日本ヨーガ学会

ヨーガ的生活

苦しんだあとでなければ会得できない

2013年09月27日 19時48分36秒 | 思うがままに
雪山童子こと豊道です。
スワミ・ ヨーガスヴァルーパーナンダ老師が、我が学会のゼミで語られたお話のなかに「三つの罪」と言う言葉がありました。

ある方から、この三つの罪とは具体的に何か?と言う質問がありました。
私は「その時の前後の話をしっかり読んでみましょう」とお答えだけしました。「ヨーガの四季NO65」よりピックアップしましょう。

【スワミ・シヴァーナンダと二代目のスワミ・チダーナンダがよく言われていました。
我々の心というのは常に外を向いている。
あれだ、これだというふうに、人さし指で人を指しながら心が外に向いていきます。
人さし指が「それはあなたが悪いんだよ」と言ったときに、あとの三本を見てください。自分の方を向いています。(笑) ですから、あなたが悪いんだよと一本の人さし指で言ったら三つの罪を自分が犯すことになります。】

実は、スワミは<三つの罪>とは何かを具体的には何も語っておられません。
だから私は質問者に何も語らず正解だったと思っています。

スワミにとっての教えの大事なことは、三つが何か?ではないと思うからです。
でも、ここで三つの罪を自分なりに考えてみるのも意味のあることかもしれません。

一番に思い起こすのは、貪・瞋・痴の三毒から起きる三垢ですね。
また、ヤマ<禁戒)の中のアヒンサー(不害、不殺生)とサティヤ(正直、不妄語)とアステーヤ(不盗、不偸盗)の破戒ではないか?と思う人もいるでしょう。

しかし、私は違う角度から見てみたいと思います。

スワミのお話のように、外に向かっている人さし指を親指のほうに向けてみましょう。そうすると智恵の法印になります。あとの三本の指を三つの自我だと考えてみるのは如何でしょうか。小指がアハンカーラ、薬指がジーヴァで中指がジーヴァートマ。ジーヴァは存在とか生命、個体のことでアートマは魂です。
この三本を握ると利己的になるが、開くと利他的になる…とか。面白いではありませんか。

インドでは、昔から親指はブラフマン、人さし指はアートマンで二つを合わせて梵我一如と言いますね。これを象徴するのがジュニャーナ・ムドラー(智慧の法印)です。

また、プルシャ(真我・神我)を手の平、プラクリティ(個我・自性)を手の甲にたとえることもありますね。
ふつう人間は、心の平安を失うと手を握り締めます。すると手の甲、つまり(個我)ばかりになって、手の平(真我)は隠されてしまいます。そこで心を鎮めて手のひらを開いてプルシャ(真我)を解放するのだ…と。

ここで鎌田東二さんのむすんでひらいてのお話を思い出しました。握るんじゃなく結ぶんだ。そして開くんだ、と。それが悟りだ!三本指がひらいているのが(智恵の法印)なのだから!…と。

明日から岡山ヨーガ連盟大会に行ってきます。閑谷学校とはスゴイ会場を選んだものです。孔子様の教えですね。私が好きな述而編第七にこうあります。

「憤(ふん)せずんば啓せず 悱(ひ)せずんば発せず」(一部の携帯では文字化けするかもしれません。りっしんべんに非という字です。)

もう少しで分かりそうなところまで追いかけていながらどうしてもわからず、苦しんだあとでなければ会得できない。孔子様は知りたくてわくわくしなければ教えなかったそうですよ。(笑)
コメント
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