かわたれどきの頁繰り

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【書評】ジョルジョ・アガンベン(上村忠男訳)『到来する共同体』(月曜社、2012/2015年) その1

2015年12月14日 | 読書

 

 到来する存在はなんであれかまわない存在〔essere qualunque〕である。 (p. 8)

 これが本書における文頭の文である。そして、様々な知見、論証を経めぐったのち、巻末に置かれた結論(ないしは宣言、または予言)は次のようなものである。

 所属そのもの、自らが言語活動のうちにあること自体を自分のものにしようとしており、このためにあらゆるアイデンティティ、あらゆる所属の条件を拒否する、なんであれかまわない単独者こそは、国家の主要な敵である。これらの単独者たちが彼らの共通の存在を平和裡に示威するところではどこでも天安門が存在することだろう。そして遅かれ早かれ戦車が姿を現わすだろう。 (pp. 110-11)

 そして、「訳者あとがき」には、岡田温司が著書『アガンベン読解』のなかで、この最後の言葉を取り上げたうえで「《われわれは少なからず戸惑いを覚えないではいられない》と率直な疑問が呈されている」と記されている。この「戸惑い」は何に由来するのだろう。『アガンベン読解』を読んでいないのでこれは単なる憶測に堕するかもしれないが、次のようなことではないだろうか。
 現代の私たちの望ましい(とアガンベンが考えた)存在のありようとして「なんであれかまわない単独者」たちの共同体こそ政治権力に正しく向き合うことのできる「われわれ」(スティグレールが言うところの)であればこそ、それを怖れる政治権力は天安門事件のように戦車によって弾圧を試みるだろう。いわば、天安門事件のような不幸な結末を予言するようなアガンベンの言葉に「戸惑い」を覚えたと思われる。
 しかし、アガンベンがここで強調したかったのは、「戦車が姿を現わす」と象徴的に表現するほどに、政治権力は「なんであれかまわない単独者」たちの共同行動を怖れているということにほかならない。権力が真に怖れない存在などに変革が期待できるはずもない。アガンベンの力点はその点にあると私は考える。

 『リキッド・モダン』(ジグムント・バウマン)[1] と呼ばれる流動的な時代において、『象徴の貧困』(ベルナール・スティグレール)[2] と名指されるほどに人々は共有すべき価値を喪失している。人々は、政治権力(資本)に対抗しうるとみなされてきた労働者(プロレタリアート)というアイデンティティもほぼ失ってしまった。そんな時代において、ネグリ&ハートは、マルチチュードという多数多様性を本質とする新しい階級による『反逆』[3] を語る。スティグレールは、私たちの差異をことごとく排除しようとする資本によるハイパーシンクロニゼーションに対抗するには集団的個体化によって形成された「私」と「われわれ」が新しい象徴を「創り出すinventer」ことが闘いであり、ラディカルな批判になると『愛するということ』で主張する [4]
 マルチチュードは、それ以上に縮減できない多数多様な人々、単純な共同性を見ることができないほどの多様性を特徴とする。こうした人々が形成する共同体に『何も共有していない者たちの共同体』(アルフォンソ・リンギス)[5] を重ね合わせることができよう。「何も共有していない者たちの共同体」は、スティグレールの豊かな象徴を共有する「われわれ」とは一見異なるように見えるが、それは深度の差に過ぎないだろう。スティグレールは、哲学や社会学、あるいは政治学や経済学が対象、ないしはフィールドとしてきた合理的言説によって維持される共同体を前提としているが、リンギスは国家や地域コミュニティを超えた人間そのもの、あるいは類としての「根源的なもの」を共有する共同体を想定している。二つの共同体は(理念的には)互いに包含すべき概念を有しているのである。

 アガンベンは、政治権力へ立ち向かうべき「到来する共同体」の一人ひとりの本質をさらに存在論的にいっそうラディカルに定義し、「なんであれかまわない単独者」たちをその共同体の成員として措定するのである。
 上に引用した巻頭と巻末の文の間で、著者は「なんであれかまわない」こととは何かを論じている。全体で19章のそれぞれの章は比較的短くまとめられ、時としてアフォリズムのようでさえあって、そのため私には理路が見えにくくなることもないではなかった。
 その19章の中で参照されるのは、アガンベンらしい該博な知識によって、ギリシア哲学からスコラ哲学、スピノザ、ニーチェ、ハイデガー、ベンヤミン、ギー・ドゥボールに及び、さらには旧約聖書やタルムード(キリスト教神学やユダヤ教神学)やアラブ学者の説、文学ではカフカ、メルヴィル、ヘルダーリン、ローベルト・ヴァルザー(私は読んだことがないスイスの作家)などである。
 冒頭の「到来する存在はなんであれかまわない存在である」は次のような文章に続く。

