かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

『ジャコメッティ展』 国立新美術館

2017年06月30日 | 展覧会

2017/6/30

 15日ほど前からこのブログの訪問者が、普段の2倍から3倍に増えているのに気づいた。そのほとんどが、5年前に書いた「『ジャコメッティ展』(図録) (現代彫刻センター、1983年)」という記事への訪問だった。
 やっと東京へ行く機会ができて、東京で開催されている美術展をネットで調べて得心がいった。「ジャコメッティ展」が開催されているのである。たぶん、今回の「ジャコメッティ展」のことを検索していて、間違って私のブログにたどり着いた人が多かったということだろう。
 思えばあのブログは、たぶん生きている間にジャコメッティ展を見るチャンスはもうないだろうと考え、30年近くも前の展覧会の図録で我慢しようと思い立って書いたものだった。ただ、ジャコメッティの彫刻に惹かれていたものの、なぜあのような針金のような人物像なのか、なぜ私がその形に惹かれるのかよくわからなくて、サルトルとジャン・ジュネと矢内原伊作の本の助けを借りてかろうじて書いたブログ記事だった。
 しかし、私なりに言葉を尽くしたからといって、その芸術作品が感受出来るというものではないし、理解できるというものでもない。結局は作品を見て味わうことしかないのだ、そう思い定めて新幹線に乗って東京に向かったのである。


《裸婦小立像》1946年頃、石膏、8.9×3.7×2.3cm、
神奈川県立近代美術館(宇佐美英治旧蔵) (図録 [1]、p. 58)。

 見る前には、ジャコメッティがどのような過程を経て、あの形態の彫刻にたどり着いたのか、そんなことに興味があった。芸術家がその人独自の表現にたどり着くまでの個人的歴史そのものが興味深いし、ましてやその変遷の必然性のようなものが理解出来たら作品鑑賞がどんなにか深まることだろう。たとえば「ジャン・フォートリエ展」では、フォートリエが過酷なまでのリアリズムに溢れた人物像から「アンフォルメル(不定形)」と呼ばれる抽象画へと変遷していく様子はとても興味深いものだった。
 「ジャコメッティ展」の展示も、期待通りに18歳の時の油彩の肖像画や16歳の時の人物(頭部)の彫刻などから始まり、キュビズム、シュールレアリスムの時代の彫刻へと展示は続いていた。
 しかし、2番目の「小像」というコーナーまで来たとき、私の当初の興味はどこかに行ってしまった。あまりにも小さくて、細部がほとんどわからない数センチメートルから20センチメートルくらいの細身の人間立像が展示されていた。ジャコメッティの超細身の人間立像は、細いばかりではなくとてつもなく小さい像として始まったのだ。このことに驚いてしまって、その前のキュビズムやシュールレアリスムのことはまったく気にならなくなってしまったのである。図録に次のような解説があった。

18-19歳のジャコメッティを襲ったとされる、よく知られた「洋梨のデッサン」のエピソードで語られるのは、「普通の距離」に置いた洋梨を、父の求めに応じて「梨がある通りに、見える通りに」描こうとすると、決まって父が描くような「実物大」にならず、避け難く小さくなってしまうという、自身が対象と向き合ったときに生じる「見えるものを見えるままに描く」ことの困難であった。 (図録、p. 34)

 描こうとする対象がどんどん小さくなってしまう、というのはジャコメッティの対象存在の本質的な認識のありようだったらしい。だとすれば、特定のモデルや対象を必ずしも必要としない20歳代から30歳前半におけるキュビズムやシュールレアリスム作品がごく〈普通〉であること、ふたたびモデルを描こうとしたとき「小像」化が生じたことはそれなりに理解できよう。
 「洋梨のデッサン」の時代から「小像」の時代へと、ジャコメッティ自身の中での時間発展としては直接つながっていたと考えることができる。そういえば、ジャコメッティ自身はキュビズムやシュールレアリスムの時代を否定的に語っているという趣旨の記述を読んだことがある(残念ながら記憶が不確かで出典を明示できないのだが)。

 そんなことがあって、今回の私の「ジャコメッティ展」は、「小像」から始まった。その「小像」作品群のなかでも、《裸婦小立像》という石膏像に惹かれた。惹かれたというよりも、この肖像を小さなわが二階家の階段の途中の窓の下枠に置いて、階段の上り下りのときに上から、下から、そして真横から眺められたらどんなにかいいだろう、そんな思いに捉われてしまった。鑑賞でもなんでもなく、そんな日々の暮らしのイメージに捉われたということだ。
 細部が判然としない、言ってしまえばやや抽象化された裸婦の立像が豊かな余剰としての想像を与えてくれそうな気がした。上から見下ろしたとき、下から見上げたとき、あるいは真横から間近に眺めたとき、それぞれのときはそれぞれの人間像を現前させてくれるだろうと思ったのだった。



