かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【書評】はたよしこ『アウトサイダー・アートの世界』 (紀伊國屋書店、2008年)

2014年03月31日 | 鑑賞

はたよしこ
『アウトサイダー・アートの世界 ――東と西のアール・ブリュット』 
(紀伊國屋書店、2008年)

 

 2012年7月に岩手県立美術館で『アール・ブリュット・ジャポネ展』 [1] を見る機会があって、「アール・ブリュット」という言葉でカテゴライズされる美術の分野があることを初めて知った。その後、図書館の美術関連の書架で小出由紀子編著の 『アール・ブリュット パッション・アンド・アクション』 [2] という画集を見つけることができた。
 2013年9月、『アンリ・ルソーから始まる ―素朴派とアウトサイダーズの世界』展 [3] を見に世田谷美術館まで出かけて、「アウトサイダーズ」として括られる美術家たちがいることを知った。それで、同じ図書館の同じ書架で「アウトサイダー・アート」を標題とする本書を見つけ出すことができた。
 編著者のはたよしこという名前にも記憶があった。『アール・ブリュット・ジャポネ展』の図録解説をされていて、私としては初めてのアール・ブリュット経験を助けてもらったのである。

 本書では「アール・ブリュット」と「アウトサイダー・アート」の両方の言葉が用いられている。フランス語である「アール・ブリュット」を英訳したのが「アウトサイダー・アート」だとすれば、二つはまったく同じ意味なのだが、本来の言葉の意味で言えば「アウトサイダー・アート」の方が広い概念だろう。いずれにせよ、マージナルな領域や除外される領域を必然的に伴うカテゴライゼーションという作業は、いわば無間地獄の様相を呈することがある。多様な作品に出会いたいと願っている私のような単なる観者から言えば、なるべく広い領域をカバーするようなカテゴライズが望ましい。その点では、著者がアートディレクターを務める近江八幡市の美術館が「ボーダレス・アートミュージアム NO-MA」であって、その「ボーダレス・アート」という括りは、「ボーダー」の存在を想起させるものの、志向性を明示していて当を得ていると(私には)思われる

 ジャン・デュビユッフェが「アール・ブリュット」なる言葉を生み出し、その評価と作品のコレクションを始めたのだが、リュシエンヌ・ペリーは、その時代の美術史的意味を「対極間の電気ショート」と題した本書の中の一文で次のように述べている。

アール・ブリュットの概念が現れるのは、ちょうど20世紀初めの芸術改革のころにあたる。1900年ごろ、ヨーロッパ全体にプリミティヴィズムへの関心が広がり、知的および美的思想に深い影響を与えた。芸術家たちは伝統からの解放の必要性を感じ、新しい手がかりや価値を模索する。ドラクロワは、未開性と洗練さを求めてオリエントへ発ち、ゴ一ギャンは、南洋の燦然たる輝きに魅了される。ピカソは、部族の奇怪な産物に熱中し、カンディンスキーは、大衆版画を前に驚嘆する。同様に心を動かされて他の画家たちも非正統と言える芸術表現に活路を求める。古風な表現、原始性、異国趣味、民族伝承、幼さ、狂気などが他性としての対象の中心となる。西洋文明は、異なる民族や個人、また野蛮と呼ばれる創作物を受け入れるようになった。
 しかし、真の他性はすぐ近くにいた。いや、ほぼ自分の家にいた。そして遠い外国の文化によって作られたものに比べて、それらは、疑いなくもっと強い破壊性を帯びていた。望むにしろ望まないにしろ、社会に同化するのを拒んだ者たちは、極端で攻擊的な他性の作品を生み出していた。 そこらに描かれた奇妙な人物像たち、拾った木を粗く削った妄想の動物、粗末な紙に書かれた仮想の音楽作品など、いずれも分類することはできない。それら「観念と感性の過激派たち」は、最も反逆的な逃避、すなわち「内への逃避」へと進んでいき、その異常な奇怪さに「他者」と「他所」を示している。 (p. 26)

 身近にいた「観念と感性の過激派たち」こそ、精神病院や養護施設でひそかに制作を続けていた「アール・ブリュット」の芸術家たちだった。また、本書が上程された2008年の時点における日本の状況を、「浮上しはじめた日本のアール・ブリュット」と題して、著者は次のようにまとめている。

アール・ブリュット・コレクションにとって日本は「未開の地」であり、さらにいうなら日本国内においても「少しだけ知られはじめた僻地」であるのだから、当然といえば当然だ。
 しかし、実際にはここ10年ほどの間に、日本の逸材がかなり発見されてきている。つまり、「障害者の作るものは純粋だからすべてよい」というような間違った差別的偏見など軽々と凌駕するような作品。完全に独自の発想法により生み出され、かつ人に伝わる何かの力を有する作品。そういう作品が浮上してきているということである。これは日本のアウトサイダー・アートの歴史的流れを考えても、かなり画期的なことだ。 (p. 16)

 こうして、私のようなものもこの分野の美術作品を見る機会が得られるようになったのである。著者は、知的障害者授産施設で絵画教師を主催するなど、この分野の表現者たちに寄りそって活動をしてきた絵本作家で、その経験から彼らの想像力の源泉の一つとして次のように述べていることが、強く印象に残った。「喪失」はそれに見合う「想像力」を生み出す。いわば、人間の(肉体と精神を合せた)全人的な再生力の豊かさを意味するような説である。

アメリカの脳神経科医、オリバ一・サックスもその著書『火星の人類学者』の中で、同様のことを書いている。つまり、人はなんらかの障害、欠損、不足を持つことで、他の機能を開発させる能力、「創造力」を持つことのできる生き物だということだ。
 知的障害を持つ彼らの大半は言語表現が苦手か不可能であり、それに代わる手段として、自分の内的世界、内的衝動を表す方法を獲得した。それが、絵を描くこと、モノを作ること、すなわちアート的表現行動なのだ。 (p. 18)

 本書には始めて出会った作品、作家が多かったが、なかにはいぜんに見た作品や作家も収載されていた。ここでは、以前に紹介した作家、作品と重ならないように、かつ印象が強かった作品(作家)を挙げておく。

【上】ヴィレム・ファン・ヘンク(1927-2005)《マドリード》制作年不詳、絵の具、ハードボード、
86.5×105.6cm、ローザンヌ、アール・ブリュット・コレクション (p. 63)。

【下】ヴィレム・ファン・ヘンク(1927-2005)《東京》1970年頃、ガッシュ、ボールペン、マーカーペン、
インク、コラージュ、紙、90×169cm、ローザンヌ、アール・ブリュット・コレクション (p. 64)。

 ヴィレム・ファン・ヘンクは、「ノー トのぺ—ジをちぎり,大きな包装紙に貼り付ける。そこに色鉛筆で描き、さらに万年筆かボールペンでいくつかの線を描きなおす。そして、ガッシュで塗る」 (p. 62) という複雑なプロセスで、自らが訪れた都市をきわめて細密に描き挙げる。

 アール・ブリュットの絵画には「細密性」を特徴とする作家が必ず含まれるようだ。だから、いまやその細密性の差異(個別性)を論ずべきだろうとは思うのだが、私は細密性に向かうその情熱に圧倒されるばかりなのだ。その情熱を、私はかつて「空間を埋め尽くす執念のようなもの」と呼び、「この時空が「在るもの」によって構成されている、というのはきわめて初元的な感覚ではないか。「無いもの」は存在しない、というのは認識の初めとして不自然ではない」 [3] と記したことがある。古代ギリシャの哲学者、パルメニダスの「あるものはある、ないものはない」 という論理的命題が生き生きと実現されている、そう考えるのである。


【上】富塚純光(1958-)《青い山脈物語最終章:1万円札と花を貰ったの巻》2001年、墨、
パステル、新聞紙、54.3×79.8cm、(社福)一羊会・武庫川すずかけ作業所蔵 (p. 88)。

【下】富塚純光(1958-)《青い山脈物語8:おっかけられたの巻》2001年、墨、パステル、
新聞紙、54.5×81.1cm、(社福)一羊会・武庫川すずかけ作業所蔵 (p. 89)。

 富塚純光の《青い山脈物語8:おっかけられたの巻》は、『アール・ブリュット・ジャポネ展』 [4] でも展示されていた。一見、細密性という点でヴィレム・ファン・ヘンクと共通性があるように見えるが、空間を埋めているのは言葉である。それを文字という記号と見なしてしまえばいい、というほど単純ではない。記号は現実空間の実在物ではない。象徴空間の抽象化された形象である。
 そればかりではない。ここに書かれた文字は、言葉として十全な形で物語を刻んでいるのである。「それはいつしか創作物語になり、1作目の「青い山脈物語」は半分がフィクシヨン。2作目の「オランダ結婚物語」は約7割がフィクション。そして6作目にいたっては、完全なフィクションになってしまった」という解説があって、「人間にとっての「物語作り」の原型」 (p. 86) のようだと評されている。
 言葉と絵、これに歌が加われば「物語」語りとしては完全形ではないかと思う。つまり、「インサイダーズ」は人間の総合的な表象能力を細分化することで、つまり、絵は「絵画」として、言葉は「文学」として、歌は「音楽」として切り売りすることでプロフェッショナルを自認してきた、そんな逆ベクトルの眼差しがあってもいいのではないか、そんなことを思わせる作品なのである。


【左】レイノルド・メッツ(1942-)《ドン・キホーテ》1977年、墨、水彩絵の具、漆、厚紙、
53.5×39cm、ローザンヌ、アール・ブリュット・コレクション (p. 91)。

【中】レイノルド・メッツ(1942-)《ドン・キホーテ》1977年、墨、水彩絵の具、漆、厚紙、
53.5×39cm、ローザンヌ、アール・ブリュット・コレクション (p. 92)。

【右】レイノルド・メッツ(1942-)《ドン・キホーテ》1977年、墨、水彩絵の具、漆、厚紙、
53.5×39cm、ローザンヌ、アール・ブリュット・コレクション (p. 92)。

 レイノルド・メッツの作品も、富塚純光の作品と同様に「絵と物語」である。しかし、明らかに富塚と異なるのは「セルバンテス作『ドン・キホ一テ』の初版本の愛好家であるレイノルド・メッツは、この名著を自ら3部制作することにし、スペイン語、ドイツ語、フランス語版の書写と彩飾に取り組んだ」 (p. 90) とあるように、創作志向は物語ではなく、本の「装飾性」を向いている。そのためであろうか、富塚の作品と比べて文字の装飾化(変容)が著しい。
 富塚の絵もメッツの絵も、音声だけの言葉が文字を獲得していくプロセスまで想起させる。純粋な「表現」は音声によってのみ可能だとフッサールは言うが、文字や記号、身振り、手振りは表象内容に不純物を付加するだけと考えることもできるし、複雑で豊かな表象を可能にしたと考えることもできる。哲学者でも芸術家でもない私はどちらでもいっこうに困らないが、無責任な観者としては豊かであってくれればいいのである。

【上】坂上チユキ(1882-1961)《さがしもの》1995-99年、ミクストメディア
(顔料、水彩、粘土ほか)、20×31.5×26cm、個人蔵 (p. 103)。

【下】坂上チユキ(1882-1961)《無題》1980-2000年、油彩、キャンバス、5
2.5×45.5cm、個人蔵 (p. 104)。

 「アール・ブリュッ卜が見る者に引き起こす精神状態を表すのにぴったりな言葉は、当惑です」と語ったのはブルノ・デシャルム [5] だが、坂上チユキの《さがしもの》という造形作品には文字通り当惑したのである。青を基調とするものの多彩な細部が線上に連なって3次元網目状の立体を形作っている。それをどう受容していいのか戸惑うのである。正直、美しいと感動するわけではない。しかし、このイメージは何だろうと問わざるを得ないような感覚に陥るのは確かだ。
 3次元のイメージを2次元で表象すると《無題》になるのだ。それは理解できる。そして、この《無題》は美しいと思う。立体造形ではよく分らなかった細部の要素が、ここではペーズリーのようなさらなる細部模様を持つ要素であることが分かる。そして、そのペーズリー要素が不規則に無限に連なる。ここでも基調の色彩は青だが、ペーズリーの縁の光る陰のような黄色が画面にリズムを与えている。
 坂上チユキという作家は、創作表現を3次元と2次元でも(たぶん)自在に行なうことができる。だが、観者の私は、私の中での次元変換の不可能性、隔絶性に戸惑っているのである。

 坂上チユキの作品には解説ではなく、坂上チユキ自身の文章が添えられている。それは散文詩と言ってよいものだが、その中に次のような一節がある。

 ここでは、人々の言葉は過剰で心は寂しい。環境が汚染されて居ると言うが、この血なまぐさい穢土に住み、真に汚れてしまったのは、本当は人間ではないか?
 時の流れと共に、心の内から叩き落とされて行った言葉――純真で、単純で、人の心に流れ込む言葉を、本当に失ってしまったのか?
 一体誰がこんな沢山の言葉を造り上げたのか? (p. 102)

私は見透かされている、きっと。

 

