かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

『ピカソ展 ルートヴィヒ・コレクション』 宮城県美術館

2015年12月16日 | 展覧会

(2015年12月15日)

 エドワール・マネは「現代絵画の歴史を開いた」画家だと、ミシェル・フーコーは評価し、時代の最初に位置付けたが、マイケル・フリードは、逆に、「エピステーメー」の最後に位置していると評している [1]。いずれにしても、マネは絵画の変革のはざまを生きたわけだが、ピカソはどうなのだろう。
 若いころ、ピカソのキュビズムの革新性にとても驚いた記憶がある。絵画の革新性に加え、《ゲルニカ》によってピカソは絵画に歴史(政治の現代性)を付け加えたように思っていた。どこか時代を画した芸術家だという印象を抱いていたが、ピカソの時代はまたシュールレアリスムや抽象絵画などの多様な現代アートが展開した時代でもあって、時間軸で区切って「ピカソの前後」というイメージは私の中ではなかなか成立しにくい。主催者挨拶にあるように「既存の美術の概念を打ち破り、大きな転換をもたらした20世紀最大の芸術家の一人」という評がわかりやすいし、無難ともいえるだろう(無難というのは、そこに強い主張があるわけではないという不満が残るけれども、私にも言いたい何かがあるわけでもない)。


《貧しい食卓》1904年、エッチング・紙、46.4×37.8cm、
宮城県美術館 (図録 [2]、p. 29)。

 二つの彫刻作品の後に展示されていた最初の絵(版画作品)が《貧しい食卓》で、ピカソのキュビズムばかりを念頭に置いて会場に足を踏み入れた身にはちょっとばかり驚きだった。
 ピカソは、社会的な弱者に共感のまなざしを向けていたといわれているが、《貧しい食卓》でも、マニエリスムを思わせる細長い身体がことさら貧しい暮らしの悲哀を際立たせているようだ。とくに、女性の肩にかけられた男性の長い左手指、女性の右ひじを支える長い右手指は、女性の悲しみを包み込み、癒すためには、あたかもそれほどの長さが必要なのだと主張しているように見える。
 それほどに二人が共有する悲哀は深いのだと感じ入っていたのだが、図録解説には、「顔を背け、交わることのない視線が、愛の複雑さと孤独を感じさせる」(p. 28) とあって、もう少し事情は複雑なようである。


《手を組んだアルルカン》1923年、油彩・カンヴァス、130×97cm、
右下に署名・年記、ルートヴィヒ美術館 (図録、p. 37)。

 1923年(42歳)は、キュビズムに取り組み始めてから15年以上も経っている。その時期に《手を組んだアルルカン》のような「端正な」作品が描かれたていたのである。
 影や色彩の配置にキュビズムらしい雰囲気が残るが、線描も淡い色彩も、端正な人物像をいっそう際立たせていて、いかにも「新古典主義の時代」の作品らしい。


『ヴォラールのための連作集』97《夜、少女に導かれる盲目のミノタウロス》1934年、
アクアチント・紙、24.7×34.7cm、右下に署名、
北九州市立美術館 (図録、pp. 48)。

 『ヴォラールのための連作集』は、画商であるアンブロワーズ・ヴォラールのために作成した銅版画集で、エッチングやアクアチントの作品のほかに原版も展示されている。
 線描のエッチング作品が多い中で、アクアチントの《夜、少女に導かれる盲目のミノタウロス》に目を惹かれたのは、黒の濃淡のみで描かれたミノタウロスの肉体の質感である。全体は、線描と濃淡の陰影の混在で描かれているだけに、主題のミノタウロスが印象深く描かれている。


《ノートルダムの眺望―シテ島》1945年、油彩・カンヴァス、80×120cm、
右下に献辞・署名、裏面に年記、ルートヴィヒ美術館 (図録、p. 57)。

 《ノートルダムの眺望―シテ島》は、キュビズムの風景画である。建築物にキュビズムはとても親和性がある、そう感じさせる作品だ。川もアーチ状の橋脚も背景の空も、すべて調和するように配されているピカソ・キュビズムの描写力に驚く。
 色彩が暗鬱なのは、1945年という第2次世界大戦の最後の年を反映しているのではないかという。


《長い顔の長方形皿》1948年、ファイアンス、浮彫文様、
化粧土による下絵付、58×37cm、ルートヴィヒ美術館
 (図録、p. 63)。

 たくさんの陶芸作品も展示されていたが、壁に掛けられて展示されていた《長い顔の長方形皿》を、皿としてではなく壁掛け陶板だと思い込んで眺めていた。
 ほかの作品と比べて、あまり絵付けが施されていないこの作品が私の好みである。右を向く横顔の優し気な表情や、正面を向く好奇心旺盛な感じの顔だとか、とてもシンプルな構成なのに見飽きないのである。


【左】《窓辺の女》1952年、アクアチント・紙、90×63.5cm、ルートヴィヒ美術館 (図録、p. 67)。
【右】《読書する女の東部》1953年、油彩・合板、45.8×38cm、右下に署名、裏面に年記、
ルートヴィヒ美術館 (図録、p. 71)。


 《窓辺の女》と《読書する女の東部》は、私が想像していた典型的なキュビズム作品と比べれば、とても表現が温和である。
 《窓辺の女》では、女性の表情の柔らかさ、ふくよかさがとても率直に表現されているし、《読書する女の東部》に描かれる女性の知性的な顔立ちが際立って表現さていると思う。そこには、間違いようのない二人の女性の魅力が描かれている。


【左】マン・レイ《パブロ・ピカソ、1955年》1955年、ゼラチン・シルバー・プリント、22.8×13.7cm、
ルートヴィヒ美術館 (図録、p. 110)。

【右】アンドレ・ヴィレール《パブロ・ピカソ、カンヌ、1955年》1955年、ゼラチン・シルバー・プリント、
37.3×27.3cm、ルートヴィヒ美術館 (図録、p. 125)。

 展示の後半は、「被写体 ピカソ」と名付けられたコーナーでピカソを写した写真が多数展示されていた。ピカソの作品ではなく、作品となったピカソである。
 中から、2枚の写真を選んでみた。偶然のことだったが、どちらも1955年、ピカソ74歳の写真である。二つの作品とも、私の中のピカソという天才のイメージに近いのだ思う。とくに、ピカソの目、まなざしはとても印象深い。40枚を超える写真作品が展示されていたが、そのどれをもピカソの目の表情を追いかけるようにして眺めたのである。

 

[1] ミシェル・フーコー『マネの絵画』 (阿部崇訳) (筑摩書房、2006年) p. 92。
[2] 『ピカソ―ルートヴィヒ・コレクション』(以下、図録)(ホワイトインターナショナル、2015年)。

 


 

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【書評】ジョルジョ・アガンベン(上村忠男訳)『到来する共同体』(月曜社、2012/2015年) その2

2015年12月14日 | 読書

 

【続き】


 もうすこし、形而上学的なアガンベンの理路を辿っておこう。

  アリストテレスによると、あらゆる可能態は二つの様相に分節されるという。これら二つの様相のうち、いまの場合に決定的なのは、彼が《存在しないことの可 能性(dymamis mē einai)》、あるいは無能力(adynamia)と呼んでいるものである。なぜなら、なんであれかまわない存在がつねに可能態としての性格をもってい るというのが真実であるなら、しかしまた、それがあれやこれやの特殊的な行為をなす能力があるにすぎないのでもなければ、能力を欠いていて、単純に何もで きないのでもなく、いわんや、全能であってどんなものでも無差別になしうるというのではないことも、同様に確実であるからである。存在しないでいることが できる存在、自ら無能力であることができる存在こそ、本来、なんであれかまわない存在なのである。 (pp. 49-50)

  「なんであれかまわない存在」は、無能力なのではない。あくまで「無能力であることができる存在」なのである。「存在していること」、「能力があることは なにがしかの行為を対象として持っている。しかし、「存在しないでいること」、「無能力であることができること」は、そのような能力を持つということ自体 が対象になっている。アガンベンは、それをpotentia potentiae〔能力の能力〕と呼んだうえで、「能力でもあれば無能力でもありうるような能力のみが至上の能力である」(p. 51) とする。
  このような「なんであれかまわない存在」のアンチノミー、不条理性を、アガンベンはメルヴィルの『バートルビー』の主人公の存在に見るのである。バートル ビーは、法律事務所に雇われた有能な書記なのだが、ある時から《書かないでいることのほうを好む》、《しないでいることのほうを好む》(I would prefer not to)と語り、仕事を拒むようになる。

