かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

『ゴッホ展 ―空白のパリ時代を追う―』 宮城県美術館

2013年05月28日 | 展覧会

 この展覧会は、ゴッホのパリ時代(1886年3月~1988年2月)の画業を集めたものである。この時期、生涯にわたってゴッホを経済的にも精神的にも支え続けた弟のテオと一緒に暮らしていて、そのためテオとの手紙のやりとりがほとんどない。つまり、この時代には史料として重要なテオとゴッホの間の書簡が少ないのである。そのことが、この展覧会が「空白のパリ時代」と謳う所以だろう。
 しかし、ただ単に情報の空白期間というだけでなく、ゴッホの画業にとって、このパリ時代は何か決定的な機制を内包しているのではないか、そんな期待を抱かせる。それは、たとえば私にとってのゴッホ像は、主としてこのパリの直後に始まるアルル時代に描かれた数々の絵によって形成されている。そのようなゴッホの絵の根源がパリにあるのではないかと思ったりするからである。
 たとえば、トラルボーはゴッホ伝の中で次のように述べている。

 ヴァン・ゴッホは,終生忘れることのないふたつの感動的な経験をつんでいた。ボリナージュの炭坑では、レンブラントの絵の中に見たことのあるあの神秘的な光を発見した。その光を用いた自分の絵を〈じやがいもを食べる人たち〉として創作した。プロヴァンスでは,クローの広々とした平野に灼熱の破片となって降り注ぐ陽光を見た。そしてプロメテウスのように、彼は自分の絵に輝きを与えるためにこの神聖な炎を盗んだのだ。 [1]

 有名な《じゃがいもを食べる人たち》は、1985年にニューネン(オランダ北フラーバンド地方)で描かれている。キアロスクーロを意識しているものの暗い色調の貧しい農家の食事風景の絵である。そのような絵の時代とアルル地方の明るい風景の絵の時代の間にゴッホのパリ時代がある。パリ時代にゴッホの芸術の秘密の機制があっただろうと考えるのはごく自然なことのような気がする。       

 この展覧会では、パリ時代の画業を「作品を売らなければ」、「もっと色彩を」、「古いものと新しいものの結合」、「厚塗りから薄塗りへ」、「答えは一つではない」、「何よりも形式を」などと分類して展示している。つまり、ゴッホはパリ時代に様々な試みをしているのである。もちろん、それらが総合されてアルルの時代へと結晶化すると言うしかないのかもしれない。だが、その総合がアルル時代の画業になる必然性については何も分らないのである。

 たとえば、「明るさ」ということがゴッホの画業を解く鍵の一つであることは間違いないだろう。暗い色調の絵では売ることが難しいとテオに忠告され、すでにパリ時代以前に明るさを意識した絵を試みている。ゴッホは、ニューネン-アントワープ-パリ-アルルと移り住むのだが、アントワープ時代の《古い家の裏側》や《青い服の女》にそのような特徴が現れているとトラルボーは指摘している [2] 。とすれば、明るさに関する変貌の契機をパリ時代に限定することは難しい。

 「明るさ」以外に、私がゴッホの画業を考える上で大切だと思うことがある。ひとつは、ゴッホはずっと画家として生計を立てる、つまり「絵を売る」ことに拘っていたことである。弟のテオが兄のフィンセントを経済的に支えたと言ってもそれは次のようなことである。ゴッホは描き終えた絵を弟に送り、テオはその絵の対価のように兄に生活費を送る。テオに送られた絵はほとんど売れないのだが、兄弟の間では絵の売買が擬似的にではあるが成立しているように見える。そして、その関係はパリで兄弟が同居することで微妙な意味合いを持つことになるのは当然であろう。
 もう一つは、パリで多くの画家との交友がもたらした影響である。新印象派ないしは後期印象派と呼ばれる画家たちとの交友は、画家としての社会性の新しい意味をゴッホにもたらしたであろう。そのことは、パリにやってきたころのゴッホをトラルボーが次のように描いていることからも想像される。

 パリのヴィンセントは,アントウェルベンでの彼とはまったく違っていた。彼は憂鬱と肉体的衰弱から回復していた。彼は強靱になり、自信に満ちていた。もはや栄養不良でも病弱でもなかった。あの反社会的ペシミストは,無遠慮なユーモアに熱中し、知的な仲間をもてなす、快活で愛想の良い話し手になっていた。ヴィンセントの少なからぬ経験は,さまざまな芸術家たちの作品の独創的かつ明晰な比較を可能にした。パリでは彼は元気で、過去に障害となり、ある程度その才能を隠していた抑圧とコンプレックスとを追放したようであった。 [3]

