かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

『特別展 飛騨の円空――千光寺とその周辺の足跡』 東京国立博物館

2013年01月27日 | 展覧会

  円空仏を見る機会は比較的多い。以前にも国立博物館でかなりの数を見たような記憶がある。ただ、これまではいつも円空の全仕事のイメージが把握できるような見方をしたことがない。荒い鉈彫りで削り出された円空仏の不思議な魅力に、その場その場で感心していただけだった、そんな気がしている。
 今回は、飛騨という限られた地域の作品群であるが、私としてはかなり見通しの良い展示となっていた。(文中、作品の番号は、図録『特別展 飛騨の円空――千光寺とその周辺の足跡』(読売新聞社、NHK,NHKプロモーション、2013)で付与されている作品番号で、引用には図録のページを示してある。)

  「円空年表」 [p. 32] によれば、円空は1632(寛永9)年の生まれで、徳川治世で言えば4代家綱、5代綱吉の時代を生き、1695(元禄8)年に亡くなっている。晩年は、京都、大阪を中心とする元禄文化の隆盛期に相当している。尾形光琳、野々村仁清、本阿弥光悦などと円空が同じ時代を生きていたというのは、その作品の極端な対称性を考えれば不思議な感じがする。一方は趣味、芸術の領野で生き、一方は信仰の世界で生きたということからすれば残された作品の反対称性は当然と言えないこともないのだが。

  年表には多くの作品の制作年代が記されているが、今回の出展作品45点中、制作年が記されているのは2点だけである。ただし、《如意輪観音菩薩座像》の作品解説に、「このような特色は、東北にある円空仏に通ずるもので、この像の制作時期がそれらと近い可能性がある」 [p. 132] とある。
 「このような特色」とは、円空仏には珍しく、丁寧な鑿使いで平滑に仕上げている点である。円空が東北、北海道に行ったのは34,5歳の頃であるから、初期の作品の特徴と考えてよいのかもしれない。

     
             左:《弁財天立像》 総高100.8cm、飛騨国分寺、針葉樹材(ヒノキか)製 (25)。
             中:《如意輪観音菩薩座像》 総高74.8cm、東山白山神社 (26)。
             右:《千手観音菩薩立像》 総高114.3cm、清峰寺、針葉樹材(ヒノキか)製 (33)。

 私の勝手な推測だが、初期の作品に属すると思われるような丁寧な鑿使いの作品として、写真の3点を挙げてみた。丁寧に仕上げてあるというだけでなく、目尻が長く、柔和な表情をしている点にも共通性が見られる。誰が言ったのかすっかり忘れてしまったが、奈良の仏の表情が「アルカイック・スマイル」と表されていた(和辻哲郎の『古寺巡礼』のような気もするが、定かではない)と思うが、円空の仏たちの微少にもそのような魅力がある。
 これらの作品は、おそらく日本古来からの仏像の伝統(仏師たちの伝統的な技術)に則って作られているように思える。若い時代、伝統的な仏像制作に携わるということは不思議なことではないだろう。後年の作品に見られる「自在さ」は、そうした基礎的な技法の習熟によってもたらされたと考えるのは自然である。

        
              左:《両面宿儺座像》 総高86.8cm、千光寺、針葉樹材(アスナロか)製  (1)。
              右:《金剛力士(仁王)立像 吽形》 総高226.0cm、千光寺、伝ハリギリ製  (2)。

 仏師たちは職業として仏を制作する。円空は僧としての信仰の行いとして仏を彫る。それが、円空の仏たちの姿が、仏師たちの仏たちの姿から大きく離れていく理由であったろう。当然と言えば当然だが、円空仏は「信仰」概念でしか解き明かせないのではないか、と思う。

  《金剛力士(仁王)立像 吽形》は、千光寺の立ち枯れの木に直接彫りつけたものだという。2mを越す威容に圧倒される作品である。この威容に、荒い鉈彫りはよく似合うのである。表現技法が表現内容に見事に適合している例だろう。
 彫り方は荒いが表現は丁寧な《両面宿儺座像》も異様な作品である。「両面宿儺」とは日本書紀に登場する怪物で、浅見隆介は日本書紀を引用して次のように記している。

 一つの体に二つの顔があり、互いに背を向けて頭の数は一つだが項がない。各有手足というのはその後に「四手」とあるので、顔一つにつきそれぞれ手足があるということである。ただし膝はあるが膕(ひかがみ、膝の裏の窪み)と踵とがないというから脚も顔と同様に背面に張り付いているということだろう。左右の腰に剣を佩き、四本の手で弓矢を使うという。この異形の怪物が天皇の命令に従わず、人々を苦しめたので武振熊を遣わして征伐したというのである。
 おそらく五世紀ころの飛騨の豪族が大和朝廷に帰順しなかったことを反映した説話と考えられている。 [p. 28]

 しかし、中央政権から見れば反逆の徒がその土地では英雄であるというのは良くある話である。飛騨の人々の信仰に寄りそっていく円空は、飛騨の英雄「両面宿儺」を信仰の対象として制作する。両面が並んでいる方が信仰心を持って見上げるのに都合がいいということもあったのだろう。手足も持ち物も日本書紀の記述とは大きく異なっている。

            
             上:《三十三観音立像》 総高61.0~82.0cm、千光寺、針葉樹材(ヒノキか)製 (5)。
             下:《如来座像》 総高 左から5.6、5.8、5.1cm、千光寺、針葉樹材(ヒノキか)製  (22)。

 荒い彫りは、いっそう顕著になって、それは制作時間の短縮をもたらしただろう。円空は大量の仏を制作する。その一例が《三十三観音立像》である。「近隣の人々が病気になると借り出して回復を祈ったといい、戻らないこともあったという」 [p. 125] と解説にあり、そのような用途で作られる仏は、数が多く、できるだけ多くの人々に用いられることが大事であったろう。
 また、《如来座像》のようなとても小さな仏も作られ、円空はこのような仏像を信者一人一人に授けていたらしいのである。

 信者のためにたくさんの仏を作る必要があって荒い鉈彫りで制作時間の短縮をはかったのか、荒い鉈彫りの制作法の確立が多数の仏の制作を可能にしたのか、その辺の機制は分からないが、いずれせよ、「信仰」という契機がなければ起こりえないことであろう。  

  
     左二体:《護法神立像》 総高 左212.0cm、216.5cm、千光寺、針葉樹材(ヒノキあるいはスギか)製 (11)。
     右二体:《金剛神立像》 総高 左216.6cm、220.3cm、飯山寺、針葉樹材(ヒノキあるいはスギか)製 (31)。

 《護法神立像》と《金剛神立像》もきわめて特徴的な彫刻である。縦割りにした材の割れ跡がそのまま見えるような極端な粗彫りの身体も特徴であるが、西洋におけるマニエリスムの絵画や彫刻に見られるような異様に長い躯が目を引くのである。
 二日前にエル・グレコの絵を観る機会があったのだが、グレコの描くキリスト教(カソリック)の聖人たちも異様な長躯で描かれている。それには、教会に掲げられる聖人像は崇敬の対象として信者が見上げることになるのだが、そのときにちょうど適切な長さの躯として見えるように工夫されている、という理由によるのだそうである。

 円空の《護法神立像》や《金剛神立像》も信仰の対象として信者が見上げるのだろう。円空もまた、エル・グレコと同じように考えたのではないか。信者が崇敬の念を持って見上げる絵と彫刻、「信仰」を芸術に優先させた東洋と西洋の二人は同じような表象を結果するようになる。楽しい想像ではある。
 ちなみに、エル・グレコは円空が生まれるわずか18年前に亡くなっている。

               
                《賓頭盧尊者座像》 総高47.4cm、千光寺、針葉樹材(ヒノキか)製  (3)。

 《賓頭盧(びんずる)尊者座像》は、作風にことさら特徴があるわけではないが、なぜか心引かれた作品である。まず「賓頭盧」という名前がいい。もともとはビンドラ・バラダージャという釈迦の弟子で、十六羅漢の一人だとされる人物である。それに、円空自身の像とも言われている、ということも興味深いのである。
 また、「頭やからだにつやがあるのは人が撫でたからと思われ、撫で仏とも呼ばれる賓頭盧と見るべき」 [p. 125] という解説がある。
 それを、「人々が親愛を込めて撫でていた円空さん」と勝手に解釈し直してしまうと、私の興味と興奮は極に達するようなのだ。


湯浅誠『ヒーローを待っていても世界は変わらない』(朝日新聞出版、2012年)

2013年01月23日 | 読書

                   

 

 湯浅誠ほど日本社会における格差・貧困問題について「実質的」な活動を行っている人間はいないのではないか、というのが私の湯浅誠の理解である。湯浅誠は、社会運動家というより社会活動家と呼ぶべきだろうと思う。
 かつて(いまでも?)社会運動家は、本質的、根源的な社会改革を求めることに急で、改良主義的な行動に批判的だったという印象がある。結果として、得られるものが少なくても潔しとして、自己満足ないしは敗北の連鎖をたどってはいなかっただろうか。しかし、近年の貧困化、特に若年層の非正規雇用をグローバル化した経済システムに組み込むことによる貧困層の増大は、そのような潔さをよしとするわけにはいかないほどに急を要しているように見える。

 貧困・格差問題に対する湯浅の立ち位置は明確である。民主党政権が発足したとき、請われて内閣府参与となった湯浅は、後に参与を辞することになる。その経緯を説明した文章(本書巻末資料)に、彼のスタンスが明瞭に示されている。

 政府が、自らの判断で、それらを取り組むべき"課題"と位置づけ、かつアドバイスを求めてくれるなら、再びその"課題"を遂行するために喜んで協力させていただくし、他の"課題"を設定して、その"課題"の遂行のために他の人のアドバイスを必要とするなら、それもそれでまったくかまわない。私にとって大事なことは貧困問題が改善することであり、在野であろうと政府の立場であろうと、それぞれにできることとできないことがある以上、またどちらの立場になろうと社会活動も政策提言もともにやっていく以上、参与であるかどうかが決定的な意味を持つとは思えないからです。

 最近、どんな立場になっても、やっているのは結局「隅(コーナー)のないオセロのようなものだ」と感じるようになりました。オセロでは、隅(コーナー)を取れば、一気に多くの石(コマ)をバタバタとひっくり返すことができます。外にいるときは中に入れればそれができるような気がし、中にいるときは外に出たほうがもっと思い切ったことができるような気がする。しかし、おそらくはどちらも幻想で、現実はどこにいようと「隅(コーナー)のないオセロ」なのだと思います。一気にどんとひっくり返せるような魔法はなく、一個ずつ地道に反転させていくしかない。

 現在、私はそのように思っています。 (p. 164)

 1個ずつしかひっくり返せないと特別に厄介なオセロを続けるしかない、という現実認識がそのまま覚悟となる、そんなふうに表明しているのだ。
 ひっくり返すべき1個ずつのオセロの、その手続きを次のようにまとめている。

