一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

V9巨人の立役者・高橋一三氏、逝く

2015-07-19 23:07:51 | プライベート
プロ野球・巨人のV9に貢献した、高橋一三(たかはし・かずみ)氏が死去した。享年69歳。
高橋一三は1965年巨人入り。入団から数年は勝ったり負けたりの成績だったが、ブレイクしたのは1969年。22勝5敗の好成績を挙げ、巨人の5連覇に貢献するとともに、投手の勲章である沢村賞を受賞した。
高橋は極端なイカリ肩で、投球の際も、大きく背中を反らせてビシュッ、と投げる独特のフォームだった。当時スピードガンはなかったが、150キロは出ていたとされる。
あまりコントロールはよくなく、ボールが多かった。そこで名前に引っかけて、「ワンスリー(ワンストライク・スリーボール)」の愛称で呼ばれた。
ともあれこの活躍により、高橋は「左のエース」と呼ばれることになる。当時高橋の背番号は「21」で、右のエースナンバーが「18」なら、左のエースナンバーは「21」が代名詞となった。
高橋はその後も3年間2ケタ勝利を挙げたが、再度爆発したのは1973年。この年のペナントレースはもつれにもつれ、最終戦、阪神タイガースとの決戦で、勝った方が優勝という、小便をチビリそうな状況になった。ここで高橋が先発し、阪神打線を見事完封、優勝投手となった。巨人のV9を語る時、この場面は欠かせない。よって、高橋一三を目にした人も多いはずだ。
この年は23勝13敗の好成績。チームはペナントレース66勝60敗4分けで、高橋一三がいなかったら、巨人の優勝はなかったといっていい。
しかしこの疲れが出たか、高橋は翌年2勝で終わり、巨人のV10の夢も絶たれた。さらにその翌年は6勝で終わり、チームも初の最下位となる。
高橋に転機となったのはその翌年で、日本ハムファイターズ・張本勲と、巨人・富田勝と高橋の1対2のトレードが実現し、高橋は11年の巨人生活に別れを告げる。
日本ハムでももちろん先発の柱として活躍したが、1978年に腰を痛め、引退寸前になった。ここで高橋は技巧派に転身し、華麗な復活を遂げる。
そして1981年には14勝を挙げ、うれしいリーグ優勝。巨人と日本シリーズを争うことになる。
高橋は第1戦と第5戦に先発した。私はこの第5戦に、後楽園球場に弟と観戦に行っている。実はこの試合、雨で1日順延となった。それで、この前日に見に行く予定だった父の知人から、このチケットが回ってきたのだ。
席はバックネット裏の2階席で、まさに特等席だった。下を見ると、ザ・ドリフターズの加藤茶と志村けんが観戦に来ていて、弟が「しむらー!!」と叫ぶと、志村けんが「ああ?」という顔でこちらを見上げてくれたものだった。
私はスコアブックを持ち、わくわくしながら観戦した。巨人から放出された投手が、日本シリーズという大舞台で、古巣相手に投げる――。それは感動的だった。
ちなみに試合は、左殺し・平田薫のホームランと、西本聖が13安打を打たれながらも完封するという珍記録で、巨人が日本一に王手を掛けたのだった。
高橋は1983年に引退。奪三振は1997で、最終登板に2000奪三振をかけたが、わずかに届かなかった。後年高橋は、これをひどく残念がっていたという。
引退後は、日本ハムの投手コーチとなる。1991年、近藤貞雄が監督を辞任した時、高橋も監督候補になった。しかし実現せず、その理由は、「高橋じゃ地味だから」だったという話もある。
その後高橋は巨人のコーチ、二軍監督も歴任した。享年69は今の時代早逝だが、現役生活は19年、最後は古巣巨人に帰り、幸せな野球人生だったと思う。
プロ野球初の「左のエース」に、合掌。
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5 コメント

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我らがエース (Og)
2015-07-20 23:04:09
高橋一三投手は、私の一番好きな投手の一人です。