  完全な書記行為は書くことの能力からやってくるのではなく、無能力が自分自身へと向かい、このようにして(アリストテレスが能動知性と呼んでいる)純粋の 行為として自らに到来することからやってくる。このため、アラブの伝統のなかでは、能動知性はクァラム〔Qualam〕つまり「ペン」という名をもち、計り知れない可能態を居場所とする天使の姿をしているのである。バートルビー、すなわち、ただ書くことを止めず、しかしまた《書かないでいることのほうを好 む》筆生は、自らの書かないでいる能力以外のものは書かないこの天使の極端な像にほかならない。 (p. 53)

  このように「なんであれかまわない存在」の本質についての議論がさらにいくつかの章を通じてなされているが、それは「なんであれかまわない」ところの個 体、個物それ自体の本性の追求であって、「他なるもの」や「他者」との関係性については必ずしも明確ではない。そういう点では、「外」と題する3ページに 満たない章は、きわめて示唆的に個体とその外部との関係を論じている。

 なんであれかまわないものは純粋の個物がとる形象である。なんであれかまわない個物は自己同一性をもたず、ある概念との閧連で限定をほどこされることもないが、しかしまたたんに無限定なものでもない。むしろ、それはあるイデア、 すなわち、その可能性の総体との関連をつうじてのみ、限定をほどこされる。この〔イデアとの〕関連をつうじて、個物は――カントが言うように――可能なも のすべてと隣接することとなるのであり、こうして、そのomnimoda determinatio 〔あらゆる様態における限定〕をある特定の概念やなにがしかの現実的特性(赤いとか、イタリア人であるとか、共産主義者であるとかいった)に参与すること からではなく、もっぱらこのように〔可能なものすべてと〕隣接しているということをつうじて受けとるのである。それはあるひとつの全体に所属するが、この所属はなんらかの在的な条件によって表象されることはありえない。 (pp. 85-6)

  可能なものすべてと隣接するとはどういうことだろう。「なんであれかまわない」こと自体が、「純粋の外在性、純粋の露呈状態以外の何物でもない」形ですべてに開かれていることを意味しており、そのまま「外部のできごと」なのである。その状態で、外部と接触する敷居=閾(Grenze(境界))があるとい う。

  ここで重要なのは、《外〔fuori〕》という概念が、ヨーロッパの多くの言語において、《戸口で》を意味する語によって表現されているということである (ラテン語の「フォレス〔fores〕」は「家の戸口」、ギリシア語の「テュラテン〔thyrathen〕」は文字どおり《敷居で》を意味する)。はある特定の空間の向こう側にある別の空間ではない。そうではなくて、通路であり、その別の空間に出入りするための門扉である。一言でいうなら、その空間の顔、その空間のエイドス〔eidos〕なのだ。
 この意味では敷居=閾は限界と別のものではない。それは、こう言ってよければ、限界そのものの経験、外の内にあるということである。このようなエク-スタシス〔ek-stasis:脱我の状態に入りこむこと〕こそ、個々の単独が人類の空っぽの手から受けとる贈り物にほかならない。 (p. 87)

 「なんであれかまわない存在」は、外部である「他なるもの」の時空と交流する。
  こんなふうに、「なんであれかまわない」ことの哲学的な概念が次第に明確になってくる。これまでは、まだ形而上学的な議論にとどまっているのだが、終章に 近づくにつれて、アガンベンの論述は観念上の論理世界から現代の地上における「なんであれかまわない単独者の共同体」の議論へと降り立ってくる。
 20世紀に入って、資本主義的商品化、消費の時代が進展するにともなって人間の肉体は広告のメディアに組み込まれる。それはある意味で、何千年もの間、宗教的スティグマ、神学的モデルからの人間の肉体の開放でもあった。

いまや人間の肉体は、類的なものでもなければ個的なものでもなく、神を象ったものでもなければ動物の容姿をしたものでもなく、ほんとうになんであれかまわないものに転化するのだった。 (p. 64)

 この消費社会にはもはや社会階級は存在しないとアガンベンは主張する。つまり、「惑星的なプチ・ブルジョワジー〔una piccolo bourghesis planearia〕存在するだけ」(p. 80) とする。

  だが、このことはまさしくファシズムとナチズムもまたつかみ取っていたことであった。それどころか、旧来の社会的主体が取り戻しようもなく没落してしまっ たことを明確に見てとっていたことこそ、それらが乗りこえようもなく近代に刻印されていることを証し立てている。(厳密に政治的な観点から見た場合には、 ファシズムとナチズムは乗りこえられてはおらず、わたしたちはなおもそれらの印のもとで生きているのだ)。しかしまた、それらが代表していたのはなおもま がいものの人民的アイデンティティにしがみついた一国的なプチ・ブルジョワジーであって、その人民的アイデンティティに依拠したところでブルジョワ的偉大 さの夢が作動していたのだった。これにたいして、惑星的なプチ・ブルジョワジーはこれらの夢からはすでに解き放たれており、それと認知しうるどんな社会的 アイデンティティをも放棄しょうとするプロレタリアートの傾向を自分のものにしてしまっている。存在するものいっさいをプチ・ブルジョワは仕草そのものの なかで無化し、頑固としてその無化された状態に執着しようとしているように見える。彼は非本来的なものと真正でないものしか認めない。そして本来的な言葉 という観念までをも拒否している。 (pp. 80-1)

  一国の閾を超えてグローバルに(惑星的に)広がったプチ・ブルジョワの世界。プチ・ブルジョワジーは、ネグリ&ハートのマルチチュードにイメージと、ス ティグレールの貧しい象徴しか持たない大衆にイメージを重ね合わせた存在のように見える。「プチ・ブルジョワの生活のばかばかしさ」は、「絶対に非本来的 で無意味なものに転化してしまっているアイデンティティをなにがなんでも自分のものにしようとして譲らないでいる」(p. 82) ことに由来する。そのうえで、アガンベンは、プチ・ブルジョワジーの否定性を、次のように積極的な肯定性に転倒させようとする。

こ のことは、惑星的プチ・ブルジョワジーとはたぶん人類が自らの破壊に向かって歩んでいくさいにとる形態であろうということを意味している。だが、このこと はまた、それは人類史上未曾有の機会を表象しているということ、この機会はなんとしても見過ごすわけにはいかないということも意味している。なぜなら、も し人間たちがなおも自らの本来的なアイデンティティなるものをすでに非本来的でばかげたものになってしまった個性のかたちで探し求めるのではなく、この非 本来性をあるがままに受けいれるとしよう。そのような自らのあるがままのありようを自己同一性とか個人の特性とかにするのではなく、自己同一性なき単独 性、だれにも共通で絶対的に万人の目に曝された単独性にすることに成功するとしよう。すなわち、もし人問たちがあれやこれやの個々人の伝記的な自己同 一性のうちにあってそんなふうに存在しているのではなく、無条件にそんなふうに存在しているにすぎず、それぞれが独自の外面性と顔つきをもっているにすぎ ないというようなことがありうるとしよう。そのときには、人類は初めてもろもろの前提や主体をもたない共同体、もはや伝達不可能なものを知らないコミュニ ケーションへと入りこんでいくだろうからである。
  新しい惑星的な人類のなかでその生存を可能にするそれらの性格を選り分けること、メディアをつうじてなされる悪しき宣伝広告活動をただひとり外部性のみ伝 達する完全な外部性から切り離している、薄い隔壁を除去すること――これがわたしたちの世代に託された政治的任務である。 (pp. 83-4)

  かくして、プチ・ブルジョワは、グローバルな広がりをもつ惑星の各地に存在する「なんであれかまわない単独者」たちとなる。いわば、マルチチュードと呼ば れる人々のさまざまなアイデンティティを縮約したような存在として立ち現れる。いや、マルチチュードのそれぞれのアイデンティティを捨象したうえで、すべ てのアイデンティティに開かれている存在と言うべきか。つまり、なんであれかまわないのである。

