かわたれどきの頁繰り

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【書評】ジグムント・バウマン(伊藤茂訳)『コラテラル・ダメージ』(青土社、2011年)

2013年12月12日 | 読書

 「コラテラル・ダメージ」は軍事用語の「コラテラルな犠牲者(collateral casualty)」から派生した概念で、「意図しない、計画されていない、そしていわば誤って予期せぬ被害を与えてしまう効果を意味」 (p. 13) している。
 この言葉から直ちにその典型的な例として思い浮かぶのは、アフガニスタンやパキスタン、あるいはイエメンなどでアメリカ軍によって行われている無人機の爆撃が子供や女性を含む非戦闘員である市民を無差別に殺戮していることだろう。非戦闘員の殺戮は意図していないというアメリカ軍の主張が正しいとすれば「コラテラル・ダメージ」である。もちろん、シリアにおける政府軍と反政府軍の内戦も多大な「コラテラル・ダメージ」を生み出している。

 著者がコラテラル・ダメージの例として挙げるのは、2005年にアメリカ・ルイジアナ州を襲ったハリケーン「カトリーナ」の被害が貧しい人々に集中した事実 (p. 14) である。貧しい人々(主として黒人)は、逃げ出すに必要な航空券も買えず、モーテルの宿泊代も持ち合わせず、なけなしの財産をカトリーナに持ち去られてしまった。自然災害は人を選びはしないが、被害はけっして中立ではないのだ。

 ナオミ・クラインもまた、その著書「ショック・ドクトリン」 [1] で「カトリーナ」の被害を取り上げているが、そこでは被害が集中した貧しい人々の救済よりもそれに乗じて新しい利益を生み出そうとする「ディザスター・キャピタリズム(惨事便乗型資本主義)」を厳しく批判している。それはミルトン・フリードマンを首魁とする新自由主義の経済学者と政治家によって遂行された(ている)ものだ。

 コラテラル・ダメージは、自然災害によるものよりも多くは政治的・社会的に生み出されている。著者は、その構造的な被害者として「アンダークラス」を挙げる。

 「アンダークラス」という言葉のただ一つの意味は、機能や目指すべき地位、分類など何らかの意味のあるものの外部に置かれることである。「アンダークラス」は何かの「なか」かもしれないが、それが社会「の」なかでないことは明らかである。アンダークラスは、社会の生存や福利にはまったく寄与しない。それどころか、社会はアンダークラスが存在しない方がうまく機能する。「アンダークラス」の地位は、その名称が暗示するように「内部の亡命者」あるいは「不法移民」、「内部の異邦人」、すなわち、社会から認知され、承認される権利をまつたく持たない人々のことであり、社会という有機体の「自然で」不可欠な部分には数えられない、ようするに、異質なものである。それは癌のように成長するものなので、そのもっとも賢明な治療法は摘出であり、それが行われないと、強制送還や換金の対象となる。 (p. 11)

 アンダークラスの概念は、ジュディス・バトラーが論じているように [2] 、ハンナ・アーレントの言う「ナショナル・マイノリティ」に対応している。かつて日本には制度として「」が存在していた(差別は現在も厳然として続いている)が、著者の概念規定によれば「アンダークラス」は「」のような存在におとしめられた(現代の)人々であろう。

 しかし、「コラテラリティ」(周辺性、外部性、廃棄可能性、政治的な議題の中でも正当でない部分)の立場にまで格下げされた、増大する社会的不平等と高まる人間の苦しみの危険な合成物が、人間が今世紀に直面し、対処し、解決するよう強いられている多くの問題の中でも、もっとも悲惨なものであることは確かである。 (p. 19)

