かわたれどきの頁繰り

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【書評】植村邦彦『ローザの子供たち、あるいは資本主義の不可能性――世界システムの思想史』(平凡社、2016年)

2017年04月05日 | 読書

 

 それともご存じかしら? わたしは自分がほんとうは人間ではなくて、なにかの鳥か動物かが出来損ないの人間の姿をとっているのじゃないかと、感じることがよくあるのです。心のうちでは、ここのようなささやかな庭とか、マルハナバチにかこまれて野原にいるときのほうが、はるかに自分の本来の居場所にいる気がする――党大会なんかに出ているときよりも。あなたになら、なにを言っても大丈夫ですね、すぐさまそこに社会主義への裏切りを嗅ぎつけたりなさいませんものね。にもかかわらずわたしは、あなたも知るとおり、自分の持ち場で死にたいと願っています。市街戦で、あるいは監獄で。けれども心のいちばん奥底でのわたしは、「同志」たちよりずっとシジュウカラたちの仲間なのです。
   ローザ・ルクセンブルグ『獄中からの手紙――ゾフィー・リープクネヒトへ』 [1]

 闘いの先頭に立つ女性を敬愛する気持ちを込めて「ジャンヌ・ダルク」と呼称する例はしばしば見聞きする。道浦母都子の短歌を評するさいに彼女をジャンヌ・ダルクになぞらえている文章を読んだ記憶もある。道浦母都子は、福島泰樹と同じようにいわゆる日本の〈1968年〉を闘いつつ生き抜いて、闘いと闘いのその後を唱いつづけている歌人である。二人と同じ時代を生きてきた私はまた、彼らの短歌にずっと惹かれつづけている。
 しかし、〈1968年〉当時、よく聞かれたヒロインの名はジャンヌ・ダルクではなく、ローザ・ルクセンブルグであった。私の周囲にはいなかったが、どこそこの大学に「○○のローザ」と呼ばれる女性がいる、という話を聞くことがあった。おそらく、多くの大学に「○○のローザ」、「△△のローザ」と呼ばれる女性闘士がいたことだろう。
 学生時代の知り合いの女性に35年ぶりに会ったとき、そのころに読んでいたルクセンブルグの『獄中からの手紙』にたまたま話が及んだ。その人が東京暮らしをしていたころシェアハウスしていた女性がかつて「○○のローザ」と呼ばれていたらしいと話してくれた。全共闘世代にとって、闘いのヒロインはやはりローザ・ルクセンブルグだったのである。

 この本は、『資本蓄積論』や『経済学入門』において示された一国にとどまることのない資本主義の世界性(「資本主義世界経済」)というルクセンブルグの主張が、「正当マルクス主義」者から否定され、無視されつづけられていながら、アンドレ・グンダー・フランク、サミール・アミン、イマニュエル・ウォーラーステイン、ジョヴァンニ・アリギなど、著者が「ローザの子供たち」と呼ぶ思想家たちによって受け継がれ、第2次世界大戦後の資本主義の世界的展開の理解へ向かう理論的基盤となったことの思想史的叙述である。
 じつは、本書の出発点である『資本蓄積論』や『経済学入門』などのルクセンブルグの主要な著作を私は読んでいないのである。それなのに、ここで述べられている資本の「本源的蓄積」のプロセスから「資本主義の不可能性」にいたるルクセンブルグの理路は、ずっと若いころからそれなりに理解していたように思えるのだ。今では定かではないが、おそらくは〈1968年〉あたりで読んだルクセンブルグに関する評論などからの寄せ集めの知識だったのだろう。若いときは、今よりもいっそう、難しい原典よりも易しい解説という安易な方法に頼りがちであっただろうとは思う。
 しかし、そのような知識であっても、第二次大戦後、アメリカが中南米や中東で政治的、軍事的に行ってきた(いる)ことをノーム・チョムスキーの『覇権か生存か――アメリカの世界戦略と人類の未来』 [2] やナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン [3] を通じて知った時、資本蓄積の世界的プロセスとして理解することに役立っているのである。

