かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 原発をめぐるいくぶん私的なこと(3)

2024年07月11日 | 脱原発

2013年2月5日

大惨事(高木注:チェルノブイリ原発事故のこと)から三、四年して私たちは、ようやく自分の国で事故の本当の規模、事故についての絶望的な真実の全貌を知りはじめる。それを知ると、私たちはますます自分のこと、私たちの大きな社会のことを知るようになる。私たちは自分たちの過去についてだけでなく、未来について知るようになる。
  アラ・ヤロシンスカヤ『チェルノブイリ極秘』より

 上の一文は、もう亡くなられた高木仁三郎さんがその著書『市民科学者として生きる』の中で引用されたものである[1]
 3・11の福島第一原発事故から2年経過しようとしている現在、私たちもまた「絶望的な真実の全貌」を知りはじめている。そして、それを知れば知るほど、反原発から引き返せない私たちの未来を知るようになっている。それが「脱原発みやぎ金曜デモ」に集まる人々の大きな「社会知」であり、「未来知」であるのだと思う。
 反原発といえば、高木仁三郎の名前をはずすことができない。『市民科学者』を標榜して日本の反原発運動のひときわ抜きん出たリーダーであった。反原発キャンペーンのために物理学会にお出でになった高木さんを見かけたことがあるという程度しか私は知らないのだが、ずいぶん昔に仙台で高木さんとニアミスをしたらしいということが最近分かった。
 絓秀実さんが「一九六九年に全国原子力科学者連合(全原連)が結成され、同年一一月、東北大学で行われていた原子力学会で、(高木さんらは)学会・原子力開発のありようを批判するビラを撒いた」と記している[2]。
 当時の大学は全共闘運動が吹き荒れていて、主要国立大学にようやく新設された原子核(原子力)工学科に学ぶ学生たちも「全国原子核共闘」という組織を作っていた。その原子核共闘が原子力学会に乗り込んで抗議をする、ついては仙台での集会場所や道案内などの世話をしてくれという連絡が私に届いたのである。当時の東北大学原子核工学科の学生はおとなしくて、全共闘の学科組織もなかったし、ましてや全国原子核共闘には誰も参加していなかったのだが。
 修士1年だった私は、確かに全共闘シンパとして原子核工学科で発言していたが、けっして過激な活動家ではない。ただ、カリキュラムについて学科教授会を強く批判していたのは事実である。「原子力工学という学問がないではないか。原子核工学といってもただの寄せ集めに過ぎないではないか」というのが私の不満で、それを教授たちにぶつけていた[3]。
 そのような私の言動が洩れ伝わって、全国原子核共闘からの指名になったのだと思う。私としては断る理由はまったくなかったので、たった一人の地元の学生として、集会場の教室を準備したり、原子力学会の会場へのアクセスなどを手伝うことになった。ただし、教室でメンバーと話しているシーンや広い学会場に入ったシーン、それにリーダーシップを発揮している京都大学の学生さんのことなどは覚えているが、その内実の記憶がほとんどない。
 乗り込んだ原子力学会の同じ会場に高木さんがいたかも知れないのに覚えていないのである。ニアミスした可能性があっただろう、というだけのことである。
 そんなこんなは、みんなただの思い出だけである。理系といえども初歩的な物理しか教えない原子核工学科で学んだ人間が物理学者として生きるというのは思っているほど簡単ではなくて、しばらくは物理に没頭するしかなかった。ときに反核デモに参加することはあっても、原子力の分野からは遠く離れた気分で過ごしてきたのだ。
 そんな私に福島原発事故は時間感覚を一挙に40年も遡らせ、その間いったい私は何をしていたのかと苛まれる思いを抱かせたのである。ショックで1年ほどは行動不調になってしまったのだが、脱原発みやぎ金曜デモが始まり、それに参加するようになって少し気持ちが落ち着いてきた。デモは、長い間原発問題から意識を遠ざけてきた私の人生のちょっとしたエクスキューズになっているようなのだ。

1.高木仁三郎『市民科学者として生きる』(岩波新書、1999年) p. 203。
2.絓秀実『反原発の思想史』(筑摩書房、2012年) p. 79。
3.そのような私の反抗的な言動が理由だと思うが、修士課程を修了するころ、原子核  工学科を追い出されることになる。その追い出し方が不当だったということで学科教授会を越えた工学部教授会と大学評議会のメンバーが動いて、数ヶ月のブランクはあったものの大学の附置研である金属材料研究所の物理系研究室に助手として採用されることになった。落胆していた原子力工学から物理学へ移ることができて、何かほっとするところがあったし、時間が経つほど物理が性に合っていることが分かってきて、結局、定年退職は大学院理学研究科物理学専攻で迎えることになった。原子核工学科を追い出されたのは、私の人生にはラッキーだったのである。



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【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(8)

2024年07月09日 | 脱原発

2013年7月19日

  それなりに長いこと生きてきたが、選挙というものに楽しい思い出はない。すべての選挙で投票してきたが、私が投票した人物が当選したという経験はほとんどない。いまさらのことだが、ほとんどの場面でマイノリティの側として生きてきた、ということである。
 原発ゼロを望むのは国民のマジョリティの意見である。憲法改正反対もマジョリティの意見である。少なくともマスコミの調査ではそのような結果が出ている。つまり、その2点に関して言えば、私はマジョリティの側に属している。
 今までだってそのようなことはあった。最大の争点と思われることがらでマジョリティの側として投票したのに、それが結果に反映されないのだ。日本のマジョリティは、政治的争点ということを考慮して投票しているわけではないらしい。
 そのことを自民党は知悉していて、今回の選挙での最大の争点のはずの「憲法改悪」、「原発」、「TPP」、「嘉手納基地」を完全に隠してしまった。首相は選挙を福島から始めながら「原発」に触れようともしない。そんな卑怯な方法も、経験的には有効であることを自民党はよく知っているらしい。
 何よりも不思議なのは、争点を隠されたら国民から見えなくなるらしいということで、ほんとうに理解するのが難しい。たかだか2週間ちょっとの間、政治家が口にしなかったら、原発やTPPの問題はないものだと考えるらしいということが理解できない。
 一番気になるのは、「政治は大所・高所から判断するべきだ。原発だけが日本の問題ではない。憲法以外にも緊急の政治課題があるのだ。全体を勘案して投票すべきである」としたり顔で語る「高所・大所シンドローム」患者が意外に多いことである。そんな言説で政治的争点がグズグズにされてしまう。
 そんな患者は、町会議員や市会議員、その取り巻きでいっぱしの政治家気取りの人間、あるいは職場や町内の政治通らしき人間に多いように思う。たぶん、新聞、雑誌、本、ネットなどのマルチメディアから政治問題を積極的に集めようとしないマジョリティは、そんなクズな言説にしてやられるのかも知れない。
 ましてや、テレビだけが情報源だということになったら最悪である。テレビに出てくる解説者、評論家などというのは、純正な高所・大所シンドローム患者そのものなのだから。
 くどくど言ってもしょうがないが、今度の参議院選挙の投票は誰に投票するかは悩みようがない。朝食をたべながら家族で選挙の話題が出たが、考えていることは同じで1分もかからず話題が尽きた。我が家の家族は全員、マイノリティになる確率が高い、ということらしい。


