「天明の飢饉」からまなぶ・住民の知恵と経験からつくり出すみずからの要求を

2014-06-18 09:32:27 | 日記

  「天明の飢饉」からまなぶ・住民の知恵と経験からつくり出すみずからの要求を

 

日本が、国家的大災害に見舞われた時、「何をなすべきか」。

天明の飢饉。それは江戸時代、1782年から6年間にわたり90万人以上犠牲者を出した最大の飢饉であった。東北地方では、生存者が3割というがあったという。

最大の被害を出したのが八戸地区。の長老の記録がある。

  天明3年5月。雨、雨、雨と綴っている。6月に天候回復の祈祷を行う。7月が回復するもすぐ               に「やませ」が続く。

  浅間山噴火。

  8月下旬 草木の根を掘って食べる。親は子を間引き、捨てる。

  10月 草の根もない。盗賊が増える。

   1月 犬や猫、馬の肉を奪い合う。死んだ人間の肉を食べることあり。

   八戸の住民半分が餓死。

   そして、これは人災であると記している。

                                      「BS歴史館・天明の飢饉より」

最後に記した「これは人災である」との言葉は重い。

当時、各藩は財政を潤わせるために「コメづくり」を奨励し、それを江戸をはじめとした一大消費地に売りさばいた。地元の農民の手元に残るのは僅かであった。以前は常備食にもなり、それでいて冷夏にも強い「ひえやあわ、そば」を耕作していた。しかし、藩の命令は米作であった。冷夏にはひとたまりもない。

よく言われたことに「白河以北は一山百文」というものがある。まったく価値のない土地だという引用である。その土地から搾り取る、時の各藩大名は、住民の生活ではなく「供出」であった。この供出の思想が、明治政府の富国強兵策の中では兵隊の供出であり・軍馬の供出となり、そして「女」の供出へという歴史を作ってしまった。

さて、この時代にあって住民の一人も餓死者を出さなかった藩があった。それが「白河以北」と言われた白河の住民であった。藩主は徳川吉宗の孫である松平定信である。その後老中として手腕をふるう。

26歳であった若き藩主は、次のように述べたと言われている。「凶作が珍しいことでも、驚くことでもない。今までなかったことが幸いであった」と。そして城内の蔵にあったコメをすべてはきだし、住民の胃袋を満たしたという。

民を支配する政治から、民の立場に立った政治へ。権力を押し付けるのではなく、押し付けられてきた民が、自らの力で自分たちの生活を守ることへと移り変わった時代のはじまりであったと番組の識者は述べていた。

東日本の災害は、まさに「やませ」が吹き荒れた平成の「天明の飢饉」であると考えよう。

とするなら、当時の民が、自らの生活を築き上げたように、今、自分たちはどうするのか。そのことを、自らの知恵と工夫を重ねることによってつくり出すことが必要ではないだろうか。そして、そのことを政治に要求することではないかと思う。

番組に出席された赤坂憲雄氏(民俗学者・福島県立博物館長)が述べていた。「官僚を批判していただけではどうしようもない。自分たちがどうするのか。そのことを問う必要がある。私たちが生きている時代が、新しい社会が生まれてくるはじまりの時代になるよう、今を生きたい」と。まとめにふさわしい言葉であった。

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