かわたれどきの頁繰り (小野寺秀也)

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【書評】ジョルジョ・アガンベン(上村忠男訳)『到来する共同体』(月曜社、2012/2015年) その2

2015年12月14日 | 読書

 

【続き】


 もうすこし、形而上学的なアガンベンの理路を辿っておこう。

  アリストテレスによると、あらゆる可能態は二つの様相に分節されるという。これら二つの様相のうち、いまの場合に決定的なのは、彼が《存在しないことの可 能性(dymamis mē einai)》、あるいは無能力(adynamia)と呼んでいるものである。なぜなら、なんであれかまわない存在がつねに可能態としての性格をもってい るというのが真実であるなら、しかしまた、それがあれやこれやの特殊的な行為をなす能力があるにすぎないのでもなければ、能力を欠いていて、単純に何もで きないのでもなく、いわんや、全能であってどんなものでも無差別になしうるというのではないことも、同様に確実であるからである。存在しないでいることが できる存在、自ら無能力であることができる存在こそ、本来、なんであれかまわない存在なのである。 (pp. 49-50)

  「なんであれかまわない存在」は、無能力なのではない。あくまで「無能力であることができる存在」なのである。「存在していること」、「能力があることは なにがしかの行為を対象として持っている。しかし、「存在しないでいること」、「無能力であることができること」は、そのような能力を持つということ自体 が対象になっている。アガンベンは、それをpotentia potentiae〔能力の能力〕と呼んだうえで、「能力でもあれば無能力でもありうるような能力のみが至上の能力である」(p. 51) とする。
  このような「なんであれかまわない存在」のアンチノミー、不条理性を、アガンベンはメルヴィルの『バートルビー』の主人公の存在に見るのである。バートル ビーは、法律事務所に雇われた有能な書記なのだが、ある時から《書かないでいることのほうを好む》、《しないでいることのほうを好む》(I would prefer not to)と語り、仕事を拒むようになる。

  完全な書記行為は書くことの能力からやってくるのではなく、無能力が自分自身へと向かい、このようにして(アリストテレスが能動知性と呼んでいる)純粋の 行為として自らに到来することからやってくる。このため、アラブの伝統のなかでは、能動知性はクァラム〔Qualam〕つまり「ペン」という名をもち、計り知れない可能態を居場所とする天使の姿をしているのである。バートルビー、すなわち、ただ書くことを止めず、しかしまた《書かないでいることのほうを好 む》筆生は、自らの書かないでいる能力以外のものは書かないこの天使の極端な像にほかならない。 (p. 53)

  このように「なんであれかまわない存在」の本質についての議論がさらにいくつかの章を通じてなされているが、それは「なんであれかまわない」ところの個 体、個物それ自体の本性の追求であって、「他なるもの」や「他者」との関係性については必ずしも明確ではない。そういう点では、「外」と題する3ページに 満たない章は、きわめて示唆的に個体とその外部との関係を論じている。

 なんであれかまわないものは純粋の個物がとる形象である。なんであれかまわない個物は自己同一性をもたず、ある概念との閧連で限定をほどこされることもないが、しかしまたたんに無限定なものでもない。むしろ、それはあるイデア、 すなわち、その可能性の総体との関連をつうじてのみ、限定をほどこされる。この〔イデアとの〕関連をつうじて、個物は――カントが言うように――可能なも のすべてと隣接することとなるのであり、こうして、そのomnimoda determinatio 〔あらゆる様態における限定〕をある特定の概念やなにがしかの現実的特性(赤いとか、イタリア人であるとか、共産主義者であるとかいった)に参与すること からではなく、もっぱらこのように〔可能なものすべてと〕隣接しているということをつうじて受けとるのである。それはあるひとつの全体に所属するが、この所属はなんらかの在的な条件によって表象されることはありえない。 (pp. 85-6)

  可能なものすべてと隣接するとはどういうことだろう。「なんであれかまわない」こと自体が、「純粋の外在性、純粋の露呈状態以外の何物でもない」形ですべてに開かれていることを意味しており、そのまま「外部のできごと」なのである。その状態で、外部と接触する敷居=閾(Grenze(境界))があるとい う。

