かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

〈読書メモ〉 『現代詩文庫87 阿部岩夫詩集』(思潮社、1987年)

2024年08月26日 | 読書

 20年近く前から、読んだ本のなかのフレーズや文章を抜き書きするようになった(抜き書きといってもハンドスキャナーとOCRソフトで取り込むだけである)。抜き書きを始めたそもそものきっかけは、定年退職直後にこれから読む本をそこそこまとめて購入したとき、そのうちの2冊は以前に読んだことがあって、きちんと本棚にならんでいるのを発見した時である。
 興味があって、つまりは読みたくて読んだ本のことをすっかり忘れていたということで、かなりがっかりしてしまった。その時、忘れないためには、読んだ本のメモを取ればいいと思いついたのである。それまでも気に入った詩や短歌などはときどき抜き書きしていたので、それをもう少し広げて丁寧にすればいいと考えた。
 とはいえ、どんな本でも抜き書きをすることにはならない。数ページで閉じてしまう本もあるし、読み終えてもどんな言葉も残らない本もある。読んだことが記憶に残らなくてもいいような本ももちろんある。結局、抜き書きは自分が気に入った本のなかでの気に入った文章やフレーズということになる(もちろん、思想書の類では思想の構成上重要な部分の抜き書きということもあるけれど)。
 抜き書きした言葉は、私の人生の折々のシーンで私の心情をうまく表現してくれるのではないか、という期待もある。あるいは、そういうシーンがこれからの暮らしの中であってほしいという想いもある。ときどきは自分の文章や私信の中で引用もする。
 だから、私の抜き書きのほとんどは「ありうべき情景」、「ありうべき情感」を表現するものに傾いている。そんな抜き書きをしていると、感動したにもかかわらず、一行も抜き書きができなかった本にも出合うことになる。
 その一冊が表題の『阿部岩夫詩集』だった。詩を読む限り、1934年山形に生まれた詩人は、辛い生い立ち、悲劇的な民話のような故郷山形の物語、そして自らの病と獄舎の暮らしを苦しんでいる(私はそう読みこんでいる)。
 例えば「生い立ち」についてはこんなフレーズがある。

顔とかさなって
見えかくれする
向こう側に立っている
父よ
やさしい呪文をとなえながら
巫女がいった
海と陸と出合うあの波のなかに
赤い夜をまとった哨兵の姿が
風景になったまま
自分のなかに還れないでいる
父と母は小さな声で呼びあっている

なにをきているのかえ
赤い夜じゃて
どうして父さんに見えないのかえ
顏をなくしだでなぁ
帰っておくれでないかぇ
死んだ仲間が帰してくれねぇんだ
どうしてかぇ

帰れなくなった
父の表情は凍りつき
唇だけが重く泳いでいる
巫女よ
向こう側の風景に
できるだけ父をかさねて下さい
父が殺した男もかさねて下さい
父を殺した男もかさねて下さい
 「わらの魂」(詩集〈朝の伝説〉)部分 (p. 13)

 例えば、獄舎暮らしはこんなふうに。

十時の点検のあと
金網のなかで運動がはじまる
見知らぬ隣人が
アイヌ語でうたを唄っている
看守たちがどなっている
アイヌの唄をうたってはいけないと
男は不意に
白刃をかまえたように
たちまち狂憤に陷り
衰弱した軀が
まるで弾丸のごとく
破壞力をもって看守のなかに
走りだしたのだ
 「不羈者」(詩集〈不羈者〉)部分 (p. 31)

 例えば、故郷山形の記憶(物語)はこんなふうに。

かき落とされてゆく
反撃の夢の手を
身体のなかで泳がせると
一つひとつの田畑の粒が
暗い七五三掛の地形になって
目じりからこぼれる
身体のなかに
出口の明かりがみえ
形も色も定まらないまま
村の座敷牢が
大きな口をあけて軋る
あれは一九五四年の冬
汚物が布に凍りつき
母の身体はひどく重くなって
病巣のなかで方位を失い
死のなかを浮遊する
 「死の山」(詩集〈月の山〉)部分 (pp. 42-43)

 そして、自分の詩業についてもこう記している。

すべては破片で
文字のない「かたち」に身体は
かさなりあわさって病み
詩が最後まで書きためらっている領域
完全な幽霊 <天皇〉の
片足を引き抜こうとすると
一方の足が吸い込まれてしまうのだ

(中略)

藤井貞和よ
殺傷力のある
日本の織り詩はどこにあるのか
おれは夢に耐えきれずに
失神を繰り返しながら完全な死体に近づく
夜(25日)を渡る身体の言葉に
『月の山』のミイラを再び殺し
夢遊病者のように疾走する
 「かたちもなく、暦に」(詩集〈織詩・十月十日、少女が〉)部分 (pp. 108-109)

 引用もしないで読み終えた後、この詩集を一週間ほど手元から離すことができずにうろたえていた。結局、詩集のなかから上の詩句を選び出して、この一文を書くことで蹴りをつけることにした。
 そんな本もある。



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〈読書メモ〉 細見和之『現代思想の冒険者たち15 「アドルノ――非同一性の哲学」』(講談社、1996年)

2024年08月23日 | 読書

 そんなに新しい本ではないが『現代思想の源流』(講談社、2003年)というマルクス、ニーチェ、フロイト、フッサールの4人の思想を解説している本を見つけて読んだ。『現代思想の源流』は、30巻に及ぶ「現代思想の冒険者たち」というシリーズを導く第0巻となっていて、結局、シリーズ30巻のうち12巻を読むことになった。
 そのうちの一冊が第15巻の『アドルノ』だった。読み終えた12巻のなかには読み進むのがむずかしかったり、なかなか理解しにくかったりする本もあったが、細見和幸著のこの本は、圧倒的に読みやすく、快適に読み終えることができた。文章のリズムが、私にはとても受け入れやすかったのである。論理の展開の間合い、喚起される情感の時間発展が心地いいのである。
 「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」という言葉が様々な人、場所で引用されていて、アドルノという名前はずっと見知っていたが、アドルノの本を読んだ記憶がない(フランクフルト学派の本はあまり読んでいない)。当然ながら、私の興味は「アドルノとアウシュヴィッツ」ということになる。
 そういう私の興味に応えるように「プロローグ」で語られるのは、半世紀以上も前のフォークソング全盛時に流行り、小学校での音楽でも取り上げられてきた「ドナドナ」という歌に関する著者自身の若いときのエピソードである。

あの陰鬱(いんうつ)な印象深い旋律がユダヤ人の歌で、惹(ひ)かれてゆく「仔牛」がユダヤのひとびとの宿命の暗喩であると知ったときの衝撃――。だからいまアドルノをはじめユダヤ系の思想に興味をもっているのだと言えばできすぎた話になるが、あのときの衝搫がぼくのなかにいまなおくっきりと刻みつけられているのはたしかである。(p. 13)

ぼくらが意味不明の囃しことばのように口ずさんでいた「ドナドナ、ドーナ、ドーナ……」の部分は、ドイツ語訳によれば「わたしの神よ、わたしの神よ」という神への呼びかけだったのである。そしてこの歌に付されている短い解説によると、作者はイツハク・カツェネルソン。かれは一八八六年に生まれ、ポーランドのウッジのユダヤ人学校の教師を務めるとともに、多くの歌や戯曲を書き、ユダヤ人の闘争団体とも密接な関係にあった。一九四二年に妻とふたりの息子がアゥシュヴィッツへ「強制移住」させられ、かれはその印象をこの歌に託した。その後カツェネルソン自身も「強制移住」させられ、妻子と同様に四四年にアゥシュヴィッツで死亡した、とある。(p. 16)

だが、決定的に重要なのは、あの「ドナドナ」というわれわれにとってとても馴染み深い歌が、まぎれもなくユダヤ人にたいするポグロム(民族虐待)を歌ったユダヤ人の歌にほかならない、という点である。そして、アドルノもまたユダヤ系の哲学者であるといった問題を遥かに越えて、この歌とわれわれの関係のうちには、きわめてアドルノ的なテーマがぐっと凝縮された姿で存在していると、ぼくにはおもえるのだ。(pp. 16-17)

 そして、プロローグで「ドナドナ」のエピソードで始まったこの本の最終章は、次のような文章で終わるのである。見事である、としか言いようがない。

 最後に「ドナドナ」の旋律をもう一度思い起こそう。あのとき幼いぼくたちは、ぼくたちの耳と身体にあの旋律のもつ痛みの「分有」をすでに刻印されていたのではないだろうか。おそらくアドルノが考える「経験」も、本来そのような場面でこそ生じるのだ。
 ぼくらは他者の痛みから単純に切り離されているのではない。ぼくらの五感は常にすでに、むしろ否応なく他者の痛みの「分有」へと開かれている、と言うべきなのだ。ぼくらの身体とその記憶には、すでに多くの他者がすまわっている。その意味で、ぼくら自身がすでに無数の「他者」なのだ。ぼくが「非同一的な主体」と呼んだものも、最終的にはそのようなイメージに帰着するようだ。この「他者」の記憶を、ぼくらの五感と思考のすべてをあげて解き放ってゆくこと、それこそが、ぼくらがぼくら自身の新たな思考と経験にむけて踏み出してゆくための、第1歩であるにちがいない。 (pp. 286-287)

 アドルノには『啓蒙の弁証法』(ホルクハイマーとの共著)と『否定弁証法』という大部の著作もあって、これから読むべき本と思いなして、その古本を見つけて積み上げてある(つまり未読である)だけなので、このメモは「アドルノとアウシュヴィッツ」という関心だけにとどめておきたい。
 「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」というアドルノの言葉は当然のように詩人の反撃を受ける。

 人間の外部から人間に襲いかかってくる自然の猛威なら何とか対策をたて、できるかぎりの防御を試みることができる。だが、そういう人間の知それ自体が、その内部から「現実の地獄」を作り出してしまったあとでは、文字どおりわれわれはなすすべもなく立ち尽くしてしまうほかないのだ。
 あの出来事を「理解」しょうと試みること自体、そこに何らかの「意味」を見いだす企てとして、「死者」にたいする冒濱の嫌疑をまぬがれない。収容所における「死」は生き残った者の生にも途方もない「罪科」を負わせるのである。先に触れたようにエンツエンスベルガーは、われわれが生き延びようと欲するならアドルノの命題は反駁されねばならない、と果敢に説いたのだが、アドルノはそれにたいしてここではこう応答している。

永遠につづく苦悩には、拷問にあっている者に泣き叫ぶ権利があるのと同じだけの表現への権利はある。そこからすれば、アウシュヴィッツのあとではもはや詩を書くことはできない、というのは誤りかもしれない。だがもっと非文化的な問い、すなわち、アウシュヴィッツのあとで生きてゆくことができるのか、ましてや偶然生き延びはしたが殺されていてもおかしくなかったにちがいない人間がアウシュヴィッツのあとで生きてゆくことが許されるのか、という問いは誤りではない。そういった人間が何とか生き延びてゆくためには、冷酷さが、すなわちそれなくしてはそもそもアウシュヴィッツがありえなかったかもしれない市民的主観性の根本原理が、必要とされるのだ。これは殺戮をまぬがれた者につきまとう激烈な罪科である。その報いとして彼はさまざまな悪夢に襲われる。自分はもう生きているのではなく一九四四年にガス室で殺されたのではないか、それ以降の自分の生活はすべて想像のなかで、つまり二十年前に殺戮された者の狂った願望から流れ出たもののなかで営まれたにすぎなかったのではないか、と。(「アウシュヴィッツのあとで」)

 このくだりはさながら、自らアウシュヴィッツの「生き残り」として声なき死者たちの証言のみを自身の創作上の使命としてきた作家、エリ・ヴィーゼルの小説の一節を髣髴とさせる。ヴィーゼルの小説『昼』の主人公「ぼく」は語っている。「ぼくは自分が死者だと思い込んでいた。ぼくは食べ、飲み、涙を流すことができなかった。――自分を死者として見ていたからである。ぼくは自分が死者だと思いなしていた。――死んでから見る夢のなかで、自分が生者だと想像している死者だ、と」(村上光彦訳)。(pp. 181-182)

 「アウシュヴィッツのあと」について、アドルノの思考はきわめて厳しいのだが、著者は、ある一文を見つけ出し、アドルノの別の一面を評価していて、読んでいる私にとっても少しならずほっとする箇所だった。

確かにアドルノのように、近代的な市民社会のある種必然的な帰結として「アウシュヴィッツ」を位置づけるかの発想には、極端なものがある。もしもいっさいが「アウシュヴィッツ」に収斂してしまうのなら、およそそれについて語ること、考えることすら無意味なこととおもえてくる。だがアドルノのことばには、「アウシュヴィッツ」にかかわってほとんど暗黒のテーゼを紡ぎながらも、それを絶えず反転させるイメージも差し挟まれている。たとえばアドルノは、同じ「形而上学についての省察」の「ニヒリズム」と題された節でこう語っている。

強制収容所におかれている人間にとっては生まれてこなかった方がよかったのではないか、うまく脱出することができた人間が何かの拍子にそう判断することがあるかもしれない。だがにもかかわらず、きらきら輝く瞳を前にすれば、あるいは犬がかすかにしつぼを振っているのを前にしただけでも――その犬はついさっきごちそうを与えられたのだが、もうそれを忘れているのだ――無の理想は消え失せる。

 ぼくは何よりもこういう一節に示されている、アドルノの思想のもつ大きな振り幅に惹かれる。「アウシュヴィッツ」という徹底した非日常の時空によって、日常的な感覚のすべてを決して塗りこめてしまわないこと。かといって、日常性に居直ることによって「アウシュヴィッツ」という非日常を自分とは無縁なものとして視野の外へと消し去ってしまわないこと。むしろ、この日常と非日常の振幅のなかに、自分の思想を絶えずおこうと試みること。それはまた、深刻きわまりない思索に耽りながらも、そういう思索それ自体に冷や水を浴びせ相対化する契機を、つねに意識的に持ち込むことでもある。そういう態度こそは、たとえばフッサールやハイデガーの求心的で黙想的な思考スタイルにいちばん欠けているものではないだろうか。 (pp. 185-186)

 ドイツ思想が専攻の研究者である著者の、研究対象であるアドルノに対する愛情のような感覚をそこかしこに感じられた、というのが読後感の一つである。
 この本によって、『啓蒙の弁証法』と『否定弁証法』を読むことにしたが、著者が詩人であることが分かって(詩が好きなのに恥ずかしながら細見和之という詩人を知らなかったのである)、その詩集を三冊見つけてこれも積んである。それから著者の編著で出版されている『金時鍾コレクション』(藤原書店)全12巻のうち。これは第5巻まで読み終えた。
 この本一冊を読むことで、読むべき本が一気に見つかり、当分は読書には困らない。



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〈読書メモ〉 『現代詩文庫17 安西均詩集』(思潮社、1969年)

2024年08月12日 | 読書

 入院中のベッドの中でハナ・アーレントの『全体主義の起源』(全3巻)を読み始めた。ずっと以前に読んだときには図書館からの借用本だったが、今回は古本を購入して読んでいる。再読である。
 入院治療中というのは読書暮らしには最適で(それ以外にはあまりやることがない)、順調に読書が進み、まもなく第2巻の半分くらいのところになったころ、無性に詩が読みたくなった。その病院には入院患者が使えるWiFiがあり、許可をもらえばパソコンも使えるので、さっそくネットで古本を探した。思潮社の『現代詩文庫』というシリーズから7冊ほどの詩集を注文した(現代詩文庫シリーズは値段が手ごろでたくさんの詩人の詩が読めるので、若いころ、ずいぶんと助けられた)。
 ネットで注文した古本のなかに「安西均詩集」も含まれていた。「安西均」の名前はよく知っている。その詩を若いころには絶対に読んでいるはずだ、という確信があるのだけれど、どんな詩を書いていた詩人なのか、まったく記憶がない。記憶がない以上、安西均は未知の詩人で、新しい詩人とその詩に出合えることになると、喜んで読み始めたのである。