《3人の男のグループI(3人の歩く男たちI)》1948/49年、
ブロンズ、72×32×31.5cm、マルグリット&エメ・マーグ財団美術館、
サン=ポール・ド・ヴァンス (図録、p. 75)。


《森、広場、7人の人物とひとつの頭部》1950年、ブロンズ、57×46×58cm、
マルグリット&エメ・マーグ財団美術館、サン=ポール・ド・ヴァンス (図録、p. 78)。

 「群像」というコーナーでは、《3人の男のグループI(3人の歩く男たちI)》と題する彫刻が目を惹いた。3人の男がそれぞれ異なった方向にすれ違って歩き去るように構成された作品である。代表作の《歩く男》と比べれば、一人一人の歩く姿は単純化されているが、同じ時刻の同じ街角ですれ違う人間たちの関係(距離)へのジャコメッティのイメージを想起させる作品である。
 複数の人間のイメージとしては、《森、広場、7人の人物とひとつの頭部》の作品もいっそう興味深い。7人の立像の大きさはバラバラである。かといって、子どもとか大人とかの属性によって大きさが異なるわけではない。まったく相似の人間像にもかかわらず大きさが異なる。同じ方向を向いて立つ立像は、それぞれ独立(孤立)しているように見える。ましてや、そのなかにひとつの胸像があって奇妙さは際立っている。
 直感的に言ってしまえば、それぞれの人物はそれぞれ固有の時空に存在しているのだが、その時空のサイズのまま、ある特異な空間で共立しているのである。図録解説に次のように記されている。

《広場、3人の人物とひとつの頭部》を制作したジャコメッティは、その硬さを克服しようと試行錯誤していた。そしてその過程で、アトリエの床の上に偶然置かれていた彫刻がふたつのグループを形づくっているのに気づき、それらを台の上に置いたという。こうしてできた《林間の空地、広場、9人の人物》と《森、広場、7人の人物とひとつの頭部》は、今度はジャコメッティの記憶と結びついた新たなイメージをまとうことになる。もともとすべて「市の広場」と題されていたこれらの作品の完成後に、「林間の空地」や「森」という、それぞれにふさわしい主題が見出されたのである。 (図録、p. 72)

 もともと独立していた彫刻がアトリエで出会うと、そこに「林間の空地」とか「森の中の広場」が(想像として)生まれたのだ。空地も広場も、林や森の中にありながら林や森そのものではない。林や森に内包されつつもそれぞれ特異な空間である。いわば、森や林という時空の特異点である。異なった時空に存在する人物がある特異な空間で出会ったという私の勝手な想像もあながち荒唐無稽とも思えないのである。異なった時空が一点に会するという場所は、世界の特異点に違いないのである。


【左】《タートルネックを着たディエゴの頭部》1954年頃、ブロンズ、34×13.5×13cm、
マルグリット&エメ・マーグ財団美術館、サン=ポール・ド・ヴァンス (図録、p. 95)。
【中】《男の胸像》1950年、ブロンズ、57×15.5×16.5cm、マルグリット&エメ・マーグ
財団美術館、サン=ポール・ド・ヴァンス (図録、p. 98)。
【右】《ディアーヌ・バタイユの胸像》1964/80年、ブロンズ、48.5×13.5×12.5cm、
マルグリット&エメ・マーグ財団美術館、サン=ポール・ド・ヴァンス (図録、p. 99)。

 ジャコメッティの彫刻は、存在の非本質的な部分を徹底的にそぎ落とし、そぎ落とし、その果てに残った実存そのもの、あるいは、ジャコメッティのオブジェが占めた場所は虚無の空間そのもの、あるいは、ジャコメッティの彫刻は虚無の空間に非在を生み出し、その非在は空虚の中に存在に充実を生み出そうとする、などなど、様々な評言に悩まされつつ、彫刻群を見ていく。ふらふらとする精神には、多すぎることのない観客はありがたいのだった。