  最終形態における資本主義は――こうドゥボールは、当時愚かにもなおざりにされていた商品の物神性にかんするマルクスの分析をさらに徹底させて論じている ――もろもろのイメージの莫大な蓄積というかたちで立ち現われる。そしてそこでは、かつては直接に生きられていたもののいっさいが表象へと遠ざけられてし まう。しかしまた、スペクタクルは単純にイメージの領域、あるいはわたしたちが今日メディアと呼んでいるものと合致するわけではない。それは《イメージに よって媒介された人格間の社会関係》であり、人間的社会性自体の収奪と疎外にほかならない。あるいは、碑文休の定式で表現するなら、《スペクタクルとはイ メージに転化するほどまでの蓄積段階に達した資本にほかならない》。しかし、まさにそれゆえに、スペクタクルは分離の純粋形態以外のものではない。 (pp. 99-100)

  現代資本主義を語る思想家は多いが、アガンベンは、1968年を象徴するようなギー・ドゥボールの『スペクタクルの社会』に言及する。現代資本主義の生産 全体を「変造」してしまったスペクタクルは、スティグレールのハイパーインダストリアル時代におけるハイパーシンクロニゼーションと同じように「いまや集 合的な知覚を操作し、社会的な記憶とコミュニケーションを独り占めにして、それらを単一のスペクタクル商品に変貌させてしまう」(p. 100) のである。巨大資本(マスコミ)によるハイパーシンクロニゼーションが「われわれ」の共有する象徴を奪ってしまうように、私たちの「〈共通のもの〉の収奪 の極端な形態がスペクタクルにほかならない」として、アガンベンは、資本主義が生産活動ばかりではなく、私たちの言語活動や人間のコミュニケーション的本 性をも阻害するという点において「マルクスの分析には補充が施されなければならない」(p. 101) と主張する。

し かし、このことはまた、スペクタクルにおいてはわたしたちの言語的本性そのものが反転したかたちでわたしたちのもとに立ち戻ってくるということをも言おう としている。このために(まさに共通善の可能性そのものが収奪されようとしているために)スペクタクルの暴力はこんなにも破壊的なのである。しかし、同じ 理由から、スペクタクルはなにかそれへの対抗策として使用することのできる積極的な可能性のようなものを内包してもいるのである。 (pp. 101-2)

  アガンベンは、スペクタクル社会における言語活動の疎外を、ユダヤ教の聖典『タルムード』の中の寓話を引用して《シェキナーの孤立》に喩える。「シェキ ナー」とは神の10の属性の一つで「神の顕現の最も完成された形態」である「認識と言葉」を意味する。スペクトル社会が言語(活動とコミュニケーション) を疎外することは、あたかも神の属性の中からシェキナーを分離し、孤立させてしまったことに相当しよう。そして、ある意味では、孤立することでそのほかの 神によって「啓示されるものから〔言語活動を〕を分離し、自立した存立を獲得してしまっている」(p. 103) ことになる。

〔……〕 スペクタクルの社会においては、このコミュニケーション的本質そのもの、この漠然とした一般的本質そのもの(すなわち言語活動)が他から切り離されて自立 した領域を形成するようになる。コミュニケーションを妨害しているのは、コミュニケーション能力そのものである。人間たちは人問たちをひとつに結びつけて いるものから切り離されるのだ。ジャーナリストとメディアクラットがこの人間の言語的本性からの疎外の新しい僧侶である。 (pp. 103-4)

  「この惑星のいたるところで伝統と信念、イデオロギーと宗教、アイデンティティと共同性を解体し空っぽ」になり、言語活動はそれらから切り離されて孤立し ているスペクトル社会は、きわめて逆説的なことだが、孤立しているからこそ純粋な「言語活動そのもの」、「人が語るという事実そのものを経験することが初 めて可能になった時代」(p. 100) なのである。

  それ〔いっさいを荒廃させてしまう言語活動の経験〕を徹底的に遂行して、啓示する者がそれの啓示する無のなかに隠蔽されたままとどまっていることをゆるさ ず、言語活動そのものを言語活動にもたらすことに成功する者たちだけが、もろもろの前提も国家ももたず、共通のものを無化し運命づける力が鎮静化され、 シェキナーが自らの孤立した状態の邪悪な乳を吸うことを止めるような共同体の最初の市民であるだろう。 (p. 105)

 私たちの言語にかかわる諸々が荒廃されてしまった中から、孤立した言語活動を純粋な単独者の言語活動として反転させて立ち上げたものが「なんであれかまわない単独者」としての共同体を形成するだろう。そうアガンベンは言うのである。
 なんであれかまわない単独者の政治とはいかなるものか、アガンベンはその答えを最終章で天安門事件からくみ上げる。

  じっさいにも、中国の一九八九年五月のデモにおいて最も衝撃的なのは、特定の要求内容が比較的不在であったことである(民主化と自由は衝突の実際的な対象 を構成するにはあまりにも漠然としていてつかみどころのないスローガンである。そして唯一の具体的な要求であつた胡耀邦の名誉回復は速やかに讓歩されてい た)。それだけに国家権力による反動の暴力は説明しがたいように見える。それでもたぶん、釣り合いがとれないように見えるのはあくまでも外見上のことで あって、中国の指導者たちは、彼らなりの観点になったところから、もろもろの論点をもっぱら民主主義と共産主義の対立というますます説得性を失いつつある 対立にもっていこうと腐心している西洋の傍観者たちよりもはるかに大きな明晰さをもって行動しているのだった。 (pp. 107-8)

  もうすでに現在の政治闘争は国家主権の奪取のようなものではなく、「国家と非国家(人類)のあいだの闘争、なんであれかまわない単独者たちと国家組織との 埋めることのない分離になる」(p. 108)という。なんであれかまわない単独者たちは国家に要求すべきアイデンティティを持たない。国家に承認させるべき所属のきずなももたない。

し かし、複数の単独者が寄り集まってアイデンティティなるものを要求することのない共同体をつくること、複数の人間が表象しうる所属の条件を(たんなる前提 のかたちにおいてであれ)もつことなく共に所有する〔co-appartenere〕こと――これこそは国家がどんな場合にも許容することのできないもの なのだ。というのも、国家の基礎をなしているのは――バディウが明らかにしたように――それが体現しているという社会的なきずなではなく、そのきずなの解 体であるからであって、これを国家は禁ずるのである。国家にとっては、重要なのは断じて単独者そのものではなく、あくまでもその単独者がなんであれかまわ ないがひとつのアイデンティティのうちに包含されていることであるにすぎない(しかしまた、そのなんであれかまわないもの自体がアイデンティティをもつことなく取り戻されること――これこそは国家が折り合いをつけるにいたる気にはなれない脅威なのだ)。 (p. 109)

  たぶん、アガンベンが結論付けようとしているのは、「なんであれかまわない単独者」たちの共同体こそ、反国家的存在そのもの、反権力的存在そのものだとい うことだろう。存在自体を国家(政治権力)が許容できない「到来する(すべき)共同体」なのであって、冒頭に引用した結語に述べられているようにそのよう な共同体を恐れる政治権力は、「遅かれ早かれ戦車」を送り出すのである。
 「なんであれかまわない単独者」たちの共同体が存在することが、すでに政治闘争そのものなのである。

 

 

 

[1] ジグムント・バウマン『《非常事態》を生きる ――金融危機後の社会学』(作品社、2012年)
[2] ベルナール・スティグレール『象徴の貧困』(新評論、2006年)
[3] アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート(水嶋一憲、清水知子訳)『反逆』(NHK出版、2013年)
[4] ベルナール・スティグレール(ガブリエル・メランベルジェ、メランベルジェ眞紀訳)『愛するということ―「自分」を、そして「われわれ」を』(新評論、2007年)
[5] アルフォンソ・リンギス(野谷啓二訳)『何も共有していない者たちの共同体』(洛北出版、2006年)
[6] アマルティア・セン(大門毅、東郷えりか訳)『アイデンティティと暴力』(勁草書房、2011年)
[7] ギー・ドゥボール(木下誠訳)『スペクタクルの社会』(ちくま学芸文庫、2003年)。

 


 


 