2013年9月13日

   昨年(2012年)の7月に始まった「脱原発みやぎ金曜デモ」に参加するようになってから、朝日新聞の「朝日歌壇・俳壇」に掲載される投稿短歌や俳句の中から、原発事故に関連したものを抜き書きしている。
 最近、原発事故に関連する短歌や俳句がめっきり減ってきた。新聞の投稿欄なので、そのときどきの季節やトピックにふさわしい歌や句が選ばれやすいだろうから、それはそれで仕方がない。
 マスコミ・ジャーナリズムは事件や事故を「風化させてはいけない」と言いつのるが、真っ先に風化させているのは、新しい事件や事故、目新しい風俗や風説を追い求めているマスコミであり、そのマスコミの言説をそのまま受け止めているマジョリティの大衆(の一部?)であろう。そういう人々をネグリ&ハートは「メディアに繁ぎとめられた者」と呼んで、権力に支配され虐げられている主体形象の一つにあげている [1]。
 しかし、生まれた土地を放射能で汚され、避難せざるを得なかった人々、放射能被爆に日々怯えて暮らすしかない人々にとって「風化」などあろうはずがない。
 抜き書きを思い立った2012年7月から前、原発事故までの期間の「朝日歌壇・俳壇」には沢山の関連した歌や句が掲載されているのは当然で、いつかそれらを抜き書きしたいとずっと思っていた。
 しかし、古い新聞は捨ててしまっているので、図書館で縮刷版で調べるしかない。図書館の机に拘束されている自分を想像するだけで少しばかりうんざりしてしまって、ずっと放っていたのだが、この水曜日の午後、なんとかとりかかることができた。
 ハンディスキャナーとOCRソフトでノートパソコンに直接読み込めば楽勝と思っていたのだが、縮刷版の文字が小さすぎて文字変換の成功率が異常に低い。直接打ち込む方がずっと早いのだが、ど近眼でなおかつ老眼の身にはこれまた楽な作業ではないのだった。2001年3月と4月分から拾い出すのに3時間かかってしまった。
 とはいえ、始めたものは途中で投げ出せない。拾い出し、抜き書きを続けていけば、私にも何か別の風景が見えてくるかもしれない、そんなことを期待しているのである。
「脱原発みやぎ金曜デモ」が始まった頃、脱原発デモを詠った歌や句がたくさん投稿され、たくさん選ばれていた。

炎天に我もとぼとぼ蟻のごと脱原発を唱えて歩く
  (三郷市)岡崎正宏(2012/8/6 永田和宏選)

炎天の「さらば原発集会」に出たき八十路の思いよ届け
  (東京都)峰岸愛子(2012/8/6 佐佐木幸綱選)

原発の再稼働否(いな)蟻のごととにかく集ふ穴あけたくて
  (長野県)井上孝行(8/20 佐佐木幸綱選)

一〇〇円の帽子被って参加した脱原発デモの後のかき氷
  (神戸市)北野中 (8/20 佐佐木幸綱、高野公彦、永田和宏選)

原発を残して死ねじと歩く老爺気負わずノーと夕風のごと
   (秦野市)森田博信(8/20 佐佐木幸綱選)

国会を囲む原発NOの輪に我も入りたし病みても切に
   (埼玉県)小林淳子(8/20 高野公彦選)

身分明かす物持たず行くデモでなく気軽でもないパレードを歩く
   (日野市)植松恵樹 8/27 永田和宏選)

「故郷」の唄を歌いて人々は明り灯して国会包囲す
  (東京都)白倉眞弓(8/27 永田和宏選)

国会を包囲し気付けばお月さま明るく静かに見守っている
  (町田市)北村佳珠代(8/27 佐佐木幸綱選)

脱原発の人犇(ひし)めきて蓮開く
  (旭川市)河村勁 (7/23 金子兜太選)

 そして、避難先で、あるいは放射能汚染の地で生きなければならない日々を詠った切実な歌や句も散見されるのだ。

兀兀(こつこつ)と人生きるなりふくしまの重いひき臼しずかにまわし
   (福島市)青木崇郎(2012/10/22 佐佐木幸綱選)

みちのくに人は還らず秋刀魚焼く
   (横浜市)永井良和(2012/10/1 金子兜太選)

 私は、私の住む仙台から福島までのその距離感でしか事象を見ることができない。投稿された短歌や俳句は、日本(世界)の至る場所、そして福島のど真ん中そのものから見たフクシマを指し示しているにちがいない。そのような眼差しや感情をいくぶんかでも我が身に取り込めたら、図書館での苦行も救われるだろう、そんな淡い期待を抱いているのである。



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【メモ―フクシマ以後】 原発をめぐるいくぶん私的なこと(2)

2024年07月07日 | 脱原発

2013年6月21日

 静かなスピーチ、激しいアジテーション。初夏の夕暮れどきの集会が進行する。熱意に満ちた演説に「そうだ、その通り」などと思いながら、若い頃のようにアジ演説に呼応してこぼれ溢れるようなエネルギーが沸き立つ感じはもうない。賛意は静かにわき起こる。

