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「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (168) 長尾家 81

2024年08月13日 09時11分14秒 | 甲越軍記
 天文二十一年、景虎は二十三歳と相成った
昨年のことを思うに、ついに国内を平定し朝廷の公家衆、足利将軍家の覚えもめでたく、国内の諸将もみな景虎になびいた。
すべてはうまくいったと思われたが、人心は永遠不動ではない、景虎に真髄する将も多けれども、心から服従しているわけではない将も多い
越後は北西の羽前(山形)から南東の越中(富山)まで長く伸びていて今風に言えば凡そ300kmに渡る広大な国である
それゆえに府中がある上郡、栃尾、三条の中郡、阿賀野川以北の下郡では人の心、風俗、方言も異なり、特に新発田から北は揚北(あがきた)と呼ばれて独立独歩の将が少なくない。

人心測りがたく、今は服従しているが、誰ぞが反旗翻せば、それに同調する者も多い
そもそも越後の国人とは、それぞれに出自が違い、しかもそれぞれが祖先を誇りに思っている
それらの出自を申せば、右大将頼朝の家人として累代伝わる士、桓武の後胤、三浦、畠山、城の嫡流、宇多源氏の大江、中原の子孫、南家北家の藤原氏、為憲、秀郷の後胤、二階堂、工藤の類、または池大納言につながる者、新田義貞の士、また上杉憲顕のもとで武功を挙げた者共の家柄などなど、それぞれにわが家系を誇り、管領上杉家をこそをまことの主と思い、長尾家は上杉家に属し我らと同輩と侮る者も出て来た。

(時代は16世紀半ば、まだ日本中に数千の大名、小領主らが独立独歩している時代である
ある程度有力な者が出てくると、淘汰が始まり敵対した者は滅ぼざれ、味方した者はその強者の家臣団に組み込まれていく
甲斐の武田家などはその典型で、すでに一国の王者となっており、そもそも武田家は守護の家なので甲斐の支配者になっても誰も威をとなえられない
しかし越後は違う、越後守護は上杉氏であり、上杉氏は関東一帯を支配する(はずだった)関東管領の一族で、景虎の家は守護を補佐する守護代の家であるから武田家よりワンランクも2ランクも家柄は低い
因みに織田信長の家は守護代の一族だが分家で、守護代の代官に過ぎない

ともあれ、当時の越後は広大でなかなか守護と言えども隅から隅まで支配できない、それゆえに小領主らは国法を無視して勝手に戦をして侵略したり、あるいは謀反を起して越後の主になろうとする者もいた
景虎の父、為景もまた守護を襲って殺している
しかしここに景虎が有力な領主を味方に反乱者を次々と成敗して、その強さを小領主たちに見せつけたため、みな景虎を恐れてその傘下に入った
これで治まるかと思ったが、それぞれが家柄を誇示して長尾家を侮り命令に従わない横着者があちこちに出てきたのだ
そもそも景虎の家臣などと思っていない、ただ景虎の味方として協力している程度の思いだ、同じ国主であっても武田晴信と長尾景虎では支配力がまるで違っていた)

景虎は三略の一文「主従と同じき者は栄え、主従と同じからざる時は滅ぶ」を思い、君臣が信無き時は、いかにしてこれを防がん
諸将に起承文を書かせ、人質を取るのが良いが、これを実行すれば諸将は我の若輩を侮ってたやすく従うとは思えず、逆に乱を招く恐れありと躊躇する
さりとてこのまま放置すれば諸将は思い思いに行動して、心はますます離れてしいては我が家を滅ぼす者も出んとは言えない。
景虎はかれこれ思いを巡らし、ついに一計を案じた。

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