神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

朝からびっくりでしたね&季節の花

2023年04月13日 17時53分31秒 | 花鳥と昆虫・爬虫類・魚
 私は基本夕方までテレビを見ることは、ほとんどありません
但し、大谷君が出場するエンジェルス戦とマラソン、駅伝は必ず見ます
そんなわけで8時過ぎ食堂へ降りてきたら、女房殿が「北海道へミサイルが落ちるってテレビで騒いでる」
と言うので、さすがに驚いて、テレビをつけて見たら「建物の中か、地下へ逃げてください」とやってる
なんか地震情報より緊迫感がない、ミサイルが落ちるのではない、ミサイルを北海道狙って撃ち込んだと言うことではないか。

 これは戦争じゃないか、宣戦布告なしの不意打ちだ、いくら金正恩が向こう見ずでも日本に対して先制攻撃をするだろうか? 「それはない」と思った
だがそれが本当で、人的被害がない北海道の無人の荒野、離島、山の中にでも命中したなら政府は、どんな対応をしたのか・・・
「中国大使館を通じて最大の言葉で北朝鮮に抗議しました」で終わらせるのか? 「国会を召集して緊急防衛会議を開きます」か?
それともアメリカ大統領か在日米軍にお伺いをたてるか?

 だが誰から発せられたか知らないが、誤報だった
もしこれが反対で中国やロシア、北朝鮮に「日本からミサイルが我が国に向けて発射されました」と彼の国の機関が誤報を出したら、どんな結果になるのだろうか?
ただでさえ、ロシアとウクライナは戦争しているし、中国と台湾も緊張している、海上の日中国境もたえず睨み合っていて一触即発状態だ
日本のように気長な国であれば「誤報だった」一安心・・ですむが
彼の国では、そうならないかもしれない
こんな誤報は辞めてほしい、緊急を要する情報だから仕方ないが、精度を上げないと国土防衛などままならない。

 北海道でなく、北陸、新潟方面に・・・というアラートなら、私はどうしただろうか・・時間がないし、地下もない
家にいて、近くに落ちないように願うしかないだろう、たいがい30分以内に結果はわかることだ
運悪く当たれば「はい それまでよ」とあきらめるしかあるまい
「あとのことは岸田君、きみに任せたよ」


 さて結局、今日も平和に一日は過ぎた
黄砂がひどくて10km先の山がかすんでいる、車にもかなりくっついている
それで今日は散歩を取りやめて、小庭の草とりをしてから新しい畝を一つ作った、なにか野菜を植えて見たくなったから
何でも値上がりだから、マジで自給自足体制も考えなければならない

昨日は黄砂がひどくなる前に花をスマホで撮りながら散歩した
画像が悪い上に、手振れのあって見にくいが日記代わりだと思って掲載した

キンポウゲ?

シャガ

ヒナギク(の仲間?)

菜の花


芝桜

スイットロケット(この写真は白っぽい紫だが、本当は赤っぽい紫)

ツルニチニチソウ

チューリップ

梅も葉がついてきた、去年より良さそう

イカリソウ


牡丹も大輪になりました

*ここに掲載するとスマホ写真は色が白っぽくなります

黄砂の影響 

2023年04月12日 23時36分55秒 | 自然災害
午前中は雨、午後から晴れたが午前中から、くしゃみ鼻水がとまらない
昨日までも花粉の影響はあったが、時間的に限定されるだけだだった
それが今日は今この時間まで、ずっと一日中で屑箱も使用済みティッシュの山になっている。
目も少しチクチク感があるし、これはちょっとひどすぎる
それでも晴れたのでマスクをして小一時間、散歩をしてきた、マスクのおかげか風が吹いていたおかげか、散歩中はさほどでもなかったが、終わりころにはやはりくしゃみ鼻水が発生した。
まだ車を見ていないが、明日見ればたぶん、べったりと車全体にひっついているだろう
明日も昼過ぎまで黄砂は降るらしい、早く過ぎてもらいたい。