(1) ともすると「取るに足らない問題」と片付けられがちなこの課題を、実態に見合った大きさで理解してもらい、向き合ってもらうために、より多くの入たちに働きかけていくこと。一対九の世論を二対八、三対七に転換していくこと。最善を求めて一歩ずつ進んでいくイメージです。
(2) 同時に「十分な世論形成ができるまでは、何もできません」では話にならないので、たとえ一対九だとしても一割分、あわよくば二割分、二対八だとしても可能なら三割分というように、現実の調整過程にコミットして、一歩でも半歩でも実態に追いつくように政策を実現させていくこと。
(3) 上記二つの派生型として、八割九割の世論をバックに、何か自分が望ましくないと感じられる政策が進められようとするときに、「政府が悪いことをやろうとしている」で済まさないこと。その八割九割の世論に働きかけるとともに、それが容易に変わらないときには、一割でも二割でも自分たちの意見を残すように、調整過程にコミットすること。最悪を回避するために、わずかでも自分たちの主張を「すべりこませる」イメージです。
 一億二千万の相異なる「民意」があり、その中には自分と異なる意見を持っている人のほうがはるかに多いということを前提に、最善を求めつつ同じくらいの熱心さで最悪を回避する努力をすることが必要です。 (p. 20-1)

 ここには「正しい」政治思想に導かれて社会変革、革命に向かおうとしてきたかつての社会運動とは別種の思想がある。というよりは、具体的に苦しみつつ生きている人間に寄り添って立ち上がる社会運動のもっとも純粋な初発の契機、政治党派や政治イデオロギーに汚される前の形だけがある、というべきか。 

 オセロを一個ずつひっくり返すように社会を変えようとする湯浅にとっては、現実の日本社会はまったく対極的な意思に満ちているように見えているに違いない。小泉純一郎や石原慎太郎、そして橋下徹の選挙に典型的に見られる「ヒーロー願望」としての投票行動である。ヒーロー願望とは、ぐだぐだ言ってないでばっさりと改革を断行してくれ(「利害調整の拒否」 (p. 24) )、という願望なのだ。結果として、強い言葉で煽り立てるタイプの政治家に票が集まる。それは、民主主義という政治システムが抱え込んでいる欠点のなかでも絶対に忌避すべき最悪のケース、ポピュリズムの台頭と全体主義への転落へと進むのだ。

 だから、その心理は二つの点で問題があります。
 一つには、直接にか間接にかはともかく、私たち自身の、ひいては社会の利益に反すること。気づいたら自分がバッサリ切られていたという、その話です。
 二つには、多くの人が大切にしたいと思っている民主主義の空洞化•形骸化の表れであり、またそれを進めてしまうという点です。
 そしてこの二つの問題点は相互に深く結びついている、と私は考えています。両者を結びつけているものが格差・貧困問題の深まりです。 (p. 69)

 湯浅は、ヒーロー願望の蔓延には根底には、やはり拡大する格差・貧困があると見ている。前著を引用して日本社会を次のように捉えている。

 少なからぬ人たちの"溜め"を奪い続ける社会は、自身の"溜め"をも失った社会である。アルバイトや派遣社員を「気楽でいいよな」と蔑視する正社員は、厳しく成果を問われ、長時間労働を強いられている。正社員を「既得権益の上にあぐらをかいている」と非難する非正規社員は、低賃金・不安定労働を強いられている。人員配置に余裕のない福祉事務所職員とお金に余裕のない生活保護受給者が、お互いを「税金泥棒」と非難しあう。膨大な報告書類作成を課されて目配りの余裕を失った学校教師が子どものいじめを見逃す。財政難だからと弱者切捨てを推し進めてきた政党が、主権者の支持を失う。これらはすべて、組織や社会自体に"溜め"が失われていることの帰結であり、組織の貧困、社会の貧困の表われに他ならない。 (拙著『反貧困』岩波新書、二〇〇八年)  (p. 71)

 日本型民主主義の貧しさとしての格差・貧困が、いっそう民主主義を困難にしている。そして、格差・貧困問題から湯浅的民主主義理解が立ち上がって来るのだ。

 単純に言って、朝から晩まで働いて、へとへとになって九時十時に帰ってきて、翌朝七時にはまた出勤しなければならない人には、「社会保障と税のあり方」について、一つひとつの政策課題に分け入って細かく吟味する気持ちと時間がありません。
 子育てと親の介護をしながらパートで働いて、くたくたになって一日の家事を終えた人には、それから「日中関係の今後の展望」について、日本政治と中国政治を勉強しながら、かつ日中関係の歴史的経緯をひもときながら、一つひとつの外交テーマを検討する気持ちと時間はありません。
 だから私は、最近、こう考えるようになりました。民主主義とは、高尚な理念の問題というよりはむしろ物質的な問題であり、その深まり具合は、時間と空間をそのためにどれくらい確保できるか、というきわめて即物的なことに比例するのではないか。 (p. 85)

 ヒーロー願望現象の典型として、著者は〈第2章 「橋下現象」の読み方〉という章を立てて論じている。そこで語られるのは政治システムに対する不振としての「政治不信」、「議会制民主主義や既成政党そのものがダメなんだ」というふうに問題の設定が変わってしまったような政治不信についてである。橋下徹は、「現在の政治システムや既成政党そのものがダメなんだ」と煽る政治家であることはよく知られており、彼の支持はいわばヒーロー願望に落ち込むように、つまり民主主義を否定的に利用するように進められた結果としてある。著者は、問題点の在りようとしての橋下現象に関心を示しつつも「最終的には私は橋下さん個人には興味はありません」 (p. 62)と断言する。

 本書は、自ら政治過程に参加せず、つまり自らの思考を放棄して(そうなってしまう切実な理由があるとしても)、ヒーロー願望に落ち込んでしまうマジョリティを抱える日本社会への切実な危機意識に突き動かされて書かれている。そして、その私たちへの篤実な呼びかけ、説得にあふれている。

 介護に追われているからこそ、介護サービスや介護制度のことなど考えられない――その人の抱えている問題を改善するのが「私の仕事」かと問われれば、多くの人は「私のせいじゃないよ」と答えるでしよう。
むしろ多くの人たちは、「それは制度の問題だろ」「役所の問題だろ」と答えるのではないかと思います。
  ………
 だから改めて確認しておきたいのですが、「制度の問題だろ」「役所の問題だろ」という言い方は、つまり自分が払うか、誰かに払わせるか、それを決着させられなければ、結果的には誰かにしわ寄せをしたままの状態を放置することになる、ということです。 (p. 108-10)

 社会とは、そもそも巨大な無縁社会です。日本社会は、血縁を異にし、地縁を異にし、社縁を異にする人たちで構成されています。それ以外でつながる方法が思いつかないという社会が分裂してしまうのは、いわば当然です。そこで要請されてきたのがナショナリズムです。
 しかしナショナリズム(国民主義、民族主義)は、無縁の縁づくり、人々の関係調整と合意形成のスキルとノウハウの蓄積に基礎づけられていなければ、容易に単なるナショナリズム(国家主義)に転じ、ときに人々を抑圧するものになってしまいます。
 だからそれは、「大変な人にやさしくしてあげましょう」という単なるモラルの問題ではない。社会を社会として機能させる、民主主義を民主主義として機能させるために必要不可欠なものです。そして創造的生産性とも対立しない「小さいこと」のはずがありません。  (p. 149-50)

 ヒーローを求めず、小さな事柄でも自ら政治過程に参加し、それぞれの参加意思と創意工夫の繋がりがまた新しい力と工夫を生み出し、「自分たちで調整し、納得し、合意形成に至る」ようになる。
 そして、著者は次のように結ぶ。 

 「決められる」とか「決められない」とかではなく、「自分たちで決める」のが常識になります。
 そのとき、議会政治と政党政治の危機は回避され、切り込み隊長としてのヒーロー待ち望んだ歴史は、過去のものとなります。
 ヒーローを待っていても、世界は変わらない。誰かを悪者に仕立て上げるだけでは、世界はよくならない。
 ヒーローは私たち。なぜなら私たちが主権者だから。
 私たちにできることはたくさんあります。それをやりましょう。
 その積み重ねだけが、社会を豊かにします。 (p. 156)


『エル・グレコ展』 東京都美術館

2013年01月22日 | 展覧会

 エル・グレコである。言は費やされ尽くされているだろう。なにしろ、エル・グレコなのである。いわば歴史上の評価の定まった画家で、教科書に占める位置も落ち着いている。そのような画家を、私(たち?)はなぜか理由もなくわかったつもりになっている。世間の知をあたかも自分自身の知であるかのように思いなしているのだ。知の擬態である。
 見終わって、帰宅する新幹線の中で図録を眺める。なんと内外の9人もの論者が解説やら評伝やら絵画論などを書いているのである。これもまた、グレコならではと言うべきである。

 展示は、「肖像画家エル・グレコ」、「肖像画家としての聖人像」、「見えるものと見えないもの」、「クレタからイタリア、そしてスペインへ」、「トレドでの宗教画:説話と祈り」、「近代芸術家エル・グレコの祭壇画:画家、建築家として」というカテゴリーに分けて、順に展示してある。なお、文中のページは、図録 『エル・グレコ展』(NHK、NHKプロモーション、朝日新聞社、2012年)における引用箇所を示す。

       
       左:《燃え木で蝋燭を灯す少年》 1571-72年頃、油彩、カンヴァス、60×49 cm、コロメール・コレクション [p. 35]。
       右:《白貂の毛皮をまとう貴婦人》 1577-90年頃、油彩、カンヴァス62×50 cm、グラスゴ一美術館(ポロック・ハウス) [p. 39]。

 「肖像画家エル・グレコ」のコーナーで印象深かったのは、グレコの肖像画としては珍しい無名の二人の肖像画である。ひとつは《燃え木で蝋燭を灯す少年》で、文字通り、暗闇の中で息を吹きかけながら、蝋燭に火を灯そうとしている一人の少年の絵である。肖像画というカテゴリーがふさわしいかどうかすら問題になりそうな絵である。
 「後の力ラヴアッジョ派の夜の室内画を思わせるような、光の劇的な効果に主眼を置いた作品」 [p. 34] と解説にある。カラバッジョに限らず、ワルトミューラーの風俗画などの光の使い方、闇を含む構図の絵に、私は引かれる。 それに加えて、はっきりした物語性は描かれていないものの、何らかの物語(それがどんな物語かは措くとしても)の始まる予感が感じられて、私の感情が揺すぶられるのだ

 もうひとつの肖像画は、《白貂の毛皮をまとう貴婦人》 である。きわめて美しい人であるが、誰を描いたのかわからないのだという。美しい顔の、その肌の描き方にグレコらしからぬ異質なものを感じる。ほとんどの人物の顔には、荒い筆遣いの跡が見られるのだが、この絵にはそのような跡は見えず、肌はきわめてスムーズに描かれ、人物の美しさを際立たせている。荒い筆致は晩年の作品に多いといわれるが、特に初期の作品というわけでもない。ただ、最近、この絵はグレコの手になるものではないという説があって[p. 38]、興味がもたれる。

       
           左:《悔悛するマグダラのマリア》 1576年頃、油彩、カンヴァス、156.6×121cm、
                ブダペスト国立西洋美術館 [p. 83]。右:部分拡大図。