 このような悲惨を生み出す社会的精神(この精神自体が無惨であるが)を私たちは日本の現在において「ヘイト・スピーチ」と呼ばれる言動の中にあからさまに見ることができる。ファシズム的帝国主義権力下において強制的にあるいは経済的にやむを得ず植民地から日本にやってきた人々の末裔に対して謝罪や補償という形どころか、「死ね!」とか「朝鮮に帰れ!」とか、白昼の路上で公然と罵る日本人たちがいる。このような日本人はまったく美しくない。唾棄すべきほどの醜さである。
 日本の国土だけでも美しいと言いたいところだが、私たちの国土は放射能まみれで、草も木も虫も鳥も、そして人間も未来に命がつなげない危機にあるのに、どんな風景が美しく見えるのだろう。「美しい日本」と括ってしまうには、どれほどの無知蒙昧や非人間的な感情を必要とするか、想像することも難しい。
 たとえば、フクシマの人たちは「周辺性、外部性、廃棄可能性」として扱われていないか。「アンダークラスが存在しない方がうまく機能する」と悪しき社会が考えるように、「フクシマが存在しないほうが社会はうまく機能する」と考えて「フクシマはなかったことにしたい」という政治的意図が見え隠れする日本は不幸なことに「コラテラル・ダメージ」の宝庫である。

 この本の主題は、グローバル化した世界でアンダークラスが被るコラテラル・ダメージを社会学的に分析するというものあろうが、実際にはコラテラル・ダメージに集中、深化するようには扱われていない。むしろ、アンダークラスを囲繞する政治・歴史的考察に多少の社会心理の分析を加える、というかなり広範な視点で記述されている。
 その点では、グローバリゼーションにおける強力な駆動力を発揮して、コラテラル・ダメージを世界中で引き起こしているアメリカ合衆国の新自由主義をベースにした軍事的・経済的国際戦略を徹底的に批判しているナオミ・クライン [1] やノーム・チョムスキー [3] の立ち位置とは大きく異なる。また、世界を席巻する〈帝国〉を論じながら、アンダークラスとしての「マルチチュード」の側からの叛乱の道筋を主題のひとつに掲げるアントニオ・ネグり、マイケル・ハート [4] とも大きく異なる。

 つまり、著者は分析対象の全てに対して中立であろうとしているようだ。職業として物理学に携わっていた私としては、対象に対して中立であろうとすることは考えるまでもなく当然のことであって、学としての社会学も同じだろうと考える。
 しかし、直感として言えば、社会の不平等や貧しい人々のいわれのない不幸、政治的・社会的に押し付けられた悲惨を対象として扱いながら、学を行う人間として中立でありつづけることが可能なのだろうか。少なくとも著者自身、「一二〇年以上前に、アメリカの社会学者アルビオン・スモール(一八五四-一九二六)は、社会学は社会をよりよくしようという近代の情熱から生まれたと述べました」 (p. 26) と書き、加えて「社会学の未来、少なくともその近未来は、人間の自由に寄与する文化政治として生まれ変わり、確立し直そうという努力にかかっています」 (p. 275) と述べていて、社会学が分析対象を選択・決定する時点においても、一篇の論考を書き終えた時点でも真に中立であることは困難だろうと、私には思えるのだ。

 中立性の困難は、著者自らが示しているのではないか。第2章「コミュニズムへの挽歌」において、「すでにその歴史的使命を終えたのではないか」(「訳者あとがき」、p. 293)とコミュニズムをあっさり否定しているのである。全体主義化したロシア(中国、北朝鮮)国家コミュニズムを否定することに異を唱えるつもりはまったくないが、国家コミュニズムばかりではなく、共産主義、社会主義に関連する諸々まで否定しているように見える。『マルクスの亡霊たち』 [5] でジャック・デリダが取り出して見せたマルクス主義(国家コミュニズムではない)の意味や、未完の民主主義追求のために潜在的にマルクス主義的思考を踏まえているジャン=リュック・ナンシー [6] の方が、コミュニズムをばっさりと切り捨てることがない点においてより中立的であるように私に思えるのだ。失敗し、破綻したコミュニズムは確かにあった。しかし、未完のコミュニズム(いずれコミュニズムと呼ぶことはなくなっているだろう)が残されているのではないか、と私は思う。私のなかでは「未完のコミュニズム」は「未完の民主主義」に等しい。

 著者はまず、ギリシャ・ポリスの「アゴラ」というデモクラシーの場から語り始め、啓蒙主義から始まった近代が代表制民主主義の発明とともにデモクラシーが完成すると信じられていた時代を「ソリッド・モダン」と命名する。つまりは、「大きな物語」が信じられていた時代である。ソリッド・モダンのもっともソリッドらしい硬さを担ったのがコミュニズムであった。資本主義の発達、国際化(つまり、グローバリゼーションの進展)に伴い、国家主権と権力の分離が生じ、権力は次第に市場に移る。「権力はすでにグローバルなものになっているのに、政治は哀れなまでにローカルな状態にとどまっている」 (p. 41) のだ。こうした消費の時代を著者は「リキッド・モダン」と呼ぶ。リキッド・モダン世界の資産のありようは、以下のようなものである。