私と音楽 最終回

2023年04月12日 14時10分19秒 | 音楽
 私にとっての音楽は、何のこだわりも執念もない楽に聴ける音楽である
日記の断捨離の為、一日一行転記作業を続けていて、今は20歳の誕生日を迎えた
ここまで転記して気づいたことは、高校入学前に私の人生設計は決まっていたということである、父と同化して二人三脚で「無から有、有から安定」という二世代で安定した家庭を築く、そのような設計を高校時代から結婚までの間、語り合ったのだった、それは日記に記してあった。

 進む道が決まっていたということは、それだけに集中して努力すれば良いと言うことであり、それ以外はほとんど流して生きていけば良いと言うことにもなる
学校の勉強、試験勉強、受験勉強も必要なことだけに集中すれば良かった
高校のレベルもそれほど高いわけでもなく、勉強しなくても入れるレベルだったから受験日の前の日まで、ラジオのポップスランキング番組を聞いていたのだった。

 音楽もバンドはやったけれどミュージシャンを目指すわけでもなく、集まって各楽器の音程を併せて曲を演奏することが楽しかっただけで、テクニックがどうとかのレベルではなかたった。
むしろ、バンドについて回る、エピソードの方がよほど面白かった
ただバンドをやったことで、学校で受験のために頑張るだけの日常よりは、少しだけ広い世界が見られた、それは何の糧にもならなかったが青春の1ページとして今も記憶に残っているのだ。

 バンドというのは面白いもので、メンバーだけというわけではなく、メンバーの彼女を通じて、女子が集まってくる
するとグループ的になって演奏会以外でも遊びまわるようになる、二年生まで特定の友達としか付き合っていなかった私だが、三年生はバラ色の人生だったと言って良い、音楽を通して楽しい学校生活が送れたのだ
今でも、そのメンバーの男女とは連絡を取り合って遠方の者でも2年に1~2回は会っている。

 社会人になって料理人修行に出たが、車の運転、配達も業務だった
配達に出てカーラジオを聞くのは緊張の板場からの解放だったが、1970年、吉田拓郎のデビュー曲「イメージの詩」は衝撃だった
それで吉田拓郎を知ったが、1972年には「結婚しようよ」がでて、まさに私にはエールに聞こえたのだった

 この頃、新潟で4歳年下の17歳のA子と付き合っていた
陰のある子で訳ありそうな高校中退女子、でも性格は明るかった
古町でデートした時、商店街では「結婚しようよ」が流れていた
「兄貴の彼女が、そこのレコード店に勤めているんだ、ちょっと顔を見てくる」と駆けだしたので、ついて入った
勢いで「結婚しようよ」のLPを買ったが、自分が盤を手に取る前に彼女が
「わあ、これ聴きたかったんだ、貸してもらえる」「いいよ」
二度と、このレコードは帰ってこなかった

 それでもタイトル通り、田舎者の私はマジでA子と結婚したい気分になっていた、そしてある冬の夜、それを言ったこともあるが軽くかわされた
本当に純朴な田舎坊主だったのだ、A子は若いのに百戦錬磨だった
彼女の家に遊びに行ったこともある、両親とも話したこともある
彼女の父は地元大手企業の労働組合長だったから家もしっかりしていると思っていたが・・・
 それから半年の間に事態は刻々と変化して、最期は思いがけない結末となった、私はとんだ三枚目だったが、彼女も幸福に見放されたし、周りの男たちもみな残ったのは苦い思い出だけだった。
吉田拓郎をテレビやラジオ、ネットで見るたびに必ず、これを思い出す
あの時の、古町の景色は、まさに花咲く街角に見えたのだった。