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【書評】ジョルジョ・アガンベン(上村忠男訳)『到来する共同体』(月曜社、2012/2015年) その1

2015年12月14日 | 読書

 

 到来する存在はなんであれかまわない存在〔essere qualunque〕である。 (p. 8)

 これが本書における文頭の文である。そして、様々な知見、論証を経めぐったのち、巻末に置かれた結論(ないしは宣言、または予言)は次のようなものである。

 所属そのもの、自らが言語活動のうちにあること自体を自分のものにしようとしており、このためにあらゆるアイデンティティ、あらゆる所属の条件を拒否する、なんであれかまわない単独者こそは、国家の主要な敵である。これらの単独者たちが彼らの共通の存在を平和裡に示威するところではどこでも天安門が存在することだろう。そして遅かれ早かれ戦車が姿を現わすだろう。 (pp. 110-11)

 そして、「訳者あとがき」には、岡田温司が著書『アガンベン読解』のなかで、この最後の言葉を取り上げたうえで「《われわれは少なからず戸惑いを覚えないではいられない》と率直な疑問が呈されている」と記されている。この「戸惑い」は何に由来するのだろう。『アガンベン読解』を読んでいないのでこれは単なる憶測に堕するかもしれないが、次のようなことではないだろうか。
 現代の私たちの望ましい(とアガンベンが考えた)存在のありようとして「なんであれかまわない単独者」たちの共同体こそ政治権力に正しく向き合うことのできる「われわれ」(スティグレールが言うところの)であればこそ、それを怖れる政治権力は天安門事件のように戦車によって弾圧を試みるだろう。いわば、天安門事件のような不幸な結末を予言するようなアガンベンの言葉に「戸惑い」を覚えたと思われる。
 しかし、アガンベンがここで強調したかったのは、「戦車が姿を現わす」と象徴的に表現するほどに、政治権力は「なんであれかまわない単独者」たちの共同行動を怖れているということにほかならない。権力が真に怖れない存在などに変革が期待できるはずもない。アガンベンの力点はその点にあると私は考える。

 『リキッド・モダン』(ジグムント・バウマン)[1] と呼ばれる流動的な時代において、『象徴の貧困』(ベルナール・スティグレール)[2] と名指されるほどに人々は共有すべき価値を喪失している。人々は、政治権力(資本)に対抗しうるとみなされてきた労働者(プロレタリアート)というアイデンティティもほぼ失ってしまった。そんな時代において、ネグリ&ハートは、マルチチュードという多数多様性を本質とする新しい階級による『反逆』[3] を語る。スティグレールは、私たちの差異をことごとく排除しようとする資本によるハイパーシンクロニゼーションに対抗するには集団的個体化によって形成された「私」と「われわれ」が新しい象徴を「創り出すinventer」ことが闘いであり、ラディカルな批判になると『愛するということ』で主張する [4]
 マルチチュードは、それ以上に縮減できない多数多様な人々、単純な共同性を見ることができないほどの多様性を特徴とする。こうした人々が形成する共同体に『何も共有していない者たちの共同体』(アルフォンソ・リンギス)[5] を重ね合わせることができよう。「何も共有していない者たちの共同体」は、スティグレールの豊かな象徴を共有する「われわれ」とは一見異なるように見えるが、それは深度の差に過ぎないだろう。スティグレールは、哲学や社会学、あるいは政治学や経済学が対象、ないしはフィールドとしてきた合理的言説によって維持される共同体を前提としているが、リンギスは国家や地域コミュニティを超えた人間そのもの、あるいは類としての「根源的なもの」を共有する共同体を想定している。二つの共同体は(理念的には)互いに包含すべき概念を有しているのである。

 アガンベンは、政治権力へ立ち向かうべき「到来する共同体」の一人ひとりの本質をさらに存在論的にいっそうラディカルに定義し、「なんであれかまわない単独者」たちをその共同体の成員として措定するのである。
 上に引用した巻頭と巻末の文の間で、著者は「なんであれかまわない」こととは何かを論じている。全体で19章のそれぞれの章は比較的短くまとめられ、時としてアフォリズムのようでさえあって、そのため私には理路が見えにくくなることもないではなかった。
 その19章の中で参照されるのは、アガンベンらしい該博な知識によって、ギリシア哲学からスコラ哲学、スピノザ、ニーチェ、ハイデガー、ベンヤミン、ギー・ドゥボールに及び、さらには旧約聖書やタルムード(キリスト教神学やユダヤ教神学)やアラブ学者の説、文学ではカフカ、メルヴィル、ヘルダーリン、ローベルト・ヴァルザー(私は読んだことがないスイスの作家)などである。
 冒頭の「到来する存在はなんであれかまわない存在である」は次のような文章に続く。

 スコラ学において超越概念が列挙されるとき(quodlibet ens est unum, verum, bonum seu perfectum:なんであれ存在するものは一であるか、真であるか、善であるか、それとも完全であるかのいずれかである〔カント『純粋理性批判』B114参照〕)、それぞれのうちにあっては思考されないままにとどまっていながらも、他のすべてのものの意味を条件づけている語は、quodlibetという形容詞である。このラテン語の形容詞は《なんであるかは関係がない》という意味に訳されるのが普通であるが、これはたしかに正確な訳である。だが形式においては、そのラテン語は厳密には正反対のことを言っている。quodlibet ensと/いうのは《なんであるかは関係がない存在》ではなくて、《なんであれ関係があるような存在》のことである。すなわち、そこにはすでにつねに望ましい(libet)ということへの送付が含意されているのであって、望ましい存在は願望と本源的な関係を有しているのである。 (p. 8)

 じつは、私の「戸惑い」は冒頭の「なんであれかまわない存在」というフレーズそのものにあった。「なんであれかまわない」という言葉に、主体の放棄や絶望のニュアンスを感じたのだったが、「なんであれ関係があるような」と等価な「なんであるかは関係がない」という意味で「なんであれかまわない」のであれば、そこに無限定の可能性を想定できそうで、その「戸惑い」はすぐに解消した。(それにしても形而上学である。若いころ、形而上学的な議論を軽蔑し、軽視する(唯物論の立場から)ような風潮のなかで生きてきたので、あまり真剣に形而上学を読んだり学んだりしなかったのである。実験物理学という職業がそれに拍車をかけて、いま本を読みながら苦しんでいるのである。)
 さて、「なんであれかまわない」ということは「なんであってもいい」ということではない。そうでなくてはならないと思うのだが、それではいっそう概念の具体性が薄れてしまう。そうした疑念に応えるように、「なんであれかまわない存在」とはどういう存在か、という論述が本書の大部をなしている。

じっさいにも、ここで問題になっている〈なんであれかまわないもの〉は、個物ないし単独の存在をある共通の特性(たとえば、赤いものであるとか、フランス人であるとか、ムスリムであるとかといったような概念)にたいして無関心なかたちで受けとるわけではなく、それがそのように存在しているままに〔ありのままに〕受けとるにすぎない。このことによって、個物ないし単独の存在は認識に個別的なものの言表不可能性と普遍的なものの可知性のいずれかを選択することを余儀なくさせる偽りのディレンマから解き放たれる。可知的なものとは、ゲルソニデスのみごとな表現によれば、普遍的なものでもなければ、ある系のなかに包含された個別的なものでもなく、《それがどんなものであれ単独の存在であるかぎりでの単独の存在》であるからである。 (p. 9)
〔訳注〕――ゲルソニデスは本名レヴィ・ベン-ゲルション(Gersonides; Levi ben-Gershon, 1288-1344)。アリストテレス哲学とユダヤ神学の批判的総合をくわだてた中世フランスの哲学者・聖書解釈学者で、数学者・自然学者でもあった。主著はMilamot Adonai (『主の戦い』一三二九年)。 (p. 11)

愛は〔事物を品質づける〕述語のすべてを余すところなく具えた事物を欲する。事物がそのように存在するままに存在することを欲する。愛が何ものかを欲するのは、それがそのように存在するままに存在するかぎりにおいてのことである。これが愛に特有のフェティシズムである。こうして、なんであれかまわない単独の存在(〈愛する価値のあるもの〉)は、けっして何ものか、あれやこれやの性質ないし本質を知っているわけではなく、あくまでも知る可能性があるということを知っているにすぎない。 (pp. 10-1)