 こうしたパリにおけるゴッホの画業や心性の遷移を象徴的に表わしているのが自画像に現れているのではないか、というのが私が思いついた仮説である。

 
《パイプをくわえた自画像》 パリ、1886年9月〜10月、油彩、キャンバス、46.0×38.0cm、アムステルダム,ファン・ゴッホ美術館 (図録、p. 48)。

 《パイプをくわえた自画像》を私は始めてこの展覧会で見たのだが、長い間私が心に描いてきたゴッホ像とは大きくかけ離れていて、正直なところ驚いたのである。ここには、狂気に支えられて描き続けたようなゴッホはいない。


左:《自画像》 アントウェルベン(アントワープ)、1885年、油彩、カンヴァス、27×19cm、アムステルダム、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ財団蔵 [4]。 
右:《おどろくべき自画像》パリ、1887年,油彩、カンヴァスに、41×32.5cm、アムステルダム、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ財団蔵 [5]。

 展覧会には出品されてはいないが、《パイプをくわえた自画像》に類似する自画像がある。アントワープ時代の《自画像》と、《パイプをくわえた自画像》に続くパリ時代の《おどろくべき自画像》である。 《おどろくべき自画像》という絵のタイトルをゴッホ自身が付けたとはとうてい思えないが、この絵については、次のような評がある。 

 ここには私たちには想像もつかないような、人品卑しからぬ中産階級の身なりを整えたヴィンセント・ヴァン・ゴッホがいる。あの青い作業衣にむぎわら帽の男と比べ,何と異っていることであろう。 [5]

 このような印象は、上の3点の自画像に共通している。どこか画家としてエスタブリッシュされている自分、パリの画家たちとの交遊する世界で確かな位置を占めているような「自信に満ちた」自己像がここにはあるのではないか。

     
《グラスのある自画像》 パリ、1887年1月、油彩、キャンバス、61.1×50.1cm、アムステルダム、ファン・ゴッホ美術館 (図録、p. 47)。

 《グラスのある自画像》もまた、このような時期の自画像に含まれるであろう。しかし、そのような自画像もわずか数ヶ月後には揺らぎ始めるようだ。


左:《自画像》 パリ、1887年3月〜6月、油彩、カルトン、41.0×33.0cm、アムステルダム、ファン・ゴッホ美術館 (図録、p. 99)。
右:《自画像》 パリ、1887年3月〜6月、油彩、カルトン、19.0×14.0cm、アムステルダム、ファン・ゴッホ美術館 (図録、p. 123)。

 上左の《自画像》には、まだ自信や意志力の光が残っているように見えるが、上右の《自画像》ではある主の不安感、不安定な心性がのぞき始めているように見える。
 そして、その自画像は次第に私がずっと思い込んでいたようなゴッホ像に近づいていく。


左:《自画像》 パリ、1887年7月中旬〜8月、油彩、キャンバス、42.2×34.4cm、アムステルダム、ファン・ゴッホ美術館 (図録、p. 124)。
右:《麦藁帽をかぶった自画像》 パリ、1887年7月中旬〜8月、油彩、キャンバス、41.6×31.4cm、アムステルダム、ファン・ゴッホ美術館 (図録、p. 125)。

 トラルボーによって「あの青い作業衣にむぎわら帽の男と比べ,何と異っている」とされた《麦藁帽をかぶった自画像》は、ゴッホがパリにやってきて1年数ヶ月で描かれている。たった1年ほどでこれほどまで自己意識(自己認識)が変化しているのである。

 パリで多くの画家たちと交遊するもののけっして絵が売れ始めるわけではなかった。「絵が売れること」を願い続けたゴッホにとってパリはある意味で決定的な絶望を与えたのではないか。加えて、ゴッホの性格はどう考えてみても社交的に暮らすには不向きで、パリの生活は彼の心身を大いに疲れさせたのではないか。そして何よりも決定的だったことは、最も信頼するテオとの共同生活が必ずしも順調ではなかったことが、ゴッホをも苦しめたのではないかと思う。テオは明らかに兄との生活に疲れ切り、病を得るのである。「彼は神経の過労に苦しみ,パリで制作するのが困難なのに気づき始めた。都会生活は心身を疲労させ,冬空は彼を憂鬱にした。ヴィンセントは、平穏と静寂と南仏のかげりのない太陽の光を必要としていた」 [7] のである。

