立ち止まって考える「ミリ論議の一人歩き」

2013-11-19 08:49:30 | 日記

   立ち止まって考える「ミリ論議の一人歩き」

 

今年の夏の授業での「屋外遊泳」を巡ってのことである。プールに入ることについて、学校は保護者に同意を求めた。そのとき、父と母(夫と妻)の意見が異なった。父は「もう良いだろう。学校の判断に任せる」。だが母は反対。このようなリスクの判断の異なり「対立」は今も日常的に発生している。

敷地内の除せんも、共同名義であれば、所有者双方の同意が必要というのもそこから出ている。

このように、受け止め方や、認識が別れるのが放射能問題であり、私たちの知識も少なく、経験も浅い。勢い学術者の知見に求めることとなるが、その知見も定まらない。

にもかかわらずいろいろな所見が、次から次へと出てくる。例えば規制委見解として「年20ミリシーペールト以下であれば全体として受け入れられるのが世界の一般的な考え方だ」とし、健康には影響ないと言ったかと思えば、次には年1ミリシーベルトは確保しなければならないと言うことを述べる。

IAEAの代表が「1ミリにこだわらない」との発言があったとたんに、除線のあり方基準を検討すべきという見直し論が飛び出し、あわてた菅官房長官が「政府は、従来の1ミリシーベルトという長期目標を変更する予定はない」(24日の記者会見)と見直し論を否定する。学者、専門家の「1ミリ原則論」もあれば、「許容論」もある。そして、その数値にも幅がある。

つまり、私たちは「線量数値のミリ論議の一人歩きと、それに結びつく健康論」に引き回され、右往左往しいるのが実態である。よって、数値をもっての「安全か、危険(不安)か」の論議はしばらく差し控えてはどうかと私は提案したい。

何を言うか、一市民のレベルでという反論があるだろう。しかし、科学的・医学的知見の合意形成ができない今日、市民は、自らの日常性からなる判断(感覚)において対等な発言があってしかるべき思う。

そこで提案したい。身近な実証例を経験としてよりどころにしてはどうかいうことである。

そこで、私がブログで紹介した実例の幾つかを再度あげてみたい。

① 「廃棄物コンテナを高く積もうが、集めようが、コンテナの表面で計測される線量値は同じである」。しかし住民は、廃棄物を集めれば、集めるほど、その単体の線量×単体個数と考え、ベラポーな線量になるとして仮置き場に反対した。

② 空間線量から換算される推定積算線量は、身につけた積算線量計(ガラスバッチ)による実測数値より高く出る。積算線量計による実測値0.5ないし0.6マイクロシーベルト//時は、1ミリシーベルト/年に匹敵するという実証である。この実例に基づけば、低線量地区のほとんどが、1ミリシーベルト以内で生活ができることを意味する。そのことは伊達市、南相馬市におけるデーターによって明らかになっている。

③ 人間の生物的排出量である。危険なものが体内に侵入した場合、これを排出する力を備えている。その排出力は、子どもや妊婦は高く、女性は男性よりは高い。そして65歳以上の男性は排出力が弱いと言う。まさに生物としての、人間には繁殖力と生命力が備わっていることの証明である。つまり、体内に入った放射能物質は、尿や便、汗となって排出される。その「半減期」は、セシュームであれば1歳児までは9日。9歳児までは38日で半減する。

これらは、貴重な実証例である。このことを判断の材料にすれば、除せんの必要の有無と面積の選択はできる。

しかし、これも個人の判断と選択である。強要はできないし、してはならない。このことはお互いが尊重すべきである。

その上に立って、緊急な課題として「仮置き場」の設置を急ぐべきである。敷地内埋設、管理は早急に中断すべきであると提案する。現に、仮置場の設置は了解するが「持ち込みは、わが町の物に限る。余所からの搬入は認めない。それが条件だ」とまで理解が進んでいる。そこに望みが生まれる。

「仮置き場」は必ずつくれる。そのことが中間貯蔵施設を実現させる「一丁目一番地」である。

民主主場とは時間を必要とする。事故後3年を経過しようとしている今日なら、その討論が出来るはずである。どうであろうか。

 

 

 

 

 


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