私と音楽 3

2023年04月11日 09時36分32秒 | 音楽

 創立7年でプロ野球選手を5人ほど輩出した(一軍実績を残したのは一人だけ)野球部をはじめ、スポーツ優先の硬派校だったから(私は硬派ではなかったが)校則で丸刈りだった、当時最先端のビートルズのマッシュルームカットを目指す我々は髪型でまず挫折感を味わったのだ、まさに「青春デケデケデン」の世界だった
普通科高は長髪OK!だったから、そんな理由だけで普通高へ行けばよかったと思ったくらいだった。
私の高校時代にはエレキバンド(エレキギターは最初電気ギターと言っていた)かフォークギターのどちらかをやる子が結構いた。
学校へギターを持って行って昼休みに弾くと、男女何人か集まって一緒に歌った

 エレキの校内演奏はもちろん、持ち込みも禁止という「ガチ頭」の校長だったが、まだ24歳くらいだった美人教師と正義感強い若手美術教師が運動してくれて、文化祭で演奏できることになった,
それで美人教師に片思いの恋をしてしまった
ところが学校の教室でバンド7組が上記2教師の前でリハーサルまでやったのに一週間くらい前になって校長に潰されてしまった。

 血気さかんなわがバンドのリーダーは校長に掛け合いに行ったが中止は覆せなかった。 それで頭を使って運動会の時にクラス対抗仮装大会を利用して、サーカス団の楽団という「合法的名目」で学校創立以来初めて学校のグラウンドの真ん中でエレキギターが鳴り響いた、アンプまで200mもコードをひっぱった努力の結晶だった、さすがの校長も何も言えなかった

 結局素人学生バンドは一時の気まぐれで終わった、演奏者としては下の下の腕前だったから未練はなかった。
 我らの同世代には、南こうせつ、小田和正、寺尾聡、武田鉄矢、上田正樹、つのだひろ、矢沢永吉、堀内孝雄、松崎しげる、萩原健一、岡本信、森山良子、財津和夫、泉谷しげる、沢田研二、井上陽水、谷村新司、細野晴臣、坂本龍一、南義孝、ばんばひろふみ、白鳥恵美子、舘ひろし、イルカ、昭和23年~25年生まれのロック、ポップス系、フォーク系だけでも主だったところこれだけいる、田舎坊主の我々でさえやっていたのだから底辺は広かった
演歌でも今や大御所と呼ばれる歌手も続々誕生した、細川たかし、八代亜紀、都はるみ、和田アキ子、梅沢富美男など、まだまだ書ききれない。
戦後派の登場で音楽スタイルががらりと変わったのだった。

 洋楽ではビートルズを代表にリバプールサウンズとかブリテッシュロックとかで60年代前半まで席巻していたアメリカンポップスをイギリス勢が追い越してしまった
この他にも私が特に夢中になったのはイタリアのカンツォーネで、チンクエッティやボビーソロが特に好きだった、またフランスではシルビィバルタンが好きだった。

 ビートルズは60年代中盤からステージ公演を辞めて、スタジオ録音に徹するようになり、曲のスタイルががらりと変わった
前期のシャウトスタイルから変わり、クラシックスタイル、トリップ、オーケストラ、複雑なキー進行と音源を複雑に組み合わせた音、マニアックで美しい曲になった。
多くの人が後期のビートルズの曲を芸術だ、クラシックだと讃える
だが私はビートルズの単調なロックンロールから進歩することが出来なかったので、続々と出て来た爆発前の62年頃のクラブでの演奏とかハンブルグ公演テープからの編集レコードとか、トニーシェリダンのバックコーラスの曲とか、そんなのばかり集めるようになった
「Let It Be」を買った後、ビートルズレコードは買っていないし、ソロアルバムもポールの「Ram」を買っただけだ。