 本書を読んでいてすぐに気づくことだが、ローザの子供たちの主要な仕事が〈1968年〉前後から始まっていることである。〈1968年〉当時の大学構内には「反帝反スタ」の標語があふれていた。ローザの帝国主義論としての資本主義の世界性という思想は、「正統派マルクス主義」の単純な一国発展段階論とは相いれず、「反帝反スタ」という標語にしっくりするのだった。
 ローザの子供たちの研究対象地域は、フランクの南米、アミン、ウォーラーステイン、アリギのアフリカのように、第二次大戦後、植民地として、あるいは後進開発国として、先進資本主義国家による資本蓄積のための搾取対象となる国々だった。彼らは先進資本主義国家群(中央)と後進開発国群(周辺)が織りなす資本主義の世界的構造を明らかにすることで、「正統派マルクス主義」の国家ごとの発展段階論を明確に否定し、「ローザの子供たち」となるのである。そうして、〈1968年〉前後、彼らも「反帝反スタ」と呼べるような思想的位置に確立していたと、私には思えるのだ。
 しかし、ローザの子供たちと〈1968年〉で活動した若者たちとのあいだに思想的交流や影響関係があったという事実は知らない。例えば、絓秀美編著の『1968』 [4] やアラン・バディウなどによる『1968年の世界史 [5] などにもそのような記述はなかったように思う。〈1968年〉の若者たちもローザの子供たちも時代のもつ必然に鼓舞されてそれぞれ動き出したのであろう。
 ニーチェの「神は死んだ」ではないけれども、〈1968年〉前後は、「マルクス主義」が信仰の段階を脱した時代と言っていいのではなかろうか。ポストモダニズムふうの比喩としていえば、それは「大きな物語」の死でもあった。

 本書は、ハンナ・アーレントのきわめて高いローザ評価を記述する序章に始まり、ローザの帝国主義論と資本主義の不可能性を論じ、「正統派マルクス主義」(レーニン)と自由主義世界(ロストウ)の対照的な国家の発展段階論を紹介する前段的な章から、ローザの子供たちのそれぞれの仕事を論じる章に続き、最後に「資本主義の終わりの始まり」という論考を収めている。
 資本の「本源的蓄積」を資本主義の発展段階の初期に位置付けたマルクスに対して、ルクセンブルグは資本主義の成熟段階となっても非資本主義的な地域や国を巻き込んで「資本蓄積」は続いていると主張した。マルクスは一国レベルでの資本主義の発展過程を論じたのに対して、ルクセンブルグは国境を越えて展開する資本主義の現実を「資本主義世界経済」として描いて見せたのである。こうした主張はマルクス主義に反するとして「正統派マルクス主義」者から批判されたが、著者は『経済学批判』の記述からマルクス自身も「世界市場」の構造と意味を明らかにする意図を持っていたことを指摘している。果たされなかったマルクスの理論的仕事の領域にルクセンブルグは踏み込んでいたのだと、著者は暗に指摘しているようである。
 ルクセンブルグは、「資本主義世界経済」の構造、資本蓄積のプロセスを次のように述べている。

資本主義的生産は、初めから、その運動形態および運動法則において、生産諸力の宝庫としての地球全体を計算にいれている。搾取の目的で生産諸力を取得しようとする熱望からして、資本は全世界を捜しまわり、地球のすみずみから生産手段を調達し、あらゆる文化段階および社会形態からこれを強奪し、または獲得する。〔……〕実現された剰余価値を生産的に使用するためには、資本が、その生産手段を量的にも質的にも無制限に選択しうるために、たえずますます全地球を自由にしうることが必要である。(ルクセンブルグ『資本蓄積論 下』(青木文庫) p.420) (p. 34)

資本主義と単純商品経済との闘争の一般的結果は、資本が自然経済にかえて商品経済をおいたのち、資本みずからが単純商品経済にとってかわるということである。だからもし資本主義が非資本主義的な構造によって生活しているとすれば、資本主義は、より厳密に云えば、これらの構造の没落によって生活しているのであり、また、もし資本主義が蓄積のために非資本主義的環境を無条件的に必要とするとすれば、資本主義は、それを犠牲としそれを吸収することによって蓄積が行われる培養上として、それを必要とする。歴史的にとらえれば、資本蓄積は、資本主義的生産様式と先資本主義的生産様式とのあいだに行われる質料変換の過程である。先資本主義的生産様式なしには資本の蓄積は行われえないが、しかし蓄積なるものは、この面から考えれば、先資本主義的生産様式の咀嚼であり消化である。したがって資本蓄積は、非資本主義的構造が資本蓄積と併存しえないと同じく、非資本主義的構造なしには実存しえない。非資本主義的構造のたえざる前進的粉砕のうちにこそ、資本蓄積の定在条件が与えられているのである。 (同上、p. 500) (pp. 37-8)

資本主義は、普及力をもった最初の経済形態であり、世界に拡がって他のすべての経済形態を駆逐する傾向をもった、他の経済形態の併存を許さない、一形態である。だが同時にそれは、独りでは、その環境およびその培養土としての他の経済形態なしには、実存しえない最初の形態である。すなわちそれは、世界形態たろうとする経口をもつと同時に、その内部的不可能性のゆえに生産の世界形態たりえない最初の形態である。それは、それ自身において一個の生きた歴史的矛盾であり、その蓄積運動は、矛盾の表現であり、矛盾のたえざる解決であると同時に強大化である。ある特定の発展高度に達すれば、この矛盾は、社会主義の原理の充用によるほかには解決されえない。(同上、pp. 568-9) (p. 39)