 ページを開いた最初の詩は、「ぼくはふと町の片ほとりで逢ふた/雨の中を洋傘(傘)もささずに立ちつくしてゐる/ポウル・マリイ・ヴェルレエヌ」とういう「ヴェルレエヌと雨」の詩。つぎは「フランソワ・ヴィヨンと雪」、その次の詩は「ヒマワリとヴアァン・ゴッホ」、次は「西行と田舎(プロヴァンス)」、次は「人麿と月」というふうに続くのである。
 一読して「安西均は〈知〉の詩人なのだ」という思いに駆られる。まず、ある〈知〉があり、そこからイメージされる語句を美しく配置する、そういう詩のイメージである。
 幼いころから詩が好きで、児童詩も含めてたくさんの詩を読んできた(つもりである)。そうして詩人という人々は〈知〉に恵まれた人たちだと漠然と思いこみ、憧れと敬愛の念を抱き続けてきた。
 とはいえ、私は抒情の詩が好きなのである。〈知〉と〈論理〉に裏打ちされた抒情、強いて語れば、そんな詩を待ち望んでいる。ただ、かつて若い人たちが詩を「ポエム」と呼んでいわば軽蔑すべきもののように話すのを聞いて驚いたことがある。たしかに、抒情詩と呼ばれるもののなかには情緒だけが漂っているような詩がたくさんあって、そういう詩が「ポエム」などとくくられるのは仕方がないという気もする。かつて、小野十三郎が「日本の戦中の精神主義(大和魂!)と詠嘆的抒情のおぞましい結託ぶりへの批判」(細見和之)を行ったのは理のあることであった。

 さて、この安西均詩集には〈知〉が、〈知〉の詩が満ちているが、「ひかりの塩」という詩には目を見張った。

木の葉を洩れる月の光を潜り抜けると
ぼくは飛白(かすり)の着物をきた少年だった

患っている弟のために隣り村の医者へ行き
薬瓶のなかにも月光色の水を詰めてもらう

古い街道の杉並木にさしかかると思わず足がうわずって
海を渡るキリストみたいに「勇気」をよびよせるのだった

………

いまでもぼくは薬瓶をさげて月光の中を急ぐ夢を見る
どこへ誰のもとへ――弟は戦争で死んでしまったのに 

夢の中でぼくはいつも眩く「夜がこんなに明るいのは
あの夏の光のように烈しい命が地の底で塩になっている
 からだ」と。p. 32)

 子供時代、弟のための薬を求めて隣村まで出かける少年(詩人)が描かれ、どのような大きな抒情が紡がれるのかと、どきどきしながら読み進んだのだが、最後の2行は、隠れもなき〈知〉が溢れてしまったようだ。


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原発を詠む(78)――朝日歌壇・俳壇から(2022年8月21日~2022年9月4日)

2022年09月04日 | 読書

朝日新聞への投稿短歌・俳句で「原発」、「原爆」に関連して詠まれたものを抜き書きした。

 

あれほどの火傷なりせば欲(ほ)りし水あげてもよかったといま医師は言う
       (アメリカ)大竹幾久子  (8/21 永田和宏選)

家建てて帰還すと決めいわきから浪江町の更地の除草に通う
       (いわき市)守岡和之  (8/21 馬場あき子選)

父遥か父の日遥か二眼レフもちて被爆地に佇(た)つ父の陽炎
       (東京都)鈴木俶枝  (8/28 馬場あき子選)

かさぶたに代はりて樹皮は傷口を厚く覆へり被爆のアオギリ
       (神戸市)鈴木みゑ子  (8/28 馬場あき子選)

処理水の海洋放出ふくしまの沖の魚らは何も知らない
       (福島市)美原凍子  (9/4 永田和宏選)

 

原爆忌イマジンせよと歌ひけり
       (東京都)片岡マサ   (8/21 長谷川櫂選)

原爆忌この世に戦火ある限り
       (横浜市)飯島幹也   (8/21 長谷川櫂選)

原爆忌今年も蝉(せみ)の鎮魂歌
       (流山市)渡部和秋   (8/21 大串章選)

被爆樹や枝張り夏の木となりて
       (大村市)小谷一夫   (8/21 大串章選)

地獄絵を開く習ひや原爆忌
       (東京都)片岡マサ   (8/28 長谷川櫂選)

原爆忌マスク外して空気吸ひ
       (千葉市)宮城治   (9/4 大串章選)

語り部の間合ひは深く原爆忌
       (西東京市)岡崎実   (9/4 大串章選)

繰返す昔話や原爆忌
       (柏市)藤嶋努   (9/4 大串章選)

在米のヒバクシャ我に原爆忌
       (アメリカ)大竹幾久子   (9/4 小林貴子選)

献水てふ言葉沁(し)み入る長崎忌
       (名古屋市)神津早苗   (9/4 小林貴子選)

巨大なるフラスコなりき広島忌
       (横浜市)我妻幸男   (9/4 長谷川櫂選)

 

(写真と記事は関係ありません)

 

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原発を詠む(66)――朝日歌壇・俳壇から( 2020年12月6日~2021年2月21日)

2021年02月22日 | 読書

朝日新聞への投稿短歌・俳句で「原発」、「原爆」に関連して詠まれたものを抜き書きした。

 

(お)らの海さ捨(なげ)ることしか考えねえ福島原発溜る汚染水
       (所沢市)風谷螢  (12/6 馬場あき子選)

逃げ場なき島から見つむ再稼働容認派の長選ばれゆくを
       (佐渡市)藍原秋子  (12/6 佐々木幸綱選)

税金と電気代にて莫大な原発事故の経費を賄う
       (三郷市)木村義煕  (12/6高野公彦選)

原発と石炭火力の我が町の山は針山鉄塔並ぶ
       (敦賀市)小島順一  (12/13 佐々木幸綱選)

原発の被災地に住む柳美里氏をおらほうの作家と小高の人言う
       (下野市)若島安子  (1/18 高野公彦選)

小惑星の砂持ち帰る技術あれど事故炉の内部探り切れない
       (郡山市)柴崎茂  (1/24 高野公彦選)

白血病癒えぬを嘆かひ息絶えし炉心近くに働きし友
       (静岡県)半田豊  (1/24 馬場あき子選)

炉の釜の上ぶた裏に付着する京(けい)のレベルの放射セシウム
       (郡山市)柴崎茂  (1/31 佐々木幸綱選)

唯一の被爆国が加入せぬ核禁条約たくましく発つ
       (安中市)鬼形輝雄  (2/21 馬場あき子選)

 

原発の見ゆる峠や枯木立
       (秋田市)松井憲一  (12/6 大串章選)

原子力十万年の冬に入る
       (福島県伊達市)佐藤茂  (12/20 長谷川櫂選)

 

 

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【書評】廣瀬俊介『風景資本論』(朗文堂、2011年)

2017年05月11日 | 読書

 

 なによりも『風景資本論』という書名に惹かれたのだが、私がことさら〈風景〉に強い関心を持っているというわけではない。山登りが好きで尾根伝いの眺めや林の下道の雰囲気は好きだし、釣り好きで流れの中から見通す谿の景色に見とれることもある。趣味の街歩きでは民家のたたずまいの探索に夢中になることもある。そんなこんなで、惹かれる風景、懐かしい風景はたくさんあるが、それはきっと誰にもあることで、私が格別だとは思えない。
 数年前、仙台市立図書館でたまたま目にした『風景の無意識』 [1] という本を「C・D・フリードリッヒ論」という副題に惹かれて借り出したことがある。それは、崇高な対象としての自然(風景)を描いた画家、フリードリッヒを論じたものだが、ハイデッガーやフロイトを導入部として、ドイツロマン派の絵画、文学、思想を〈風景〉をキーワードとして描きだした読み応えのある論考だった。私自身のドイツロマン派への興味は十代後半で終わっていたと思っていたのだが、優れた風景論としてその風景心理学的な味わいに誘われて一気に読み進めた本である。私にとっての〈風景〉の意味には、そのような面もある。
 これもまたごく最近の偶然なのだが、学生時代にタイムスリップするかのように、ローザ・ルクゼンブルグの資本主義論をなぞる作業を『ローザの子供たち、あるいは資本主義の不可能性』という本を通じてやっていた。ルクセンブルグや彼女の思想を受け継ぐ思想家たちの世界システムとしての資本主義ということを考えていたのだった。マルクス以来の〈資本〉と『風景資本論』で説かれるであろう〈資本〉との異同に興味がわいたのは、偶然ではない。こうして私の〈風景〉と〈資本〉が本書のタイトルで触発されて融合したのである。
 本書を読んでみようと思ったのには、まったく別のきっかけもある。私は、大学を退職してから、いわばボケ防止としてホームページ作成や、SNSを使い始めた。そのSNSを通じて、社会的関心が重なり合うような多くの人たちと知り合うことになった。幾人かの人には実際に会うことこともあるが、ほとんどの人とはネット上だけの知人である。
 会ったことはないが、本書の著者もそのようなネット上の知人で、共通する社会的関心の向こうで著者の職業的専門についてもいくぶんかは窺い知るところもあった。私はその専門性にはまったく無縁だが、〈風景〉、〈資本〉、そして〈知人〉という三つ揃いが私の読書を後押ししたのである。

 本書は、「風景という資本」、「風景資本の構成」、「風景資本の内容確認、管理と充実――飛騨古川を例に」、「実践――風景の修復から進展へ」の四章で構成されている。〈風景〉を〈資本〉とする考えを述べる第一章は、フランスの古都ストラスブール市でなされた都市風景の修復(復活)の物語から始まる。それは、市民の交通手段を車から廃止されていた路面電車の復活や自転車に移行させるさまざまな政策によって遂行され、排気ガスにまみれた市の環境、風景を取り戻すことになった。そのためには、そのような政策を行おうとする市長を選択した市民の政治的な判断を必要とした。そうして、「ストラスブール市民は風景に「投資」を行い、住み続けられる街を手に入れた」(p. 16) のである。
 〈風景〉を標榜しながら都市の環境、景観を導入部としたのは、著者が専門とする「ランドスケイプデザイン」が対象とするもの、著者の〈風景〉についての考えが示唆されている。

風景のデザインとは、単にある土地のかたちを庭園のようにつくり替えることではなく、自然から生まれ出た生物種の一つである人間のつくる社会と自然との関係の調整を必須条件として人間が生活する場をつくること、またはつくり直すことを指す。人間が心身ともに健やかに生きるには、自然と社会の関係を調える努力が欠かせない。だから、それは人間が人間のために行うこの仕事の必須条件となる。ランドスケイプデザインの源も、一九世紀半ばのニューヨークで、悪化した都市環境の改善を訴えた市民運動をきっかけに実現するセントラルパークにあった。 (p. 20)

 手つかずの自然の風景ではなく、自然と人間の生活が織りなす景観を優れた〈風景〉としてデザインすることがランドスケイプデザイナーの仕事である。「優れた〈風景〉」と簡単に書いてしまったが、「優れた」の内実が何であり、どう実現するかということを目指しているのである。

 この本のなかで私が鍵概念として扱っている言葉の定義を、ここで記しておこう。「風景」はある土地の姿である。ただし音風景という言葉があるように、視覚に限らず聴覚、嗅覚、触覚、咮覚として土地の成因から人間が受けとる事物を含めて、風景の解釈を拡げる。「資本」は、それが無ければ経済活動が成らない生産の源であり、本書においては人間の生活と地域社会を持続可能にする基と定義する。「経営」は「力を尽くして物事を営むこと。[註]」で、地域経営とは結局のところ人間の生活と地域社会を持続可能にすることであって、それは環境、教育、福祉、医療、産業、文化……といった人間の生をささえる総てに留意をして、自然と人間の関係を調える営みに他ならない。([註] 新村出編『広辞苑』(岩波書店、第六版二〇〇八年)、八五四頁) (p. 21)

 著者が〈風景〉を〈資本〉と考えるベースに、エルンスト・フリードリッヒ・シューマッハーが『スモール イズ ビューティフル――人間中心の経済学』で述べた「自然という資本」という理論がある。

〔……〕「自然という資本」と明言したシューマッハーの理論を、「自然と社会の関係が調った地域の風景」を「資本」と見る考え方へと発展させることを私は提案する。そして、「風景資本」の内容確認、管理と充実を図ることを中心に置く地域経営の方法を構想する。 (p. 22)

 このように提案し、構想し、そして実践することが、著者がランドスケイプデザイナーとしてやってきたこと、やろうとしていることのアルファからオメガであって、本書の内容そのものでもある
 著者のなかにある「風景資本」の概念のなかにきっかりと刻み込まれている印象深い概念イメージがある。飛騨市古川町を流れる瀬戸川の〈風景〉を語るとき、その〈資本〉的価値について次のように述べている。

 くわえて、川掃除をする地域の人々の姿が風景に生きた魅力を与えている。逆の見方をすれば、風景に備わるいくつもの意味のなかに人々の地縁が含まれることになるだから、瀬戸川べりの風景はうわべだけを整えた観光地の姿と異なる魅力を持つことにもなり、ひいては飽きの来ない風景地として観光産業から見た資本価値を保ち得ることに結びつくと考えられる。 (p. 24)

 人々の生活の営みの歴史的時間と人々が生きる場所としての自然が混然と織りなす景観を〈風景〉と見ることまでは、私にも容易に理解できる。しかし、その〈風景〉のなかで暮らしつつ維持している人々の肉体もまた〈風景〉であり〈資本〉価値を持つというのである。ここでは、〈風景〉は眺めるだけのものではない。眺める私が〈風景〉と一体である人々のコミュニティに入っていくこともまた〈資本〉価値であるかのようだ。
 そのことで思い出したことがある。先に挙げたドイツ・ロマン派の画家、フリードリッヒが描く壮大な自然を描いた風景画の中には必ずと言っていいほど、その風景を眺める人物が小さく配されているのだった。壮大で手つかずの自然と言えども、それを眺める人間が存在してこその崇高さなのだという主張である。ましてや、人間が暮らす場所の〈風景〉には人間存在が欠かせないということだ。
 しかし、現実に行われていることは風景デザインに値しないと著者は批判する

〔……〕日本では一般に、短期的に見た経済性のみを理由に地形や植生を破壊し表土を遺棄する土地開発が行われる。土地の自然と生き続けるための知と技の史料として評価できる、自然に近しいつくりを有した農地や二次林なども、大概は壊されてしまう。そしてランドスケイプデザイナーの多くが、破壊的に開発された地表に地域と無関係の植物から意匠までを「貼り付ける」。
 人間が生き続けられる条件を充たさないそれは、デザインではない。風景資本の価値は、このようにわが国の各地で減じられてきた。 (p. 29)

 私は生来の釣り好きが昂じて、県の内水面(川や湖沼のこと)漁場管理に民間人として二十年以上も関わってきたが、河川行政や地元住民の川に対する意識に悩まされ続けだった。行政にとっての川は、まず水路としての機能であり、中洲や寄り洲や淵などは無用で、できるだけ効率的に水が流れればよいと考えているのだった。さすがにそれには反省もあって、国交省がまだ建設省だった時代に、多自然型河川を目指そうというシンポジウムが地方自治体の河川関係者を対象に開催され、私もパネラーとして参加したことがあった。これからは日本の河川はきっとよくなるだろうと期待もしたのだが、それを牽引した建設省の担当者 [2] が早逝したせいか、多自然型河川工法などすっかり沙汰止みになったようにしか思えないのだった。
 一方で、河川の流域の住民たちからはしばしば聞かれた言葉も心を萎えさせるに十分だった。最悪の場合、行政は小河川をコンクリート三面張りにするのだが、それを見た住民のなかには「すっかりきれいになったね」と話す人も大勢いたのである。コンクリートでまっすぐに作られた川や道が「きれい」なのである。〈風景〉などを議論する余地などないと思えるのだった。

埋立てて成りたる広き舗装路のむかうに満つる虚しさは何
                                     佐藤佐太郎 [3]

 しかし、これは近代化を何よりも善とする東北の貧しい地域だけの例かもしれないと思ったのは、アユ釣りで出かけた多くの川を見てからである。西は岐阜県、北は岩手、秋田までの釣行にすぎなかったが、流域住民に愛されている川がけっこうあることを知った。それは、地域住民と自治体の意思が一致して、ときには著者のような専門家とのコラボレーションがあって成立していることが多い。共有された自然観、風景観があれば、故郷の河川が蘇るのは十分に可能なのである。

 第二章の「風景資本の構成」では、たくさんの写真で〈資本〉価値の高い〈風景〉が紹介されている。その美しさ、価値はじっさいに掲載されている写真を見てもらうしかうまく伝える方法を思いつかないが、倉庫の屋根を覆うように植栽された樹木群、氾濫原を避けるように丘陵に築かれた集落、都市のなかの公園、目的意識をもって管理されている街路樹など〈資本〉となる〈風景〉が例示されている。
 その中で、釣り人として目を惹かれたのは「水林」の例示だった。釣行時にこのような風景をたしかに眺めた記憶がある。意味も分からず、川に隣接する林と起伏のある川沿いの道の景色で心を和ませていた。写真と図解があって、それぞれに次のようなキャプションが添えられている。

川べりには洪水を弱めて低地につくった田畑を守るためのいくつもの工夫がされた。
写真は、林立する木々の幹が水の勢いを弱めるとともに流木や岩を濾す水防林と、切れ切れにもうけた堤の間から水を逆流させてさらに勢いを殺ぎ、川沿いの田を遊水池として一時貯める不連続堤(霞堤)が組み合わされた例。
水林。荒川(福島県福島巿)にて。泉真人撮影、2004年 (p. 48)