 二、三の例を挙げるだけで十分であろう。四〇年前に世界でもっとも豊かな五%の人々の所得は世界でもっとも貧しい五%の人々の所得の三〇倍だったが、一五年前にはそれがすでに六〇倍になり、二〇〇二年には一一四倍に達した。
 フランスの思想家ジャック・アタリ(一九四三-)が『人間的な方法』で指摘しているように、世界人口の一四%を占めるにすぎない二二カ国が、世界貿易の半分とグローバルな投資利益の半分以上を得ている一方、世界人口の 一一%が暮らす四九の最貧国は、グローバル製品の〇•五% (地球上のもっとも豊かな三名の所得総額とほぼ同じ)しか受け取っていない。地球の富の総額の九〇%が、ほんの 一%の人々の手に収まっている。
 タンザニアは年に二二億ドルを稼いで、それを二五〇万人の住民に分配している。ゴールドマンサックス銀行は二六億ドルの利益を上げ、それを一六一名の株主が山分けしている。
 専門家によれば、欧米では動物の餌に毎年一七〇億ドルが支出されているのに対し、世界中の人々を飢餓から救うために必要な額は一九〇億ドルだという。 (p. 42-3)

 ソリッド・モダン社会では、資本家はプロレタリアートの持続的な労働力が必要であることを認識して、社会(福祉)国家を形成することで共生を図ろうとした。そこでは、資本と労働は「無制限の不平等を防ぐという点では利害が一致していた」のであって、「プロレタリアー卜の絶対的窮乏化をめぐるカール・マルクスの予言の誤りが自ら証明され、労働者を雇用された状態に保つ国家である社会国家の導入が「左右を超えた」超党派の課題となった」 (p. 78) とコミュニズム嫌いらしく著者は述べている。
 しかし、だからこそソリッド・モダンはリキッド・モダンに変化せざる得なくなって、資本はグローバル化の道をたどり、弱小国家、後進国家とその国民から(対象をプロレタリアートから替えて)搾取せざるを得なかったのではないか。資本のグローバル化(権力の国家主権からの離脱)と世界規模のアンダークラスの生成はどちらが先でも後でもない一体化した資本主義の自動的な時代変化であろう。「プロレタリアート」を「周辺国化した国々のアンダークラスの人々」と置き換えれば、資本主義の構造はマルクスが説いたものと変わらない。一国資本主義であれ、グローバル資本主義であれ、労働を搾取される人々の存在が必須であると、資本主義の機制を見抜いていたマルクスは正しいと言うべきではないか、と私は考える。著者自身も次のようの述べているではないか。

その結果、〔グレン・〕ファイアボーも述べているように、「先進」国と「貧しい」国の距離は縮まる傾向にあり、その一方、いまわしい社会的不平等からきっぱりと抜け出すのも近いと思われていた国々で、一九世紀初頭のヨーロッパのような「持てる者」と「持たざる者」の格差の際限のない拡大がよみがえりつつある。 (p. 88)

 単に、一工場内、一国内の搾取-非搾取の関係が世界規模に変わっただけで、マルクスが描いた資本主義の描像の骨格は変わっていないのである。搾取-非搾取を「持てる者」-「持たざる者」と言い換えても事実は変えようがない。
 また、著者は次のようにも述べている。

 だが、こうした〔福祉国家としての〕政治権力のあり方や、その使命や職務や機能はことごとく過去のものになりつつある。「福祉国家」体制の規模がしだいに縮小され、廃止されている一方、かつて自由な事業活動や市場活動とその結果に対して課せられていた規制が撤廃されている。失業者や障害者に対する国家の保護機能は削減され、「狙い撃ちされ」ており、マイノリティはしだいに社会的なケアの対象から外され、法と秩序の問題の枠内に収められている。個人の資源を使用し、個人的なリスクを冒しながら、法的な規則にしたがって市場のゲームに参加しょうにも参加できない人々は、しだいに犯罪的な意図を持つか、犯罪者となる可能性を疑われつつある。その一方で、国家は自由市場の論理(もっと正確に言えば、論理の欠如)によって生じる脆弱性や不確実性を放置しようとしている。また、社会的地位の脆弱さは個人的な事柄であって、個人が自らの資源を用いて対処すべき問題であると定義し直されている。 (p. 91)

