かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(7)

2024年07月01日 | 脱原発
2013年5月26日

 ずっと気になっていたことがある。吉本隆明が「原発擁護論」を盛んに言っているということを雑誌や本やらでよく目にしていたのだが、私自身は吉本が原発について直接語ったり書いたりしたものを見たことがなかった。雑誌のインタヴュー記事のようなものが多いらしいのだが、古い雑誌の記事を探すほど熱心でなかったということもあるし、漏れ聞く限りでは吉本はつまらない科学神話に取り込まれているような話らしかったので、気になってはいたものの放っておいたのだった。
 1週間ほど前、暇つぶしに本屋を覗いていたら黒古一夫著『文学者の「核・フクシマ論」』 [1] という本を見つけた。吉本隆明、大江健三郎、村上春樹の3人の原発・核をめぐる言説を論じたものである。原発をめぐる大江健三郎の言説・行動はよく知られているし、この本でも高く評価されている。一方、吉本と村上は強く批判されている。
 著者によって批判されている内容を取り上げて、あらためて批判するなどということは意味がないが、少なくとも私が予想したとおり、吉本隆明の原発容認論はきわめて素朴な科学信仰、つまり、科学の発展がすべてを解決する、科学の進歩で勝ち取った原発を放棄することは人類の進歩に反する、といったたぐいの話なのである。そもそも科学と技術を混同しているのだ。核分裂や核融合の発見は科学であって、確かに自然についての科学的認識は後戻りしないし、できない。その科学的事実を応用して原発を作るのは工業技術なのである。技術というのは人間に都合の良いものを取捨選択すればよいのである。薪を作るのに鉈を使うか鋸を使うか、という程度の問題なのである。人類の進歩などと何の関係もない。
 後戻りしない(できない)科学の進歩というのであれば、半導体によって太陽光を直接電力に変換する科学技術のほうが原子力よりも遙かに新しい科学(的発見)によるエネルギー創成技術なのである。単純な科学進歩論に基づくなら、原子力より太陽光発電を主張しなければならないはずだ。
 吉本隆明ともあろう人のあまりにも素朴な科学信仰に涙が出そうになる。彼の『言語にとって美とは何か』や『共同幻想論』を夢中になって読んだ世代として、なんと評して良いか分らない。「吉本の「福島」以後も同様の発言を繰り返していることについては、問題化すること自体が酷であり、責任は、認知力が衰えた吉本にインタヴューしたメデイアにあると考えるのが適当である」と書いた絓秀実の言い方 [2] が適切なのだろう、と思いたい。

[1] 黒古一夫『文学者の「核・フクシマ論」』(彩流社、2013年)。
[2] 絓秀実『反原発の思想史』(筑摩書房、2012年)p. 63。

 
 フクシマはあらゆる現在を禁ずる。それは、未来への志向の崩壊なのであって、そのために他の諸々の未来へと働きかけなければならないのである。
     ジャン=リュック・ナンシー [1]
 
 ナンシーの『フクシマの後で』を読んだ。フクシマを語ることを哲学者の避けられない義務として引き受けた講演を基にした論考である。本は、フクシマ以前に書かれた「集積について」と「民主主義の実相」を加えた3部構成になっている。なかでも、〈68年〉以降の政治状況を民主主義の意味から論じている「民主主義の実相」は、私としてはとても興味深く読むことができた。
 しかし、フクシマを哲学するとことはきわめて困難のことに見える。ナンシーは、マルクスの「貨幣=一般的等価物」とする考えを社会全般に拡大して「一般的等価性」を基本として考えようとする。そして、「結局、この等価性が破局的なのだ」 [2] と結論する。
 このナンシーの言葉は、「象徴交換と死」を書いたボードリヤールが、いまやポスト・ポストモダンの世界が「不確実なものになったのは、世界の等価物はどこにも存在しないからであり、世界は何ものとも交換されないからだ」 [6] と述べるにいたったことと呼応しているようだ。
  ナンシーは、破局的な等価性について次のように書いている。
 アウシュヴィッツとヒロシマという二つの名に共通するのは、境界を越えたということである。それも、道徳、政治の境界でではなく、あるいは人間の尊厳の感情という意味での人間性の境界でもない。そうではなく、存在することの境界、人間が存在している世界の境界である。言いかえれば、人間があえて意味を素描し、意味を開始するような世界の境界である。実際、これら二つの企ては戦争や犯罪そのものをはみ出しており、それらがどのような意味内容を有しているのかは、そのつど、世界の存在からは独立した領野においてしか理解されなくなる [3]
 そして、フクシマは、アウシュヴィッツ、ヒロシマ・ナガサキに同列に加えられてしまったのである。フクシマもまた「諸々の名の極限における名となった」 [4] のである。
  このような「極限における名」たちを前にするとき、ナンシーも触れている [5] ように、アドルノの次のような言葉を思い出さざるをえない。
 
アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。
        テオドール・W・アドルノ  [7]
 
 アウシュヴィッツについては、アドルノの言葉に私は納得する。しかし、ヒロシマ・ナガサキばかりではなくフクシマについてもたくさんの「詩」が書かれているのではないか。しかも、私(たち)はそれを野蛮だとはけっして思ってはいない(くだらない「詩」がたくさんあることとは話は別だ)。
 アウシュヴィッツとヒロシマ・ナガサキ・フクシマのこの大きな差異は何に由来するのだろう。考えられることは次のようなことだ。ナチスに虐殺されるユダヤ人やロマ、共産主義者の存在は境界を越えた極限の名であるが、ナチスもまた人間が存在する世界のあらゆる領野を越えた極限の狂気(国家の狂気)であって、そのふたつの極限が存在する世界は、「意味を素描し、意味を開始するような世界」ではありえないだろう。
 しかし、ヒロシマ、ナガサキ、そしてフクシマでは、〈ヒバクシャ〉という極限の名、極限の存在について語られるばかりで、その対極を共存させて語られることがないのではないか。大都市の上空で爆裂する原爆がどんな結果をもたらすか、人間は想像できる。その想像を超えて原爆投下を決断する戦争国家の狂気は、ナチスの狂気と完全に比肩しうるものである。
  放射能汚染によって16万人が故郷を追い出され、残る人々もその日々を〈ヒバクシャ〉として生きなければならないフクシマが私たちの世界に間違いなく存在し続けているのに、「美しい日本」と言って憚らない政治(国家)の狂気、その原発を他国に売りつけ、「美しいトルコ」、「美しい◯◯◯国」を地球上に再生産しようとする狂気、フクシマそのものと私たちが暮らしているこの国家の狂気とを一つの世界として描ききる「詩」や「哲学」は存在するのだろうか。
 
[1] ジャン=リュック・ナンシー(渡名喜庸哲訳)『フクシマの後で--破局・技術・民主主義』(以文社、2012年)(p. 65)。
[2] 同上、p. 26。
[3] 同上、p. 34。
[4] 同上、p. 34-5。
[4] 同上、p. 30。
[5] ジャン・ボードリヤール(塚原史訳)『不可能な交換』(紀伊國屋書店、2002年) p. 7。
[7] テオドール・W・アドルノ(渡辺祐邦、三原弟平訳)『プリズメンーー文化批判と社会』(ちくま学芸文庫、1996年) p. 36。
 
 


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