 「モデルを前にした制作」というコーナーを歩いているとき、ささやかな発見をしたような気分になった。かつて、ジャコメッティはモデルを前にして制作していたとき、どんどん作品が小さくなってしまうことに困惑し、眼前からモデルを遠ざけて記憶のイメージで作品を制作するようになったという。
 それでも、身近な存在、親しい存在をモデルにして彫刻を作成したのだろう。そのような作品が並んでいて、そこから《タートルネックを着たディエゴの頭部》、《男の胸像》、《ディアーヌ・バタイユの胸像》を比べてみた。
 一見してわかることは、ジャコメッティの弟「ディエゴ」やジョルジュ・バタイユの妻「ディアーヌ」の胸像は、ジャコメッティ作品としては肉厚があって存在への写実性が高い。一方、「男」とのみ名指された胸像はその多くをそぎ落とされたジャコメッティ特有の人物像となっている。これはどういうことだろうか。
 人間存在の様々な属性をそぎ落とすように、ジャコメッティは人物の肉体をそぎ落としていく。仔細に一つ一つの彫刻にあたったわけではないが、「人物」とのみ名指されるまで属性をそぎ落とされた彫刻は、文字通り「線」のように細い。「女性像」とか「男」のように、「性」の属性が残された彫刻は、微妙に厚みを増している。
 人間の属性の中で、その人物の「名前」は、じつにさまざまな人間の属性を象徴している。人間一般という抽象ではなく、その人物の個別性を強調する。家族や一族、コミュニティや国家(社会)をも引きずっているだろう。そのような人物像からたとえ多くの属性をそぎ落としても、その人物の個別性はそぎ落とせない。それが、「ディエゴ」や「ディアーヌ」という名を持つ人物の胸像が肉厚で写実性がより高い理由ではないか。そんなことを思ったのである。「男」とのみ名指された《男の胸像》と比べれば、その差は圧倒的だ。
 人間の本質的でない属性を次々にそぎ落としていった先には、「実存」と「虚無」しかないのだ。サルトル流に言えば、そういうことだろうか。しかし、一方で、ジャコメッティは近しい(親しい)人たちをしっかりと象っておきたいと率直に願っただけではないか、と思うことで、凡庸な私としては自分を安心させたがってもいるのである。


《歩く男I》1960年、ブロンズ、183×26×95.5cm、マルグリット&エメ・マーグ
財団美術館、サン=ポール・ド・ヴァンス (図録、p. 177)。

 図録に収録されている《歩く男I》は、マーグ財団美術館の中庭に置かれた彫刻の写真らしい。美術館に展示された作品を眺めるのとは趣が大きく異なって、なぜか味わい深い感じがする。
 《歩く男》は2バージョン制作され、1983年の「ジャコメッティ展」図録に掲載されていたのは、《歩く男II》となっていた。《歩く男I》は、《歩く男II》よりいくぶん歩幅が狭くなっているが、上半身の傾斜はやや大きく、動的なイメージが強くなっている。
 直立する女性像や男性像と比べれば、《歩く男》の魅力は圧倒的だ。あらゆる属性をそぎ落とされて単に「男」としか呼べない存在が「歩く」のである。「歩く」ことによって回復された人間の属性とはなにか。人間存在に「歩く」ことを賦与することで人間のドラマはどんなふうに始まるのか。そんな思いが沸き立って、ワクワクするのである。

 
[1] 『ジャコメッティ展』(以下、図録)(TBSテレビ、2017年)。


 

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『アルチンボルド展』 国立西洋美術館

2017年06月27日 | 展覧会

2017/6/27

 アルチンボルドの作品は数点見ただけだが、画家の名前もその絵柄も忘れられないものになっている。しかし、それは絵の美しさに感動したというようなものではない。ただひたすら、その奇想に驚いたのだった。その才能に驚きもしたが、正直に言えば、ある種の不快感もあった。
 そのアルチンボルドの絵をまとめて眺めたらどういうことになるのか、どちらかと言えば、私のなかに起きる反応に興味があった。優れた才能、その奇才への魅力が昂進するのか、はたまた不快への拒否反応が強まるのか。こういう気分をこそ「怖いもの見たさ」ということだろう(「怖いもの」は、私のなかに生じるもののことだが)。
 ミラノ生まれのジュゼッペ・アルチンボルドが画家として成功し、その画業をなしたのは、神聖ローマ皇帝となったハプスブルク家の宮廷画家としてウィーンとプラハで暮らした時代だ。複雑な気分になった私のアルチンボルド体験はウィーン美術史美術館だったのは当然だったようで、しかも仕事でウィーンに行くたびに性懲りもなくその体験を繰り返したのである。

 展示構成は、「I アルチンボルドとミラノ」、「II ハプスブルグ宮廷」、「III 自然描写」。「IV 自然の軌跡」、「V 寄せ絵」、「VI 職業絵とカリカチュアの誕生」、「VII 上下絵から静物画へ」となっていた。とはいえ、私の関心はひたすらウィーンで見た種類の作品なのである。


ジュゼッペ・アルチンボルド《春》1563年、油彩/オークの板、66×50cm、
マドリード、王立サン・フェルナンド美術アカデミー美術館 (図録、p. 83)。

 花や木や草、あるいは鳥や魚や獣、人間以外の事物だけを使って人物画を描くというのが、アルチンボルドがアルチンボルドたる理由である(私には)。《春》は「四季」連作に含まれる作品で、私のなかでは「不快」ではなく「快」に属する作品である。会場に入ってからやや速足で進んで、この作品を見つけたので、まずはこれを出発点とした。
 「快」だろうが「不快」だろうが、アルチンボルドの絵のなかの小さな一つ一つの要素がじつにリアルに描かれていることは私なりに気づいてはいたが、一連の作品を眺めると、それが博物学的な知識と科学的な描写力に基づいているらしいことも理解できるようになる。そのことは、図録 [1] に収められたシルヴィア・フェリーノ=パグデンの「アルチンボルド――ハプスブルグ宮廷の「プロテウス」」という論考でも確認できる。