 資本主義は、本質的に矛盾したシステムである。「ルクセンブルクは、このような矛盾そのものが「資本蓄積の定在条件」だと言う」(p. 37)。世界中から資本蓄積を行いつづけ、搾取しつくしてしまえば資本主義は世界システムとして「不可能」になる。
 世界的規模で資本蓄積が続くということは、先進的資本主義国家は非資本主義的な国家・地域・社会を征服的に手中におさめたいという欲望によって「帝国主義」に向かうのである。このルクセンブルグの「帝国主義論」をハンナ・アーレントは高く評価する。

 帝国主義時代の序曲となった深刻な恐慌と不況の時期が産業資本家たちに教えたことは、今後は「剰余価値の実現は第一条件として、資本主義社会以外の購買者の一団を必要とする」ということだった。需要と供給が一国の範囲内で調整され得たのは、資本生義制度が住民のすべての階層を支配するに至らないうち、つまり資本主義制度がその全生産能力を発揮し切らないうちのことだった。資本主義が自国の経済生活・社会生活の全組織に滲透し、住民の全階層が資本主義によって決められた生産と消費のシステムの中に組み込まれてしまったとき初めて、「資本主義的生産は最初から、その運動形態および連動法則において、生産諸力の宝庫としての全地球を計算に入れて」いたこと、そして、停止すれば全体制の崩壊となるほかはない蓄積の運動は、未だ資本主義に組み込まれていない領土、それ故に原料と品市場と労働市場の資本主義化の過程を進め得る新しい領土を絶えず必要とすることが、明らかとなった。(アーレント『全体主義の起源2』(みすず書房)、pp. 43-4) (p. 10)

帝国主義に関する書物のうちでは、ローザ・ルクセンブルクの労作ほどの卓越した歴史感覚に導かれたものはおそらく例がない。彼女は研究を進めるうちにマルクス主義とはその正統派・修正派のいずれを問わず一致し得ない成果に到達したのだが、彼女は身につけたマルクス主義の武器を捨て切れなかったために、彼女の著作は断片の寄せ集めのままに終っている。そして彼女の著作はマルクス主義者もその反対者もどちらも満足させることができなかったため、ほとんど注目を浴びぬままになっている(同上、p. 45) (p. 11)

 もちろん、「ほとんど注目を浴びぬまま」だったのは「正統派マルクス主義」の祖であるレーニンによって否定されたことが最大の原因だが、少数反対派は常に存在するのであって、日本では「正統派」共産党に反旗を翻す学生組織が現れ、新しい党派を形成しつつ〈1968年〉に向かっていったし、「ローザの子供たち」も次々と論文を発表するようになった。私にはなかなか実感がわかないが、ウォーラーステインが「一九六八年革命」と呼んでいることは、革命の思想という点では首肯できる。

一九六八年の世界革命は、地政文化(ジェオカルチャー)に与えた影響という点では、一八四八年の革命に匹敵する役割を果たしたのであった。一九六八年の世界革命は、一八四八年の世界革命がフランス革命の精神の極致と変化をあらわしていたのとちょうど同じようにロシア革命の精神の極致と変化との劇的な結合をあらわしていた。しかしそれは反対の方向への変化であった。というのも、一八四八年の世界革命が世界システムの地政文化の基礎を補強するためにリベラリズムを配置したのに対して、一九六八年の世界革命はまさにリベラリズムのその役割を廃棄したからである。
 一例をあげれば、一九六八年の反乱への参加者は、レーニン主義者が社会民主主義者に批判的であったのと同様に、レーニン主義者がリベラリズムの化身となってしまったことに批判的であった。さらにかれらは、地政文化におけるリベラリズムの支配的な役割を明らかにその標的としてとりあげ、あらゆる方法で無理にでもリベラリズムをこの立場から引き離そうと努めた。一九六八年の革命は、一八四八年の革命とちょうど同じように、二つの時間枠によって、つまり直接的な出来事とその結果および長期間の影響という時間枠で分析されるべきである。  [6]

