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一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

芹沢の名局

2021-12-09 12:58:53 | 名局
きょう12月9日は、芹沢博文九段の命日である。1987年の逝去だから、もう34年が経ってしまった。
芹沢九段の人となりは10年前も書いたから重複を避けるが、芹沢九段は「将棋の日」をプロデュースしたことでも知られる。
第1回は1975年11月17日、東京・蔵前国技館で行われた。第14期十段戦第2局・中原誠十段対大山康晴棋聖戦の公開対局が目玉だった。当日は月曜日だったが、8,000人を越える入場者があったという。将棋は3手だけ進んだが、封じ手まで進み、将棋ファンは大満足したという。
いまも「将棋の日」は各地持ち回りで行われているが、それも芹沢九段がいなければ、数年は開催が遅れていたかもしれない。
きょうは芹沢九段の名局をお届けする。対局相手は谷川浩司九段である。
芹沢九段は、谷川九段を高く買っていた。人格はもちろん、格調高い将棋に対して、最大限の賛辞、敬意を払っていた。エッセイ集「王より飛車が好き」(サンケイ出版)では谷川九段を「流れた水が長き時をかけて元の所に戻って来るような無限運動を思うことがある。(中略)谷川は将棋を一局ずつと捉えずに、生涯を一局と無意識に表現する何かがあるのかも知れない」と評していた。
その芹沢九段が第40期B級1組順位戦で、19歳の谷川七段(当時)と当たることになった。芹沢八段(当時)は、谷川七段と最初で最後の戦いになると覚悟した。そこで対局の1週間前から酒絶ちをし、この対局に臨んだのであった。

1981年12月25日 第40期順位戦B級1組7回戦
▲七段 谷川浩司(19歳)
△八段 芹沢博文(45歳)

▲2六歩△8四歩▲2五歩△8五歩▲7八金△3二金▲2四歩△同歩▲同飛△2三歩▲2六飛△6二銀▲7六歩△8六歩▲同歩△同飛▲9六歩△3四歩▲2四歩△同歩▲同飛△5四歩▲3四飛△4一玉▲7七桂△7四歩▲3六飛△4四角▲2四歩△3三桂▲8七歩△8二飛▲6五桂△8八角成▲同銀△2二歩▲3四飛△8五飛▲3五飛△8三飛▲7五歩△6四歩(第1図)
▲4六角△8二角▲7四歩△6五歩▲8二角成△同飛▲6四角△9二飛▲6五飛△6三歩▲4六角△5五桂▲5八金△7二飛▲5六歩△8四角▲6六歩△7四飛▲7五歩△同角▲7六歩△4二角▲5五歩△6五桂▲7五飛△同角▲同歩△同飛▲7六歩△5五飛▲同角△同歩▲7五角△3五角▲8一飛△7一歩▲9一飛成△5六歩▲3六香△4四角▲4八桂△5七歩成▲同金△3五歩▲5六桂△5五角▲3五香△2五飛▲2三歩成△同歩▲3三香成△同金▲2六歩△同飛▲2八歩△5一香▲9二竜△3八歩▲7四桂△5三銀▲3八銀△2八飛成▲5四歩△4二銀▲4八玉△3六歩▲4六金△同角▲同歩△5四香▲4五角△4四金▲4二角成△同銀▲3二銀△5一玉▲2三角成△3九角▲5九玉△2三竜▲同銀成△5六香▲6九玉△5七角成▲2一飛△3一桂▲6八金△5九角(投了図)
まで、130手で芹沢八段の勝ち。

ここまで芹沢八段は1勝5敗、谷川七段は4勝1敗だった。芹沢八段に降級の恐怖はないが、昇級を狙う谷川七段はもう負けたくないところ。
将棋は先番谷川七段のひねり飛車模様となったが芹沢八段が手将棋に誘導し、定跡のない相居飛車に落ち着いた。
芹沢八段は飛車の巧妙な動きで桂得を果たす。

以下も溌剌と指し、芹沢八段が有利を拡大する。そして終盤では勝勢になったが、谷川七段は表情ひとつ変えない。それを見て、芹沢八段のほうがおののいたという。
結局130手まで、芹沢八段の勝ち。双方飛車角が乱舞する、芹沢八段の名局であった。