マクシミリアン2世の長子ルドルフ2世が1576年に帝位を継ぐと、アルチンボルドは宮廷画家として再任され、ルドルフがウィーンからプラハへ遷都した際もついて行った。プラハは帝国文化の中心となり、ヨーロッパ中から芸術家や哲学者、化学者、数学者らを惹きつけた。ただルドルフが父や祖父と異なる点は、もっぱら地上のことを探求するにとどまらず、その関心を宇宙へ、惑星系へも広げ、ティコ・ブラーエやヨハネス・ケプラーなど、一流の天文学者を招聘したことである。〔中略〕ルドルフはアルチンボルドを自然標本と古代美術の専門家としても雇っており、おそらく1585年にルドルフと弟たちが金羊毛勲章を授与された際の祝祭行事も、やはり彼に演出を依頼したと思われる。以前アルチンボルドが評判をとった、いろいろな物を人間に見立てた肖像画を、盟友関係の君主たちへの贈り物として再制作するよう、促した可能性もある。 (図録、p. 37)

 私は学者のはしくれだったが、日本ではあまり博物学的な学問に重きが置かれていないものの、西欧文化における博物学的な知識への情熱には圧倒されることが多かった。「ここ(《春》)には約80種もの植物が描かれて」 (図録、p. 83) いて、いわば博物学的情熱と芸術的情熱とによって描き出された作品であることは明らかだ。ジュゼッペ・オルミとルチーア・トンジョルジ・トマーズィは、「つまるところアルチンボルドの絵は、ごく限られたスペースの中に、広大で多様きわまる自然界の姿(植物相や、水棲および地上生物の動物相)を縮図として表現しおおせている」 (図録、p. 37) と端的に評している。
 アルチンボルドの作品を、細部のアップから見はじめ、花であれ、草であれ、鳥であれ、魚であれ、それぞれのリアリティ溢れる描写に感嘆しつつ、その細部が織りなす人物像へしだいに眼差しを拡大していくことができたら、感動から驚愕へと理想的な味わいができるにちがいない。そんな不可能な鑑賞法を考えてみたのも、アルチンボルド体験の一つと言っていいだろう。


【左】レオナルド・ダ・ヴィンチ《鼻のつぶれた禿頭の太った男の肖像》1485-90年、ペン、インク、
160×135cm、ウィンザー城、イギリス王室コレクション (図録、p. 35)。
【右】レオナルド・ダ・ヴィンチにもとづく《3つのカリカチュア》ペン、インク、、185×133cm、
ロンドン、大英博物館素描版画部門
 (図録、p. 37)。

 博物学的な知見、科学的な探究というアルチンボルド作品のベースは、ハプスブルグ宮廷における役割ということもあるだろうが、アルチンボルドが画家として育ったミラノの地にもその理由があるということだ。それを示唆するのが、最初の展示コーナー「アルチンボルドとミラノ」に展示されていたレオナルド・ダ・ヴィンチの素描作品である。
 ダ・ヴィンチは、「自然の直接的な観察にもとづく芸術表現の主唱者」 (図録、p. 16) で、アルチンボルドの時代にも大きな影響力を持っていた。素描作品の《鼻のつぶれた禿頭の太った男の肖像》や《3つのカリカチュア》は、そのダ・ヴィンチが異様な表情を持つ人物にも強い関心を持っていたことを示している。
 つまり、アルチンボルドが徹底した自然観察によって花や魚などをきわめて写実的に描いた素材によって組み上げられた人物像は、ダ・ヴィンチが素描したような異様な貌となり、人物のカリカチュアとなっているのだと考えれば、アルチンボルドはいわばレオナルド・ダ・ヴィンチの優秀な継承者の一人だと言えるはずだ。