  ここで重要なのは、《外〔fuori〕》という概念が、ヨーロッパの多くの言語において、《戸口で》を意味する語によって表現されているということである (ラテン語の「フォレス〔fores〕」は「家の戸口」、ギリシア語の「テュラテン〔thyrathen〕」は文字どおり《敷居で》を意味する)。はある特定の空間の向こう側にある別の空間ではない。そうではなくて、通路であり、その別の空間に出入りするための門扉である。一言でいうなら、その空間の顔、その空間のエイドス〔eidos〕なのだ。
 この意味では敷居=閾は限界と別のものではない。それは、こう言ってよければ、限界そのものの経験、外の内にあるということである。このようなエク-スタシス〔ek-stasis:脱我の状態に入りこむこと〕こそ、個々の単独が人類の空っぽの手から受けとる贈り物にほかならない。 (p. 87)

 「なんであれかまわない存在」は、外部である「他なるもの」の時空と交流する。
  こんなふうに、「なんであれかまわない」ことの哲学的な概念が次第に明確になってくる。これまでは、まだ形而上学的な議論にとどまっているのだが、終章に 近づくにつれて、アガンベンの論述は観念上の論理世界から現代の地上における「なんであれかまわない単独者の共同体」の議論へと降り立ってくる。
 20世紀に入って、資本主義的商品化、消費の時代が進展するにともなって人間の肉体は広告のメディアに組み込まれる。それはある意味で、何千年もの間、宗教的スティグマ、神学的モデルからの人間の肉体の開放でもあった。

いまや人間の肉体は、類的なものでもなければ個的なものでもなく、神を象ったものでもなければ動物の容姿をしたものでもなく、ほんとうになんであれかまわないものに転化するのだった。 (p. 64)

 この消費社会にはもはや社会階級は存在しないとアガンベンは主張する。つまり、「惑星的なプチ・ブルジョワジー〔una piccolo bourghesis planearia〕存在するだけ」(p. 80) とする。

  だが、このことはまさしくファシズムとナチズムもまたつかみ取っていたことであった。それどころか、旧来の社会的主体が取り戻しようもなく没落してしまっ たことを明確に見てとっていたことこそ、それらが乗りこえようもなく近代に刻印されていることを証し立てている。(厳密に政治的な観点から見た場合には、 ファシズムとナチズムは乗りこえられてはおらず、わたしたちはなおもそれらの印のもとで生きているのだ)。しかしまた、それらが代表していたのはなおもま がいものの人民的アイデンティティにしがみついた一国的なプチ・ブルジョワジーであって、その人民的アイデンティティに依拠したところでブルジョワ的偉大 さの夢が作動していたのだった。これにたいして、惑星的なプチ・ブルジョワジーはこれらの夢からはすでに解き放たれており、それと認知しうるどんな社会的 アイデンティティをも放棄しょうとするプロレタリアートの傾向を自分のものにしてしまっている。存在するものいっさいをプチ・ブルジョワは仕草そのものの なかで無化し、頑固としてその無化された状態に執着しようとしているように見える。彼は非本来的なものと真正でないものしか認めない。そして本来的な言葉 という観念までをも拒否している。 (pp. 80-1)

  一国の閾を超えてグローバルに(惑星的に)広がったプチ・ブルジョワの世界。プチ・ブルジョワジーは、ネグリ&ハートのマルチチュードにイメージと、ス ティグレールの貧しい象徴しか持たない大衆にイメージを重ね合わせた存在のように見える。「プチ・ブルジョワの生活のばかばかしさ」は、「絶対に非本来的 で無意味なものに転化してしまっているアイデンティティをなにがなんでも自分のものにしようとして譲らないでいる」(p. 82) ことに由来する。そのうえで、アガンベンは、プチ・ブルジョワジーの否定性を、次のように積極的な肯定性に転倒させようとする。

こ のことは、惑星的プチ・ブルジョワジーとはたぶん人類が自らの破壊に向かって歩んでいくさいにとる形態であろうということを意味している。だが、このこと はまた、それは人類史上未曾有の機会を表象しているということ、この機会はなんとしても見過ごすわけにはいかないということも意味している。なぜなら、も し人間たちがなおも自らの本来的なアイデンティティなるものをすでに非本来的でばかげたものになってしまった個性のかたちで探し求めるのではなく、この非 本来性をあるがままに受けいれるとしよう。そのような自らのあるがままのありようを自己同一性とか個人の特性とかにするのではなく、自己同一性なき単独 性、だれにも共通で絶対的に万人の目に曝された単独性にすることに成功するとしよう。すなわち、もし人問たちがあれやこれやの個々人の伝記的な自己同 一性のうちにあってそんなふうに存在しているのではなく、無条件にそんなふうに存在しているにすぎず、それぞれが独自の外面性と顔つきをもっているにすぎ ないというようなことがありうるとしよう。そのときには、人類は初めてもろもろの前提や主体をもたない共同体、もはや伝達不可能なものを知らないコミュニ ケーションへと入りこんでいくだろうからである。
  新しい惑星的な人類のなかでその生存を可能にするそれらの性格を選り分けること、メディアをつうじてなされる悪しき宣伝広告活動をただひとり外部性のみ伝 達する完全な外部性から切り離している、薄い隔壁を除去すること――これがわたしたちの世代に託された政治的任務である。 (pp. 83-4)