 〈1968年〉が真に世界革命であったかどうかを議論できるほど私には世界を俯瞰する力はないが、いずれにせよ、〈1968年〉を前後して「正統派マルクス主義」を明確に批判しながら(とりもなさず、ルクセンブルグの仕事を高く評価しながら)ローザの子供たちの仕事は展開していくのである。
 当時、東西世界のそれぞれに対照的な一国発展段階論があって、どちらも大いに喧伝されていた。「一国社会主義」論を唱えるソ連マルクス主義、つまりは「正統派マルクス主義」は、すべての国は例外なく「原始家父長制」、「奴隷制」、「農奴制」、「資本主義」、「社会主義」と5段階の発展過程を進むと主張した。一方、「西側」自由主義経済圏では、アメリカの経済学者ジャック・ロストウが提示した「近代化論」としての発展段階論が唱えられていた。それは、「伝統的社会」、「離陸(ティク・オフ)のための先行条件期(=中央集権国家)」、「離陸(ティク・オフ)(=資本主義の確立)」、「成熟への前進期(=資本主義が支配的な社会)」、「高度大衆消費社会」という概念規定のきわめて曖昧な5段階発展論で、アメリカ社会が最終発展段階に相当すると主張する。

 現在からみれば、どちらの発展段階論もあまりにも単純すぎるのだが、社会主義圏の崩壊に助けられたとはいえ、概念規定があいまいなゆえに融通無碍に使えるロストウの「近代化論」は未だ命脈を保っている。つまり、アメリカ的社会を国家モデルとする後進資本主義国家があまりにも多いのである。
 しかし、資本主義世界経済のなかですべての国が資本蓄積を行う側になることは不可能である。ローザの子供たちは、資本主義の複雑な世界構造が資本蓄積を行う先進資本主義国家群(中央)と収奪を受ける後進資本主義または非資本主義国家群(周辺)とから構成されるとして理解しようとする。その先達は、アルゼンチンの経済学者ラウル・プレビッシュである。

 プレビッシュは一九六三年に『ラテンアメリカの動態的発展政策を目指して』という報告書を発表している。そこで彼が提示したのが、世界経済を「中心部centre」と「周辺部periphery」との不均等な関係として見る認識だつた。彼はこう述べている。
  〔中略〕
抑制された言い方だが、これは明確な近代化論批判である。「中心部」の「間違った主張」をそのまま「周辺部」に適用することはできない。「現実の事態」そのものが違うからだ。彼は「中心部諸国と周辺部諸国の差異」について、次のように指摘する。近代化論が主張するような、自由貿易を通した「技術進歩と技術移転による生産性の増加」という「議論は、すべての国が発展の同じ段階に到達した世界においては認められるかもしれない。しかし、大中心部〔the great centres〕と周辺部諸国〔peripheral countries〕との間に現在明白に存在する不均衡が依然として存続する間は、そうではない」。  (pp. 80-1)

 「周辺部」は、一次産品輸出の伸び悩みと「中心部」からの工業製品の輸入超過という経済的な不均衡、「経済的従属関係」に置かれている。

これはルクセンブルクが「資本主義世界経済」における「経済的従属関係」の第三の型として分類したものに近い。第一章第4節で見たように、ルクセンブルクは、そのような輸入超過の差額を支払うためにトルコや中国がヨーロッパの銀行から借人をし、その利子の返済を通して「富裕な大資本家的な西ヨーロッパとそれによって吸い取られる貧しくて遅れている東洋とのあいだの独特な関係」(ルクセンブルグ『経済学入門』(岩波文庫)p. 60)が形成されることを指摘していた。これとほぼ同じ関係がラテンアメリカにも存在する、ということである。 (p. 83)

 プレビッシュの問題提起を受けたアンドレ・グンダー・フランクは「近代化論」ばかりではなく、正統派マルクス主義の段階発展論も強く批判して、「中枢諸国の「経済発展」と周辺衛星諸国の「低開発」の持続は、発展段階の違いなどではなく、同時に進行する相互規定的な過程だ」(p. 89) と主張した。

経済発展と低開発は同じコインの背中合わせの両面である。両者は世界資本主義システム〔the world capitalist system〕の内部矛盾の必然的結果であり現代的表現である。
 〔中略〕
この中枢—周辺衛星部という矛盾した関係は、最上層の中枢国の世界的中心地から、あらゆる国家、地方、地域、企業の中心地を通じて、連鎖状をなして世界資本主義システム全体を貫いている。(フランク『世界資本主義と低開発』(柘植書房)p. 36) 。 (pp. 89-90)

フランクによれば、世界資本主義システムの「中枢—周辺衛星」関係を前提とする限り、周辺衛星部諸国の自立的発展はありえない。周辺衛星部に位置する国家自体がさらに国内の中心地と国内の周辺衛星部に枝分かれし、国内中心地は、国外の世界的中枢に従属しながら国内周辺衛星部の経済余剰を収奪する、という複雑な利害対立が重層的に積み重ねられているからである。 (p. 90)