[1] 『アール・ブリュット・ジャポネ展』 岩手県立美術館、図録:『アール・ブリュット・ジャポネ』(以下、『ジャポネ図録』)(現代企画室、2011年)。
[2] 小出由紀子(編著) 『アール・ブリュット パッション・アンド・アクション』(以下、『R. B.』)(求龍堂、2008年)
[3] 『アンリ・ルソーから始まる ―素朴派とアウトサイダーズの世界』展(世田谷美術館、図録: 遠藤望、加藤絢編著『アンリ・ルソーから始まる ―素朴派とアウトサイダーズの世界』(以下、図録)(世田谷美術館、2013年))。
[4] 『ジャポネ図録』、p. 88-9。
[5] 「ブルノ・デシャルム(abcd創設者)へのインタビュー」 『R. B.』 p. 151。


【書評】ジグムント・バウマン『《非常事態》を生きる ――金融危機後の社会学』(作品社、2012年)

2014年03月30日 | 読書

 ジグムント・バウマン、チットラーリ・ロヴィローザ=マドラーゾ
(高橋良輔、高澤洋志、山田陽訳)
『《非常事態》を生きる ――金融危機後の社会学』
(作品社、2012年)

 本書は、チットラーリ・ロヴィローザ=マドラーゾのインタビューに対して、ジグムント・バウマンが金融危機をめぐる資本主義の問題に答えたという形のタイトルになっているが、実際には金融危機ばかりではなく、バウマンがこれまで扱ってきた様々な社会学的主題についても議論されている。そういう点においては、バウマンの仕事についての良い概観を与えてくれる構成になっている。つまり、バウマンの本をそれほど読んでいない私にとって、本書は良いガイドと解説になっている。

 バウマンの有名な社会学的概念に「ソリッド・モダニティ」と「リキッド・モダニティ」がある。ニューディール政策やフォーディズムから福祉国家(バウマン流に言えば社会国家)全盛の時代までのソリッド・モダニティは、流動化・液体化して現代に至った。社会のリキッド化に最も強く作用したのは、多くの論者が指摘するように、ネオ・リベラリズムによる資本主義経済のグローバルな展開である。ソリッド・モダニティの社会では労働者・生産者であった人びとは、リキッド・モダニティ社会では負債を抱えようが破綻しようが「消費者」として生き続けなければならない。
 バウマンの著作はリキッド化した社会が持つ様々な問題を俎上にあげる。そのようなバウマンの仕事を、マドラーゾは[はじめに]で次のように評している。

 逆説的な意味では、道徳的責任がバウマンの研究の唯一の動機である。彼は倫理的な読者に向けて書く非宗教的人間であり、超自然的な存在をはねつける社会思想家である。それにもかかわらず、その思いやりや道徳的品位、人間性への道徳的献身は、独善にはしる宗教的、世俗的人間の嫉妬を呼び起こしている。誠実に問題と向き合う用意のある信頼できる読者なら、誰でもジグムント・バウマンを読むことから何かを得るだろう。それは、逆説的にもそこに深い思いやりの言葉があるからである。同じように、凝り固まった政治的所属と独善的な見方にとらわれた読者は、歴史という要塞や城壁に苦しみながら向き合うことを覚悟しなければならない。それは確かに、近年の経済分野で起きてきたことを把握したければ、理解すべき課題なのである。 (p. 22-3)

 本書は2部構成で、第1部の「液状化していく政治経済構造」では〔資本主義〕、〔福祉国家〕、〔民主主義と主権〕の三つのテーマについてバウマンが答える。「人間なるものの行方」と銘打った第2部では、さらにテーマは社会の広範な諸問題に拡大し、〔ジェノサイド〕、〔人口問題〕、〔原理主義〕、〔科学/技術〕、〔世代・ロスジェネ〕などに議論が及んでいる。主題が広範にわたりすぎているので、ここでは興味深かったいくつかに絞って取り上げてみたい。

 これまでバウマンの著作を読んでいて個人的にとても印象深かったことがある。主題やその攻め口が(こういって良ければ)左翼的であると思えるにもかかわらず、共産主義(マルクス主義と言ってよいかどうかは難しいが)に極めて冷淡なのである。ここではどうしたって共産主義を引き合いに出して議論するのではないか、そう思える箇所でもほとんど何も語らずにスルーしてしまうという印象であった。
 そのような私の疑問にあたかも直接に答えるような率直な記述がある。

私に言わせれば、共産主義は〈自由の王国への近道〉を強制するプロジェクトです。言葉の響きがどれほど魅力的で勇気づけるものだとしても、すでに実証されている通り、共産主義は実践に移される場合には必ず、奴隸制への近道、つまり自由の墓場への近道になってしまうのです。近道という考え自体、強制と同様、自由とはまったく相容れません。強制というのは自動的かつ自己増強的な事業です。いったん始めると、用心深く、決して緩められることのない不断の努力でもって、人々を従順で寡黙なままに強制し続けなければならなくなります。もし自由の名の下に強制が称賛されるならば(かつてジヤン=ジャック・ルソーが空想し、レーニンが断固として力説し、アルベール・カミュが、彼が生きていた当時着々と根を張りつつある二〇世紀の特性とみなして落胆したように)、本来の目的は台無しになってしまい、結局は強制を続けることだけが目的となってしまうでしょう。 (p. 31)

 「すでに実証されている通り」というように、実現された共産主義としてのソ連や東欧の歴史を踏まえている発言だ。ハンナ・アーレントが証明したようにそれは全体主義国家であった。いわば、共産主義革命はまるで運命でもあるかのように全体主義国家へと転落した。ソ連指揮下のポーランド人民軍でナチスドイツと闘い、戦後のポーランドで反ユダヤ主義に苦しめられ、1968年にワルシャワ大学を解雇されたことを契機にポーランドを出国したというバウマンの経歴が刻印した思想なのだろうと、私は勝手に想像している。 
 
バウマンは、「かつて共産主義を〈社会主義の短気な弟〉と呼んだこと」 (p. 30) があったという。そして、その「社会主義」あるいは「社会主義者としての姿勢」についてこう述べている。

私にとって社会主義とは、不平等や不正義、抑圧や差別、人の尊厳の汚辱や否定に対して、強い感受性を持つということです。〈社会主義者としての姿勢〉をとるということは、このような不正がいつどこで起きようと、どのような名目でなされようと、犠牲になっているのが誰であろうと、その全てに反対し抵抗することなのです。  (p. 31)

 この「社会主義」は、「共産主義」と比較されるべき国家・社会制度を語る思想なのであろうか。バウマンの「社会主義」の「社会」は、私がずっと理解してきた「社会主義」の社会とはどうも意味合いが違う。国家・社会制度をめぐる思想と言うよりは、「人倫を重んじること」というような精神のありようのことに思える。バウマンは、「福祉国家」を「社会国家」と呼ぶべきだとしばしば記している。この「社会国家」の社会は、確かにバウマンの言う「社会主義」の「社会」、〈社会主義者としての姿勢〉の「社会」なのである。

 さて、本書の標題にもなった金融危機(バウマンはそれを〈金融津波〉と呼ぶ)は、2007年夏頃からアメリカ合州国で表面化したサブプライムローンの焦げ付きに端を発した世界金融危機のことで、それは2008年9月15日にリーマンブラザーズ証券が連邦倒産法の適用を申請して倒産したことで決定的となった。
 バウマンは、この世界金融危機は決して銀行や証券会社の経営の失敗として現われたわけではない、むしろそれは金融資本を中心とする資本主義の成功の帰結なのだと断言する。その論証のスタートに、バウマンはローザ・ルクセンブルグ(なつかしい!)を引き合いに出す。

彼女〔ローザ・ルクセンブルク〕によれば、資本主義は〈非資本主義〉もしくは〈前資本主義〉経済なしには存続できません。資本主義が己の原理と矛盾せずに発展できるのは、まだ手つかずで、経済進出と搾取の余地がある〈未開拓地〉がある限りにおいてなのです。ところが、その土地を制圧し、啓蒙という名目の下に搾取を行うことによって、前資本主義経済の未開拓地は収奪され、資本主義がさらに発展するために必要な資源はどんどん失われていきます。ありていに言えば、資本主義は本来、寄生的システムだということです。寄生者はみな、手つかずの宿主を見つければ一時はうまく繁栄できるかもしれませんが、それは〈宿主〉を食いものにしているということなので、遅かれ早かれ、自身の繁栄、さらにいえば生存の大前提である宿主を食い尽くしてしまいます。……資本主義は、いま寄生している種がやせ細り、あるいは絶滅しょうものなら、驚くべきほどの巧みさで新種の宿主を探し出します(実際、生み出しもします)。 (p. 32-3)

 新しい〈寄生宿主〉となったのは、従来は借金もできないはずだった貧困層だったのである。つまり、「老若男女を問わず、とてつもなく多くの人々を債務者という人種に仕立て上げ」 (p. 37) ることに銀行は成功していたのだ。資本が食いものとしての〈宿主〉を新しく探し出そうとするとき、国家は陰に陽にそれに加担する。

過去に資本主義が変化した時と同様、今回も国家が新しい宿主を作り出し、資本主義の搾取に加担しました。まさにクリントン大統領のイニシアティブを基に、アメリカ政府の後押しで〈サブプライムローン〉が導入され、持ち家を購入するための信用貸付が、返済能力のない人々に提供されました。言い方を変えれば、これまでは信用貸付を媒介とした搾取の対象になり得なかった人々を借金族に引き込んだのです。 (p. 38)

 歴史的には中南米諸国、中東諸国を食いもの・宿主としてきた(いる)アメリカ合州国(のネオ・リベ資本主義)は、新しい宿主として自国民に狙いを定めたということだ。資本主義がここまでやらざるを得なくなったという事実は、世界の資源を使い果たしてしまった資本主義そのものが「無意識に自殺しそうなくらい」危険な状態に陥っていたことを意味している。
 バウマンは、資本主義の歴史を辿りつつ、つまり、ソリッド・モダニティと福祉国家の時代から振り返りつつ、ローザ・ルクセンブルグの言に基づいて次ぎのように資本主義の宿命を語る。

……資本主義の死は内的な崩壊から生じると考えられるということです。外的な爆発、ましてや外からの突然の攻撃による破壊などではありません(そういった攻擊は、もしあったとしても、とどめの一撃を与えるだけのものでしょう)。おそらく資本主義は、いかなる宿主も利用/存在/想像しつくしてしまった時に、飢えて死に絶えるのでしょう。耕作者や坑夫ならみないやというほど分かっていることですが、収穫逓減の法則によれば、有用で/利用可能で/利益を生む収穫物をほんの少し余分に手に入れようと努力すれば、法外な費用を支払わなければならなくなります。宿主の死滅へと近づいていくことになるのです。そして、さらなる耕作や採掘は愚かなこととなり、収獲ができなくなる前に放棄されるのがオチでしょう (p. 51)

資本主義がもつ実践への唯一のガイドラインは「利益の最大化」ですが、これが慢性的な無秩序と不合理な実践の元凶なのです。いまや手に余る証拠によって周知の事実となったのは、自己平衡化システムあるいは市場の〈見えざる(しかし巧妙で抜け目のない)手〉による制御など妄想に過ぎず、資本主義経済はいわば〈生来の傾向〉にのみ従い、はなはだしい不安定を生み出しているということです。この不安定は飼い馴らすことも制御することも、明らかに不可能です。遠慮なく言うならば資本主義は自身がもたらす破局を阻止できないし、その破局が与える損害を回復することもできません。まして予防など論外です。 (p. 52-3)

 その例をアメリカ合州国に見るばかりではなく、ヨーロッパにおいて強烈なネオ・リベラリズム経済を推進したマーガレット・サッチャーのイギリスで起きたことにも言及している。

マーガレット・サッチャーは、よく知られているように、薬は苦くなければ効き目がないと主張しましたが言い落としたことは、その苦い薬(つまり、資本を解放する一方で、資本の過剰な振る舞いに対する潜在的な抑制力を一つずつ縛り上げていくこと)を飲むはめになるのは一部の人たちで、しかも他の人たちの不快感を取り除くために、ということです。さらに、彼女の場合は誤った預言者や近視眼的な教師に従って無視してしまったのですが、この手の療法は、遅かれ早かれ、様々な形の苦痛を引き起こして、あらゆる人々に影響を与えることになります。その結果、苦い薬を(ほとんど)皆が飲み込まなければならなくなるのです。この〈遅かれ早かれ〉はいまや〈いま〉になってしまいました。 (p. 57)

 〈アンダークラス〉もバウマン社会学の欠かせない概念である。この社会を理解しようとするとき、社会思想や学的立場に応じて、社会構成員を様々な階層・クラスにカテゴライズすることができる。しかし、バウマンのいう「アンダークラス」はそうした階層・クラスから外れた人びとを指す。つまりは、この社会から不要と見なされた人びと、社会の構成員としては数え上げられず、常に排除の力が作用している人びとである。
 例えば、金融危機の直接の原因となった〈サブプライムローン〉を焦げ付かせたアメリカ合州国の人びとは、金融資本が寄生する〈宿主〉なのであって、いかに貧しくても資本主義の搾取の対象として社会の階層・クラスに含まれている。したがって、彼らをアンダークラスとは呼びがたいのである。

