かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 放射能汚染と放射線障害(4)

2024年06月29日 | 脱原発

2013年8月30日

 最近、『エコ・デモクラシー』 [1] という本を読んでいる。「フクシマ以後、民主主義の再生に向けて」というサブタイトルが付いているが、フクシマ以前に書かれた本で日本での訳本の出版がフクシマ以後だったと言うだけである。
 環境問題、生物圏の危機を扱った本なのだが、それを読むと原発問題はそこで述べられている様々な環境問題を超えてさらに生物圏の危機を拡大させていることが理解できる。
 そして、その本が指摘している極めて重要な問題点は、近代が獲得した代表制民主主義という政治システムが地球という大きな生物圏の危機を解決することは不可能に近いということである。
 著者は、その解決のために「エコ・デモクラシー」を提案しているが、それはハーバーマス流の熟議民主主義とも言うべきもので、代表制民主主義に代わるべき新しい民主主義でないのが少し惜しい感じがする本である。
 人間が生きているこの地球上の生物圏へ向かうような眼差しを持つならば、原発問題にどう対処するかは議論の余地がない。フクシマ以前であっても、そのことに気付いている人はたくさんいた。

夢に見るわれは抜け髪チェルノブイリ汚染地域の雨にまみれて
         道浦母都子 [2] 

 〈何度も事故があるのに......〉
いきいきと婚姻色に輝きて作動していむ原子炉の火は
         道浦母都子 [3] 

 優れた歌人の鋭敏な感受性と確かな想像力がなければチェルノブイリからフクシマに辿り着けない、などということは絶対にない。私のような凡庸な人間の想像力でも、放射能の「雨にまみれ」る恐怖は鮮烈なものだ。

[1] ドミニク・ブール、ケリー・ホワイトサイド(松尾日出子、中原毅志訳)『エコ・デモクラシー -フクシマ以後、民主主義の再生に向けて』(明石書店、2012年)。
[2] 『道浦母都子全歌集』(河出書房新社、2005年) p. 566。
[3] 同上、p.516。


2013年10月4日


 「福島を出ます」とおさな子を連れし背が去りゆく雨の向こうに
   (福島市)美原凍子(2011/7/4 佐佐木幸綱選)

日常の会話も悲し線量と逃げる逃げない堂々巡り
   (郡山市)渡辺良子(2011/7/25 高野公彦選)

 東電福島第一原発の事故から四ヶ月ほどたった頃、「朝日歌壇」に投稿、採用された短歌である。どれだけの日々の悩みがあり、故郷を離れざるを得ない悲しみがあり、哀切な別離と喪失があったのだろう。
 このような不幸な出来事から人々を守るために、倫理・道徳が生れ、社会規範としての法が成立してきたはずなのに、原発事故の関連死が数千人に及ぶという現在に至るまで、誰一人として法によって裁かれようとしていない。
 いかに資本主義社会といえども、一私企業の営利活動が多数の人命より優先するような立法精神というものはなかったはずだ。現状は、政治とその権力構造に取り込まれた司法によって恣意的な法の運用がなされていると考えざるを得ず、そこでは人倫などというものより経済的豊かさのみが追求されているのだ。どんなに偉そうに政治や社会を語ろうが、所詮は「目先の金」がすべてなのである。

 



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【メモ―フクシマ以後】 脱原発デモの中で (5)

2024年06月23日 | 脱原発

2013年2月8日

 昨日、twitterでのデモの呼びかけに、天気予報を調べてから「明日は寒くなさそうですね」と応答したのだが、とんでもない。今日はずっと雪がぱらついて、風の強い1日だった。デモの頃の気温はマイナス2℃くらいで、風がなければとくに寒いというわけではないが、小雪混じりの強風に閉口した。
 ほんとうに春が恋しくなってきた。
 春の彼岸の頃には、私が生まれ育った宮城県北の農村では雪が消え、子どもだった私は待ちかねてマブナ釣りに出かけるのだ。