 「なんであれかまわない存在」の具体的イメージとして最初に参照されるのは、キリスト教(カソリック)世界で想定されているリンボ(孩所、辺獄)で生きる死せる赤ん坊である。洗礼を受けずに死んだ幼児は原罪以外の罪を持たないのだが、「もっぱら何ものかが奪い去られてしまっているという罰、すなわち、いつまで経っても神のヴィジョンをもつことができないでいるという罰」(p. 12) のみを受けることになる。しかし、それ以外にどんな苦しみもない。彼らは神に見捨てられたのだが、彼ら自身も神を見失って(忘れて)いる。いわば、彼らは道を失っているのだが、生まれたそのまま(死者だが)に自然に孩所で生きることになる。「彼らはいつまで経っても売り捌き先を見つけられない幸福感で満たされている」(p. 14) のである。
 また、ヴァルザーやカフカの小説も参照される。ヴァルザー作品の登場人物たちは、自分が取るに足らない人間であることを自慢するのだが、それは「なによりも彼らが救済にたいして中立の立場をとっていることの証しであり、救済の観念そのものにたいしてこれまで申し立てられてきた最もラディカルな異議」(p. 14) である。

 処刑するはずであった機械が壊れたために生き延びて解放されたカフ力の『流刑地にて』の罪人のように、彼らは罪と裁きの世界に背を向けたまま放置されている。彼らの額に降り注ぐ光は、最後の審判の日に続いてやってくる夜明けの――取り返しのつかない――—光である。だが、最後の日のあとに地上で始まる生は、単純に人間の生なのだ。 (p. 15)

 神を忘れてしまった者、神が忘れてしまった者、救済されるべきものを何一つもたない者に対しては、「そうした生にたいしてはキリスト教的オイコノミア〔統治〕の重厚な神学機械も難破せざるをえない」(p. 14) のである。彼らはすでに(キリスト教社会にあっては)「なんであれかまわない存在」となっている。 
 アガンベンは、「なんであれかまわない存在」は個別的な存在であるとともに、普遍的な存在でもあると考えている。

 普遍的なものと個別的なもののアンチノミーを逃れているひとつの概念がずっと前からわたしたちによく知られていた。見本〔esempio〕という概念がそれである。見本がその力を発揮するどんな領域においても、見本の特徴をなしているのは、それが同一のジャンルのすべてのケースに妥当するものであると同時にそれ自体それらのケースのなかに含まれているという事実である。見本は、それ自体が個物のなかのひとつの個物でありながら、他の個物のそれぞれを代表する立場にあって、すべてに妥当する。 (p. 17)

赤い存在ではなくて赤いと名指される存在、ヤコブという存在ではなくてヤコブと名指される存在が、見本を定義する。 (p. 18)

それは〈最も共通のもの〉であって、およそあらゆる現実の共通性を切断してしまうのだ。ここから、なんであれかまわない存在の無力な汎妥当性が出てくる。ただし、それを無感動と取り違えてもならないし、ごたまぜ状態ないし唯々諾々と取り違えてもならない。これらの純粋の単独者は、あくまでも見本の空虚な空間のなかで、なんらの共通の特性、なんらの自己同一性によっても結びつけられることがないままに交信しあう。それらの単独者は所属そのもの、記号∊を自らのものにするためのあらゆる自己同一性を剝奪されてしまっている。トリックスタ-ないし無為の徒、助手ないしカートゥーンとして、彼らは到来する共同体の見本にほかならない。 (p. 19)

 なんであれかまわないものであることは個物ないし単独の存在を知るための基本要素であって、これがなくては存在も個体化も考えることができない」(p. 27) とアガンベンは述べたうえで、スコラ哲学における個体化を考察する。ドゥンス・スコトゥスは、共通の性質があらかじめ実在していて、それに《究極にあるもの》、「このもの性」が付けくわえられることで個体化が成されるとして、共通の性質と「このもの性」に本質的な差異はないと考えるのだが、それでは個物のなんであれかまわないことに言及することができない。そこで、アガンベンはスピノザを参照する。

しかしまた(『エチカ』第2/部定理37によれば)共通なものはけっして個物の本質を構成しない。ここで決定的なのは、非本来的な共通性という観念、なんら本質にはかかわらない一致という観念である。もろもろの個物が延長という属性において生起しこれをつうじて交信しあうことはそれらを本質〔essentia〕において結合するのではなくてそれらを現実存在〔existentia〕という形態において散種することとなるのである
 もろもろの個物にたいする共通の性質の無関心ではなくて、共通のものと独自のもの、類と種、本質と偶有的なものの無差別が、なんであれかまわないものを構成するなんであれかまわないものとは、すべての特性を具えながらも、そのうちのどれひとつとして差異を構成することのないもののことである。もろもろの特性にたいして無差別であることが、もろもろの個物を個物として識別させ散種させるのでありそれらを愛する価値のあるもの(quodlibetなもの)にするのである。 (pp. 29-30)

 こうして個別的なものと共通なものは無差別なものとなって、可能体から現実体へ、あるいは現実体から可能体へと「役割を交換しあい、相手のなかに侵入していく」ことになる。このような移行のプロセスで「産み出される存在がなんであれかまわない存在」(p. 32) なのである。
 中世の論理学の言葉であるマネリエス〔maneries; maniera〕は、個物の存在に関係するのだが、その語源や意味が明確にされていない。いくつかの参照の後、アガンベンはマネリエスの語義を次のように結論する。

すなわち、マネリエスは類でも個でもない。それはひとつの見本、つまりはなんであれかまわない個物なのだ。だとすれば、たぶん"maneries"という術語はmanere 〔とどまりつづける〕から派生したものでもなければ(存在の住処そのもの、プロティノスの言うモネー〔monē,とどまるもの〕を表現するさいには、中世の人々はmanentiaとかmansioと言っていた)、(近代の文献学者たちがそう想定したがっているように)manus 〔手〕から派生したものでもなく、 manare 〔発する〕から派生したものなのだろう。すなわち、発生状態にある存在を指しているのだろう。これは、西洋の存在論を支配している区分法にしたがって言うなら、本質でもなければ現実存在〔実存〕でもなく、発生の様式である。あれやこれやの様式において存在している存在ではなく、その存在の様式そのものであるような存在、それゆえ、単一的で無差別ではないものでありつづけながらも、数多的ですべてに妥当するような存在である。 (pp. 40-1)

自分自身の下にとどまりつづけているのではない存在。隠れた本質として自らに前提されているのではない存在、偶然や運命がそのあとで品質づけの責め苦へと追いやるのではなくて、それらの品質づけのなかで自らを曝す存在。余すところなくあるがままの姿をしている存在。そのような存在は偶然的でも必然的でもなく、いわば、自分自身の様式から不断に産み出されるのである。 (p. 41)

 だが、発生の様式はなんであれかまわない個物の住まう場所でもある。そして、その個体化の原理でもある。じっさいにも、自分自身の様式にほかならない存在にとっては、このような発生の様式はその存在に本来具わっていてそれを本質として規定し同定するようなものではなく、むしろ、その存在にとって非本来的なものである。しかしまた、この非本来的なものがそれの唯一無二の存在と見なされて自分のものにされるということが、それを見本的な存在にしているのである。(pp. 42-3)

 「なんであれかまわない存在」は、その存在自体が持つ様々なアイデンティティが何であれかまわないのである。それは、例えばアマルティア・センが『アイデンティティと暴力』[6] において、個人には多様なアイデンティティがあり、そのどれをもその主体から外すことはできないと主張したことと隔たりがあるように見える。
 しかし、センは、一人の人間を一つのアイデンティティに押し込めてしまうことが暴力を生み出す機制を明らかにしようとしたのであって、いわば、きわめて具体的、現実的な社会そのものに沿った議論をしているのである。形而上学的な議論の段階では、アガンベンとセンの主張を比較するのはまだ早いようである。

 