  かくして、プチ・ブルジョワは、グローバルな広がりをもつ惑星の各地に存在する「なんであれかまわない単独者」たちとなる。いわば、マルチチュードと呼ば れる人々のさまざまなアイデンティティを縮約したような存在として立ち現れる。いや、マルチチュードのそれぞれのアイデンティティを捨象したうえで、すべ てのアイデンティティに開かれている存在と言うべきか。つまり、なんであれかまわないのである。

  最終形態における資本主義は――こうドゥボールは、当時愚かにもなおざりにされていた商品の物神性にかんするマルクスの分析をさらに徹底させて論じている ――もろもろのイメージの莫大な蓄積というかたちで立ち現われる。そしてそこでは、かつては直接に生きられていたもののいっさいが表象へと遠ざけられてし まう。しかしまた、スペクタクルは単純にイメージの領域、あるいはわたしたちが今日メディアと呼んでいるものと合致するわけではない。それは《イメージに よって媒介された人格間の社会関係》であり、人間的社会性自体の収奪と疎外にほかならない。あるいは、碑文休の定式で表現するなら、《スペクタクルとはイ メージに転化するほどまでの蓄積段階に達した資本にほかならない》。しかし、まさにそれゆえに、スペクタクルは分離の純粋形態以外のものではない。 (pp. 99-100)

  現代資本主義を語る思想家は多いが、アガンベンは、1968年を象徴するようなギー・ドゥボールの『スペクタクルの社会』に言及する。現代資本主義の生産 全体を「変造」してしまったスペクタクルは、スティグレールのハイパーインダストリアル時代におけるハイパーシンクロニゼーションと同じように「いまや集 合的な知覚を操作し、社会的な記憶とコミュニケーションを独り占めにして、それらを単一のスペクタクル商品に変貌させてしまう」(p. 100) のである。巨大資本(マスコミ)によるハイパーシンクロニゼーションが「われわれ」の共有する象徴を奪ってしまうように、私たちの「〈共通のもの〉の収奪 の極端な形態がスペクタクルにほかならない」として、アガンベンは、資本主義が生産活動ばかりではなく、私たちの言語活動や人間のコミュニケーション的本 性をも阻害するという点において「マルクスの分析には補充が施されなければならない」(p. 101) と主張する。

し かし、このことはまた、スペクタクルにおいてはわたしたちの言語的本性そのものが反転したかたちでわたしたちのもとに立ち戻ってくるということをも言おう としている。このために(まさに共通善の可能性そのものが収奪されようとしているために)スペクタクルの暴力はこんなにも破壊的なのである。しかし、同じ 理由から、スペクタクルはなにかそれへの対抗策として使用することのできる積極的な可能性のようなものを内包してもいるのである。 (pp. 101-2)

  アガンベンは、スペクタクル社会における言語活動の疎外を、ユダヤ教の聖典『タルムード』の中の寓話を引用して《シェキナーの孤立》に喩える。「シェキ ナー」とは神の10の属性の一つで「神の顕現の最も完成された形態」である「認識と言葉」を意味する。スペクトル社会が言語(活動とコミュニケーション) を疎外することは、あたかも神の属性の中からシェキナーを分離し、孤立させてしまったことに相当しよう。そして、ある意味では、孤立することでそのほかの 神によって「啓示されるものから〔言語活動を〕を分離し、自立した存立を獲得してしまっている」(p. 103) ことになる。

〔……〕 スペクタクルの社会においては、このコミュニケーション的本質そのもの、この漠然とした一般的本質そのもの(すなわち言語活動)が他から切り離されて自立 した領域を形成するようになる。コミュニケーションを妨害しているのは、コミュニケーション能力そのものである。人間たちは人問たちをひとつに結びつけて いるものから切り離されるのだ。ジャーナリストとメディアクラットがこの人間の言語的本性からの疎外の新しい僧侶である。 (pp. 103-4)

  「この惑星のいたるところで伝統と信念、イデオロギーと宗教、アイデンティティと共同性を解体し空っぽ」になり、言語活動はそれらから切り離されて孤立し ているスペクトル社会は、きわめて逆説的なことだが、孤立しているからこそ純粋な「言語活動そのもの」、「人が語るという事実そのものを経験することが初 めて可能になった時代」(p. 100) なのである。