 国家は福祉国家であることを放棄し、ナショナル・マイノリティの保護から手を引いて、著者の言うリキッド・モダン社会に移行している。その事実は争いようがない。しかし、それを著者は「国家は自由市場の論理(もっと正確に言えば、論理の欠如)によって生じる脆弱性や不確実性を放置しようとしている」と表現する。
 自由市場の論理の欠如がその理由だというのだ。この考え方は受け入れがたい。これこそ自由市場の論理を徹底させようとする「新自由主義」の政治思想が世界中にもたらしたものだ。新自由主義(の資本主義)こそが積極的に社会福祉政策の放棄を推し進めてきたのだ。たぶん、著者は資本主義を無条件に受け入れたうえで自由主義の立場に立っていると思われ、私としてはとうてい受け入れがたい考えが垣間見られるのである。

 本書は全11章から構成されているが、そのうち第5章から第8章までは「コラテラル・ダメージ」とは直接は関係ない社会分析(道徳、プライバシー、人間の絆、運、西洋の政治体制など)の記述なので、ここでは触れないことにする。

 「第9章 悪の自然史誌」では、人間が悪に手を染める機制に触れていて興味深い。ナチスによるジェノサイドやスターリンによる大粛清などは私たちに「具体的で急を要する「善良な人々がどうやって悪に転じるのか」という謎(もっと簡単に言うと、家族思いの人々や親切で善良な隣人が怪物に転じる、謎に満ちた変貌の秘密)を解こうとする取り組み」 (p. 214) を強いるのである。それは、ハンナ・アーレントが『イスラエルのアイヒマン』 [7] で断言したような「悪の陳腐さ」に象徴される人間性についての考察である。

アーレントの言わんとすることは、怪物性には怪物は必要ではなく、違法行為には違法な性格は必要ないということであり、心理学や精神医学の専門家によれば、アイヒマンの問題とは、彼が(多くの共犯者と同様)怪物でもなければサディストでもなく、異常なまでに、そして恐ろしいほど「正常」だということである。ジョナサン・リテルも、アイヒマンが決して「顔がなく、魂のないロボット」ではないというアーレントの主張を少なくとも部分的に踏襲した。そうした系譜に連なる最新の研究の中でも、二〇〇七年に発刊されたフィリップ・ジンバルドーの『ルシファー〔もとは天使であつたが、神に反逆して悪魔となった堕天使〕効果』は、善良で普通の愛すべきアメリカ人の一団が、はるかかなたのイラクという「無名の地」に派遣されて、邪悪な意図を持つ下等で人間以下の存在とされる囚人を監視する職務についたとたんに怪物(モンスタ-)に変貌してしまう、身の毛もよだつような現象に関する研究である。 (p. 217)

カウンターで微笑んでいる少女が、海外に派遣されたとたんに、自分が担当する監房で、奇抜で悪辣ないじめや拷問、屈辱を与える方法を思いつく才能を発揮するなどとは誰も考えもしなかった。彼女や彼女の同僚の生まれ故郷の隣人たちは、自分が子供のころから知っているこれらの魅力的な男女と、アブグレイブの拷問室のスナップショットの中の怪物が同一人物であるとは信じたくないと述べている。だが、彼らは同一人物なのである。 (p. 218)

 アーレントのアイヒマン裁判報告は、イラク・アブグレイブ刑務所におけるアメリカ人軍人・軍属による残虐な虐待の世紀まで見抜いているようだ。そして、イラクにおける無数の虐待・殺戮を推し進めているのが新自由主義に基づくアメリカの国際戦略であることを忘れてはならない。
 著者はまた、戦争(第2次世界大戦)をめぐる驚くべき人間心理の事実の例を挙げている。ひとつは、戦略的にはなんの価値もないようなドイツ・ハルバーシュタットのじゅうたん爆撃についてである。