これで芹沢八段は2勝5敗としたが、以後を全敗し2勝10敗で降級。いっぽう谷川七段は以後を全勝し、10勝2敗でA級八段に昇級昇段する。そして1983年には加藤一二三名人から名人奪取を果たす。実に21歳の名人であった。これを芹沢九段は「目の前にある好きな果物を手に取るように、名人位を獲ってしまったのである」と書いた。
名人位を狂おしいほど望みながら、己の限界を知って名人を諦めた芹沢九段。心中、複雑な気持ちがあったに違いない。
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一二三の名局・4

2021-12-03 00:18:55 | 名局
日付変わってきょう12月3日は「1,2,3」。そこで3年振りに、「一二三の名局」を記そう。
今回取り上げるのは1960年4月14日・15日に指された、第19期名人戦第1局である。
加藤八段は弱冠20歳のA級2年生。18歳でA級八段、20歳で名人挑戦と、当時は大きな話題になったものである。
名人はもちろん大山康晴。前年に升田幸三名人から名人を奪取。対局時は王将、九段と合わせ三冠王だった。
第1局の対局場は都内の「羽沢ガーデン」。加藤八段の先手で、相矢倉になった。大山十五世名人といえば振り飛車が代名詞だが、若いころは居飛車一辺倒で、このころは表芸が居飛車、裏芸が振り飛車だった。
全譜を記すと棋譜警察から通知がくるので、序盤は端折る。

第1図以下の指し手。▲7九角△4四銀左▲4六歩△5五歩▲4七銀△5四銀(第2図)

第1図の▲7九角に△4四銀左が意外。だが、妙に新しい。ここふつうに△4四歩だと、手詰まりになるのを嫌ったようだ。
以下△5四銀まで進んでみると、令和の将棋のようではないか。

そこから数手飛ばして第3図。

第3図以下の指し手。△5二玉▲7九玉△3四歩▲8八玉△9四歩▲6六歩△8六歩▲同銀△4四歩▲7五銀△7三角(第4図)

昨今の矢倉は▲4六角型が最強の形とされているという。本局は先手後手とも偶然ながらその形になった。
ここで大山名人は△5二玉と玉形を整えた。この局面、本当に令和の将棋のようである。
先手は▲8八玉と収め、▲6六歩が期待の一手。これに△6六同歩なら▲同銀△6五歩に▲7五銀と進出して先手良し。
よって大山名人は△8六歩▲同銀を利かし、こちらも△4四歩の攻め合いである。この、歩が着々と進む感じ、駅馬車定跡を思い出した(参考図)。

先手も▲7五銀と進出し、△7三角と引かせる。さて次の手は。

第4図以下の指し手。▲2五桂△4二銀▲3三歩△同桂▲同桂成△同銀▲6五歩△同銀▲5三歩(第5図)

先手の加藤八段は快調に指しているが、やや戦力不足。そこで加藤八段は▲2五桂と跳ねた。そして▲3三歩から桂交換。問題はこの桂をどこに使うかだ。
その第一弾が、▲6五歩△同銀を利かしての▲5三歩である。

第5図以下の指し手。△4三玉▲6四歩△6二金▲4四歩△同銀▲4五歩△同銀▲5五角△4四歩▲5七桂(第6図)

第5図で△5三同金は▲6六歩△7六銀▲7七歩△8五銀▲6五桂で先手優勢。
よって大山名人は△4三玉と躱したが、加藤八段は▲6四歩△6二金を利かして好調である。
▲5五角には△4四歩よりないが、ここで待望の▲5七桂が入り、ハッキリと先手が優勢になった。

棋譜紹介はここで打ち切るが、以下は加藤八段がそのまま押し切った。

投了図を見ると文字通り加藤八段の快勝で、加藤八段の名局といって差し支えない。
加藤八段が制勝し、将棋マスコミは加藤新名人の誕生かと沸き上がった。しかしそこは大山名人である。第2局以降は大山名人が立ち直り、4連勝で名人位を防衛。そして1971年まで、防衛を続けるのである。
いっぽうの加藤九段は、次の名人戦登場は1973年となった。しかし中原誠名人にストレートで敗れ、名人獲得は1982年まで待つことになる(「一二三の名局・2」を参照)。名人戦初登場から、実に22年も経っていた。
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大山の名局・10