この時刻には闇もまだ脚に絡まず、
夜の訪れも、あこがれる
昔の音楽のように、或いは
なだらかな坂のように感じられる。
    J. L.ボルヘス「見知らぬ街」部分 [1]

 子どもの頃、夕暮れどきというのは寂しくて悲しい時間帯だった。鳥も虫もいなくなり、木も花も見えなくなり、そして友達もいなくなって一人で家に帰る頃合いだった。青年期には、1日が始まる朝は不安に満ちていて、夕暮れどきは時間をやり過ごすのに必死で、たいていは飲んだくれていた。老いて今は、1日を暮らし終えた夕暮れどきはとてもいい時間だと思えるのだ。

たつぷりと皆遠く在り夏の暮 永田耕衣 [2]

 夕暮れどきは一人でいる時間のイメージばっかりだが、今はデモの中の一人である。そして、大勢の人の中で、どうしたことか、今日は夕暮れどきの感傷なのである。
 

   夕焼けが赤いと、彼はまた愉しくなり、
雲が出ると、彼の幸福の
色も変わる。
心も変わるときがある。
    ウンベルト・サバ「詩人」部分 [4]

 そう、夕暮れは感傷的な時間帯と限られたわけではない。デモを歩いているということは、私(たち)は自らの「幸福の色」を変えようとしているということだ。そのために、その闘いのために、必要なら「心も変わるときがある」ということだ。
 暗さが増した街角でデモは終る。これから、少しだけビールを飲んだりしながら、夕暮れどきの仙台の街をぶらりぶらりと家路につくのである。

仙台は小さき紫陽花の咲くところスーパーにホヤがごろりと並ぶところ
                                                 大口玲子 [5] 

[1] 『ボルヘス詩集』鼓直訳(思潮社 1998年)p.10。
[2] 『永井陽子全歌集』(青幻社 2005年)p. 468。
[3] 『永田耕衣五百句』(永田耕衣の会 平成11年)p.157。
[4] 『ウンベルト・サバ詩集』須賀敦子訳(みすず書房 1998年)p.51。
[5] 『大口玲子歌集 海量(ハイリャン)/東北(とうほく)』(雁書館 2003年)p. 154。

 

2013年7月12日

 ときおり小雨がぱらついていたが、その雨も止んでいて、デモに出発する。錦町公園からは定禅寺通りを西に向かって歩く。

顔上げて街を行くとも屈辱のごとく雲垂る西空が見ゆ
          道浦母都子 [1]

 同じ時代を見てきたが、私は道浦母都子のように激しく権力と闘ったわけではない。それでもやはり、デモの中にいると上の歌のような感情のフラッシュバックに驚くことがある。夕暮れ時の感傷には、そういう心性も含まれているのだろう。油断していて、感傷にずぶずぶになるのは嫌だ。そんなときには、金子兜太の句がふさわしい。

ほこりつぽい抒情とか灯を積む彼方の街 金子兜太 [2]

[1] 『道浦母都子全歌集』(河出書房新社 2005年)p. 121。
[2] 『金子兜太集 第一巻』(筑摩書房平成14年)p. 35。


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【メモ―フクシマ以後】 脱原発デモの中で (6)

2024年07月05日 | 脱原発

2013年11月1日

 街頭が点灯しないまま、暗闇で集会が始まる。今月は反原発関連のイベントが多くて、告知が続く。山本太郎さんが秋の園遊会で天皇に手紙を手渡したことをスピーチで取りあげた人がいた。政治家やマスコミの反応に怒っているらしいのだが、よく聞き取れなかった。
 山本太郎さんが天皇に手紙を手渡してから深々と最敬礼をしている姿を写真で見たが、この人は天皇を深く敬愛しているという印象だった。青年政治家が園遊会の立ち話では失礼に当たると考えて、手紙をしたためて原発事故をめぐる日本の現状を奏上したという図である。敬愛する天皇に日本の実情を知ってもらいたいという純朴で真摯な行いと私は受け取った。
 私は母の胎内で太平洋戦争の敗戦日を迎えて戦後民主主義の息吹をたっぷり吸いながら育ったので、歴年の自民党政府の原発政策に断固として反対して反原発運動の先頭を走り、その強い思いで政治家になった青年が、天皇制に逡巡することなく深々と最敬礼している姿に、これほど深く天皇を敬愛していたのかと少しばかり驚いたのである(もちろん、「天皇制」と「天皇制イデオロギー」は峻別して考えなければならないけれども)。
 政府の政策に強く反対する青年政治家が天皇を深く敬愛している。その事実に自民党などの右翼政治家、ナショナリストたちは感動して褒め称えるのかと思っていた。なんとかという文科大臣が田中正造と同じだと発言したと聞いて、山本太郎は田中正造のような歴史的偉人だと褒めたのだと思ったほどである。ところが、事態はまったく逆で、総掛かりで袋叩きにしようという魂胆らしい。
 これはどうやら、たったひとりで反原発を訴え、政治の場を志し、国民の強い支持を受けて当選してきた青年政治家に対して、地盤にしがみつき、政党にしがみつき、金とおべんちゃらで這い上がってきた老醜政治家たちの「妬み」と「嫉み」が天皇を梃子として暴発したというのが正しい見方のようだ。これこそ「天皇の政治利用」そのものである。じつに醜い。