 スコラ学において超越概念が列挙されるとき(quodlibet ens est unum, verum, bonum seu perfectum:なんであれ存在するものは一であるか、真であるか、善であるか、それとも完全であるかのいずれかである〔カント『純粋理性批判』B114参照〕)、それぞれのうちにあっては思考されないままにとどまっていながらも、他のすべてのものの意味を条件づけている語は、quodlibetという形容詞である。このラテン語の形容詞は《なんであるかは関係がない》という意味に訳されるのが普通であるが、これはたしかに正確な訳である。だが形式においては、そのラテン語は厳密には正反対のことを言っている。quodlibet ensと/いうのは《なんであるかは関係がない存在》ではなくて、《なんであれ関係があるような存在》のことである。すなわち、そこにはすでにつねに望ましい(libet)ということへの送付が含意されているのであって、望ましい存在は願望と本源的な関係を有しているのである。 (p. 8)

 じつは、私の「戸惑い」は冒頭の「なんであれかまわない存在」というフレーズそのものにあった。「なんであれかまわない」という言葉に、主体の放棄や絶望のニュアンスを感じたのだったが、「なんであれ関係があるような」と等価な「なんであるかは関係がない」という意味で「なんであれかまわない」のであれば、そこに無限定の可能性を想定できそうで、その「戸惑い」はすぐに解消した。(それにしても形而上学である。若いころ、形而上学的な議論を軽蔑し、軽視する(唯物論の立場から)ような風潮のなかで生きてきたので、あまり真剣に形而上学を読んだり学んだりしなかったのである。実験物理学という職業がそれに拍車をかけて、いま本を読みながら苦しんでいるのである。)
 さて、「なんであれかまわない」ということは「なんであってもいい」ということではない。そうでなくてはならないと思うのだが、それではいっそう概念の具体性が薄れてしまう。そうした疑念に応えるように、「なんであれかまわない存在」とはどういう存在か、という論述が本書の大部をなしている。

じっさいにも、ここで問題になっている〈なんであれかまわないもの〉は、個物ないし単独の存在をある共通の特性(たとえば、赤いものであるとか、フランス人であるとか、ムスリムであるとかといったような概念)にたいして無関心なかたちで受けとるわけではなく、それがそのように存在しているままに〔ありのままに〕受けとるにすぎない。このことによって、個物ないし単独の存在は認識に個別的なものの言表不可能性と普遍的なものの可知性のいずれかを選択することを余儀なくさせる偽りのディレンマから解き放たれる。可知的なものとは、ゲルソニデスのみごとな表現によれば、普遍的なものでもなければ、ある系のなかに包含された個別的なものでもなく、《それがどんなものであれ単独の存在であるかぎりでの単独の存在》であるからである。 (p. 9)
〔訳注〕――ゲルソニデスは本名レヴィ・ベン-ゲルション(Gersonides; Levi ben-Gershon, 1288-1344)。アリストテレス哲学とユダヤ神学の批判的総合をくわだてた中世フランスの哲学者・聖書解釈学者で、数学者・自然学者でもあった。主著はMilamot Adonai (『主の戦い』一三二九年)。 (p. 11)

愛は〔事物を品質づける〕述語のすべてを余すところなく具えた事物を欲する。事物がそのように存在するままに存在することを欲する。愛が何ものかを欲するのは、それがそのように存在するままに存在するかぎりにおいてのことである。これが愛に特有のフェティシズムである。こうして、なんであれかまわない単独の存在(〈愛する価値のあるもの〉)は、けっして何ものか、あれやこれやの性質ないし本質を知っているわけではなく、あくまでも知る可能性があるということを知っているにすぎない。 (pp. 10-1)