2021-07-26 00:54:15 | 名局
日付変わってきょう7月26日は、大山康晴十五世名人の命日である。
今年も「私が勝手に思う大山十五世名人の名局」を紹介したいが、全譜を記すと、昨年のように「棋譜警察」から無言のコメントがくる。実は今年紹介したいのは王将戦だが、そもそも同棋戦は連盟HPにガイドラインを載せており、現状ではたとえ1手の紹介でも使用許諾を得ないといけない。ただ、私は過去に何度か連盟にメールを出したが、返事が来たためしがない。それに使用できても有料なので、もう王将戦は当ブログからは縁遠くなってしまった。
ともあれ進めよう。今年紹介するのは1982年3月30日・31日に行われた第31期王将戦第6局、対中原誠名人戦である。

大山十五世名人は1980年3月、第29期王将戦挑戦手合で加藤一二三王将から4勝2敗で奪取、18期目の王将を獲得した。
翌期は米長邦雄九段の挑戦を4勝1敗で退けた。そしてその翌期、つまり1982年初頭に、最強の挑戦者を迎えたわけである。
ここまで対中原戦のタイトル戦は、大山十五世名人の3勝15敗。前年の第22期王位戦でも中原王位に3勝4敗で負けていたが内容はよく、「内容だけなら大山の6勝1敗」という人もいた。
またその前年(1980年)の第28回王座戦では中原王座に2連勝で王座を奪取。準タイトル戦ながら、久しぶりに番勝負で勝っていた。よってこの七番勝負でも、大山王将が善戦すると見られていた。
七番勝負は大山王将の●○●●○と進み、前年の王位戦とまったく同じ星を辿った。そして第6局は千日手。ふたりの対局でこれは珍しく、ほかに1局あったかどうか。
11日後の指し直し局は大山王将が四間飛車に振り、中原名人は当時流行の天守閣美濃に構えた。
大山王将は△7一玉型で△6五の位を取ったがこの構想が秀逸で、これが藤井猛九段考案「藤井システム・対左美濃編」の原型になったとされる。
将棋は激戦になったが、大山王将が82手目、自陣に桂を据えたのが妙手。そしてこの桂を二段跳ねするという中原名人のお株を奪う桂使いで、結果は快勝したのであった。
大山王将は最終局も勝ち、1勝3敗からの3連勝で逆転防衛。実に20期目の王将位で、通算タイトルも80期。時に大山59歳。底知れぬ強さに、棋士も将棋ファンも唸ったのだった。
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大山の名局・9

2020-07-26 00:08:00 | 名局
日付変わって今日7月26日は、大山康晴十五世名人の命日である。恒例の「大山の名局」は、1984年5月に行われた、第44期棋聖戦本戦トーナメント2回戦、森安秀光八段(当時)との一戦を取り上げる。
森安八段は関西振り飛車党の雄で、昭和50年代後半に大活躍した。その棋風は関西特有の粘り強さで、大山十五世名人に似ているといわれた。ただ、大山十五世名人がゴチャゴチャと局面を紛糾させるのに対し、森安八段はそれをさらにグチュグチュにした感じだった。
そんな2人が対局すればどちらかが飛車を振るが、先手番を引いたほうが居飛車を持つことが多かったようである。
森安八段は第42期棋聖戦で中原誠棋聖から棋聖位を奪取したが、翌第43期に米長邦雄棋王・王将に取られ、この第44期棋聖戦は雪辱に燃えていた。
いっぽう大山十五世名人はこの年61歳。3月にはNHK杯トーナメント戦で優勝し、相変わらずの存在感を見せていたが、この対局の2日前、出張先の大阪のホテルで下血を見た。翌日病院へ行ったが、どうもはっきりしない。そこで精密検査を6日後に行うことになった。本局は、そんな不安の中での対局だった。

1984年5月17日
第44期棋聖戦本戦トーナメント2回戦
持ち時間:4時間

▲十五世名人 大山康晴
△八段 森安秀光

初手からも指し手。▲7六歩△3四歩▲2六歩△4四歩▲4八銀△4二銀▲5六歩△5四歩▲5八金右△5二飛▲6八玉△6二玉▲7八玉△7二玉▲9六歩△9四歩▲6八銀△8二玉▲5七銀右△7二銀▲7七銀△5三銀▲2五歩△3三角▲3六歩△4五歩(第1図)

先手番になった大山十五世名人は3手目に▲2六歩として居飛車明示。森安八段は中飛車に振った。大山十五世名人は振り飛車の名手だが、若手時代は居飛車一辺倒で「大山やぐら」といわれた。相手が振り飛車ならよろこんで居飛車を指し、振り飛車退治も得意にしていた。
大山十五世名人はオーソドックスな舟囲い。そこから▲5七銀右~▲7七銀と発展し、早くも大山流だ。