水林は、入会地として近隣の人々が管理しつつ、キノコの類から燃料までを得る場としても利用されてきた。
また、今日もさまざまな動植物がここに生きることから自然観察会が催される。
散策をしたり、芋煮やバーベキューを楽しんだり、キャンプをする人々の姿もある。 (p. 49)

 洪水対策として考えられた「水林」が立派な自然公園の機能を果たしているのである。そして、「水林」がすぐれて自然公園として維持されるためには、そこで暮らす地域住民の関与が必須であることも意味している。河川と地域生活空間を隔てるものがまっすぐな一本の築堤(時としてコンクリート張りの)だけという風景が多くなった現在、私のような釣好きで川好きの人間にとって、この「水林」の例は貴重な自然遺産(どちらかと言えば文化遺産か)に思える。
 河川の風景に関しては、著者はまた「魚つき保安林」についても論じている。

 二〇一〇年(平成二二)六月一三日、岐阜県は関市を流れる長良川河畔の市有林約四・五へクタールを、同県内ではじめて「魚つき保安林」に指定した[註]。姫島のように漁業者が生物生産と海岸の森林との関係を経験的に知って保護をしてきた例は古くからあり、それが魚付林と呼ばれてきた。「魚つき保安林」は、魚付林の効果の科学的根拠の検証から国や地方公共団体が制度をもうけて護ることにした森林を指す。ただし、海の無い県における河畔の森林を対象とした「魚つき保安林」指定は珍しく、滋賀、埼玉に続いて全国で三県目となった。
 保安林指定を受けた森林では立木の伐採制限や伐採後の植栽が課されるが、民有林に対しては固定資産税の免除や相続税の控除、森林管理に際して受けられる補助金の加算などの優遇措匿が適用される利点がある。滋賀県の指定は一九〇九(明治四二)のことで、岐阜県ではそれから百年かかったが、前進は前進である。([註] 「海育てる漁師の憲法」読売新聞、二〇〇八年一〇月九日朝刊、三三面  (p. 113)

 私にとって、河川の「魚つき保安林」というのは初見である。河川の魚類資源にとって川岸の樹木は必須であり、中洲、寄り洲除去とともに皆伐しないように願ってきたものにとっては夢のような話である。想像するに、川べりに自然林がまだ残されていたゆえの可能な決定であったろう。多くの河川は、住宅地や農地などの人間の暮らす領域と河川が一本の築堤だけで隔てられている状態にあって、新しく「魚つき保安林」を作ることなどは望むべくもない。あるものを指定はできても、ないところからの創設は困難であろう。幸運にもそうした自然林が残されている河川があるなら、漁業関係者や地域住民が「魚つき保安林」指定の可能性を積極的に探ることが望まれる。

 著者は、専門的実践として飛騨古川の地域再生に関わって活動してきた。地域的固有性を生かしたまちづくりを目指していた飛騨古川もまた国家政策によって翻弄されるが、著者自らが古川の風土像を表現した「朝霧たつ都」は、2001年策定の「「古川町第五次総合計画」の目標と定められ、飛驊市合併後も行政、民間諸事業の価値基準とされている」 (p. 98) という。

 以来、飛騨古川では「朝霧たつ都」の風景保全、修復、進展、すなわち風景資本の管理と充実を目指す中で、「市民共同の家計」たる行財政本来の意義に則った「市民の共同事業」が新たな雇用増、地域経済調整策を兼ねて少しずつ確かに計画、実行されてきた。治山治水に生物多様性回復を重ね、さらに美しい家並みのある中心市街の周辺、背景に健やかな森があることの観光産業等への効果をあわせた、公益性の総合評価に基づく環境保全的森林施業への所得補償のような……。 (p. 103)

 このような事業は〈風景〉の保全ばかりではなく、いわば地域社会(共同体)の一体的保全をも意味するだろう。こうした職業的、専門的経験を基に著者は〈風景〉と〈資本〉について注目すべき提言をしている。

〔……〕河川の岸を石積みや、丸太杭に雑木の枝や若い幹を編んだ柵で護れば、人出は施工にも補修等の管理にもより多く要る。短期的に見れば不経済とされようが、雇用機会は増やせる。重機の利用を制限すれば地形の破壊、化石燃料消費、二酸化炭素排出の度合いが減る。護岸の姿は時間と共に周囲に馴染み、石積みや木を編んだ柵のすき間に生物が生息できて生物多様性が保て、すき間から水がよく吐け、石が崩れれば積めば済み、木は朽ちれば土に還る。朽ちた資材の替わりは手入れされた雑木林から得られる。生物多様性保全、治山、治水、低炭素社会実現のための植物体への二酸化炭素の固定、居住環境の質の向上、雇用機会増等は、それぞれを関係づけてみるとこれらの個々の実現の必要性を否定する人は少なくなると思う。 (p. 124)

 労働力の集約や資本が生み出す利潤への過剰な執着を持つ現代の高度資本主義とは相いれないような主張だが、ここでは〈資本〉としての〈風景〉が生み出す利潤の再配分が風景の再生、維持の労働力に還元される。したがって、それは〈風景〉がいっそう価値あるものとなる、つまり〈風景資本〉の蓄積を意味する。「川掃除をする地域の人々の姿が風景に生きた魅力を与えている」という前の記述に従えば、風景の再生、維持に従事する労働者も〈風景〉の資産価値に加えられ、資本蓄積が進行する。いわば、資本、労働、利潤(資本蓄積)の関係が新しい様相を帯びているのである。
 さて、ここでの資本家は誰だろう? 生活を営みつつ〈風景〉を維持してきた地域住民と考えざるをえないが、そうであれば、この資本家は労働者でもあることになって、これもまた新しい経済構造と言うしかない。マルクス主義経済の理論に矛盾している、などと教条主義的に考える必要はない。地域経済としてこのような構造はありうるだろう。とうの昔に「大きな物語」を喪失した私たちは、こうした新しい視点や構想を大切にしなければならないと私は思う。願わくば、ランドスケイプデザイナーとしての著者の専門的な提言と職業的営為が直接的、間接的に多くの地方自治体に広がり、受け入れられ、時には批判もあって、いっそう価値ある〈風景資本〉が日本のあちこちで育まれ、〈風景資本論〉もまた一層の高みで成熟していってほしいと願っている。


[1] 小林敏明『風景の無意識――C・D・フリードリッヒ論』(作品社、2014年)
[2] 『佐藤佐太郎秀歌』(角川書店平成9年)p. 128。
[3] 関正和『大地の川――甦れ、日本のふるさとの川』(草思社、1994年)。


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【書評】改憲をめぐる言説を読み解く研究者の会『メディアで見聞きする改憲の論理 Q&A』(かもがわ出版、2016年)

2017年05月06日 | 読書

 

 正直に言えば(そして私の記憶が確かであればだが)、Q&A本を隅から隅まできちんと読んだのはこの本が初めてである。Q&A本というのは知識の穴を埋めるために、必要な項目を拾い読みすればこと足りると思っていたし、私の本棚にもそのような種類の本は見当たらない(そんなにたくさんの本を持っているわけではないが)。
 この本を隅々まで読んだことには、もちろん理由がある。一つは私自身の問題である。私は1945年8月15日を母親の胎内で迎えたので、まるまる太平洋戦争後の時間を生きてきた。子どものころから憲法の話は聞いたし、それなりに本も読んだ。そして、憲法を改めたいという反動的な動きに反対してきたつもりである。つまり、日本国憲法についてそこそこ知っていると思っていた。それが最近怪しくなってきた。自公政権が国会で3分の2以上を占め、改憲の動きが急になってきたことばかりではなく、憲法成立時の過程についても新しい事実が明らかにされてきたこともある。もう一度くらいは、憲法をめぐる私の認識の点検をしておく必要があると考えている時期でもあった。
 もう一つの理由はこの本自体にある。本書はQ&A本には違いないが、メディア・リテラシーについての本でもあって、とても興味深い構成になっている。まず、憲法に関するメディアの言説(談話)が取り上げられ、それを見聞きした一般の国民(私のように憲法やメディア・リテラシーに関して専門的な知識を持たない)が抱くであろう疑問や反応を設定し、それに答えるという形になっている。特徴的なことは、一つのメディア言説に1~3の質問(疑問)が誘起され、さらにそれぞれのQに必ず異なった論者による二つの回答(A)が与えられていることである。
 一つのメディアの言説への人々の反応、受け止め方は多様であるだろうし、そこから生まれた疑問への回答もまた単一ということはないだろう。この本書の工夫は、読者に親切なちょっとしたアイデアのように見えるが、私には知に関するたいせつな見識が盛り込まれているように思える。
 真実は唯一つという信憑が一個だけの正解が求められる試験制度へ強く依存する学歴格差社会、競争主義社会で培われてきたということはしばしば耳にする指摘である。そのような受験システムを持つ日本や韓国にありがちな考え方だとする説もあるが、ことはそれほど簡単ではない。
 世界(社会、自然)のもろもろの物象(事象)にはそれに照応するイデーが存在するというプラトン流の考え方は、デカルトに始まる近代的自我の時代にも連綿と受け継がれてきた。しかも、その真実または真理は、ヒューマニズム(人文主義、人間主義、正しくは人間中心主義)によって偏光された視線によって形作られてきた。
 ポストモダンの思想家たちは、いわゆる〈脱構築〉的思考法によって絶対的価値、絶対的真理の相対化を図った。それは、判断停止や思考停止をもたらす俗流相対主義を生み出す元ともなったが、真実の多義性や歴史的・社会的構造性を指摘する豊かな思想の始まりだったと私は考えている。ヒューマニズム(人間中心主義)批判もポストモダン以降の思想の主要な課題であることは、ジョルジョ・アガンベンやジャック・デリダの仕事などからも窺える。

 そのようなポストモダン以降の思想の展開は、ウォーラーステインが語る〈1968年世界革命〉と照応する。世界同時的に発生した〈1968年世界革命〉は、少なくても「大きな物語」の終焉としての「革命論の革命」であったことは間違いない。正統派マルクス主義が標榜していた「一国社会主義革命」は乗り越えられ、複雑な資本主義世界システムのなかの位置取りに応じた多様な民主主義革命、つまりは古典的な発展段階論ではない各国家の世界システムにおける位置、地域社会の歴史・経済の固有性に依存する多様な革命論が追求されるようになった。
 こうした事柄は、けっして真実は曖昧であるとか多様性によって真実が失われたということではなく、真実は構造的多様性を持つものだという考えなのだと私は受け止めている。真実は多面体であって、真実を求める複数の主体が向ける眼差しには複数の面が顕われ、それぞれの面は構造的に切り離しえないものだ。「真実は一つ」というより「真実は多様な一体」とでも例えればよいのではなかろうか。
 本書のような一つのQに複数のAという思考の進め方を教育の現場(それは学校であり家庭でもあるが、柳田国男の言う〈世間〉そのものと言った方がよいかもしれない)でごくごく普通に行うことができたら、私たちの「知」の展開はもう少し異なるものになるだろう。ガチガチに練られた方法論ではなく、本書のようにさりげなく普段着のように取り入れられるのが理想だろう。大げさだが、それこそがポストモダン以降の思想的営みの現実的な効用と言えるのではないか。本書を読みながら、そんなふうなことを考えた。

 メディア・リテラシーと憲法論の融合した本書の執筆陣は、当然のことながら石川裕一郎、稲正樹、木部尚志、中村安菜の憲法学、政治学を専門とする4氏と、神田靖子、名嶋義直、野呂香代子の言語学の3氏である。構成は、「憲法改正ということについて」、「自民党改憲草案(2005、2012)をめぐって」、「改憲勢力各党の提案」の3章から成っている。
 例えば、「自民党改憲草案(2005、2012)をめぐって」のなかに次のような言説が示されている。

言説11】
 憲法9条の「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」という規定は自衛隊を軍として明確に位置づけていない。これに関連して、自衛権についても抑制的に解釈され、防衛政策や防衛力の充実は制限されてきた。しかし、自衛隊の存在をあいまいにしておいては自衛隊員が気の毒だし、防衛費は「国民の生命を守るための予算」である。自衛隊の存在を憲法に明記し、隊員の名誉を保証する必要がある。 (p. 58)

 この言説を基にして、二つの疑問(質問)が挙げられている。

Q1 日本の防衛費はかなり高いと聞いたことがありますし、年に何回もハワイやタイなど外国に行ってアメリカ•韓国をはじめ諸外国と一緒に大規模な軍事演習にも参加しているとニュ—スで報じていました。「防衛政策や防衛力の充実は制限されてきた」というのは本当ですか。 (p. 58)

Q2 自衛隊員は「自衛隊は軍隊ではない」ということを知って自ら志願して自衛隊に入るのですから、何が「気の毒」なのかよくわかりません。軍隊でないと「名誉」ではないのですか。 (p. 60)

 ここでは、後者のQ2に対する二つの回答を例示しておく。

A1 名誉・不名誉という感情を根拠にして改憲を主張することは危険
 ここでいう「名誉」には2つの意味があると思います。1つは自衛隊が軍隊でないという「不名誉」です。新聞記事の中で、「海外の軍隊と共同訓練をしているときに自衛隊が軍ではないことに引け目を感じる」という自衛官の発言を読んだことがあります。自衛隊関係者の中には、軍隊ではないことを誇りに思うのではなく、中途半端で不じゅうぶんであるという劣等感のような感情があるようです。
 もう1つはいわゆる「名誉の戦死」的なものです。これも数年前に聞いた国会中継の中で元自衛隊員の議員が、自衛官が海外でPKO活動という重要な任務に就くのだから死んだときにはそれ相応の処遇が必要であると述べ、弔慰金の増加を求めていました。2016年11月6日の新聞報道によると南スーダンのPKO派遣に関して政府は弔慰金の引き上げは行わないものの、新たな手当を付与するようです。
 自衛隊が軍隊でないことを不名誉と感じたり、その職務上の負傷や死を名誉と感じるかどうかは個人的にさまざまな受け取り方があってよいと思います。しかし、個人的に差がある情緒的な想いを根拠にして改憲が必要だと主張することは非常に危ういことです。気の毒とか名誉とかいつた情緒面ではなく、しっかりとした根拠をもとに議論すべきです。 (pp. 60-1)

A2 自衛隊員の名誉と命が天秤にかけられ、憲法改正に利用されそう
 広辞苑によると、名誉とは「よい評判をえること」や「人格の高さに対する自覚、道徳的尊厳が、他人に承認・尊敬・賞賛せられること」です。自衛隊で働くことに関する自衛隊員の方たちの考えはわかりません。しかし、自衛隊を憲法で明記することが彼らの名誉とどのようにつながるのでしようか。憲法は、議会制民主主義を前提としつつも、政党について規定していませんが、政党に属する国会議員は名誉を守られていないのでしょうか。東日本大震災などに際し、自衛隊は災害援助活動にも携わってきました。つまり、自衛隊は、災害援助活動を通して名誉を得ていると考えられます。
 外国の軍隊に対して自衛官が劣等感を覚えるということもあるでしょう(A1参照)。しかし湾岸戦争のように、9条の存在によって自衛隊が戦闘地域への派遣を免れた事例もあります。また、安保法制や周辺事態法成立に際し、多くの人が自衛隊員の生命が危険に晒されることを危惧して反対しました。
 自衛隊が国防軍となり、軍事活動を活発化させることが可能になれば、自衛隊員の生命が危険に晒される可能性も増えるでしよう。生命と名誉は引き換えにできるものではありません。9条改正の理由として自衛隊員の名誉の問題をもち出してくることは、自衛隊員の生命を軽視することにもつながる危険性を有しています。 (pp. 61-2)

 A1A2もその要諦は、文末に記されている。A1では「個人的に差がある情緒的な想いを根拠にして改憲が必要だと主張することは非常に危ういことです。気の毒とか名誉とかいつた情緒面ではなく、しっかりとした根拠をもとに議論すべき」とあって、言説11が持つポピュリズム的な語りを批判している。
 大衆の情緒、感情に訴える政治的主張は、とくに保守的(または右翼)政治家に重用されてきた。ヒットラーのナチスを例に出すまでもなく、現代日本においても片言隻句(つまり論を尽くさない)で票を大量に集めた小泉純一郎はそれほど古い話ではないし、なによりも「民主主義は感情統治」と断言して憚らなかった政治家がいる。橋下徹である。想田和弘は、橋下の手法を次のように述べている。