〈貧困という問題〉は、かつては社会的な問題と考えられていたのですが、いまでは大幅に定義が修正され、法や秩序の問題と捉えられるようになりました。明らかに貧困を〈犯罪化する〉傾向があります。その証拠に、例えば〈アンダークラス〉という言葉が、〈下層〉階級あるいは〈労働者〉階級、〈極貧〉層といった言葉の代わりに用いられています(〈アンダークラス〉には、他の言葉にはない含意があります。それは、〈カテゴリーに値しない〉カテゴリー、つまり、他の階級の外部ではなく、階級システム自体――つまり社会――の外部に位置づけられわるカテゴリーを示しているのです)。国家が貧困に関心を払う時、その最も重要かつ明確な目的とは、もはや貧しい人々の健康維持ではなく、彼らを取り締まり、統制、監督、監視、訓練を施して、悪影響や厄介事を引き起こさないようにすることなのです   (p. 65-6)

 だから〈アンダークラス〉は、社会的事象の批判的切り口によっては、〈ディアスポラ〉であったり、〈サバルタン〉であったり、〈ナショナル・マイノリティ〉であったり、〈剥き出しの生〉であったり、〈移民〉であったりする。
 〈アンダークラス〉は、モダニティが生み出した歴史的産物だとバウマンは主張する。

 われわれの近代世界は、その最初から、強制的で執拗な近代化への衝動によって、大量に〈人間廃棄物〉を生み出す二つの大衆産業を発達させてきました……。その産業の一つは、秩序を構築する産業です(これは、拒否される人間、〈不適合者〉、適切で秩序立った――〈正常な〉――社会の領域から排除される人間を、大量に生み出さずにはおきません)。もう一つの産業は、〈経済発展〉と呼ばれているものです。これは、取り残される人間を大量に生み出します。取り残される人間というのは、〈経済〉において居場所を持てない人間、有効な役割を果たすことのない人間、生計を立てる機会のない人間のことです。彼らは、少なくとも合法的な手段では、つまり、推奨されている手段や、許容され得る手段では、取り残されてしまうのです。〈社会国家〉、〈福祉国家〉は、こうした二つの産業を段階的に撤廃しょうとする野心的な試みでした。それは、社会的排除の諸実践を段階的に撤廃し、最終的には除去することで、すべての人を包摂するという野心的な(おそらく野心的に過ぎた)プロジェクトだったのです。社会国家は、確かに欠点無しというわけにはいきませんが、多くの点で成功しました。しかしいま社会国家は自らを撒廃しようとしています――その一方で、人間廃棄物を生み出す二つの産業は、その機能を取り戻し、最高潮に達しています。第一の産業は〈よそ者〉(証明書を持たない人々、非合法な移民、庇護をもとめる人々、その他すべての〈好ましくない者〉)を生み出し、第二の産業は、〈傷ものの消費者〉を生み出しています。そしてこの両方が一緒になって〈アンダークラス〉を大量に生み出しているのです。この〈アンダークラス〉は、階級構造の底辺に位置する〈下層階級〉ではなく、〈正常な社会〉の階級システムの外部に投げ出された人々のことなのです。 (p. 115-6)

 そして、ネオ・リベラリズムで武装した資本主義は、〈社会国家〉、〈福祉国家〉を崩壊させつつ、社会をリキッド化してしまった。現代ヨーロッパ社会で目立つのは〈アンダークラス〉としての移民である。

〈グローバルな諸力〉は、謎めいていて、見通すことができず、予測不可能なものであり、新たな方法で不確定性と不安定性を駆動させ続けていますが、移民は、そこで増殖され掻き立てられる不安と恐怖のあらゆる原因を、代表させられるのです。移民は、分かりやすく目に見えるかたちで、生活が破壊される恐怖や亡命を強制される恐怖、あるいは社会的転落や完全な排除への恐怖、また法と権利の世界の外部の〈どこでもない場所〉へと追いやられる恐怖を、身近なところで具現し表現しているというわけです。あるいはまた、移民は、液状化した近代社会で人々を苦しめる、半意識的な、あるいは意識下の、または無意識の実存的恐怖すべてを具体化しているというわけです。こうして(代理として)移民を追い散らすことで、謎めいたあらゆるグローバルな諸力に対抗するのです。しかし、このグローバルな諸力は、移民が経験している苦難の運命を、だれにでも差し向ける脅威です。ですからこうした移民を巡る幻想には、政治家や市場が巧妙に利用できる(そして、されている)多くの資本が存在しているのです。  (p. 118)

 ここで注意すべきは、移民は決して資本の搾取の対象ではないことである。資本が利用しているのは、あくまで「移民を巡る幻想」なのであって移民ではないのだ。〈アンダークラス〉は、搾取-被搾取という社会関係からも排除されているのである。

 〔福祉国家〕や〔民主主義と主権〕というテーマで「国家」を語るとき、バウマンは常に〈社会国家(福祉国家)〉を念頭に置いている。つまり、かつての〈社会国家〉は〈アンダークラス〉を生み出す産業を克服しようとした野心的な試みだった (p. 116) のだし、社会主義者として「不平等や不正義、抑圧や差別、人の尊厳の汚辱や否定に対して、強い感受性を持つ」 (p. 31) ということは、とりもなおさず新しい〈社会国家〉をイメージ、構想することに他ならないだろう。

 「不平等や不正義、抑圧や差別、人の尊厳の汚辱や否定」に厳しい眼差しを向けるバウマンは、本書でもルター派の牧師でナチの迫害の犠牲者となったマルティン・ニーメーラーの詩を引用している [1]

最初、ナチが共産主義者を捕えていたとき、ニーメーラーは静かに考え――そうして、私は共産主義者ではない、だから黙っていよう、と思いました。しかしナチは次に、労働組合員を探し回りました。しかし、ニーメーラーは、労働組合員ではないということで、やはり黙っていました。さらに、ナチはユダヤ人を探し回りました。しかし、ニーメーラーはユダヤ人ではありませんでした。……さらにはカトリック信者が探されましたが、しかし、ニーメーラーはカトリック信者ではありませんでした。……次には、ナチはニーメーラーを探しに来ました。……しかし、その時には誰かの肩をもってくれる人などいなくなっていました。 (p. 121)

 国家公務員を退職して年金暮らしの私は、貧しいとはいえ〈アンダークラス〉ではない。しかし、「政治家や市場が巧妙に利用」する「〈アンダークラス〉を巡る幻想」に私たちが取り込まれてしまえば、つまり自覚的であれ無自覚であれ〈アンダークラス〉の排除に加担してしまえば、私たちの運命はニーメーラーの運命そのものとなる。社会主義者であろうがなかろうが、「不平等や不正義、抑圧や差別、人の尊厳の汚辱や否定」に向けて感受性を際立たせておくことが必須だ、そう思う。

 第2部で印象に残った話題は、「ジェノサイド」と「ホロコースト」の概念の違いである。インタビュアーのマドラーゾは、ホロコーストはジェノサイドの一つと考えるのに対して、バウマンは、その二つは異なるものだと主張する。

私は、あらゆる類似性は偶然的なもので、どんな比較も人を惑わし、表面的なものになると思っています……。ジェノサイドに匹敵するいくつもの大量殺人は、ナチ・ドイツの敗北やロシア共産主義の内部崩壊によって消え去ったわけではありません。この点ではあなたは正しいのでしょう。けれども、なんらかの不適切な人々に所属しているとか、都合の悪い場所や時代に生きているというだけの罪で数十万、数百万の人々を殺戮すること自体は、二〇世紀のいかなる全体主義の発明でもありませんでした。おそらくそうした殺戮は、あの世紀やその当時の全体主義と一緒くたにするわけにはいかないものです。むしろジェノサイドに匹敵する大量殺人は、いままで人間の歴史に付き物でした。しかしそれらは、別の役割を果たしていましたし、別の目的に役立てられ、異なった要因から引き起こされていたのです。
 
近代の全体主義体制を、人間に対する残虐行為のむごたらしい現れから隔てているものは、全体構想によって説明できます。殺戮は、一〇〇〇年ないし永遠に続く秩序をつくりあげる行為として行われました。社会の現実を全体構想の優雅さに合わせようと強制した結果が、殺戮だったのです。どうやってそんなに美しい像を彫ったのかという問いに、ミケランジェロは、簡単です、私はただ大理石の塊を手に入れて、いらない部分をすべて削っただけです、と答えたそうです。あの殺戮は、いくぶんこのやりとりを逆さまにしたようなものだと言えます (p. 174)

 ホロコーストの殺戮は、歴史的に何度もあった大量殺人とは違うという。それは全体主義が国家を樹立しようとする全体構想の中で遂行された殺戮であると述べている。例えば、1994年にルワンダで起きたフツ族による少数民族ツチ族の大量虐殺にはいかなる社会構想も国家構想もない。つまり、歴史の中にしばしば現われたジェノサイドである。ホロコーストは、ソリッド・モダニティ社会の最も先端的な悪しき結末なのだ。

 〔原理主義〕を巡る話題も興味深い。バウマンは、世俗的であれ宗教的であれ、原理主義の発生を心理学的にも解説してみせるが、人びとが憂えるような宗教原理主義の政治化よりも、政治原理主義の宗教化を憂えるのである。その一節を最後に挙げておく。

 現在、〈宗教の政治化〉に関しては多くの議論がなされています。ところが、同時並行で起きている傾向、〈政治の宗教化〉には、ほぼ間違いなく、いっそう深刻な危険をはらみ、いっそう血なまぐさい結末をもたらす可能性が高いにもかかわらず、あまりに小さな関心しか払われていません。というのも、この傾向が進めば、交渉と妥協に委ねられるべき(政治にとつては日々の糧である)利益の衝突が善悪の最終対決に改変され、交渉による合意の余地が皆無となってしまうからです。敵対者の一方しかこの対決を生き残れません(まさに一神教の発端です)。この二つの傾向は、決して分離できないシャムの双生児〔密接な関係にある一対のもの〕だと言えるでしょう。そして、両者は内面に共有している悪魔を双子の片割れに投影してしまいがちなのです……。 (p. 225-6)

 

[1] ジグムント・バウマン(伊藤茂訳)『コラレテラル・ダメージ ――グローバル時代の巻き添え被害』(青土社、2011年)  p. 37-8
 


【書評】アルンダティ・ロイ(本橋哲也訳)『民主主義のあとに生き残るものは』(岩波書店、2012年)

2014年03月24日 | 読書

 

 2011年3月11日、講演のために来日していたアルンダティ・ロイは東北地方太平洋沖地震を東京で経験した。いくつかのインタビューをこなしながらも、彼女自身の講演は中止となり、インドに帰国した。そのいきさつを本書の「はじめに」に記して、その文を次のように結んでいる。

私がインドに帰ってから数日間、福島からの放射能が風に乗って東京に降り注いだ。放射能の広がりは六〇〇平方キロに及ぶ。それはチェルノブイリのそれに匹敵すると公表された。それでも原子力業界は結託して悪いニュースを知らせまいと、原子力エネルギーが人類にとって唯一の未来だと信じ込ませようとしている。
 こうしてこの小さな島国は苦しみの円環を完成したのだ、戦争中も平和なときも、私たちの想像力が核によって摩滅してしまったために。人間の愚かさ、それが異なるデザインの海に囲まれた島で、ふたたび演じられている。 (p. viii)

 世界で唯一、大量の市民殺傷を目的とした原発を広島と長崎という二つの都市で経験した日本は、66年後に「核の平和利用」の美名のもとに福島での原発溶融事故で美しい国土を失い、その地の人々を離散させた。「戦争」と「平和」という対極の名のもとで「苦しみの円環」を完成させてしまったのである。
 その日本の「苦しみの円環」に想いを寄せるアルンダティ・ロイは、故国・インドにおける新自由主義、ヒンドゥー原理主義、イスラム原理主義、カースト制度からなる苦しみの多層構造との果敢な闘いに取り組んでいる。新自由主義の帝国、アメリカにおいても、ジュディス・バトラーが「(〈9・11〉後には)よりバランスのとれた国際紛争の報道の試みが放棄され、アメリカ合州国の軍事政策に対するアルンダティ・ロイやノーム・チョムスキーのような重要な批判が、アメリカの主要新聞から軒並み追放されてしまった」 [1] と述べているように、アメリカの外交・軍事行動への厳しい批判活動を行なってきた。東京にやってきた当時、その闘いの鋭さゆえに、「デリーの裁判所から煽動罪の嫌疑で召還されていた」というのである。

 本書は、その東京で予定されていた講演「民主主義のあとに生き残るものは」の書き下ろしを中心に、新自由主義の本拠でありその象徴都市でもあるニューヨークからインドの森林地帯の開発現場、カシミールの民族(宗教)紛争までを広く視野においた論考で構成されている。

 巻頭には、あたかも新自由主義への闘いの宣言であるかのように、ウォール街占拠運動支援演説「帝国の心臓に新しい想像力を」が配されている。ウォール街占拠運動とは、2011年9月19日にニューヨークで「ウォールストリートを占拠しろ(Occupy Wall Street)」という合い言葉のもとに起きた「オキュパイ運動」 [2] のことである。
 新自由主義の経済思想のもとに世界経済を蹂躙してきた米国金融業界を吊し上げるべく1000人規模で始まったこのオキュパイ運動は、きわめて象徴的にウォール街から始まり、9月19日の最初のデモから一か月もしないうちに全米30都市に広がった。そこには資産を占有する1%のプルトノミーに対する99%のプレカリアートの抗議の意志の強さと広がりが示されていた。