第1図以下の指し手。▲4六歩△4二飛▲4八飛△4六歩▲同銀△5二金左▲4五歩△4一飛▲3五歩△4四歩▲3四歩△1五角▲4七飛△4五歩▲同銀△3八歩(第2図)

△4五歩に▲4六歩と、早速反発する。森安八段は△4二飛から△4一飛と穏やかに受けるが、大山十五世名人は▲3五歩とどんどん行く。このあたり、いつもの大山十五世名人とは思えない。「この対局が最後になるかもしれない」の思いがあったのだろうか。
ごちゃごちゃやったあと、森安八段の△3八歩が小粋な手。

第2図以下の指し手。▲6八銀△3九歩成▲1一角成△2九と▲4四香△同銀▲同銀△1九と▲4三歩△8四香▲7七銀△8五香打▲8八銀打△8七香成▲同銀△4六歩▲同飛△3七角成▲1六飛△8七香成▲同玉△2七銀(第3図)

△3八歩は振り飛車常用の揺さぶりで、大山十五世名人の実戦にもよく出てくる。
これに▲6八銀と角道を通したのが大山十五世名人の解答だ。△3九歩成から攻め合いになるが、大山十五世名人は香を取っての▲4四香が厳しい、との読みだ。
森安八段は銀を損したが、入手した香を8筋に突き立て、反撃する。さらに端角を成って飛車を僻地にやり、△2七銀で飛車を殺した。が……。

第3図以下の指し手。▲3九香△2八馬▲1五飛△3九馬▲2四歩△1四歩▲4五飛△1七馬▲2三歩成△3六銀不成▲4九飛△3一飛(第4図)

第3図では▲3三歩成△1六銀不成▲同歩の順もあったが、大山十五世名人は▲3九香の犠打で飛車を生還させる順を選んだ。以下ぐるっと飛車を転回し、抑え込みが成功した大山十五世名人が有利に見えた。
しかし森安八段も△3六銀不成と活用し、△3一飛と回る。悪いながらも最善の粘りだ。

第4図以下の指し手。▲7八金△4六歩▲同飛△2七馬▲3九香△6五桂▲6六銀△2九と▲3六飛△同馬▲同香△3九飛▲7九銀△3六飛成▲3三歩成△同桂▲2二馬△4五桂▲3一馬△同竜▲3二歩△2一竜▲2二歩△4一竜▲6五銀△4三金▲3一歩成△5二竜▲4三銀成△同竜(第5図)

第4図では▲2二馬とかしてどんどん攻めたくなるのが人情だろう。そこをぐっとこらえて▲7八金が味わい深い。よく分からないが妙味を感じる。
△2七馬に2度目の▲3九香。これが間接的に△3一飛の進出を防いでいる。
大山十五世名人もじわじわ攻めるが、森安八段は間隙を縫って△4五桂まで跳躍した。この桂が捌ければ元気が出るところである。
さらに△4三金から竜を世に出し、まだ駒損ながら再び香を2本持ち、十分勝負の形である。

第5図以下の指し手。▲8六歩△8四香▲7五歩△6九銀▲6八金打△5八銀成▲同金△3九角▲7六銀△5七桂成▲同金△同角成▲6六桂△6四金(第6図)

第5図の▲8六歩がまた唸る手。寒い玉頭をいまのうちにケアしたのだ。
森安八段はそれでも香を打ち、△5七桂成▲同金△同角成。あの桂が金と交換になり、また差が詰まった。▲6六桂には手厚く△6四金と打ち、もう訳が分からない。

第6図以下の指し手。▲6八銀打△5六馬▲7七銀△4五竜▲5三角△5二金打▲2六角成△7四歩▲8八玉△7五歩▲8七銀△2五歩▲5九馬△4七歩▲4九歩(第7図)

大山十五世名人も▲6八銀打と1枚入れる。△5六馬に▲7七銀とし、金銀の鉄柱ができてしまった。中原十六世名人の将棋もそうだったが、強者は戦いの最中に舟囲いを補強するのが実にうまい。
▲5三角△5二金打に、私なら功を焦って▲6四角成だが、大山十五世名人は2六に成り返って悠然としたものだ(たぶん)。勝ち急いではいけない、と教えてくれる。
とはいえもう駒の損得もなくなっており、ここまで来たら振り飛車持ち人も多くなったのではないか。

