風が吹いていたけど、そろそろ極寒な日もなくなってきたかなと言う感じ。
今日はもまたまた本屋さんで立ち読みしてしまった、最も立ち読みだけでなく、本も買ったけど、カウンセリングの理論とか言う硬そうな本、最も心理学の本は硬そうでも軟らかいけど。
それとは別に、他の人の本を立ち読みしたら、その人って河合隼雄だけど、カウンセラーに必要なものはたったの3つであるという事をロジャーズという人が言ったとかいてありました。
一つ目は、無条件な積極的関心、つまり、クライエントの話すことを関心を持って聞くと言うことですね。家の母ちゃんは死ぬほど話がつまらないのですが、そんな話を関心を持って聞かないと行けないんですね。犬がマグロ食ったとか、猫がフライドチキン食ったとか、人参があるとか無いとか、極めて意味のない関心のない話をしているように感じるんですが、そんなもの聞いてられません。その場を離れるか、別のことを話し始めます。
そして二つ目は、共感、共感ねぇ、無共感は得意だけど、共感なんて難解です。嘘くさい共感ならできますが、本当に共感なんて難解です。僕って冷たい性格なんですかね。共感して貰いたいですが、共感できませんね。辛いんですなんて言ったら、何甘ったれたこといってんだ、俺だって辛いよとか思っちゃいますね。そう言う感情的なの全然駄目。でも、昔どっかのおばさんに言われた、もうちょっと情緒的な発言したら良いんじゃないと、まあ褒めるとか、そんな表現ですかね。最も、辛いんですね、とか言うと逆に嬉しくなっちゃって、何で辛いのよ、ちょっと教えてよ何て気になっちゃうけどね、で聞いてみて、本当に辛そうだったら、辛いと思えますね。
三つ目は、自己一致、自分に正直であれと言う感じらしい。これだけはできそう。思っていることと言っていることが違う、何て言うのは結構難しい。思ったことは口にしちゃうし、思わないことは言えないな。凄くやばい状況とか極限状態の時は、思わないことも思って言ってしまえるかもしれないけど。それでも、こういう風に文章書いていても、正直とは言えない発言も多いかな、自分を良く知らないと自分に正直な発言はできないからねぇ。
まあ、無条件な積極的関心とか共感とか自己一致とか漢文ばかりでちんぷん漢文だけど、こういう用語は用語として聞くと難しいけど、要するに、無条件な積極的関心というのは、相手の話に先入観無しで、関心持てるように工夫しながら聞くことかなと思います。基本的に、相手には何かが問題がある、どんな問題だろうとか、何を伝えたいんだろうとか、そんな気持ちを持って接すれば、実は自然に関心が相手の話しに行くと思います。どんなに相手がつまらない話をしていても、そこには何か意味があるのだという関心が在れば、そのつまらない話からも意味が見いだせると思います。
共感とは、要するに、人の話が分かる、結局相手の話が理解できる、頭で理解するだけでなく、気持ちで理解できることだと思います、そう言うことができると言うことだと思います。自分にそう言う体験が在れば、理解しやすいですね。感受性の多い人に成れと言うことですかね。僕は子どもの頃を照らし合わせてみると、心で理解する(感ずる?)タイプで、頭で理解できるようになったのは思春期になった頃からだと思います。だから数学なんて嫌いでしたね。心がないですから。でも最近は、国語の文章読むよりも、算数とかの方が気楽な感じがしてきました。作者の考え(気持ち?)なんて分かりまへん。僕ができるのは作品を感じることだけです。じーんとしちゃうだけです。
とは言っても、生身の人間にジーンというわけにはいかないので、どうしても外したくなったりもしますね。好き嫌いもありますし、言い面も悪い面も見えますし、作品のように黙っていませんから、自分にとって嫌なことも言いますからね。
共感というのは、相手がこっちに対して感じるものからこっちも相手の話していることを感じる、在る意味でそう言う相互作用かもしれません。こっちだけ相手に感じるのは難しくて、相手もこっちに感じて貰わないと行けないのかもしれませんね。安心感とか心を開くとか何とかいろいろ。クライアントを感じるとか関心が持てるというのは自分が相手に与えている印象或いは感情と言うのも感じる必要があるかもしれません。