 著者は、オキュパイ運動を「九月一七日にアメリカで占拠運動が始まってから皆さんが獲得してきたのは、帝国の心臓に新しい想像力を喚起させ、新たな政治的言語を導き入れること」 (p. 3) と評価し、インドにおけるプルトノミー、プレカリアートに着いてこう述べる。

 インド政府はアメリカ合州国の経済政策を崇めています。二〇年間にわたる自由市場経済のせいで、インドの上位一〇〇人の富豪がGNPの四分の一に当たる財産を所有する一方で、全人口の八割以上が一日五〇セント以下で暮らしています。死に至る悪循環に巻きこまれた二五万の農業生活者が自殺してしまいました。インド国民はこれを進歩と呼び、自国を超大国であるといまや考えているのです。あなたがたアメリカと同じく、インドにもその資格はあるだろう、核爆弾だって忌むべき不平等だってあるのだから、と。 (p. 4-5)

 貧しい人々、政治的弾圧下にある人々の闘いは世界に何千とある。だが、「あなたたちアメリカ合州国の人びとが私たちの側について、帝国の真ん中でこんな運動を行ってくれることがあるなどと、私たちのほとんどは夢見たこともありませんでした」 (p. 5) と感動を込めて語るほど、オキュパイ運動には画期的な意味があった。金融資本を闘いの目標に据えるというのも新しかったし、1%-99%という語り口は世界中に一挙に拡散した。
 著者は、オキュパイ運動の意味をふたたび評価しつつ、次のように支援演説を結ぶのである。

 この闘いは、私たちの想像力をふたたび喚起してくれました。どこかでいつのまにか資本主義は、正義の概念をたんに「人権」を意味するものに矮小化してしまい、平等を夢見ることを罰当たりだと貶めてきました。私たちが闘っているのは、システムを改良しようとしていじくるためではない、このシステムそのものを置き換えるためなのです。
 
ひとりのふたする者(リッダイト)および覆いをかける者(キャピスト)として、私は皆さんの闘いに挨拶を送ります。サラーム、そしてジンダーバード。 (p. 6)

  「民主主義のあとに生き残るものは」の章において、著者は、民主主義を「理想や希望としての民主主義ではなく、実際に機能するモデルとして、つまり現存する西欧型の自由民主主義、そしてその派生型」 (p. 9) と定義した上で、この問いの意味を次のように述べる。

 しかし民主主義があらゆる「発展途上」の社会がめざしているユートピアであるべきかどうかはまったく別の間題である。(私自身はそうであるべきだと考えている。民主主義の初期、理想に燃えている段階では、それは大きな躍動をもたらすことができる。)「民主主義のあとに生き残るもの」という問いは、すでに民主主義のなかで暮らしている私たちのような人間か、あるいは民主主義のふりをしている国に住む人たちに向けられた問いだ。それは私たちが以前の、信用をすでに失った独裁や専制的な統治に帰ることを意味しているわけではない。この問いが示唆しているのは、いまの代議制民主主義が、あまりにも多くのことが代表されてしまうことで少ししか民主主義がない、それゆえ構造的な調整を必要としているということなのである。 (p. 9-10)

 ドミニク・ブールとケリー・ホワイトサイドが、人間の資本主義的活動による地球生物圏の避けがたい危機について議論し、政治体制としての代表制民主主義は原理的にその危機を解決することが不可能なシステムであることを論じている [3]
 アルンダティ・ロイが論じるのは、もちろん地球生物圏の危機ではなく、インドの最貧層の人々とインドの自然の危機である。しかし、どちらも現在の代表制(代議制)民主主義の不能性から派生する問題を扱い、あたかも民主主義は存在していながら存在していない、「機能するモデル」としての民主主義は危機に瀕しているという現状から、民主主義の〈後〉を問わざるを得ないという点においては共通している。

 話題は、第2次世界大戦以後のつぎつぎと発生する各国の民主化の動きに対する反動としてのソ連やアメリカの行動への批判から始まる。東欧圏の国々に軍事介入したソ連は自ら崩壊したが、アメリカは中南米から中東へとその軍事的、経済的な干渉、侵略を続けている。つまり、「「民衆の力」が自ら未来のさまざまな「民主主義」を創りあげようとするのを、世界を支配する権力はよってたかって牽制しようとする、その有様を私たちはいま目撃している」 (p. 12) のだ。そうした事情については、ノーム・チョムスキー [4] やナオミ・クライン [5] の著作に詳述されている。
 主題はもちろんインドにおける民主主義の様相についてであるが、植民地解放後の「民主主義」国家インドは次のように始まる。

 一九四七年に民主主義国として主権を獲得したインドは、ほとんど即座に植民地を獲得する権力に姿を変えて領土を併合し戦争を仕かけた。政治問題を処理するためにインドが軍事介入を躊躇したことはない――カシミ—ルでも、ハイデラバードでも、ゴアでも、ナガランドでも、マニプールでも、テレンガナでも、アッサムでも、パンジャブでも、西ベンガルのナクサライト反乱〔農民による武装闘争〕でも、ビハールでも、アンドラ•プラデシュでも。何万という人びとが殺されたが、殺した側には何の咎めもなく、無数の人びとが拷問されてきた。……つまり他の国々におけると同様にインドでも、進歩と民主主義は血ぬられた基礎の上に成り立っているのである。 (p. 13-4)

 ソ連が崩壊し、冷戦が終了すると、インドはアメリカ合州国の国際戦略(グローバリゼーションという名の経済的・軍事的侵略)とシンクロナイズして変化を始める。新自由主義的市場原理主義とヒンドゥー原理主義の導入による国家運営である。例えば、「係争中」のため閉鎖されていたモスクを開放することで宗教間の争い、カースト間の争いを煽り、そして、市場が突然国際金融と自由貿易に開放された。

 暴力的なヒンドゥートヴァ運動の隆盛が、アメリカ合州国にとつて最大の敵が共産主義からイスラームへと代わったのと、時を同じくしているのは偶然ではない。ほとんど同時に、かつてはパレスチナ人の強固な友邦であったインド政府が、イスラエルの「本来の盟友」となった。いまやインドとイスラエルとアメリカ合州国は共同で軍事演習を行い、諜報を共有し、それぞれの占領地域をどのように管理するかの情報を交換しているのだ。(皮肉なことに、軍事支配されている世界のほとんどの地域――イラク、アフガニスタン、パレスチナ、カシミール、マニブール、ナガランド――は、自らを民主主義と称する国家によって支配されている。)  (p. 16)

 そうしてインドは経済成長を遂げるのだが、「社会や環境に巨大な負荷」を与えるという多大な犠牲のうえに成り立っている。ヒンドゥートヴァ運動はインド国内のイスラム教徒へのテロを誘発し、カシミールへの軍事行動を後押しする。
 
ヒンドゥー原理主義は市場原理主義と協同的にインド社会を席巻する。

 二〇〇二年の二月、アヨーディヤから帰る巡礼者たちの乗った列車が焼き討ちされて五八人のヒンドゥー教徒が焼き殺されたとき、ダジャラート州の首相であったナレンドラ・モディに率いられたインド人民党は、その州のムスリムに対する虐殺をきわめて周到に計画し実行した。二〇〇一年九月一一日以降、世界中で蔓延していたイスラーム嫌悪がそれを後押しする。ダジャラート州の政権や警察は、二〇〇〇人以上の人びとが殺されるのを何もせず見ていた。女性たちは集団で強かんされたあと、生きながら焼き殺され、一五万人のムスリムが家を追われたのである。
 
インドの市場は開放され、大規模投資の目的地として賛美されていたので、この虐殺事件には幕が引かれてしまう。投資の矛先を鈍らせてはならない、というわけだ。 (p. 21)

 新自由主義的な経済改革がもたらしたものは何だったのか。アルダティ・ロイは、それを次のように概括する。

 改革が意味したものは、水資源、電気、電信、医療、住宅、教育、交通といった基本的なインフラの私有化だ。それは労働者の権利を守る法律の破棄でもある。IMF(国際通貨基金)、世界銀行、アジア開発銀行のような国際的な金融機関は、借款に合意する前に、そうした法律の破棄をはっきりと条件として要求する。それを示す言葉が「構造調整」である。巨大な私的資金が流入したため経済成長率が急激に上昇した。こうして作り出された膨大な中産階級が、突然の富とそれに伴う突然の尊敬に酔ったようになる一方で、それよりもずっと膨大で絶望的な貧困層が作り出された。何千万という人びとが、無差別な環境破壊や、ダム建設や鉱山開発、経済特区(SEZ)のような大規模な社会整備事業によって引き起こされた洪水や日照りや砂漠化によって、財産や土地を奪われた。すべては貧困救済のためと言いながら、実際には新たに作り出された特権階層の欲求を満たすために行われた開発である。経済成長率の急激な上昇にもかかわらず、国連開発計画の人間開発指数でインドは一三四位にすぎず、赤道ギニア、ウズベキスタン、キルギスよりも下位に位置する。栄養失調の子どもが世界でもっとも多いのもインドである。最近の数年間で、一八万人のインドの農民が自殺した、その多くは農薬を飲んで。国家の穀物庫には食糧がいっぱいで結局腐らせているが、サハラ以南のアフリカと同レベルの飢餓がこの国を襲っている。インド総人口の八パ—セントにあたる八三〇〇万人以上が、一日二〇ルピー(五〇セント)で暮らしているのである。 (p. 25-6)

 当然のことながら、そうした国家政策に抵抗する人々、集団はたくさん生まれた。それには、鉱物資源の豊富な中央インドの「毛沢東主義派」の武装叛乱も含まれるが、インド政府は圧倒的な軍事力で彼らを攻撃している。

 もちろん反乱を起こしているのは毛沢東主義者たちだけではない。上地や家を持たない人びと、ダリット、労働者、貧農、織工など、国じゅうでさまざまな階層の人たちによる闘争が展開されているのだ。彼らが闘っているのは、人びとの土地や資源を企業が奪うことを許す政策を含む、巨大な不正である。彼ら彼女らの抵抗戦略は、ダム建設反対運動のナルマダ救済運動(NBA)のようなデモ、座りこみ、ハンガーストライキといったガンディー的な戦術から、オリッサ州やジャールカンド州の鉱業に反対する運動のような武力に訴える、より過激なもの、西ベンガル州のナンディグラムやラールガル地域における人民蜂起、そして他のいくつかの州における経済特区に対する抗議まで多種多様だ。 (p. 27-8)

 政府が「緑の捕獲」作戦と名付けて毛沢東主義派と資源開発に抵抗する村人の掃討を行なっている現場にアルンダティ・ロイは出かけ、そこで行なわれている「反民主主義的」政策を観察し、村人と話し合い、「外からは静かに見える森の中の生活では、軍事支配が徹底しているように見えた」 (p. 33) と語る。
  アルンダティ・ロイが見るこのような「インドの民主主義」は、アマルティア・センがいくぶん誇らしげに書いた「インドの民主主義」とはかなり様相が異なる。

 偶然にも、二〇〇四年春にインドで行われた総選挙で、ヒンドゥー原理主義の党が率いる連立政権が大敗し、インドの国政が一変した。ムスリムの大統領が国家元首になったのみならず、非宗教的なインド共和国ではいまやシク教徒の首相と、キリスト教徒の与党党首が誕生したのだ(有権者の八〇パーセント以上がヒンドゥー教徒の世界最大の民主主義国としては、まんざらでもない結果である)。 [6] 

 同じナショナリティであっても、どのような国家の位相に我が身を置こうと意志するのか、どのような眼差しを獲得しようとするのか、その違いによって母国がどのように見えるかはこれほど違うのである。
 アルダティ・ロイは、インドにおける絶望的な民主主義の惨状を多くの事例を挙げて示し、この論考を次のように締めくくるのである。

 資本主義がそのただなかに非資本主義社会を認めざるをえなくなる日、資本主義が自らの支配には限度があると認める日、資本主義が自分の原料の供給には限りがあると認識する日、その日こそ変化の起きる日だ。もし世界になんらかの希望があるとすれば、それは気候変動を議論する会議の部屋でも高層ビルの建ち並ぶ都会にもない。希望が息づいているのは、地表の近く、自分たちを守るのが森や山や川であることを知っているからこそ、その森や山や川を守るために日ごとに戦いに出かける人びとと連帯して組む腕のなかである。
 
ひどく間違った方向に進んでしまった世界を再想像するための最初の一歩は、異なる想像力をもつ人びとの絶滅を止めることだ。この想像力は資本主義のみならず、共産主義にとっても外部にある。それは何が幸福や達成を構成するかについて、まったく異なる理解を示す想像力である。このような哲学に場所を与えるためには、私たちの過去を保持しているように見えて、実は私たちの未来の導き人びとの絶滅を止めることだ。この想像力は資本主義のみならず、共産主義にとっても外部にある。それは何が幸福や達成を構成するかについて、まったく異なる理解を示す想像力である。このような哲学に場所を与えるためには、私たちの過去を保持しているように見えて、実は私たちの未来の導き手であるかもしれない人びとの生存のために物理的な空間を提供することが必要となる。そのために私たちは支配者たちにこう問わなくてはならない――水を川に留めておいてくれるか? 木々を森に留めておいてくれるか? ボーキサイトを山に留めておいてくれるか? と。それはできないと、もし彼らが答えるのであれば、彼らは自分が起こした戦争の犠牲者に説教をたれることを即刻やめるべきだ。 (p. 41-2)