 〔W・G・〕セバルドは、ドイツの映画監督のアレクサンダー・クルーゲの『時の不気味さ』にならって、ドイツ人ジャーナリストのクンツェルトが行なったアメリカ第八空軍のフレデリック・L・アンダースン准将とのインタビューを引用している。クンツェルトからアメリカのじゅうたん爆撃による故郷の町、ハルバーシユタットの破壊を防ぐ方法があったかどうか説明するよう促されたアンダースンは、爆弾は結局のところ「高価な品物」であったと答えた。「爆弾を作るのに多大の労力を費やしたのに、それを山や平野に投下することはできなかった」。非常に率直なアンダースンは、正確に核心を突いていた。(の爆弾が使用されることになった)ハルバーシュタットが問題だったのではなく、(ハルバーシュタットの運命を決めた)その爆弾をどう処理するかの方が重要だったのだ。ハルバーシュタットは爆弾製造工場の成功にまつわる「コラテラルな犠牲者」(軍事用語を改変した言葉で、巻き添え被害者の意味)に他ならなかった。セバルドが説明しているように、「航空機や高価な爆弾などの軍需物資を製造してしまってから、それを東イングランドの飛行場に放置しておくことは、健全な経済の本性に反するものだった」。 (p. 227)

 アメリカ軍人にはハルバーシュタットを故郷として生きている人々のことは想像の中にはなかったのである。爆弾にかけた費用がもったいないという理由だけで爆弾を投下する行いが、アイヒマンの悪に匹敵することは言うまでもない。

 さらに著者は同じような心理がもたらす巨悪についても例を示す。それは、ヒロシマ、ナガサキに投下された原爆をめぐるアメリカ大統領トルーマンの決断のことである。少し長いが引用する。

最初の〔ヒロシマへの〕原爆投下の一カ月ほど前に、日本の支配者には降伏する用意があった。そして、次の二つのステップを踏むだけで彼らは武器を放棄していただろう。それが、ソ連軍による対日参戦にトルーマン大統領が同意することと、日本の降伏後に天皇の地位を保全すると連合国が約束することだった。
 しかし、トルーマンの決断は引き延ばされた。ニューメキシコ州アラモゴードで行われる原爆実験の結果を待っていたのだ。それにより最初の原爆の性能についての最終的な感触が得られることになっていた。実験結果の知らせは七月一七日に連合国の首脳会談が行われていたドイツのポツダムに届いた。結果は単なる成功の域を超えていた。爆発の衝撃はもっとも大胆な予測をも上回るものだった……。こうした非常に高価な技術を廃棄すべきとする提案に憤りを覚えたトルーマンは、しばらく時間を稼いだ。彼が決断を遅らせたことによって手にした利益については、広島の一〇万人余りの生命を破壊した後『ニューヨークタイムズ』に掲載された意気揚々たる大統領演説から容易に推測されよう。「われわれは二〇億ドルに上る史上もっとも大胆な科学的な賭けを行ない、勝利した」。二〇億ドルを捨てることなどできょうか? その製品を使用する機会が訪れる前に、当初の目的が達成されてしまったら、その支出に見合った「経済感覚」を保持するか回復するためにも、すぐさま別の目的を見つけなければならない……。 (p. 229-30)

 つまり、二〇億ドルを捨てない、二〇億ドルがもったいないという理由でヒロシマとナガサキに原爆は投下されたのである。「戦争を終らせるために……」と今でも多くのアメリカ人が語るのは、単にそう信じなければ「黙示録的な「地球規模の虐殺(globocide)」 (p. 228)を企図するヒットラーとトルーマンは似たものであり、それに加担するナチス党員も民主党員も思想的には等しい存在になってしまうからであろう。

 「第10章 われわれのような貧しい人間」は、アンダークラスの置かれた状況と心理を描いた短いが優れた記述である。そこでは、「「われわれのような貧しい人間」は、オーストリアの作曲家アルバン・ベルク(一九八五-一九三五)のオペラ『ヴォツエック』の第一幕における主人公ヴォツェックの歌の一節」 (p. 242) で、ヴォツェックの語る「われわれ」について考察される。

