「犬の癒し」・自然の癒しを忘れない

2013-09-18 11:52:26 | 日記

    「犬の癒し」・自然の癒しを忘れない

介護ロボットに登場してくる「白い縫いぐるみの子犬」。テレビの画面だが、抱いてみたい、いつも脇におきたいと思う「不思議さを持っている」。

いわゆる「セラピー犬」。何時、どこの局のテレビ番組であるかは記憶に無いのだが、出てくる主人公夫婦も私の大好きな俳優さんである。

そして、思い出すのだが福島原発の爆発で避難した皆さんが飼っていた動物のことである。当時は、すぐに戻れると考え鎖につけたままにしてきた犬がいた。その犬は飼っていた鶏の番犬でもあった。その鶏を狙ってやってくる狐などの獣と格闘し、傷だらけの姿で、一時、戻ってきた主に「役割を果たしたうれしさをからだいっぱいに現し飛びついた」というのである。繋いでいた鎖は千切っていた。

道路を歩いている牛、道に寝そべる猫、そして犬。生き残ったものは、いずれは野生化するのであろうが、共存してきた地元の皆さんにとっては切ないものである。

冒頭、セラピー犬のことを書いた。そのことを報告してみたい。

現地に置き去りにされた数匹の犬を引き取った方が、仮設住宅などへの訪問に、その犬を連れて行っているという新聞記事を読んだ。野生化する前に、そして殺傷処分されたかもしれない命を救われた犬の気持ちはどうであっただろうかと。犬に気持ちがあるか、どうかは私にはわからない。しかしこんなことがあった。

私の縁戚に、犬や猫が好きな夫婦がいる。ある日のこと「野良犬」が目に入った。根っからの犬好きである。近づいていったら犬も判るのだろうか。逃げもせずに差し出した手に体をこすりつけた。精一杯のしぐさをしたのであろう。家に連れてきたがやはり野良である。鎖を付け忘れた隙に逃げ出した。「この恩知らずめ」と怒りながらも帰ってこないのが心配。そこで市役所の処分場を訪ねたら「折の中」に見つけた。そのあまりにもの変わりようの「犬相」に驚いたという。再度引き取ったのだが、それこそ家族の一員としてなつき、人間で言えば「老衰死」を迎えた。

また、「犬と話ができる」という子どもを知っている。幼いが故に純真なのだろう。自分より大きな犬の小屋に入り込んでいる。話ができるということは「子どもも、犬も」何か伝え合うものが感じあえるというのであろうか。昔、むかしの人間が、自然の中で共存していたときは、森の生き物と話ができたということを聞いたことがある。

戻ってきた主に飛びついた傷だらける犬。「犬相」を変えてしまった犬と救いに来てくれた飼い主。犬小屋に入り込む子どもと犬。どれをとっても、そこに「癒し」が(言葉)あるように思う。

新聞は、セラピー犬のNGO事務局の方が、原発の避難村から引き取った犬を連れて「今日も仮設住宅の高齢者」のもとを訪ねるという記事で終わっていた。

自然は「癒し・癒しあう」共存の世界をつくっているのだろうか。それに比べ、争い、傷つけ、殺しあうことをなくすことができない人間の方が、醜く、最低の生物なのだろう。