 「なんであれかまわない存在」の具体的イメージとして最初に参照されるのは、キリスト教(カソリック)世界で想定されているリンボ(孩所、辺獄)で生きる死せる赤ん坊である。洗礼を受けずに死んだ幼児は原罪以外の罪を持たないのだが、「もっぱら何ものかが奪い去られてしまっているという罰、すなわち、いつまで経っても神のヴィジョンをもつことができないでいるという罰」(p. 12) のみを受けることになる。しかし、それ以外にどんな苦しみもない。彼らは神に見捨てられたのだが、彼ら自身も神を見失って(忘れて)いる。いわば、彼らは道を失っているのだが、生まれたそのまま(死者だが)に自然に孩所で生きることになる。「彼らはいつまで経っても売り捌き先を見つけられない幸福感で満たされている」(p. 14) のである。
 また、ヴァルザーやカフカの小説も参照される。ヴァルザー作品の登場人物たちは、自分が取るに足らない人間であることを自慢するのだが、それは「なによりも彼らが救済にたいして中立の立場をとっていることの証しであり、救済の観念そのものにたいしてこれまで申し立てられてきた最もラディカルな異議」(p. 14) である。

 処刑するはずであった機械が壊れたために生き延びて解放されたカフ力の『流刑地にて』の罪人のように、彼らは罪と裁きの世界に背を向けたまま放置されている。彼らの額に降り注ぐ光は、最後の審判の日に続いてやってくる夜明けの――取り返しのつかない――—光である。だが、最後の日のあとに地上で始まる生は、単純に人間の生なのだ。 (p. 15)

 神を忘れてしまった者、神が忘れてしまった者、救済されるべきものを何一つもたない者に対しては、「そうした生にたいしてはキリスト教的オイコノミア〔統治〕の重厚な神学機械も難破せざるをえない」(p. 14) のである。彼らはすでに(キリスト教社会にあっては)「なんであれかまわない存在」となっている。 
 アガンベンは、「なんであれかまわない存在」は個別的な存在であるとともに、普遍的な存在でもあると考えている。

 普遍的なものと個別的なもののアンチノミーを逃れているひとつの概念がずっと前からわたしたちによく知られていた。見本〔esempio〕という概念がそれである。見本がその力を発揮するどんな領域においても、見本の特徴をなしているのは、それが同一のジャンルのすべてのケースに妥当するものであると同時にそれ自体それらのケースのなかに含まれているという事実である。見本は、それ自体が個物のなかのひとつの個物でありながら、他の個物のそれぞれを代表する立場にあって、すべてに妥当する。 (p. 17)

赤い存在ではなくて赤いと名指される存在、ヤコブという存在ではなくてヤコブと名指される存在が、見本を定義する。 (p. 18)

それは〈最も共通のもの〉であって、およそあらゆる現実の共通性を切断してしまうのだ。ここから、なんであれかまわない存在の無力な汎妥当性が出てくる。ただし、それを無感動と取り違えてもならないし、ごたまぜ状態ないし唯々諾々と取り違えてもならない。これらの純粋の単独者は、あくまでも見本の空虚な空間のなかで、なんらの共通の特性、なんらの自己同一性によっても結びつけられることがないままに交信しあう。それらの単独者は所属そのもの、記号∊を自らのものにするためのあらゆる自己同一性を剝奪されてしまっている。トリックスタ-ないし無為の徒、助手ないしカートゥーンとして、彼らは到来する共同体の見本にほかならない。 (p. 19)

 なんであれかまわないものであることは個物ないし単独の存在を知るための基本要素であって、これがなくては存在も個体化も考えることができない」(p. 27) とアガンベンは述べたうえで、スコラ哲学における個体化を考察する。ドゥンス・スコトゥスは、共通の性質があらかじめ実在していて、それに《究極にあるもの》、「このもの性」が付けくわえられることで個体化が成されるとして、共通の性質と「このもの性」に本質的な差異はないと考えるのだが、それでは個物のなんであれかまわないことに言及することができない。そこで、アガンベンはスピノザを参照する。

しかしまた(『エチカ』第2/部定理37によれば)共通なものはけっして個物の本質を構成しない。ここで決定的なのは、非本来的な共通性という観念、なんら本質にはかかわらない一致という観念である。もろもろの個物が延長という属性において生起しこれをつうじて交信しあうことはそれらを本質〔essentia〕において結合するのではなくてそれらを現実存在〔existentia〕という形態において散種することとなるのである
 もろもろの個物にたいする共通の性質の無関心ではなくて、共通のものと独自のもの、類と種、本質と偶有的なものの無差別が、なんであれかまわないものを構成するなんであれかまわないものとは、すべての特性を具えながらも、そのうちのどれひとつとして差異を構成することのないもののことである。もろもろの特性にたいして無差別であることが、もろもろの個物を個物として識別させ散種させるのでありそれらを愛する価値のあるもの(quodlibetなもの)にするのである。 (pp. 29-30)