 「資本主義――ある幽霊の話」の章では、資本主義の繁栄がもたらしたインドの厳しい格差の状況、その格差が資本と国家権力(軍事的暴力)との協同的圧政によって生み出されていく様々な事実を述べ、そして資本が「財団」やその財団の資金援助を受けるNGOを通じて行なう「文化的活動」が事実を隠蔽しつつ文化や学術に関わる階層の取り込みを行なって叛乱の芽を摘もうとしている状況に批判を投げかけている。

 まずは、インド資本主義の現状を見ておこう。

 インドでは私たち三億人が、IMF「改革」以降の新興中産階級に属していることになっている。その別名は「市場」だが、それが闇世界の亡霊たち、死に絶えた川や渇いた井戸、禿山や裸にされた森林の騒がしい霊たちのかたわらで暮らしているのだ。そこには借金を背負って自殺した二五万人の農民たち、加えて私たちに道を譲るために財産を失って貧しくなった八億人の幽霊もいる。そして一日二〇ルピー以下で暮らす者たちも。 (p. 46)

インドでは、何百万という人びとの土地が「公共の利益」のために接収され、私企業の手に渡った――経済特区のため、インフラ計画のため、ダムや高速道路の建設、車両製造、化学プラント、F1カーレース、といったもののために。(私有財産の聖域が貧しい者の土地に適用されたためしはない。) いつものことだが、地域の人びとになされる約束として、たとえ彼ら彼女らが自分の土地から追われたり、あらゆる搾取を蒙ったとしても、それが現実には雇用を生み出しているのだ、と言われる。しかし今では、GNPの成長と雇用とがつながっているというのは神話にすぎないことを私たちは知っている。二〇年間にわたる「成長」を経て、インドの勤労人口の六割が自営であり、労働力の九割が未組織部門で働いているのだから。 (p. 48)

 一方、チヤッティスガールでは、サルワ・ジュドウムによって何百という森のなかの村々が焼かれ、人びとが暴行を受けたり殺されたりして、六〇〇の村が破壊され、五万人の人びとが警察の収容所へと追い立てられ、三五万人が逃げ去った。州首相によれば、森のなかから出てこない者たちは「毛沢東主義派のテロリスト」と見なすという。このようにして今のインドには、畑を耕したり種を蒔いたりすることがテロ活動と定義されるようになってしまった地域があるのだ。結局のところサルワ•ジュドウムの暴虐によって、毛沢東主義派ゲリラの軍隊は数が増えて抵抗運動が強化されることになった。二〇〇九年に政府は「緑の捕獲」作戦を発表する。これによってチヤッティスガール、オリッサ、ジャールカンド、それに西ベンガル州で、二〇万のパラミリタリーが配備されたのである。 (p. 51)

 そして、貧しい人々の土地を奪い取ることで成長した巨大複合企業は文化・芸術に手を出し始める。これらに企業があたかも表現の自由を後押しするかのように「映画、アート、文学フェスティヴァル」を支援するのだ。しかし、アルンダティ・ロイはその欺瞞性を見逃さない。

 いったい表現の自由とはどこの話なのか? カリンガナガルについて誰が言及したか? インド政府が歓迎しない主題――スリランカにおける内戦でタミル人虐殺にインド政府がどう関与していたかとか、カシミールで最近になって発見された死体埋葬の形跡、といったこと――をあつかうジャーナリストや学者、映像作家たちにはヴィザが発給されず、空港からすぐに送還された事件を、誰も報道しなかったではないか。 (p. 59)

 こうした文化活動を装って資本主義の反民主主義性を偽りつつ、思想を統制し、世論を誘導していく手段は、企業の慈善活動として20世紀初めのアメリカ合衆国で始まった。「カーネギー財団」、「ロックフェラー財団」、「フォード財団」が設立され、「経済的な富を政治的、社会的、文化的な資本に拡張し、お金を権力に変え……世界を支配する」 (p. 63) 手段としての慈善活動をつうじて「世界中の政府の教育や保健、農業政策を企画」 (p. 64) するのである。
 これらの財団は世界戦力として外交問題評議会(CFR)を創り、そのメンバーを世界銀行の主要メンバー(総裁)に送り込む。世界銀行とIMFがアメリカの経済的世界戦略の先兵として中・後進国の経済制覇に果たした役割についてはナオミ・クライン [4] やアントニオ・ネグリとマイケル・ハート [7] も詳しく言及している。
 たとえば、ノーベル賞受賞で話題となったバングラデシュのグラミン銀行のアイデアは、アメリカのクレジット・ユニオン運動に端を発しているという。それは「労働者に返済可能なクレジットを与えて消費物品を購入させて大衆消費社会をつくる」 (p. 67) という理想で始まったが、資本主義的変容を受けて「労働者に何千万ドルという「返済可能な」金を貸し出すことによって、アメリカ合州国の労働者階級を自分たちの生活様式に追いつくために走り続けなくてはならない借金漬けの人間に仕立てた」 (p. 68) のである。この経済政策は2008年9月の金融危機として資本主義を脅かすことになるが、南アジアにも深刻な影響を及ぼす。

 それから何年もたってから、この考えはバンダラデシュの貧しい田舎へと流れつき、ムハマド・ユヌスとグラミン銀行が少額のクレジットを飢えた貧しい農民たちに与えることで壊滅的な結果をもたらす。インド亜大陸の貧しい人びとは、それまでも常に地元の村の高利貸バニヤの無慈悲な支配下で借金を負わされてきた。しかし少額貸付はそれさえも企業化してしまったのだ。インドにおける少額貸付会社は何百という自殺――アンドラ・ブラデシュ州では二〇一〇年だけで二〇〇人が自殺した――の原因となっている。近ごろ日刊全国紙に掲載された一八歳の女性の遺書には、自分の学費であった最後の一五〇ルピーを少額貸付会社の執拗な従業員に手渡すことを強要されたとある。そこにはこう書かれている、「一生懸命働いてお金を稼ぐこと。借金をしてはいけない」。
 
貧しさを使って儲けることもできれば、ノーベル賞をもらうこともできるのだ。 (p. 68)

 もう一つの有名な例は、ロックフェラーの資金でアメリカのシカゴ大学に留学して新自由主義経済を学んだチリの学生たちは「シカゴ・ボーイズ」と呼ばれ、1973年のチリの軍事クーデターとその後の軍事政権を支え、「17年にわたる殺害と行方不明と暴力の支配」 (p. 69) に重要な役割を果たした。そして、ロックフェラー財団などの奨学金によってアメリカで学び、帰国して指導的な地位を占めた日本人が多数いることも忘れてはならない。経済学者やエコノミスト、政治評論家や政治家の言説に注目してみるとよい。彼らの言説の中に明瞭な「洗脳」の痕跡が見出されるかもしれない。

 財団と良好な関係を保っている経済学や政治学の研究者には、奨学金や研究資金やさまざまな寄付金だけでなく、仕事のポストが報奨として与えられてきた。財団に批判的な意見を持つ研究者には資金も与えられず、周縁に追いやられて孤立させられ、その学科は閉鎖の危機にさらされる。単一で強大、きわめて単線的な経済思想の屋根の下、しだいに学問機関で支配的になってきたのは、ただひとつの想像力――寛容と多文化主義のもろくて表面的な装いである。(その実、それらは簡単に人種主義や排外的ナショナリズム、民族的自己中心主義、好戦的イスラーム嫌悪に転じる。) (p. 73)

 このように資本主義の政治的・経済的・文化的支配は網の目のように世界中に張り巡らされている。状況は困難と言うしかないが、それでもアルンダティ・ロイは、資本主義の集約体としての金融資本にまっすぐに立ち向かったオキュパイ運動に希望を繋ぐ。

  しかし今ようやく「ウォール街占拠運動」のおかげで、ほかの言語と思想がアメリカ合州国の街頭や大学キャンパスに出現しつつある。学生たちが「階級戦争」とか「あんたたちが金持ちなのはかまわないが、私たちの政府をその金で買うのは許せない」といったブラカードを掲げていること、それは新たな賭けであり、ほとんど革命そのものだ。 (p. 73-4)

 「自由(アーザーディー)――カシミールの人びとが欲する唯一のもの」の章は、文字通りカシミール問題についての論考である。カシミールは第2次世界大戦後の1047年の植民地独立以来、第1次から第3次のインド・パキスタン戦争も含めてずっと紛争の地であった。それは国家間の領土をめぐる主権争いの形を取りながら、民族の争いであり、宗教の争いでもある。
 
アルンダティ・ロイがここで語ろうとしているのは、2008年に始まったカシミール渓谷の非暴力的な集団抗議についてである。その「闘争を養っているのは、長年にわたる抑圧に対する人びとの記憶」、つまり、インドの軍事占領下で「何千という人びとが「消され」、何十万人もの人びとが拷問され、傷つけられ、強かんされ、辱めを受けた」 (p. 93) 記憶である。
 カシミールの人びとは、様々なスローガンを掲げて非暴力の抵抗を続ける。アルンダティ・ロイは、抵抗運動の現場で立ち、そのスローガンを聞く。

 私をナイフで切り裂き、心に楔を打ちこんだのは、次のスローガンだ。「裸で飢えたインド、命そのものであるパキスタンとどちらが大事?」これを聞くことがどうしてそれほどつらく、痛みを伴うのか? そのことを考えてみて私は次の三つの理由に行き当たった。第一に、このスローガンの最初の部分が、興隆しつつある超大国インドに関する、露骨で飾らない真実を言い当てていること。第二に、裸でも飢えてもいないあらゆるインド人は、インド社会をこれほど残酷に、すさまじいまでに不平等なものとした文化的経済的システムに対する歴史的な責任を逃れることができないということ。そして第三に、自らこれほど苦しんできた人びとが、異なる仕方とはいえ、同様の抑圧のもとで同じくらいの苦しみをなめてきた人びとを揶揄する言葉を聞くことの痛みがある。このスロ—ガンに私は、犠牲者が簡単に加害者となることの種を見たのだった。 (p. 105)

 アルンダティ・ロイはムスリムではない。しかし、透徹する眼差しは、被害と加害、ヒンドゥーとイスラムの輻輳する悲劇そのものを見るしかない。だから、カシミールの自由は、インドの自由と切り離せないのだと、次のような結語を述べるのである。

 インドによるカシミールの軍事占領は、私たち皆を怪物にしているのだ。それによって、カシミールにおけるムスリムの解放闘争を口実にして、インド国内の排斥主義的なヒンドゥーたちが、ムスリムをつかまえて犠牲にすることが許されてしまう。それは私たちの血管のなかに、まるで静脈注射のように毒を注ぎこむのである。
 
こうしたことすべての中核には、倫理にかかわる問いがある。どんな政府が人びとの自由を軍事力によって取り去る権利があるのか、という。
 
カシミールがインドからの自由(アーザーディ)を必要としているのと同じくらい――それ以上とは言わないまでも――インドはカシミールからの自由(アーザーディ)を必要としているのである。 (p. 110-1)

 最後の章は、2011年に来日して〈3・11〉の翌日、翻訳者の本橋哲也のインタビューに答えた「運動、世界、言語」の書き下ろしで、アルンダティ・ロイの作家活動や政治批評・運動について語っている。貧しい人びとの政治闘争はほとんど敗北に終らざるを得ないのだが、「道義的な論争では勝利を収めましたし、人びとが抵抗する権利を持っていることも示すことができた」 (p. 120) と評価しつつ、敗北の理由を次のように語ったのが印象的である。

多くの失敗のなかで、中産階級が運動の指導層だったこと、もっとはっきり言えば、一人のリーダーがメディアによって指導者に祭りあげられ、運動もそれを止めようとしなかったことがあげられると思います。
 
……一人の指導者に頼りすぎたことは運動をひ弱なものにしてしまったと私は思います。それは真の民主主義を運動のなかに作りだすことができませんでした。もし中産階級出身の人間が指導者だと、彼女たちは自動的に中産階級の武器に頼ろうとします、裁判所に訴え出ようとか……。ですから実際に武器を取って武装闘争を行うべきだと主張する人たちを抑圧するかたちで、裁判の書類手続きを書いたりすることに習熟した教育のある人たちが運動内で権力をにぎって、他の人びとは力を奪われてしまうことが生じる。
 
……ですからこれはたんに非暴力運動がなぜ機能しなかったのかという問題にとどまらず、非暴力抵抗運動といっても、どんな構造を持った非暴力運動なのか、非武装の戦闘性とは何なのかを問うことが大事なのです。この問題をめぐる論議はまだインドでは行われているとは言えません。これがひとつの大きな問題です。 (p. 120-1)

 「この問題をめぐる論議」は、日本では行なわれているだろうか(いただろうか)。少なくても、かつて日本の抵抗運動の多くは高学歴(大学も指定できるが)の指導者(インテリゲンチャ)を擁する左翼に担われてきたことは確かであり、現在ではすでに左翼は見る影がないこともまた確かである。現在の日本でもっとも明確な大衆の抵抗は「脱原発運動」であるが、それは旧左翼・既成左翼を含んではいるものの、その指導とはまったく無縁である。そのような点では、希望があるのかもしれない。

 