橋下氏は、人々の「感情を統治」するためにこそ、言葉を発しているのではないか。そして、橋下氏を支持する人々は、彼の言葉を自ら進んで輪唱することによって、「感情を統治」されているのではないか。
 そう考えると、橋下氏がしばしば論理的にめちゃくちゃなことを述べたり、発言内容がコロコ口変わったりしても、ほとんど政治的なダメージを受けない(支持者が離れない)ことにも納得がいきます。そうした論理的ほころびは、彼を支持しない者(感情を統治されていない者)にとっては重大な瑕疵に見えますが、感情を支配された人々にとっては、大して問題になりません。なぜなら、いくら論理的には矛盾しても、感情的な流れにおいては完璧につじつまが合っているからです。 [1]

 もちろん、感情統治は民主主義ではない。おそらく、橋下は感情統治によって多数派を形成し、多数決で政治的決定を行うことは民主主義だと言いたいのだろう。しかし、多数決が民主主義だという理解も、小学校に入学したばかりの6歳児が初めてクラスで挙手の多数決採決を行ったとき「これが民主主義です」と言う教師の言をもって民主主義を理解した程度のレベルでしかない。私が小学校に入学した60年も前の民主主義理解である。
 橋下流のポピュリズム、「感情統治」が一定の成功をおさめた結果として現在の極右政権の誕生につながっている。「感情統治」という政治の流れの中で、情緒から憲法を語ること、改憲を主張することがどれほどの過誤をもたらすかは言うをまたない。
 A2も文末の「9条改正の理由として自衛隊員の名誉の問題をもち出してくることは、自衛隊員の生命を軽視することにもつながる危険性を有して」いるという文言にその要諦がある。つまり、生命を軽視することになりかねない憲法改正の言説を倫理的立場から批判している。つまり、A1は政治的手法の視点から、A2は倫理上の問題から言説11を批判している。独立した観点からの批判であるが、すぐれて補完的である。
 もう一例、興味深いQ&Aを引用しておこう。

【言説19】
 改憲草案92条1項は、「地方自治は…住民に身近な行政を自主的、自立的かつ総合的に実施することを旨として行う」と規定。同93条3項では「国及び地方自治体は、法律の定める役割分担を踏まえ、協力」するとしました。しかし、地方自治が果たす役割を「身近な行政」と割り切ることは、立憲・民主・平和・社会保障という地方自治の広範な理念を著しく切り縮めるものです。

Q1 ここでは地方自治の役割を「身近な行政」と言っていますが、そもそも「地方自治」(地方政府)は中央政府に対して、どのような関係にあるべきものでしょうか。

A1 憲法の理念が形骸化し国と地方自治体との対等協力関係が脅かされている
 現行憲法は国と地方自治体とを平等な関係で捉えています。その関係を保障するため95条は「ある地方公共団体にのみ適用される特別法を定める手続きにおいては、その地方公共団体の住民の投票で過半数の同意が必要で、それがなければ国会で制定できない」と述べ地方自治体の意向を重視しています。しかし実際には国の事務を地方自治体に委任するという機関委任事務制度が導入されており、国予知法との関係は上下支配関係となっていました。
 この機関委任事務制度は1999年の地方分権改革で廃止され、国と地方との関係は対等協力関係になりました。今その対等協力関係が脅かされています。1つは国が沖縄県を訴えた裁判です。これは国が沖縄県の行った地方行政行為を違法だと訴えたもので、7月に裁判所は国の言い分を認め、国が地方自治体よりも上に立ち支配するという以前の形を認めるかのような判決を出しました。2つ目は自民党改憲草案です。草案は「国及び地方自治体は、法律の定める役割分担を踏まえ、協力しなければならない」と書いています。その分担を決め割り振るのは国でしよう。国が地方自治体を支配する形です。憲法の理念が再び形骸化する危機にあります。

A2 「充実した地方自治」の体制のもとでの、地方政府と中央政府の闋係は?
 ある有力な憲法学説によれば、人権保障を目的とし、「人民主権」を原理とする国家における、以下のような原則に立つ地方自治のありかたを、「充実した地方自治」の体制と位置づけ、あるべき地方政府と中央政府の関係を指摘しています。
 第1は、充実した住民自治の原則です。地方公共団体の自治事務の処理(政治)は、住民の意思に基づき、住民の利益のために行われなければなりません。
 第2は、充実した団体自治の原則です。地方公共団体が法人格をもち、その自治事務をその地方公共団体の利益のために中央政府から独立して処理する権利を求めるものです。

 第3は、地方公共団体優先の事務配分の原則(市町村最優先、都道府県優先の事務配分の原則)です。「補完性または近接性の原則」とも言われます。国民の生活に一番近い地方公共団体が公的事務を優先的に分担し、国民生活から距離をもつより包括的な地方公共団体はより近接的な地方公共団体が効果的に処理できない公的事項を補完的に分担し、中央政府は地方公共団体では効果的に処理できない全国民的な性質.性格の事務と中央政府の存立に関する事務のみを分担するという事務配分の原則です。
 第4は、上記の事務配分の原則にみあった自主財源配分の原則です。
 第5は、「地方政府」としての地方公共団体です。以上のような地方自治の体制では、地方公共団体は、たんなる行政団体ではなく、統治団体・地方政府となります。

  (杉原泰雄『地方自治の憲法論〔補訂版〕』(勁草書房、2008年)51-54頁) (pp. 92-94)

 A1は、国と地方自治体が対等な関係であるとする地方分権の趣旨を踏みにじる政府・行政のありようをそのまま是認してしまおうとする改憲の意図を、事実経過を明らかにすることで批判している。一方、A2は、地方自治についての理念的な考察から憲法改悪の意図を批判している。「現実の政治的流れ」と「立法理念」はまったく異なった視点だが、一つのQに対する回答としての補完関係は理想形に近いだろう(私個人としては、いつも一方の手中に憲法理念、理念的な立法意思をおさめておくことを好もしいと思っている)。

 本書の中で、読み過ごしてしばらく後で「あれっ」と思って立ち戻った一文があった。

しかし終戦後、GHQは日本の国民感情を考えて天皇を断罪せず、「象徴」という形で天皇制を存続させる「日本国憲法」を作りました。 (p. 25)

 この文の主語である「GHQは」の述語は「断罪せず」と「作りました」の二つである。つまり、私は「GHQは「日本国憲法」を作りました」という構文として読み過ぎたのである。しかし、この文が含まれるQ&Aより前に「GHQ草案に多くの日本人の手が加わり、普遍的理念を持つ憲法に」と題する次のような回答文が記述されている。

 現行憲法が日本がGHQの支配下にあった時代に作られたのは確かです。GHQから新憲法を作るように指示された当時の日本政府は、国民主権の草案を構想できず、戦前の明治憲法とあまり変わらない案しか作れなかったため、GHQが作った草案を「押し付け」られたわけです。しかし、そのGHQ草案自体、フランス人権宣言やアメリカ独立宣言などに現れた近代憲法原理に影響され、それを参照して研究した日本人の鈴木安蔵らの「憲法研究会」が作った案を参考にしたのです。ですから、GHQ草案には国境を超えて自由と平等を求める普遍的な理念が流れているうえ、日本の実情に合うよう日本政府によって何度も改訂が加えられており、ほぼ原形を留めていないといっても過言ではありません。こうして作られた「日本国憲法」は当時の国民に歓迎され、戦後長い間守られてきました。時代の変化には、憲法解釈の発展と最高法規である憲法を具体化する諸法令によって対応してきました。翻訳調でおかしいと言われますが、法律とはほぼすベて独特の法律用語で書かれています。文体自体は法律の内容の問題点ではないので、それを改憲の根拠にするのはおかしいでしょう。 (pp. 12-3)

 この文章ばかりではなく、最近はいろいろな文献が発見されて、憲法創設に多くの日本人が関わっていたことが知られるようになっていた。にもかかわらず、私は、「GHQは「日本国憲法」を作りました」に違和を感じないまま読み進んでしまったのである。
 それは、私自身が長い間「GHQが日本国憲法を作った」と思っていたからである。戦勝国であるアメリカが全権を持つGHQを通じて敗戦国日本をいわば強権的に統治していたのであるから、たとえ日本の国会の圧倒的賛同のもとで成立したといっても「GHQが作った」という表現に私はまったく違和感を持たずに生きてきたということだ。1946年生まれの私が育つころ、周囲の大人たちは新しい憲法を喜んでおり、民主主義を自分たちの生きている場所でどう生かしていくのかに夢中になっていた。誰が憲法を作ったかなどということを問題にしている雰囲気なんてまったく感じられなかったのである。
 「アメリカに押し付けられた憲法」と主張する人間たちがいても、だれが作ったかは問題ではない、優れた憲法はそれ自体として大切であると考えていた。戦後民主主義の盛り上がりの時期に成長した世代として私はそう考えていた。だから、「GHQが日本国憲法を作った」という文章にほとんど違和を感じなかったのである。本書を読み終えた今は、次のように読み替えておくことにする。

立憲主体である日本国国民の一般意思が日本国憲法を作りました。

 この読み替え文に「GHQの承認のもとで」とか「GHQの草案をベースにして」という条件を付けくわえても何の問題もないが、どんな干渉もなく純粋に「立憲主体である日本国国民の一般意思」が現在の日本国憲法を作ったのなら、私は今よりもずっと日本人を誇らしく思っていただろう。

[1] 想田和弘『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波書店、2013年) pp. 19-20。


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【書評】植村邦彦『ローザの子供たち、あるいは資本主義の不可能性――世界システムの思想史』(平凡社、2016年)

2017年04月05日 | 読書

 

 それともご存じかしら? わたしは自分がほんとうは人間ではなくて、なにかの鳥か動物かが出来損ないの人間の姿をとっているのじゃないかと、感じることがよくあるのです。心のうちでは、ここのようなささやかな庭とか、マルハナバチにかこまれて野原にいるときのほうが、はるかに自分の本来の居場所にいる気がする――党大会なんかに出ているときよりも。あなたになら、なにを言っても大丈夫ですね、すぐさまそこに社会主義への裏切りを嗅ぎつけたりなさいませんものね。にもかかわらずわたしは、あなたも知るとおり、自分の持ち場で死にたいと願っています。市街戦で、あるいは監獄で。けれども心のいちばん奥底でのわたしは、「同志」たちよりずっとシジュウカラたちの仲間なのです。
   ローザ・ルクセンブルグ『獄中からの手紙――ゾフィー・リープクネヒトへ』 [1]

 闘いの先頭に立つ女性を敬愛する気持ちを込めて「ジャンヌ・ダルク」と呼称する例はしばしば見聞きする。道浦母都子の短歌を評するさいに彼女をジャンヌ・ダルクになぞらえている文章を読んだ記憶もある。道浦母都子は、福島泰樹と同じようにいわゆる日本の〈1968年〉を闘いつつ生き抜いて、闘いと闘いのその後を唱いつづけている歌人である。二人と同じ時代を生きてきた私はまた、彼らの短歌にずっと惹かれつづけている。
 しかし、〈1968年〉当時、よく聞かれたヒロインの名はジャンヌ・ダルクではなく、ローザ・ルクセンブルグであった。私の周囲にはいなかったが、どこそこの大学に「○○のローザ」と呼ばれる女性がいる、という話を聞くことがあった。おそらく、多くの大学に「○○のローザ」、「△△のローザ」と呼ばれる女性闘士がいたことだろう。
 学生時代の知り合いの女性に35年ぶりに会ったとき、そのころに読んでいたルクセンブルグの『獄中からの手紙』にたまたま話が及んだ。その人が東京暮らしをしていたころシェアハウスしていた女性がかつて「○○のローザ」と呼ばれていたらしいと話してくれた。全共闘世代にとって、闘いのヒロインはやはりローザ・ルクセンブルグだったのである。

 この本は、『資本蓄積論』や『経済学入門』において示された一国にとどまることのない資本主義の世界性(「資本主義世界経済」)というルクセンブルグの主張が、「正当マルクス主義」者から否定され、無視されつづけられていながら、アンドレ・グンダー・フランク、サミール・アミン、イマニュエル・ウォーラーステイン、ジョヴァンニ・アリギなど、著者が「ローザの子供たち」と呼ぶ思想家たちによって受け継がれ、第2次世界大戦後の資本主義の世界的展開の理解へ向かう理論的基盤となったことの思想史的叙述である。
 じつは、本書の出発点である『資本蓄積論』や『経済学入門』などのルクセンブルグの主要な著作を私は読んでいないのである。それなのに、ここで述べられている資本の「本源的蓄積」のプロセスから「資本主義の不可能性」にいたるルクセンブルグの理路は、ずっと若いころからそれなりに理解していたように思えるのだ。今では定かではないが、おそらくは〈1968年〉あたりで読んだルクセンブルグに関する評論などからの寄せ集めの知識だったのだろう。若いときは、今よりもいっそう、難しい原典よりも易しい解説という安易な方法に頼りがちであっただろうとは思う。
 しかし、そのような知識であっても、第二次大戦後、アメリカが中南米や中東で政治的、軍事的に行ってきた(いる)ことをノーム・チョムスキーの『覇権か生存か――アメリカの世界戦略と人類の未来』 [2] やナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン [3] を通じて知った時、資本蓄積の世界的プロセスとして理解することに役立っているのである。

 本書を読んでいてすぐに気づくことだが、ローザの子供たちの主要な仕事が〈1968年〉前後から始まっていることである。〈1968年〉当時の大学構内には「反帝反スタ」の標語があふれていた。ローザの帝国主義論としての資本主義の世界性という思想は、「正統派マルクス主義」の単純な一国発展段階論とは相いれず、「反帝反スタ」という標語にしっくりするのだった。
 ローザの子供たちの研究対象地域は、フランクの南米、アミン、ウォーラーステイン、アリギのアフリカのように、第二次大戦後、植民地として、あるいは後進開発国として、先進資本主義国家による資本蓄積のための搾取対象となる国々だった。彼らは先進資本主義国家群(中央)と後進開発国群(周辺)が織りなす資本主義の世界的構造を明らかにすることで、「正統派マルクス主義」の国家ごとの発展段階論を明確に否定し、「ローザの子供たち」となるのである。そうして、〈1968年〉前後、彼らも「反帝反スタ」と呼べるような思想的位置に確立していたと、私には思えるのだ。
 しかし、ローザの子供たちと〈1968年〉で活動した若者たちとのあいだに思想的交流や影響関係があったという事実は知らない。例えば、絓秀美編著の『1968』 [4] やアラン・バディウなどによる『1968年の世界史 [5] などにもそのような記述はなかったように思う。〈1968年〉の若者たちもローザの子供たちも時代のもつ必然に鼓舞されてそれぞれ動き出したのであろう。
 ニーチェの「神は死んだ」ではないけれども、〈1968年〉前後は、「マルクス主義」が信仰の段階を脱した時代と言っていいのではなかろうか。ポストモダニズムふうの比喩としていえば、それは「大きな物語」の死でもあった。

 本書は、ハンナ・アーレントのきわめて高いローザ評価を記述する序章に始まり、ローザの帝国主義論と資本主義の不可能性を論じ、「正統派マルクス主義」(レーニン)と自由主義世界(ロストウ)の対照的な国家の発展段階論を紹介する前段的な章から、ローザの子供たちのそれぞれの仕事を論じる章に続き、最後に「資本主義の終わりの始まり」という論考を収めている。
 資本の「本源的蓄積」を資本主義の発展段階の初期に位置付けたマルクスに対して、ルクセンブルグは資本主義の成熟段階となっても非資本主義的な地域や国を巻き込んで「資本蓄積」は続いていると主張した。マルクスは一国レベルでの資本主義の発展過程を論じたのに対して、ルクセンブルグは国境を越えて展開する資本主義の現実を「資本主義世界経済」として描いて見せたのである。こうした主張はマルクス主義に反するとして「正統派マルクス主義」者から批判されたが、著者は『経済学批判』の記述からマルクス自身も「世界市場」の構造と意味を明らかにする意図を持っていたことを指摘している。果たされなかったマルクスの理論的仕事の領域にルクセンブルグは踏み込んでいたのだと、著者は暗に指摘しているようである。
 ルクセンブルグは、「資本主義世界経済」の構造、資本蓄積のプロセスを次のように述べている。

資本主義的生産は、初めから、その運動形態および運動法則において、生産諸力の宝庫としての地球全体を計算にいれている。搾取の目的で生産諸力を取得しようとする熱望からして、資本は全世界を捜しまわり、地球のすみずみから生産手段を調達し、あらゆる文化段階および社会形態からこれを強奪し、または獲得する。〔……〕実現された剰余価値を生産的に使用するためには、資本が、その生産手段を量的にも質的にも無制限に選択しうるために、たえずますます全地球を自由にしうることが必要である。(ルクセンブルグ『資本蓄積論 下』(青木文庫) p.420) (p. 34)