【左】ジュゼッペ・アルチンボルド《冬》1563年、油彩/シナノキの板、66.6×50.5cm、
ウィーン美術史美術館絵画館 (図録、p. 89)。

【右】
ジュゼッペ・アルチンボルド《水》1566年、油彩/ハンノキの板、66.5×50.5cm、
ウィーン美術史美術館絵画館 
(図録、p. 99)。

 アルチンボルドの代表的な作品は、「四季」シリーズと「四大元素」シリーズだが、その中の二作品《冬》と《水》から私のアルチンボルド体験が始まった。これらを見て驚いたのは確かだが、美術作品としての感動(と私が思い続けていたもの)とはほど遠い思いで眺め、強烈な印象ばかりが残ったのだった。
 不思議なことだが、心を落ち着かせて眺められる今になって、それぞれの人物像に威厳のようなものを感じ取ることができる。とくに《冬》は、木の幹や枝、根の造りに自由度があるせいか、味わい深い人物像とすら思えるのだ。図録解説 (図録、p. 88) によれば、《冬》に描かれた人物像は、藁の網目に「M」の文字が浮かび上がり、頭上の編み込まれた枝は王冠のように見えることなどからマクシミリアン2世を暗示しているという。神聖ローマ帝国の皇帝が《冬》になぞらえられるのは、古代ローマ人の習慣で一年は冬から始まるためだとされている。
 《水》には60種類に及ぶ魚類、甲殻類が描かれていて、そのほとんどが地中海に棲む種類だと調べた研究者がいたと図録に記されていた。たしかに花であれ、草であれ、アルチンボルドの絵に描かれた種類をすべて同定するというのも鑑賞の一つの形ではあろう。それにしても、無数に描かれる要素の一つ一つが学術的に同定できるほどに実在種が正確に描写されているというのはやはり驚くべきこととしか言いようがない。

 
【左】ジュゼッペ・アルチンボルド《ソムリエ(ウェイター)》1574年、油彩/カンヴァス、87.5×66.6cm、
大阪新美術館建設準備室 (図録、p. 177)。

【右】
ジュゼッペ・アルチンボルド《司書》油彩/カンヴァス、97×71cm、スコークロステル城
 
(図録、p. 179)。

 
ジュゼッペ・アルチンボルド《司書》1566年、油彩/カンヴァス、64×51cm、
ストックホルム国立美術館 (図録、p. 181)。

 アルチンボルドの画業にカリカチュアとしての人物像が加わってくる様子が、「職業絵とカリカチュアの誕生」というコーナーで示されていた。ここでは、要素は生物ばかりではなくなっている。《ソムリエ(ウェイター)》では酒に関する道具類、《司書》では文字通り図書類で描かれている。
 しかし、《法律家》は羽をむしられた鳥や雛鳥、魚、法学書や書類などで構成されていて、必ずしも法律家に直接結びつく事物ばかりではない。この手法のずれ、はみ出しは次のような創作過程によるのではなかろうか。
 この人物は実在していて、アルチンボルドはその醜い容貌を揶揄する「残酷な肖像画を、皇帝の目を愉しませるために描いた」のであり、「その悪ふざけは成功を収めたのだった」 (図録、p. 181) とされている。カリカチュアが実在の人物を対象にすれば、悪意あるものとして作用するのはよくあることには違いない。ここでは、ただ一点、皇帝が愉しんだということによって(その時代においては)許容されたということだろう。


ジュゼッペ・アルチンボルド《庭師/野菜》油彩/板、35.8×24.2cm、
クレモナ市立美術館 (図録、pp. 192、193)。

 《ソムリエ(ウェイター)》や《司書》は、静物画に描かれるような素材によって構成される人物像であるが、上下絵によって人物画と静物画を同時に成立させるという作品のコーナーもあった。《庭師/野菜》は、野菜類と盥で描かれた「人物画」が上下逆転によって盥に盛られた野菜類という「静物画」に変容してしまう仕掛けになっている。
 「四季」シリーズや「四大元素」シリーズは多様な生物種の集まりが人物画に変容するという仕掛けになっていたが、上下絵は素材から人物への変容の後で、さらに素材そのものの静物画へと再変容するという二段構えになっている。しかし、この二段構えの変容は困難をも生み出しているようだ。静物画として完成度を高めるほど、人物画としては完成度が落ちてしまう。その逆もまた生じる。正直に言えば、「四季」シリーズや「四大元素」シリーズの人物像に驚いたほどには、上下絵の人物像には心は動かされない。ただただ、その機智に感心するばかりなのである。

 さて、どうまとめたらいいのだろう。「怖いもの見たさ」には違いなかったが、さしあたって「怖さ」はもうない。いつかまたアルチンボルドを見る機会があったら、さらにもう少しだけ余裕をもって味わうことができるだろう。さほどの根拠はないのだが、一応そんなふうに思いこんで帰りの新幹線に乗ったのだった。


[1]『アルチンボルド展』(以下、図録)(国立西洋美術館、NHK、NHKプロモーション、朝日新聞社、2017年)。

 


 

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『ボイマンス美術館所蔵 ブリューゲル「バベルの塔」展』 東京都美術館