2014年4月27日

 フリートークでは、ドイツ語のスピーチがあって日本人の奥さんが通訳をしてくれた。「原発はドイツや日本という国の枠組みを超えた問題だ」という締めくくりが印象的だった。「フクシマ」は確かに個別・具体的でナショナルな深刻な問題ではあるけれども、「原子力エネルギー」として考えれば、全地球規模の人類そのものの未来への脅威として位置づけられる。つまりは、私たちの存在する社会的、時空間的なさまざまな位相で、私たちは原発と立ち向かわざるをえないということだ。
 フリートークでは私も、宮城県の淡水の魚の汚染状況の話をした。福島から流れてくる阿武隈川の放射能汚染がひどいのは当然として、県内でも1000mを越すような奥羽山地の山間から流れ出すほとんどの河川のイワナは国の規制値(100Bq/kg)を超えて汚染され、禁漁措置が執られている。規制がないのは、鳴瀬川・吉田川水系と海辺の小河川のみである。
 好きな釣が制限されていること、山菜採りや茸狩りといった季節の楽しみが奪われたことなど、原発問題のもっとも低い位相、つまり「個人的恨み」が私の話の締めくくりである。国家の枠組みを超えるというピンの話題に対して、私のはキリのレベルの話である。
 今日が初めての参加という人のスピーチがあった。友人に参加を誘われたのだという。私がスピーチをして戻ると、その人に「小野寺さんが魚の話ですか」と声をかけられた。専門は違うが、職場の大学で同僚だった人である。
 彼をデモに誘ったという人は不参加だったが、よくよく聞いたら知っている人だった。どこかで見かけた顔の人がずっとデモに参加されていたのだが、思い出せないままにいた。一時期同じ職場にいたものの早くに転出された人で、どうにも私の記憶が曖昧すぎていたのである。
 昔の職場の同僚とデモで出会ったのは、これで四人目ということになる。悪くない人数ではある。
 私は物理系の研究室に職を得たが、原子核工学科だった同級生のほとんどは原子力関係の職を得た(当たり前のことだが)。大学に残る少数を除けば、優秀な人たちは日本原子力研究所や動力炉・核燃料開発事業団に入った。原子力規制委員会の田中俊一委員長は、私より一年上で、学部卒業で日本原子力研究所に入った一人である。同級生の中には、職業人生のほとんどを高速増殖炉「もんじゅ」に関わりつづけて退職した友人もいる。
 「もんじゅ」といえば、4月21日付けの読売新聞(私はネット記事で見たが)に「もんじゅ推進自信ない…原子力機構が意識調査」という記事が載った。日本原子力研究開発機構の高速増殖炉「もんじゅ」で、多数の機構職員が「もんじゅのプロジェクトを進めていく自信がない」と考えていることがわかった、という内容である。
 日本原子力研究開発機構は、日本原子力研究所と核燃料サイクル開発機構と改めた動力炉・核燃料開発事業団が統合されてできた国家レベルの原子力研究機関である。私が卒業した頃の原子核工学科の就職状況から類推すれば、ここには原子力工学を専門とするなかでも優秀な部分が集まっているはずだ。そのような技術者、研究者の多くが「もんじゅのプロジェクトを進めていく自信がない」というのだ。福島の事故で「絶対安全」という盲信、非科学的信仰が崩壊してしまった現在、ノーマルな精神・知性を持つ技術者、研究者が原子炉、なかんずく高速増殖炉という不安定な原子炉に不安を持つのは当然と言えば当然なのである。
 日本の原子力工学の中枢にいる人びとが不安に陥っている一方、政治・行政の世界では「世界最高水準の原子力安全基準」などというありもしない虚妄の根拠を問われて、政治家も役人も返答に窮している。なんという「反知性主義」の国なのだろう。最近、自民党・右翼的言動を「反知性主義」と呼んでいるようだが、安倍的言説を反知性主義というのは正しいとは思えない。ただの無知を反知性主義とカテゴライズするのは過ちだと思うのだが。もしかしたら「無知+政治権力」を反知性主義と考えるのだろうか。


 

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【メモ―フクシマ以後】 原発をめぐるいくぶん私的なこと(1)

2024年07月03日 | 脱原発

2015年㋀16日

 脱原発デモに出かける前にPCのメールを確認して、仙台市図書館から予約書籍の準備完了の知らせをみつけた。集会場所の勾当台公園への道すがら図書館から借り出すことにして、家を出た。
 原発や辺野古のこと、特定秘密保護法や解釈改憲などをフェイスブックに積極的に投稿していて、その合間に花の写真や日々のことなども書いている女性がいる。フェイスブック上で知り合ったその人が、一週間ほど前、日々の思いの後に「夕暮れには目覚めてはいけないと書いたのは清岡卓行だったか」という意味のことを書いていた。
 詩人が書いたというその言葉を私は知らなかったが、小説ならいざ知らず詩集からならそのフレーズを探せるかも知れないと納戸や本棚を探してみた。さんざん探したが、清岡卓行の小説は数冊出てきたものの詩集は一冊も見つからない。たくさん読んだはずなのにどうしたことか。若い頃、詩集を借りて読むという習慣はなかったはずだ。詩集だけは買ったのである。そもそも清岡卓行の詩集を持っているという確信はどこから来たのか。そんなことがあって、若いときの記憶が茫洋となってしまったのではないかと背筋がざわざわしてきたのだった。
 仙台市図書館を通じて他の図書館に借用依頼をしていたその本は『清岡卓行全詩集』である。開いてみれば、すぐに記憶に鮮明なフレーズが見つかる。

二〇世紀なかごろの とある日曜日の午前
愛されるということは人生最大の驚愕である
かれは走る
かれは走る
そして皮膚の裏側のような海面のうえに かれは
かれの死後に流れるであろう音楽をきく
人類の歴史が 二先年とは
あまりに 短かすぎる
   「子守歌のための太鼓」(部分) [1]

 今日の参加者はやや少なくて50人ほどだった。仙台としては暖かい夜だったので、50人は元気にデモに出発した。勾当台公園と宮城県庁舎の間の道に出て、勾当台通りの交差点を渡り、仙台市庁舎の前を通って一番町に向かう。
 定禅寺通りを越えれば一番町である。ここまではデモの列には照明の当たらない道だ。50人の参加者だからと思いこんでシャッターを押すと、その後ろからさらにたくさん現われて、立ち位置を変えて取り直すという失敗も暗さのせいである(空間認識力が脆弱だとは決して言わないのだ)。
 参加者が少ないとかえってデモが元気になるというのはなぜだろう。清岡卓行の詩集を借り出して、最初の数十ページを図書館で読んだら、次のような詩句がみつかった。

どこから世界を覗こうと
見るとはかすかに愛することであり
病患とは美しい肉体のより肉体的な劇であり
絶望とは生活のしっぽであってあたまではない

きみの絶望が希望と手をつないで戻ってくることを
きみの記憶と地球の円周を決定的に選ぶことを
夜の眠りのまえにきみはまだ知らない
              「氷った炎」(部分)[2]

