徒然なるままに…建築家のボヤキ。。。

I・N設計スタジオ ブログ

手仕事

2014-03-26 08:25:04 | 建築つれづれ…
 「日本は素晴らしい手仕事の国だ。手の国と呼んでもいいくらいだ」。と思想家の柳宗悦が著書に書いているそうだ。先日の山形新聞にこんな記事があった。著書の中には「全てを機械に任せてしまうと、国民的に特色あるものが乏しくなる」。とも。

 新聞記事には、山形県内にもこの「手仕事」にピッタリの工芸品が数々あることを紹介していた。山形鋳物、置賜紬、山形仏壇、天童将棋駒、月山和紙、酒田凧、庄内竿…。伝統の技を受け継ぎ、それを極めていくことは、紛れもなく大変なことで大切なことだ。

 建築にも通じるところがある。昨今の世の中、人件費が一番高く、そこを削減(コストダウン)することが生産効率、コストパフォーマンスを高めることは否定しない。しかし、建築生産もすべてがオートメーション化していいものなのか…。

 生産効率のみを追求した住宅メーカーのCMを先日見た。工場で住宅のユニットを生産しているCMだ。すべての住宅が規格化され、同じような味気も旨みもない規格住宅が並ぶことに嫌悪感を覚えるのは私だけではないはずだ。クライアントの数×無限大に要望は存在する。それをどうして数通りの規格にまとめられようか。クライアントの要望を100%クリアしてこそ、我々の仕事、建築の醍醐味がある。

 手仕事の国、日本。柳宗悦氏曰く、「手が機械と異なる点は、それがいつも直接、心とつながっていること。手はただ動くのではない。奥に心が控えていてものを創らせる」。

 建築も血を通わせなければならない。クライアントの血、建築家の血、施工者の血を…。プラモデルハウスでを血は通わすことは無理だ…。
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第16回建築家展にご来場ありがとうございました。

2014-03-24 08:34:04 | 建築つれづれ…
 3月21~23日の3連休に開催されたASJ庄内スタジオ主催の「第16回建築家展」。今回の開催地は鶴岡市総合保健福祉センターにこ?ふる。数年前にオープンした新しい施設で気分も新たに行われた。

 参加建築家は私も含め6組。地元2組、東北2組、東京組2組である。女性も2名で老若何女に対応できる布陣を敷いたと、勝手に私は思っていた。

 春になると心も体もウキウキするもの。特に雪に覆われたここ東北地方は、なおさら春への期待感、ワクワク感が募るのである。そんな春に、自宅を新築したい、リフォームしたいという来場者が足を運んでくださいました。

 今回も丁寧な説明から、お客さんの要望や疑問に答え相談に乗って意気投合したお客さんも数名。これをきっかけに、いいご縁があることを祈っております。

 もうすぐ桜も蕾から花を咲かせるでしょう。桜の開花とともに「建築家展」にご来場して下さったお客さんと、大きな花を咲かせたいものです。ご来場ありがとうございました。そして3日間にわたり、ご一緒した建築家の皆様、スタッフの皆様ありがとうございました、お疲れ様でした。

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監督といた場所-4

2014-03-18 08:49:03 | 愛しき野球おバカ達
 酒田にUターンすると決めた2001年初秋、監督に報告しに行った。返す刀で怒られた。「仕事のあてもないのに、何で酒田さ帰てくんなや」。親心からでた監督の言葉だったに違いない。「監督、そんな心配しなくて大丈夫です。何とかなりますから」。泣きながらこう言うのが精一杯の見栄だった。

 2001年の晩秋に酒田にUターンしてきた私は、2002年の春から再就職先で新しい人生をスタートさせる。2002年春。この年、同期のWが酒東に赴任し野球部を受け持つこととなった。

 この時、再就職の報告に監督と同期Wに会いにグランドに顔を出した。グランドに監督と同期Wが一緒にいて、自分も監督に頼まれ外野ノックを打った。ノックを終えた後監督からこう言われた。「碇谷、仕事も決またし、Wも酒東さ来たことだし、同期なんだから手伝いに来いや」。「わかりました」。

 あるとき監督と酒を酌み交わしながらこんなことを言われた。「碇谷、お前は肩がいいキャッチャーだったな」。人生で2回目、監督に褒められた。それから4年後の年末、監督は脳梗塞で倒れた。倒れてからは、日課だった練習にも来れなくなり自宅療養となる。