資本主義と単純商品経済との闘争の一般的結果は、資本が自然経済にかえて商品経済をおいたのち、資本みずからが単純商品経済にとってかわるということである。だからもし資本主義が非資本主義的な構造によって生活しているとすれば、資本主義は、より厳密に云えば、これらの構造の没落によって生活しているのであり、また、もし資本主義が蓄積のために非資本主義的環境を無条件的に必要とするとすれば、資本主義は、それを犠牲としそれを吸収することによって蓄積が行われる培養上として、それを必要とする。歴史的にとらえれば、資本蓄積は、資本主義的生産様式と先資本主義的生産様式とのあいだに行われる質料変換の過程である。先資本主義的生産様式なしには資本の蓄積は行われえないが、しかし蓄積なるものは、この面から考えれば、先資本主義的生産様式の咀嚼であり消化である。したがって資本蓄積は、非資本主義的構造が資本蓄積と併存しえないと同じく、非資本主義的構造なしには実存しえない。非資本主義的構造のたえざる前進的粉砕のうちにこそ、資本蓄積の定在条件が与えられているのである。 (同上、p. 500) (pp. 37-8)

資本主義は、普及力をもった最初の経済形態であり、世界に拡がって他のすべての経済形態を駆逐する傾向をもった、他の経済形態の併存を許さない、一形態である。だが同時にそれは、独りでは、その環境およびその培養土としての他の経済形態なしには、実存しえない最初の形態である。すなわちそれは、世界形態たろうとする経口をもつと同時に、その内部的不可能性のゆえに生産の世界形態たりえない最初の形態である。それは、それ自身において一個の生きた歴史的矛盾であり、その蓄積運動は、矛盾の表現であり、矛盾のたえざる解決であると同時に強大化である。ある特定の発展高度に達すれば、この矛盾は、社会主義の原理の充用によるほかには解決されえない。(同上、pp. 568-9) (p. 39)

 資本主義は、本質的に矛盾したシステムである。「ルクセンブルクは、このような矛盾そのものが「資本蓄積の定在条件」だと言う」(p. 37)。世界中から資本蓄積を行いつづけ、搾取しつくしてしまえば資本主義は世界システムとして「不可能」になる。
 世界的規模で資本蓄積が続くということは、先進的資本主義国家は非資本主義的な国家・地域・社会を征服的に手中におさめたいという欲望によって「帝国主義」に向かうのである。このルクセンブルグの「帝国主義論」をハンナ・アーレントは高く評価する。

 帝国主義時代の序曲となった深刻な恐慌と不況の時期が産業資本家たちに教えたことは、今後は「剰余価値の実現は第一条件として、資本主義社会以外の購買者の一団を必要とする」ということだった。需要と供給が一国の範囲内で調整され得たのは、資本生義制度が住民のすべての階層を支配するに至らないうち、つまり資本主義制度がその全生産能力を発揮し切らないうちのことだった。資本主義が自国の経済生活・社会生活の全組織に滲透し、住民の全階層が資本主義によって決められた生産と消費のシステムの中に組み込まれてしまったとき初めて、「資本主義的生産は最初から、その運動形態および連動法則において、生産諸力の宝庫としての全地球を計算に入れて」いたこと、そして、停止すれば全体制の崩壊となるほかはない蓄積の運動は、未だ資本主義に組み込まれていない領土、それ故に原料と品市場と労働市場の資本主義化の過程を進め得る新しい領土を絶えず必要とすることが、明らかとなった。(アーレント『全体主義の起源2』(みすず書房)、pp. 43-4) (p. 10)

帝国主義に関する書物のうちでは、ローザ・ルクセンブルクの労作ほどの卓越した歴史感覚に導かれたものはおそらく例がない。彼女は研究を進めるうちにマルクス主義とはその正統派・修正派のいずれを問わず一致し得ない成果に到達したのだが、彼女は身につけたマルクス主義の武器を捨て切れなかったために、彼女の著作は断片の寄せ集めのままに終っている。そして彼女の著作はマルクス主義者もその反対者もどちらも満足させることができなかったため、ほとんど注目を浴びぬままになっている(同上、p. 45) (p. 11)

 もちろん、「ほとんど注目を浴びぬまま」だったのは「正統派マルクス主義」の祖であるレーニンによって否定されたことが最大の原因だが、少数反対派は常に存在するのであって、日本では「正統派」共産党に反旗を翻す学生組織が現れ、新しい党派を形成しつつ〈1968年〉に向かっていったし、「ローザの子供たち」も次々と論文を発表するようになった。私にはなかなか実感がわかないが、ウォーラーステインが「一九六八年革命」と呼んでいることは、革命の思想という点では首肯できる。

一九六八年の世界革命は、地政文化(ジェオカルチャー)に与えた影響という点では、一八四八年の革命に匹敵する役割を果たしたのであった。一九六八年の世界革命は、一八四八年の世界革命がフランス革命の精神の極致と変化をあらわしていたのとちょうど同じようにロシア革命の精神の極致と変化との劇的な結合をあらわしていた。しかしそれは反対の方向への変化であった。というのも、一八四八年の世界革命が世界システムの地政文化の基礎を補強するためにリベラリズムを配置したのに対して、一九六八年の世界革命はまさにリベラリズムのその役割を廃棄したからである。
 一例をあげれば、一九六八年の反乱への参加者は、レーニン主義者が社会民主主義者に批判的であったのと同様に、レーニン主義者がリベラリズムの化身となってしまったことに批判的であった。さらにかれらは、地政文化におけるリベラリズムの支配的な役割を明らかにその標的としてとりあげ、あらゆる方法で無理にでもリベラリズムをこの立場から引き離そうと努めた。一九六八年の革命は、一八四八年の革命とちょうど同じように、二つの時間枠によって、つまり直接的な出来事とその結果および長期間の影響という時間枠で分析されるべきである。  [6]

 〈1968年〉が真に世界革命であったかどうかを議論できるほど私には世界を俯瞰する力はないが、いずれにせよ、〈1968年〉を前後して「正統派マルクス主義」を明確に批判しながら(とりもなさず、ルクセンブルグの仕事を高く評価しながら)ローザの子供たちの仕事は展開していくのである。
 当時、東西世界のそれぞれに対照的な一国発展段階論があって、どちらも大いに喧伝されていた。「一国社会主義」論を唱えるソ連マルクス主義、つまりは「正統派マルクス主義」は、すべての国は例外なく「原始家父長制」、「奴隷制」、「農奴制」、「資本主義」、「社会主義」と5段階の発展過程を進むと主張した。一方、「西側」自由主義経済圏では、アメリカの経済学者ジャック・ロストウが提示した「近代化論」としての発展段階論が唱えられていた。それは、「伝統的社会」、「離陸(ティク・オフ)のための先行条件期(=中央集権国家)」、「離陸(ティク・オフ)(=資本主義の確立)」、「成熟への前進期(=資本主義が支配的な社会)」、「高度大衆消費社会」という概念規定のきわめて曖昧な5段階発展論で、アメリカ社会が最終発展段階に相当すると主張する。

 現在からみれば、どちらの発展段階論もあまりにも単純すぎるのだが、社会主義圏の崩壊に助けられたとはいえ、概念規定があいまいなゆえに融通無碍に使えるロストウの「近代化論」は未だ命脈を保っている。つまり、アメリカ的社会を国家モデルとする後進資本主義国家があまりにも多いのである。
 しかし、資本主義世界経済のなかですべての国が資本蓄積を行う側になることは不可能である。ローザの子供たちは、資本主義の複雑な世界構造が資本蓄積を行う先進資本主義国家群(中央)と収奪を受ける後進資本主義または非資本主義国家群(周辺)とから構成されるとして理解しようとする。その先達は、アルゼンチンの経済学者ラウル・プレビッシュである。

 プレビッシュは一九六三年に『ラテンアメリカの動態的発展政策を目指して』という報告書を発表している。そこで彼が提示したのが、世界経済を「中心部centre」と「周辺部periphery」との不均等な関係として見る認識だつた。彼はこう述べている。
  〔中略〕
抑制された言い方だが、これは明確な近代化論批判である。「中心部」の「間違った主張」をそのまま「周辺部」に適用することはできない。「現実の事態」そのものが違うからだ。彼は「中心部諸国と周辺部諸国の差異」について、次のように指摘する。近代化論が主張するような、自由貿易を通した「技術進歩と技術移転による生産性の増加」という「議論は、すべての国が発展の同じ段階に到達した世界においては認められるかもしれない。しかし、大中心部〔the great centres〕と周辺部諸国〔peripheral countries〕との間に現在明白に存在する不均衡が依然として存続する間は、そうではない」。  (pp. 80-1)

 「周辺部」は、一次産品輸出の伸び悩みと「中心部」からの工業製品の輸入超過という経済的な不均衡、「経済的従属関係」に置かれている。

これはルクセンブルクが「資本主義世界経済」における「経済的従属関係」の第三の型として分類したものに近い。第一章第4節で見たように、ルクセンブルクは、そのような輸入超過の差額を支払うためにトルコや中国がヨーロッパの銀行から借人をし、その利子の返済を通して「富裕な大資本家的な西ヨーロッパとそれによって吸い取られる貧しくて遅れている東洋とのあいだの独特な関係」(ルクセンブルグ『経済学入門』(岩波文庫)p. 60)が形成されることを指摘していた。これとほぼ同じ関係がラテンアメリカにも存在する、ということである。 (p. 83)

 プレビッシュの問題提起を受けたアンドレ・グンダー・フランクは「近代化論」ばかりではなく、正統派マルクス主義の段階発展論も強く批判して、「中枢諸国の「経済発展」と周辺衛星諸国の「低開発」の持続は、発展段階の違いなどではなく、同時に進行する相互規定的な過程だ」(p. 89) と主張した。

経済発展と低開発は同じコインの背中合わせの両面である。両者は世界資本主義システム〔the world capitalist system〕の内部矛盾の必然的結果であり現代的表現である。
 〔中略〕
この中枢—周辺衛星部という矛盾した関係は、最上層の中枢国の世界的中心地から、あらゆる国家、地方、地域、企業の中心地を通じて、連鎖状をなして世界資本主義システム全体を貫いている。(フランク『世界資本主義と低開発』(柘植書房)p. 36) 。 (pp. 89-90)

フランクによれば、世界資本主義システムの「中枢—周辺衛星」関係を前提とする限り、周辺衛星部諸国の自立的発展はありえない。周辺衛星部に位置する国家自体がさらに国内の中心地と国内の周辺衛星部に枝分かれし、国内中心地は、国外の世界的中枢に従属しながら国内周辺衛星部の経済余剰を収奪する、という複雑な利害対立が重層的に積み重ねられているからである。 (p. 90)

 中枢—周辺衛星部の資本蓄積、搾取が「不等価交換」という仕組みで行われることを明らかにしたのがサミール・アミンである。プレビッシュやフランクが中南米の周辺国家の分析から論を立てたのに対して、エジプトとフランスの血を受け継ぐアミンは、エジプト、フランス、セネガルで仕事をした。

彼は「低開発」社会の「構造上の特徴」として「(1) 部門間生産の不均等、(2) 経済システムの非接合性、(3) 外部からの支配」 (アミン『世界的規模における資本蓄積』①(柘植書房)p. 33) の三点を挙げ、それを次のように具体的に説明している。
 周辺部には、一定の軽工業部門を有するような「低開発諸国のなかでもっとも発展した国」も存在するが、そのような国でさえも「基礎産業をもたないため、最終消費財を供給するこれら軽工業は、設備と半製品を供給する外部世界にまったく依存している」。したがって、工業化はそれ自体では国民経済の「「統合」効果をもたない」。そして、このような「非接合性」は、「外国経済につぎ足された経済の第三次産業部門(輸送金融業)にも同じようにあてはまる」(同上、p. 35)
 このような構造上の特徴から考えれば、「「低開発諸国」を「開発諸国」の発展途上の初期段階と同一視する」 (同上①、p. 24)  近代化論が間違っていることは明らかである。したがって、発展の「遅れ」を意味する「低開発」や、「第一世界」や「第二世界」との関係を隠してしまう「第三世界」などの「間違った概念」は放棄されるべきであり、周辺部に位置して資本主義的中心部に支配される独自の社会構成体、を意味する「周辺資本主義構成体という概念」 (同上①、p. 41) に置き換えられるべきなのである。 (pp.110-1)

 現実の周辺諸国は、「近代化論」やロシア・マルクス主義の段階発展論のどれにも該当しないのは明白で、「周辺資本主義構成体」と呼ぶべき存在形態であるとアミンは主張する。
 アミンは、中枢と周辺部の「不等価交換」は「賃金労働者の国際的な非可動性」によって実現されているとする。そのうえで、周辺から中枢への移民は賃金労働者の可動や賃金の平均化を意味するわけではなく、「周辺部から中心部への隠れた価値移転」にすぎない (p. 125) と考えるのである。

 アミンはこのように、周辺部から中心部への「価値の移転」と並行して、「大陸間移民が開く世界労働市場」が萌芽的に形成されつつあると見ていた。ただし、それによって生じるのは、中心部と周辺部との賃金格差が縮小して均衡価格が成立することではない。むしろ逆に、「開発世界に移民した労働者の不平等な地位の現実的経験がきわめて広範に示しているように、文化的・民族的差別が資本によって開拓されうる」ことである。つまり、「究極において労働力のこの大量移動は、今日の外部植民地化と反対に,「国内植民地化」を創出する危険がある」。中心部に定着した移民労働者は、名前や肌の色、言葉や宗教によって差別され、中心部の社会生活に統合されることなく、低賃金労働を割り当てられる。それは、「不等価交換」が「「開発」社会に内在化」することにほかならない (同上③、p. 266) (p. 126)

 ルクセンブルグは資本主義の世界性を「資本主義世界経済」と名付けたが、イマニュエル・ウォーラーステインは近代世界システムを資本主義の世界システムと捉え、さらに精緻にその構造を分析するために国家群を3層構造として捉える。

このように、「近代世界システム」は単一の資本主義「世界経済」と複数の国家からなるのだが、「世界経済」(世界的規模での分業体制)の中での各地域の経済的位置づけそのものが、その地域に成立する国家の構造を変化させることになる。ウォーラースティンはそれをプレビッシュ以来の「中心部/周辺部」という二分法ではなく、「中核core/半周辺semi-periphery/周辺periphery」の三つに区分した。 (pp. 142-3)

 アミンは中核国家が移民労働者を「国内植民地化」政策によって不等価交換の内在化を果たすとしたが、ウォーラーステインはそれを「労働力のエスニック化」と名付ける。そのようなエスニック集団も階級も資本主義世界システムが必然的にもたらす階層分化であるとして、人種差別も性差別も資本主義における「労働の階層化」だと断言する。

史的システムとしての資本主義は、以前にはまったく存在しなかった差別(oppressive humiliation)のためのイデオロギー装置を発展させた。すなわち、今日いうところの性差別と人種差別にかんするイデオロギーの枠組が成立したのである。(ウォーラーステイン『史的システムとしての資本主義』(岩波現代選書)p. 102)  (p. 151)

人種差別とは、資本主義というひとつの経済構造のなかで、労働者のいろいろな集団が相互に関係をもたざるをえなくなってゆく場合の、その関係のあり方そのもののことであった。要するに人種差別とは、労働者の階層化ときわめて不公平な分配とを正当化するためのイデオロギー装置であった。(同上、p. 108)  (p. 150)

 したがって、大戦後、国連が人種差別や性差別を単なる倫理問題として積極的に啓発運動を進めてもいっこうに状況が進展しないことは、現在の世界システムが資本主義であることに抜きがたく由来する。ただし、著者は、エティエンヌ・バリバールの批判を取り上げて、人種主義はナショナリズムと相俟って支配階級と労働者とに共通なイデオロギーとして形成される側面があることを示唆している。バリバールとウォーラーステインには『人権・国民・階級』という共著があって、この辺りの議論が展開されているらしい。
 ウォーラーステインは、イデオロギーとしての性差別について『ユートピスティクス』(著者は参照していないが)で次のように述べている。

 性差別主義もまた、包摂と排除という構図の一部分をなしていた。性差別主義が明白なイデオロギーとしてもたらしたものは、主婦(ハウスワイフ)という概念を創造し、それを聖化したことであった。女性はつねに働いてきたが、たいていの世帯は歴史的には家父長制であった。しかし一九世紀に生じたことは新しいことであった。それは所得を生み出す労働として任意に規定されるようなものから女性を締め出す重大な試みを意味していた。主婦は単一の賃金に依存する家族内で、男性の稼ぎ手と協力すべきものとされた。その結果、女性がより多く、あるいはより激しく働くようになったのではなく、その労働の価値が組織的に切り下げられたのであった。 [7]