[1] ジュディス・バトラー(本橋哲也訳)『生のあやうさ 哀悼と暴力の政治学』(以文社、2007年)p.22。
[2] ノーム・チョムスキー(松本剛史訳)『アメリカを占拠せよ!』(ちくま新書、2012年)
[3] ドミニク・ブール、ケリー・ホワイトサイド(松尾日出子、中原毅志訳)『エコ・デモクラシー』(明石書店、2012年)
[4] ナオミ・クライン(幾島幸子、村上裕見子訳)『ショック・ドクトリン』(岩波書店、2011年)
[5] ノーム・チョムスキー(鈴木主税訳)『覇権か、生存か――アメリカの世界戦略と人類の未来』(集英社、2004年)。
[6] アマルティア・セン(大門毅、東郷えりか訳)『アイデンティティと暴力』(勁草書房、2011年)(p. 77-8)。
[7] アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート(幾島幸子訳、水島一憲、市田良彦監修)『マルチチュード/〈帝国〉時代の戦争と民主主義(上、下)』(NHKブックス、2005年)。


【書評】佐藤禎祐歌集『青白き光』(いりの舎、平成23年)

2014年03月20日 | 読書

 

いつ瀑ぜむ青白き光を深く秘め原子炉六基の白亜列なる  佐藤禎祐

  この短歌は、歌集『青白き光』の最後に配されたもので、平成14年の作である。

 原子力発電所の敷地に足を踏み入れたことはないが、研究用原子炉の建屋内には幾度か立ち入ったことがある。原子力工学を学んでいた学生時代のことだ。一度だけ原子炉の内部を覗いたことがある。燃料棒や制御棒が大量の水の中に沈んでいるのが見えるのだが、その水が青白くぼーっと輝いていた。チェレンコフ放射光である [1]

 上の短歌を読んだとき、若い頃に見た原子炉内のチェレンコフ放射光を鮮明に思い出した。しかし、歌人が想像していたのはもっと苛烈な事象だったのである。「あとがき」に「かつて東海原発で不用意に核の臨界を招き、青白い光を受けて亡くなった例がある」と記して、その光を歌集名にしたとある。
 「東海原発」とあるが、実際は茨城県東海村にあるジェー・シー・オー(JCO)という住友金属鉱山の子会社の核燃料加工施設で起こした臨界事故のことを指しているのだと思う。ウラン溶液の作業中に不用意に臨界量以上のウランを1箇所に集めたために核分裂の連鎖反応が起きた事故である。近くで作業していた3人の従業員は核分裂で発生した大量の中性子、ガンマ線を被爆し、 2人が死亡し、残りの1人も重症となった。全体の被爆者は700人近くにのぼった。
 臨界事故の時にも閃光のような青い光が観測されることが知られている。JCO事故の時もチェルノブイリ原発事故の時も見られたという。これはチェレンコフ放射とは物理的過程が異なる [2] 。大量の放射線(ほとんどX線やガンマ線)が空気中の酸素や窒素原子あるいは分子の電子状態を励起し、励起した原子(分子)が元の状態(基底状態)に戻る際にエネルギーを光として放出する。したがって、青い閃光は大量の放射線が放出される瞬間の光であり、それを見ている人間もまた大量の放射線を浴びることになる。人は、死に至る瞬間にのみ「青白き光」を見るのである。

 佐藤禎祐という歌人を知ったのは、2014年3月10日付け朝日新聞の記事によってである。東電福島第1原子力発電所の核燃料溶融事故以来の「朝日歌壇・俳壇」で原発事故がどのように読まれているかに関心を持って、その抜き書きを「原発を詠む」や「原発事故はどう詠まれたか」というブログにまとめているので、「朝日歌壇・俳壇」には必ず目を通すのだが、そこに「うたをよむ」というコラムがあって、佐藤通雅が「佐藤禎祐という歌人」という題で次のように書いていた。

 佐藤禎祐という歌人がいた。彼は1929年に福島県大熊町に生まれ、原発批判の歌を作ってきた。それが『青白き光』として刊行された。大熊からいわき市に避難してからも作品を作り続けてきたが、昨年3月に帰らぬ人となった。83歳の生涯。過労の末の無念の逝去だ。

 眠れざる一夜は明けて聞くものか思はざりし原発の放射能漏れ
                          
『短歌』2011年10月号
 死の町とはかかるをいふか生き物の気配すらなく草の起き伏し
                          

 その佐藤祐禎の存在すら忘却されようとしている。なんとかして残しておきたい。手始めに私の個人誌「路上」128号に「佐藤祐禎100首選」と佐藤祐禎論を編集することにした。前者はいわき市在住の歌人高木佳子さんに、後者は会津若松市在住の歌人本田一弘さんに担当してもらった。
 
いま、もっとも残しておきたい歌人、それは佐藤祐禎だ

 福島県双葉郡大熊町は、東京電力福島第1原子力発電所の所在地である。佐藤禎祐は、1929年に大熊町に生れ、米を作る農民として生き、歌を詠み、原発に反対し、2011年3月の原発事故でいわき市への避難を余儀なくされ、その地で2013年3月に83歳の人生を終えた。
 佐藤通雅が紹介している2首の歌は原発事故後に詠まれたが、『青白き光』には2002(平成14)年までの作品が収められていて、2004年に短歌出版社から発行された。私が手にしている歌集は、原発事故後の2011年12月にいりの舎から再刊されたものである。

苦労して拓き拡げし三町のこの田もわが農の終りとならむ  (p. 13)
旅を来て目につく田畑を批評するわれを「百姓ね」と妻のいふ  (p. 45)
ひたすらに耐へて譲るを旨として今振りかへり見る過ぎし七十年  (p. 106)

 放射能に追われて大熊町を出るまで、生れ落ちた土地を生きる農民として故郷を見つめてきた。佐藤禎祐によって詠まれた大熊町の田園の景色は、宮城県北部の農村で生まれ育った私にとってもなじみ深い、それだけに切実なリアリティを持って迫ってくる。

去り難くその襞々にたち迷ふ雲見ゆ夕の遠き山脈  (p. 14)
梅雨あけの夕べ立ち籠むる靄の海に浮かぶがごとし家も太樹も  (p. 15)
水番をしつつ寝転ぶ草土手にハルジョオン咲きしろつめぐさ咲く  (p. 22)
穂に出でて光漲る田に立てば蟬はめぐりの山にひびかふ   (p. 40)
水に浮くケラ啄まむつばくらめ代搔く田面すれすれに飛ぶ   (p. 46)
雷響きたちまち迫り来たる雨は日照り畑に筋なして降る   (p. 61)
残し置かむ風景一つこの地区に軒傾ぶきし茅葺きの家   (p. 88)

 遠くまで続く田んぼの中に島々のように点在する農家の屋敷林は、父祖から代々受け継がれてきた年代を顕わにするように大樹となって、夕靄の中に浮かびがっている。農道や畦道を辿ればハルジョオンやシロツメクサが咲いているが、それらは田仕事の合間に刈り取らねばならない雑草でもある。
 かつて農家はほとんど茅葺き屋根だったが、いま残っている茅葺き屋根といえば、離農して放棄された家屋だけである。離農した人がいる。離農せざるを得なかった人がいる。貧しさに追い打ちをかける冷害、干害がある。さらにまた、棄民政策に等しい日本の農政がある。

あらかたは植ゑ終りたる田に遠く妻亡き人のひとり植ゑつぐ  (p. 13)
花咲かず垂るるなき穂を抜き持ちて農夫ら寄り合ふ今朝の田の畦に   (p. 27)
畔道に皺みたる手を比べ合ひともに継ぐものなきを語りあふ   (p. 30)
高温の続けば米の穫れ過ぎを密かに恐るる百姓われら   (p. 40)
なし崩しに米は自由化されゆかむ部分輸入と言ふ手法にて   (p. 48)
作るほど赤字とならむ米作と子は知るゆゑに継げとは言はず   (p. 51)
冷害資金の返済いまだ終へざるに再び借りる申込みに来つ   (p. 69)
建てしまま金払へずに夜逃げせし家の垣根の赤き山茶花   (p. 75)
減反をせねば米価は廉くするとの役場と農協の脅しに屈す   (p. 92)
政官財の癒着もわれには何せむに農の滅びむ予感に怯ゆ   (p. 104)

 農業はたしかに苦労の多い仕事だ。だが、当然のことながら、農には農の楽しみがある、誇りがある、意志がある。それが農民である佐藤禎祐を支える。そういう歌も歌集に含まれている。

採算の合はぬ米作といふなかれ獲入れどきのときめきはあり   (p. 66)
後継者無くともこの田荒らすまじ作る当てなき峡田を耕ふ   (p. 92)
野にあるはわれとわが乗るトラクターと捉はるるなきこの自在感   (p. 99)
老われの離農を人ら予測すと言へど簡単に止めてたまるか   (p. 99)

 貧しさ、生活の苦しさは農村の構造を変える。農民は当たり前のように賃労働に従事せざるを得ない。近くに土木工事がなければ出稼ぎに行くしかない。東北ではよく聞いた話だ。いずれにしても、農業だけで生活できる農民は減っていく。これは大熊町だけではなく、全国の多くの農村、あるいは漁村で起きていたことに違いない。

食へぬ農の嘆きは言はず大方の農夫は土木工事にはげむ   (p. 56)
休耕田貸さむ目論見はづれたり牛飼ひ止むる人の増え来て   (p. 57)
弁当箱提げて車を待ちてをり田植終へ土工となりたる人ら   (p. 69)
扱き終へし稲架寒々と並ぶまま農夫ら土工に出でて働く   (p. 71)
七十歳近きに土工となりて行く妻なき人と夫なきひとと   (p. 71)

 このような農村に目を向ける政治はどんなものだったか。1974年に電源三法が成立する。これは、いわば「田中角栄主義」 [3] の一つで、貧しい農漁村に原子力発電所を建設することでエネルギー危機の解消を図ることを目的としつつも、一方では中央資金を地方に流すことによって自民党の票を購おうとするものであった。

 季節的土工であれ、離農土工であれ、その農漁村で暮らすことが困難になりつつある人々を抱える地方自治体が、原子力発電所建設に伴う膨大な電源三法交付金の誘惑に勝てないのは構造的に明らかだった。
 核の危険性を怖れて反対する住民は確かにいた。それを支援する少数の活動家も存在した。彼らの多くは新左翼の流れを汲むため、当時、核の平和利用を是認する(原発を容認する)メジャーな左翼党派からは「過激派」として批判されていた人たちであった。3・11後にはすべての左翼党派が脱原発、反原発を標榜しているが、当時は、原発に反対する住民は地元で孤立するばかりではなく、全国的なレベルでも政治的には孤立していた。

 そして、大熊町に東京電力第1原子力発電所が建設される。国と電力会社がつぎ込む金によって町は変貌する。

原発に漁業権売りし漁夫の家の甍は光りて塀高く建つ   (p. 32)
町道の鋪装は誰のお陰ぞと原発作業員酒に酔ひて言ふ   (p. 47)
都市なみの庁舎諸施設道路網原発諸税と言ふ糖衣着て   (p. 47)
原発依存の町に手力すでになし原子炉増設たはやすく決めむ   (p. 52)
原発に縋りて無為の二十年ぢり貧の町増設もとむ   (p. 52)
原発に富めるわが町国道に都会凌がむ地下歩道竣る   (p. 67)
サッカーのトレセン建設を撒餌とし原発二基の増設図る   (p. 76)
鼠通るごとき道さへ鋪装され富む原発の町心貧しき   (p. 93)
原発があるから何でも出来るといふ一つ言葉は町を支配す   (p. 95)
原発に海売りて富めりし人の家とき経ていたく寂しく見ゆる   (p. 96)
原発がある故出稼ぎ無き町と批判者われを咎むる眼あり   (p. 96)

 地方経済といえば聞こえがいいが、いわば金が地方自治体の政策ばかりでなく、思考そのものをがんじがらめにする。3・11後には電力会社から地方自治体への寄付行為は強く批判されるようになったはずだが、2014年3月16日付けの朝日新聞には次のような記事が掲載された。
 山口県上関町に原発を建設しようとしている中国電力は、総額約2億円をかけて町道を拡幅・新設して上関町に引き渡す計画を進めているという。上関町からの強い要望があったと中国電力は主張する。上関では原発のための準備工事が2009年から始まり、3・11後工事は中断している。しかし、すでに上関町は町の政治・行政レベルで電力会社に大きく依存していることは明らかで、自立・自発的な政治判断をする可能性は格段と低くなっているということだ。

 経済的に、つまり金で縛り上げられた町で、人々もまた変容していく。

小火災など告げられず原発の事故にも怠惰になりゆく町か  (p. 26)
原発事故にとみに寡黙になりてゆく甥は関連企業に勤む  (p. 26)
空走る原発六基の送電線逃れぬ思ひに慣れてわが住む   (p. 32)
原発が来りて富めるわが町に心貧しくなりたる多し   (p. 38)
リポーターに面伏せ逃げ行く人多し反対を言へぬ原発の町   (p. 53)
原発に自治体などは眼にあらず国との癒着あからさまにて   (p. 72)
発を本音で言ふはいくたりかうからやからを質にとられて   (p. 93)
原発に縋りて生くる町となり燻る声も育つことな   (p. 104)
うからやから質に取られて原発に物言へぬ人増えてゆく町   (p. 104)
繁栄の後は思はず束の間の富に酔ひ痴るる原発の町   (p. 104)
いつはりの富に満ち足るこの町にプルサーマルを言ふは少なし   (p. 107)

