かわたれどきの頁繰り

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【書評】 『中本道代詩集(現代詩文庫197)』(思潮社、2012年)

2013年02月12日 | 読書

                    

 詩は好きで、いつも読みたいとは思っている。大きな本屋では思潮社の「現代詩文庫」というシリーズがずらっと並んでいて、その2,3冊を手にとってみるのだが、たいていの場合、何かしっくり来なくて棚に戻して終わってしまう。詩が好きだといいながら、じつのところ詩の世界を感受する帯域がきわめて狭いのではないか、と思う。バンドパスフィルターがきつく作動しているのである。この詩集は、その狭いバンドパスフィルターをくぐり抜けた1冊である。

 この詩集のいちばんはじめの詩は、次のようなものである。

乳房にやさしいくちびるが
ほしい時がある
わきばらに荒々しいてのひら
腰にかたいつめ
のどにまっしろな歯の列が
ほしい時がある
男のようなものでなく
それらがばらばらに
ほしい時がある
春になったばかりの
ひるねのころなんか
        「三月」全文 (p.10)

 女性の詩である。優れた女性の詩に出会うといつも〈瞠目すべき他者〉という思いを抱くのだが、この詩もそのような一篇である。男であれ、女であれ、私たちは経験(知覚された人生)を通して共感し合えるイメージや感情の世界を持っている。もう少し正確に言えば、認識経験を通して私なりの間主観的な想世界、私と他者と間に介在するメタ的な世界を形成している。それぞれの間主観的メタ世界を介して、私たちは共鳴し合える。そんな風に私は考えている。
 そのメタ的想世界をフル稼働させても〈ある余剰〉が垣間見え、なぜかその〈余剰〉に惹かれたとき、私はそこに〈瞠目すべき他者〉を見るのである。そして、そのときの詩人は女性であることが多い、というだけのことなのだ。

 中本道代の詩で、際立って目につくのはその叙述性である。たとえば、次の詩は、「臨月の女」、「母親」、「子供」、「孕む」、「子宮」などの言葉で綴られているが、けっして女性性を主題にしているとは思えないのである。いやむしろ、女性性を主題とする多くの詩のような主情的、感情的な湿度がほとんどない。

臨月の女が蕗を煮る
田舎の母親がうつ病で死ぬ
あの子供は
いつも高い所から小便をしてぶたれる
女たちはつぎつぎに孕む
孕むために生まれたように
そして病気になったりする
むし暑い日は空から揮発油が垂れる
子供たちはズボンを下げて走りまわり
蟻の穴を見つけると棒をつっこむ
臨月の女が階段をのぼってくる
子宮の口が開きかけて
手首に包帯がまかれている
            「六月」全文 (p. 17)

 確かに描かれているのは、〈おんな〉の世界のイメージである。しかし、〈おとこ〉の対抗ジェンダーとしての女ではない。そのものとして存在する〈おんな〉の世界である。それが、シュールレアリスティックなイメージ配置をとりながら世界を形成している。

 上の詩が、主情を交えない叙述性に拠っているとすれば、次の詩はどうだろう。

日ごとに外が明るくなる
病人は熱の匂いに飽き
鶏舎ではめんどりが胃に砂粒を沈ませている
子供たちの声があちらこちらで上がる
鉄塔の上でカラスが鳴く
金属製のものが帯電する
紳士は林の入り口に立って待ち
ズボンの前をあけて人を驚かせる
期待に顔もかがやいている
            「回復期」全文 (p. 20)

 技法としての叙述性は全く同じなのだが、ここには喜びのような感情が溢れている。「金属製のものが帯電する」という抽象性、「紳士は林の入り口に立って待ち/ズボンの前をあけて人を驚かせる」という猥雑性は、喜びに裏打ちされた快活な世界観のようですらある。優れた叙述性が示すイメージが放射する豊かさがここにはある。

 私が〈瞠目すべき他者〉として受容する詩人は、私のメタ的想世界にとっての〈余剰〉を垣間見せる。そして、その〈余剰〉こそが、私を惹きつけてやまないものでもある。それは、私の中に在りそうでいながら、どこかに未知の新しいイメージが宿っているためである。
 そのような詩句を拾い上げてみる。

生まれてしまったものがみな
しかたなくまた
暴力的に
群れをなして育っているのだ
           「祝祭」部分 (p. 19)

ひらくとき
花は痛いだろうか
階段で猫がはね上がる
何度も

日々
よぶんな食事をとる
       「アルミニウム製」部分 (p. 21)

女はケースに保存され
無事生きている人間たちをまわりに集めるだろう
だが魂はどこへ行ったのか
こんなふうに
いわば
自分で自分を食べてしまつた場合には
        「悪い時刻」部分 (p. 27-8)

心が痛む
楽しむつもりだったのよ
ここに来たのは
        「四月の第一日曜日」部分 (p. 32)

サクラが開こうとしていた
日本と呼ばれた国の

誰もいない裏側に向かつて
        「春の遍在」部分 (p. 76)