私と音楽 2

2023年04月10日 12時53分17秒 | 音楽
菊地6失点、大谷3号
見ている方も疲れた試合だった。


 年代は1961年ころ、小学校高学年になると少しはオマセになった年頃で、大人の真似をしたい。
歌謡曲も橋幸夫が「潮来笠」で華々しくデビュー、同級生に歌がうまいTというのが居て、教室のだるまストーブを囲んで、この歌を同級生の前で歌って見せた。
子供ながらちゃんとコピーしているので、みんな感心して聞いていた
Tはいつごろからか知らないが民謡歌手になると言って、その世界に飛び込んだらしい、再会したのは23歳ころだった、体を壊して田舎に帰ってきて、それから数年後に亡くなった。 潮来笠には、そんな思い出がある。

 小学校に戻すと、当時はプレスリー、ニールセダカ、ポールアンカ、パットブーンや、ロカビリーだとかポップスだとかカントリーなどアメリカのヒット曲のカバーが日本語で歌われていて、同級生のマセガキたちは「ジェニジェニジェニ、イカした名前だぜ ふ~ジェニ」だとか「ドンチュノ~・・・あまいレモンのキッスう~うよ~」なんて腰を振って歌っていた。
掃除の時間にはホウキをギター代わりにして、机に飛び乗ってロカビリーの真似をする奴もいた、テレビの普及で田舎でも都会の情報が入ってくるようになったのだ。

 クラシック音楽は無関心というよりレベルが違いすぎて理解できなかった
だが学校で音楽の時間にクラシックのレコードを聴いて目が覚めた
はるか遠くの存在だったのが急に身近になった、まるで歴史上の人物が目の前に現れたような感じがした。

小学校から高校まで通して学校の勉強の「音楽」は苦手だった、歌は下手だし、音符は読めないし、クラシックはからっきし、楽器もカスタネットとハーモニカしか使えない、ただハーモニカは上手だった。

 時間を戻すと小学校の時、学校には鼓笛隊があって、私はその他大勢の「縦笛」だった
適当に吹いていて、隣にいたまじめな同級生に叱られたこともあった
ただ、学校レベルでは、隣町の鼓笛隊にはとてもかなわなかった、我々の方が市の中心なのに、田舎のその学校には歯がたたなかった
音楽に興味薄い私でもレベルの差はわかった

 時間は、また戻る、中学生になると父は「電蓄」を買ってきた、すなわち電動式蓄音機だ
これをテレビにつないで、テレビのスピーカーで音楽を聴くのだ
中二の時、風呂焚きをしながらパナソニックのトランジスタラジオを聞いていたら衝撃的なコーラスが流れて来た
ビートルズの「プリーズミスターポストマン」だった、一撃で参ってしまった
レコード店に走って、LP「Meet the Beatles」を買ってきた。
同級生を呼んで毎日のように一緒に聞いた「I Saw Her Standing There」が一番のお気に入りだった。中高の6年間はビートルズまみれだった

 この頃は僅かな小遣いであったから、1500円のLPを買うにはお年玉でもなければ難しかった、SPレコードでも和盤300円、洋盤330円だったから、最初はビニールレコードのソノシートで我慢した。
「じゃりじゃり」言うので、レコード針が減るのではと聞くたびに心配していた。

 この頃の針は鉄針、サフィア針、ダイヤ針とあったが、ダイヤは買えなかった
 高校生になったとき、ナショナルから「憩」「宴」「飛鳥」の和家具調シリーズのステレオが発売された、父は一番安い「憩」を買ったが、私が不満顔をしているのを見て、母が「宴」に買い替えてくれた思い出がある
あの時程、母に感謝したことはない

 高校生になると小遣いも増えてレコードも月に何枚かは買えるようになり、映画も良く見るようになった。 2年生の時には5人でバンドも結成して公民館で有料で1回行った 観客は同級生10人くらいだった。

同級生バンドなのに、3人は一つ年上だった、偶然にしてはできすぎだ
三人三様の事情で普通に入学した私と同級生になったのだ
その中の一人は野球バカで落第して同級生になった男だった、同級生にはプロで活躍した選手もいた
中学時代にはガタイも大きくて乱暴なイメージがあったから、入学時には同級生と聞いて震えあがった・・・「そんなバカな」である、一気にブルーな高校生活になった・・それなのに、その男とバンドを組んで遊びまわることになるとは・・・彼は卒業後、航空自衛隊に入って六本木にいたが帰郷、70過ぎた今でも付き合っているのだから人生はわからないものだ