2017年06月27日 | 展覧会

 ブリューゲルには2点の《バベルの塔》の作品があり、その一つは今回の美術展の目玉であるボイマンス美術館所蔵作品で、もう一つはウィーン美術史美術館所蔵の作品だと紹介されている。 私はオランダに足を踏み入れたことはなく、当然ながらボイマンス美術館作品は初見である。
 ウィーン美術史美術館には数回行ったので、そちらの《バベルの塔》はたしかに見ているのだが、感覚的にはブリューゲル作品という印象は薄い。あの《バベルの塔》は誰の作品かと自問すればブリューゲルという答えは出る。しかし、ウィーン美術史美術館には農民や猟師、羊飼いや子供たちの遊びを描いた作品群が並んでいて、私のブリューゲルはそのような作品群と強く結びついてしまっているのである。
 もちろん、未見の《バベルの塔》に強い関心があったが、展覧会の「16世紀ネーデルランドの至宝―ボスを超えて―」というサブタイトルにも負けず劣らず惹かれたのである。ヒエロニムス・ボスという奇想の画家そのものの作品より「ヒエロムニス・ボスによる」とか「ヒエロムニス・ボスの追随者」という注釈のある作品を見る機会が多くて、ボスに対する飢渇感のようなもの私のなかのどこかにうっすらと堆積していたようなのだ。

 「バベルの塔」展と詠っているが、図録 [1] の巻頭論文のタイトルの「初期ネーデルランド美術へのいざない」という副題が示す通りのいわば「ボイマンス美術館展」というべき展示構成である。
 会場は、「16世紀ネーデルランドの彫刻」という展示コーナーから始まり、「信仰に仕えて」という展示に続く。


ディーリク・バウツ《キリストの頭部》1470年頃、油彩、板、36×27cm
 (図録、p. 55)。


コルネリス・エンゲブレフツ(レイデン1460/1462年-レイデン1527年)
《良き羊飼いとしてのキリスト》
1510年頃、油彩、板、25.4×44.2cm (図録、p. 72)。

 「信仰に仕えて」のコーナーは、ディーリク・バウツの《キリストの頭部》で始まっている。この絵を見たとき、心の中にゆっくりと驚きが立ち上がってくる感じがした。この絵に驚愕したのではない。これまでキリストが描かれた多くの絵画を見てきたが、私自身はキリストがどんな顔をしていたのかあまり気にしていなかった。この絵を見ながら、そのことに気づいて、我ながら驚いたのである。
 《キリストの頭部》は、あきらかにキリストがどういう顔をしていたか、そのことを主題にしている。図録解説には、次のように述べられている。

 中世の伝説によると、キリストと同時代に生きたローマの執政官プブリウス・レントゥルスは、古代ローマ元老院宛の手紙にキリストの容貌を描写した。額が広く、焦げ茶の髪を真ん中で分け、左右に分かれた短い髯を蓄え、目は灰青色だった。「レントゥルスの手紙」は実際にはかなり後の時代に書かれたものだが,中世の信奉者はキリストの信頼できる絵姿を是が非でも必要とした。ディーリク・バゥツはこの記述を克明に描き出しながら、目だけは青ではなく茶色にした。 (図録、p. 54)

 こんなことは考えなくても当然のことなのだが、キリストと同時代を生きた人間は無数にいるわけで、キリストの風貌を記録していた人間がいたであろうことは何も不思議なことではない。それなのに、私は絵画を通じてみるキリストの顔が実在した顔に似ているのかどうかまったく気にしていなかったのである。
 例えば、ジョルジュ・ルオーにはキリストの顔だけを描いた作品がたくさんある。「ジョルジュ・ルオー展」でそんな作品を次々に眺めながら、それらをルオーの信仰心と美意識とが創り上げた顔としてのみ受け取っていた。「キリストはこんな顔をしていたんだな」などとはけっして思わなかったのである。
 例えば、カラヴァッジョが描くいくつものキリストの顔を「カラヴァッジョ展」で見る。「地上のリアリズム」の具現化として、時には醜悪なまでに人間の業を顔立ち、表情に描いて見せたカラヴァッジョは、キリストだけは温和で美しい顔立ちに描いている。それを眺めながら、私が思っていたことはカラヴァッジョの信仰心あるいはキリストへの想いなどであって、キリストの顔のリアリティのことではなかった。
 それは、キリスト教に信仰を持たずに絵画を鑑賞する私個人の問題であって、「キリストの信頼できる絵姿を是が非でも必要」とする信仰者にとってバウツの《キリストの頭部》は切実な意味を持つのだろう。偶像崇拝を否定するプロテスタンティズムはさておいて、そういうキリスト教信仰の時代があったということだ。
 《キリストの頭部》を見てから、コルネリス・エンゲブレフツの《良き羊飼いとしてのキリスト》に描かれたキリストの顔を見るとバウツのキリスト像とよく似ていて、図録解説の「バウツの描く 「真顔」の与えた印象は強烈で、その後も1世紀以上、バウツの工房だけでなく、はるか遠くイタリアやスペインでも手本にされた。この作品こそ、現存する多くの模写の原典である」という記述に納得がいったのである。