[1] ジグムント・バウマン『《非常事態》を生きる ――金融危機後の社会学』(作品社、2012年)
[2] ベルナール・スティグレール『象徴の貧困』(新評論、2006年)
[3] アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート(水嶋一憲、清水知子訳)『反逆』(NHK出版、2013年)
[4] ベルナール・スティグレール(ガブリエル・メランベルジェ、メランベルジェ眞紀訳)『愛するということ―「自分」を、そして「われわれ」を』(新評論、2007年)
[5] アルフォンソ・リンギス(野谷啓二訳)『何も共有していない者たちの共同体』(洛北出版、2006年)
[6] アマルティア・セン(大門毅、東郷えりか訳)『アイデンティティと暴力』(勁草書房、2011年)
[7] ギー・ドゥボール(木下誠訳)『スペクタクルの社会』(ちくま学芸文庫、2003年)。

【続く】



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【書評】ベルナール・スティグレール『愛するということ―「自分」を、そして「われわれ」を』

2015年12月07日 | 読書


ベルナール・スティグレール
(ガブリエル・メランベルジェ、メランベルジェ眞紀訳)
愛するということ―「自分」を、そして「われわれ」を
(新評論、2007年)

 

 書架にスティグレールの名前を見つけて手を伸ばしかけたとき、「愛するということ」というタイトルに一瞬手が止まった。恋愛教本や宗教入門書の類かと一瞬思ったのだが、もちろんそんなことはない。『象徴の貧困』『現勢化―哲学という使命』と部分的には内容が重なっているが、講演をもとにしているためスティグレール哲学が比較的理解しやすい文章で語られている(もともと、フランスの哲学者としてはスティグレールの語り口は理解しやすいのだが)。
 『象徴の貧困』では2002年のフランス大統領選挙で極右のジャン=マリー・ルペンが第2位の票を獲得したこと、『現勢化』では自らの5年からの獄中での生活というように、現実に生じた事件や経験をベースに哲学が語られるのだが、本書もまた、現実の事件を契機として紡がれている。

この本のもとになった講演を構想したのは、社会が三つの事件のショックからまだ醒めやらぬ時期(二〇〇二年春)でした。それらの事件とは、二〇〇一年九月一一日のテロ、二〇〇二年四月二一日のフランス大統領選第一回目投票で、極右政党である国民戦線の党首が二位に付けたこと、そしてその直前の同年三月二六日に、リシャール・デュルンという青年がパリ郊外のナンテールで引き起こした市議会襲撃事件です。絶望し、逆上した人たちによって引き起こされた二つの悲劇(これらは数多の事件の三つの際立った例であるにすぎないのですが)は、個別の事情はともあれ、根幹においては互いに無関係ではないように私には思われたのです。 (pp. 2-3)

 本書では特に、リシャール・デュルン事件を参照しつつ、「愛するということ」、「自己愛」について語り始めている。訳注によれば、リシャール・デュルンが引き起こした事件は次のようなものであった。

 二〇〇二年三月二六日、フランスの青年リシャール・デュルン(三三歳)はパリ郊外のナンテール市議会で銃を乱射し、市議会員八名を殺害し一九人を負傷させた。彼は逮捕されたが二日後投身自殺する。 (p. 21)

 デュルンは、「生きている実感」を持てずにいて、「人生でせめて一度、生きていると実感するために、悪事を働かねばならない」と日記に記していたという。

 リシャール・デュルンが苦しんでいたのは、本源的な(基盤となる、原型としての)ナルシシズムの能力が構造的に剝奪されていたからです。ここで「本源的なナルシシズム」と私が呼んでいるのは。プシュケpsychè 〔人間の生命原理としての魂、心。「姿見=鏡」をも示す〕の機能に欠かせない構造としての自己愛のことです。この自己愛は時には病的に過剰になることもありますが、しかしそれがなければいかなる形での愛も不可能になってしまう基本なのです。  (pp. 21-2)

 本源的ナルシシズムは、もちろん「私」を愛するのだが、その「私」は本来的には「われわれ」と深く結びついている。つまり、「われわれ」のナルシシズムというものもあるとスティグレールは言う。デュルンは、自分のナルシシズムを作り上げることができず、したがって「われわれ」に参加することができない。「市議会という本来は「われわれ」の代表であるものの内に……自分を苦しめるだけの「他」という現実を見てしま」ったがゆえに「その「他」を破壊した(pp. 22-3)のである。

 しかしながらわれわれ現代人は、大変特殊な意味においてナルシシズムの苦悩に直面しています。その特殊性とは、現代人がとりわけ「われわれ」のナルシシズムの点で、いわば「われわれというものの病によって苦しんでいるということです。私が「」になれるのは、ある「われわれ」に属しているからこそなのです。「」も「われわれ」も個となっていくプロセスなのですが、そうである以上、「」そして「われわれ」というものはある歴史を有しています。それぞれの「われわれ」が異なる歴史を持っているという意味だけではありません。大事なのは、「われわれ」というものの個体化の条件が、人類の歴史の中で変化するということなのです。 (p. 25)

 スーパーインダストリアル時代としての現代は、資本の支配を通じた消費や情報のシステムによって「私」や「われわれ」の個となっていくプロセスを妨げるという「われわれ」というものの病が生まれる機制を論じたのが『象徴の貧困』であった。
 私たちは、集団的個体化というプロセスを通じて「私」と「われわれ」を確立していくが、それはシンクロニゼーション〔共時化、一体化〕とディアクロニゼーション〔個別化、固有化〕という正反対の作用の協調的な組み合いによってもたらされる。
 シンクロニゼーションは、過去から現在に至る歴史や文化を人々と同時的に共有化するプロセスで、そのとき、いかに豊かに「象徴(シンボル)」を共有しうるかが優れて「われわれ」たりうるかを決定する。一方、ディアクロニゼーションは、「われわれ」が共有する象徴から「私」固有の象徴(スティグレールはそれをディアボルという造語で呼ぶ)を分離し、「われわれ」の中で自立する「私」を形成することを意味する。
 シンクロニゼーションとディアクロニゼーションは、社会の一成員として生きる「われわれ」のなかの一人としての「私」の意味を与えるプロセスである。ハイデガー風に言えば、世界内存在としての現存在の意味を与えるということだ。こうした「われわれ」と「私」の集団的個体化がうまくできなければ私たちは自己愛としての対象としての「われわれ」と「私」を持つことができない。このことが、デュルンの犯罪の根源にあったとスティグレールは見ているのである。

自分たちのことを「われわれ」と言えるためには、同じ暦と地図のシステムを共有していなければなりません。同じカレンダーを参照することができなければ、つまり共通の時間を共有していなければ、そして共通の空間的表象を有しそこで方角の配置を共有していなければ――たとえば通りの名や地図や交通標識を読めないとしたら――、互いによそ者だということでしょう。ある「われわれ」が自分にとって親しみ深いものとなるのは、このようなものを共有しているからなのです。ところが今日では、暦や地図のシステムはグローバル化した文化産業によってコントロールされるものとなってしまいました。 (p. 42)

 「われわれ」が共有すべき「同じ暦と地図のシステム」については、きわめて重要な政治的な意味があるとおもう。つまり、同じ暦と地図のシステムを破壊してしまえば「われわれ」という意識(を持つ集団)は瓦解し、ばらばらに孤立した人々はたやすく政治支配の網にとらえられることになる。
 「同じ暦」としての歴史を修正・歪曲しようとする政治的企図には(自覚的であれ無自覚であれ)そういう悪意ある政治的意図が含まれる。情報(マスコミ・ジャーナリズム)の政治支配は、地図システムの参照を困難にするだろうし、場合によっては権力による地図の書き換えを許してしまうだろう。
 スティグレールはこのような政治的意味を明示的には述べていないが、9・11や極右の台頭、若者の政治的犯罪に対抗しうるものは私たちに本来的に備わっているべき「われわれ」と「私」なのだが、スーパーインダストリアル時代の消費社会が「われわれ」と「私」を著しく損ねていると主張しているのである。

消費活動とは〔……〕、「」と「われわれ」を混同させ、両者の違いを消し去り、そうすることでまさに両者を「みんな」に変えてしまうという傾向をもちます。そしてこの消費活動を組織化するということは、「たちシンクロさせようとすることなのです。そもそも私が「」であると言えるのは「」がディアクロニーである、つまり「」の時間が「あなた」の時間と異なるからこそなのですが、だからこそ消費の組織化は「」たちの差異がもうなくなるほど「」たちをシンクロさせようとするのです。そうなると、自分自身を愛する気持ちつまり自己愛は失われていってしまいます。なぜなら、私の行動すなわち消費活動が他者の行動すなわち消費活動とシンクロすることで〔……〕私の特異性が消し去られていけば、「」は次第に抹消されていき、私の「」らしさがこうして徐々に消えていけば、私はもう自分を愛せなくなってしまうのです。そして自分のことが愛せなくなると、他者のことももう愛することができません。 (pp. 27-8)

