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「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 52

2024年03月26日 06時23分19秒 | 甲越軍記
 山本勘助の諸国見聞

山本勘助は昔、晴信がまだ勝千代と言った頃に出会い、密かに主従の内約を固めたのであったが、心に思うことあって天文三年より、兵法修行と言いつつ関八州(関東地方一帯)を巡り、遠くは奥州までも足を延ばした。
半年、三か月とあちこちに逗留して兵術を試み、軍法を討論して、その国の陣立てや戦術を探り、諸士の強弱も見定めた。

その頃は英雄の諸侯が全国に現れて、武芸者は、それらの家々に仕官を求めて集まった、中でも相州(神奈川)小田原の北条相模守氏康は伊豆、相模の二か国に領分を持ち、勢いは隣国に鳴り響いた。
勘助は、北条家の戦術、兵法を学ぼうと北条家武術指南の松田七郎左衛門を訪ねた。 松田は十文字槍を鍛錬して隣国に並ぶものなしと言われている。

勘助が松田の道場に訪ねていくと、松田は門弟相手に槍を教えていたが、人を使わせて勘助を招いた。
勘助が道場に入ると、その容姿を見た門弟たちは一様に驚き、やがて笑いをこらえるのに必死となった。
勘助は松田に向かい「某は諸国を遊歴して歩く修行者であります、貴殿の高名を伺いぜひとも面会願いたいと思ったところ、早速に呼び出し頂き拝謁できたのは本懐の至りであります」と言えば
松田も「貴殿の高名は我が家のも届いております、いつか面会したいと願ってはいたが公の事多く、なかなか出来かねていたが、今日こうして訪ねていただき光栄この上ない、このうえは貴殿が当家に参られたわけを是非お聞きしたい」と言って勘助を客座に招いたが、勘助はそれを辞退して下座の傍らに座っているので松田から話しかけた。
「今戦国のこの時世、仕官を求めて腕自慢の士たち一年三百六十日に三百六十人が当道場に武者修行と言って押しかけて参る、されども物の役に立つもの皆無に等しい、足下も武者修行と申されるからには某との武術比べの為参られたと思われるが」と聞けば
勘助は「いいや、そうではありません、某みたとおりの一眼なく、手足指も失った不具者であれば武術の立ち合いなど望むものではありません
ここにありて軍法、陣立て、あるいは城郭の縄張りを工夫について論をするべく参ったところ松田殿の御高名を知り訪ねてきた次第でござる」

しかし松田は「そのような話で訪れたのなら、なおさらに某のあずかり知らぬところ、某の浅知恵の知るところでは軍法の始まりは人皇第九代の聖主開化天皇の御代に漢土より初めて太公望の六韜(りくとう)孫子の十三篇が渡来した
その時は前漢の景帝の代に当たるとか、しかし我が国は当時まだ文字が無く
彼の兵書を読み解くすべがなく、そのまま朝廷に伝わったままであったが、人皇第十六代応神天皇十六年に百済国より王仁(わに)という者が渡来して、漢土の学問が初めて伝わった、天子も是を学ばれた
文字の意味も是より理解できることとなり、彼の兵書も読まれるようになった
応神天皇はこれを読み「この書は兵を用うるための書である、もしこれが世上に広まれば、諸人これを読み兵法を知り、いつ反逆を起こすやもしれぬ
このような危うい書は直ちに焼却すべし」と焼き捨ててしまわれた。
その後、代を重ね、人皇第六十代醍醐天皇の御代となり、『兵書は国家を治める道であり』ということを風の便りにお聞きになられ、延長元年五月大江維時という者を入唐させて兵書を求めて帰国させた
これより兵書は朝廷に伝わったが、我が国には唐土から習わずとも我が国には自然と戦いに慣れて兵を用いていた
これより先には、兵法など学ばずとも神功皇后が三韓を攻めとり、武内宿祢が蝦夷を切り従えたのも、みな自業自得の兵法にして、兵書から学んだものではなかった
以後も八幡太郎義家に彼の兵書伝わるが『我が国と異国では土地も人も等しくはない』とこれを用いることはなかった、そして『我が国の風土に合った書に編纂して訓閲集という三巻に書き換えて虎の巻と名付けて子孫に伝えた
それは源義経に伝わり、熟読して平家を一の谷、屋島に破ったのは、この虎の巻によるものであろう
その後、新田義貞、楠木正成ら豪傑も活躍したが何の兵法によるところかは不明である、なぜなら彼らは流儀も書物より学んだということも一切伝えられていない、思うに彼らは何度も戦場にあって、都度臨機応変の兵法を得て勝利したものであろう、ならばそれは真の兵法ではないであろう」




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