  それ〔いっさいを荒廃させてしまう言語活動の経験〕を徹底的に遂行して、啓示する者がそれの啓示する無のなかに隠蔽されたままとどまっていることをゆるさ ず、言語活動そのものを言語活動にもたらすことに成功する者たちだけが、もろもろの前提も国家ももたず、共通のものを無化し運命づける力が鎮静化され、 シェキナーが自らの孤立した状態の邪悪な乳を吸うことを止めるような共同体の最初の市民であるだろう。 (p. 105)

 私たちの言語にかかわる諸々が荒廃されてしまった中から、孤立した言語活動を純粋な単独者の言語活動として反転させて立ち上げたものが「なんであれかまわない単独者」としての共同体を形成するだろう。そうアガンベンは言うのである。
 なんであれかまわない単独者の政治とはいかなるものか、アガンベンはその答えを最終章で天安門事件からくみ上げる。

  じっさいにも、中国の一九八九年五月のデモにおいて最も衝撃的なのは、特定の要求内容が比較的不在であったことである(民主化と自由は衝突の実際的な対象 を構成するにはあまりにも漠然としていてつかみどころのないスローガンである。そして唯一の具体的な要求であつた胡耀邦の名誉回復は速やかに讓歩されてい た)。それだけに国家権力による反動の暴力は説明しがたいように見える。それでもたぶん、釣り合いがとれないように見えるのはあくまでも外見上のことで あって、中国の指導者たちは、彼らなりの観点になったところから、もろもろの論点をもっぱら民主主義と共産主義の対立というますます説得性を失いつつある 対立にもっていこうと腐心している西洋の傍観者たちよりもはるかに大きな明晰さをもって行動しているのだった。 (pp. 107-8)

  もうすでに現在の政治闘争は国家主権の奪取のようなものではなく、「国家と非国家(人類)のあいだの闘争、なんであれかまわない単独者たちと国家組織との 埋めることのない分離になる」(p. 108)という。なんであれかまわない単独者たちは国家に要求すべきアイデンティティを持たない。国家に承認させるべき所属のきずなももたない。

し かし、複数の単独者が寄り集まってアイデンティティなるものを要求することのない共同体をつくること、複数の人間が表象しうる所属の条件を(たんなる前提 のかたちにおいてであれ)もつことなく共に所有する〔co-appartenere〕こと――これこそは国家がどんな場合にも許容することのできないもの なのだ。というのも、国家の基礎をなしているのは――バディウが明らかにしたように――それが体現しているという社会的なきずなではなく、そのきずなの解 体であるからであって、これを国家は禁ずるのである。国家にとっては、重要なのは断じて単独者そのものではなく、あくまでもその単独者がなんであれかまわ ないがひとつのアイデンティティのうちに包含されていることであるにすぎない(しかしまた、そのなんであれかまわないもの自体がアイデンティティをもつことなく取り戻されること――これこそは国家が折り合いをつけるにいたる気にはなれない脅威なのだ)。 (p. 109)

  たぶん、アガンベンが結論付けようとしているのは、「なんであれかまわない単独者」たちの共同体こそ、反国家的存在そのもの、反権力的存在そのものだとい うことだろう。存在自体を国家(政治権力)が許容できない「到来する(すべき)共同体」なのであって、冒頭に引用した結語に述べられているようにそのよう な共同体を恐れる政治権力は、「遅かれ早かれ戦車」を送り出すのである。
 「なんであれかまわない単独者」たちの共同体が存在することが、すでに政治闘争そのものなのである。

 

 

 

[1] ジグムント・バウマン『《非常事態》を生きる ――金融危機後の社会学』(作品社、2012年)
[2] ベルナール・スティグレール『象徴の貧困』(新評論、2006年)
[3] アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート(水嶋一憲、清水知子訳)『反逆』(NHK出版、2013年)
[4] ベルナール・スティグレール(ガブリエル・メランベルジェ、メランベルジェ眞紀訳)『愛するということ―「自分」を、そして「われわれ」を』(新評論、2007年)
[5] アルフォンソ・リンギス(野谷啓二訳)『何も共有していない者たちの共同体』(洛北出版、2006年)
[6] アマルティア・セン(大門毅、東郷えりか訳)『アイデンティティと暴力』(勁草書房、2011年)
[7] ギー・ドゥボール(木下誠訳)『スペクタクルの社会』(ちくま学芸文庫、2003年)。

 


 


 

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