神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

じいさんとカワセミ

2023年10月25日 17時08分31秒 | 時代検証
 毎度登場する私の二人のじいさん
一人は大正12年ごろに、茨城県古河で、栃木県黒羽生まれのばあさんに婿入りして父をこしらえてから、2年後くらいには離婚して出て行ったじいさんA
もう一人は昭和10年ごろに、ばあさんの再婚相手になって、父を後継ぎの養子にした東京のじいさんB(現在の姓)
ばあさんと、じいさんBは東京大空襲で昭和20年3月10日に亀戸で亡くなったが、故郷の北陸の田舎に疎開していた爺さんAは87歳まで生き延びた。

 父には、幼少の頃から、ばあさんがさんざんAの愚痴や悪口を言い含めていたので、すっかりじいさんAの存在を否定していたが、終戦後、家族ゼロになって東京での一人暮らしが難しくなり、背に腹変えられず昭和23年ついに、じいさんAの故郷に父はやってきて20年ぶりに再会したのであった(もちろん父は離婚時2歳くらいだったから、この親の顔は覚えていない)

それでも困っていたから頼って来たが、とても頼りになる元父親ではなく、父は従兄弟を頼って行き、じいさんとは相変わらず他人の関係であった。
じいさんAは古河で離婚後、東京へ出て山形市出身のプロテスタント教会のシスターと再婚して男子一人をもうけていたから、なおさら他人感は強まっていた。

じいさんもまた、父を実子だと言う感情はさらさらなく、それでも近くにいたからたまには立ち寄ることもあったが、本来なら目に入れても痛くない筈の孫である私に対しても特別な感情もなく、小遣い1円すらもらったことが無かった。
産まれてくるのが100年早かったような人だった(1899年生まれ)、それでも87歳まで生きたから、彼が亡くなったときには私は既に36歳だったから晩年には数回だけ会って話したことがあった。

一つは戦国兜と錆びついた日本刀を私に見せて、「先祖伝来の刀だが家が焼けた時これも焼けたが今日まで保管しておいた
おまえが50万円出してくれたら、研ぎに出せる、それで元の姿に戻る」唐突にそう言った。
当然ながら、そんなことに50万円も使えるわけもなく断ったが、そんな感じの人だった。
父に話したら「まだそんなことを言っているか、話の内容はほとんどホラだから相手にしなくていい」と言った。

もう一つは、学生を使って今は誰も通らなくなった山の中の古道を調査している、と言って資料らしきものを見せた、なかなか調査資料としては良くできていた
昔は街道で所々に道しるべの石碑があって、その拓本をとって歩き、その拓本は歴史的価値がある様に言っていた。
それも本人が調査したかどうか知らないが、そのようなことが大好きであったことは事実である、私にも似たような血が流れているから、隔世遺伝かもしれない。

 もう一つは、このじいさんが婿に入った父の生家のルーツを当時、黒羽の本家を訪ねて700年に遡って調べた家の歴史
それと自分が生まれた家の歴史、それを書いたものを父に渡していた
父は頭からじいさんを信じていなかったから、仏壇の引き出しにしまいきりにしていた
私が中学生ごろから父の人生に興味を持ち、根掘り葉掘り聞くものだから、その紙を思い出して私に見せた
それから私のルーツ探しが本格的になり50年にわたって続き、ようやく90%完成したのだ。
その点もじいさんに似ている。

じいさんは同じように色紙を3枚、父に持ってきた
それを私は最近発見したのだが、1枚は自分の人生が一つも思い通りにいかないという愚痴であり、もう一枚は取るに足らぬものであり
もう一枚がカラーの色紙で、ここに掲載した「かわせみ」の図である。

「八十翁 成城 詩」と書かれてあり、その詩と言うのは「虫川の 川べり?? かわせみの羽 美しく立ち止まり見る」
自動車免許など持たないから自転車で10数キロ乗って行ったのか、息子(父の腹違いの弟、20歳違う)に乗せてもらって行ったのか

絵と文字は知り合いの文化人に書いてもらったようだ。
成城とは戦争中に世田谷の成城で間借りしていたから、田舎の親戚はじいさんを成城と呼んでいた。
八十翁だから、80歳ころの体験だろう、場所は海岸から10kmほどの静かな集落で水がきれいな所だから、カワセミもいたのだろう。
残念ながら、私は73年の人生で一度も生のカワセミに出会ったことが無い
一度は見たいと思うが・・・
わが町にも、どこかにいるのだろうけれど。

じいさんAは父の反面教師として、ある意味、父に人生を教えたともいえる
じいさんAは生涯勤めをしたことが無く、さりとて自営業や第一次産業に従事したこともない
私の知っている範囲では戦後からずっとリヤカーを引いて廃品回収業(昔は「クズや」「ばたや」)それも気が向けばやるくらいで、リヤカーを引くのは後妻か息子だった、だから生涯貧乏暮らしだったが、本人は集めた廃品の中に本や美術書があると、それを読みふけるような生活で満足していたらしい。

父はそんなじいさんを軽蔑していた、そして絶対じいさんのようになるまいと、自分を励まして生涯商売人として働き続けた。
私はちょうど二人の中間のような人生を送った、仕事は一生懸命したが父ほど働かず、父ほどの才覚もなく
じいさんほど怠け者ではなかったが、じいさんと同じような好奇心を持ち、(父に言わせれば)なんの足しにもならぬ絵空ごとに夢中になった。
 因みに東京日本橋兜町で生まれた自称株ブローカーのじいさんB(実態は麻雀など遊び人)もまた、生涯会社勤めも第一次産業労働もせず、どうして女房子供を食わせていたのか謎である、同居していた父さえ知らない。
それでも貧しいと言うほどの暮らしではなかったらしい。

戦前戦後の日本を生きた二人のじいさんの暮らし方は私には想像できない
だが今の時代の暮らしとどっちが幸せなのだろう?