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授業があと2回で終わり

2007-01-09 | 心の体験的日記
いやー大変な10か月だった
慣れないことはこれほど疲れるものか
それもあと2週間で終わる
来年はもっと楽になるはず
慣れこそ努力感を下げる特効薬

東京成徳大学キャンパス

大学院教育

2007-01-09 | 教育
05/8/1海保博之
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締切9月2日  4000字(129行) 
本文だけ129行 
* 人間総合科学研究科(心理学専攻)教授 海保博之
「現場から 大学院教育」
  筑波フォーラム原稿

      無題
●はじめに
咋今、大学教育についてはあれこれ考えたり、意見交換をしたり議論する機会は多い。しかし、大学「院」教育についてそうしたことはあまりない。こうした原稿依頼がくる背景には、大学教育への関心がさらに大学院教育へと移りつつあるのであろうか。
本稿では、これを機会に、これまでの自分の大学院教育(博士課程)についての思いあれこれを述べさせていただくことにする。
●入試
 5年一貫制は、受験生を集める一つの有力な仕掛けの一つではあると思う。入ってしまえば、5年間、選抜からフリーになれるのは魅力だと思う。しかも、修士論文を書き、ただちに博士課程の入試ではつらい。それがないのであるから、学生にとってはうれしいはずである。
問題は、こちから側からすると、1回こっきりの入試で、効果的な選抜ができているかである。英語、心理学の専門知識、そして面接でずっとやってきたが、これでよかったのか。判断の材料があまりないので、何とも言えない。ただ、当たり前のことであるが、倍率が高かった年ほど、良い学生が選抜できた、という実感はある。
そこで受験生を増やすにはどうるか、となるのだが、大学間
競争が激しくなる一方で、行く先は必ずしも楽観できない。筑波大学の学類学生の受験生を増やすのが手っ取り早いのだが、彼らも他の大学の大学院を狙うのが増えてきた。その何割かは、臨床心理士の資格取得のために修士だけで良い、という学生である。
  もう一つ問題がある。最近のように、大学院も「お受験」、したがって、大学院も「お勉強」するところになってくると、たとえば、卒論指導ですばらしいタレントを見せた学生を一本釣りしたくとも、とても無理、あるいは、面接できらっとしたものをみせた学生を是非取りたいといっても無理である。選抜の公平性が担保されないからである。
 あれやこれやで、入り口の入試選抜に関しては手詰り感が強い。
●授業
ここ何年か、学生それぞれが興味を持っている分野での論文紹介と、ショートプレゼンと称して10分程度のアカデミックトークとの2本立ての演習をしている。
論文紹介では、冒頭でその実験を体験させてからレポートさせるようにしている。心理実験では、自らが被験者体験をすることで、論文ではそう言うけど、自分はそうは見えなかった、感じなかったというような議論もでき、現象の理解が深まるからである。
問題は、こうした工夫をしても、学生ののりが悪くてあまり活発な議論にはならないのが頭痛の種である。せいぜいが1文質問を発するくらいである。発表者と筆者2人の掛け合いになってしまうことが多い。こんなに議論嫌いでは、将来困るのではないかとさえ思ってしまう。
もう一つのショートプレゼンは、自分の頭で考えることの大切さを少しでも知ってほしいとの願いからはじめてみたものである。かなり口うるさく言っても「自分の頭で考えない」テーマでの発表になってしまうことも多い。ここでも、仲間からのつっこみとそれに対するディフェンスという図式を期待していたのだが、そんなことになるのは、年に一度あるかないかである。
●研究・学位
心理学関係では、ようやくここにきて、課程博士の取得者が入学定員の半分を超えそうになってきた。こうなると、学生のほうの目の色も変わる。どうすれば学位が取れるかが最大の関心事になる。これはこれで結構なことである。
あまりあからさまには言えないが、学位取得の最低規準は次第に下がらざるをえない。それは致し方ないが、問題は、ペーパーアカデミック志向、つまり論文がいくつ書けたか志向が強くなり過ぎて、研究活動に偏りができてしまわないかという心配は真剣に考えてみる必要があるかもしれない。