今日はもまたまた本屋さんで立ち読みしてしまった、最も立ち読みだけでなく、本も買ったけど、カウンセリングの理論とか言う硬そうな本、最も心理学の本は硬そうでも軟らかいけど。
それとは別に、他の人の本を立ち読みしたら、その人って河合隼雄だけど、カウンセラーに必要なものはたったの3つであるという事をロジャーズという人が言ったとかいてありました。
一つ目は、無条件な積極的関心、つまり、クライエントの話すことを関心を持って聞くと言うことですね。家の母ちゃんは死ぬほど話がつまらないのですが、そんな話を関心を持って聞かないと行けないんですね。犬がマグロ食ったとか、猫がフライドチキン食ったとか、人参があるとか無いとか、極めて意味のない関心のない話をしているように感じるんですが、そんなもの聞いてられません。その場を離れるか、別のことを話し始めます。
そして二つ目は、共感、共感ねぇ、無共感は得意だけど、共感なんて難解です。嘘くさい共感ならできますが、本当に共感なんて難解です。僕って冷たい性格なんですかね。共感して貰いたいですが、共感できませんね。辛いんですなんて言ったら、何甘ったれたこといってんだ、俺だって辛いよとか思っちゃいますね。そう言う感情的なの全然駄目。でも、昔どっかのおばさんに言われた、もうちょっと情緒的な発言したら良いんじゃないと、まあ褒めるとか、そんな表現ですかね。最も、辛いんですね、とか言うと逆に嬉しくなっちゃって、何で辛いのよ、ちょっと教えてよ何て気になっちゃうけどね、で聞いてみて、本当に辛そうだったら、辛いと思えますね。
三つ目は、自己一致、自分に正直であれと言う感じらしい。これだけはできそう。思っていることと言っていることが違う、何て言うのは結構難しい。思ったことは口にしちゃうし、思わないことは言えないな。凄くやばい状況とか極限状態の時は、思わないことも思って言ってしまえるかもしれないけど。それでも、こういう風に文章書いていても、正直とは言えない発言も多いかな、自分を良く知らないと自分に正直な発言はできないからねぇ。
まあ、無条件な積極的関心とか共感とか自己一致とか漢文ばかりでちんぷん漢文だけど、こういう用語は用語として聞くと難しいけど、要するに、無条件な積極的関心というのは、相手の話に先入観無しで、関心持てるように工夫しながら聞くことかなと思います。基本的に、相手には何かが問題がある、どんな問題だろうとか、何を伝えたいんだろうとか、そんな気持ちを持って接すれば、実は自然に関心が相手の話しに行くと思います。どんなに相手がつまらない話をしていても、そこには何か意味があるのだという関心が在れば、そのつまらない話からも意味が見いだせると思います。
共感とは、要するに、人の話が分かる、結局相手の話が理解できる、頭で理解するだけでなく、気持ちで理解できることだと思います、そう言うことができると言うことだと思います。自分にそう言う体験が在れば、理解しやすいですね。感受性の多い人に成れと言うことですかね。僕は子どもの頃を照らし合わせてみると、心で理解する(感ずる?)タイプで、頭で理解できるようになったのは思春期になった頃からだと思います。だから数学なんて嫌いでしたね。心がないですから。でも最近は、国語の文章読むよりも、算数とかの方が気楽な感じがしてきました。作者の考え(気持ち?)なんて分かりまへん。僕ができるのは作品を感じることだけです。じーんとしちゃうだけです。
とは言っても、生身の人間にジーンというわけにはいかないので、どうしても外したくなったりもしますね。好き嫌いもありますし、言い面も悪い面も見えますし、作品のように黙っていませんから、自分にとって嫌なことも言いますからね。
共感というのは、相手がこっちに対して感じるものからこっちも相手の話していることを感じる、在る意味でそう言う相互作用かもしれません。こっちだけ相手に感じるのは難しくて、相手もこっちに感じて貰わないと行けないのかもしれませんね。安心感とか心を開くとか何とかいろいろ。クライアントを感じるとか関心が持てるというのは自分が相手に与えている印象或いは感情と言うのも感じる必要があるかもしれません。