 次のお気に入りは、「肖像画家としての聖人像」にカテゴライズされている《悔悛するマグダラのマリア》である。理由は明確で、マリアの顔の美しさにまいったのである。とくに、眼である。しっかりと見開き、悲しまず喜ばず、ひたすら天を見つめるその眼である。言い訳がましく言えば(つまり、言い訳だが)、女性の顔の美しさだけが私の美の審級ではない。人物をその実在の(社会性の、あるいは宗教上の)意味において美しく描くことができるグレコの画力のことを言っているのである(ほんとうか?)。

 マグダラのマリアは、宗教画に登場する回数の多い人物である。罪人であり病人であるマリアは、キリストに救われ、「その後、彼に最も近い弟子の一人として磔刑や埋葬に立ち会い、復活の第一の目撃者となった」[p. 82]人物なのである。 

       
        左:《十字架のキリスト》 1610-14年頃、油彩、カンヴァス、95.5×61cm、国立西洋美術館、東京 [p. 129]。
        中:《十字架のキリスト》 1600-10年頃、油彩、カンヴァス、82.6×51.6cm、ゲッティ美術館、ロサンゼルス [p. 143]。
        右:《洗礼者聖ヨハネ》 1605年頃、油彩、カンヴァス、105×64 cm、バレンシア美術館 [p. 141]。 

 次は、宗教画の中心、キリストの磔刑図である。図録の解説で、左の《十字架のキリスト》について、グレコの宗教画全般に関わる重要な指摘がなされている。

 ここでエル・グレコは、頭を垂れた死せるキリストが3人のマリアなど数多くの目撃者たちに囲まれた演劇的表現——ジョット以来の伝統であり、ティントレットがその最も壮大な解釈者の一人であった——に背を向けている。すでに指摘されているとおり、まだ生きているキリストが天を見上げる姿は、ミケランジェロがヴイツトリア・コロンナに贈った有名な素描による《磔刑》に基づき、それを左右反転させたものである。しかし、ミケランジェ口のキリストがまだなお死の苦痛に悩み身をよじらせているのに対し、エル・グレコのキリストは、むしろ肉体的苦痛を超越した法悦の表情を見せる [p. 128]

 グレコは、宗教画を描く際、信仰の喜び、希望や救いを信者である鑑賞者が汲み取れるように意を砕いているようである。

 ふたつの《十字架のキリスト》はともに荒い筆遣いで描かれているが、中の絵のキリストの身体だけは筆致がスムースで、《白貂の毛皮をまとう貴婦人》の筆遣いと共通性があるように見える。キリストを描いたいくつかの絵にこのようなスムーズな筆遣いが見られるようだ。グレコの中で、何に基づいて筆遣いの違いが現れるのか興味深いが、今のところ、私には手がかりがない。       

 左の《洗礼者聖ヨハネ》は、私の趣味で選んだ。洗礼者ヨハネもまた聖母子像などに登場する頻度の多い人物である。同じような家系に生まれながら、一人は救世主となり、ひとりはその洗礼者となる。祝福される聖母子の脇にたたずむ幼子としてヨハネは描かれるのである。その立ち位置を、私は愛しいと思うのだ。ただの判官贔屓としてのヨハネ贔屓なのである。
 この洗礼者ヨハネ像については、次のような解説が付されている。

「AGNVS DEI (神の小羊)」と書かれた布切れを伴っている。この銘文は、小羊が「過越の小羊」、つまり罪人の贖罪と信徒の救済とのためにやがて自らの命を捧げるキリストであることを示している。 [p. 140]

 この《洗礼者聖ヨハネ》もそうなのだが、グレコの宗教画に登場する人物は、マニエリスム風の異様な長躯で描かれる。これは、グレコの宗教画が教会に飾られ、信者の崇敬の対象になるという実用的(?)な目的があるためだという。人々が下から見上げて眺めることを想定して描かれているというのだ。そのため、地平線は逆に異様に低く描かれることになる。

       
        左:《受胎告知》 1600年頃、油彩、カンヴァス、114×67 cm、ティッセン=ボルネミッサ美術館、
            マドリード [p. 111]。

        右:《福音書記者聖ヨハネのいる無原罪のお宿り》 1595年頃、油彩、カンヴァス、236×117 cm、
            サンタ・レオ力ディア・イ・サン・ロマン教区聖堂(サンタ・クルス美術館寄託)、トレド [p. 149]。

 上の二つの絵は、グレコらしい華麗な荘厳さというべき宗教画だが、私にとってはその宗教概念に強く引かれた。《受胎告知》は、多くの画家に描かれ続けてきた(いる)テーマであるが、受胎告知の場面には、2種類あるのだという。多くは、大天使ガブリエルが受胎を伝える場面であるが、この《受胎告知》の場面は次のようなことだという

大天使ガブリエルは胸に両腕を交差させて、マリアにすでに崇敬を捧げている。したがって本作は、大天使による受胎告知の後、マリアの胎内で神の言葉が肉となった受胎の瞬間に焦点を当て、托身の神秘そのものを主題としていると考えられる。托身の神秘それ自体の絵画化とは、不可視なものを可視化する試みといえ、そのため自然主義に代わって案出された独特の表現手法は、本作をイタリア滞在期の同主題画(cat. no. 29)と比較することによって、浮き彫りにすることができよう。 [p.110]

 言葉が受肉した、というのである。ロゴスがマリアの中で肉体化する。なんという哲学的な美しさをもつイメージだろう、と私は一人で感心してしまったのである。

 《福音書記者聖ヨハネのいる無原罪のお宿り》は、「聖ヨハネがギリシアのパトモス島で体験し、『ヨハネの黙示録』に記した幻視が表されている」 [p. 148] のだという。わたしは、「無原罪のお宿り」という宗教概念を知らなかった。処女懐胎でイエス・キリストは生まれてくるが、カソリックの教義では、マリアもまたその母の無原罪の懐胎によって生まれてきた、というのである。このあたりに、キリスト教宗教画におけるマリア像の異様な偏重を訝っていた私への回答があるのかもしれない。

 結論、予想通り、私はグレコの絵を何にもわかっていなかったのである。そのことだけはしみじみとよくわかった。


『DOMANI・明日展2013』 国立新美術館

2013年01月21日 | 展覧会

 「DOMANI・明日展」は、文化庁による海外派遣事業によって派遣された作家の成果発表の場としいて開催され、今年で15回目になるという。今回は、近年、美術部門で派遣され、これまでの「DOMANI・明日展」に未出品の作家から、曽根裕、米正万也、塩田千春、神彌佐子、橋爪彩、行武治美、澤田知子、糸井潤、平野薫、青野千穂、池田学、小尾修の12名の研修の成果発表として開催されている。もちろん、どの作家も私には未見の芸術家である。
 分野、表現手法が多様なので、私の受容範囲を超える作家が多いということもあって、ここでは印象に残ったいくつかの作品だけに限って触れてみる。引用の中のページは、図録『DOMANI・明日展2013』(文化庁、2013)に掲載されている箇所を示す。

 会場は、作家ごとに区割りされた小部屋に展示されている。最初の部屋は、神彌佐子(日本画、派遣年/2006年度、派遣国/フランス、1962年生まれ)の作品群で、そのほとんどは華麗な印象を与える抽象画である。抽象画ということから、神は洋画部門の作家だろうと思っていたが、分野は日本画ということであった。
 たしかに、画材は紙本、墨、顔料など日本画のそれを用いている。考えてみれば、洋画に抽象と具象があるように、日本画にも抽象と具象があってもよいはずだが、理由もなく日本画は具象と思い込んでいた。

          
          神彌佐子 《stride 2012》 2012年、麻製蚊帳、楮紙、墨、顔料、箔、他、400.0×730.0cm [p. 57]。

 紙本着色の作品群の最後に、蚊帳に楮紙を貼り込んだインスタレーシヨン作品《stride 2012》が展示されている。50年前の蚊帳だそうである。蚊帳という透ける素材のせいか、紙本着色の作品より一段と幻想的な華麗さが表現されていて、目を引いた。

 橋爪彩(油彩、派遣年/2006年度、派遣国/ドイツ、1980年生まれ)は、私には不思議な作家である。 

       
         左:橋爪彩 《Toilette des Filles》 2011-2012年、油彩、パネル、112.0×162.0cm、個人蔵 [p. 65] 。
         右:橋爪彩 《Toilette des Filles 2》 2012年、油彩、パネルにエマルジョン地、130.3×194.0cm [p. 63]。

 はじめに左の《Toilette des Filles》を見て、マネキンと人間を写した写真作品だと思ってしまったのである。そして、《Toilette des Filles 2》は、同じ二人の違った構図の作品だろうと見当をつけたのだが、どちらがマネキンか生身の人間か、わからなくなってしまった。愚かなことに、作品脇に「油彩、パネル」と明記されていたにもかかわらず、しばらく二つの作品を見比べながら考え込んでしまったのだった。

 マネキンのような皮膚感、目は必ず隠されていてけっして人間らしい表情というものが表出されない顔、それでいて極度にリアリティの高い身体の陰影、そういうことがらのすべての不思議に惹かれる作品群である。図録解説に「不安とエロティシズムを圧倒的な描写力で描き異彩を放つ」 [p. 58] とある。

        
         糸井潤 《Cantos Familia》 2011-2012年、アーカイバルピグメントプリント、90.0×90.0cm [p. 87]

 糸井潤(写真、派遣年/2009年度、派遣国/フィンランド、1971年生まれ)の写真作品群は、フィンランドという緯度の高い北欧の闇、あるいは闇の中のかすかな光を表現しようとしているように見える。
 《Cantos Familia》は、高度の低い太陽が月に見えるほどに弱い光をさしている森の写真である。焦点は手前の草に厳しく制限され、幻想性を際立たせている。

 《Kaamos》は、人の住む空間の写真で、なかでも下の写真に心を奪われる感じがした。とりわけ、珍しい光景ではない。闇の中の人が通る圧雪の道、街灯でスポットライトで照らされているように浮かびがる雪をまとった潅木、向こうには一部に暖かそうな火影を宿した建物。そう、とりたてて何かではなく、人が暮らす場所にこのような美しい光の配置があることを描き出していて見事である。
 なお、作者によれば、Kaamosとは極夜の事で、太陽が全く昇らない時期を指すフィンランド語だという[p. 90]。

         
          糸井潤 《Kaamos》 2011-2012年、アーカイバルピグメントプリント、65.7×97.5cm [p. 90]。

 細部を徹底的に描きこむ緻密な描写は、池田学(ペン画、派遣年/2010年度、派遣国/カナダ、1973年生まれ)の特徴で、そのモティーフには社会や歴史に対する批評性に満ちているように見える。

                      
                      池田学 《巌ノ王》 1998年、ペン、インク、紙、195.0×100.0cm、
                         おぶせミュージアム・中島千波館蔵 [p. 114]。  

 《巌ノ王》は、芸大卒業制作でまだ社会や歴史へのコミットメントが希薄な時代のようであるが、描法はすでに確立されている。山岳部で登った山々の記憶をもとに描かれた空想の岩山ということだが、岩の〈王〉であるということは、岩の多種、多様性を内包しつつ自ら体現する〈巌〉でなければならないという〈王〉概念に基づいていると思えるほど、さまざまな岩の形態と質が細密に描きこまれている。 