【上】ヒエロニムス・ボス(スヘルトーヘンボス1450年頃-1516年)《放浪者(行商人)》
1500年頃、油彩、板、71.4×70cm (図録、p. 105)。
【下】ヒエロニムス・ボス(スヘルトーヘンボス1450年頃-1516年)《聖クリストファロス》
1500年頃、油彩、板、113×71.5cm (図録、p. 108)。

 期待していたヒエロムニス・ボスの作品は4点展示されていた。私が想像していたボスの絵のイメージは、「最後の審判」とか「ソドムとゴモラ」のような壮大な構図の中にさまざまな人間たち(というよりは人間のカテゴリーからはみ出した存在たち)がこまごまと描かれた奇想あふれたものである。
 ところが、実際に私が見た数少ないボスの絵は《風車を持つ子ども》とか《愚者の石の除去》などで、後者は奇妙な風習を描いたものとはいえ、私の思い込みのボスの絵らしからぬものだった。
 《放浪者(行商人)》はとくに奇想と呼べるようなものが描かれているわけではないが、貧しい行商人を主題として、時代を先駆ける「風俗画」と考えることができそうだ。背景の家が娼館であることは、「鳥籠の中のカササギ、屋根の棟に刺した棹の先に掛かるジョッキ、鳩小屋と白鳥の看板」 (図録、p. 104) から知られるという。そして、何よりもその娼館の陰で立小便をする男が描かれていることなど、この時代の風俗を見通すボスの眼差しのありようが窺えて興味深い。

 聖者伝説(説話)の一シーンを描いた《聖クリストファロス》にはボスらしい細部を見ることができる。対岸の廃墟からはドラゴンらしき獣が立ちあがっていて、裸の男が逃げ出している。こちらの川岸には、弓で射た熊を首括りにして木の枝に高々と吊り下げようとしている猟師がいる。右の大木に吊り下げられた水差しの家の壺口にいる小男は木の枝にランタンを懸けている。遠景の森のなかの赤い炎は、炎上するソドムを連想させる。
 ほかにも様々な奇妙な細部が描かれていて、ボス的世界がここから始まっているという印象を受ける。

 
【左】作者不詳(ヒエロニムス・ボスの模倣)、彫刻師不詳《跛行者》1570-80年頃、
エングレーヴィング、28.7×22.2cm (図録、p. 128)。
【右】作者不詳(ヒエロニムス・ボスの模倣)、彫刻師不詳《様々な幻想的な者たち》
1570-80年頃、エングレーヴィング、27.9×21.2cm (図録、p. 129)。

 
作者不詳(ヒエロニムス・ボスの模倣)、彫板:ピーテル・ファン・デル・ヘイデン
(アントウェルベン1530年頃-1572年頃)
アラート・デュアメール(スヘルトーヘンボス1449年?-1505/06年
のエングレーヴィングに基づく
《最後の審判》1560-70年頃、
エングレーヴィング、24×34.5cm (図録、p. 130)。

  上に挙げたボスの二作品は、「奇想の画家ヒエロムニス・ボス」というコーナーに展示されていたが、続く「ボスのように描く」というコーナーにも油絵とエッチング作品が一点ずつ展示されていた。
 「ボスのように描く」というテーマでなによりも興味深かったのは、ボス的想世界を描くために必要な素材が、《跛行者》や《様々な幻想的な者たち》のように準備されていたらしいことだった。「ボスの模倣者」や「ボスの追随者」たちは、このような細部を彩る様々な素材を共有していたのかもしれない。
 《最後の審判》には、《様々な幻想的な者たち》に描かれたような半獣半人や奇妙な肢体の人間、怪獣そのものとそれと戦う天使などが細部を埋めている。


ピーテル・ブリューゲル1世(ブリューゲル1526/1530年-ブリュッセル1569年)、
彫板:ピーテル・ファン・デル・ヘイデン(アントウェルベン1530年頃-1572年頃)

《聖アントニウスの誘惑》1556年、エングレーヴィング、23.1×32.3cm (図録、p. 148)。

 「ボスのように描く」のコーナーでボス的想世界を描いた多くの作品の後で、「ブリューゲルの版画」のコーナーに入ったのだが、ボス的想世界がここでも続いているとしか思えなかった。ブリューゲルはこのような作品を創出しつつ、農村の風俗を描いた作品世界をも創り上げ、《バベルの塔》を描いたという意味において、この展覧会のサブタイトルに「ボスを超えて」と記述される理由があるのだろう。
 《聖アントニウスの誘惑》という主題も、聖アントニウスを誘惑すべく様々な怪物が現れるというシーンはいかにもボス的想世界にふさわしく、「ヒエロムニス・ボスにもとづく」という同名の油絵も展示されていた。聖アントニウスを除く怪物や人物たちは、《跛行者》や《様々な幻想的な者たち》あるいは《最後の審判》に描かれたものたちと本質的な違いはない。