 こうして個別的なものと共通なものは無差別なものとなって、可能体から現実体へ、あるいは現実体から可能体へと「役割を交換しあい、相手のなかに侵入していく」ことになる。このような移行のプロセスで「産み出される存在がなんであれかまわない存在」(p. 32) なのである。
 中世の論理学の言葉であるマネリエス〔maneries; maniera〕は、個物の存在に関係するのだが、その語源や意味が明確にされていない。いくつかの参照の後、アガンベンはマネリエスの語義を次のように結論する。

すなわち、マネリエスは類でも個でもない。それはひとつの見本、つまりはなんであれかまわない個物なのだ。だとすれば、たぶん"maneries"という術語はmanere 〔とどまりつづける〕から派生したものでもなければ(存在の住処そのもの、プロティノスの言うモネー〔monē,とどまるもの〕を表現するさいには、中世の人々はmanentiaとかmansioと言っていた)、(近代の文献学者たちがそう想定したがっているように)manus 〔手〕から派生したものでもなく、 manare 〔発する〕から派生したものなのだろう。すなわち、発生状態にある存在を指しているのだろう。これは、西洋の存在論を支配している区分法にしたがって言うなら、本質でもなければ現実存在〔実存〕でもなく、発生の様式である。あれやこれやの様式において存在している存在ではなく、その存在の様式そのものであるような存在、それゆえ、単一的で無差別ではないものでありつづけながらも、数多的ですべてに妥当するような存在である。 (pp. 40-1)

自分自身の下にとどまりつづけているのではない存在。隠れた本質として自らに前提されているのではない存在、偶然や運命がそのあとで品質づけの責め苦へと追いやるのではなくて、それらの品質づけのなかで自らを曝す存在。余すところなくあるがままの姿をしている存在。そのような存在は偶然的でも必然的でもなく、いわば、自分自身の様式から不断に産み出されるのである。 (p. 41)

 だが、発生の様式はなんであれかまわない個物の住まう場所でもある。そして、その個体化の原理でもある。じっさいにも、自分自身の様式にほかならない存在にとっては、このような発生の様式はその存在に本来具わっていてそれを本質として規定し同定するようなものではなく、むしろ、その存在にとって非本来的なものである。しかしまた、この非本来的なものがそれの唯一無二の存在と見なされて自分のものにされるということが、それを見本的な存在にしているのである。(pp. 42-3)

 「なんであれかまわない存在」は、その存在自体が持つ様々なアイデンティティが何であれかまわないのである。それは、例えばアマルティア・センが『アイデンティティと暴力』[6] において、個人には多様なアイデンティティがあり、そのどれをもその主体から外すことはできないと主張したことと隔たりがあるように見える。
 しかし、センは、一人の人間を一つのアイデンティティに押し込めてしまうことが暴力を生み出す機制を明らかにしようとしたのであって、いわば、きわめて具体的、現実的な社会そのものに沿った議論をしているのである。形而上学的な議論の段階では、アガンベンとセンの主張を比較するのはまだ早いようである。

 

[1] ジグムント・バウマン『《非常事態》を生きる ――金融危機後の社会学』(作品社、2012年)
[2] ベルナール・スティグレール『象徴の貧困』(新評論、2006年)
[3] アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート(水嶋一憲、清水知子訳)『反逆』(NHK出版、2013年)
[4] ベルナール・スティグレール(ガブリエル・メランベルジェ、メランベルジェ眞紀訳)『愛するということ―「自分」を、そして「われわれ」を』(新評論、2007年)
[5] アルフォンソ・リンギス(野谷啓二訳)『何も共有していない者たちの共同体』(洛北出版、2006年)
[6] アマルティア・セン(大門毅、東郷えりか訳)『アイデンティティと暴力』(勁草書房、2011年)
[7] ギー・ドゥボール(木下誠訳)『スペクタクルの社会』(ちくま学芸文庫、2003年)。

【続く】



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