            
  池田学 《漂流者》 2011年、ペン、インク、紙、61.0×61.0cm、個人蔵 [p. 121] 。

 《漂流者》は幻想的で美しい作品だが、作者はこう記している。

震災後、バンクーバーで優雅に漂うクラゲを見た。津波で流された人達が巨大なクラゲの体内で生き延び、生活を再建している。悲しすぎる現実に、せめて絵の中だけでも希望をとの願いを込めて描いた作品 [p. 121]

 〈3・11〉で何人かの知人、友人を失った東北で生まれ育った私には、美しいが切実な作品である。

          
 小尾修 《跡》 1992年、油彩、テンペラ、キャンバスにエマルジョン地、162.0×194.0cm [ p. 124] 。

 小尾修(油彩、派遣年/2010年度、派遣国/フランス、1965年生まれ)は、極めて写実性の高い画家である。本人の言によれば、「現実と作品とが明らかに異質なものである以上、完全な再現というものはあり得ない。そこには必ず「置き換える」、「切り取る」といった作家の意思、解釈が伴う。それは全く機械的な作業とは異なる領域を持つものだ」[p. 124]という。

 《跡》の前に立つと、こちらを見つめている少女の顔から目が離せなくなる。これは《空き地》という作品でも同じであった。茶褐色に塗られた波板トタンで囲まれ、フォークリフトが置かれた工場の裏手のような空き地で、青年が低い椅子に腰掛けてこちらを見つめている。その青年の顔から目が離せなくなる。青年も少女も取り立ててなにがしかの感情を表しているわけではない。かといって無表情でもない。そこにいて生きている人間がただ普通にこちらを見つめているだけである。これが、優れた写実の持つ力というものであろうか。

          
 小尾修 《休息》 2004年、油彩、キャンバスにエマルジョン地、97.0×162.2cm、倉吉博物館蔵 [p. 125] 。

 《休息》は寓意に満ちた作品のように思えるのだが、私には何の寓意なのかはまったくわからない。頑丈そうな編上げ靴、無造作に置かれた上着とバッグ、1個の林檎、そして渡りの途中のような1羽の鳥。人はこのような狭い不安定な岩上で安らぐのか。なにもかも寓意的で心惹かれる美しい絵である。
 ありていに言えば、私はこういう絵が好きだ。

 


『会田誠展:天才でごめんなさい』 森美術館

2013年01月21日 | 展覧会

 面白い。「面白い」という形容は多義的で、何かを言った気がしないが、今はこの言葉しか思い浮かばない。会田誠は面白い。会田誠の作品群は面白いのだ。
 じつのところ、「現代アート」などと形容されたり、括られたりする芸術作品には幾分腰が引けてしまうのだ。なぜかと問われても困るのだが、青少年期の芸術の受容環境と受け手の受容能力の発達に問題があったと言えば、おそらく間違いはないが、これまた何事かを語ったことにならない答えである。
 しかし、会田より上の世代の「具体」という抽象芸術グループの展覧会のときもそうだったが、恐る恐るそのような展覧会会場に足を踏み入れたときでも、感動したり驚いたりして、幾分の興奮を抱いて会場を後にすることになる、そういうことがたまにある。今回も、それを期待して新幹線に乗ったのだ。

 会田誠の「面白さ」の源泉はどこにあるのだろう。展覧会の主催キュレーターである岡真実は、それを「混沌」だと言う [1] 。「それはそのまま、日本社会の文化の複雑さ、多面性、矛盾、多義性のマイクロモデルのようにも見え」てくるというのである。
 じつに多種多様なイメージが会田誠の想世界に詰め込められているのだ。ヴァラエティに富んでいる。それは想世界が広いというのとは少し違う。1歩、歩を進めれば見える世界が一変する。そして。そのイメージの変化は断絶といってもいいほど激しい。だから、その変化するイメージを全部集めてみると「取り止めがない」のだ。
 私の中で最もしっくりする表現は「diversity」である。それは多様性と言ってもいいのだが、多時間性、多次元性あるいは発散を含むようなイメージである。私たち鑑賞者は、会田のひとつのイメージ世界からもうひとつのイメージ世界へ(作品から作品へ、あるいは作品群から作品群へ)空間的に、時間的に歩を進める。異なった二つの作品(群)のイメージには鋭い断絶のような変化があって、いわば世界が1次の相転位を起こしているように変化する。だから、私たちの歩みに沿って位置微分しても時間微分しても相境界では発散するのだ。このような比喩でもまだ十分ではない。そもそも、作品群が微分可能な関数系になっていると仮定していいのだろうか。うまく説明がはまらないが、それほど「diversity」が激しいということだ。

            
            《あぜ道》岩顔料、アクリル絵具、和紙、パネル、73×52 cm、1991、豊田市美術館蔵 [2] 。 

 断絶だとか1次相転移だとかは作品間(作品群間)の話であって、ひとつの作品の中にはありうべからざる連続が描かれることがある。たとえば、《あぜ道》である。
 いつだったか思い出せないのだが、この作品はどこかで見たことがある。山下裕二が指摘するように、個展のポスターに使用されたらしいので、それを見たのかもしれない。きわめて自然に見える「異常な連続性」なのである。その不思議な自然さは、おそらく無批判に受容してきたごく常識的な(つまり、評価の定まった)絵画の構図を密輸入のようにしてはめ込んでいるからであろう。山下は、《あぜ道》を評して、次のように述べている。

 《あぜ道》は当時、彼が所属するミヅマアートギャラリーの所蔵だったが、その後、豊田市美術館が購入し、いまでは美術の教科書にも掲載されているという。なんと、アルチンボルド(1527-1593)の作品と並べて、トリックアート的な作品として掲載されているらしい。
  ……
 私は、このチラシの画像を見て、すぐさま戦後における「国民画家」という呼称を与えられ、最高の権威として奉られている日本画家、東山魁夷(1908-1999)の《道》(1950年)のパロディーであることを了解した。だが、いわゆる現代美術の世界の人たちが、このある意味単純なパロディーの基本を、発表当時にどれほど理解していたか [3]

 ウイーンかどこかでアルチンボルドの絵をいくつか観たことがあるが、アルチンボルドと会田誠に共通性はないと思う(いや、彼のdiversityのどこかにアルチンボルド的イメージ世界があって、私がそれを見つけられないということかもしれないが)。

    
      
《美しい旗(戦争画RETURNS)》襖、蝶番、木炭、大和のりをメディウムにした自家製絵具、
          アクリル絵具、各169×169 cm、二曲一隻屏風、1995、個人蔵 [4] 。 

 「戦争画RETURNS」と名づけられたシリーズ作品を見ていて、もうひとつ、会田誠作品を形容する言葉を思いついた。「脱構築」である。右からであれ左からであれ、戦争ほどその物語性、思想性、情緒性などが激しく構築されてきた事象はないだろう。そうした事柄、心性をいっさいチャラにして、戦争を知らない世代として戦争画を描く。そうして、無視されてきたのか拒絶されてきたのかは措くとして、異様に見える「あたりまえさ」が見えてくる。
 たとえば、《美しい旗(戦争画RETURNS)》における侵略する国と侵略される国の等価性(逆転可能性と言ってもいい)である。この絵は、明らかにドラクロワの《民衆を導く自由の女神》のパロディーだが、日本と朝鮮(どの国名を指定すればよいのか私にはわからないが)の等価性である。ゼロ地点から眺めれば、この絵は新しい物語を生み出すだろう。可憐さと凛々しさの対比から、たとえば私は、内向きのナショナリズムが持つ脆弱さと大陸での相互侵略に明け暮れた歴史が生み出す強靭なナショナリズムを見たりするのだ。しかし、この絵がそう語っているわけではない。私という鑑賞者がそのように感受する契機としてこの絵はある。たぶん、多様な感受の契機としてこの絵は働くのではないか。

    
     
《紐育空爆乃図(戦争画RETURNS)》襖、蝶番、ホログラムペーパーにプリントアウトしたCGを白黒コピー、
        チャコールペン、水彩絵具、アクリル絵具、油性ペン、事務用ホワイト、鉛筆、その他、169×378 cm、
        六曲一隻屏風、1996、個人蔵 [5] 。

 《紐育空爆乃図(戦争画RETURNS)》もまた、恐るべき等価性の表現である。太平洋を挟んでアメリカ合衆国と日本が戦争する。東京大空襲があったように、ニューヨーク大空襲があってもおかしくないはずだ(本来、一方だけが攻撃する戦いは戦いとすら呼べないのだから)。
 山下によれば、この絵は「マンハッタンの情景をかなり忠実に、しかし、パースペクティブによらず、奥行きの線を平行に描く構成は、明らかに《洛中洛外図屏風》を下敷きにしたもの」であるらしい [6] 。会田の絵は、このような仕掛けがあって、古今東西の絵画に詳しくない私は悩まされるのだが。 

 《紐育空爆乃図(戦争画RETURNS)》は、当然のことながら、アメリカ合衆国が発狂したのではないかと思えるほどの結果をもたらした〈9.11〉を思い起こさせる。〈9.11〉に関連してデヴイッド・エリオットが興味深い事実を記しているので、少し長いが引用しておく。 

 会田の次なるニューヨ一クとの出会いは、ローレンス•リンダーがキユレーターを務めた「アメリカン・エフェクト:アメリカについてのグローバル的視点1990—2003」に参加した2003年である。展覧会は、〈9.11〉以降のアメリカに広がる保守的な動きへの反応を表したものだった。リンダーが選んだ「戦争画RETURNS」シリーズの中でも最も大きい作品のひとつ《紐育空爆之図(戦争画RETURNS)》(1996年、pp. 68-69)は、観客に確かな衝撃を与えた。1945年の大空襲によって破壊された東京を思わせる、幅約4メートル、六曲一隻で作られた完璧な屏風絵には、200機にも及ぶ輪郭だけの影のような第二次世界大戦時の零戦が、爆撃され炎を上げるマンハッタンのダウンタウンの上空を、際限なく8の字を描いて飛んでいる。会田はこの作品をワールドトレード・センターのテロ事件が起こる5年前に制作しており、見当違いのナショナリズムを表した作品ではないことをはっきりと明言した。しかしそのイメージの強さとアンチ・アメリカ主義的な批判は、批評家たちによって展覧会全体と関連づけられ、会田の主張はかき消された。 [7]

 書き難いこともあるのかもしれないが、この文章の最後のあたりは少しあいまいである。当時(今も続いているかもしれないが)のアメリカ合衆国における言論の状況については、ジュディス・バトラーが次のように書いている。そのようなことから、会田誠の絵がアメリカでどのように受容されたか、されなかったか、ある程度の想像はできよう。

「九月一一日にはどんな口実もありえない」という叫びが、こうしたテロ行為を可能にした世界を作るのにアメリカ合州国の外交政策がどう手助けしてきたかについての真摯な公的議論をすべて押し殺してしまった。このことをもっとも如実に示す例が、よりバランスのとれた国際紛争の報道の試みが放棄され、アメリカ合州国の軍事政策に対するアルンダティ・ロイやノーム・チョムスキーのような重要な批判が、アメリカの主要新聞から軒並み追放されてしまったことだ。(……)きわめて深刻なことに、異議申し立てを現代アメリカ合州国の民主主義的文化の重要な価値と見なす考え方そのものが疑われるようになったのである。 [8]