 中枢—周辺衛星部の資本蓄積、搾取が「不等価交換」という仕組みで行われることを明らかにしたのがサミール・アミンである。プレビッシュやフランクが中南米の周辺国家の分析から論を立てたのに対して、エジプトとフランスの血を受け継ぐアミンは、エジプト、フランス、セネガルで仕事をした。

彼は「低開発」社会の「構造上の特徴」として「(1) 部門間生産の不均等、(2) 経済システムの非接合性、(3) 外部からの支配」 (アミン『世界的規模における資本蓄積』①(柘植書房)p. 33) の三点を挙げ、それを次のように具体的に説明している。
 周辺部には、一定の軽工業部門を有するような「低開発諸国のなかでもっとも発展した国」も存在するが、そのような国でさえも「基礎産業をもたないため、最終消費財を供給するこれら軽工業は、設備と半製品を供給する外部世界にまったく依存している」。したがって、工業化はそれ自体では国民経済の「「統合」効果をもたない」。そして、このような「非接合性」は、「外国経済につぎ足された経済の第三次産業部門(輸送金融業)にも同じようにあてはまる」(同上、p. 35)
 このような構造上の特徴から考えれば、「「低開発諸国」を「開発諸国」の発展途上の初期段階と同一視する」 (同上①、p. 24)  近代化論が間違っていることは明らかである。したがって、発展の「遅れ」を意味する「低開発」や、「第一世界」や「第二世界」との関係を隠してしまう「第三世界」などの「間違った概念」は放棄されるべきであり、周辺部に位置して資本主義的中心部に支配される独自の社会構成体、を意味する「周辺資本主義構成体という概念」 (同上①、p. 41) に置き換えられるべきなのである。 (pp.110-1)

 現実の周辺諸国は、「近代化論」やロシア・マルクス主義の段階発展論のどれにも該当しないのは明白で、「周辺資本主義構成体」と呼ぶべき存在形態であるとアミンは主張する。
 アミンは、中枢と周辺部の「不等価交換」は「賃金労働者の国際的な非可動性」によって実現されているとする。そのうえで、周辺から中枢への移民は賃金労働者の可動や賃金の平均化を意味するわけではなく、「周辺部から中心部への隠れた価値移転」にすぎない (p. 125) と考えるのである。

 アミンはこのように、周辺部から中心部への「価値の移転」と並行して、「大陸間移民が開く世界労働市場」が萌芽的に形成されつつあると見ていた。ただし、それによって生じるのは、中心部と周辺部との賃金格差が縮小して均衡価格が成立することではない。むしろ逆に、「開発世界に移民した労働者の不平等な地位の現実的経験がきわめて広範に示しているように、文化的・民族的差別が資本によって開拓されうる」ことである。つまり、「究極において労働力のこの大量移動は、今日の外部植民地化と反対に,「国内植民地化」を創出する危険がある」。中心部に定着した移民労働者は、名前や肌の色、言葉や宗教によって差別され、中心部の社会生活に統合されることなく、低賃金労働を割り当てられる。それは、「不等価交換」が「「開発」社会に内在化」することにほかならない (同上③、p. 266) (p. 126)

 ルクセンブルグは資本主義の世界性を「資本主義世界経済」と名付けたが、イマニュエル・ウォーラーステインは近代世界システムを資本主義の世界システムと捉え、さらに精緻にその構造を分析するために国家群を3層構造として捉える。

このように、「近代世界システム」は単一の資本主義「世界経済」と複数の国家からなるのだが、「世界経済」(世界的規模での分業体制)の中での各地域の経済的位置づけそのものが、その地域に成立する国家の構造を変化させることになる。ウォーラースティンはそれをプレビッシュ以来の「中心部/周辺部」という二分法ではなく、「中核core/半周辺semi-periphery/周辺periphery」の三つに区分した。 (pp. 142-3)

 アミンは中核国家が移民労働者を「国内植民地化」政策によって不等価交換の内在化を果たすとしたが、ウォーラーステインはそれを「労働力のエスニック化」と名付ける。そのようなエスニック集団も階級も資本主義世界システムが必然的にもたらす階層分化であるとして、人種差別も性差別も資本主義における「労働の階層化」だと断言する。

史的システムとしての資本主義は、以前にはまったく存在しなかった差別(oppressive humiliation)のためのイデオロギー装置を発展させた。すなわち、今日いうところの性差別と人種差別にかんするイデオロギーの枠組が成立したのである。(ウォーラーステイン『史的システムとしての資本主義』(岩波現代選書)p. 102)  (p. 151)