 アントニオ・ネグリが逮捕、起訴されることになった「アウトノミア運動」に関与していたジョヴァンニ・アリギは、1969年までローデシアとタンザニアで研究をしていた。
 彼の理論で特徴的な点は、資本主義の歴史をある種の循環として捉えたことである。

 この本〔『長い二十世紀』〕でアリギがまず論じたのは、資本主義世界システムの歴史の中で反復される「蓄積のシステム的サイクルsystemic cycle of accumulation」という現象だった。この概念はアリギ独自のものである。彼によれば、「世界システムとしての歴史的資本主義の反復的パターン」は、「生産拡大期」と「金融再生・拡大期」が交互に生じることにある。
 〔中略〕
 アリギによれば、資本主義世界システムの歴史には「四つの蓄積システム・サイクル」が存在するが、「それぞれのサイクルで、世界的規模の資本蓄積過程の中心的主体と構造が基本的に一貫している」という。「四つのサイクル」とは、一五世紀のオランダ独立戦争から一七世紀前半の三〇年戦争までの「ジェノヴァ・サイクル」、一六世紀後半から一九世紀初頭のナポレオン戦争期までの「オランダ・サイクル」、一八世紀後半から二〇世紀初頭の第一次世界大戦までの「イギリス・サイクル」、そして一九世紀後半から二〇世紀末の金融拡大局面に至るまでの「アメリカ・サイクル」である(アリギ『長い二十世紀』(作品社)p. 36) (pp. 171-2)

 各サイクルにおいては資本主義世界システムにおけるヘゲモニー国家が同時に世界経済を主導する立場に立つが、ジェノヴァ・サイクルだけは都市国家ジェノヴァが金融システムを支配しながら政治的(領土的)ヘゲモニーはハプスブルグ朝スペイン帝国が握るという変則システムだった。
 現在の「アメリカ・サイクル」はすでに衰退に向かっているとアリギは考える。

 アリギは、一九九四年には、アメリカが「武力、欺瞞、説得によって、新たな中心地〔東アジア〕に蓄積されている余剰資本を収奪し、そうすることで、真に地球的な世界帝国を形成して、資本主義の歴史に終止符を打つかもしれない」 (Arrighi [2010] p. 537) と述べていた。しかし、二〇〇七年にはその可能性がほぼなくなったと判断したことになる。
 アリギによれば、アメリカのへゲモニーの衰退が始まるきっかけは、一九六〇年代から本格化し一九七五年に敗北で終わったヴェトナム戦争だった。「その結果、アメリカはグローバルな警察官としての政治的信用をほとんど失い、そして冷戦政策が抑制していたナショナリスト革命勢力と社会革命勢力を大胆にさせた。軍事機構の政治的な信用の大半と同時に、アメリカは世界の貨幣システムのコントロールもまた失った」 (Arrighi [2007] p. 221)。アメリカはヴエトナム戦争中の一九七一年に金とドルとの交換を停止し、各国通货の為替レートは変動相場制に移行するが、一九七〇年代のドルの急速な下落は、北アメリカが、グローバル政治経済のなかでの中心的位置を維持する国家的能力を、相対的かつ絶対的に失いつつあることの現れ」 (ibid. p. 203) に移行するが、一九七〇年代のドルの急速な下落は、北アメリカが、グローバル政治経済のなかでの中心的位置を維持する国家的能力を、相対的かつ絶対的に失いつつあることの現れ」 (ibid. p. 286) だった (pp. 182-3)

 アメリカのへゲモニー喪失過程として、アリギが最も重視しているのは、アメリカがもはや独力では戦争遂行の費用を調達できなくなったことである。すでに一九九一年の湾岸戦争の際に、ブッシュ政権はサウジアラビア、クウェート、アラブ首長国連邦、ドイツ、日本などから合計五四一億ドルに上る財政援助を引き出した。特に、日本の拠出金は一三〇億ドルに上った (ibid. p. 363)しかし、イラク戦争中の二〇〇三年一〇月にマドリードで招集された「資金供与国会議」では、集められた援助額は目標額の三六〇億ドルの八分の一以下、アメリカの約束額であった二〇〇億ドルの四分の一よりも相当下回っていた」 (ibid. p. 366)ドイツとサウジァラビアは事実上何も出さず、日本の寄付も一五億ドルにとどまった。 (p. 183)

 資本主義を世界システムとして理解する「ローザの子供たち」は、当然ながら資本主義が発展的に資本蓄積を続けるための資本主義の外部(半周辺国家、周辺国家)を喰い尽くして本源的蓄積が終了すれば、自己否定的に資本主義世界システムも完了せざるを得ない、と考える。
 そして、当然のことながら、彼らの誰一人として、資本主義の崩壊を待つとか、次の世界システムは発展段階として自動的に社会主義となるなどというかつて語られたような能天気なシナリオを口にすることはない。フランクは、中枢国に対する反帝闘争よりラテンアメリカにおける階級闘争が優先すると語る。そうでなければ資本主義低開発が続くだけだとするフランクに対して、フランクと同じくラテンアメリカの従属経済を分析したフェルナンド・エンリケ・カルドーゾは民衆の複雑な階層構造を指摘したうえで変革は容易ではないとしながらも、著書の中で次のような〈希望〉を述べている。

 歴史がたどる具体的な道は、所与のさまざまな条件によって制約されているとはいえ、歴史的に実現可能な目標に向かって行動しようとする人々の大胆さにかかるところが人きい。したがって、将来起こることの道筋を理論的に予測しようと、無益な考えは捨てることにしよう。それは、理論的予測よりも、政治的意思につき動かされた集合的行動にかかっている。構造的には可能性にすぎないことを現実に変えるのは、そうした集合的行動なのである。 (カルドーゾ『ラテンアメリカにおける従属と発展』(東京外国語大学出版会)p. 268)  (pp. 102-4)

 アミンは、社会主義もまた世界システムとして存在するしかないのであるから個々の社会主義国家というものは形容矛盾だと主張する。

 そのような周辺部の人々にとって、残されている選択肢は、「従属的発展か,それとも、今日の発達諸国に比較して必然的の独創的な自立的発展か」の二者択一しかない。しかも、アミンによれば、「諸文明の不均等発展の法則を改めてみると、周辺部は、資本主義のモデルに追いつくことはできず、それを杜越えることを強いられている」 (アミン『不均等発展』(東洋経済新報社)p. 369)。
 〔中略〕
 こうして、『不均等発展』は次のような課題を設定する。

世界的規模での移行は、周辺部の解放に始まって切り拓かれる。〔……〕諸国家間の不均等という今日の条件の下でたんに低開発の発展ではないような発展は、その置かれている世界的な条件によって、同時に国民的〔national〕で、民衆的=民主主義的〔populaire-démocratique〕で、社会主義的なものとなろう。資本主義はすでに事実上地球的規模のものとなり、この枠内で生産諸関係を組織している以上、社会主義は、全地球規模でしか構想されえない。それゆえ、世界的な社会主義的目標と、依然として国民的な移行の枠組みとの間に、移行期に特有な一連の矛盾が必然的に派生する。しかし社会主義的意識の熟成および発展という目標が、いかなる段階においてであれ、経済進歩という目標の犠牲にされないかぎりでのみ、ある戦略は、移行の戦略と呼ばれるに値する。(同上、p. 397)  (p. 135)

 ウォーラーステインの認識は、資本主義世界システムはすでに終末期に入っているということだ。しかし、その先には発展段階として約束された世界システムがあるわけではない。

わたしたちは、たとえば二〇五〇年頃に、史的資本主義からある非常に不平等で階層的な新しいシステム(あるいは多様なシステム)を持ったものへと、過渡期から抜け出すかもしれないし、大部分が民主主義的で平等主義的なシステムを持ったものへと抜け出すかもしれない。それは、後者の結果を好む人々が、政治変化に関する意義ある戦略を組み立てる能力があるかどうかにかかっている。 (ウォーラーステイン『アフター・リベラリズム』(藤原書店) p. 372頁)  (p. 164)

 もしわたしたちが次の五〇年間に根本的な歴史的選択をするとすれば、それは何と何の間における選択なのだろうか。明らかに、わたしたちの選択は、あるものがそれ以外のものより決定的に大きな特権を持つような(何らかの基本点において現在のシステムに類似の)システムと、相対的に民主的で平等主義的なシステムとの間においてなされるということである。既存のすべての史的諸システムは、事実上――その程度に差はあっても――今日まで前者の種類のシステムであった。それどころか、現存のシステムは、明らかにその長所と考えられていることのせいで――つまり価値生産の途方もない拡張のせいで――最大の両極化をもたらしたという点で、ことによると最悪のものだと言えるのではなかろうか。多くの、あるいは更に多くの価値が生産されることで、現存のシステムの上部層とそれ以外の層との差異は、――たとえ現在のシステムの上部層が、先行する史的シ/ステムの上部層よりもシステムの全人口のより大きな割合を占めているとしても――それ以外の史的諸システムよりははるかに大きくなり得るし、大きくなってきたのである [8]

 アリギは、現在のヘゲモニー国家であるアメリカに替わって中国がヘゲモニーを執る未来の可能性を論じ、もっとも理想的なシナリオとして「現在の中国政府自体の革命的転換」によって「もはや資本主義的ではない、もっとエコロジー的で民主的な別の世界システム」 (pp. 187-8) へ移行する可能性があるとした。しかし、一方で、中国が現在の国家資本主義的政策を続行して(政策転換に失敗して)世界が経済破綻するシナリオや、アメリカと中国のヘゲモニー争いが第三次世界大戦としての帝国主義戦争に陥ってしまうシナリオで「今度こそ、核兵器保有国同士の熱核戦争によって本当に人類が「焼き尽くされてしまう」かもしれない、という可能性」 (p. 189) もありうるとしている。アリギの語る未来予測のなかで最も期待したい中国の「政策転換」は、現在の中国を見る限りもっとも期待薄のように思える。
 それぞれの世界システムの改革への語り口はきわめて苦渋に満ちているけれども、一方でネグリとハートによるマルチチュードの叛乱というシナリオもある。このシナリオは、かなり楽観的に思えるが、アラブの春やオキュパイ運動などにその兆しが見えるとすれば、必ずしも否定的だと断言する必要もないだろう。

 著者は、「資本主義の終わりの始まり」と題した最終章で、「資本主義世界経済の構造的危機」はすでに始まっており、資本主義世界システムの「終わりの始まり」が実際に始まっていることを論証している。ウォーラーステインの言う「一九六八年世界革命」では世界各国で若者たちの叛乱が同期して発生したように、この「終わりの始まり」の時代に若者ばかりではなく、プロレタリアート、半プロレタリアート、エスニック集団、つまりはマルチチュードが世界各地で同期して一斉に叛乱を起こす契機はありうるだろう。「ありうる」というものの、その具体的なイメージは私にはまだないが………。
 しかし、カルドーゾの言を繰り返せば「将来起こることの道筋を理論的に予測しようと、無益な考えは捨てることにしよう。それは、理論的予測よりも、政治的意思につき動かされた集合的行動にかかっている」ということである。政治的意思に突き動かされたあくなき行動がいずれ有効な集団化を果たし、さらには世界的な集団行動へ発展する契機は必ず存在する(と信ずることにしよう)。
 

[1] ローザ・ルクセンブルグ(大島かおり編・訳)『獄中からの手紙――ゾフィー・リープクネヒトへ』(みすず書房、2011年)p. 52。
[2] ノーム・チョムスキー(鈴木主税訳)『覇権か、生存か――アメリカの世界戦略と人類の未来』(集英社、2004年)。
[3] ナオミ・クライン(幾島幸子、村上裕見子訳)『ショック・ドクトリン』(岩波書店、2011年)
[4] 絓秀美編著『1968』(作品社、2005年)。
[5] アラン・バディウ他『1068年の世界史』(藤原書店、2009年)。 
[6] イマニュエル・ウォーラーステイン(松岡利通訳)『ユートピスティクス――21世紀の歴史的選択』(藤原書店、1999年)pp. 52-3。[7] 同上、p. 44。
[8] 同上、pp. 118-9。



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【書評】ジョルジョ・アガンベン(高桑和巳訳)『スタシス――政治的パラダイムとしての内戦』(青土社、2016年)

2017年02月13日 | 読書


 本書は、「スタシス」と「リヴァイアサンとビヒモス」という二つの章から成っていて、前者はギリシア民主制における内戦(スタシス)を論じ、後者はトマス・ホッブズの『リヴァイアサン』を取り上げ、人民、国家、群がり(マルチチュード)の機制のなかに内戦を位置づける論考となっている。

 アガンベンは、第二次世界大戦以降、世界中で勃発している争いが国家間戦争と呼べる争いではなく「世界的内戦」であると指摘するハンナ・アーレントやカール・シュミットを引用しながらも、それらは「内戦のように政治システムの制御と変容へと向かうようには思われず、無秩序の最大化へと向かうように思われるような戦争」であり、その理論的探究は「内戦理論ではなく、ただ国内紛争のマネジメント、つまりはその運営、操作、国際化でしか」(p. 12) ないと指摘する。
 内戦理論に関する論考が少ないもう一つの理由として、革命概念の時代的「人気」によるのだろうと推測しながらも、ここでもアーレントの「古代は〔内戦による〕政治的変化を、また変化にともなう暴力をよく知ってはいたが、それらはいずれも、何かまったく新しいものをもたらすものと見えていたわけではない」(『革命について』)という言葉を引用しつつ、内戦と革命はその概念において明確に異なると述べている。
 アガンベンは、内戦についてのそのような理論的状況を踏まえたうえで、本書に対するモチベーションを次のように記している。

 しかじかの内戦理論を提起するということは、本テクストのありうべき目標のなかにはない。私はむしろ、内戦理論が西洋の政治思想において、その歴史の二つの瞬間においてどのような姿を呈するかを検討するにとどめることにする。二つの瞬間においてとはつまり、古典ギリシアの哲学者たち、歴史家たちの証言において、そしてまたホッブズの思想においてである。この二つの例は出まかせに選ばれたものではない。私が示唆したいのは、これらがいわば同一の政治的パラダイムの表裏二面を表象しているということ、それが一方では内戦の必然性の断言において、他方では内戦の排除の必然性において表明されているということである。このパラダイムが現実には単一のものだということが意味するのは、内戦の必然性と内戦の排除の必然性という、互いに対立している二つの必然性が秘かな連帯を保ち続けているということである。この秘かな連帯をこそ理解しなければならない。  (pp. 14-5)

 私(たち)は、ある国において二分(ときとして四分五裂)した国民が武器を持って相争うというイメージで内戦を理解している。それは革命という新しい社会像をめざすものではけっしてなく、単なる覇権を争うものにすぎないと考え、理念的には排除されるべきものと考えてきた。しかし、本書が明らかにしようとしているのは、「内戦の必然性」と「内戦の排除の必然性」という背理的な二面性であるというのである。
 「古典ギリシアにおける内戦――もしくはスタシス――という問題の分析は。ニコル・ロローの諸研究によってこそ始まる」 (p. 15) と断じるアガンベンはロローの内戦論の検討から始める。ロローは、内戦を「オイコス(家族もしくは家)」と「ポリス(都市ないしは都市国家)」の関係の場に置く。しかし、それは一般に流布されている「都市のなかへと家族が乗り越えられ、公的なもののなかへと私的なものが乗り越えられ、一般的なもののなかへと個別的なものが乗り越えられる」 (p. 18) と考える階層的なパラダイムへの疑義として考えられている。
 内戦(スタシス)は家族の紛争として起きるが、家族(オイコス)そのものがポリスとの関係で両義性を持つ。「血族内のスタシス」は、「血族として、血族であることで、その閉域のなかで考えられた都市が、都市自体と保つ血なまぐさい関係」(ロロー)を表している。

内戦が家族と本性をともにしている――つまり、内戦が「家の戦争(oikeios polemos)」である――かぎり、そのかぎりにおいて内戦は都巿と本性をともにしており、ギリシア人の政治生活の欠かせぬ構成部分となっている――これがロローの示唆していると思われるテーゼである。 (p. 22)

 ロローは、紀元前三世紀のギリシアの小都市ナネコにおいて、スタシスの後、血縁による家族を無効化し、市民を5人組の「籤による兄弟」とする和解を組織したことを例示した。これは、血族内の内戦からポリスを開放すると同時に、ポリスに政治的な親族関係を再構成するものだ。

〔……〕スタシスの本来の場はオイコスであり、内戦は「家の戦争(oikeios polemos)」である。オイコスには――そしてそれと本性をともにするスタシスには――本質的な両義性が内属している。オイコスは都市の破壊を起因するものであるとともに、都巿を統一されたものとして再構成することのパラダイムでもある、という両義性である。 (pp. 30-1)

 ロローの理路は、「スタシスはオイコスの内部に位置づけられ、そこにおいて生成する」という仮説から出発しているが、アガンベンはその仮説を修正する必要があると主張する。