     
       
左:《火炎縁雑草図》岩顔料、アクリル絵具、インスタントコーヒー、和紙、パネル、木材、
          190×218 cm、1996、個人蔵 [9] 。
       右:《火炎縁蜚蠣図》金箔、墨、岩顔料、和紙、パネル、木材、190×218 cm、1996、
          個人蔵 [10] 。

 

  《火炎縁雑草図》は、構図は異なるものの琳派の絵を意識しているのだろう。しかし、空白を重用する日本画をパロディー化すると《火炎縁蜚蠣(ごきぶり)図》になるのであろうか。金箔が全面に張られ、あたかもそのすべてを空白とするかのように、小さな(ほぼ実物大の)ゴキブリが精密に描かれている。全面金箔張の江戸趣味的な豪勢さに極小の黒ゴキブリ1匹である。唖然としながらも心惹かれるのである。
 だから、《火炎縁ごきぶり図》と《火炎縁雑草図》を並べて置くと、日本画としてどこかにありそうで、それでいてそんな日本画は思いつかない、そんな《火炎縁雑草図》を、どう観ても日本画のど真ん中ではないかと思い込みそうになるのである。

             
              
《高過ぎる日の丸(「みんなといっしょ」シリーズより)》紙にインクジェットプリント、
                    c. 150×110 cm、2003/2012、豊田市美術館蔵 [11] 。

 あっさりと単純な構図の《高過ぎる日の丸》は、きわめて刺激的である。「高過ぎる日の丸」は何の寓意だろう。左上の人物は、どこにロープを引っ掛けて自殺をしているのだろう。日の丸が高ければ高いほど、人は高みで自死できるのだろうか。それとも、日の丸がどんなに高すぎても、所詮、首吊りロープを引っ掛ける梁の高さほども高くはなれない、という暗示だろうか。
 あまり、構図のシンプルなこの絵に饒舌としての言葉を無用だろうけれども、激しく多弁な反応を呼び起こしそうである。

              
                   
《37階のママチャリ(「みんなといっしょ」シリーズより)》 
                     紙にインクジェットプリント、c. 150×110 cm、2005/2012 [12] 。 

 《37階のママチャリ》もとても気になる絵である。高層マンションにも人が住み、暮らしがある。何の不思議もない。住人は車にも自転車にも乗るだろうし、時としては乗らないだろう。どちらであっても「普通」である。それでも、37階の玄関脇にママチャリが「在る」というのは、やはり気になる。せいぜい2階程度のイメージを37階にすっと置き換えて見せる。そこで生まれる異和が現代社会なのだ、ということか。

     
        
《人プロジェクト》アクリル絵具、キャンバス、インクジェットプリント、紙、197×89(×2) cm、
                 197×259 cm、2002、広島市現代美術館蔵 [13] 。

 作者の意図はどうであれ、《人プロジェクト》は至極まじめな所業としてあるのではないか。左右に英語と日本語で書かれたプロジェクトの進め方は熟読しなければならない。単純なプロジェクトの工程であるが、これはまた、人間が自然に加えてきた全歴史的工程の再現でもある。この工程をありとあらゆる場所で極限まで進めようとする資本とそれに対抗するエコロジストたちが等価に突き放されている。 
 「6 作品は完成後すぐに撤去しても、永久に設置しても、どちらでも構わない」。これはシニシズムではない、あるニヒリズムである。

 それにしても、私が受容しきれなかった作品はたくさん残った。会田誠の主要なモティーフのひとつである「美少女」というのが、さほど響かなかった。いや、《シンプル・オブ・100フラワーズ》 [14]  は美しいと感じたし、美少女の身体性についても考えされられた。躍動する裸の美少女たちの身体が部分的に毀れるとそこから無数の花(花であり、コインであり、宝石であり、菓子であったりはするが)が飛び散る。毀れた身体はと見れば、硬質の薄い皮膚1枚だけで身体は空洞なのであった。「器官なき身体」ですらないのだ。
 しかし、スクール水着姿(1部は制服姿)の美少女たちが滝のいたるところで遊んでいる《滝の絵》には、ほとんど感慨というものが湧かなかった。まず、中学生くらいの美少女にあまり私は感動しないらしい。まして、スクール水着にもセーラー服タイプの制服にもどうも何がしかの感情を際立たせられない。私のエロティシズム受容に欠陥があるのであろうか、と疑ってしまうのだ。
 美少女で哲学するビデオ《イデア》という作品もある。美少女のイメージを徹底的に昇華させる、徹底的に抽象化を行うと「美少女」という抽象概念になる。それは、「美少女」という文字だけで表象されることになる。ならば、私たちは「美少女」という言葉で性的刺激を受けるのではないか。そこで、壁に「美少女」と大書して、それを眺めながら芸術家は自慰にふけるのである。この作品を見て、大笑いした(展覧会場内なので声を出さずにだが)。そして、家に帰って、「なかなか勃起せず、撮影に時間がかかった」という意味のことが図録に書いてあったのを読んで、今度は声を出して笑ったのである。

 いずれにせよ、面白かったし、楽しかった。

 

[1] 岡真実「混沌の日本の会田誠」『会田誠展:天才でごめんなさい』(以下、図録)(森美術館、2012) p. 21。
[2] 図録、 p. 84。
[3] 山下祐二「偽悪者•会田誠――日本美術史からの確信犯的引用について」 図録、p. 186。
[4] 『会田誠第二作品集 三十路』(以下、作品集二)(ABC出版、2002) p. 21。
[5] 作品集二、 p. 12。
[6] 山下祐二、図録、p. 188。
[7] デヴイッド・エリオット「ものごとの表面――会田誠のドン•キホーテ的世界」図録、p. 199。
[8]  ジュディス・バトラー(本橋哲也訳)『生のあやうさ 哀悼と暴力の政治学』(以文社、2007) p. 22。
[9] 図録、 p. 94。
[10] 図録、 p. 95。
[11] 図録、 p. 149。
[12] 図録、 p. 173。
[13] 作品集二、 p. 24。
[14] 図録、 p. 51-4。

 


ノーム・チョムスキー(松本剛史訳)『アメリカを占拠せよ!』(ちくま新書、2012年)

2013年01月18日 | 読書

                  

 

 この本をチョムスキーの著作と呼んでいいのかどうかよく分からない。講演とインタビューの書き起こしを編集したものである。もちろん、チョムスキーの言説ではあることに違いはない。あの〈9・11〉後にも彼のインタビューをまとめた本『9.11』を読んだことがある [1] 。〈9・11〉後にチョムスキーがおかれた合州国の言論の状況について、ジュディス・バトラーが次のように述べている。

「九月一一日にはどんな口実もありえない」という叫びが、こうしたテロ行為を可能にした世界を作るのにアメリカ合州国の外交政策がどう手助けしてきたかについての真摯な公的議論をすべて押し殺してしまった。このことをもっとも如実に示す例が、よりバランスのとれた国際紛争の報道の試みが放棄され、アメリカ合州国の軍事政策に対するアルンダティ・ロイやノーム・チョムスキーのような重要な批判が、アメリカの主要新聞から軒並み追放されてしまったことだ。(……)きわめて深刻なことに、異議申し立てを現代アメリカ合州国の民主主義的文化の重要な価値と見なす考え方そのものが疑われるようになったのである。 [2]

 したがって『9.11』には合州国の主要新聞によるインタビュー記事はなかったし、この本にもない。だからといってチョムスキーが著作活動を封じられるということはありえず、その後〈9・11〉についての著書『覇権か、生存か』 [3] を私も読んでいる。 

 本書は、2011年9月19日にニューヨークで「ウォールストリートを占拠しろ(Occupy Wall Street)」という合い言葉のもとに1000人規模で始まった金融資本への抗議として展開した「オキュパイ運動」の解説であり、またオマージュである。加えて、2010年に亡くなった政治学者で社会運動家ハワード・ジンへの追悼をも含んでいる。

ノーム・チョムスキーはこう語っている。「『占拠せよ』運動は、過去三〇年間続いてきた階級間の対立に対し、初めて一般大衆が起こした大規模な反対運動だ」。二〇一一年九月一七日、ニューヨーク市で始まったこの自発的な大衆運動は、たちまち全世界へ拡大した。最初に占拠した場所はほぼ警察に排除されたものの、二〇一二年が明けるころには、運動はすでにテントによる空間の占拠から、国民の良心を占拠することへとその位相を移していた (編集者ノート、p. 9)

 世界経済を蹂躙した米国金融業界を吊し上げるべく始まったこのオキュパイ運動はきわめて象徴的にウォール街から始まり、9月19日の最初のデモから一か月もしないうちに全米30都市に広がった。そこには資産を占有する1%に対する99%の抗議の意志の強さと広がりが示されていた。
 その1%のプルトノミーと99%のプレカリアートについて、チョムスキーは次のように語る。 

 二〇〇五年にシティグループは、投資家向けにこんなタイトルのパンフレットを出しました。「プルトノミー――ぜいたくな暮らしを買う、世界でもまれな人々」。これは投資家に「プルトノミー・インデックス」への投資を薦めるための小冊子なのです。そこにはこうも書かれている。「世界は二つのブロックに分かれつつあります――プルトノミーとそれ以外に」
 プルトノミーとは富裕層、つまりぜいたく品やその他のものを買う人々を指しています。プルトノミー・インデックスは株価指数よりずっと効率がいいですから、皆さん、どんどん投資するべきですよ。あとの人たちのことは、正直どうでもいい。われわれには用がありません。ただし国を安定させるためには、いてもらわないとならない。われわれを守り、いざというときには救済もしてくれますから。でもそれ以外には、基本的になんの役にも立ちません、というわけです。昨今では、そうした層を「プレカリアート」と呼ぶことがあります。社会の周縁で「不安定な」生活を送る人たちという意味です。いや、もはや周縁ではありません。アメリカでも、そして他の国でも、社会の非常に大きな部分を占めるようになっている。しかもそれはいいことだと考えられているのです。 (p. 41) 

 そう、世界はたしかにいま、プルトノミーとプレカリアートに二分されている――オキュパイ運動がイメージとして描く「一パーセントと九九パーセント」に。完全に数字どおりというのではないが、全体像としては正しい。今はプルトノミーばかりが重視されています。そしてこのままの状態が、ずっと続きかねないのです。 (p. 42)

 プレカリアートについては、湯浅誠や雨宮処凜の活動や著作で日本でも知られるようになってきてはいるが、一般には社会の少数派としての貧困層という無理解の方が優勢だとおもう。実際には、湯浅がつとに指摘するように、貧困層はすでに日本のマジョリティになっている。問題は、湯浅が心配するように、その貧困にあえぐ人びとは政治的発言や政治参加が困難なほど生活に追われているということなのである [4] 。であればこそ、プレカリアートの抗議運動として捉えることのできるオキュパイ運動の持つ意味は、私たちにとっても極めて重要であると言うことができよう。

