教に入って神に従って歩もうと信じた後、自分の夢が実現したというようなことですね。読み方によってどっちにでも取れる中々上手い書き方している。

でも、基本的にキリスト教とか、神を信じるとか、宗教についてどんなものかを知る入門書としては、良い本だと思う。牧師さんに感謝。

他の本とかだと神に従って生きるってどうすんのかなって思うんだけど、この本には、聖書に従って生きるって書いてあるから、神に従って生きるとは、なるほど聖書を良く読んで、それを人生の方法論として生きよってことなのかなって気がする。本当かな。

ただ、この世の唯一の神がキリストという排他的なことも書いてあるので、それはちと見習えないなって気がするよ。まあキリスト教の宣伝だから信者増やすためなんだろうけどね。

ちなみに、この冊子とかCMとか去年あたりしていたみたいだけど、この後信者増えたのかな。何か全然効果なかったっぽいね。

ただ全体的には、怪しくない正当なことが書いてあると思うぞ。マザーテレサが言っているようなことと似ているよ。キリストって何だろうとか神信じるって何だろうとか、独りの決断で生きるの疲れたとか、全て自分の責任勘弁とか、他社に依存しても良いじゃんとか、まあそんなこと感じ始めたらだね、この本は入門書として良いじょ。

ってなんかキリスト教の宣伝しちゃってるけど、、ははは

神を信じてLets Go

ってな感じだ

決めたことは、大体できれば良いんじゃない、、

2008-12-06 09:13:18 | Weblog
やっぱあれだな。

決めたことを決めた通りにやろうなんて思っちゃ行けないな。
大体できれば良いなぐらいで行かないと、上手く行かない気がする。

毎日これしようと思っても、1週間に1日とか2日抜けても、まあ仕様がないぐらいの気持ちで行くのが良いな。もし1週間のうちに4日も5日も抜けるような場合は、そもそもその決めたこと自体現実的、実行可能でなかったって思った方が良いんだな。

そんな場合は、少し軌道修正するしかないな。基本的に欲が多いと、あれもこれもと考えちまうからね。体力気力があって常に動いていないと気が済まないような努力気質の人には良いかもしれないけど、動かないのが好きなような人は、色々決めてもあんまり沢山はできないんだな。

だから、多くを望まないことだな。こりゃもう、そういう風に生まれたことに意味があると、神が作ってくれたんだと、思うのが良い。

誰もがみんなスーパースターには成れないんだぞって、若い内に悟ることが大切だ。

ただこれを人に相談すると、駄目な場合があるんだな、何たって四面楚歌、皆努力教に任意加入しているからな。自分ではそうと思わずに、加入している所が大問題。それが絶対の真理ぐらいに思っているんだな。

人は信仰なしには生きてけないのかもしれないな、、

ってな感じだ


じゃじゃーん、つまり運命論からの悟り再び

2008-12-05 00:45:37 | Weblog
真実とは、解釈を変えれば良いんだ。解釈こそ真実、それを信じれば全て真実なんだ。

まあ、そう言う意味じゃ、現代の科学時代も、キリストの時代も余り変わっていない気がする。文明的な物は変わったかもしれないけど、真実のような物は変わっていないんだな。まあ、それでもね、生演奏でしか聞けなかった音楽が、生でなくても聴けるとか、ないものができたと言うより、できることが延長しただけだよな。

運命論ってのはちと過激すぎで、やっぱ少し、信じがたい。そこで運命論に変わって、考え出されたのが、これだな。最もこれは、過去に対して悔やんでも悔やみきれない何かがあった場合なんだけどね。

つまりだ、過去に神を信じていなかった、だから神の導きがなかった。こう考えれば良いんだな。やはり余り過去を悔やまないためにも、神を信じた方が良いと思うな。まあ、信じなくても無敵な人は良いけどね。普通の人、有名人に憧れても、どう見ても普通にしか成れなそうな人、努力すれば成れるなんて、恐ろしいこと考えるのは辞めて、素直に神を信じた方が良いな。

まあ、今は努力の時代だから、周りの人には努力してます頑張っていますと言わなきゃダメだけど、後で神様に、嘘言ってしまいました。って謝っとけば大丈夫。で、神様に、私はあなたに従います。私を導いて下さいって、祈ればばっちし。祈るったって本当にそう思って、心から語らないと駄目だろうけどな。この辺は自分はまだBeginnerなので、分かりません。

ちなみに、神、信じたからと言って、マザーテレサみたいになるぞなんて、また恐ろしいこと考えちゃ行けません。彼女も有名人だからね。ただ彼女の作った会に入って体験してみるのは良いことだと思う。そうすればマザーテレサになれるのかどうか、すぐに分かるっしょ。それよりもっと大切なことを悟るかもしれないよな。

まあ、人を助けるたの字もない自分としては、そんなこと言えないんだけどね。今、人助けに挑戦中です。悪い人にもそう簡単には成れないけど、良い人になるのも中々難しいよな。ダイエットと一緒か。最近また太って来ちゃった。秋から冬にかけて意外と太るね。

ってな感じだ