しかし、プラトンの対話編でアテナイ人の提案している法の文言から結果として生じてくるのは、スタシスとオイコスのあいだの連関であるというより、兄弟と敵、内と外、家と都巿を内戦が一つのものとして同化し、互いに区別不可能なものにするという事実である。スタシスにおいては、最も内奥なものの殺害が最も疎遠なものの殺害と区別されない。だが、このことが意味するのは、スタシスの場が家の内部にあるのではなく、その場がむしろオイコスとポリスの違い、血の親族関係と巿民性の違いがなくなる境界線を構成しているということである (p. 33)

スタシスはオイコスのなかにもポリスのなかにも、家族のなかにも都市のなかにも位置づけられない――これが私たちの仮説である。スタシスは家族という非政治的空間と都市という政治的空間のあいだの違いがなくなる地帯を構成している。この境界線を越えることでオイコスは政治化され、その逆にポリスは「家政化」される。つまり、それによってポリスはオイコスへと縮減される。このことが意味しているのはギリシア政治のシステムにおいては内戦は政治化と非政治化の一境界線として機能しておりそこを通ることで家は都巿へと超出し巿は家族へと脱政治化されるということである (pp. 35-6)

 こうしてアガンベンは、スタシス(内線)をオイコス(家庭)固有のものから、オイコスとポリスの境界に位置するところで生起するという仮定を設定する。そして、プルタルコスやキケロ、アリストテレスまでもが言及しているにもかかわらず、近代の政治史において見過ごされている「特異な資料」を挙げて、スタシス(内線)が政治化と非政治化の境界線として位置付ける仮説を強く支持していると述べている。

それは、内戦において両派のいずれのためにも闘わなかった巿民をアティミア(つまり市民権喪失)で処罰したソロンの法のことである(アリストテレスが次のようにあからさまに言っているとおりである。「都市が内戦状態〔stasiazousēs tēs poleōs〕にあるときに、両派のいずれのためにも武器を取らない〔me thētai ta hopla、文字どおりには「盾を置かない」〕者は汚名を着せられ〔atimon einai 〔アティミアを科され〕〕、政治から排除される〔tēs poleōs mē methechein〕ものとする」。キケロはこの「atimon einai 〔アティミアを科され〕」を「capite sanxit 〔頭の制裁を受け〕」と翻訳し、ギリシアのアティミアに〔ローマ法において〕呼応する「capitis diminutio 〔市民権喪失を意味するが、文字どおりには「頭減らし」〕」をちょうどうまい具合に喚起している)。 (pp. 36-7)

 内戦においてどちらにも与しなかったものは市民性をはく奪されて政治(ポリス)から放逐される。スタシスはオイコスから生起してくるにも関わらず、「巿民性から出て私的なものという非政治的条件へと縮減される」機制を有している。つまり、「スタシスは、極端な事例において政治的要素を啓示する試薬のように、これこれの存在が政治的なものであるか、非政治的なものであるかをそれ自体で規定する政治化の境界線のように働く」(p. 37) のである。
 ギリシア民主制においては、内戦が起きたときにどちらの勢力にも与しない立場、いわゆる〈中立〉は認められないのである。〈中立〉であることは、政治に関与する市民に値しないということだ。現代においても〈中立性〉は問題のある概念だ。〈公正〉と同じように〈中立〉は、ポジティブな価値を与えられている一方で、その欺瞞性をあわせて指摘され続けている。例えば、解釈改憲から実際の改憲へ向かう道筋で自公政権は、ほとんどの憲法学者が憲法違反だと判断するような安保法制(戦争法制)を成立させた。それに対して、多くの国民が反対運動のために公共施設で集会を持とうとしたとき、それらの公共機関が〈中立性〉を理由に施設の使用を認めなかった。明らかに政治権力の側に立ちながら、〈中立〉を標榜する典型的な欺瞞性を顕在化させていたのである。
 ギリシア民主制における内戦を現代の政治的対立と見なすと、選挙権を行使しない成人あるいは支持政党なしと称しながらマスコミに誘導されるままに投票行動をする(敵、味方を行ったり来たりする)成人は、「政治から排除されるもの」に相当するだろう。有権者の過半数がそれに相当することは残念なことだが、もちろん現代では「政治から排除する」ことは制度的には認めがたい。しかし、公共社会という視点からは、政治に責任を有する個人、主権を構成する一員として「政治から排除されるもの」とならないことが強く求められている。政治権力は「物言わぬ国民」を期待するが、国家理念は常に「物を言う国民」を必要としているのである。

 スタシス(内戦)は、どちらにも与しなかった者の政治的権利の剥奪という点でのみ政治的意味を持つのではない。内戦がどちらの勝利に終わるにせよ、終戦処理のなかにきわめて重要な政治的意味が生まれる。それは、〈大赦〉である。敗北した側は、徹底した〈大赦〉によって許される。ひるがえって言えば、このことは、〈中立〉であることは〈敵〉であることよりも政治的には許されないことと考えられていたことを意味している。

法権利の観点からすると、スタシスは二つの禁止によって次のように定義づけられるが、その二つの禁止は互いのあいだで完璧に一貫性をもつものである。すなわち一方では、両派のいずれにも与しないことは政治的に言って有罪であり、他方では、内戦が終わったならば内戦を忘れることは政治的な義務である。  (p. 43)

アテナイの「大赦〔amnēstia〕」は単なる忘却や過去の抑圧ではない。それは、記憶の悪用をしないようにという誘いなのである。スタシスは、非政治的なもの(オイコス)が政治的なものへと生成することを、また政治的なもの(ポリス)が非政治的なものへと生成することをしるしづける、都市と本質をともにする政治的パラダイムを構成する。そのかぎりにおいて、スタシスは忘れられたり抑圧されたりすることのできるような何かではない。それは、都巿においてつねに可能的であるにとどまるべき、しかしながら訴訟や怨恨を通じて想起されてはならない、忘れられないものである。つまりそれは、近代人にとって内戦がそうであると思われる当のものの正反対のものである。近代人にとって内戦とは、いかなる対価を払っても不可能にしようとしなければならない何か、訴訟や法的訴追によってつねに想起させられなければならない何かなのである。 (pp. 44-5)

 本書で語られる内戦(スタシス)は、明らかに現代の世界的内戦あるいは私たちがイメージする内戦とは異なるが、政治的対立として内戦をとらえるならば、政治的私人としてしかこの社会に存在できない私たちにとってきわめて示唆的であると言える。
 アガンベンは「スタシス」の章を、現代の内戦について次のような言葉で締め括っている。

 今日、世界史において内戦が引き受けた形式はテロリズムである。近代政治は生政治であるとするフーコーの診断が正しく、またそれを神学的-オイコノミア的なパラダイムへと導く系譜学も正しいとすれば、世界的テロリズムは生としての生が政治の賭け金となっているときに内戦が引き受ける形式である。人々を安心させるオイコスという形象――「ヨーロッパという家」、もしくはグローバルな経済的管理の絶対的空間としての世界――においてポリスが提示されるとき、スタシスはオイコスとポリスのあいだの境界線に位置づけられることはもはやできず、あらゆる紛争のパラダイムとなり、恐怖政治の形象へと入りこむ。テロリズムは、地球上の空間のこれこれの地帯、しかじかの地帯をかわるがわる攻囲する「世界的内戦」である。「恐怖政治」が、生としての生――国民、つまり誕生――が主権の原則となった瞬問と一致したというのも偶然ではない。生としての生が政治化されうる唯一の形式は、死への無条件な露出、つまり剥き出しの生なのである。 (pp. 48-9)

 かくしてアガンベンは、スタシスをめぐる主題が自らの『ホモ・サケル』や『アウシュヴィッツの残りのもの』、『到来する共同体』、『開かれ』の主題に接合していることを示しているのである。

  
トマス・ホッブズ『リヴァイアサン』初版の扉絵 (p. 55) 。

 後章の「リヴァイアサンとビヒモス」は、トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』に収められた扉絵の「哲学的図像学」 (p. 54) による解読から始まる。リヴァイアサンとビヒモスは、ともに聖書の終末論的な逸話に現れ、リヴァイアサンは海の、ビヒモスは陸の怪物(動物)である。
 口絵のリヴァイアサンは国家主権を表徴する人物として丘の向こうの海の上に立ち(浮かび)、人々は主権を構成する人民としてリヴァイアサンの体の一部となっている。前景の丘は都市へと続いているが、その都市(国家)には住人が描かれていない。アガンベンは、リヴァイアサンが都市(国家)内ではなく、海に立脚していることに注目する。

このエンブレムが読者に対して立てる謎は、住民のいない空虚な都市という謎、地理的境界の外に位置する国家という謎である。ホッブズの政治思想において、この一見した難問に対応しうるのは何か? (pp. 77-8)

 この謎を解くために著者はホッブズの『市民論』を援用する。

 彼は『巿民論』で次のように書いている。「人民とは一である何か〔unum quid〕である。それは一つの意志をもち、それには一つの行動を割りあてることができる。群がり(マルチチュード)についてはこのようなことは何も言うことができない。人民はあらゆる都巿において君臨している〔populus in omni civitate regnat〕つまり君主制においても人民が命令している。というのは、人民は一人の人間の意志を通じて意志するからである。群がり(マルチチュード)とは市民たち、つまり臣民たちのことである。民主制や貴族制においては、市民たちは群がり(マルチチュード)であるが、議会が人民である〔curia est populus〕。君主制においては、臣民たちもは群がり(マルチチュード)であり、これは逆説ではあるが〔quamquam paradoxum sit〕、王が人民である〔rex   est populus〕庶民や、このことがわからないその他の者たちは、多数の人間についてそれがまるで人民であるというかのように、つまりそれが都巿〔civitas〕であるというかのようにつねに語り、都市が王に対して反抗したなどと言うが、それは不可能なことである。あるいはまた彼らは、ぶつぶつ言う不穏な臣民たちが意志したりしなかったりしている当のものを、人民が意志したりしなかったりしているなどと言う。彼らは人民という口実を使って、市民たちに都巿に対して、つまり群がり(マルチチュード)に人民に対して反乱するよう吹きこむ」。  (pp. 78-9)

 逆説的な表現であるが、ここでは人民は、王、つまり国家主権(政治体)と同等のものとして記述され、群がり(マルチチュード)と峻別されている。しかし、人民は群がり(マルチチュード)と別々に存在しているわけではない。王が選ばれる(国家主権が成立する)と「人民はもはや一つの人格ではなく、解体された群がり(マルチチュード)である。なぜならば、人民が一つの人格だったのはただ主権的権力の力によるが、それを人民は自分から王へと移してしまったからである」(『市民論』)。例えば、民主制においては王を議会に置き換えればよい。
 アガンベンは、さらに群がり(マルチチュード)にはホッブズの言う解体された群がり(マルチチュード)と統一されていない群がり(マルチチュード)があると考える。その二つの群がり(マルチチュード)を隔てるのは内戦である。つまり、次のような循環図式を考えているのである。統一されていない群がり(マルチチュード)は、主権形成の一瞬において人民となる。主権形成に成功すれば、人民は解体された群がり(マルチチュード)になる。解体された群がり(マルチチュード)がふたたび統一されていない群がり(マルチチュード)として新しい主権形成の人民となるためには機制は「内戦」だとアガンベンは考えるのである。

 解体された群がり(マルチチュード)が――人民がではなく――都巿における唯一の人間の現前であり、群がり(マルチチュード)が内戦の主体であるとするならば、そのことが意味するのは、内戦がつねに国家において可能的なままだということである。ホッブズはこのことを、『リヴァイアサン』第二十九章「公共体(コモン-ウェルス)を弱化させる、もしくは解体へと向かわせるものについて」においてあけすけに認めている。その章の結論で、彼は次のように書いている。「最後に、戦争(対外戦争であれ国内戦争であれ)において敵が最終的勝利を収め、(公共体(コモン-ウェルス)の諸力が戦場をもはや保持せず)忠誠を尽くす臣民がもはや保護されなくなったとき、公共体(コモン-ウェルス)は解体されている。各人は、自分の裁量の示唆する道にしたがって自分を保護する自由をもっている」。このことは、内戦が進行中で、群がり(マルチチュード)と主権者のあいだの闘争の命運がまだ決定されていないあいだは、国家の解体はないということを含意している。内戦と公共体、ビヒモスとリヴァイアサンは共存している。ちょうど、解体された群がり(マルチチュード)が主権者と共存しているのと同じようにである。国內戦争が群がり(マルチチュード)の勝利で終わってはじめて、公共体から自然状態への回帰、解体された群がり(マルチチュード)から統一されていない群がり(マルチチュード)への回帰が起こる。 (pp. 96-7)

 人民は主権者の人格のなかへ移されてしまえば都市から消えてしまう。解体された群がり(マルチチュード)も統一されていない群がり(マルチチュード)も政治的意味を持たないので、政治の場である都市に描かれることはない。それが、『リヴァイアサン」の扉絵に都市の住民が描かれない理由である。
 それでは、主権者としての王/国家ないしは公共体(コモンウェルズ)がリヴァイアサンによって表象されるのはなぜなのか。「公共体(コモンウェルズ)の理論を提供しようと意図していたホッブズがなぜ、少なくともキリスト教の伝統では魔的な共示を引き受けてしまっていた怪物の名で当の公共体(コモンウェルズ)を呼んだのか?」 (p. 98) と著者は問う。シュミットはそれを「イギリス的ユーモア」だと評している。アガンベンはその著書『開かれ』でリヴァイアサンに関して次のように記述している。

 ミラノのアンブロジアーナ図書館には、貴重な細密画を含む一三世紀のヘプライ語聖書が一冊保管されている。第三写本の最後の二頁全面に描き出されているのは、神秘的かつメシア的な霊感に充ちた情景である。(……)最後の頁(136r)は、二つの部分に分かれ、上部には「三匹の太古の動物たち」が置かれている。(……)
 しかし、とりわけわれわれの興味を惹くのは、写本を閉じるという意味でも、人類の歴史を締めくくるという意味でも、最後のものとなる情景である。そこには、最後の審判の日における義人たちのメシア的な宴が描かれているのである。二人の楽人の音楽に活気づいた楽園の木陰で、冠をつけた義人たちは、豪華な御馳走を並べた食卓についている。メシアの世において、トーラーの淀を一生涯遵守した義人たちが、適正な方法に則って屠られたかどうかを一切気にすることなく、レヴィヤタンやべへモー卜の肉の御馳走にありつける、という考えは、ラビ伝承ではきわめておなじみのものである。 [1]

 「レヴィヤタン」はリヴァイアサン、「べへモー卜」はビヒモスである。リヴァイアサンもビヒモスも世界の終末、メシアの時には相争って二頭とも死に、義人たちがそれを食するというのである。そして、ホッブズは、世界に終末が訪れるとき、キリストが再臨し、「神の王国」が成立するのだと説くのである。神の王国における絶対的な主権と比較すれば、人間(人民)から主権を移された王/公共体は、権力は絶大であってもリヴァイアサンの巨獣の暴力のごときものにすぎないという暗喩であると私は理解した。しかし、ホッブズは「神の王国」は暗喩ではないと説いているのである。

 神の王国は隠喩的にではなく文字どおりに了解されなければならないとするホッブズの断言を私たちが真面目に受け取るとすれば、このことが意味するのは、地上の時間の終わりになればリヴァイアサンの頭部的虚構は抹消されうるだろうということ、また人民が自分の身体をあらためて見いだすことができるだろうということである。一方の政治体(ボディ・ポリティカル)――リヴァイアサンの光学的虚構においてのみ可視的であり、事実上は非現実的なもの――と、他方の、現実的であるが政治的には不可視である群がり(マルチチュード)とを分割している断絶は、最終的に、完璧な教会において埋められることになる。だがこのことはまた、それまではいかなる現実的統一性も、いかなる政治体も真には可能ではないということをも意味している。政治体(ボディ・ポリティカル)はただ群がり(マルチチュード)へと解体されうるだけであり、リヴァイアサンはただ最後までビヒモスと、つまり内戦の可能性と共存しうるだけである。  (pp. 115-6)

 残念ながら、私(たち)は神の王国を見ることはない。リヴァイアサンの国で、ビヒモス(内戦の可能性)と共存したままである。本書で語られている内戦は、アーレントの語る「世界的内戦」とは必ずしも同じものではない。しかも、内戦は革命ではない。私たちは、現在、明らかに厳しい政治的対立に直面している。沖縄の辺野古における反基地闘争は人民の非暴力と国家の暴力装置との直接的対決になっている。
 訳者である高桑和巳は、日本の政治的状況を「訳者解説」のなかで、次のように述べている。