 これらの詩句の特徴は、その構造にある。「生まれてしまったもの」や「ひらくとき/花は痛いだろうか」のような主情を帯びたような叙述が、「暴力的に/群れをなして育っているのだ」や「日々/よぶんな食事をとる」という事実性の強い叙述で受け止められる。このような構造を持つ詩句から、これはイメージの持つ思想である、「日本と呼ばれた国の」「誰もいない裏側」で編まれている思想である、と私は強く思うのだ。
 詩人は自らの詩について、次のように述べている。

詩を書こうとするとき、すでに見えているものについては書かない。書き終えたとき初めて見えるようになるものを書く。それは一つの光景だが、この世界の光景そのものではない。この世界の下にある光景とも上にある光景とも言えるが、この世界と二重になっているような世界の光景なのだ。あるいは、現実が放つ光が「私」というレンズを通して結ぶ光景と言うこともできる。 「私の皿」 (p. 114)

 私が「思想」と呼んだものは、「この世界と二重になっているような世界の光景」ということなのだろう。「この世界」に対置できるものは「思想」だというのは、私の思想である。

 誤解のないように言っておくと、私が感動するのはそのような〈余剰〉ばかりではない。当然のことながら、メタ的世界のど真ん中でも共鳴する。本来はそのような感動の方が本筋のはずだが、それは場合によっては感情が動かされない〈普通〉であることが多い。詩集を手にとったときの動かされない感覚というのは、その〈普通〉のためではないかと思う。
 共通するメタ世界で〈普通〉を超えるイメージで共感できるシーンは、ある種の日常性を帯びることが多い。

踏み切りの警報機が鳴る
しゃ断機がおりてまた上ると
わけもなく渡りたい
 …………
私の胸は無欲のままで
あてのない欲望を呼吸する
         「地上」部分 (p. 15)

 街歩きと称して特別な目的など毛頭ないような彷徨を繰り返していると、坂道や橋と同じように、「踏切」もまた感情の起伏が大きくなる場所である。私にとっては、「踏切」はまた死者の場所であるというごく私的な事情もあるのだが。

 詩を読む感動を、メタ世界からはずれる〈余剰〉によるものとメタ世界の共通性によるものとに粗っぽく分けてしまったが、そのように詩集全体を眺めると、前者は初期の詩集に多く、後者は後期、とくに2008年の詩集『花と死王』に特徴的なような気がする。そういう意味では、上の「地上」は初期の詩集『春の空き家』に属している例外で、次のような後期の詩を予感させている。

せせらぎのそばで
羽化した蝶が羽を震わせている
白い小さなからだから
そんなにも高速の力で羽を振動させている

離れたところで
紫のほたるぶくろが揺れている
山を霧が渡っていく
山の中の道は
だれがいつ
踏み始めたのだろう

蝶はまだ
飛ぶことができずに羽を震わせている

せせらぎは冷たく
流れ続けている

せせらぎの下では金の砂が
微小に 微小に
輝いている

そんな山奥の金色の想いを

だれも知らない
         「奥の想い」全文 (p. 94-5)

 山や森もまた私の大切な場所であり、人間遠く離れた山奥の微細な空間の揺動、ささやかな生き物たちのかすかな動きのイメージは、山歩き、森歩きのもたらす良質な感覚である。一人で山奥を徘徊しながら「そんな山奥の金色の想いを/だれも知らない」とひそかに思っている自分がいる。それが孤独な山歩きの本質だと言ってもいいのである。

 メタ世界の共通性というのは「日常性」ばかりにあるわけではない。次の詩がそれを示しているだろう。

都市の汚れた小さな川に
鯉が太り
夕暮れを映してひとすじに
曲がつてさらに都市の中心へと
流れていく

小さな川も空を映せば
底なしになり
鯉はおびただしく
川を泳いでいるのか空を泳いでいるのか
わからない眼を開いている
          「鯉」部分 (p. 97)

 この詩は松本竣介の絵画と強く共鳴して、私のイメージを揺るがすのである。もちろん、竣介は鯉の絵など描いていない。共鳴しているのはモンタージュ技法で描かれた〈街〉のシリーズの絵である。そこには、多層性のグラッシ法(透明描法)を用いて、相互浸透する多数の時空が重なり合って描かれている。
 鯉の泳ぐ川は、都市の中心に流れ込むのだが、イメージは都市に重ね合わされ、鯉は「川を泳いでいるのか空を泳いでいるのか/わからない」、そんな多重性の時空を泳ぐのである。

 私は松本竣介の中ではとりわけ上記の〈街〉シリーズの絵が好きである。さて、竣介のそんな絵が好きでなかったら、中本道代の「鯉」という詩に感動しただろうか。竣介の〈街〉シリーズが嫌いだった経験のない私には、それは分からない。竣介の絵の介在なしにこの詩の良質のイメージが受容できる、とできることなら信じたいのだが。