 因みに映画は洋画ばかり見ていたが、邦画では舟木一夫と和泉雅子の共演が好きで「哀愁の夜」が一番印象に残っている
あんな映画を見て、丸刈りの田舎坊主もLoveを夢見たのだった。


 




私と音楽 1

2023年04月09日 11時49分39秒 | 音楽
 昨日、プリンターインクを取り換えようと、片手にインクを持って上のプリンターを見ながら椅子に登った。
ところが足元に注意しなかったので左足を踏み外し、小指にダメージを受けた
痛かった、夜になっても軽い痛みがあり、少し腫れている感じ
骨折はないが打撲か捻挫といったところか、最近は距離感が微妙にずれる、これが歳ということなのか

 自然、学問、旅、友情、読書、映画、音楽・・・
人間の心を豊かにしてくれる要素はいろいろあるが、もっとも簡単なのは音楽だ
CD、レコードをセットしてスイッチを押したら、あとは椅子に座っているだけで良い、ラジオのスイッチを入れておけばランダムで曲が流れてくる。

 昭和25年(1950年)生まれの私の記憶にある最初の歌は、春日八郎の「お富さん」だ
ほぼそのあたりの時期だろう「銀座かんかん娘」「泣くな小鳩よ」「りんどう峠」「ゆうやけとんび」「弁天小僧菊之助」「野球小僧」などを覚えている
昭和30年ころ、戦争が終わってまだ10年、東京は復興の真っ最中だが、田舎は戦争前と何も変わっていなかった。

 23歳の父は昭和23年に東京から一人空身で、この町にやって来た、初めて足を踏み入れた土地だった
よそ者を無条件で受け入れる会社もなく、自転車で10km、そこから標高差400mの山の集落まで歩いて魚の行商をした

 ここへ来るまでは上野、浅草界隈で遊びまわり、戦争中は亀戸、品川田町、調布を生活基盤にしていた父
小学生の時は御徒町に住んでいて、悪友と二人で上野松坂屋で悪戯の限りを尽くして立ち入り禁止になった悪ガキだったそうだ
青年期は灰田勝彦似だと言われて、東京では結構モテたらしい
それが一転して繁華街もなく、娯楽といえば映画館とパチンコやだけの田舎町
どんな気持ちで暮らしていただろうか?

 そんな楽しみの無い日々だが翌年結婚して、一年後に私が産まれ、借家を出て家を建てることに、たった二間の平屋だが、ますます稼ぐ必要があって趣味どころではなかった。
それでもリコーの二眼カメラを買って家族写真を撮ることから始めた

 戦争が無ければ電気屋をやりたいと思っていた父は、家が貧しい故、小学校卒で働き、精密機械部品の製造工場で機械工をやり、電気通信学校で学んだ
だが戦争は運命を変えた、電気屋の夢は、その日暮らしの魚の行商人からリ・スタートとなった。

 そんな過去があるから、新たな生きがいとして自分で蓄音機(手動レコードプレーヤー)を自作した
小豆色の板で囲まれた蓄音機は手動のハンドルがついている、理屈はオルゴールのようなものだ、回転が遅くなればハンドルを回してフル回転まで戻す
スピーカーは覚えていないが内臓だったと思う、なんせ私は5~6歳ころだから

 どこからかレコード盤を数十枚集めていた、78回転30cmシングル盤
神戸一郎、岡晴夫、灰田勝彦、春日八郎、島倉千代子、美空ひばりなどがあった
岡晴夫の「泣くな小鳩よ」にはドリルで、もう一つ穴を開けてあって、そこを中心に入れると曲が揺れて「な~~く~うなあ~~こばとお~~よお~」なんて歪んだ曲になって、子供たちに人気があった。
この頃は日本の歌謡曲の全盛時代だった。