 そして今日――これは現代の特徴、それも悲惨なまでに貧しい特徴なのですが――、「」と「われわれ」の連結は、消費という様態であらたなものを取り入れよというヘゲモニー的な至上命令に従属してしまっているのです。 (p. 37)

 本来、シンクロニゼーションとディアクロニゼーションの組み合いで「私」と「われわれ」が形成されるのだが、ハイパーインダストリアル時代では情報や消費における資本主義的活動が私たちに過剰なシンクロニゼーションを強いる。そのため、私たちは個性を失い、「みんな」という言葉で括られるような集団の中の非個性的で孤立したばらばらな一人になってしまう。それは「個性的なあなたに!」などという何とも皮肉なCMによって誘因される消費行動という形で現れてくる。

〔……〕文化産業の発展はハイパーシンクロニゼーションをもたらすことでディアクロニゼーションを排除し、しかも逆説的なことに、ハイパーディアクロニゼーシヨンを生み出してしまうのです。ハイペーディアクロニゼーションとはつまり、象徴に関する領域から切り離され、個人と集団の時間が分離してしまうことであり、ディアクロニックなものとシンクロニックなものが分-解dé-compositionしてしまうということです。 (p. 56)

 私たちが社会(世界と言ってもいいが)を認知するとき、3つの過程を経ている。いまここの時間の流れの中で、見たり聞いたりして認知することを第一次過去把持と呼ぶ。第一次過去把持で獲得した記憶をあとで思い出すプロセスを第二次過去把持と呼び、これが私たちの「意識の過去を構成して」(p. 90)いる。
 人間は自分自身の記憶ばかりではなく、第三の記憶として、本、録音、映画、ビデオなど(歴史的に発明されてきた道具類も含めて)による第三次過去把持を利用する(スティグレールはこの第3の記憶を「後成系統発生的(エピフィロジェネティック)épiphylogénétiqueな記憶」(p. 110)と名付けている)。
 この近代産業によって肥大した第3次過去把持が私たち一人ひとりの記憶である第1次と第2次過去把持をコントロールするようになる。

 一千万の人々が同じ番組――同じオーディオビジュアルの時間的商品――を見るとき、その人たちの時間の流れはシンクロします。もちろん、その人たちの過去把持における選別の基準はそれぞれ異なっていて、したがって同じ現象を知覚するというわけではありません。見ているものについて全員が同じことを考えたりはしないのです。しかし第一次過去把持の選別の基準を作り上げていくのが第二次過去把持だとしたら、人々が毎日同じ番組を見ていれば、彼らの「意識」は当然ますます同じ第二次過去把持を共有することになり、したがって同じ第一次過去把持を選別するようになるでしょう。それらの意識はあまりにシンクロした結果、自分のディアクロニーすなわち特異性を失うことになります。それはつまり自由を失うことであり、そして自由とは何かといえば、それはつねに思考の自由なのです。 (p. 73)

 ディアクロニーを失い、「われわれ」のなかの「私」でなくなってしまうことは、言葉や記号操作一搬が機能しなくなってしまうことも意味している。そのため、言葉や記号によって付与されていた「意味」をも失ってしまう。「私」に意味を見いだせなければ「私」を愛することも不可能となり、本源的ナルシシズムを喪失することになる。
 「私」が崩壊すれば「われわれ」も崩壊されることになり、それは、私たちが「付和雷同的群衆である「みんなon」と化してしまうことであり、まさにその「みんな」という大衆こそが、二〇世紀のあらゆる政治的厄災を引き起こ」(p. 74)すことになったのである。

リシャール・デュルンがぶつかっていたのはまさに非-意味a-signifianceと呼ぶベき壁であり、それは単なる無意味insignifianceをはるかに超えた、意味生成signiflanceの限界であり、その限界があまりに耐え難いものであったがゆえに、彼は殺戮行為を引き起こすに至ったのです。これは意味をなすものが破壊されることによって至る象徴の貧困の結果です。そしてこの貧困からは、実は誰も逃れることはできません。象徴の貧困はいつも重くのしかかり、幽霊のようにうろついていて、たとえばせっかく夕食を共にしても、ほとんどの場合はもう、ろくに話すことがないといったありさまなのです。 (p. 75)

 私たちは「われわれ」の形成を支える共有すべき象徴を失いつつあり、象徴の生産という創造的な行為も阻まれている。「この象徴を創り上げるというその創造性は個体化の条件」(p. 77)なのである。つまり、記憶の個体化や言葉の個別的な差異化は、集団の個体化に反映され「われわれ」の内実が更新されることになるのだが、スーパーインダストリアル時代の巨大資本、巨大マスコミ(ルロワ・グーランはそれを「超大民族集団」と呼ぶ)によってその集団的個体化が脅かされている。象徴の創造が巨大資本、巨大マスコミに委ねられてしまって、過剰なシンクロニゼーション(ハイパーシンクロニゼーション)が進行してしまうのである。

 「感じるためには最小限の参加が必要」だというのに、消費の世界規模での組織化によってハイパーシンクロニゼーション――あらゆるディアクロニーの否定――が生じた結果、今や感受性の鈍化という状態がもたらされています。そこから生じる果てしない苦痛、苦痛の限界にある苦痛、もうほとんど何も感じられないというこのうえなく危険な状態、意味というものの貧困、そして意味を-作り出す、つまりは存在することができなくなるということ、これらが二〇〇二年四月二一日の大統領選の投票、さらには今日世界中の絶望した人たちのあらゆる行動によって示されていることなのです。そのような行動のひとつであったリシャール・デュルンの殺戮行為は、個体化の喪失の極限での個の表現、個となることができないその極限における個の表現だったと言えるでしょう。 (pp. 83-4)

 巨大資本(とマスコミ)の作用を《帝国》の新自由主義的政治・経済支配の勝利による危機と指摘するネグリ&ハートが指摘する四つの被支配者主体の状況とは、スティグレールの指摘する「私」と「われわれ」が破壊された「みんな」のばらばらに孤立した政治的・経済的状況そのものであろう。

新自由主義の勝利とその危機は〔……〕、新たな主体形象を作り上げた。金融と銀行のへゲモニーは「借金を負わされた者」を生みだした。情報とコミュニケ—シヨンのネットワークに対する管理は「メディアに繁ぎとめられた者」を創り出した。セキュリティ体制と例外状態の全般化は、恐れにとりつかれ、保護を切望する形象としての、「セキュリティに縛りつけられた者」を構築した。そして民主主義の腐敗は「代表された者」という奇妙に非政治化された形象を作り出した。 [1]

 このような状況を打破するためにネグリ&ハートは、《マルチチュード》の叛乱を期待するのだが、スティグレールが目指す道筋はそれとは異なる。
 後成系統発生的な記憶は「われわれ」が共有できる第三の記憶であるが、その記憶の保持者を第三者の「彼il」と名付ける。「彼il」は、「私」と「われわれ」が成立するための「条件であり絆である」(p. 110)とスティグレールは指摘する。

 さて「彼il」という第三者としての記憶は、大文字のIl」(大文字の他者)を語る聖書の条件でもあります。聖書とは絶対的な過去を示すものです。記憶の積み重ねによってわれわれはその過去にまで導かれるとされるのですが、その絶対的な過去とはまさに記憶されないものl’immémorialであり、ブランショはそれを「恐ろしいまでに旧いものeffroyablement ancien」と呼んでいました。そして旧約聖書はまさにそれを永遠なる父として示したのです。第三の記憶としての聖書とはしたがつて崇拝culteを支えるもの――パスカルが記したように信仰の支えとなるロザリオとともに――であり、すなわち信créditを支えるものなのです。 (pp. 111-2)