論文を書くことは大事である。しかしそれは研究活動のトップにくるものではない。論文を書くためには、それを支える広範かつ膨大な知識と絶え間ない疑問の生成とひらめきと検証活動がなければならない。そのために、人の論文を読み、学会に出かけ、勉強会で議論をし、時には関連する研究の現場に出かけなければならない。
こうした努力の結果としてできあがるのが論文である。自分の大学院生時代は論文を書くより、こちらのほうばかりをしていたような記憶がある。さらに言うなら、それが、今の自分の知的資産になっているような気がする。当時は、どう逆立ちしても課程博士は無理だったのだから当然と言えば当然であった。
ところが、学位取得の論文の規準が下がってくると、論文になりそうな論文を見つけてきて、その論文の問題点を見つけて改良研究をして論文として発表するような研究方略ムムスポットライト研究方略と呼んでいるーーが横行するようになる。結果として、学位は取得したものの、全体としてのアカデミックレベルは恐ろしく低い博士ばかりが誕生、さらにもっと危ないのは組織のアカデミック文化が劣化してしまうことである。
ここまできて学位取得の規準を上げるわけにはいかない。授業や研究環境を工夫して包括的なアカデミックタレントのアップをはかる体制が必要なのかもしれない。たとえば、「学会発表の義務ずけ」「外部研究会での発表」「来訪研究者の研究発表への参加」「将来の就職を念頭において、もう一つの専門を持たせる」などなど。
●就職
一番の難物が就職である。学位を取得してタイミングよく就職できる学生がごくまれなのは、多分、どこでも似たようなものだと思う。幸い、学術振興会などのPD支援、PD活用プログラムがあちこちでたくさん出来てきたので、当面の生活と研究活動にはそれほど問題はない。そこでの他流試合には、将来、研究者として自律していくために必須といってよい。
しかし、安定した就職口となると話しはとたんに愚痴っぽくならざるをえない。
心理学の場合、臨床心理学の領域は今はブームなので学位なしでも楽々と就職できる。一方、そのあおりをくってか、基礎心理学の領域は、求人がまったくといってよいくらいない。彼らこそ、心理学の研究の底支え、といって失礼なら、心理学のアカデミックレベルを押し上げている強力な原動力なのに、それを生かせる職場がないのは、なんともくやしいし、心理学会にとっても由々しい事態である。
学生にも、大学教員への就職志向が強すぎるという問題もある。時折、企業や研究所からの引き合いがあっても、学生側はけんもほろろということが多い。ただ、40年近くも大学教員をしてきた自分を振りかえってみても、大学教員は実に魅力ある職場だと思っているので、学生のこうした志向も充分に理解できる。
全体として、大学のポストはこれから減ることはあっても増えることはない。待遇も厳しくなる。しかも、アカデミックな訓練しか受けてこない若手より、実社会で豊富な職業経験を積んできた方々のほうが、大学教員にふさわしいと考える風潮も出てきているので、ますます状況は厳しい。
「博士号は取得した。それはそれ、次なるキャリアを考えよう」というような時代がくるのかもしれない。博士号をもった小学校教員、政治家、主婦などなど。
●最後に
30代、40代の若手が自由にくったくなく若者と一緒に研究できる環境作りが、なによりの大学院教育だと思っている。そのために常々おもってきたことを最後に2つ。
 一つは、大学院の授業担当と研究指導担当との区別など百害あって一利なしだと思っている。大学院を人事システムに組み込んでしまったのは大失敗だと思う。大学院大学を志向する傾向が強くなった今こそ、シンプルでわかりやすい制度にすることを考えるべきだと思う。
もう一つ、就職不安は致し方ない面があるが、せめて院生時代だけでも生活不安から解放して研究に専念できるようにしてやりたいものである。
アメリカ式にアシスタント制度がかなり充実はしてきたし、学術振興会の支援も整ってきた。前者の待遇に比して、後者が格段に良い。一人当たり5割減にして、人数を増やすほうが国の学術政策としては効果的だと思う。数を限定してトップレベルをスーパーPDとして厚待遇するのは良い。しかし、高品質の研究者の裾野を広げることもまた学問研究には大事である。
(かいほひろゆき 応用認知心理学専攻)
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