 監督から手伝いに来いと言われ12年。監督が倒れてから8年たった2月下旬、同期のWからメールが来た。「昨日、監督に行ってきた。いよいよ覚悟だ…」。そのメールの言葉が胸に引っかかっていた2月28日。仕事を終えた夕刻に、私は病院に足を運んだ。

 監督、監督と何回呼んでも反応しない監督。まだ大丈夫だろう、もう少し大丈夫だろうと病室を後にした。これが監督といた最後の場所だった…。

 3月1日午前10時9分、人生の恩師逝去。私が最後の見舞い客だった…。監督に2回だけ褒められた。その言葉を胸に刻んで生きていきます、監督。

~終わり~
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監督といた場所-3

2014-03-17 08:47:03 | 愛しき野球おバカ達
 高校時代、監督に1回だけ褒められた。高校3年の春。4月下旬に平田杯という大会があった。その大会を控えた4月上旬、私は体育の授業中に右足首を捻挫した。最初は程度の悪い捻挫だと思っていた。実際、医者にもそう言われた。しかし、レントゲンを取るとくるぶしにヒビが入っていた。捻挫が骨折と判明した…。

 その日、医者に行って自宅で静養していると、夕方電話が鳴った。監督からだった。ケガの状態を電話で聞いてきたのだ。一つ一つケガの状態を説明する私。「早ぐ治せ。早ぐ治してグランドさ戻てこい」。監督の言葉はこれだけだったが、監督が直々に電話をかけて来てくれたことに驚きと感謝の気持ちが湧き上がった。

 平田杯は出場を諦め治療に専念。ただ、ベンチには入れてもらった。そこで私は3塁コーチャーをすることになる。右足首にはテーピングがグルグルと巻かれた状態だった。それは1回戦をコールド勝ちを納めた試合後のミーティング中に起こった。

 監督からの言葉の中に、突然「今日の試合で一番良かったのは、3塁コーチャーの碇谷の指示の仕方だ」。と。突然降って湧いたことに私自身何が起こったのか分からずポカーンとしていた。後になって褒められたんだと。現役時代、褒められたのは唯一これだけ。

 練習のグランド上では、キャッチャーの防具をつけさせられ、至近距離からの個人ノック。みんながベースランニングをしてる時、外野に連れて行かれ、キャッチャーフライの個人メニュー。私ともうひとりのキャッチャーHと2人、みんなの和を外れ黙々とノックとフライを浴びた。

 夏の甲子園予選は優勝候補にも挙げられた我がチームだったが、簡単に2回戦で延長の末破れ私の高校野球は終わった。終わった時には、涙で監督の顔は見れなかった。

 「3塁コーチャーの碇谷の指示の仕方が良かった」。たった1度、監督に褒められたことが今でも忘れられない。
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監督といた場所-2

2014-03-14 08:31:04 | 愛しき野球おバカ達
 酒田東高等学校(以下酒東)野球部に入部した私。入ってみると何と新入部員は23名にも登った。その他にマネージャー4名で合計27名の大所帯。周りには他の中学から名だたる選手がたくさん酒東野球部に入部していた。

 毎日のようにW部長(通称カベ)から、「1年は走ってろ」。と2、3年生がフリーバッティングを始めるや否や外野の奥の方を走らせられた。1年生全員でスパイクのまま足を揃えて走らされた。監督からの指導なんて全く無し、会話すら皆無だった。毎日走ってばかりの練習はランニングだけで、毎日1時間、カベから忘れられたときは2時間にも及んだ。

 そんな中、監督との初めての会話。1年生の5月か6月ぐらいだったと記憶している。意を決して私から監督に歩み寄っていった。「キャッチャーやらせてください」。しばしの沈黙…。何て言われるのか…、怒られるんじゃないか…。返事を待ってる時間は1秒も無かったが、非常に長く感じた。「そうか、よし、やてみれ」。これが監督との初めての会話だった。

 キャッチャーなど小学校でも皆無、中学校でも遊びでやった程度。小学校からチビだった私は、中学3年間で約30cmも身長が伸びた。それまで、チビだからお前はこのポジションと言われてきたことに、少しながら反発があったのは間違いない。23人の新入部員の中でアピールしないとという気持ちと、今までの自分を変えなきゃ、それが監督への直訴、最初の会話へと発展していた。

 あの時、監督が「よし、やてみれ」と言ってくれていなかったら、ふて腐れてやる気をなくしてたかもしれない。あの時、監督ではなくカベに言ってたらどう言われただろう…。監督との初めてのやり取り、そして監督の一言に今でも感謝している。あの時の言葉がなかったら、今の野球人としての私は存在すらしていないことだったろう。

 ~つづく~
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