風の日は魚もこもりて春彼岸  鷹羽狩行 [1]

 風のない暖かい日を選んで近くの小さな川で竿を出すのだが、そんなに釣れた記憶がない。釣りに飽きて、風を防いでくれる堤防の斜面に寝っ転がって暖かな陽ざしを楽しんでいると、枯草の匂いがふわっと顔を包みこむ。
 この枯草の匂いに私は一番強く〈春〉を感じる。雪が消えただけのまだ何も萌え出していない枯野に、影も形もない春が強い気配を漲らせている。そんな早春の短い時期がとても好きで、中学生くらいになってからは釣り竿と本を持って堤防斜面の枯草の上で時間を費やすのが習いであった。
 彼岸とはいえ風が吹けばまだ震えあがるほどの寒さがぶり返すのだが、ずっと春を待ち続けている子どもには、枯草の匂いもまた春の匂いなのである。
 春を待つ気持ちがもっとも強くなるのは、おそらく寒さが極まる2月の頃だろう。脱原発を願ってデモをするためにこの勾当台公園に集まって来る人たちもまた、春を待ちかねているにちがいない。春になれば、草や木が萌え出すように、人の心ももっと強く萌え出すだろうし、原発ゼロを目指す大勢の人が街に出てくるのではないか。春を待つ気持ちのなかにはそんな期待もある。
 そう、これからしばらくは「春待ちデモ」である。
 当たり前のことだが、春はまちがいなくやってくる。問題はそこからなのだ、きっと。

春がきたのなら春に目覚めねばならぬ
夏がきたら夏に目覚め
たとえどこまでしきたりが続くにしても
いろとりどりに空間をきらねばならぬ
        渋沢孝輔「広場への散歩」部分 [2]

[1] 鷹羽狩行『句集 十二紅』(富士見書房 平成10年)p. 16。
[2]『現代詩文庫42 渋沢孝輔詩集』(思潮社 1971年)p.17。


2013年6月14日

 デモが一番町に入ると、先週から開催されていた大陶器市が今日で終るらしく、それぞれのテントは商品の片付けをしている。先週と同じようにここではコールを遠慮しながら歩くのである。
 定禅寺通りから一番町に入り、広瀬通りに出る少し手前に「ブラザー軒」がある路地の前を通る。じつは、昨日ひさしぶりに菅原克己の詩を読んでいて、そこから高田渡の「ブラザー軒」に想いが及び、これまたしばらくぶりの高田渡の歌を聴いた。
「東一番丁 ブラザー軒」という歌い出しで始まる菅原克己の詩に高田渡が曲を付けて歌っているのだ。ブラザー軒の椅子に座った詩人が亡くなった父親と妹の幻影を追うという内容の詩で、次のようなフレーズで詩は終る。

死者ふたり、
つれだって帰る、
ぼくの前を。
小さい妹がさきに立ち、
おやじはゆったりと。
東一番町、
ブラザー軒。
たなばたの夜。
キラキラ波うつ
硝子簾の向うの闇に。
     菅原克己「ブラザー軒」部分 [1]

 じつに静かな感情で亡くなった者たちへの哀惜を詠ういい詩だし、いい歌である。高田渡は歌うべき素敵な詩を選ぶ才能に恵まれたフォーク歌手だった。
 菅原克己は宮城県亘理町生まれで、黒田三郎や吉野弘と同じように、辛い社会を優しい心でとらえ続けた詩人で、私としては次のような詩がとてもお気に入りなのである。

もう会うときはあるまいと、
それぞれ考えながら
それでも年に一度ぐらいは、
などといたわりあって別れる
むかしの人に会ってきた。
二〇年目に、
暗い八重洲通りで……
     菅原克己「むかしの人」部分 [2]

  反原発デモの話が、菅原克己の詩の話題になってしまったが、これもいいことにしよう。デモは来週も、再来週も、その後もずっとあるのだから、今日はこのまま詩の話で終ることにしよう。