 アラブの春、オキュパイ運動、そして日本の〈3・11〉後の反原発デモは、大衆の抗議運動としてある共通性を持っている。それは組織化されていない個々の市民、大衆の運動であり、動員の手法としてフェイスブックやツィッターなどのソーシャルメディアが活用されているということにある。それは高度化した資本主義社会では既成労働組合やマスメディアは、(安冨歩流に言えば)明確に「体制派」であるということを意味しているし、これからはネグリ&ハートが主張するようにマルチチュードとして概念規定されうる市民の運動がもっとも重要な政治運動を担いうることを意味しているだろう。

 チュニジァでは、独裁者の追放、そして議会選挙の実施に成功し、現在は穏健なイスラム政党が政権を担っている。
 エジプトでは、さっきも言ったとおり、大きな前進はあったものの、軍事体制がまだ強大な権力を握っています。議会選挙は実施されるでしょう。すでに一部では行なわれています。選挙で躍進しているのは、一般国民の間で長年、組織化に努めてきたグループ――ムスリム同胞団やサラフィー主義者です。
 アメリカはまつたくちがう状況にあります。そうした大規模な組織化は実現しませんでした。労働運動は遠い時代に得た勝利を再び手にしょうと闘いつづけ、負けつづけてきた。
 革命という言葉ですが、空念仏でない「革命」を実現するには、国民の過半数が、既存の制度の枠組みのなかでもまだまだ改革が可能であることを認識するか、信じることが必要でしょう。しかし今のこの国には、そういった状況はかけらもありません。 (p. 79-80) 

 チョムスキーが合州国について語るとおりに、日本でも現時点では「空念仏でない「革命」を実現する」状況にはまったくない。しかし、オキュパイ運動や反原発抗議行動がもたらす直接的な意義については、国分功一郎が次のように語っている [5] 

 デモにおいては、普段、市民とか国民とか呼ばれている人たちが、単なる群衆として現れる。統制しょうとすればもはや暴力に訴えかけるしかないような大量の人間の集合である。そうやって人間が集まるだけで、そこで掲げられているテーマとは別のメッセージが発せられることになる。それは何かと言えば、「今は体制に従っているけど、いつどうなるか分からないからな。お前ら調子に乗るなよ」というメッセージである。 (国分功一郎『熱風』2012年2月号) 

 デモのテーマになっている事柄に参加者は深い理解を持たねばならないなどと主張する人はデモの本質を見誤っている。もちろん、デモにはテーマがあるから当然メッセージをもっている(戦争反対、脱原発…)。しかし、デモの本質はむしろ、その存在がメッセージになるという事実、いわば、そのメタ・メッセージ(「いつまでも従っていると思うなよ」)にこそある。このメタ・メッセージを突きつけることこそが重要なのだ。 (同上)

 メタ・メッセージを突きつける重要性に加えて、チョムスキーは運動の重要な「流れ」について次のように語っている。

 オキュパイ運動動を観察すると、大きな二つの流れが見られますが、そのどちらも重要なものだと思います。
 ひとつは、政策指向の流れです。こちらは、根元的な不平等をどうにかすべきだと考え、金融取引税を導入しよう、あるいは企業の法格を剝奪しょう、選挙資金を工面しようなどと、政策面で建設的な提案を数多く出していくもの。
 そしてもうひとつの流れは、私の考えではこちらがさらに重要なのですが、コミュニティをつくりだすということです。
    ……
 人々はほんとうに孤立しています。こうした状態は自然に生まれるわけではなく、途方もない労力を注ぎこんでつくりだされたものです。民衆を統制するには、ひとりひとりをばらばらに孤立させ、自分のことで精いっぱい、他の何にも関心をもてないという状態に追い込むのが一番いい。オキュパイ運動は期せずして、その状態から人々を解き放つものなのです。機会さえあれば、人は自然と交流するようになる。ズコシティパークでもこの近くのデューイスクェアでも、とにかくそういった場所に集まってくると、たちまち相互サポートと連帯から成るコミュニティをつくりだし、たがいに協力しあうようになります。 (p. 182-5)

 誤解のないように付け加えておくが、チョムスキーの語るコミュニティはけっしてソーシャルメディア上のバーチャルなコミュニティではなく、人々が集まる場所で対面しつつ形成されるコミュニティのことである。人々の孤立はソーシャルメデイアが提供するバーチャルコミュニティでは解消されないということだ。私には、いまや実空間とサイバー空間でのコミュニティの絡み合いが必須かつ重要であると思えるのだが、残念ながらその具体的な構造までは思い至らない。
 上の記述でチョムスキーが指摘した「政策指向の流れ」の一つとして、「企業の法人化の廃止」が挙げられている。 

 たとえば、つい二日前にニューヨーク市議会が、おそらくオキュパイ運動の影響を受けてのことでしょうが、企業の法人格に反対する決議を、満場一致(だと思います)で可決しました。この決議は、「企業には自然人が有する全面的保護や『権利』をもつ資格はない。とりわけ選挙の過程に影響を及ぼすために企業の資金を費やすことは、もはや憲法で守られた言論の一形式にはあてはまらない」ことを明確にし、連邦議会に「憲法修正の手続きを開始する」よう求めています。
 そう、これはじつに大きな影響を及ぼしうるものです。この国ではごく一般的な考え方ですし、さらに敷衍していけば、企業や国がつくりだした法的擬制に法外な権利や力を与えてきた一世紀にわたる裁判所判断を覆すことにもなるでしよう。国民はこの法的擬制を嫌っているし、嫌う権利もあります。すでに文言として表す方向に進みはじめていて、それが実際の行動につながっていくかもしれない。 (p. 81-2)

 企業から法人格を剥奪することが、たとえ決議の形とはいえ、ニューヨーク市議会で賛同されるほど理解が得られるものだとは、私はついぞ考えたことがなかった。現実の経済システムに疎い私には、それがアクチュアルな資本主義システムのどのような変更を強いるようなるか見当もつかないが、心臓部に匕首を向けたようなイメージが湧くのは単なる誤解なのだろうか。
 日本にもそのような動きがあるのかどうか、言説にあがるほどのリアリティがあるのかどうかも私には見当がつかないのだが、注目してはおきたいと思う。

 本書には故ハワード・ジンの文章が「コラム」として収録されている。たいへん元気を与えてくれる文章である。短いので、全文を引用しておく。 

 苦しい時代に希望をもつのは、愚かしくロマンティックなことではない。人間の歴史とは、ただ残酷なだけではなく、共感と犠牲、勇気、思いやりの歴史でもある。だからこそわれわれは、希望を抱くことができるのだ。
 この複雑な歴史のなかで、われわれが何を選びとって強調していくかが、われわれの人生を決めるだろう。もし最悪のものにしか目を向けなければ、何かを為すための力は失われる。民衆が気高い行ないを見せた時と場所は、歴史上枚挙にいとまがない。そうした例を思い出すことで、行動するためのエネルギーが湧いてくる。そして少なくとも、この世界という独楽をこれまでとちがった方向に向かわせられる可能性が生まれる。
 たとえ小さなことからでもいい、実際に行動すれば、壮大な夢物語の未来を待ちつづける必要はなくなる。未来とは無限に連なってく現在であり、人はすべからく今を生きるべきなのだ。われわれの周囲を取り巻く悪に目をくれずに、今を生きていくことができれば、それ自体がすばらしい勝利となる。  (Howard Zinn,  You Can’t be Neutral on A Moving Train, Beacon Press, 1994; Howard Zinn, A Power Governments Cannot Suppress, City lights, 2007. )  (p. 141-2)

 

[1] ノーム・チョムスキー(山崎淳訳)『9.11 アメリカに報復する資格はない』(文春文庫、2002年)。
[2] ジュディス・バトラー(本橋哲也訳)『生のあやうさ 哀悼と暴力の政治学』(以文社、2007年)p.22。
[3] ノーム・チョムスキー(鈴木主税訳)『覇権か、生存か』(集英社新書、2004年)。
[4] 湯浅誠『ヒーローを待っていても世界は変わらない』(朝日新聞出版、2012年)。
[5] 津田大介による引用『ウェブで政治を動かす!』(朝日新書、2012年)p. 53、p. 55。 


国分功一郎『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社、2011年)

2013年01月17日 | 読書

       

 

そもそも私たちは、余裕を得た暁にかなえたい何かなどもっていたのか (p. 20)

 

 「優雅」とか「知性的」などというのは珍しい語彙ではもちろんないが、私にとっては使用頻度が低い語彙でもある。「優雅」には閑雅、つまりときとして退屈な風情というおもむきがないわけではないし、「知性的」とか「知的」には衒学的(ペダンティック)な匂いがいくぶんかはつきまとうためである。
 それでも、この本は字義通りの意味で「優雅で知的」と形容したくなる。だからといって、けっして教養主義的でも文化主義的でもない「知」の本である。

 パスカルやラッセルという教養の香り高い思想家を引きつつ、人類が定住するかしないかの時代まで遡って暇と退屈の考察に入っていく導入は、ゆったりと優雅な知的逍遥の趣きがある。
 例えば『「好きなこと」とは何か?』というタイトルの序章に登場する思想家はバートランド・ラッセル、ジョン・ガルブレイス、マックス・アドルノとテオドール・ホルクハイマー、ウイリアム・モリス、アレンカ・ジュバンチッチと続く。そして、「豊かな社会」「バラで飾られる生きること」を求めてきた人類が到達しえた現在を素描し、次章以降への入口を準備する。
 しかし、そこで示唆されている事象は、「優雅」とは対極にあるものである。現代人は「大義のために死ぬことを望む過激派や狂信者たち」を「恐ろしくもうらやましいと思うようになっている」と語るジュバンチッチを引いて、著者はこう述べている。

 ジュバンチッチは鋭い。だが、私たちは〈暇と退屈の倫理学〉の観点から、もう一つの要素をここに付け加えることができるだろう。大義のために死ぬのをうらやましいと思えるのは、暇と退屈に悩まされている人間だということである。食べることに必死の人間は、大義に身を捧げる人間に憧れたりしない。
 生きているという感覚の欠如、生きていることの意味の不在、何をしてもいいが何もすることがないという欠落感、そうした中に生きているとき、人は「打ち込む」こと、「没頭する」ことを渇望する。大義のために死ぬとは、この羨望の先にある極限の形態である。〈暇と退屈の倫理学〉は、この羨望にも答えなければならない。 (p. 29)

 この序章の最後で、人(私ということだが)は、この本がけっして優雅な主題を奏でるわけではないことを知る。「国家の大義」を声高に主張する右翼政党が右傾化をさらに強めた形で復帰した日本の現在では、「大義のために死ぬことを望む過激派や狂信者たち」そしてそれを「恐ろしくもうらやましく思う」人々を生みださない、あるいはそういう人々に対抗するために、この本が生みだされたのではないか、とすら思えてくる。もちろん、日本社会の全般的な右傾化傾向はあったとはいえ、この本は2012年2月の総選挙の1年以上も前に出版されているのだが。 

