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神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

私と音楽 2

2023年04月10日 12時53分17秒 | 音楽
菊地6失点、大谷3号
見ている方も疲れた試合だった。


 年代は1961年ころ、小学校高学年になると少しはオマセになった年頃で、大人の真似をしたい。
歌謡曲も橋幸夫が「潮来笠」で華々しくデビュー、同級生に歌がうまいTというのが居て、教室のだるまストーブを囲んで、この歌を同級生の前で歌って見せた。
子供ながらちゃんとコピーしているので、みんな感心して聞いていた
Tはいつごろからか知らないが民謡歌手になると言って、その世界に飛び込んだらしい、再会したのは23歳ころだった、体を壊して田舎に帰ってきて、それから数年後に亡くなった。 潮来笠には、そんな思い出がある。

 小学校に戻すと、当時はプレスリー、ニールセダカ、ポールアンカ、パットブーンや、ロカビリーだとかポップスだとかカントリーなどアメリカのヒット曲のカバーが日本語で歌われていて、同級生のマセガキたちは「ジェニジェニジェニ、イカした名前だぜ ふ~ジェニ」だとか「ドンチュノ~・・・あまいレモンのキッスう~うよ~」なんて腰を振って歌っていた。
掃除の時間にはホウキをギター代わりにして、机に飛び乗ってロカビリーの真似をする奴もいた、テレビの普及で田舎でも都会の情報が入ってくるようになったのだ。

 クラシック音楽は無関心というよりレベルが違いすぎて理解できなかった
だが学校で音楽の時間にクラシックのレコードを聴いて目が覚めた
はるか遠くの存在だったのが急に身近になった、まるで歴史上の人物が目の前に現れたような感じがした。

小学校から高校まで通して学校の勉強の「音楽」は苦手だった、歌は下手だし、音符は読めないし、クラシックはからっきし、楽器もカスタネットとハーモニカしか使えない、ただハーモニカは上手だった。

 時間を戻すと小学校の時、学校には鼓笛隊があって、私はその他大勢の「縦笛」だった
適当に吹いていて、隣にいたまじめな同級生に叱られたこともあった
ただ、学校レベルでは、隣町の鼓笛隊にはとてもかなわなかった、我々の方が市の中心なのに、田舎のその学校には歯がたたなかった
音楽に興味薄い私でもレベルの差はわかった

 時間は、また戻る、中学生になると父は「電蓄」を買ってきた、すなわち電動式蓄音機だ
これをテレビにつないで、テレビのスピーカーで音楽を聴くのだ
中二の時、風呂焚きをしながらパナソニックのトランジスタラジオを聞いていたら衝撃的なコーラスが流れて来た
ビートルズの「プリーズミスターポストマン」だった、一撃で参ってしまった
レコード店に走って、LP「Meet the Beatles」を買ってきた。
同級生を呼んで毎日のように一緒に聞いた「I Saw Her Standing There」が一番のお気に入りだった。中高の6年間はビートルズまみれだった

 この頃は僅かな小遣いであったから、1500円のLPを買うにはお年玉でもなければ難しかった、SPレコードでも和盤300円、洋盤330円だったから、最初はビニールレコードのソノシートで我慢した。
「じゃりじゃり」言うので、レコード針が減るのではと聞くたびに心配していた。

 この頃の針は鉄針、サフィア針、ダイヤ針とあったが、ダイヤは買えなかった
 高校生になったとき、ナショナルから「憩」「宴」「飛鳥」の和家具調シリーズのステレオが発売された、父は一番安い「憩」を買ったが、私が不満顔をしているのを見て、母が「宴」に買い替えてくれた思い出がある
あの時程、母に感謝したことはない

 高校生になると小遣いも増えてレコードも月に何枚かは買えるようになり、映画も良く見るようになった。 2年生の時には5人でバンドも結成して公民館で有料で1回行った 観客は同級生10人くらいだった。

同級生バンドなのに、3人は一つ年上だった、偶然にしてはできすぎだ
三人三様の事情で普通に入学した私と同級生になったのだ
その中の一人は野球バカで落第して同級生になった男だった、同級生にはプロで活躍した選手もいた
中学時代にはガタイも大きくて乱暴なイメージがあったから、入学時には同級生と聞いて震えあがった・・・「そんなバカな」である、一気にブルーな高校生活になった・・それなのに、その男とバンドを組んで遊びまわることになるとは・・・彼は卒業後、航空自衛隊に入って六本木にいたが帰郷、70過ぎた今でも付き合っているのだから人生はわからないものだ

 因みに映画は洋画ばかり見ていたが、邦画では舟木一夫と和泉雅子の共演が好きで「哀愁の夜」が一番印象に残っている
あんな映画を見て、丸刈りの田舎坊主もLoveを夢見たのだった。