蔵王の、
ぶなの森の、
小径は良かったね。
蛇や栗鼠があそんでいた。
人がいないのに
かえってにぎやかだった、
あの木漏れ日の小径は。
    菅原克己「蔵王の小径」全文 [3]

 2週続けて蔵王連山の北の端の山を歩いた。木漏れ日の小径が賑やかだというのは、一人で山歩きをする人間には意外と共通する感覚かも知れない。
 来週も山へ行こうと思っているが、梅雨時の天気予報は思わしくなく、雨天登山などは避けたい身にはまったく予定が立たないのだ。
 さて、菅原克己も高田渡も亡くなってずいぶん時がすぎた。「東一番丁」もとうの昔に「一番町」と名前を変えられてしまっているが、ブラザー軒は昔の名で立派に残っている。

[1] 『菅原克己全詩集』(西田書店  2003年)p.78。
[2] 同上、p.184。
[3] 同上、p.28。


 

 

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【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(6)

2024年06月21日 | 脱原発

2012年12月21日

 今朝の朝日新聞(2012年12月21日付け)に小熊英二さんのインタビュー記事が載っていた。脱原発運動の盛り上がりと総選挙の結果との大きな落差についての話だったが、なかに次のように述べている箇所があった。

この1年半、いろいろなデモに参加しました。創意工夫にあふれたプラカードや主催者の運営など、人々の成長は著しい。政治や経済の勉強もして討論もするからどんどん賢くなります。参加を経験し、自分が動くと何かが変わるという感覚を持つ人がたくさん出てきたことに希望を感じます。運動の意義は、目先の政策実現だけではありません。

 そうなのだ、私たちは主張もしているが、同時に主張する私たち自身を鍛えてもいるのだ。劇的に参加人数が増えるわけでも、先週のデモから目を見張るほど今週のデモが進歩するわけでもないけれども、傍観者からはうかがい知れない深い場所で一人一人が変わっていってる、ということだ。それはいずれ新しい力の形で顕在化するだろう、と私は信じている。

 

2013年7月19日

  それなりに長いこと生きてきたが、選挙というものに楽しい思い出はない。すべての選挙で投票してきたが、私が投票した人物が当選したという経験はほとんどない。いまさらのことだが、ほとんどの場面でマイノリティの側として生きてきた、ということである。
 原発ゼロを望むのは国民のマジョリティの意見である。憲法改正反対もマジョリティの意見である。少なくともマスコミの調査ではそのような結果が出ている。つまり、その2点に関して言えば、私はマジョリティの側に属している。
 今までだってそのようなことはあった。最大の争点と思われることがらでマジョリティの側として投票したのに、それが結果に反映されないのだ。日本のマジョリティは、政治的争点ということを考慮して投票しているわけではないらしい。
 そのことを自民党は知悉していて、今回の選挙での最大の争点のはずの「憲法改悪」、「原発」、「TPP」、「嘉手納基地」を完全に隠してしまった。首相は選挙を福島から始めながら「原発」に触れようともしない。そんな卑怯な方法も、経験的には有効であることを自民党はよく知っているらしい。
 何よりも不思議なのは、争点を隠されたら国民から見えなくなるらしいということで、ほんとうに理解するのが難しい。たかだか2週間ちょっとの間、政治家が口にしなかったら、原発やTPPの問題はないものだと考えるらしいということが理解できない。
 一番気になるのは、「政治は大所・高所から判断するべきだ。原発だけが日本の問題ではない。憲法以外にも緊急の政治課題があるのだ。全体を勘案して投票すべきである」としたり顔で語る「高所・大所シンドローム」患者が意外に多いことである。そんな言説で政治的争点がグズグズにされてしまう。
 そんな患者は、町会議員や市会議員、その取り巻きでいっぱしの政治家気取りの人間、あるいは職場や町内の政治通らしき人間に多いように思う。たぶん、新聞、雑誌、本、ネットなどのマルチメディアから政治問題を積極的に集めようとしないマジョリティは、そんなクズな言説にしてやられるのかも知れない。
 ましてや、テレビだけが情報源だということになったら最悪である。テレビに出てくる解説者、評論家などというのは、純正な高所・大所シンドローム患者そのものなのだから。
 くどくど言ってもしょうがないが、今度の参議院選挙の投票は誰に投票するかは悩みようがない。朝食をたべながら家族で選挙の話題が出たが、考えていることは同じで1分もかからず話題が尽きた。我が家の家族は全員、マイノリティになる確率が高い、ということらしい。



