神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

黄砂の影響 

2023年04月12日 23時36分55秒 | 自然災害
午前中は雨、午後から晴れたが午前中から、くしゃみ鼻水がとまらない
昨日までも花粉の影響はあったが、時間的に限定されるだけだだった
それが今日は今この時間まで、ずっと一日中で屑箱も使用済みティッシュの山になっている。
目も少しチクチク感があるし、これはちょっとひどすぎる
それでも晴れたのでマスクをして小一時間、散歩をしてきた、マスクのおかげか風が吹いていたおかげか、散歩中はさほどでもなかったが、終わりころにはやはりくしゃみ鼻水が発生した。
まだ車を見ていないが、明日見ればたぶん、べったりと車全体にひっついているだろう
明日も昼過ぎまで黄砂は降るらしい、早く過ぎてもらいたい。

私と音楽 最終回

2023年04月12日 14時10分19秒 | 音楽
 私にとっての音楽は、何のこだわりも執念もない楽に聴ける音楽である
日記の断捨離の為、一日一行転記作業を続けていて、今は20歳の誕生日を迎えた
ここまで転記して気づいたことは、高校入学前に私の人生設計は決まっていたということである、父と同化して二人三脚で「無から有、有から安定」という二世代で安定した家庭を築く、そのような設計を高校時代から結婚までの間、語り合ったのだった、それは日記に記してあった。

 進む道が決まっていたということは、それだけに集中して努力すれば良いと言うことであり、それ以外はほとんど流して生きていけば良いと言うことにもなる
学校の勉強、試験勉強、受験勉強も必要なことだけに集中すれば良かった
高校のレベルもそれほど高いわけでもなく、勉強しなくても入れるレベルだったから受験日の前の日まで、ラジオのポップスランキング番組を聞いていたのだった。

 音楽もバンドはやったけれどミュージシャンを目指すわけでもなく、集まって各楽器の音程を併せて曲を演奏することが楽しかっただけで、テクニックがどうとかのレベルではなかたった。
むしろ、バンドについて回る、エピソードの方がよほど面白かった
ただバンドをやったことで、学校で受験のために頑張るだけの日常よりは、少しだけ広い世界が見られた、それは何の糧にもならなかったが青春の1ページとして今も記憶に残っているのだ。

 バンドというのは面白いもので、メンバーだけというわけではなく、メンバーの彼女を通じて、女子が集まってくる
するとグループ的になって演奏会以外でも遊びまわるようになる、二年生まで特定の友達としか付き合っていなかった私だが、三年生はバラ色の人生だったと言って良い、音楽を通して楽しい学校生活が送れたのだ
今でも、そのメンバーの男女とは連絡を取り合って遠方の者でも2年に1~2回は会っている。

 社会人になって料理人修行に出たが、車の運転、配達も業務だった
配達に出てカーラジオを聞くのは緊張の板場からの解放だったが、1970年、吉田拓郎のデビュー曲「イメージの詩」は衝撃だった
それで吉田拓郎を知ったが、1972年には「結婚しようよ」がでて、まさに私にはエールに聞こえたのだった

 この頃、新潟で4歳年下の17歳のA子と付き合っていた
陰のある子で訳ありそうな高校中退女子、でも性格は明るかった
古町でデートした時、商店街では「結婚しようよ」が流れていた
「兄貴の彼女が、そこのレコード店に勤めているんだ、ちょっと顔を見てくる」と駆けだしたので、ついて入った
勢いで「結婚しようよ」のLPを買ったが、自分が盤を手に取る前に彼女が
「わあ、これ聴きたかったんだ、貸してもらえる」「いいよ」
二度と、このレコードは帰ってこなかった

 それでもタイトル通り、田舎者の私はマジでA子と結婚したい気分になっていた、そしてある冬の夜、それを言ったこともあるが軽くかわされた
本当に純朴な田舎坊主だったのだ、A子は若いのに百戦錬磨だった
彼女の家に遊びに行ったこともある、両親とも話したこともある
彼女の父は地元大手企業の労働組合長だったから家もしっかりしていると思っていたが・・・
 それから半年の間に事態は刻々と変化して、最期は思いがけない結末となった、私はとんだ三枚目だったが、彼女も幸福に見放されたし、周りの男たちもみな残ったのは苦い思い出だけだった。
吉田拓郎をテレビやラジオ、ネットで見るたびに必ず、これを思い出す
あの時の、古町の景色は、まさに花咲く街角に見えたのだった。