  
《グレーのフェルト帽の自画像》 パリ、1887年9月〜10月、油彩、綿布、44.5 ×37.2cm、アムステルダム、ファン・ゴッホ美術館 (図録、p. 57)。

 パリで画家としてエスタブリッシュすることから崩落していくような心性の中で、パリで試みた様々な技法もまた身につけると同時にそれもまた崩落するような形でいわばゴッホ独自の画法へと昇華したのではないかと思う。凡庸な人間にとって心性の崩落であるようなことが、ゴッホにとっては〈ゴッホそのもの〉としか呼べないような弁償法的な凝縮、昇華として、アルルで表象(現象化)されたのではないかと思う。

 パリ時代の《グレーのフェルト帽の自画像》はすでに私が思い描いてきたゴッホ像であるが、アルル時代の下の2点はさらに自己認識が研ぎ澄まされ、かつ直裁となって、まるで別人の自画像のような世界へ踏み込んでいるようだ。


左:《ヴィンセントは自分をこのように見た》 アルル、1888年9月,油彩、カンヴァス、62×52cm、アメリカ合衆国,マサチューセッツ州,ケンブリッジ,フォッグ美術館蔵 [8]。
右:《パイブをくわえた男》 アルル、1889年1月~2月、油彩、カンヴァス、51×45cm、シカゴ,レイ・B・ブロック蔵 [9]。

 

[1] マルク・エド・トラルボー(坂崎乙郎訳)『ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ』(河出書房新社、1992年)p. 244。
[2] 同上、p. 168-170。
[3] 同上、p. 213。
[4] 同上、p. 182。
[5] 同上、p. 189。
[6] 同上、p. 188。
[7] 同上、p. 216。
[8] 同上、p. 262。
[9] 同上、p. 269。

 

 


【書評】 辺見庸『国家、人間あるいは狂気についてのノート』(毎日新聞社、2013年)

2013年05月14日 | 読書

               

 辺見庸の著作をめぐって何かを書いておきたい、そんなふうに強く願っているが、そんなに容易なことではない。それは私の受容のあり方のためだ。その理路に深く同意するばかりではなく、時として散文詩のごとく論理が濃い主情をまとってリズムを刻むために、共鳴振動する私の感覚の振幅が発散してしまうためだ。深く同意すると、言葉を失う。そんなふうに思える。

 たとえば、本書で取り上げられている日常における「ファシズム」と古層としての「ファシズム」、北京オリンピックの「熱狂」と文化大革命の「熱狂」、友人の自死、無名の市民の轢死、死刑制度における死者たち、あるいは「一九四二年、中国山西省の陸軍病院でいつもどおり何気なく実行された生体手術演習」のその現場へのあくなき想像力。そうしたものを一つ一つ取り上げて、社会的事象、歴史的事象として辺見庸の言葉と対比させつつ論じたりすることはそれなりに可能である。それらのどれもが歴史・社会的にきわめて重要な事柄であり、種々の言説が横行していることを考えれば、なおさらである。

 しかし、本書はそのような(私が想定するような)読書後の言語行動を拒否しているのではないか。なぜそう感じるのかを、確実に指摘することは難しいけれども、強いて謂えば、一つだけ仮説としてとりあげることができるかもしれない。それは、「口中の闇あるいは罪と恥辱について」 (p. 63) において著者が引用しているジョルジョ・アガンベンの次のような言葉である。

「人間は、つねに人間的なもののこちら側か向こう側のどちらかにいる。人間とは中心にある閾であり、その閾を人間的なものの流れと非人間的なものの流れ(中略)がたえず通過する」  (ジョルジョ・アガンベン『アウシュヴィッツの残りのもの――アルシーヴと証人』第三章「恥ずかしさ、あるいは主体について」上村忠男・廣石正和訳、月曜社)

  つまり、辺見庸はいつでも意志的に「閾」に立とうとしているのではないか。たとえ、そこが絶望の果てであろうと、虚無へと発散する場所であろうとも。「人間的なもののこちら側か向こう側」の閾、「人間的なものの流れと非人間的なものの流れ」の閾。そのような「閾」から発せられる著者の言葉に応えるためには、わたしもまた私固有の「閾」を探し出し、執拗に立ちつくさねばならない。だが、今は下を向くばかりである。

 さて、その「閾」とはどんなところだろう。その前に、人間の「閾」とまったく無関係にいる(らしい)人物について著者は述べているので、見ておこう。それは、民主党政権時の法務大臣、千葉景子のことである(ただし、似たような例は枚挙に暇がないほどあるだろうと思う)。