 都会では進駐米軍の影響で、ジャズやポピュラー音楽、映画音楽も歌謡曲に負けじと流れていたのだろうが、田舎はまだまだのようだった。
ただ1枚映画音楽があったA面「シェーン」B面は「アンナ」だと覚えている
映画「シェーン」の主題曲「遥かなる山の呼び声」
ラストシーン「シェーン  ケ~ムバック!」と少年が叫ぶ、その映画を見たのは高校生になってからだった。

 

 



家の周りの花 新しい仲間

2023年04月08日 16時25分07秒 | 花鳥と昆虫・爬虫類・魚
昨日の夕方から風が強く、せっかくの晴れ間も台無しだ
桜も、この風でずいぶんと花が散った
でも、まだまだ八重桜、山桜がこれからも楽しめる
牡丹が一気に開いた、これから次々に咲くだろう
去年、半分以上切ったので、どうなるか心配したが咲いてくれた

山吹?

クサボケ




ボタン

ボタンとラッパスイセン


水仙の群生


4月 周辺の花

2023年04月07日 16時33分21秒 | 花鳥と昆虫・爬虫類・魚
最近は毎日寝るのが深夜零時過ぎだったので、昨日は23時に寝た
今朝は7時に起きたから、久々の睡眠8時間、すっきりした。
それから花を見て、朝食を食べて部屋に戻り着替えの途中で、なぜかまたベッドにもぐりこみ、目が覚めたら11時になっていた、朝食を食べてからの二度寝とは
しかし見た夢は、忙しく楽しい夢だった、形状も立地も全く違うけれど、そこは私の料亭で、板前も従業員もみな同じメンバーで働いている。
今日のお客さんは、私の同窓会で客数は100名を越えている、早い同級生はもう遠路から来ていて、私は同級生に愛想を言って、板前たちには献立の指示をしながら、自分で献立をたてて買い出しの準備だ。
例のごとく、また仕事と時間に追われる夢だった、1年半近くなっても現役の頃の夢を何度も見る、まだまだ気持ちの奥には思いが残っているのだろうか?

今朝の室温は21度もあった、今年初めて20度を超えた
家の周りにはますます開花した花の種類が増えて来た、花は詳しくないのでグーグルで調べる、スマホにも便利な機能がついて助かる。

鉢植え ホワイトベル(ジャコバサボテン)初めて3月に咲いた

クロッカス 白

クロッカス 紫

水仙



ブドウムスカリ


ツルニチニチソウ

ユキヤナギ

セイヨウタンポポ

オオイヌノフグリ

ラッパスイセン

ドウダンツツジ

スプリングスノーフレーク

ハナニラ


グーグルレンズでの解釈 正しいかどうかは知りません

今夜はプチ贅沢ごはん

2023年04月06日 09時22分45秒 | 料理を作る・食べる
4月は子供たちの誕生日がダブルなど、我が家にとっては特別な日が多い月である。 もちろん国家や自治体にとっても年度初めで日本では第二の新年ともいえるし、学校や職場でも新入生、新入社員の晴れの月でもある。
目出度い日には「ご馳走」と「プレゼント」いうパターンが、どこの家庭でも多いだろう、我が家でも「レストランか、本物の寿司屋さんで」と行きたいところだが、物価高と現状の収入状態では、もはや実現不可能
我が家で工夫して、美味しいものを安く食べて祝うしかない、「そうなれば私の出番だい! やってやろうじゃないの」