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【メモ―フクシマ以後】 放射能汚染と放射線障害(3)

2024年06月20日 | 脱原発

2013年5月17日

  被爆地を這ふほかになき山楝蛇(やまかがし)
         (いわき市)馬目空

 昨年の7月くらいから、朝日新聞の投稿欄「朝日歌壇」、「朝日俳壇」から原発事故に関連して詠まれた短歌や俳句を抜き書きしている。上の句は今年の4月8日付の新聞に掲載された金子兜太の選による句である。
 人間も家畜もペットも、放射能汚染と放射能被爆によって悲惨な状況に追いやられている。そして、人間も家畜もペットもその一部は避難できたり救出されたりしているが、多くは見捨てられたままである。それでも、見捨てられていることを人々は口の端に登らせ、不十分とはいえマスコミも時として取り上げることがある。
 しかし、野生であるものたち、おそらくは人間よりももっとずっと太古からその地で生き続けてきた野生の命の被爆は無視され続けている。少数の生物学者が多くの形質異常を発見するのだが、それだけである。被爆地を這うほかに彼らの生のありようはないのである。
 そして、放射能にまみれた地を這うヤマカガシの姿は、様々な事情に阻まれてその地を去ることのできない人々の生に重なってしまう。それぞれの交換不可能な生を、東京電力はおろかどのような政治も贖うことはできない。 
   (中略)
 上記の句と同じように、5月6日付けの朝日新聞、「朝日歌壇」に次のような短歌が載っていた。佐佐木幸綱の選である。

原発反対叫びて過ぎし三十年上関の里に春は来にけり
            (山陽小野田市)淺上薫風 

 30年も闘い続けていて、まだ闘いは続いている。そして、いつものように季節はめぐっているのである。これからの30年という反対運動を想像してみる。当然ながら、私は生きてはいない。「私に目の黒いうち」とは言わないが、それでも30年経ったころには全原発廃炉が実現していればいい、そう願っている。



2013年6月14日

 5月17日の朝日新聞・朝日歌壇に次の歌が選ばれていた(選者:高野公彦)。

下北の原燃原発見下ろして安全無限の風車が回る
             (東京都)宮田礼子

 風力発電の風車の支柱が折れるという事故のニュースがあって、風力発電にもそれなりのリスクはある。しかし、無人の野に建てられる風車では真下に人がいる確率はほとんどゼロに等しく、仮に人身事故が起こったにせよ、東電福島第1原発のリスクとは比べようがない。
 風車のリスクを基準にすれば、原発1基のリスクは無限大であることは〈フクシマ〉によって事実として証明されている。原発を基準にすれば、風力発電の風車の「安全性」は無限大である。
 原子力や放射線医学の専門家はしばしば「リスクコミュニケーション」が大事だという。しかし、彼らのリスクコミュニケーションとは口八丁、手八丁、加えて札びらの威力で「無知な大衆」に「安全である、危険はない」と信じ込ませる作業であるらしい。少なくとも、東大教授の島薗進先生の『つくられた放射線「安全」論』 [1] をよむかぎり、そうとしか思えない。
 専門家の「安全信仰」と比べれば、上の歌に詠まれた「安全無限の風車」という歌詠みの眼差しがいかに正しく、信頼できるかは言うまでもない。

[1] 島薗進『つくられた放射線「安全」論』(河出書房新社、2013年)。



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【メモ―フクシマ以後】 放射能汚染と放射線障害(2)