 千葉さんがいまさら考察にあたいする人かどうかわからない。「アムネスティ議員連盟」事務局長をつとめ「死刑廃止を推進する議員連盟」にぞくしていたこともある千葉さんはかつて、杉浦正健法相が「信念として死刑執行命令書にはサインしない」と話したあとにコメントをとりさげたことにかみつき、死刑に疑問をもつなら死刑制度廃止の姿勢をつらぬくべきではなかったか、と国会で威勢よくなじったことがある。杉浦氏は発言を撤回しはしたけれど、黙って信念をつらぬき法務官僚がつよくもとめる死刑執行命令書へのサインをこばみつづけた。他方、千葉さんはさんざ死刑廃止をいいながら翻然として執行命令書に署名し、おそらくなんにちも前から姿見と相談してその日のための服とアクセサリーをえらび、絞首刑に立ち会った。これは思想や転向といった上等な観念領域の問題だろうか。それとも政治家や権力者や政治運動家によくある「自己倒錯」という精神病理のひとつとしてかんがえるべきことがらなのか。 (「鏡のなかのすさみ」、p. 67-8)

 弁護士でもある千葉さんはこれまでずいぶんかっこうのよい正義や人格をかたってきた。だが、わかりやすい正義とともに、晴れがましいことも大好きで、出世や権威にめっぽうよわく、おのれのなかの権力とどこまでもせめぎあう、しがない「私」だけの震える魂がなかった。だから、死行命令書へのサインは「法相の職責」という権力による死のドグマと脅しにやすやすとひれふしたのだ。そう見るほかない。政治と国家はどうあっても死を手ばなしはしない。国家や組織とじぶんの同一化こそ人の倒錯の完成である。千葉さんだって若いころはそれくらい学んだはずだ。だが、老いて権力に眼がくらんだ。このたびの裏切りにさしたる謎はない。彼女の思想は、口とはうらはらに、国家幻想をひとりびとりの貧しくはかない命より上位におき、まるで中世の王のように死刑を命令し、じぶんが主役の「国家による殺人劇」を高みから見物するのもいとわない、そのようなすさみをじゅうぶん受容できる質のものであっただけのことだ。堕ちた思想の空洞を、ほら、見えないシデムシがはっている。ざわざわと。 (同、p. 68-9)

 「閾」を見ようともしない、あるいは想像できないたぐいの醜く愚かな例ではあるが、これもまた「ファシズム」と同じように私たちの日常に満ちあふれているのではないか。

 とまれ、辺見庸が立つところの「閾」を見よう。

 たとえば、「魯迅は民衆というものをあらかじめ善なるものとはとらえなかった。なにかにつけて付和雷同し、裏切り、だましあい、たがいにたがいを食いあう度しがたい生き物と見ていた。魯迅の眼の深さは、食人的関係性にしばられた民衆を、たんに忌むべき"他者"とはせずに、自己のなかにも民草のやりきれなさを見ていた (「東風は西風を庄倒したか」、p. 45)と述べ、著者もまたそのような民草を自己として受容しようとしている。そのような覚悟がなければ、「いまは魯迅にならい、こう祈ろう。「人間を食ったことのないこどもは、まだいるかしら? せめてこどもを……」(『狂人日記』竹内好訳)」(同、p. 46)と書き記すことは不可能だろう。

 たとえば、次のような「閾」。「向かい合ふ監房虚ろ走り梅雨  (大道寺将司句集『友へ』から、ばる出版) (「自分のファシズム」、p. 53)という死刑囚・大道寺将司の句が指し示す「〈いない自分〉あるいは〈いなくなった自分〉」をじっと見つめる自分の場所。自らの生と死の狭間。

 たとえば、次のような「閾」。「一九四二年、中国山西省の陸軍病院でいつもどおり何気なく実行された生体手術演習 (「口中の闇あるいは罪と恥辱について」、p. 59) の現場で、生きた中国人を切り刻む日本人医師たちや殺される中国人に優しく話しかけながら後ろ向きで微笑みながらペロリと舌を出す日本人看護婦と自分は同じところに立っていたのではなかったか、そう問いただす場所。その想像力が著者をとらえて放さない場所。