 「逃れぬ思ひに慣れて」住むしかない住民に、放射線被爆の危険はあからさまな事実として見えてくる。原発で職を得たであろう住民が、被爆していく。多くの場合、放射線被曝はひたすら隠されるが、友人、知人、その縁故者の多くが原発で職を得ていれば、いかに電力会社や自治体がそれを隠そうとしても、自ずと露見してくるのである。

線量計持たず管理区に入りしと言ふ友は病名なきままに逝く  (p. 26)
原発に勤めて病名なきままに死にたる経緯密かにわれ知る   (p. 28)
原発のわが知る作業員二人病名をつけられぬままに死にたり   (p. 38)
放射能は見えねば逃げても無駄だとぞ避難訓練に老言ひ放つ   (p. 52)
原発に勤むる一人また逝きぬ病名今度も不明なるまま   (p. 64)
下血を下痢と信じて死に行けり原発病患者輸血受けつけず   (p. 64)
原発はつひに被曝を認めたり三十一歳にて逝きたる人に   (p. 67)
危険なる場所にしか金は無いのだと原発管理区域に入りて死にたり   (p.  78)
子の学費のために原発の管理区域に永く勤めて友は逝きにき   (p. 78)
原発の被曝者ひたすら隠されてひそかに伝ふ少なからぬを   (p. 107)

 人の父であり祖父である歌人は、いち早く原発に反対しなかったことを悔やみ、子どもや孫たちの未来へ思いを馳せる。不安は果てしない。

農などは継がずともよし原発事故続くこの町去れと子に言ふ   (p. 31)
この子らはいつまで生き得む原発の空は不夜城のごとく輝く   (p. 31)
原発を知らず反対せざりしを今にして悔ゆ三十年経て   (p. 33)
この孫に未来のあれな抱きつつ窓より原発の夜の明り見す   (p. 34)

 歌人は強く原発反対を訴えるようになる。町における立場も「なべての役」もすてて原発反対の声をあげる。原発は様々な事故を発生する。電力会社は事故を隠蔽しようとし、露見すれば「軽微で問題ない」とばかり言いつのる。
 しかし、人々は次第に実態を知るようになる。少しずつではあっても、明確に原発反対の意思表明をする人々は増えていく。

民意なき原子炉再開に沸く怒りマグマとなりて地中に潜む   (p. 38)
反原発のわが歌に心寄せくるは大方力なき地区の人々   (p. 53)
立場あるわれは人目を避くるごと脱原発の会の末席に坐す   (p. 65)
なべての役町に返上せしわれは恣に詠まむ反原発の歌   (p. 72)
声を大に言はねばならぬを原発に勤むる人の多きこの町   (p. 93)
原発を言へば共産党かと疎まるる町に住みつつ怯まずに言ふ   (p. 93)
憚らず言ひ得る時代に生き遭ひて科技庁の原発容認批判   (p. 95)
プルサーマル容認の報に肩落とす君も反対の一人なりしか   (p. 107)
さし出されしマイクに原発の不信いふかつて見せざりし地元の人の   (p. 108)
原発などもはや要らぬとまで言へりマイクに向かひし地元の婦人   (p. 109)

 反対運動は次第に力を得ていくのか、そんな期待がふくらみかけてきたころ、大熊町の東京電力第1原子力発電所の原子炉は想定しうる限りでの最悪の事故に見舞われた。核燃料の溶融、メルトダウンである。
 原子炉建屋の水素爆発によってばらまかれた高濃度放射能汚染によって原発近隣の広い土地に人は住むことが不可能になった。歌人はいわき市に避難する。

 放射能にまみれる前、佐藤祐禎は大熊町をこう詠んでいた。

 わが町は稲あり魚あり果樹多し雪は降らねどああ原発がある   (p. 76)

 


[1] この場合のチェレンコフ放射は、荷電粒子(原子炉の中ではウラン235の核分裂で発生した中性子がさらに崩壊してできる陽子と電子がほとんど)が水の中を運動する時、荷電粒子の速度が水中の光速度よりも速い場合に紫外領域に近い光が出る現象。水の中では光の速度は真空中の速度の0.75程度になるため、高エネルギーの荷電粒子の速度が光の速度よりはやくなり得る。また、青白く見えるのは可視光としてはエネルギーが高いため、波長の短い領域だけが人間の目に見えるためである。私の学生時代はチェレンコフ輻射と呼んでいたが、Cherenkov radiationの訳である。ちなみに、この現象は1934年にパーヴェル・チェレンコフにより発見され、イリヤ・フランクとイゴール・タムがその物理現象の理論的説明に成功した。この3人は1958年にノーベル物理学賞を受賞した。
[2] 水がなくても眼球(水晶体)で発生するチェレンコフ放射光が青い光として見えるという間違った俗説もある。確かに水晶体でもチェレンコフ効果は起きうるが、その時には眼球が大量の荷電粒子に曝されるため、その他の原子・分子の物理過程による光も大量に発生する。同時に生体組織が滅茶苦茶に破壊される時であって、光が見えたかどうか認識する時は死亡する時だ、と考えるのが妥当である。つまり、チェレンコフ放射光が見える、見えないという議論自体にどんな意味もない。
[3] 安冨歩  『幻影からの脱出――原発危機と東大話法を越えて』 (明石書店、2012年) p. 113。 


【書評】想田和弘『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波書店、2013年)

2014年03月13日 | 読書

 

われわれは言葉をつうじて世界と接する。だから、言葉が高貴なものたることを望んでいる。          エマニュエル・レヴィナス [1]

 いつも「日本語が通じない。日本語が聞きたい」と言って電話をかけてくる先輩がいる。私より15年も早く定年退職となって遠く彼の生れ故郷の近くで暮らしている。若い人と言葉が通じないのか、社会全般との意思疎通が難しいのか、しばらくの間、私の仕事や遊びの話など近況報告のようなとりとめのない話をして電話は終る。月に2,3度の声だけの交流である。

 いま、日本はバベルの塔の建設に失敗して、互いに言葉が通じなくなった世界のようだ。身の程知らずに建設しようとした「もの」は何であったか。日本国憲法前文や第9条に描かれた世界に類例のない「不戦国家モデル」であろうか、それともその国家モデルを掲げてきた「戦後民主主義」であろうか。たぶん、それはポストモダニティとしてネオリベラルな資本主義によって期待(強制)された「消費社会」なのではないか、と私は思う。

 本書の「はじめに」において、著者は、「日本国憲法が一九四七年に施行され、民主主義の世の中になってから70年近くに」なる「わが祖国が民主主義以外の政治体制に移行することを、どうにも想像することが難しい」と思い、「日本国民の大半は、僕と同じような感覚でいるのではないでしょうか」 (p. 2) と述べている。
 1945年8月15日を母の胎内で迎えた私もまた、「戦後民主主義」の生成・変転と完全に同期して生きてきて、日本の国家・社会の揺るがせにできない根幹として「民主主義」というものを考えてきた。もちろん、大塚英志が敢然と戦後民主主義擁護を主張している [2] ことを通じて、逆に、「戦後民主主義」を小バカにするような言説があるということも知ってはいる。

 そしていま、「民主主義」と私たちが言葉を発しても、そこに込められた政治的・社会的な意味(価値観)が通じにくくなっている、あるいは、もっと直截に「民主主義」の実質的意味の大衆的廃棄が進んでいるのはないか、という危惧がある。そして、それが本書の主題である。

 本書の言説のベースになっているのは、ほとんど著者の具体的な経験である。一方の登場人物は、安倍信三や橋下徹などの政治家や選挙関係者(の言説)であり、もう一方の登場者は、そのような政治家を支持する人々や政治的システムの末端で右往左往する人々、つまり、「民主」の「民」たるべき人々(の言説と行動)である。
 そこから、非民主主義的というよりも反民主主義的、民主主義破壊的な振る舞い・言動を的確に描き出している。「映画を作ることを本業とする、政治については素人」 (p. 6) を自称する筆者とは思えぬほど、その分析の的確さは心理学的・社会学的に優れているように思える(かく言う私は、心理学にも社会学にもまったくの門外漢だが)。

 本書は、岩波ブックレットの一冊で、とても読みやすい。人に薦めやすい本ではあるが、切実に読んでほしいと思うような人たちはこういう本を到底読まないだろう。「民主主義」にまったく頓着しない人々は、しかるがゆえに、外的にも内的にも本書を読むような契機を持たないのである。それがまた、筆者が民主主義を強く危惧せざるを得ない人間の挙動として顕われてくる最大の要因となっている。残念ながら、そういう状況的不幸の中に本書は置かれている。

 三つの章で構成されている本書の第1章は、「言葉が「支配」するもの――橋下支持の「謎」を追う」と題されていて、橋下徹大阪市長(前大阪知事)の政治的言説と彼を支持する人々の言動を取りあげている。2年ほど前から私もツイッターを始め、著者がツイッターで橋下批判を展開していることは知っていた。この章で展開されている理路は、ツイッターを通じてごく部分的にではあるが知ることができていた。

正直申し上げて、「なぜ、これほどまでに橋下徹氏が支持されるのか」という疑問に対する明確な答えを、僕は持っていません。その最大の理由は、明白です。僕が橋下徹氏に政治家としての可能性や魅力を感じないばかりか、危険だとさえ思っているので、支持する人の気持ちが分からないのです。
 
もちろん、橋下人気の背景に、既成政党の無能・無策ぶりや、行き詰まった経済や福祉制度、原発政策などに対する、人々の鬱積した不満や怒りがあるのは明白でしょう。現状があまりに酷過ぎて、誰かを救世主に仕立てたくなる気持ちも分からないではありません。しかし、威勢はよいけど強権的で大した実績もなく、遵法意識が低く、発言内容がコロコ口変わり、ビジョンも稚拙といわざるをえない橋下氏を、なぜ救い主であると信じられるのか。僕は理解に苦しむのです。 (p. 8-9)

 橋下という政治家が登場してから私自身が感じていたこともまったく同じことで、著者の感じ方に完全に同意するするしかない。だから、橋下が大阪府知事に当選したこと、大阪市長に転身し、知事選ともに維新の会が圧勝したことに驚くしかなかった。しかし、それはけっして橋下固有の問題ではなく、石原慎太郎が大量得票で東京都知事に再選されることと問題の本質は同じである。

 なぜ大阪府(市)民は、政治家橋下を支持するのか。著者は、橋下支持者たちの「言葉」からその問題にアプローチする。誰でも気付くように、彼らの発言は「語彙も論理も文体も、橋下氏とそっくり」 (p. 10) なのである。

 「大阪市の社長は市民が決めた橋下さん」というのは、橋下氏が「民意」を持ち出して自ら正当化したり、市役所を「民間会社」になぞらえて語るときによく使うレトリックですし「業務命令」「既得権益」「身分保障」などの語彙も、氏が好んで使うキーワードです。「嫌なら辞めろ」というのも、橋下氏の口からよく発せられるフレーズです。これらの文章の種語などを少しだけ書き換えて橋下氏のツイッターに転載したとしても、たぶんそのまま橋下氏の発言として通用してしまうほど、酷似しています。
 つい最近(二〇一二年五月)話題になった「毎日放送記者の糾弾事件」でも、同様のことが観察できました。橋下氏が記者会見で、教職員の君が代起立斉唱強制問題について質問した毎日放送の記者を「逆質問」で糾弾した、あの一件です。
 
同事件では、その一部始終を記録した動画がユーチューブで広まり、橋下氏の尻馬に乗って記者を侮辱する言葉がネット上に溢れ返りましたが、彼らが多用したのは、「とんちんかん」「勉強不足」「新喜劇」といった言葉でした。動画を実際にご覧になった方なら分かると思いますが、これらはすべて、橋下氏自身が動画の中で発した言葉です。彼らは、「他人を罵る」という極めて個人的な作業にも、自ら言葉を紡ぐことなく、橋下氏の言葉をそっくりそのまま借用したのです。 (p. 10-1)

 政治思想のみならず、人間の思考は言葉によって行なわれる。言葉を持たない者は、感情や欲情を持ちえても思考を獲得することはできない。そして、言語をフルに活用して思考することは精神的エネルギーや意志を必要とする。だから、いつの時代でも思考を節約しようとする、つまり、何も考えずに生きようとする人間は必ず存在する。
 現代はソーシャル・ネットワークが発達している。コピペをするだけで言葉を発信できる。なにしろ、ツイッターにはリツイート機能があって、クリックするだけで他人の言葉をそのまま流すことができる。擬似的ではあるが、こうしたことを通じて、自分はちゃんと考えている、おのれの思想をきちんと発信している、私は意見をきちんと述べている、などと自己を欺瞞することは可能だ。
 
政治家の言葉をオームのように繰り返すだけで、自分の意見を表明したと思い込むにはそれなりの理由があるだろう。著者は、それを橋下流の政治手法にその「病態」 (p. 15) としての一因を見出している。橋下徹はツイッターで「民主主義は感情統治」と断言する。

橋下氏は、人々の「感情を統治」するためにこそ、言葉を発しているのではないか。そして、橋下氏を支持する人々は、彼の言葉を自ら進んで輪唱することによって、「感情を統治」されているのではないか。
 