2024年06月15日 | 脱原発

2013年4月28日

 午後上映分のチケットを持って、午前の上映の時間に会場のメデイアテークに出かけた。月の最終週は金曜夜デモが一回だけ日曜昼デモに変更されるのだが、それをすっかり忘れて午後のチケットを予約してしまったのだ。回数が浅い月1の日曜昼デモはまだ習慣として私の身にはついていないのである(単に忘れっぽいということだけど)。おそるおそる申し出て、変更を認めてもらったのである。
 福島県双葉町は、東京電力福島第1原子力発電所から3kmほどのところに位置し、原子炉のメルトダウン、建て屋の水素爆発事故によって全町避難を余儀なくされた町で、町民のうち1200人ほどが役場機能とともに埼玉県加須市の旧・騎西高校(廃校)に避難する。「フタバから遠く離れて」は騎西高校で避難生活を続ける人々を記録した舩橋淳監督、テーマ音楽は坂本龍一作曲によるドキュメンタリー映画である。
 映画のどのシーンをとっても胸を締め付けられる思いがする。たとえば、90才になるおばあさんが「ここでは死にたくないね。まだもう少し生きられる気がするから。」というシーンがある。顔に微笑みを浮かべながら語るのだ。
 しばしば人は「畳の上で死にたい」という。この畳は廃校の体育館に敷かれた3枚の畳のことではない。一軒家であれ集合住宅であれ、家族が暮らす家の畳である。つまり〈ホーム〉と呼びうる場所のことである。そこであれば、畳でなくても、たとえ筵の上でいいのだ。ホームはまた故郷にあって輝きを増すのである。
 新しい居住先を定めて避難先をあとにする人がいる。ある家族は、「帰れないなら、どこでも暮らしは一緒だ」と、避難先に近い公団住宅を暮らしの場に定める。ある家族は、「できるだけ双葉町に近いところがいい」といわき市に引っ越す。人それぞれなのだ。
 避難町民として括られてはいるが、本来はそれぞれの人生観とそれぞれの家族としての思いを持つ多様な人々なのだ。いったん、このような事態になってしまえば、どのような政治も行政もこの多様性をすくい取ることは不可能なのだ。
 浜通りの人々が「ふるさとを返せ」、「絶対にふるさとに帰るぞ」というシュプレッヒコールをあげながら霞ヶ関でデモをする。デモが終ったあと、ビルの階段で休息を取りながら「もう帰れないって分かってる。それでも、帰るぞって言うしかないんだ」と語る人がいる。「自民党(の国会議員たち)は何でそんな俺たちに拍手するんだ。おかしいよ」。そうだ、明らかにおかしい。放射能によって故郷を追い出された人々、絶望を希望があるかのように語るしかない人々に、どんな神経が拍手を許すのだ。
 自民党にせよ、事故時に政権を担っていた民主党にせよ、政治家が登場するシーンはどうしても私には醜悪に見えてしまう。事故後だけではなく、事故以前も含めて原発をめぐる政治家のありようが私をそのような心性に陥らせるのだ。
 警戒区域である浪江で、避難を拒否して酪農を営む男性がいる。「こいつらを死なせない。これは意地だ」という。被爆をしながらの戦いは悲壮であるが、彼が近くにある避難した酪農家の牛舎に案内する。「エサも水もなく、死んで、腐ってミイラになった」、「死ぬまで一ヶ月くらいあっただろう。最悪の死に方だ」と吐き捨てるように語る。
 ここは、牛たちのアウシュビッツだ、そう思った。そして、おそらくはそのことに深く絶望的に傷つけられているのは、避難した当の酪農家なのだ、と思うのだ。
 「結局、原発誘致は間違っていた」と井戸川克隆双葉町長は語る。「どんなに補償してもらっても、絶対にプラスにはならない」。そうなのだ。父祖代々、あるいは同じ空気を生きる共同体の一員の家族として生き続けてきた、その〈故郷の全体〉を失ったことを補償できるものなんて存在しない。「不可能な交換」(ボードリヤール)なのだ。「一般的等価物」(ジャン=リュック・ナンシー)が存在しえないものこそ、原発が奪ったものなのだ。原発をたずさえた人類は、思想や哲学が応えることのできない領域に踏み込んだのではないか。
 しおたれた気分で会場をあとにして、脱原発デモの集合場所、錦町公園に向かう。