人種差別とは、資本主義というひとつの経済構造のなかで、労働者のいろいろな集団が相互に関係をもたざるをえなくなってゆく場合の、その関係のあり方そのもののことであった。要するに人種差別とは、労働者の階層化ときわめて不公平な分配とを正当化するためのイデオロギー装置であった。(同上、p. 108)  (p. 150)

 したがって、大戦後、国連が人種差別や性差別を単なる倫理問題として積極的に啓発運動を進めてもいっこうに状況が進展しないことは、現在の世界システムが資本主義であることに抜きがたく由来する。ただし、著者は、エティエンヌ・バリバールの批判を取り上げて、人種主義はナショナリズムと相俟って支配階級と労働者とに共通なイデオロギーとして形成される側面があることを示唆している。バリバールとウォーラーステインには『人権・国民・階級』という共著があって、この辺りの議論が展開されているらしい。
 ウォーラーステインは、イデオロギーとしての性差別について『ユートピスティクス』(著者は参照していないが)で次のように述べている。

 性差別主義もまた、包摂と排除という構図の一部分をなしていた。性差別主義が明白なイデオロギーとしてもたらしたものは、主婦(ハウスワイフ)という概念を創造し、それを聖化したことであった。女性はつねに働いてきたが、たいていの世帯は歴史的には家父長制であった。しかし一九世紀に生じたことは新しいことであった。それは所得を生み出す労働として任意に規定されるようなものから女性を締め出す重大な試みを意味していた。主婦は単一の賃金に依存する家族内で、男性の稼ぎ手と協力すべきものとされた。その結果、女性がより多く、あるいはより激しく働くようになったのではなく、その労働の価値が組織的に切り下げられたのであった。 [7]

 アントニオ・ネグリが逮捕、起訴されることになった「アウトノミア運動」に関与していたジョヴァンニ・アリギは、1969年までローデシアとタンザニアで研究をしていた。
 彼の理論で特徴的な点は、資本主義の歴史をある種の循環として捉えたことである。

 この本〔『長い二十世紀』〕でアリギがまず論じたのは、資本主義世界システムの歴史の中で反復される「蓄積のシステム的サイクルsystemic cycle of accumulation」という現象だった。この概念はアリギ独自のものである。彼によれば、「世界システムとしての歴史的資本主義の反復的パターン」は、「生産拡大期」と「金融再生・拡大期」が交互に生じることにある。
 〔中略〕
 アリギによれば、資本主義世界システムの歴史には「四つの蓄積システム・サイクル」が存在するが、「それぞれのサイクルで、世界的規模の資本蓄積過程の中心的主体と構造が基本的に一貫している」という。「四つのサイクル」とは、一五世紀のオランダ独立戦争から一七世紀前半の三〇年戦争までの「ジェノヴァ・サイクル」、一六世紀後半から一九世紀初頭のナポレオン戦争期までの「オランダ・サイクル」、一八世紀後半から二〇世紀初頭の第一次世界大戦までの「イギリス・サイクル」、そして一九世紀後半から二〇世紀末の金融拡大局面に至るまでの「アメリカ・サイクル」である(アリギ『長い二十世紀』(作品社)p. 36) (pp. 171-2)

 各サイクルにおいては資本主義世界システムにおけるヘゲモニー国家が同時に世界経済を主導する立場に立つが、ジェノヴァ・サイクルだけは都市国家ジェノヴァが金融システムを支配しながら政治的(領土的)ヘゲモニーはハプスブルグ朝スペイン帝国が握るという変則システムだった。
 現在の「アメリカ・サイクル」はすでに衰退に向かっているとアリギは考える。

 アリギは、一九九四年には、アメリカが「武力、欺瞞、説得によって、新たな中心地〔東アジア〕に蓄積されている余剰資本を収奪し、そうすることで、真に地球的な世界帝国を形成して、資本主義の歴史に終止符を打つかもしれない」 (Arrighi [2010] p. 537) と述べていた。しかし、二〇〇七年にはその可能性がほぼなくなったと判断したことになる。
 アリギによれば、アメリカのへゲモニーの衰退が始まるきっかけは、一九六〇年代から本格化し一九七五年に敗北で終わったヴェトナム戦争だった。「その結果、アメリカはグローバルな警察官としての政治的信用をほとんど失い、そして冷戦政策が抑制していたナショナリスト革命勢力と社会革命勢力を大胆にさせた。軍事機構の政治的な信用の大半と同時に、アメリカは世界の貨幣システムのコントロールもまた失った」 (Arrighi [2007] p. 221)。アメリカはヴエトナム戦争中の一九七一年に金とドルとの交換を停止し、各国通货の為替レートは変動相場制に移行するが、一九七〇年代のドルの急速な下落は、北アメリカが、グローバル政治経済のなかでの中心的位置を維持する国家的能力を、相対的かつ絶対的に失いつつあることの現れ」 (ibid. p. 203) に移行するが、一九七〇年代のドルの急速な下落は、北アメリカが、グローバル政治経済のなかでの中心的位置を維持する国家的能力を、相対的かつ絶対的に失いつつあることの現れ」 (ibid. p. 286) だった (pp. 182-3)