さて、特別の日だからちょい贅沢で一人予算は1000円だな、まずは材料の買い出しだ
マグロの中トロ刺身、それと表示は本マグロの赤身(たぶんメバチだと思うが)、イカのさしみ、筋子、ムキホッキ、それと白身は高いから、地物の中サイズの真鯛一匹買って自分で調理すれば安くできる
驚いたのは養殖のぶり、皮引きの柵どりで100gほどのものが900円近い、もはや和牛並みの値段になっていた(もしくは寒ブリ)、まあ献立には入っていないからいいや
こんなところで1000円の予算は使い切った、家で調理開始
卵一個で厚い薄焼き卵を1枚焼いて、ご近所からいただいた「菜の花」を茹でて、富山名産、朧昆布、以上
酢飯に合わせて、盛り付け(写真のとおり)、タイの頭や骨は割って下茹でしてから、お吸い物に
いただき物の、岐阜の初物筍を甘煮にして、菜の花を彩り
はい完成、外食なら1人前2500円はくだらないだろう、「いっただきま~す」

工夫と手間で安くても美味しいものはいただける。
材料費1000円


魚貝六点盛り海鮮丼、中トロが美味しかった

筍の根の部分、豆腐、糸コン、ニンジン、鶏もも、
甘じょっぱく味が染みて、かなりの成功率の煮しめとなりました

鯛の頭を縦割りにして2人前のお吸い物


鯛の薄腹側のさしみ、湯ぶりの皮も柔らかくて好きな部位
獲れて一晩くらいの地物鯛、鮮度も良い


グッドタイミング

2023年04月05日 14時31分10秒 | どうでもいいこと
 あの激痛の「こむら返り」も、ブロ友さんから良い薬を教えてもらったりで、今日は嘘のように痛みは消えて、かえって調子が良くなったくらい。

今日は美容院へカットに行く日だった、車に乗るとカーナビから「今日は4月5日、水曜日です『ヘアカット』の日です」とメッセージ
「ほ~ ナイスタイミングじゃないか」とちょっと驚いた。
なるほどタイミングねえ・・・今日は曇りで、昨日は晴れ、やっぱり桜を見に行ったのも晴れの昨日がグッドタイミング
今日にしようなんて言ってたら、青空の下の桜は見ることが出来なかった
何事にもタイミングがあって、それにピタリはまる人はナイスタイミング、ずれてしまう人はバッドタイミングということだ。

そうか! 人生にもタイミングがある
人に会うにもタイミング、事業を始めるにもタイミング、結婚するのもタイミング、別れるにしてもタイミングはある
グッドタイミングで出来れば、トラブルもなくスムーズに行くし、バッドタイミングだと、いつまでも引きづっていっこうに解決しないどころか、泥沼にはまっていく。

まあ、私も人生の終盤に入りかけていて、振りかえってみれば
兵隊の位で言えば軍曹くらいの中間管理職くらい、人間の位でいえば、ごく標準的な庶民階級と言ったところ
できることなら、兵隊の位なら、小さな軍艦の艦長位になれる「中佐」くらいに、人間の位なら従業員100名、売上30億円くらいの社長さんになれれば良かったと思うが、人間には能力に応じて分と言うものがある
今の現状が自分の分に合っていたから、この程度の生活に収まっている。
とはいえ、人生のタイミングで言えば、けっこうナイスタイミングだったと思う、けっこう危険な崖も通って来たが、際どい所で抜け出るタイミングは、まさにナイスタイミングだった。
どちらかと言えば、タイミングが良い方の人間だったと思う。
窮地の時にタイミングよく、解決能力を持つ人とが現れて、なんども助けてもらった、自分は何もできない「でくの坊」だが、不思議と、その「でくの坊」を助けてくれる人に出会う能力があったみたいだ。

タイミングというけど、天からグッドタイミングが降ってくるわけではない、
そこには決断と判断が重要な役割を果たし、決断判断を間違えないためには豊富な経験と人脈が必要だ。
よく「引き出しが多い人」というが、それは「危機回避能力」「危機管理能力」があるということ、そしてそれはグッドタイミングを発見する能力だ。

あと、どれだけの人生があるかわからないが、これからもグッドタイミングが求められるステージにたつことがあるかもしれない
まだまだタイミングを計る能力を磨いていかなければならないと思うのである。