吸ひさしの煙草で北を指すときの北暗ければ望郷ならず
                   寺山修司 [1]

そういえば、タバコを口にしながら望郷を語る二人のおばさんのロングショットもあった。

[1] 『寺山修司全歌集』(講談社 2011年)p. 43。



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【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(5)

2024年06月14日 | 脱原発

2012年11月30日

 またひとつ、とても訴求力のあるデモ・アイテムをFacebookで見つけた。「あのね、原発はエネルギー問題じゃないんだよ。人権問題なんだよ!」という善養寺 ススムさんのポスターである。
 原発をエネルギーや電力の問題、ひいては電力を要する産業の問題として括ろうとする人間がいるが、人命を超えてエネルギー問題を選択することは〈普通の人間〉には許されない。
  自分の周囲に放射能被爆で亡くなったり、傷ついたり、病んだりする人がいないことをいいことに、原発を擁護しつつエネルギー問題を論じることを「大所・高所から社会を考えている」と思い込んでいるのは、たいてい田舎政治家である。それを「自分は立派な〈高い〉政治意識を持っているのだ」と自己欺瞞で思い込んでいるので、偉ぶって威張り散らす人間が多い。
 彼らは、ただ単に社会全体に対する想像力が劣悪であるに過ぎない。「田舎」というのは、ローカルな周囲を世界の全てと信じているような視野が狭い喩えなので、東京に田舎政治家がたくさんいるのは不思議ではない。代表格は、東京と大阪に一人ずついる。私はそれを「大所・高所シンドローム」と呼んで、精神的(厳密に言えば思想的)な病気の一つに数えている。

       
善養寺 ススムさんのポスター(FB投稿から)。


 それにしても「あのね」と怒っている女の子が秀逸である。幼稚園か保育所の帽子の紐をきちんと締めた姿の可愛くて凛々しいこと。私には絵の才能がないので、嫉妬というか妬みに似た感情が湧いてくるほどである。
 このような巷の才能について、毛利嘉孝さんが『ストリートの思想』という本に書いている。

二〇〇〇年代のストリートの叛乱は、名人芸を身につけたポストモダン・プロレタリアートが、名人芸を国家や資本に回収させずに、自分たちで使いこなすことで起こった。 [1]

 そして、マルチチュードによる〈帝国〉への叛乱を思い描くネグリ&ハートを援用して、「ストリートの叛乱」を支える人々のありようを描いている。

 ネグリとハートは、人々を運動へと駆り立てる「愛」や「情動」を、「ポッセ」という語で表現している。ポッセとはラテン語で「活動性としての力」を意味する。ルネッサンスの人文主義において、この語は「知と存在をともに編み込む機械」として、「存在論的動性の核心部」に位置づけられていた。
 ネグリとハートがおもしろいのは、この古い哲学用語をヒップホップ用語の「ポッセ」と重ね合わせているところだ。「ポッセ」はヒップホップ文化では、「集団」「仲間」「連中」「奴ら」というニュアンスで用いられる。ヒップホップ用語と重ねられることで、この古い哲学用語は、現在のマルチチュードの存在様式の核として再生するのである。ここで発見された「ポッセ」とは、いかなる対象をも超えていくような「公共性とそれを構成する諸々の特異性を持った個の活動」であり、「新しい政治的なものの現実の起源に存在する」とされる。
 ここで重要なのは、「ポッセ」が、何かに対抗して生まれるもの--たとえば、資本主義の不当な搾取に抗して生まれる反対運動のようなもの--ではないということだ。それは、労働を通じて人間が自らの価値を決定する力であり、ほかの人とコミュニケーションをはかりながら協働する力であり、究極の自由を求める力である。  [2]