 しかし、ニーチェを待つまでもなく、近代になって大文字の第三者は「神の死」として死ぬことになる。つまり、近代の「産業が、加工されるべき原料となった意識(conscience良心)を奪取したということです。そしてそこで奪われたのは「われわれの」意識(良心)であり、意識というわれわれの「時間」だった」(p. 112)のである。

一九世紀までは、生産者、企業家、物質財の製造者たちの世界と、読み書きが堪能な知識人clercsと呼ばれた人たち――聖職者にせよ世俗の者にせよ――つまり宗教、法律、政治、認識、芸術など「精神的なもの」を引き受ける者の世界は、構造的に分離していました。つまり異なる二つの世界があったのです。しかしやがてムネモテクノロジーが生産の分野に統合されていきます。後者は生産と消費のシンクロニゼーションを保証し、潜在的な時間というものを廃しジャスト・イン・タイムで生産を機能させようとするものでした。こうして二つの世界が融合したのです。「」と「われわれ」を超えたところにあってそれ自身で権威であった「il」という偉大な第三者もそこに統合されていき、内在的なもの(システムに内在するもの)すなわち原則としてディア-ボリックなものと化したのです――それまでは知識人が世俗と分離しているということによって通約不可能なものの超越性が示されるという経験があったのですが、その通約不可能性がすべて廃されてしまったのですから。この通約不可能な第三者を、ラカンの用語を用いて大文字の他者(アリストテレスにおいてすでに、それは欲望の無限の原因とされました)と呼ぶこともできるでしょう。第三者がこうして吸収されてしまったことで、欲望は萎えていくことになりました――それはまた無-意味l’in-signifiantが蔓延することでもあり、それはやがて非-意味l’a-signifiant へと向かっていくのです。 (pp. 118-9)

 現代の巨大資本の技術と私たちの記憶のシステムが統合していくのは避けられない、「抵抗」しても無駄だとスティグレールは断言するが、そのプロセスにはある可能性が開かれているとも語るのである。

 さてこのプロセスは、まず単なる生成として差異をことごとく排除してハイパーシンクロニゼーションという事態をもたらすようにも見えますが、実はそこでこそ、われわれがさまざまな選択をおこない、すなわち差異を生じさせることが求められています。そして差異を生み出すためにはまず、プロセスの中でプロセスそれ自体を死に追いやるようなものを批判する〔判別し、限界を見極める〕ことから始めなければならないのです。  (pp. 121-2)

問題は抵抗することでも適応することでもなく、必要なのはあらたなものを創り出すinventerことです。そのような創出はまさに取っ組み合っての闘いであり、そしてそれはラディカルな批判をすることなのです。 (p. 123)

 きわめて貧しい象徴しか持てない「みんな」は、「われわれ」と「私」が破壊されていることに無自覚であるしかないが、一方で、それを自覚的(批判的)に見つめることができる人々も多く存在する。私たちの中には「プロセスを超過excéderし、さらにはプロセスの中からプロセスの調子を狂わせる――分離によって――ことのできる例外exceptionとなりうる」(pp. 124-5)人たちも存在する(スティグレールはその典型的な範例を芸術家に見ている)。自らが決断し、プロセスに抵抗し、プロセスを問題視できるのは「創出する能力」であって、「この創出する能力というのは「抵抗」する力をはるかに超えるもの」であるとスティグレールは述べている。
 このように、私たちはハイパーシンクロニゼーションを強要してくるシステムに対処しなければならない。同時に、「私」と「われわれ」を見失った(象徴において貧しい)人々にも向き合わなければならない。その対処において私たちが採るべき態度にとって「傾向」という用語で考えることが大事だと指摘する。

〔……〕傾向という用語で思考するとは、逆らって闘うべきものは必要だと考えるということです。したがって、支配的になろうとしているある傾向(実際、あらゆる傾向はある支配に逆らいつつ自分もまた支配に向かおうとするものなのです)に抗って闘い、その傾向に対しある反-傾向contre-tendanceを対立させようとしている人は、自分が逆らって闘っているその相手の傾向が実は自分がその闘いで守ろうとしている傾向にとっての条件なのだということを理解しなければなりません。ということは、いかなる場合も相手の傾向を排除することが問題なのではなく、まさに二つの傾向が組み合うということが重要なのです。この観点から言えば、傾向による思考とは、対立相手adversaireを悪の根源であるような敵と見なしたりしないということなのです。対立相手は悪の根源であるような敵ではありません。言い換えれば、相手は悪ではなく、ただある支配的な傾向に捕われてその傾向の仲介やスポークスマンとなっているのであり、しかもほとんどの場合、悪意を抱いて行動しているつもりは全くないのです。 (pp. 127-8)

 これは、本書の献辞の冒頭に「この講演を、大統領選で国民戦線を支持した人たちに捧げます」(p. 18)と記したことの思想的意味であろう。『象徴の貧困』でも「国民戦線を支持した人たち」について次のように述べている。

私がここで象徴の貧困と名付けたのは、まずこの極右政党に投票した人たちが苦しみ、投票という証言――その証言がどんなに醜悪なものであり、またそう見えたとしても――をしているその貧困のことである。ただし、その政党そのものと私が話し合うということは当然ながらあり得ない。
 しかし、国民戦線との話し合いを拒むからといって、この政党に投票した人たちと話し合わないということでは決してない。それどころか私は誰よりもその人たちに向かって話さなければと考えている。たとえほとんどの場合、とても間接的なかたちでしか向かえないとしても。また私にとって、彼らに向かって話すとは、何よりもまず彼らという証人を憂え配慮し)、彼らが私の声を聞く理解することがまさにできないところでしている証言を憂える(配慮する)ということだとしても。そして、彼らが最悪の事態となる前に彼らに残された唯一の象徴交換の可能性としての投票という手段によって証言している現実がどんなに耐え難いものであろうとも、何よりもまずこうして彼らに向かって話すということが、私の目には絶対に優先すべきことに見えるのだ。 [2]

 巨大資本によって揺るぎなく(そう見える)構築されたハイパーシンクロニゼーションを強いるシステムへ対処すること、それによって共有すべき象徴を見失ってばらばらに孤立する人々(の政治的・思想的状況)に対処することはけっして容易なことではない。プロセスの意図をずらすことにおいてすら芸術家の資質をスティグレールが想定したように、凡庸な私(たち)にはなおいっそう困難な課題であろう。
 困難な時代である現代において、私たちが歩むべき道筋を次のように述べて、スティグレールは(本書のもととなった)講演を終えるのである。

これらすべては、長い困難な道のりの始まりに過ぎないのかもしれません。その道のりにおいて、他のどんな問題をも差しおいてまず闘わなければならないのは、「われわれ」というものが完全に分裂してしまうという差し迫った可能性なのです。その闘いはまず、今日の精神のありようの批評を経なければなりません。ということは、メタ安定性がメタ安定につねに戻れるための条件を分析しなければならないのです。それはつまり、均衡にも不均衡にも陥ることなく(完全な均衡は完全な不均衡をもたらすのですからどちらも結局同じことです)、あらためて運動を生み出していくための条件です。完全な均衡は欲望を失わせ、原子化を招きます。ハイパーシンクロニゼーションはハイパーディアクロニゼーション、つまり社会的なものの分-解dé-compositionを生むのです。それこそまさに「分-裂(ディアボリック)(悪魔的なもの)」なのですが、このことは「悪の枢軸」をなすとされるいわゆるならず者国家をさんざん悪魔扱いすることで、覆い隠されてしまっているのです。
 しかしとは何よりもまず、悪を告発するだけで思考しなくなることであり、「われわれ」というものの未来を憂えるような「われわれ」を「われわれが諦めてしまうこと批判やあらたなものの創出、すなわち取り組んで闘うことを「われわれ」が放棄してしまうことなのです。 (pp. 155-6)

 スティグレールは、新しいタイプの社会へのコミットメント、アンガージュマンの彼なりの在り方を提案しているのである。

 

[1] アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート(水嶋一憲、清水知子訳)『反逆――マルチチュードの民主主義宣言』(NHK出版、2013年) p. 24。
[2] ベルナール・スティグレール(ガブルエル・メランベルジェ、メランベルジェ眞紀訳)『象徴の貧困 1 ハイパーインダストリアル時代』(新評論、2006年) pp. 211-2。

 

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