ピーテル・ブリューゲル1世(ブリューゲル1526/1530年-ブリュッセル1569年)
《バベルの塔》1568年頃、油彩、板、59.9×74.6cm (図録、p. 181
)。

 《バベルの塔》の前では滞留禁止で、歩きながら見るしかないのだった。近眼で老眼の身にはどうにもならないことで、少し離れた所からはゆっくり見てていいという案内もあったのだが、それでどうにかなるような絵ではないのである。
 さほど大きい絵でもないのだが、描かれているバベルの塔のスケールは大きく(ウィーン美術史美術館のものと比べれば建設の進む塔は一層大きくなっているように見えた)、しかも、「神は細部に宿る」とばかりにその細密な描写は驚くばかりである(会場では絵の雰囲気だけで、細部は図録の拡大図で確認するしかなかった)。
 けし粒のように見えたものが、様々な工事たずさわっている人々なのである。港には船から荷物を上げ下ろしする人夫も描かれているが、絵全体のなかで印象に残ったのは、バベルの塔そのもの色彩が荘厳さを与えていることと、その党に赤と白の二筋の色彩が載っていることだった。白は漆喰を引き上げていく道筋の汚れ、赤は同じく上層へ運搬される煉瓦が作る道筋である。それらを上階に引き上げる大きな工事用滑車も各階に緻密に描かれている。
 この絵を眺めながら思ったこと、それは、やがて神の怒りに触れて崩壊し、無に帰してしまう壮大な塔の建設に向かう人々の信仰心と、その有様をこんなにも緻密に長大な時間をかけて描き上げていくブリューゲルの心性はまったく相似た情熱に支えられていたのではなかったろうか、ということだった。一方は地上から消え、一方は作者の死後400年以上の時間を超えて遠く極東の地で多くの人が観賞している。まったく違う事象のように見えるが、人間が創造に向かう契機と情熱はいつも同じではないのか、そう思ったのである。
 

[1] 『ボイマンス美術館所蔵 ブリューゲル「バベルの塔」展 16世紀ネーデルランドの至宝―ボスを超えて―』(以下、図録)(朝日新聞社、2017年)。



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原発を詠む(43)――朝日歌壇・俳壇から(2017年5月1日~6月11日)

2017年06月11日 | 鑑賞

朝日新聞への投稿短歌・俳句で「原発」、「原爆」に関連して詠まれたものを抜き書きした。

 

浦上の焼けたマリアの目の奥はそこのない黒深い悲しみ
             (芦屋市)室文子  (5/1 高野公彦選)

インフラも人も失せにし六年の富岡の家冷蔵庫の中
             (郡山市)渡辺良子  (5/15 佐佐木幸綱選)

原発を抱える柏崎に来て知らなさすぎる自分に気づく
             (町田市)山田道子  (5/15 佐佐木幸綱選)

東北の人にとっては「あっち」ではなく「こっち」なんです
             (横浜市)道蔦静枝  (5/15 馬場あき子選)

東北のこっちの方から兵士らと米と娘と電気送りし
             (南相馬市)斎藤杏  (5/22 高野公彦、馬場あき子選)

(もだ)深し学園祭に黒ぐろと実物大の原爆模型
             (茅ヶ崎市)若林禎子  (5/22 永田和宏選)

原発のゴミに埋もれる日本を次の世代に引き継ぐ稼働
             (八代市)白濱馨  (5/29 馬場あき子選)

慎ましく暮らしおれども六年の借り上げ二間(ふたま)に足の踏み場なし
             いわき市)守岡和之  (5/22 高野公彦選)

避難地に移転六年閉校とふ母校のニュース訃報のごとし
             (水戸市)紺野告天子  (6/5 佐佐木幸綱選)

標的の基地からおよそ五十キロホトトギス鳴く原発予定地
             (光市)田中径  (6/11 佐佐木幸綱選)

過ちは繰返します反省も平気でします日本人です
             (いわき市)馬目弘平  (6/11 馬場あき子選)

 

亀鳴くや一村挙げて避難中
             (名古屋市)池内真澄  (5/1 金子兜太、長谷川櫂選)

福島の子の散り散りに羽抜鶏
             (福島県伊達市)佐藤茂  (5/29 金子兜太選)

忘れめや生きてる限り原爆忌
             (成田市)神郡一成  (5/29 金子兜太選)

原発と同居してゐる暑さかな
             (川崎市)池田功  (6/5 金子兜太選)

フクシマの離郷の民や夏寒き
             (川口市)青柳悠  (6/11 金子兜太選)



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