第7図以下の指し手。△3九と▲3三と△4九と▲3七馬△3六歩▲2八馬△5九と▲9八玉△4八歩成▲4一飛△同竜▲同と△6九と▲8八銀上△5八飛▲4二と上△6五馬(第8図)

△3九とが驚異の活用である。将棋はすべての駒を働かせるべし、という教えである。
大山十五世名人は馬を逃げながらも2八に据え、間接的に敵玉を睨む。そして大山十五世名人もと金を活用するが、森安八段の△5八飛~△6五馬も厳しく、一見固い大山陣も、かなり危ないことになってきた。

第8図以下の指し手。▲5七桂△同飛成▲5二と△5八竜▲7四桂△7三玉▲6六金△7四馬▲6一と△同銀▲5一飛△7二銀▲7一飛成△8六香▲同銀右△8四香▲8二金△5五金▲7二竜(投了図)
まで、171手で大山十五世名人の勝ち。

第8図は△7八飛成の狙いがあり、その防ぎ方が難しい。大山十五世名人はまず▲5七桂△同飛成と飛車筋を逸らし、一手稼いで▲5二と。再び△5八竜と突っ込んだ手には、今度は▲7四桂と王手に跳ね、空いた地点に▲6六金と据えた。今度△7八竜なら、▲6五金と根元の馬を取る狙いだ。
よって森安八段は△7四馬と桂を外したが、大山十五世名人は▲6一とと2枚目の金を取り、▲5一飛。これで勝負あった。以下▲7二竜まで、森安八段が投了した。

大山十五世名人は熱闘を制し準決勝に進出したが、体調の不安は当たってしまい、後日「下行結腸ガン」の診断が下された。当然入院・手術の運びとなったが、最重要の順位戦は対戦表が発表される前だったので、ギリギリ休場に間に合った。
棋聖戦の谷川浩司名人戦は不戦敗となったが、その谷川名人は挑戦者になり、「米長三冠王と谷川名人はどちらが実力日本一か」で話題になったものだ。結果は米長棋聖が3連勝で防衛した。
大山十五世名人の手術は無事成功した。そのまま翌年の3月まで休場すると思われたが、なんと10月19日に対局復帰。腹心の前田祐司七段に勝ち、復調をアピールした。
森安八段は1988年に九段昇段。その後も中堅棋士として存在感を見せていたが、1993年11月22日、不慮の事故により亡くなった。
1992年の大山十五世名人の逝去も合わせ、振り飛車の勢力図が大きく衰退してしまったのである。

(7月26日、Unknown氏から、棋譜使用注意のコメントをいただきました。それに伴い同日、本文のアップを保留し、日本将棋連盟に棋譜使用の申請をしました。しかし8月26日現在返信がなく、本文の再掲載に踏み切りました)
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中原の名局・3

2019-09-02 12:36:22 | 名局
今日9月2日は、中原誠十六世名人の72歳の誕生日。おめでとうございます。
そこで今日は、「中原の名局」を3年振りに紹介したいと思う。
7月26日の記事で紹介した第50期順位戦だが、4者プレーオフのパラマスを勝ち抜いたのは、高橋道雄九段だった。高橋九段はそれまで十段、王位、棋王のタイトルを合計5期獲得し、最も脂が乗っていた。
当時「将棋世界」の名人挑戦者アンケートで、私は高橋九段に投票したのだが、大山フィーバーですっかり忘れていた。ある日、切手シートが送られてきて、懸賞に当選したことが分かり、うれしかった。
七番勝負は第1局から矢倉●、矢倉●、相掛かり○、矢倉●で1勝3敗。よもやの星で名人危うしとなったが、中原名人は第5局に相掛かり、第6局に横歩取りを採用し勝利、何とかタイに持ち込んだ。しかし中原名人は得意の矢倉を採用しなかったわけで、これは当時かなり話題になった。1964年の第4期棋聖戦で、大山康晴棋聖が関根茂七段にカド番に追い込まれた際、振り飛車を捨て薄氷の防衛をしたが、あれと同じ構図である。
そして運命の最終局を迎えた。