 アメリカのへゲモニー喪失過程として、アリギが最も重視しているのは、アメリカがもはや独力では戦争遂行の費用を調達できなくなったことである。すでに一九九一年の湾岸戦争の際に、ブッシュ政権はサウジアラビア、クウェート、アラブ首長国連邦、ドイツ、日本などから合計五四一億ドルに上る財政援助を引き出した。特に、日本の拠出金は一三〇億ドルに上った (ibid. p. 363)しかし、イラク戦争中の二〇〇三年一〇月にマドリードで招集された「資金供与国会議」では、集められた援助額は目標額の三六〇億ドルの八分の一以下、アメリカの約束額であった二〇〇億ドルの四分の一よりも相当下回っていた」 (ibid. p. 366)ドイツとサウジァラビアは事実上何も出さず、日本の寄付も一五億ドルにとどまった。 (p. 183)

 資本主義を世界システムとして理解する「ローザの子供たち」は、当然ながら資本主義が発展的に資本蓄積を続けるための資本主義の外部(半周辺国家、周辺国家)を喰い尽くして本源的蓄積が終了すれば、自己否定的に資本主義世界システムも完了せざるを得ない、と考える。
 そして、当然のことながら、彼らの誰一人として、資本主義の崩壊を待つとか、次の世界システムは発展段階として自動的に社会主義となるなどというかつて語られたような能天気なシナリオを口にすることはない。フランクは、中枢国に対する反帝闘争よりラテンアメリカにおける階級闘争が優先すると語る。そうでなければ資本主義低開発が続くだけだとするフランクに対して、フランクと同じくラテンアメリカの従属経済を分析したフェルナンド・エンリケ・カルドーゾは民衆の複雑な階層構造を指摘したうえで変革は容易ではないとしながらも、著書の中で次のような〈希望〉を述べている。

 歴史がたどる具体的な道は、所与のさまざまな条件によって制約されているとはいえ、歴史的に実現可能な目標に向かって行動しようとする人々の大胆さにかかるところが人きい。したがって、将来起こることの道筋を理論的に予測しようと、無益な考えは捨てることにしよう。それは、理論的予測よりも、政治的意思につき動かされた集合的行動にかかっている。構造的には可能性にすぎないことを現実に変えるのは、そうした集合的行動なのである。 (カルドーゾ『ラテンアメリカにおける従属と発展』(東京外国語大学出版会)p. 268)  (pp. 102-4)

 アミンは、社会主義もまた世界システムとして存在するしかないのであるから個々の社会主義国家というものは形容矛盾だと主張する。

 そのような周辺部の人々にとって、残されている選択肢は、「従属的発展か,それとも、今日の発達諸国に比較して必然的の独創的な自立的発展か」の二者択一しかない。しかも、アミンによれば、「諸文明の不均等発展の法則を改めてみると、周辺部は、資本主義のモデルに追いつくことはできず、それを杜越えることを強いられている」 (アミン『不均等発展』(東洋経済新報社)p. 369)。
 〔中略〕
 こうして、『不均等発展』は次のような課題を設定する。

世界的規模での移行は、周辺部の解放に始まって切り拓かれる。〔……〕諸国家間の不均等という今日の条件の下でたんに低開発の発展ではないような発展は、その置かれている世界的な条件によって、同時に国民的〔national〕で、民衆的=民主主義的〔populaire-démocratique〕で、社会主義的なものとなろう。資本主義はすでに事実上地球的規模のものとなり、この枠内で生産諸関係を組織している以上、社会主義は、全地球規模でしか構想されえない。それゆえ、世界的な社会主義的目標と、依然として国民的な移行の枠組みとの間に、移行期に特有な一連の矛盾が必然的に派生する。しかし社会主義的意識の熟成および発展という目標が、いかなる段階においてであれ、経済進歩という目標の犠牲にされないかぎりでのみ、ある戦略は、移行の戦略と呼ばれるに値する。(同上、p. 397)  (p. 135)

 ウォーラーステインの認識は、資本主義世界システムはすでに終末期に入っているということだ。しかし、その先には発展段階として約束された世界システムがあるわけではない。

