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必ずコメントに参ります by iina

水面に月

2006年08月02日 | 歴史
人が悟りを得るということは、水に月が宿るようなものだ。月は濡れず、水は破れない。月は広く大きな光で、小さな水にも宿り、月の全体も宇宙全体も、草の露にも宿り、一滴の水にも宿る。悟りが人を破らないことは、月が水に穴をあけないことと同じだ。人が悟りのさまたげにならないことは、一滴の露が天の月を映すさまたげにならないことと同じことだ。[『正法眼蔵』道元襌師(越前に永平寺・曹洞宗を建立)

千枚田という棚田があれば、春には水が入り まるで地球が水の星になったような美しい景色が広がる。天には月があって、その月が水面に映る。それも田んぼの数だけ映る。「田毎の月」という。
千枚田ならば千個の月がある。天にある月は一つ。どの月が本当の月で、どれが嘘の月かということはない。月は月だ。

月は水に濡れず、その水も破れない。
水が汚れていれば、水中に映る月も汚くなる。水に波が立っていれば月の形にならない。草が生えていれば、また月はそのようにしか映らない。つまり、田んぼの水というのは私たちの心なんです。誰でも田んぼの水のような水面をもっていて、その月を心の水の中に映している。その水をできるだけ静かに、清らかに、水面を滑らかに保つようにしていれば、月は真に天にあるのと同じ月が心の中に写ることになる。なるべく心を磨いて、穏やかに、平静に、水を波立たせない、その水を濁らせない - そういう生き方が大切だ。月というのは、そのようにすべてを照らしているわけです。
                      [ 『遊行』著:立松和平より ]


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