1992年6月22日、23日
第50期名人戦第7局
▲九段 高橋道雄
△名人 中原誠

初手からの指し手。▲7六歩△3四歩▲2六歩△8四歩▲2五歩△8五歩▲7八金△3二金▲2四歩△同歩▲同飛△8六歩▲同歩△同飛▲3四飛△3三角▲5八玉△2二銀▲3八金△5二玉▲4八銀△7二金▲3六飛△8四飛▲3三角成△同銀▲8八銀△2四飛▲2七歩△6二銀▲7五歩△8四飛▲2六飛(第1図)

先番を引いたのは高橋九段。当然の▲7六歩に、中原名人の応手は△3四歩だった。ここまでくれば当然の選択で、矢倉に絶対の自信を持つ高橋九段は落胆したことだろう。この2手で気分的には、もう差が開いている。
以下、横歩取りに進む。しかし時代的に桂馬が跳ねるようなことはなく、重厚感あふれる指し手が続く。

第1図以下の指し手。△2二金▲7七桂△8二飛▲8五歩△6四歩▲8六飛△8三歩▲8七銀△6三銀▲7六銀△4四銀▲4六歩△7四歩▲同歩△同銀▲7五歩△6三銀▲4七銀△5四歩▲6六歩△3二金▲6七金△9四歩▲5六歩△7三桂▲8九飛△9五歩▲3六歩△8一飛▲6八金△5三銀▲3七桂△4四歩▲2六歩△9六歩▲同歩△9二香▲6七銀(第2図)

△2二金が強情な一手。ここ△2三歩では、一方的に歩を使わされ面白くないと見たのだ。
高橋九段は▲8六飛と回り、ひねり飛車のような形になった。今度こそ△8三歩と受けさせ、これは気分がよかっただろう。ただ中原名人のほうも、この歩は平気で打ったと思う。
中原名人は△8一飛から△9六歩~△8一飛。飛車を8筋では使えないから、端攻めに使う構想だ。
高橋九段は▲6七銀と引き締め、決戦に備える。

第2図以下の指し手。△9八歩▲同香△4三角▲1六角△3四歩▲3五歩△同歩▲4三角成△同金▲3二歩△5五歩▲2七角△5四角▲同角△同銀直▲8四歩△7六歩▲同銀△8四歩▲8二歩△9一飛▲7四歩△同銀▲8四飛△8三金▲8九飛△8八歩▲同飛△8四歩▲7五歩△6三銀右▲8九飛(第3図)

私のような凡人は第2図で△9一飛を考える。しかし中原名人は△9八歩。▲同香に△4三角が意表の手だ。3年前に紹介した「中原の名局2」の谷川浩司名人戦でも敢行した攻め筋だ。そして△9八歩自体では、第31期名人戦、大山名人との第1局を思い出した(参考図)。

本譜に戻り、これに▲8八飛と受けても、△5五歩~△7六歩の狙いがあるのだろう。高橋九段は▲1六角からこの角を消し、▲3二歩の小技。以下、細かいやり取りが続く。

第3図以下の指し手。△3六歩▲2五桂△9六香▲8一歩成△9五飛▲8六飛△9八香成▲9五歩△9七角▲8七歩△9二飛▲3一歩成△5六歩▲5五歩△同銀▲7一歩成△5三玉▲6一角△8二飛▲2一と△5二銀▲8一と△6一銀▲8二と△5七香▲4八玉△5九角▲3九玉△3七歩成(第4図)

私にはプロの指し手の狙いなど到底分からないので、ただただ記譜を鑑賞するのみ。
プロの将棋で感心するのは盤面全体を見ていることで、あっちこっちに指し手が飛ぶ。△3六歩もそうで、これを▲同銀は△5六歩が脅威だ。
そこで▲2五桂だが、それが20数手後、△3七歩成と昇格した。名人がここまで読んでいたとは思われないが、こうなっては先手、もうダメである。

第4図以下の指し手。▲6五桂打△同歩▲同桂△同桂▲5四歩△4二玉▲3一飛△8六角成▲3七金△7六馬▲8三と△4九馬(投了図)
まで、144手で中原名人の勝ち。

以下は指してみただけのような気がする。144手までで高橋九段が投了。3番連続名人のチャンスを逸し、その無念はいかばかりだったか。
中原名人は15期目の名人。大山十五世名人が「将棋マガジン」で第5局の解説をしたとき、私の名人18期を越えるには今期の防衛がカギ、というようなことを述べた。だが中原名人は翌年米長邦雄九段に名人を取られ、以降、タイトル戦に登場することはなかった。
また高橋九段も1996年に棋王戦に登場したが、それ以降、タイトル戦に登ることはなかった。
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