 たとえば、次のような「閾」。「夜行列車に身投げした友人は首が切れてしまって、エンバーマーが首を繋ぎ合わせて、花で隠していました (「歴史の狂気について」、p. 156) という友人の死や「夜行列車の乗客たちが個として、自分の尾てい骨に伝わってきた「身体を破断する音」を共有する (同、p. 157) 場所。大衆とか市民とかではなく、あくまで「個的身体」として共有する生と死のあわい。その場所。

 辺見庸は、そのような閾から世界を覗き込んでいるのではないか。そのような位置からみれば、「多分いつか、人々は狂気がどんなものでありえたかが、もうはっきりわからなくなるだろう。狂気の形象(フィギュール)はそれじたいのうえに姿を閉じてしまって、残してきた痕跡を判読するのをもう人々に不可能にさせるだろう」(ミシェル・フーコー『狂気の歴史―古典主義時代における』の《補遺》「一 狂気、営みの不在」田村俶訳) (「からだ、その石化、狂気そして苦痛と出口」、p. 211) という文言は、けっしてアイロニーでもシニシズムでもなく、深刻な人間の歴史的事象として受容するしかない。そして、著者は次のような言葉でこの本を閉じるのである。

わたしは狂者の錯乱した暗視界の奥からいかにも正気をよそおう明視界の今風ファシストどもを、殺意をもつてひとりじっと視かえすであろう。晴れやかな明視界にたいする、これがわたしの暴力である。 (「からだ、その石化、狂気そして苦痛と出口」、p. 212)

 河津聖恵はこの著書の書評で、「もはや事態は絶望か。だが真の絶望だけが世界を「視かえす」力をもたらすのだ。「狂者の目」だけが、正気を装う世界から狂気の実相を暴き出す」と書いている。
 絶望や狂気、暗い情念を組織しつつ、強靱な想像力と詩的構想力を獲得して紡がれたている。それが、この本である。


原発を詠む(5)――朝日歌壇・俳壇から(2013年2月18日~5月6日)

2013年05月06日 | 鑑賞

朝日新聞への投稿短歌・俳句で「原発」に関連して詠まれたものを抜き書きした。

 

被爆地にひとり覚めをる町長の義憤を知らぬ住民哀れ
                     (いわき市)馬目弘平   (2/18 佐佐木幸綱選)

ふるさとの「戸の入」無人にする為の集団移転と今日決める町
                     (本宮市)廣川秋男   (2/18 佐佐木幸綱選)

薪風呂を焚きし昔に戻らんかセシウムの無き夕焼け恋いつつ
                     (福島市)吾妻芳子   (3/18 佐佐木幸綱選)

放射能の検査のための漁をして競りなき市場で測定始まる
                     (平塚市)三井せつ子   (4/1 永田和宏選)

放射能物質今も流さるる海に魚の避難所はなし
                     (平塚市)三井せつ子   (4/8 馬場あき子選)

真っ白なご飯炊き上ぐるコンセントの先に原発あること悲し
                     (横須賀市)梅田悦子   (4/14 佐佐木幸綱選)

セシウムに汚染といえど手賀沼は沼面に春日揺らぐ小波
                     (我孫子市)板谷三雄   (4/14 佐佐木幸綱選)

ふくしまの何に寄り添う寄り添わぬもとの生業返してほしい
                     (二本松市)安田政幸   (4/22 佐佐木幸綱選)

嘘といふ種には嘘の花が咲く原発事故はぺてんの如し
                     (三郷市)岡崎正宏   (4/22 佐佐木幸綱選)

原発の事故はなかったことにするそんな動きがじわりとみえて
                     (坂戸市)山崎波浪   (4/22 佐佐木幸綱選)

廃棄すれど消滅せぬを明かすごと汚染土の山庭に居残
                     (福島市)米倉みなと   (5/6 佐佐木幸綱選)

原発反対叫びて過ぎし三十年上関の里に春は来にけり
                     (山陽小野田市)淺上薫風   (5/6 佐佐木幸綱選)

除染などありえません移染ですセシウム静かに人間を諭す
                     (長野県)小林正人   (5/6 馬場あき子選)

 

 

春寒や便器のごとく原発炉
                     (仙台市)木戸月彦   (3/18 長谷川櫂選)

被爆地を這ふほかになき山楝蛇(やまかがし)
                     (いわき市)馬目空   (4/8 金子兜太選)

炉を塞ぎあの原発のことをふと
                     (向日市)松重幹雄   (4/14 金子兜太選)

帰る日近き白鳥の声除染中
                     (福島市)池田義弘   (4/22 金子兜太選)

つちふるや産地確認する野菜
                     (多摩市)福田澄子   (5/6 金子兜太選)