わたしたちは、たとえば二〇五〇年頃に、史的資本主義からある非常に不平等で階層的な新しいシステム(あるいは多様なシステム)を持ったものへと、過渡期から抜け出すかもしれないし、大部分が民主主義的で平等主義的なシステムを持ったものへと抜け出すかもしれない。それは、後者の結果を好む人々が、政治変化に関する意義ある戦略を組み立てる能力があるかどうかにかかっている。 (ウォーラーステイン『アフター・リベラリズム』(藤原書店) p. 372頁)  (p. 164)

 もしわたしたちが次の五〇年間に根本的な歴史的選択をするとすれば、それは何と何の間における選択なのだろうか。明らかに、わたしたちの選択は、あるものがそれ以外のものより決定的に大きな特権を持つような(何らかの基本点において現在のシステムに類似の)システムと、相対的に民主的で平等主義的なシステムとの間においてなされるということである。既存のすべての史的諸システムは、事実上――その程度に差はあっても――今日まで前者の種類のシステムであった。それどころか、現存のシステムは、明らかにその長所と考えられていることのせいで――つまり価値生産の途方もない拡張のせいで――最大の両極化をもたらしたという点で、ことによると最悪のものだと言えるのではなかろうか。多くの、あるいは更に多くの価値が生産されることで、現存のシステムの上部層とそれ以外の層との差異は、――たとえ現在のシステムの上部層が、先行する史的シ/ステムの上部層よりもシステムの全人口のより大きな割合を占めているとしても――それ以外の史的諸システムよりははるかに大きくなり得るし、大きくなってきたのである [8]

 アリギは、現在のヘゲモニー国家であるアメリカに替わって中国がヘゲモニーを執る未来の可能性を論じ、もっとも理想的なシナリオとして「現在の中国政府自体の革命的転換」によって「もはや資本主義的ではない、もっとエコロジー的で民主的な別の世界システム」 (pp. 187-8) へ移行する可能性があるとした。しかし、一方で、中国が現在の国家資本主義的政策を続行して(政策転換に失敗して)世界が経済破綻するシナリオや、アメリカと中国のヘゲモニー争いが第三次世界大戦としての帝国主義戦争に陥ってしまうシナリオで「今度こそ、核兵器保有国同士の熱核戦争によって本当に人類が「焼き尽くされてしまう」かもしれない、という可能性」 (p. 189) もありうるとしている。アリギの語る未来予測のなかで最も期待したい中国の「政策転換」は、現在の中国を見る限りもっとも期待薄のように思える。
 それぞれの世界システムの改革への語り口はきわめて苦渋に満ちているけれども、一方でネグリとハートによるマルチチュードの叛乱というシナリオもある。このシナリオは、かなり楽観的に思えるが、アラブの春やオキュパイ運動などにその兆しが見えるとすれば、必ずしも否定的だと断言する必要もないだろう。

 著者は、「資本主義の終わりの始まり」と題した最終章で、「資本主義世界経済の構造的危機」はすでに始まっており、資本主義世界システムの「終わりの始まり」が実際に始まっていることを論証している。ウォーラーステインの言う「一九六八年世界革命」では世界各国で若者たちの叛乱が同期して発生したように、この「終わりの始まり」の時代に若者ばかりではなく、プロレタリアート、半プロレタリアート、エスニック集団、つまりはマルチチュードが世界各地で同期して一斉に叛乱を起こす契機はありうるだろう。「ありうる」というものの、その具体的なイメージは私にはまだないが………。
 しかし、カルドーゾの言を繰り返せば「将来起こることの道筋を理論的に予測しようと、無益な考えは捨てることにしよう。それは、理論的予測よりも、政治的意思につき動かされた集合的行動にかかっている」ということである。政治的意思に突き動かされたあくなき行動がいずれ有効な集団化を果たし、さらには世界的な集団行動へ発展する契機は必ず存在する(と信ずることにしよう)。
 

[1] ローザ・ルクセンブルグ(大島かおり編・訳)『獄中からの手紙――ゾフィー・リープクネヒトへ』(みすず書房、2011年)p. 52。
[2] ノーム・チョムスキー(鈴木主税訳)『覇権か、生存か――アメリカの世界戦略と人類の未来』(集英社、2004年)。
[3] ナオミ・クライン(幾島幸子、村上裕見子訳)『ショック・ドクトリン』(岩波書店、2011年)
[4] 絓秀美編著『1968』(作品社、2005年)。
[5] アラン・バディウ他『1068年の世界史』(藤原書店、2009年)。 
[6] イマニュエル・ウォーラーステイン(松岡利通訳)『ユートピスティクス――21世紀の歴史的選択』(藤原書店、1999年)pp. 52-3。[7] 同上、p. 44。
[8] 同上、pp. 118-9。



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