V9の優勝決定試合の時は、当時私は小学二年生でしたが、テレビの中継をずっと見ていました。

淡々と投げていた一三投手が印象的でした。

小学生の仲間内では、堀内投手より一三投手の方が圧倒的に人気があり、よくピッチングフォームを真似したものです。

ペナントレースと日本シリーズを合わせて、九回の胴上げ投手になったのは空前にして絶後でしょう。

翌1974年は開幕投手でしたがヤクルト戦でその試合は引き分けでした。
(その翌日のダブルヘッダーを私は見に行き、堀内投手がホームランを打ったことを憶えています)

その後、一三投手は先発をしても全く勝てず、確か六連敗か七連敗位したと思います。

その時は私も大変失望し、心配しました。

最終的には二勝十一敗だったと思いますが、あと一勝して、三勝であれば、ジャイアンツもV10だったのです。

日ハムにトレードされた時は大変ショックでした。

享年六十九歳でしたか。

六十九歳で亡くなられた人としては、サタ゜ム・フセイン、金正日、カダフィ大佐、大山康晴、米長邦雄等、独裁的(?)資質の人が多いですが、高橋一三投手はその傾向は全くないですね。
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69歳 (一公)
2015-07-20 23:53:29
>Ogさん
おおー、巨人V9の瞬間をリアルタイムでご覧になったのですか。それは素晴らしいですね。
堀内より、サウスポーの一三のほうが人気があったというのも、分かる気がします。
69歳はそうですね、大山先生や米長先生と同じなんですね。
長くはないですが、太い人生だったと思います。
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悪夢 (Fuj)
2015-07-20 23:56:16
1973年の優勝決定戦はタイガースファンにとっては悪夢でした。優勝決定試合にしてはワンサイドゲームになり、高橋一三投手に完封された上に、土井正三に2本もホームランを打たれる始末で、試合終了後ファンが暴動を起こした非常に後味の悪い試合でした。そもそも、阪神はその前のカードの中日戦に勝てば優勝であり、その試合に中日戦に強かった上田二郎をもっていって、万が一負けたら巨人戦に江夏投手をぶつければ良かったのに、中日戦に江夏投手をぶつけ、巨人戦に上田二郎をぶつけボコボコにされました。優勝することを最優先にした場合、考えられない超クソ采配でした。
巨人と日ハムの日本シリーズは後楽園シリーズで最後江川投手が投手フライを自ら取ったのが印象的でした。
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懐かしい一頁。。。 (瀬戸のひしお。)
2015-07-21 10:30:34
その頃東京で大学生活をおくっていた私は五十嵐選手の飛球を江川投手が野手を制して捕球した優勝決定の瞬間をレフトポール際で見ました。
この時は夏休みに東北をYH利用で回ったさいに磐越西線車内で知り合った仙台から会津若松へ帰省途中の女子大生から紹介された早稲田近くのF短大生とのデートでした。試合前の打撃練習で原選手の飛球が彼女の頭上に来たのをかばって突き指したことも思い出しました。
久しぶりに若かかりし日の感慨にひたらせていただきありがとうございました。
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悲喜こもごも (一公)
2015-07-22 00:56:12
>Fujさん
あの中日×阪神戦ですね。確かナゴヤ球場の前を巨人の選手が新幹線で走り抜けてったという…。
この試合は、阪神の選手はガチガチだったそうですね。星野仙一がそう言ってた記憶があります。
それはともかく、高橋一三と江夏が同じチームでプレーするとは思いませんでした。

>瀬戸のひしお。さん
第6戦を観に行かれてたんですか!!
これはずいぶんなニアピンがあったものですね。
最終バッターの時、江川は「ウイニングボールを貰うには自分が最後の球を捕るしかない」と考え、ファーストゴロかピッチャーフライで打ち取ることを考えたそうです。
そしてそれを実現させるとは、やっぱり江川は天才ですね。
女子短大生とのデートは大ホームランでしたね。さすがです。
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