 沖縄のことを思い出した。沖縄の歴史的な苦悩、繰り返される琉球処分の絶望的な情況から、「絶望が希望と手をつないで戻って」きた沖縄のことが思い出されたのである。沖縄の総意が新しい形を生んだ。もちろん安倍自民党政権の陰湿な加虐的対応に苦しめられるだろうが、昨年までの沖縄とはもう違うだろう。「絶望が希望と手をつないで戻ってくる」朝は、もう来たのだ。
 我が「デモびと」も明るく楽観的である。安倍政権が続いて状況は芳しくないが、「絶望が希望と手をつないで戻ってくる」朝があることを知っているのだ。
 さて、急いで帰って、「夕暮れに目覚めてはいけない」というようなフレーズがあるものかどうか『清岡卓行全詩集』のページを繰らなければならない。

[1] 『清岡卓行全詩集』(思潮社、1985年) p. 48。
[2] 同上、p. 30-1。


2015年1月23日

 勾当台公園への道すがら、仙台市図書館に立ち寄って、先週の金デモの日に借り出した『清岡卓行全詩集』を返却した。フェイスブックの投稿から気になっていたフレーズは、予想通り清岡卓行の「うたた寝」 [1] という詩の一節だった。

タぐれに眼ざめてはならない。すべてが
遠く空しく溶けあう 優しい暗さの中に
夢のつづきの そこはかとない悲しみの
捉えようもない後姿を追ってはならない。

 夕暮れに目覚めて夢の続きを追うようなことは、私にはあまりないことだけれど、そのような時間帯に思わず深く眠り込んで目覚めたとき、私がどんな時間にどこにいるのかまったく自覚を失って少しばかりパニックに似た感情に陥ることはしばしばある。

なにかに追いたてられるように 眼を覚ますと
深く長い眠りの 洞窟からではないのに
一瞬 記憶喪失にでもかかったように
ぼくはぼくの 致命的な愛が思いだせない。
           「秋のうた」部分 [2]

 残念ながら、私の目覚めにあまり「愛」などというのは関係ないのではあるが。

[1] 『清岡卓行全詩集』(思潮社、1985年)p. 144。
[2] 同上、p. 203。


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【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(7)

2024年07月01日 | 脱原発
2013年5月26日

 ずっと気になっていたことがある。吉本隆明が「原発擁護論」を盛んに言っているということを雑誌や本やらでよく目にしていたのだが、私自身は吉本が原発について直接語ったり書いたりしたものを見たことがなかった。雑誌のインタヴュー記事のようなものが多いらしいのだが、古い雑誌の記事を探すほど熱心でなかったということもあるし、漏れ聞く限りでは吉本はつまらない科学神話に取り込まれているような話らしかったので、気になってはいたものの放っておいたのだった。
 1週間ほど前、暇つぶしに本屋を覗いていたら黒古一夫著『文学者の「核・フクシマ論」』 [1] という本を見つけた。吉本隆明、大江健三郎、村上春樹の3人の原発・核をめぐる言説を論じたものである。原発をめぐる大江健三郎の言説・行動はよく知られているし、この本でも高く評価されている。一方、吉本と村上は強く批判されている。
 著者によって批判されている内容を取り上げて、あらためて批判するなどということは意味がないが、少なくとも私が予想したとおり、吉本隆明の原発容認論はきわめて素朴な科学信仰、つまり、科学の発展がすべてを解決する、科学の進歩で勝ち取った原発を放棄することは人類の進歩に反する、といったたぐいの話なのである。そもそも科学と技術を混同しているのだ。核分裂や核融合の発見は科学であって、確かに自然についての科学的認識は後戻りしないし、できない。その科学的事実を応用して原発を作るのは工業技術なのである。技術というのは人間に都合の良いものを取捨選択すればよいのである。薪を作るのに鉈を使うか鋸を使うか、という程度の問題なのである。人類の進歩などと何の関係もない。
 後戻りしない(できない)科学の進歩というのであれば、半導体によって太陽光を直接電力に変換する科学技術のほうが原子力よりも遙かに新しい科学(的発見)によるエネルギー創成技術なのである。単純な科学進歩論に基づくなら、原子力より太陽光発電を主張しなければならないはずだ。
 吉本隆明ともあろう人のあまりにも素朴な科学信仰に涙が出そうになる。彼の『言語にとって美とは何か』や『共同幻想論』を夢中になって読んだ世代として、なんと評して良いか分らない。「吉本の「福島」以後も同様の発言を繰り返していることについては、問題化すること自体が酷であり、責任は、認知力が衰えた吉本にインタヴューしたメデイアにあると考えるのが適当である」と書いた絓秀実の言い方 [2] が適切なのだろう、と思いたい。

[1] 黒古一夫『文学者の「核・フクシマ論」』(彩流社、2013年)。
[2] 絓秀実『反原発の思想史』(筑摩書房、2012年)p. 63。

 
 フクシマはあらゆる現在を禁ずる。それは、未来への志向の崩壊なのであって、そのために他の諸々の未来へと働きかけなければならないのである。
     ジャン=リュック・ナンシー [1]
 
 ナンシーの『フクシマの後で』を読んだ。フクシマを語ることを哲学者の避けられない義務として引き受けた講演を基にした論考である。本は、フクシマ以前に書かれた「集積について」と「民主主義の実相」を加えた3部構成になっている。なかでも、〈68年〉以降の政治状況を民主主義の意味から論じている「民主主義の実相」は、私としてはとても興味深く読むことができた。
 しかし、フクシマを哲学するとことはきわめて困難のことに見える。ナンシーは、マルクスの「貨幣=一般的等価物」とする考えを社会全般に拡大して「一般的等価性」を基本として考えようとする。そして、「結局、この等価性が破局的なのだ」 [2] と結論する。
 このナンシーの言葉は、「象徴交換と死」を書いたボードリヤールが、いまやポスト・ポストモダンの世界が「不確実なものになったのは、世界の等価物はどこにも存在しないからであり、世界は何ものとも交換されないからだ」 [6] と述べるにいたったことと呼応しているようだ。
  ナンシーは、破局的な等価性について次のように書いている。
 アウシュヴィッツとヒロシマという二つの名に共通するのは、境界を越えたということである。それも、道徳、政治の境界でではなく、あるいは人間の尊厳の感情という意味での人間性の境界でもない。そうではなく、存在することの境界、人間が存在している世界の境界である。言いかえれば、人間があえて意味を素描し、意味を開始するような世界の境界である。実際、これら二つの企ては戦争や犯罪そのものをはみ出しており、それらがどのような意味内容を有しているのかは、そのつど、世界の存在からは独立した領野においてしか理解されなくなる [3]
 そして、フクシマは、アウシュヴィッツ、ヒロシマ・ナガサキに同列に加えられてしまったのである。フクシマもまた「諸々の名の極限における名となった」 [4] のである。
  このような「極限における名」たちを前にするとき、ナンシーも触れている [5] ように、アドルノの次のような言葉を思い出さざるをえない。
 
アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。
        テオドール・W・アドルノ  [7]
 
 アウシュヴィッツについては、アドルノの言葉に私は納得する。しかし、ヒロシマ・ナガサキばかりではなくフクシマについてもたくさんの「詩」が書かれているのではないか。しかも、私(たち)はそれを野蛮だとはけっして思ってはいない(くだらない「詩」がたくさんあることとは話は別だ)。
 アウシュヴィッツとヒロシマ・ナガサキ・フクシマのこの大きな差異は何に由来するのだろう。考えられることは次のようなことだ。ナチスに虐殺されるユダヤ人やロマ、共産主義者の存在は境界を越えた極限の名であるが、ナチスもまた人間が存在する世界のあらゆる領野を越えた極限の狂気(国家の狂気)であって、そのふたつの極限が存在する世界は、「意味を素描し、意味を開始するような世界」ではありえないだろう。
 しかし、ヒロシマ、ナガサキ、そしてフクシマでは、〈ヒバクシャ〉という極限の名、極限の存在について語られるばかりで、その対極を共存させて語られることがないのではないか。大都市の上空で爆裂する原爆がどんな結果をもたらすか、人間は想像できる。その想像を超えて原爆投下を決断する戦争国家の狂気は、ナチスの狂気と完全に比肩しうるものである。
  放射能汚染によって16万人が故郷を追い出され、残る人々もその日々を〈ヒバクシャ〉として生きなければならないフクシマが私たちの世界に間違いなく存在し続けているのに、「美しい日本」と言って憚らない政治(国家)の狂気、その原発を他国に売りつけ、「美しいトルコ」、「美しい◯◯◯国」を地球上に再生産しようとする狂気、フクシマそのものと私たちが暮らしているこの国家の狂気とを一つの世界として描ききる「詩」や「哲学」は存在するのだろうか。
 
[1] ジャン=リュック・ナンシー(渡名喜庸哲訳)『フクシマの後で--破局・技術・民主主義』(以文社、2012年)(p. 65)。
[2] 同上、p. 26。
[3] 同上、p. 34。
[4] 同上、p. 34-5。
[4] 同上、p. 30。
[5] ジャン・ボードリヤール(塚原史訳)『不可能な交換』(紀伊國屋書店、2002年) p. 7。
[7] テオドール・W・アドルノ(渡辺祐邦、三原弟平訳)『プリズメンーー文化批判と社会』(ちくま学芸文庫、1996年) p. 36。
 
 


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【メモ―フクシマ以後】 放射能汚染と放射線障害(4)

2024年06月29日 | 脱原発

2013年8月30日

 最近、『エコ・デモクラシー』 [1] という本を読んでいる。「フクシマ以後、民主主義の再生に向けて」というサブタイトルが付いているが、フクシマ以前に書かれた本で日本での訳本の出版がフクシマ以後だったと言うだけである。
 環境問題、生物圏の危機を扱った本なのだが、それを読むと原発問題はそこで述べられている様々な環境問題を超えてさらに生物圏の危機を拡大させていることが理解できる。
 そして、その本が指摘している極めて重要な問題点は、近代が獲得した代表制民主主義という政治システムが地球という大きな生物圏の危機を解決することは不可能に近いということである。
 著者は、その解決のために「エコ・デモクラシー」を提案しているが、それはハーバーマス流の熟議民主主義とも言うべきもので、代表制民主主義に代わるべき新しい民主主義でないのが少し惜しい感じがする本である。
 人間が生きているこの地球上の生物圏へ向かうような眼差しを持つならば、原発問題にどう対処するかは議論の余地がない。フクシマ以前であっても、そのことに気付いている人はたくさんいた。

夢に見るわれは抜け髪チェルノブイリ汚染地域の雨にまみれて
         道浦母都子 [2] 

 〈何度も事故があるのに......〉
いきいきと婚姻色に輝きて作動していむ原子炉の火は
         道浦母都子 [3] 

 優れた歌人の鋭敏な感受性と確かな想像力がなければチェルノブイリからフクシマに辿り着けない、などということは絶対にない。私のような凡庸な人間の想像力でも、放射能の「雨にまみれ」る恐怖は鮮烈なものだ。

[1] ドミニク・ブール、ケリー・ホワイトサイド(松尾日出子、中原毅志訳)『エコ・デモクラシー -フクシマ以後、民主主義の再生に向けて』(明石書店、2012年)。
[2] 『道浦母都子全歌集』(河出書房新社、2005年) p. 566。
[3] 同上、p.516。


2013年10月4日


 「福島を出ます」とおさな子を連れし背が去りゆく雨の向こうに
   (福島市)美原凍子(2011/7/4 佐佐木幸綱選)

日常の会話も悲し線量と逃げる逃げない堂々巡り
   (郡山市)渡辺良子(2011/7/25 高野公彦選)

 東電福島第一原発の事故から四ヶ月ほどたった頃、「朝日歌壇」に投稿、採用された短歌である。どれだけの日々の悩みがあり、故郷を離れざるを得ない悲しみがあり、哀切な別離と喪失があったのだろう。
 このような不幸な出来事から人々を守るために、倫理・道徳が生れ、社会規範としての法が成立してきたはずなのに、原発事故の関連死が数千人に及ぶという現在に至るまで、誰一人として法によって裁かれようとしていない。
 いかに資本主義社会といえども、一私企業の営利活動が多数の人命より優先するような立法精神というものはなかったはずだ。現状は、政治とその権力構造に取り込まれた司法によって恣意的な法の運用がなされていると考えざるを得ず、そこでは人倫などというものより経済的豊かさのみが追求されているのだ。どんなに偉そうに政治や社会を語ろうが、所詮は「目先の金」がすべてなのである。