 本書は、〈暇と退屈〉についてその〈原理論〉(第一章)、〈系譜学〉(第二章)、〈経済史〉(第三章)、〈疎外論〉(第四章)、〈哲学〉(第五章)、〈人間学〉(第六章)、とじつに広大な「知」の領域を逍遥しつつ、〈倫理学〉(第七章)に向かっていく構成になっている。
 その理路の構図は、ハイデッガーが語るところの存在の「呼び声」としての退屈、人間の実存から湧き上がる「何となく退屈だ」という自己意識、そのように在り続ける人間存在を時間の縦軸(歴史軸)として、そして、ポストモダンの思想家たちがつとに明らかにしてきたような記号消費に喘ぐ現代の私たちのありようを横軸(空間平面)とする時空で組み立てられ、著者はその知的時空の理路を丁寧に辿っているのである。

 章立てから明らかなように、その知的領野は広大にわたり、そのすべての領野にわたって触れてみることは難しいので、ここでは興味ある(ごくごく私的に)記述をピックアップしてみることにする。

 第四章の〈疎外論〉ではマルクスを踏まえた議論の道筋から、ボードリヤールの「〔消費社会における〕疎外された人間とは、衰弱し貧しくなったが本質までは犯されていない人間ではなく、自分自身に対する悪となり敵に変えられた人間だ」 (p. 163) を引用したうえで、「疎外」について次のように述べている。

 つまり、「疎外」という語は、「そもそもの姿」「戻っていくべき姿」、要するに「本来の姿」というものをイメージさせる。これらを、本来性とか〈本来的なもの〉と呼ぶことにしよう。「疎外」という言葉は人に、本来性や〈本来的なもの〉を思い起こさせる可能性がある。
 〈本来的なもの〉は大変危険なイメージである。なぜならそれは強制的だからである。何かが〈本来的なもの〉と決定されてしまうと、あらゆる人間に対してその「本来的」な姿が強制されることになる。本来性の概念は人から自由を奪う。
 それだけではない。〈本来的なもの〉が強制的であるということは、そこから外れる人は排除されるということでもある。何かによって人間の「本来の姿」が決定されたなら、人々にはそれが強制され、どうしてもそこに入れない人間は、人間にあらざる者として排除されることになる。 (p. 165)

 ここには、人間社会が歴史上一度たりとも解決したことがない矛盾が語られている。宗教も哲学も政治思想も「本来の姿」を語り続け、強要し続けてきた。そのため、宗教=信仰に名を借りた戦争、殺戮は現代においても止む気配はまったくない。「民主主義」の名において無数のイラク人がハイテク兵器の標的となり、それを私たちはCNN提供のドラマのように楽しんでいた(?)のはごく最近のことである。
 しかし、私たちは「本来の姿」を措定したがる性癖から抜け出せるだろうか。人間の思考を鍛えるべき(フッサール流にいえば「諸学の基礎」としての)哲学もまた、「本来の姿」論の究極ともいえるプラトンの「イデー」論の伝統の中にいる。課題は明確でも、解決は困難なのではないかと思えるのである。 

 「本来性」「疎外」については、マルクスの『ドイツ・イデオロギー』の一節を引用したうえで、次のようにも述べている。 

 「欠乏と外的有用性によって決定される労働」が支配している社会では、「どこでもすきな部門で、自分の腕をみがくこと」などできない。だからそれが廃棄されなければならない。
 大切なのは、魚釣りはしても漁師にはならなくてよい、文芸評論をしても評論家にならなくていいということではないだろうか? それは余暇を生きる一つの術である。
 マルクスの疎外論を読み解くためには、本来性なき疎外という概念が必要である。アレントにはそれがなかった。 (p. 192-3) 

 ハンナ・アレントが誤読し、アレント好きの私も例に漏れないのだが、「疎外」論は難しいのだ。「本来性なき疎外」という概念は、私にとっては新鮮で眼を開かれる思いがする。

 第五章〈哲学〉ではもっぱらマルティン・ハイデッガーの〈暇と退屈〉をめぐる哲学が論じられる。その要諦は、著者によって「ある種の深い退屈が現存在の深淵において物言わぬ霧のように去来している (p. 204) と述べられる。
 ハイデッガーは暇と退屈を二つの形式に分ける。一つは「何かによって退屈させられること」(第一形式)、もう一つは「何かに際して退屈すること」(第二形式) (p. 205)。前者は電車の待ち時間のように本人が望まないのに与えられる暇から生じる退屈、後者は退屈をやりすごそうとして積極的にパーティーなどに参加するものの、にもかかわらずそれに際して感じる退屈である。
 この二つの退屈の形式の考察から、ハイデッガーは「もはや気晴らしが不可能であるような、最高度に「深い」退屈」(第三形式)を提起する。それは「なんとなく退屈だ」という退屈で、これが現存在(人間存在)の深淵から去来する退屈なのである。
 このあたりの議論はこの本の楽しみどころの一つなので詳述しないが、著者はハイデッガーの結論に疑問を呈する。第三形式の退屈に曝される人間は自分が自由であるという可能性がある。そしてその可能性が実現されるのは「決断することによってだ」というのがハイデッガーの結論である。それを受けて、著者はこう述べる。

 だが、だとしても、最終的なハイデッガーの解決策はどうも腑に落ちない。
 たとえば、自分にはすべての可能性が否定されていると感じ、まさしき「広域」を生きながら部屋に閉じ籠もっている人間に対して、「お前はいま現存在(人間)の可能性の先端部を見ることを強制されているのだ。どうだ見てみろ。お前の現存在としての可能性が見えるだろう。だったら決断してそれを実現してみろ」などと言っても、どうなのだろう。
 ………
 いずれにせよハイデッガーの結論には受け入れ難いものがある。しかし、彼の退屈の分析はきわめて豊かなものである。特に退屈の第二形式の発見。そこには〈暇と退屈の倫理学〉を考えるうえでの大きなヒントがある。 (p. 245)

 そもそも実存の深淵から退屈の呼び声を聞く人間存在とはどういうものか。ふたたびハイデッガーの「(1)石は無世界的である。(2)動物は世界貧乏(ひんぼう)的である。(3)人間は世界形成的である。」という三つの命題から始まる。つまり、こういうことだ。 

 人間は世界を世界として経験できる。人間だけが世界そのものに関わることができる.言い換えれば、人間には世界が世界として与えられている。これは人間だけの特権であり、動物には許されていない。なぜなら、動物はあるものをあるものとして経験することができず、したがって、世界を世界として経験することができないからだ。 (p. 251) 

 「当然反論もあるだろう」と著者は続けるが、その通りである。ここには人間だけが(神に愛されている)特別な存在だというヨーロッパ哲学の抜きがたい信仰(と私は思う)がある。この伝統は、ヨーロッパ人が文化を創出してきた、世界でアメリカ人だけが民主主義を実現できる、などという現代社会の病理のような思想の基底ではないかと私は疑っているのである。命題(3)だけなら、まったく問題ないのではあるが。

 著者は、世界形成的である人間存在をユクスキュルの「環世界」という概念によって解明しようとする。生物は生物固有の世界(環世界)を生きている、というのである。
 かなり以前のある生物学者の講演で、哺乳動物のそれぞれの種はそれぞれ固有の時間を生きている、という話を聞いたことがある。異なった種は異なった平均寿命をもつが、寿命を一生の心臓総拍数で規格化すればほぼ等しい、というのである。心臓の一拍を時間の1単位とすれば、ネズミも象も同じ長さの時間を生きることになる、そのようにそれぞれの種は固有の時間を生きるというのである。
 時間と同様に、生物種は空間のすべてに関わって生きているわけではない。その生物種がそれと認識し、生きるために利用する必要にして十分な固有な空間があって、先の固有時間とこの固有空間からなる世界が、その生物種の「環世界」である(と私は理解した)。

 宇宙物理学者とひなたぼっこする者を比べて見ればいい。彼らは太陽をまったく違う仕方で体験する。
 ならば、ミツバチがミツバチの環世界を生きる、トカゲがトカゲの環世界を生きるように、宇宙物理学者は宇宙物理学者の環世界を、ひなたぼっこする者はひなたぼっこする者の環世界を生きているとは言えるのではないか?  (p. 278) 

 じつは、この箇所でも私はつまずきそうになったのである。ミツバチはミツバチという種で一括り、トカゲはトカゲという種で一括りなのに、「宇宙物理学者」と「ひなたぼっこする者」はヒトという種で括られないのである。ヒトの特別性は生物種の概念を越えるほどのものなのか。大げさに言えば、そう感じたのである。
 しかし、著者はそのことを十分に心得ていて、次のように結論する。

 さて、環境への適応、本能の変化は、当然ながら環世界の移動を伴うだろう。それは長い生存競争を経て果たされる変化である。容易ではない。だが、すこしも不可能ではない。こうしてみると、あらゆる生物には環世界を移動する能力があると言うべきなのだろう。 
 人間にも環世界を移動する能力がある。その点ではその他の動物(さらには生物全般)と変らない。ただし、人間の場合には他の動物とはすこし事情が異なっている。どういうことかと言うと、人間は他の動物とは比較にならないほど容易に環世界の間を移動するのである。つまり環世界の間を移動する能力が相当に発達しているのだ。 (p. 283-4) 

 生物種は環世界を移動する能力があるが、人間は他の生物種に較べれば「相対的に」その能力は発達している、と主張するための「宇宙物理学者」と「ひなたぼっこする者」のたとえ話だったのである。

 第七章〈暇と退屈の倫理学〉に至って、〈哲学〉と同様に、思索はいっそう深まる。ふたたびハイデッガー哲学に戻り、キルケゴール、ニーチェ、そしてコジェーヴの「歴史の終わり」概念の批判にまで進む。この章も、本書の楽しみどころなので引用は最小にしておこう。 

 そして、衝動によって〈とりさらわれ〉て、一つの環世界にひたっていることが得意なのが動物であるのなら、この状態を〈動物になること〉と称することができよう。入間は〈動物になること〉がある。
 退屈することを強く運命付けられた人間的な生。しかしそこには、人間らしさから逃れる可能性も残されている。それが〈動物になること〉という可能性である。 (p. 332-3)

 人間は自らの環世界を破壊しにやってくるものを、容易に受け取ることができる。自らの環世界へと「不法侵入」を働く何かを受け取り、考え、そして新しい環世界を創造することができる。この環世界の創造が、他の人々にも大きな影響を与えるような営みになることもしばしばである。たとえば哲学とはそうしてうまれた営みの一つだ。 (p. 335)

 「暇と退屈をどう生きるか」についても具体的に記されているが、ここでは触れない。さて、『暇と退屈の倫理学』は、次のような〈倫理学〉にふさわしい言葉で締め括られるのである。 

世界には思考を強いる物や出来事があふれている。楽しむことを学び、思考の強制を体験することで、人はそれを受け取ることができるようになる。〈人間であること〉を楽しむことで、〈動物になること〉を待ち構えることができるようになる。これが本書『暇と退屈の倫理学』の結論だ。 (p. 354-5)


津田大介『ウェブで政治を動かす!』(朝日新書、2012年)

2013年01月08日 | 読書

            

