かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 原発をめぐるいくぶん私的なこと(1)

2024年07月03日 | 脱原発

2015年㋀16日

 脱原発デモに出かける前にPCのメールを確認して、仙台市図書館から予約書籍の準備完了の知らせをみつけた。集会場所の勾当台公園への道すがら図書館から借り出すことにして、家を出た。
 原発や辺野古のこと、特定秘密保護法や解釈改憲などをフェイスブックに積極的に投稿していて、その合間に花の写真や日々のことなども書いている女性がいる。フェイスブック上で知り合ったその人が、一週間ほど前、日々の思いの後に「夕暮れには目覚めてはいけないと書いたのは清岡卓行だったか」という意味のことを書いていた。
 詩人が書いたというその言葉を私は知らなかったが、小説ならいざ知らず詩集からならそのフレーズを探せるかも知れないと納戸や本棚を探してみた。さんざん探したが、清岡卓行の小説は数冊出てきたものの詩集は一冊も見つからない。たくさん読んだはずなのにどうしたことか。若い頃、詩集を借りて読むという習慣はなかったはずだ。詩集だけは買ったのである。そもそも清岡卓行の詩集を持っているという確信はどこから来たのか。そんなことがあって、若いときの記憶が茫洋となってしまったのではないかと背筋がざわざわしてきたのだった。
 仙台市図書館を通じて他の図書館に借用依頼をしていたその本は『清岡卓行全詩集』である。開いてみれば、すぐに記憶に鮮明なフレーズが見つかる。

二〇世紀なかごろの とある日曜日の午前
愛されるということは人生最大の驚愕である
かれは走る
かれは走る
そして皮膚の裏側のような海面のうえに かれは
かれの死後に流れるであろう音楽をきく
人類の歴史が 二先年とは
あまりに 短かすぎる
   「子守歌のための太鼓」(部分) [1]

 今日の参加者はやや少なくて50人ほどだった。仙台としては暖かい夜だったので、50人は元気にデモに出発した。勾当台公園と宮城県庁舎の間の道に出て、勾当台通りの交差点を渡り、仙台市庁舎の前を通って一番町に向かう。
 定禅寺通りを越えれば一番町である。ここまではデモの列には照明の当たらない道だ。50人の参加者だからと思いこんでシャッターを押すと、その後ろからさらにたくさん現われて、立ち位置を変えて取り直すという失敗も暗さのせいである(空間認識力が脆弱だとは決して言わないのだ)。
 参加者が少ないとかえってデモが元気になるというのはなぜだろう。清岡卓行の詩集を借り出して、最初の数十ページを図書館で読んだら、次のような詩句がみつかった。

どこから世界を覗こうと
見るとはかすかに愛することであり
病患とは美しい肉体のより肉体的な劇であり
絶望とは生活のしっぽであってあたまではない

きみの絶望が希望と手をつないで戻ってくることを
きみの記憶と地球の円周を決定的に選ぶことを
夜の眠りのまえにきみはまだ知らない
              「氷った炎」(部分)[2]

 沖縄のことを思い出した。沖縄の歴史的な苦悩、繰り返される琉球処分の絶望的な情況から、「絶望が希望と手をつないで戻って」きた沖縄のことが思い出されたのである。沖縄の総意が新しい形を生んだ。もちろん安倍自民党政権の陰湿な加虐的対応に苦しめられるだろうが、昨年までの沖縄とはもう違うだろう。「絶望が希望と手をつないで戻ってくる」朝は、もう来たのだ。
 我が「デモびと」も明るく楽観的である。安倍政権が続いて状況は芳しくないが、「絶望が希望と手をつないで戻ってくる」朝があることを知っているのだ。
 さて、急いで帰って、「夕暮れに目覚めてはいけない」というようなフレーズがあるものかどうか『清岡卓行全詩集』のページを繰らなければならない。

[1] 『清岡卓行全詩集』(思潮社、1985年) p. 48。
[2] 同上、p. 30-1。


2015年1月23日

 勾当台公園への道すがら、仙台市図書館に立ち寄って、先週の金デモの日に借り出した『清岡卓行全詩集』を返却した。フェイスブックの投稿から気になっていたフレーズは、予想通り清岡卓行の「うたた寝」 [1] という詩の一節だった。

タぐれに眼ざめてはならない。すべてが
遠く空しく溶けあう 優しい暗さの中に
夢のつづきの そこはかとない悲しみの
捉えようもない後姿を追ってはならない。

 夕暮れに目覚めて夢の続きを追うようなことは、私にはあまりないことだけれど、そのような時間帯に思わず深く眠り込んで目覚めたとき、私がどんな時間にどこにいるのかまったく自覚を失って少しばかりパニックに似た感情に陥ることはしばしばある。

なにかに追いたてられるように 眼を覚ますと
深く長い眠りの 洞窟からではないのに
一瞬 記憶喪失にでもかかったように
ぼくはぼくの 致命的な愛が思いだせない。
           「秋のうた」部分 [2]

 残念ながら、私の目覚めにあまり「愛」などというのは関係ないのではあるが。

[1] 『清岡卓行全詩集』(思潮社、1985年)p. 144。
[2] 同上、p. 203。


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