 



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【メモ―フクシマ以後】 脱原発デモの中で (5)

2024年06月23日 | 脱原発

2013年2月8日

 昨日、twitterでのデモの呼びかけに、天気予報を調べてから「明日は寒くなさそうですね」と応答したのだが、とんでもない。今日はずっと雪がぱらついて、風の強い1日だった。デモの頃の気温はマイナス2℃くらいで、風がなければとくに寒いというわけではないが、小雪混じりの強風に閉口した。
 ほんとうに春が恋しくなってきた。
 春の彼岸の頃には、私が生まれ育った宮城県北の農村では雪が消え、子どもだった私は待ちかねてマブナ釣りに出かけるのだ。

風の日は魚もこもりて春彼岸  鷹羽狩行 [1]

 風のない暖かい日を選んで近くの小さな川で竿を出すのだが、そんなに釣れた記憶がない。釣りに飽きて、風を防いでくれる堤防の斜面に寝っ転がって暖かな陽ざしを楽しんでいると、枯草の匂いがふわっと顔を包みこむ。
 この枯草の匂いに私は一番強く〈春〉を感じる。雪が消えただけのまだ何も萌え出していない枯野に、影も形もない春が強い気配を漲らせている。そんな早春の短い時期がとても好きで、中学生くらいになってからは釣り竿と本を持って堤防斜面の枯草の上で時間を費やすのが習いであった。
 彼岸とはいえ風が吹けばまだ震えあがるほどの寒さがぶり返すのだが、ずっと春を待ち続けている子どもには、枯草の匂いもまた春の匂いなのである。
 春を待つ気持ちがもっとも強くなるのは、おそらく寒さが極まる2月の頃だろう。脱原発を願ってデモをするためにこの勾当台公園に集まって来る人たちもまた、春を待ちかねているにちがいない。春になれば、草や木が萌え出すように、人の心ももっと強く萌え出すだろうし、原発ゼロを目指す大勢の人が街に出てくるのではないか。春を待つ気持ちのなかにはそんな期待もある。
 そう、これからしばらくは「春待ちデモ」である。
 当たり前のことだが、春はまちがいなくやってくる。問題はそこからなのだ、きっと。

春がきたのなら春に目覚めねばならぬ
夏がきたら夏に目覚め
たとえどこまでしきたりが続くにしても
いろとりどりに空間をきらねばならぬ
        渋沢孝輔「広場への散歩」部分 [2]

[1] 鷹羽狩行『句集 十二紅』(富士見書房 平成10年)p. 16。
[2]『現代詩文庫42 渋沢孝輔詩集』(思潮社 1971年)p.17。


2013年6月14日

 デモが一番町に入ると、先週から開催されていた大陶器市が今日で終るらしく、それぞれのテントは商品の片付けをしている。先週と同じようにここではコールを遠慮しながら歩くのである。
 定禅寺通りから一番町に入り、広瀬通りに出る少し手前に「ブラザー軒」がある路地の前を通る。じつは、昨日ひさしぶりに菅原克己の詩を読んでいて、そこから高田渡の「ブラザー軒」に想いが及び、これまたしばらくぶりの高田渡の歌を聴いた。
「東一番丁 ブラザー軒」という歌い出しで始まる菅原克己の詩に高田渡が曲を付けて歌っているのだ。ブラザー軒の椅子に座った詩人が亡くなった父親と妹の幻影を追うという内容の詩で、次のようなフレーズで詩は終る。

死者ふたり、
つれだって帰る、
ぼくの前を。
小さい妹がさきに立ち、
おやじはゆったりと。
東一番町、
ブラザー軒。
たなばたの夜。
キラキラ波うつ
硝子簾の向うの闇に。
     菅原克己「ブラザー軒」部分 [1]

 じつに静かな感情で亡くなった者たちへの哀惜を詠ういい詩だし、いい歌である。高田渡は歌うべき素敵な詩を選ぶ才能に恵まれたフォーク歌手だった。
 菅原克己は宮城県亘理町生まれで、黒田三郎や吉野弘と同じように、辛い社会を優しい心でとらえ続けた詩人で、私としては次のような詩がとてもお気に入りなのである。

もう会うときはあるまいと、
それぞれ考えながら
それでも年に一度ぐらいは、
などといたわりあって別れる
むかしの人に会ってきた。
二〇年目に、
暗い八重洲通りで……
     菅原克己「むかしの人」部分 [2]

  反原発デモの話が、菅原克己の詩の話題になってしまったが、これもいいことにしよう。デモは来週も、再来週も、その後もずっとあるのだから、今日はこのまま詩の話で終ることにしよう。

蔵王の、
ぶなの森の、
小径は良かったね。
蛇や栗鼠があそんでいた。
人がいないのに
かえってにぎやかだった、
あの木漏れ日の小径は。
    菅原克己「蔵王の小径」全文 [3]

 2週続けて蔵王連山の北の端の山を歩いた。木漏れ日の小径が賑やかだというのは、一人で山歩きをする人間には意外と共通する感覚かも知れない。
 来週も山へ行こうと思っているが、梅雨時の天気予報は思わしくなく、雨天登山などは避けたい身にはまったく予定が立たないのだ。
 さて、菅原克己も高田渡も亡くなってずいぶん時がすぎた。「東一番丁」もとうの昔に「一番町」と名前を変えられてしまっているが、ブラザー軒は昔の名で立派に残っている。

[1] 『菅原克己全詩集』(西田書店  2003年)p.78。
[2] 同上、p.184。
[3] 同上、p.28。


 

 

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【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(6)

2024年06月21日 | 脱原発

2012年12月21日

 今朝の朝日新聞(2012年12月21日付け)に小熊英二さんのインタビュー記事が載っていた。脱原発運動の盛り上がりと総選挙の結果との大きな落差についての話だったが、なかに次のように述べている箇所があった。

この1年半、いろいろなデモに参加しました。創意工夫にあふれたプラカードや主催者の運営など、人々の成長は著しい。政治や経済の勉強もして討論もするからどんどん賢くなります。参加を経験し、自分が動くと何かが変わるという感覚を持つ人がたくさん出てきたことに希望を感じます。運動の意義は、目先の政策実現だけではありません。