 「貧しい人間」はコミュニティを作らない。彼らの悲惨は、彼らを統合するのではなく、彼らをばらばらにする。貧しい人間は自分たちの苦痛に一人で耐える。ちょうど、自分たちの(個人的な原因による、個人的に被る)敗北や悲惨に対する非難を一人で耐えるように。彼らの誰もが自分自身の欠陥によって「貧しい人問」のカテゴリーに収められ、互いが自分の傷を一人で舐めるのである。 (p. 244)

 「私のような人間」を指す場合にヴォツェックが用いる唯一の言葉が「貧しい人間」ならば、彼が意識的/無意識的を問わず、間接的に示しているものは、「正常な」人間の集団から自分が排除されていることであり、そして、別のコミュニティから勧誘されることもなければ、他のコミュニティから入会を認められる見通しもなく、彼が知っていて、それについて知っているコミュニティから彼が追放されていることである。 (p. 245)

 「アンダークラス」のカテゴリーに収められて完全に排除されることは、すべての社会的に生産され、社会的に受容される衣装を剥奪されることであり、そしてまた、単なる生物学的存在を社会的存在やコミュニティへと引き上げる指標も奪われることである。アンダークラスは単なるコミュニティの欠如ではない。それはコミュニティの完全な不可能性である。結局のところ、このことは、人間であることの不可能性にもつながる。 (p. 246)

 私たちには憎む人間が必要である。というのも、私たちには、自分が抱える嫌悪すべき耐え難い状況や、私たちがそれを改善し、もっと安全なものにしようとして味わう無力感のために、誰かを非難する必要があるからだ。私たちは、自分は価値がない人間だという破壊的な感覚を払いのける(そしてできれば軽減する)ためにもそうした人間を求める。しかし、そうした感覚をうまく払いのけるためには、すべての個人的な怨念の形跡を完全に覆い隠す必要がある。選ばれた標的に対する憎しみや嫌悪感とはけ口を探す際の欲求不満が密接に結びついていることは、秘密にしておかねばならない。彼らに対する僧しみをどのような形で表現しようと、それを私たちは、彼ら悪意のある卑劣な人々による中傷や共謀から善良で尊い事柄を守ろうとするためだと、周囲の人々や自分自身に説明しようとする。私たちは、彼らを憎む理由や、彼らを排除しようとする決意が、秩序ある文明的な社会を維持しょうとする私たちの意志に根差す(それによって正当化される)ことを証明しようと懸命に努力する。私たちは自分が憎むのはこの世界を憎しみのないものにしようとするがゆえであると主張する  (p. 255-6)

 ここでは、アンダークラスとしての「われわれのような貧しい人間」の悲惨な状況、悲惨な心理状態が述べられている。それはこの社会の事実である。そして、アンダークラスは、資本主義(現在は新自由主義的経済戦略で武装している)がグローバル化を推し進める過程で日々新たに生産されつつある。
 社会学は、アンダークラスの存在と状況を分析し、記述すれば「学」として全うされるのかどうか、門外漢の私には分らない。しかし、思想の問題、正義や倫理の問題として言えば、そのアンダークラスを解放する未来を見通す力量が求められている。「社会をよりよくしようという近代の情熱」と「人間の自由に寄与する文化政治」をめざす営みこそが必要なのである。

 

[1] ナオミ・クライン(幾島幸子、村上裕見子訳)『ショック・ドクトリン――惨事便乗型資本主義の正体を暴く 上・下』(岩波書店、2011年)。
[2] ジュディス・バトラー、ガヤトリ・スピヴァク(竹村和子訳)『国歌を歌うのは誰か?』(岩波書店、2008年)。
[3] ノーム・チョムスキー(鈴木主税訳)『覇権か、生存か――アメリカの世界戦略と人類の未来』(集英社、2004年)。
[4] アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート(幾島幸子訳、水島一憲、市田良彦監修)『マルチチュード/〈帝国〉時代の戦争と民主主義 上・下』(NHKブックス、2005年)。同(水嶋一憲、清水知子訳)『反逆――マルチチュードの民主主義宣言』(NHK出版、2013年)。
[5] ジャック・デリダ(増田一夫訳)『マルクスの亡霊たち』(藤原書店、2007年)。
[6] ジャン=リュック・ナンシー(渡名喜庸哲訳)『フクシマの後で』(以文社、2012年)。
[7] ハンナ・アーレント(大久保和郎訳)『イェルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』(みすず書房、1969年)。



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