そう考えると、橋下氏がしばしば論理的にめちゃくちゃなことを述べたり、発言内容がコロコ口変わったりしても、ほとんど政治的なダメージを受けない(支持者が離れない)ことにも納得がいきます。そうした論理的ほころびは、彼を支持しない者(感情を統治されていない者)にとっては重大な瑕疵に見えますが、感情を支配された人々にとつては、大して問題になりません。なぜなら、いくら論理的には矛盾しても、感情的な流れにおいては完璧につじつまが合っているからです。 (p. 19-20)

 つまり、こういうことなのだ。橋下徹は、あまりものを考えないで生きている人々の感情(けっして政治意識などではない)をうまくコントロールしたのだ。そして、橋下の言葉をリピートすることで刺激された感情を満足させる。いや、それ以上に、物真似言葉を発することで橋下徹と同じ政治的土俵で闘っているという幻想に嵌っているのではないかと思う。
 
著者は、橋下徹の言説は「論理的にめちゃくちゃなことを述べたり、発言内容がコロコ口変わったり」するけれども、感情的には一貫していると言う。

 だから日頃からマスコミに不満を抱いていたり、ミソジニー(女性嫌悪)的な暗い思いを抱いていたり、あるいは単に誰かをいじめたい気分に駆られていた人々は、彼の演出する感情に波長を合わせ易かったし、合わせることができた。そして彼が発した「とんちんかん」などという言葉をそのまま惜用して、彼らの感情をネット上などでぶちまけた。これは、橋下氏の目指している「感情を統治する民主主義」が典型的に機能した例だと言えるでしよう。 (p. 21)

 妬みや嫉み、憎しみのような感情を組織するには憎むべき敵を作ってやればいいのである。「既得権益」を持つ人々、「身分保障の公務員」、「税金で飯を食う官僚」、「自称インテリ」、「学者論議」などなど、橋下はつぎつぎと憎むべき敵を作り、率先して感情に満ちあふれた悪口を言ってみせる。橋下に卑しい感情を刺激された人々は、橋下の言葉をオーム返しに発信して溜飲を下げると同時に、大阪市長(府知事)と同じ政治的レベルで政治的発言をしているという自己欺瞞に陶酔する。そういうことなのだろう。

 感情を政治的に組織するというのは、民主主義的統治にとってはあるまじきことだが、歴史的には重大な事例を引き起こした悪質な政治手法だ。2013年12月14日付けの 東京新聞の「デスクメモ」というコラムは次のような言葉が掲載されていた[3]

 ヒットラーの右腕だった高官が戦後の裁判でこんな趣旨の証言をしたという。「国民は戦争を望まない。しかし決めるのは指導者で、国民を引きずり込むのは実に簡単だ。外国に攻撃されつつあると言えばよい。それでも反対する者は愛国心が無いと批判すればいい」。だまされてはいけない。

 日本の先の戦争もまた、同じような政治手法によって遂行されたのである。

 第2章の「安倍政権を支えているのは誰なのか?」では、憲法改正を狙う安倍政権の憲法をめぐる見識の問題と、自民党を支持する人々が安倍信三(と政権)の無知ぶりすら擁護するということへの驚きが語られる。
 
安倍政権の憲法観は、著者が紹介する二つの例に顕著に表われている。一つは、著者と片山さつき参議院議員(自民党)のツイッターでのやりとりで、もう一つは小西浩之参議院議員(民主党)と安倍が首相との国会でのやりとりである。

片山 国民が権利は天から付与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権論をとるのは止めよう、というのが私たちの基本的考え方です。国があなたに何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、を皆が考えるような前文にしました!
想田(片山発言について) こんな考えで憲法が作られたら戦前に逆戻りだってことに、本人も気づいてない。
片山(想田宛) 戦前?! これは一九六一年のケネディ演説。日本国憲法改正議論で第三章、国民の権利及び義務を議論するとき、よく出てくる話ですよ。
想田(片山宛) 国のために国民が何をするべきかを憲法が定めるなら、徴兵制も玉砕も滅私奉公も全部合憲でしょう。違いますか? また、ケネディの就任演説と憲法の前文を同レベルで論じることそのものが、驚愕です。憲法と演説は違います。つーか、そのケネディ演説ですら天賦人権説を採っているんですよw。あなたみたいな不勉強で国家主義的な政治家が出てくることを見越したから、第九七条が日本国憲法には盛り込まれたのでしょう。あなたがた自民党改憲チームが九七条を削除したのも頷けます。
片山(想田宛) 国家のありようを掲げ、国家権力がやっていいこと、統治機構などを、規定。私は芦部教授の直弟子ですよ。あなたの憲法論はどなたの受け売り?
想田(片山宛) だったら先生の本くらい読めばいいのに。 (p. 33-4)

小西議員 安倍総理、芦部信喜という憲法学者を御存知ですか?
安倍首相 私は存じあげておりません。
小西議員 では高橋和之さん。あるいは佐藤幸治さんという憲法学者は御存知ですか?
安倍首相 まあ申し上げます。私は余り憲法学の権威ではございませんので、学生であった事もございませんので存じ上げておりません。
小西議員 憲法学を勉強されない方が憲法改正を唱えるというのは私には信じられない事なんですけれども。今、私が挙げた三人は憲法を学ぶ学生だったら誰でも知ってる日本の戦後の憲法の通説的な学者です。 (p. 39)

 「私は芦部教授の直弟子ですよ。あなたの憲法論はどなたの受け売り?」という鼻持ちならない物言いに「知」に関わろうとしない精神の饐えた匂いを感じるのだが、そのことはさておき、自民党の一議員がその指導を受けたことを自慢するほどの憲法学の権威である芦部信喜を、憲法改正の先頭を走ろうとする自民党総裁は知らないのである。いや、たまたま知らないということは問題ではない(日本では、一国の宰相たる人間が無知だという現象は珍しくない)。安倍首相の「まあ申し上げます」という言い方に、知らないことは何も問題ないのだという認識や、知ろうとすらしないことを恬として恥じない様子が露呈していることに驚くのである。
 しかし、「病態」としてもっと危惧すべきは、そのような安倍信三を支持する人々の言説である。

僕の目をひいた「安倍擁護の論法」とは、例えば次のようなものです。

「でも芦部信喜とかどうでもいいよね」
「あなたもそんな憲法快晴に強硬に反対しているということは少なくとも憲法  学の知識は太丈夫なんですよね?」
「どうでもいいです。しっこい。私もそんな人知らんわW 知らない事を「恥ずかしいね」つて罵倒される可能性はだれにでもあるものです」
「まず貴方と総理では覚えなければならない知識量が膨大な差に登る(ママ)と思うんだけどちがうのかな?」
「阿部(ママ)総理が過去から現在までのあらゆる憲法学について網羅していなければならないのか疑問です」

 これらの擁護論に共通する特徴は、内閣総理大臣という日本の最高権力者に対して要求する資質の、異様なまでのハードルの低さです。
 
支持している人に対しては、どうしても評価が甘くなるのは人間の性ですが、それでも「貴方と総理では覚えなければならない知識量が膨大な差に登る」などと僕と首相を比較するのはナンセンスですし、「私もそんな人知らんわ」などと、自分が芦部氏を知らないからといって首相を擁護する論法も、実に奇妙です。相の知識レベルや見識は、まるで「私たち庶民と同じでよい」と言わんばかりだからです。 (p. 41-2)

 こうした安倍擁護論を著者は、「首相(や政治家)は私たち庶民と同じ凡人でよい」というイデオロギー、「一種の思想傾向」だと見る。著者は、それを「人間みな平等」とする民主主義のありうべからざる「成果」ではないかと危惧する。
 しかし、これもまた橋下支持者と同じように、考えない自分、無知である自分を容認しながら生きる人々の心性として理解できるのではないか。「首相が無知であってもいい」と認めることは、「一介の国民である自分が無知であることはいっそう問題ではない」という自己是認の別表現ではないかと思えるのだ。
 安倍首相が無知だから支持しているわけではなく、「押しつけられた憲法だから」などという感情的憲法論、あるいはまた反韓、反中国感情をベースとした「(戦争ができる)普通の国」論など、橋下支持者と同じく「感情」を掬い取られて支持をしているのだと考えられる。
 だとすれば、橋下の口まねをすることで府知事や市長と同レベルで政治に参加している(既得権益と闘っている)と自己を欺瞞できたように、首相が自分と同じレベルの無知で問題ないと主張しつつ支持することで、自分も総理大臣と同水準で政治に関与している(憲法改正の政治活動に参加している)という自己欺瞞に陶酔しているのではないかと考えられる。

 「第3章 「熱狂なきファシズム」にどう抵抗するか」は、おそらくもっとも重要な一章である。社会の様々な場面で見られる反民主主義的、非民主主義的言動が語られる。なかでも、最も印象に残ったのは「消費者民主主義」について語った箇所である。

 法学者の谷口真由美さん、劇作家・演出家のわかぎゑふさんと僕の三人でトークした後、会場にいた若い男性から、僕の意識に奇妙に引っかかる発言がありました。
 
いわく、「政治は分かりにくいからハードルが高い。もっとハードルを下げてもらわないと、関心を持ちにくい」というのです。
 
一見、ごもっともな発言です。むしろよく耳にするありふれた台詞でもあります。
 
しかし、何かが変です。
………
 男性の発言は、政治家に対してのみならず、政治を論じている僕たち登壇者に対する「苦情」だったのではないか。そして、そういう苦情を僕たちが受けることに、僕は違和感を覚えていたのではないか。
 
なぜなら、僕ら登壇者も発言した男性も、「主権者」という意味では同じ立場なのであり、僕らが政治を分かりやすく語っていないと思うなら、彼がその役割を果たそうとしてもよいはずだからです。少なくとも、自分で「分かろう」と努力してもよいはずでしょう。
 
にもかかわらず、男性は僕らに政治を分かりやすく語ることを「要求」している。少なくとも「当然、要求してよいはずだ」という確信を抱いているようにみえる。なおかつ、「自分にはそれは要求されない」とも信じているようにみえる。
 
そう思い至った瞬間、僕は直観しました。
 
「そうか、あれは消費者の態度だ」
 
自らを政治サービスの消費者であるとイメージしている彼は、政治について理解しようと努力する責任が自分自身にもあろうとは、思いもよらなかったのではないか。
 
同時に、僕は思い至りました。
 
「もしかして彼のような認識と態度は、日本人に広く蔓延しているのではないか」  (p. 54-5)

 そうなのだ。政治も民主主義も消費すべき商品なのだ。いまさらボードリヤールを引き合いに出すまでもなく、国民、民族、市民、大衆などというより「消費者」というアイデンティティを私たちは無自覚に生きているのではないか。多くの日本人にとって、民主主義はすでに社会の基底構造として所与のものであって、国民の努力や歴史的犠牲の上で形成されたものという受け止め方はないのではないか。
 現在の民主主義が間違っているならば、誰かが正しい民主主義を並べて売りに出してくれる、それを買うから早く売りに出してくれ、と要求する。品揃えが足りないとクレームをつけることが「高い」政治意識だと思い込んでいる。
 購うべき政治的商品が少ないということは、商品を選ぶだけの「消費者」には選択肢が少ないことを意味する。加えて、他人が買う品物を欲しがるのは消費者マインドとしては自然である。だからこそ、マスコミの商品レビューに煽られて、小泉自民党にいっせいに走りだし、次には手の平を返すように民主党政権に流れ、次いで日本維新の会に雪崩を打って押し寄せるのである。そして、そのマスコミはいまや「日本維新の会はそろそろ賞味期限切れ」などと新しい商品レビューを書きたてるのである。

 そのように考えると、橋下大阪市長の口真似で「他人を罵る」のも橋下徹という政治家が売り出した商品を使い回しているだけではないのか、そんな思いがしてくる。あるいは、一国の首相も政治家もそのあたりの庶民程度の知識、教養でなんの問題と考える人々にとって、政治家が優れた知識・見識を有していたら政治的商品として消費することができなくなる、つまり、自分と同じ程度でないと難しすぎて使い回せる商品にはならないということなのだろう。

 三章を通じて著者が描いて見せた現在の政治状況を下支えする人々、つまり、橋下支持者、安倍自民党支持者、あるいは「分かりやすい政治」を希求する熱心な市民、そして圧倒的な数の政治不参加者それぞれが、著者の語る「熱狂なきファシズム」を支えているのだろう。
 
著者は、憲法第一二条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」を引いて、第三章を次のような言葉で結んでいる。

 「憲法を書いた人は、僕がいま遭遇しているような事態が起きることを、きっと予測していたに違いない。なぜなら、その人もそのようにして、自由と権利を守り育ててきたからだ」
 
そう思うと、七〇年近くの時を超えて、憲法の書き手と、突然、心がつながるような気がしたのです。それはとりもなおさず、悪戦苦闘しながら民主主義を作り上げてきた人類の歴史とつながることでもあるのです
 
「熱狂なきファシズム」に抵抗していく究極の手段は、主権者一人ひとりが「不断の努力」をしていくことにほかならないのだと信じます。 (p. 77)

 

[1] エマニュエル・レヴィナス(合田正人編訳)「逃走論」『レヴィナス・コレクション』(筑摩書房、1999年) p. 164。
[2] 大塚英志『戦後民主主義のリハビリテーション』(角川書店:2001年)。
[3] 前澤一雄氏のフェイスブック投稿記事から。