 そうなのだ、私たちは主張もしているが、同時に主張する私たち自身を鍛えてもいるのだ。劇的に参加人数が増えるわけでも、先週のデモから目を見張るほど今週のデモが進歩するわけでもないけれども、傍観者からはうかがい知れない深い場所で一人一人が変わっていってる、ということだ。それはいずれ新しい力の形で顕在化するだろう、と私は信じている。

 

2013年7月19日

  それなりに長いこと生きてきたが、選挙というものに楽しい思い出はない。すべての選挙で投票してきたが、私が投票した人物が当選したという経験はほとんどない。いまさらのことだが、ほとんどの場面でマイノリティの側として生きてきた、ということである。
 原発ゼロを望むのは国民のマジョリティの意見である。憲法改正反対もマジョリティの意見である。少なくともマスコミの調査ではそのような結果が出ている。つまり、その2点に関して言えば、私はマジョリティの側に属している。
 今までだってそのようなことはあった。最大の争点と思われることがらでマジョリティの側として投票したのに、それが結果に反映されないのだ。日本のマジョリティは、政治的争点ということを考慮して投票しているわけではないらしい。
 そのことを自民党は知悉していて、今回の選挙での最大の争点のはずの「憲法改悪」、「原発」、「TPP」、「嘉手納基地」を完全に隠してしまった。首相は選挙を福島から始めながら「原発」に触れようともしない。そんな卑怯な方法も、経験的には有効であることを自民党はよく知っているらしい。
 何よりも不思議なのは、争点を隠されたら国民から見えなくなるらしいということで、ほんとうに理解するのが難しい。たかだか2週間ちょっとの間、政治家が口にしなかったら、原発やTPPの問題はないものだと考えるらしいということが理解できない。
 一番気になるのは、「政治は大所・高所から判断するべきだ。原発だけが日本の問題ではない。憲法以外にも緊急の政治課題があるのだ。全体を勘案して投票すべきである」としたり顔で語る「高所・大所シンドローム」患者が意外に多いことである。そんな言説で政治的争点がグズグズにされてしまう。
 そんな患者は、町会議員や市会議員、その取り巻きでいっぱしの政治家気取りの人間、あるいは職場や町内の政治通らしき人間に多いように思う。たぶん、新聞、雑誌、本、ネットなどのマルチメディアから政治問題を積極的に集めようとしないマジョリティは、そんなクズな言説にしてやられるのかも知れない。
 ましてや、テレビだけが情報源だということになったら最悪である。テレビに出てくる解説者、評論家などというのは、純正な高所・大所シンドローム患者そのものなのだから。
 くどくど言ってもしょうがないが、今度の参議院選挙の投票は誰に投票するかは悩みようがない。朝食をたべながら家族で選挙の話題が出たが、考えていることは同じで1分もかからず話題が尽きた。我が家の家族は全員、マイノリティになる確率が高い、ということらしい。



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【メモ―フクシマ以後】 放射能汚染と放射線障害(3)

2024年06月20日 | 脱原発

2013年5月17日

  被爆地を這ふほかになき山楝蛇(やまかがし)
         (いわき市)馬目空

 昨年の7月くらいから、朝日新聞の投稿欄「朝日歌壇」、「朝日俳壇」から原発事故に関連して詠まれた短歌や俳句を抜き書きしている。上の句は今年の4月8日付の新聞に掲載された金子兜太の選による句である。
 人間も家畜もペットも、放射能汚染と放射能被爆によって悲惨な状況に追いやられている。そして、人間も家畜もペットもその一部は避難できたり救出されたりしているが、多くは見捨てられたままである。それでも、見捨てられていることを人々は口の端に登らせ、不十分とはいえマスコミも時として取り上げることがある。
 しかし、野生であるものたち、おそらくは人間よりももっとずっと太古からその地で生き続けてきた野生の命の被爆は無視され続けている。少数の生物学者が多くの形質異常を発見するのだが、それだけである。被爆地を這うほかに彼らの生のありようはないのである。
 そして、放射能にまみれた地を這うヤマカガシの姿は、様々な事情に阻まれてその地を去ることのできない人々の生に重なってしまう。それぞれの交換不可能な生を、東京電力はおろかどのような政治も贖うことはできない。 
   (中略)
 上記の句と同じように、5月6日付けの朝日新聞、「朝日歌壇」に次のような短歌が載っていた。佐佐木幸綱の選である。

原発反対叫びて過ぎし三十年上関の里に春は来にけり
            (山陽小野田市)淺上薫風 

 30年も闘い続けていて、まだ闘いは続いている。そして、いつものように季節はめぐっているのである。これからの30年という反対運動を想像してみる。当然ながら、私は生きてはいない。「私に目の黒いうち」とは言わないが、それでも30年経ったころには全原発廃炉が実現していればいい、そう願っている。



2013年6月14日

 5月17日の朝日新聞・朝日歌壇に次の歌が選ばれていた(選者:高野公彦)。

下北の原燃原発見下ろして安全無限の風車が回る
             (東京都)宮田礼子

 風力発電の風車の支柱が折れるという事故のニュースがあって、風力発電にもそれなりのリスクはある。しかし、無人の野に建てられる風車では真下に人がいる確率はほとんどゼロに等しく、仮に人身事故が起こったにせよ、東電福島第1原発のリスクとは比べようがない。
 風車のリスクを基準にすれば、原発1基のリスクは無限大であることは〈フクシマ〉によって事実として証明されている。原発を基準にすれば、風力発電の風車の「安全性」は無限大である。
 原子力や放射線医学の専門家はしばしば「リスクコミュニケーション」が大事だという。しかし、彼らのリスクコミュニケーションとは口八丁、手八丁、加えて札びらの威力で「無知な大衆」に「安全である、危険はない」と信じ込ませる作業であるらしい。少なくとも、東大教授の島薗進先生の『つくられた放射線「安全」論』 [1] をよむかぎり、そうとしか思えない。
 専門家の「安全信仰」と比べれば、上の歌に詠まれた「安全無限の風車」という歌詠みの眼差しがいかに正しく、信頼できるかは言うまでもない。

[1] 島薗進『つくられた放射線「安全」論』(河出書房新社、2013年)。



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