 これは政治についての本である。しかし、政治思想の本ではない。政治参加の手続き、方法、手段に関する著作である。政治家になろうとも社会運動家になろうともけっして思わなかった私が、政治に関する本として思い浮かべるのは、たいていは政治の歴史的考察や創出するべき政治、社会、国家を論じるような政治思想の本だ。だから、この本はある種の新鮮な感じで私には読み進められたのである。

 「大きな物語」としての政治思想が潰えてしまった一九八〇年代以降、政治システムとしては二大政党制を目論みながら、現実のありようとしては、政党は四分五裂の様相をさらけ出していて、信頼に足る政治思想を掲げたメジャーな政党は存在しない。民主党のバカ勝ちも、揺り戻しとしての自民党のバカ勝ちも、ふらふらする無定見層に強く依存する選挙システムの所為であって、けっして受容されるべきコンテンポラリーな政治思想があったわけではない。
 中道リベラルらしい雰囲気を醸し出して登場して政権奪取に成功した民主党はあっという間に政党の存在要件であるべき政治思想の欠如を露わにしてしまった。民主党は選挙に負けたのではない。現実に対処するべき政治思想を欠いていたために当然のように自己崩壊したのだ、と見るべきである。右翼を抱え込んでいることは知ってはいたが、その民主党にたった一瞬といえどもリベラルらしい匂いがあると思い込んだ私の愚鈍を、今はいたく恥じている。

 こうした細分化された政治党派が群れている状況だが、新自由主義的な資本の論理は「グローバリゼーション」を標榜しながら厳しく貫徹されていて、「9・11」に象徴されるように《帝国》と周辺国化された地域との利害の国際的矛盾が激しくなっているばかりではなく、国内的には「国際競争力」を強化する名目で新しい若年貧困層(非正規雇用層)を増大させつつその労働力の搾取が激しくなっている。
 湯浅誠にしたがって言えば、“溜め”を失った社会で「へとへとになって九時十時に帰ってきて、翌朝七時にはまた出勤しなければならない人には、……一つひとつの政策課題に分け入って細かく吟味する気持ちと時間」 [1] は失われ、政治に参加する時間も空間も確保する困難に見舞われている。つまり、無定見層も浮動票層も現代日本の政治・社会システムの結果として生みだされてきた、とも言える。政治への不参加は、政治不信と相俟っていると、湯浅は次の用に述べている。

 政治不信はこれまでも根強くありました。しかしそれは、個々の政治家の「政治とカネ」やスキャンダルの問題、また個々の政党の体質への批判や内紛(派閥闘争)、にうんざりしたといった性質のものでした。それがこの間、急速に政治システムに対する不信に発展していきました。その意味で、政治不信の質が変わったのではないか、と私は感じています。
 私は、これはかなり重大で、決定的な変化ではないかと考えています。政治不信が、個々の政治家や政党に留まっているかぎりは、システムは信認されているということです。しかし、システムそのものが不信の対象となったとすれば、不信感の底流が変わったことを意味します。 [2]

 『ウェブで政治を動かす!』の著者である津田大介は、政治不信の一因はマスメディアにもあると見ている。

 情報リテラシーが高い層は、新聞やテレビといつた既存の伝統的マスメディアに否定的な人が多いとも言われる。それはこうしたマスメディアの政治報道が政局中心の報道に終始していることも一因になっている。
 これでは政治的無関心になるのも仕方がない。われわれは「無関心になっている」のではなく、メディアによって「無関心にさせられてきた」のだ。 (p. 5-6)

 その上で、著者は、マスメディアに対する私たちの側のメディアとしてのウェブ、ソーシャル・ネットワーキング・サーヴィス(SNS)の重要性、とりわけ政治参加、政治的意思表明の手段としての有用性を訴えている。ただし、誤解のないように言っておけば、著者は単純にマスメディアへの対抗メディアとしてSNSを推奨しているわけではない。マスメディアもまたソーシャルメディアを活用することでよりすぐれた報道に資することができることも著書の中で明示している。

 著者も指摘するように、チュニジアから始まった「アラブの春」における叛乱する若者たちのメディアとしてフェイスブックが用いられたことをはじめ、ニューヨークから始まったアメリカの「オキュパイ運動」 [3] でも「3・11」後の反原発運動の活発な盛り上がり [4] においても、その大衆動員に果たしたツイッターやフェイスブックなどのソーシャルメディアの役割は計り知れないものがあったし、現在もあり続けている。
 そのようにソーシャルメディアを通じて動員された(自主的に集まった)人々のごく平和的なデモの意義について、著者は次のような国分功一郎の言を引いて強調する。

 デモにおいては、普段、市民とか国民とか呼ばれている人たちが、単なる群衆として現れる。統制しょうとすればもはや暴力に訴えかけるしかないような大量の人間の集合である。そうやって人間が集まるだけで、そこで掲げられているテーマとは別のメッセージが発せられることになる。それは何かと言えば、「今は体制に従っているけど、いつどうなるか分からないからな。お前ら調子に乗るなよ」というメッセージである。 (国分功一郎『熱風』2012年2月号)

 「今は体制に従っているけど、いつどうなるか分からないからな。お前ら調子に乗るなよ」というメッセージは、デモだけが発するわけではない。ネット世論もまた同様のメッセージを強く発することができる。 著者は、多くの実例を挙げながらソーシャル・メディアを優れた政治参加の手段として用いることを強く勧め、政治不信を乗り越え、政治を動かしていこうと主張しているのである。
 なかでも、民主党の原口一博衆議院議員や蓮舫参議院議員がマスメディアとソーシャルメディアに見る世論の差を感じていて、「ソーシャルメディアにこそ国民のリアルな世論が表れるのではないかと考えている」という記述は重要だろう (p. 110-2) 。政治家の側にも、世論、国民の政治的意見をソーシャルメディアから汲み取ろうという動きがあるのだ。私たちばかりではなく、政治の側でもマスメディアへの不信が拡がりつつあるのだろう。だとすれば、私たちの政治的意志をソーシャルメディアを通じて発信することを強く主張する本書は妥当性というレベルを越えて論理的必然ですらあるだろう。

 当然のことながら、ソーシャルメディアを通じて政治的意見の表明をしたからといって、何事かがすぐさま実現するように政治システムが出来上がっているわけではない。いまのところ、それは政治家の恣意性に委ねられている。例えば、ソーシャルメディアを積極的に政治活動に取り入れている自民党の世耕弘成参議院議員を次のように紹介している。

 世耕議員のツイッターの使い方は、実に多彩だ。ツイッターの特徴である強力なリアルタイム情報発信力を生かすだけでなく、一般市民の政治的思考が自然に表出される性質に着目し、自らの政治活動に生かしている。具体的には、世耕議員はツイッターを「ミニ世論調査」のツールとして利用しているそうだ。
 「自分のフォロワーのなかから、冷静で有用な意見をツイートしている人をピックアップして、プライベートリストに入れています。自分の発言や行動に対して、そうした人たちがどんな反芯を返してくるのか。それが、とても参考になるんです」  (p. 174)

 つまり、ピックアップされるかどうかにかかっているのだ。とはいえ、ある事象についてネット世論が強く形成されればピックアップせざるを得なくなるだろう、ということは確かだ。

 著者はまた、自民党の橋本岳前衆議院議員(執筆当時、2012年12月の選挙で当選)の考えを次のように紹介している。

 政治に興味のあるインターネットユーザーたちの多くは「政局よりも、政策」「政策単位で政治家は選ばれるべき」という考えを持っていることが多い。筆者もシンプルに言えばその考え方だ。しかし、橋本前議員はこうした考え方に対して「『政治家は政策で選ばれるべきだ』という考え方はフィクション」と、手厳しい。彼のなかには「政策をつくるのは、政党でいい」という、確固たる信念があるようだ。
 「政治家個人が『こういう政策を実現するんだ』と、具体的な公約や政治理念を掲げることは、メディアとしての信頼性、誠実さを保つ意味で重要ですが、採るべき政策は状況によって変わるものです。交渉相手が存在する外交安保の問題などを考えればよくわかりますが、相手や状況に応じて刻々と変化するだろう部分までマニフェストに書いても、初めから実現できるはずがない」
 橋本前議員は「個別の政治家にとっての政策は『現時点ではこうしたいと考えている』という程度で構わないと思う」という。まずは多方面から情報を収集し、さまざまな手法でリサーチを行って、将来予測をする。そうして現状を踏まえた上で、政策以前に「日本は今後、こうあるべきだ」というビジョンを描く。それがブレなければ、有権者の声を集約し、代弁するメディアとしての信頼性は担保されるだろうというのが、橋本前議員の主張だ。
 「そうした考え方をべースにして、政党が財務的な裏付けや国内外関係各所との調整を行い、具体的な政策に落とし込む。それができれば、説得力と信頼性のあるマニフェストができるはずです」 (p. 221-2)

 こうした橋本議員の考えは、12月の総選挙での日本維新の会の橋下徹大阪市長の政治的発言の推移に見られた姿勢と通底するものがあるのではないか。具体的な政策は2転3転しながら、具体策は役人が作ればいい、本質は何もぶれてはいないと言いつのっていた。このような政治姿勢は結局ポピュリズムに回収されてしまうのではないかと危惧するのである。
 とまれ、ポピュリズムに結果するかどうかは政治思想の問題である。本書が目指す活用すべき政治手段の議論とは直接結びついているわけではない。ソーシャルメディアを通じて形成される世論は、右も左も、革新も保守もあり得るだろう。いずれにせよ、選挙における投票率が低い若年層は、一方でソーシャルメディア・リテラシーが高いのだから、みずからの政治的意志の実現可能性が高まることで政治的無関心を乗り越えることが可能になるのではないか、ということだ。
 この本は、そのような人々へのサジェッションに溢れている。繰り返すが、この本は政治思想の本ではない。政治参加のための手段の本である。しかしながら、著者はソーシャルメディアを通して見続けてきた政治世界から、次のような分析を示す。そして私はこれを著者の正しい「政治思想」だと思うのだ。これは、現代の政治家が保持すべき正しい姿勢なのであり、すべての政治思想の前提となるべき理念のことなのである。

 あらゆる政治や社会にまつわる情報が可視化される現在、政治家が「きれいごと」を言うことの意味は実のところ、日増しに大きくなつている。政治家は「きれいごと」を多くの人に共感される言葉で語る必要がある。なぜならば「きれいごと」の実現は、理想の政策を実現するということだからだ。「きれいごと」を具現化するには、われわれにどのような痛みが必要なのか、自分たちにとって不利な情報も含めて公開し、それを現実のものにしていく過程をつぶさに公開していく――情報社会における政治家の透明性は、そのような形でしか担保されない。「きれいごと」を実現することでしか「政策実現者としての政治家」への信頼を上げることができない時代になりつつあるのだ。 (p. 290)

 

[1] 湯浅誠『ヒーローを待っていても世界はかわらない』(朝日新聞出版、2012年) p. 85。
[2] 同上、p. 58-91。
[3] ノーム・チョムスキー(松本剛史訳)『アメリカを占拠せよ!』(ちくま新書、2012年)。
[4] 糸圭(すが)秀実『反原発の思想史――冷戦からフクシマへ』(筑摩書房、2012年)。