 確かに私たちは、今、「反原発」あるいは「脱原発」として、つまり、「何かに対抗して」集まっている。それでも、「ポッセ」である人々の参集と「ポッセ」の発揮によって、「反原発」「脱原発」を実現しながら、その先に、この社会に向けての多様な「協働する力」を生みだしていけるのではないか。そんな希望を私はずっと抱きつづけている(老いて旧弊な自分に苛立ちながら)。

[1] 毛利嘉孝『ストリートの思想--転換期としての1990年代』(NHK出版、2009年)p. 248。
[2] 同上、p. 243。


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【メモ―フクシマ以後】 脱原発デモの中で (4)

2024年06月02日 | 脱原発


2013年3月8日

 暮れから1,2月にかけて、ごく身近なことで体も心も休まらない日が続いて、デモにも3回ほど立て続けに参加できなかった。私の人生にも、まだいろんなことが起きるらしいのである。そのようなごく私的な事柄はごく私的に対処するしかないのだが(あたりまえだけれど)、それにさまざまな行動、活動が束縛されるというのは、対処能力が弱い感じがしてへこむのである。

かりにわたしが
累計的に悲しかろうと
わたしは わたしひとりで泣く
ほっといてくれ
       吉原幸子「半睡」部分 [1]

 どうやら、その極私的な事柄も解決はしないまでもある安定期に入ったので、これからはたぶん自分の意思だけが参加や不参加の要件になるだろうと思う。全部が全部、参加することはできないだろうが、マスコミごときに「反原発運動の退潮期」などと言わせたくはないのだ。

[1] 「続続 吉原幸子詩集」(思潮社 2003年)p.57。


2013年3月22日

 午後7時頃、いつものように一番丁を声を張り上げて行く。17歳の時から仙台に住み始めて、それから50年。こんなに見慣れた街のはずなのに、ときどき見知らぬ街のように見えることがある。今日はそんなことはないけれども、心が弱ったときにそうなるのであったろうか。

そしてその男は足どりを速める
そして丁度間に合う時刻に
かれらは街角を曲がる、時間どおりの、神と電車
       オクタビオ・パス「午後7時」部分 [1]

 私たちは、時間通りに青葉通りの角を曲がる。神に頼らず、自らの力と意志だけを恃んで、心ひそかに、放射能で汚されていく「美しい街」を案じながら。

街よ
私はお前が好きなのだ
お前と口ひとつきかなかつたやうなもの足りなさを感じて帰るのは実にいやなのだ
妙に街に居にくくなつていそいで電車に飛び乗るやうなことは堪へられなくさびしい
街よ
私はお前の電燈の花が一つ欲しい
            尾形亀之助「美しい街」全文 [2]

[1] 『オクタビオ・パス詩集』(土曜美術社出版販売 1997年)p.24。
[2] 『尾形亀之助全集』(思潮社 1999年)p.210。

 

2013年5月26日

 デモを(いわば元気そうに、快活に)歩いていながら、デモというのはそんなに心が忙しいわけではないので、いろんなことを考える。
 たとえば、鬱屈するようなことがらというのは日々新しく現れてくるのであって、今日もそれなりに鬱屈するようなことはあった。それでもデモを歩き始め、最初はなかなか声が出ないのだが、今日の特別編成のドラム隊のリズムに心を委ねているとだんだん声が出るようになる。そうして、大きな声でシュプレッヒコールができるようになると少しだけ鬱屈した気分が晴れる。何かもっとできるような気がしてくるのである。これもデモの効用であると思いたい。
 考えてみれば、いつもこんな感じだった。

集団のはらむ熱気を怖るるはいつよりのこと旗はなびかふ
                     岡井隆 [1]

 集団が苦手なのである。今、少しずつそんな性癖を乗り越えつつある、とデモに参加しながらそう思いたいのである。
  
  [1] 『現代歌人文庫 岡井隆歌集』(国文社 1997年)p.124。

 

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