二〇一一年三月十一日(東日本大震災および福島第一原子力発電所事故)というかなり特殊な出来事があるとはいえ、日本の今日の文脈もまた、皮肉にもすでに世界的な水準に到達して久しい。安倍晋三政権が二〇一五年九月に成立させた新安保法制が違憲だというのはまず間違いのないところだが、これもまた、行政が立法を凌駕するという国際標準の流れを模倣するものにすぎない。二〇一六年二月に調印されたTPP (環太平洋戦略的経済連携協定)も、同じく二〇一六年に自民党が企図を具体化している憲法改正(とくに緊急事態条項の追加)も、行政に白紙委任せよとの意志がわかりやすい形で現れたものでしかない。政権がいわば小さな自己クーデタの数々をたたみかけるように企て、それによって生ずる無秩序によって逆説的に統治を遂行する、というのはこの時代の統治の卑しむべき常道だと言つてもよい。
 法的に言って正統性を失った(と少なくない人々によって見なされる)体制が一方にあり、他方にはその体制を転覆させるべく集まる人々がいる。なるほど、ここには火器や暴力は見られない。衝突による殺害は両派のいずれにも依然として確認されない。おこなわれているのは街路での非暴力的なデモや集会や署名運動、あるいは大学その他での穏やかなシンポジウムや研究会である。しかし、これを内戦以外の何と呼べばよいのか? 私は蜂起を呼びかけているわけでもない。人々はすでに蜂起している。内戦はいま、ここにある。  (pp. 144-5)

 たとえ、国家権力が暴力装置の暴力そのものを駆使しても、私たちは非暴力的内戦を戦っている。そして、それは「何かまったく新しいものをもたらすもの」(アーレント)としての革命ではない。解体されたマルチチュードから統一されないマルチチュードへの変態のプロセスのなかで、民主的システムの階梯を一つだけでも上げていこうとする戦いだ。
 この内戦は、どちらにも与しない者たち、かといって政治の場からは決して排除することができない者たちの壁で苦しんでいる。政治的無関心、欺瞞的〈中立〉にどう対応するのか、効果的な道筋がはっきりと見えているようには思えない。3・11以来、国会前に自発的に集まるマルチチュードの行動形態に希望を見出す人々もいる(私もそうだが)が、その先行きはまだ決していない。


[1] ジョルジョ・アガンベン(岡田温司、多賀健太郎訳)『開かれ――人間と動物』(平凡社、2011年) p. 11。



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【書評】アレッサンドラ・マウロ編『MARIO GIACOMELLI――黒と白の往還の果てに』(青幻社、2009年)

2016年10月17日 | 読書

現代では、ゆくりなく見えるすべてのことは〈ゆくりなく見えるようにつくられた〉ものにすぎないのであり、それに気づかないふりをするしか、〈ゆくりなく見えるようにつくられたもの〉を楽しむすべはない。そこには驚きも感動もない。映像はたんなる確認行為でしかないのである
            (辺見庸『私とマリオ・ジャコメッリ』p. 77)

 


アレッサンドラ・マウロ編
『MARIO GIACOMELLI――黒と白の往還の果てに』
(青幻社、2009年)


辺見庸
『私とマリオ・ジャコメッリ――〈生〉と〈死〉のあわいを見つめて』
(日本放送出版協会、2009年)

 

 図書館の書架の間を行きつ戻りつし、読みたい本を探しあぐねていたとき、写真に関する本でもいいかと思いついた。人並みに一眼レフで写真を撮るのだが、最近、もう少しいい写真が撮れないかと考えることもあったからだ。
 写真の分類の書架に「辺見庸」の名前を見つけて思わず手にしたのが『私とマリオ・ジャコメッリ』という本である。マリオ・ジャコメッリという人物を全く知らなかったのだが、「生と死のあわいを見つめて」という副題そのものは、辺見庸という作家がずっと主題としていたことに思えて、なんでこのコーナーにあるのかと訝りながら手にしたのだった。この本は写真家ジャコメッリに作家辺見庸が共鳴しえたもろもろが書き記されているらしいので、「ジャコメッリ」で検索して『MARIO GIACOMELLI――黒と白の往還の果てに』という大判の写真集を見つけ、辺見庸本と一緒に借りだした。
 まず辺見庸の『私とマリオ・ジャコメッリ』を読み、作家の言葉をたよりに写真集を眺めたのである。私は、写真芸術(ないしは芸術写真)という領野にほとんどなじみがない。だから、この2冊を並べて読み、眺める機会が得られたというのは、私にとってとてもいい偶然、幸運な偶然だった。
 まず、辺見庸の次のような言葉を肝に銘じつつ、写真を開く(以下、『私とマリオ・ジャコメッリ』からの引用は『私と……』とページ、『MARIO GIACOMELLI』は単にページのみを記す)。

フォトグラフ(photograph)という外国語に「写真」という訳語をあてたのは、日本人にとって不幸なことであった。写真とはすなわち〈真を写す〉の謂だが、これほど政冶的であり、また罠でもあるような名辞もないだろう。なぜなら、映像(写真)提示されればただちに、「これは現実に存在するものを写したのにちがいない」という思いこみがわれわれに生じるという仕掛けが、写真という名辞と装置のなかにあらかじめ組みこまれているからである。 (『私と……』、p. 18)


《自然についての認識》1977-2000年、マルケの野(p. 51)。


《自然についての認識》1977-2000年、マルケの野(p. 56)。

 写真集は、ジャコメッリの風景写真で始まる。《自然についての認識》や《大地の物語》という農地のシリーズと、《わが物語の海》という海浜のシリーズである。前者は耕された農地の畝が幾何学的な印象を与える写真がほとんどで、後者は海水浴場や小さなボートの浮かぶ海岸縁を上空からまっすぐ下に見下ろした写真で、いわゆる風景がというよりは風景を用いた「コンポジション」と称される抽象絵画のような効果を与えている写真群である。
 これらの作品には自然そのものと言えるような風景はない。人間によって耕された大地であり、小屋や海水浴客のパラソルが並ぶ砂浜がジャコメッリの自然ということのようだ。言ってしまえば、ジャコメッリは人間が深く関与した自然をどう表現するかに腐心したように見えるのだ。自然といい風景といいながら、ジャコメッリはそこに写し込まれた人間の存在を抽出しようとしているのではないか。たしかに、これらの写真群は、自然が持つ抽象絵画的な美を切り取って見せてはいるが、その美には人間が関わっているということが主題から外せないのではなかろうか、そう思う。

どこが抽象だというのか! 私が愛するジャコメッリのなかには、私がもっとも偉大だと思えるジャコメッリのなかには、悲劇的夢想性は現実の責め苦を礎とし、彼のリアリズムは視覚の威力の申し子なのだ  (p. 163)

 私は「抽象」という言葉を使ったが、フェルディナンド・シャンナは上のように力説している。いくぶん、日本語としての(訳文の)構造が分かりにくいが、ジャコメッリにおける「視覚の威力」に異論をはさむつもりは毛頭ない。シャンナの言う「リアリズム」は目に見えたままを写し取るリアリズムではなく、主題の実相のリアリティの強度について言っている。
 辺見庸は「視覚の威力」をジャコメッリの「眼=カメラ」として、現実から主題を抽象するジャコメッリの創作方法について述べている。

かれはカメラにも、ましてそのメカニズムにもさほどの興味を示さない。なぜなら、かれにとってのカメラはかれ自身の眼だからである。その眼=カメラによって、自分の主観に映ずるなにものかのイメージを現実空間からすくいあげて画像として抽象してゆく。ジャコメッリは撮るのでなく、眼で描くのだ。それがジャコメッリの創作方法である。 (『私と……』、p. 100)


《庭師の妻》1956年(p. 76)。


《ロレート》1958年(p. 92)。

 辺見庸は、ジャコメッリを「写真家」とカテゴライズすることに異を唱え、「映像作家、映像作品と呼ぶべき」(『私と……』、p. 19) と主張する。実際、ジャコメッリは主題表現のため様々な手法を駆使している。それは、例えば、自分の写真を「フォトショップ」で加工することすら「リアリズム」の棄損とためらってしまうような凡庸な私(たち)の写真のまったく異なった極にある。
 「われわれが分析しているイメージはかなりの確率で複合プリント、二つの異なるネガから得られたフォトモンタージュ」(p. 82) とパオロ・モレッロは指摘するが、決してその技法ばかりではない。

たとえばかれは、重ね撮りや意図的な手振れなどの技法はもちろん、映像上にものも貼りつければ、絵筆で絵や模様まで描いた。自分の眼をカメラだと考えていたかれは、自身の眼にとりこんだ、あるいは自身の眼に浮かんだイメージを〈表現〉するためには、なんでも平気でやったのである。古典的な、もしくはナイーブな写真芸術家なら、ジヤコメッリの映像を〈写真〉とはおそらく認めないだろう (『私と……』、p. 93)

 しかし、私のような「古典的な、もしくはナイーブな」一観者にすぎない者にとっても〈写真〉と名指しうる作品もある。それは、上の《庭師の妻》であり《ロレート》シリーズに含まれる作品などである。
 《庭師の妻》はジャコメッリの母親であるというが、使い込まれて先端が光り輝く象徴的な鋤、それと並ぶ農婦の表情、そして手前に置かれた太く力強い右手のそれぞれの存在感が圧倒的なリアリズムとしてある。一方で、この作品はきわめて主情的な表現主義のようにも思える。この写真は、ジャン・フォートリエの初期作品である《管理人の肖像》に描かれた老嬢の前に組まれた手を思い出させる。それは小柄な婦人像に似つかわしくないほどの大きく強調された手であった。
 「時間」と「死」がジャコメッリの写真に通底するものだと語るのは、辺見庸ばかりではなく、表現は違っても『MARIO GIACOMELLI』に抄録された評者たちも同様である。母親の手も、古い鋤の先端の輝きと不均等な磨滅の様子、農作業で鍛えられつつも荒れていく手、すべてが凝縮された時間としてピン止めされている。
 《ロレート》シリーズはおそらく「ロレートの聖母」で知られる巡礼地での撮影だと思われる。グエルチーノの絵画《ロレートの聖母を礼拝するシエナの聖ベルナルディーノと聖フランチェスコ》では二人の聖人が礼拝しているが、カラヴァッジョの《ロレートの聖母》では貧しい身なりの巡礼の男女が描かれている。ジャコメッリの写真はそれぞれに人生を抱えた巡礼の人々が疲れた体を休めている情景で、いわばカラヴァッジョの「ロレートの聖母」から聖母子像と巡礼者の祈りの姿をあえて外すことで、現代の人生の疲労と苦悩を浮き彫りにするようなリアリズムを獲得している。中央に並んで座っている二人の婦人の眼差しに捕らえられて目が離せないのである。


《ルルド》1957年(p. 89)。


《死がやって来ておまえの目を奪うだろう》1954-1968年、セニガッリアのホスピスでの撮影(p. 101)。


《死がやって来ておまえの目を奪うだろう》1954-1968年、セニガッリアのホスピスでの撮影(pp. 102-3)。

 《ロレート》シリーズもそうだが、病や身体的障害の恢復の奇蹟を信じて巡礼する人々を写し取った《ルルド》シリーズや、セニガッリアのホスピス施設を撮影場所とした《死がやって来ておまえの目を奪うだろう》シリーズに(私にとっての)ジャコメッリらしさがよく顕われているように思う。
 ルルドもまた巡礼地なのだが、巡礼路の周辺の情報を一切消し去って、奇蹟を信じて集まってくる人々の列のみを写しとって(映しだして)いる。《ルルド》シリーズには病める人の肖像のような写真もあるが、どちらかと言えば、集まった巡礼者の集団の映像に主眼が置かれているように思える。ベッドに横たわる人も含めた巡礼者の大集団が祈りを捧げている光景を写した1枚は端から端までびっしりと人ばかりで、その地の情報は何も与えられていない。主題は「人間」であり、その「生」と「死」である。
 《死がやって来ておまえの目を奪うだろう》というシリーズの作品は、どれも私には衝撃的なものだった。私は102歳で死んだ母親を看取り、今は112歳と高齢の妻の母と暮らしている。しかし、肉親や身近な老人を私(たち)が見つめることとジャコメッリのホスピスの住人へ向ける凝視とは大いに異なっているようだ。
 もともとジャコメッリの母親がこのホスピスで洗濯婦として働いていて、少年時代から出入りを続けていることでこのシリーズの撮影が可能になったとされている。しかし、「時間」を紡ぐことすら覚束ないほどに「死」が目前にある人びとを対象としてこのような「時間」と「死」をイメージとして形作るのは、決してそのような撮影条件によるのではなく、ジャコメッリの過酷なまでに凝視する眼の力であるに違いない。
 死の床にある老女とその場所から立ち去るかのごとく配置された黒ずくめ(または黒い影だけ)の人で構成された1枚は、「ホスピスの生活」の写真のなかでも「もっとも名高いもの」とパウロ・モレッロは評して次のような解説を与えている。

中央下に年老いた女性の顔を、そしてそのまわりをぐるりと取り囲んだほかの女たちの、何人かは座り、ほかはゆっくりと遠ざかってゆく黒い影を見せる。前景の女性は頭をハンカチでおおい、目を蘇り、唇は力なく開かれている。その顔のトーンは蠟のようで、血の気がない。もちろん女性はまだ生きている、が、伝わってくる想念は、最後の息をひきとる瞬間は遠くないだろうというものだ。ジヤコメッリはこの程なき旅立ちの、すでに無形化しつつある、薄れゆく軽さの――そしてすなわち、魂の表現の――想念を、技術的には多重露出によって表している。 (p. 81)

 辺見庸は自らの臨死体験を踏まえて、写真家は死にゆく者たちを見ているが、死にゆく者はまたこちらをよく見ているのだと語る。そして、ジャコメッリのこれらの作品群は、ジャコメッリ自身が死にゆく者たちの側から見ているのではないかと言うのである。

「死にゆく人間の意識の側から撮っている」と私が感じたあの一枚は、おそらく、〈見る—見られる〉の相互的関係、あるいはその弁証法にかれが気づいていたことの証ではなかろうか。

かれは被写体であるおばあちゃんの意識の側から撮った。少なくとも、そのように撮ろうとした。そして結果的に、生と死のあわいを、「生に依存した死、死に依存した生」という神秘を埋めこんだ映像をつくりあげたのである。 (『私と……』、pp. 66-7)


《スカンノ》1957年、アブルツッォ州スカンノでの撮影(pp. 146-7)。


《スカンノ》1959年、アブルツッォ州スカンノでの撮影(pp. 148-9)。


《スカンノ》1957年、アブルツッォ州スカンノでの撮影(pp. 146-7)。


《スカンノ》1957年、アブルツッォ州スカンノでの撮影(p. 157)。

 辺見庸の評言の中で私が最も感銘を受けたのは、ジャコメッリの創造する世界は「識閾」と呼ばれるべき領野で展開しているというものである。

私はジャコメッリのほとんどの映像に知覚心理学などでいう識閾のような心的領域を見ている。識閾とは、なにかに気づくかどうかの意識の境目であり、人間の意識が生起し、あるいは逆に消失していく境界でもある。そこでは意識は薄く、きれぎれでありともすればすぐにもとぎれそうになっている。そこはまた、はしなくも潜在意識や記憶の驚くべき古層がかいまみえたりもするところであり、映像芸術にとっては淡水と海水がまじわるがゆえにさまざまの魚たちがあつまってくる汽水域のように謎めいた〈意識の秘境〉だ。そんな識閾をだれよりも感じさせるジャコメッリの映像に、私はいやおうなく惹きつけられる。 (『私と……』、p. 30)

 ジャコメッリの「潜在意識や記憶の驚くべき古層」は私たちのそれと通底しているだろう。だから、それは、誰にでもある「時間」と「死」を通じて形成された識閾となっていて、スティグレールが語る「象徴」[1] と同じように私たちの共感の根拠となっている(スティグレールの象徴よりももっと意識の深い領野にも思えるが)。
 《スカンノ》のシリーズは、古い習慣や風俗を残している小さな村スカンノの人々を写したものである。それぞれに重ね撮りやモンタージュの技法が施されている写真は、明らかに異様な(視覚的に違和のある)映像でありながら、デジャブのような懐かしさも醸成している。辺見庸は、中央の少年だけに焦点があっている一枚を、これは〈異界〉の映像であり、「いまだ知らぬあの世のデジャヴ」を見ているのだと評している。

「スカンノの少年」の映像は、ジヤコメッリによってとらえられた〈あの世〉であり〈これから見る夢〉であり、〈まぼろし〉なのである。 (『私と……』、p. 9)

 村の石畳の坂道を上る牛と数人の人はどこか茫洋としていて、振り返った少女の顔だけに焦点があっている一枚には、こんな夢をどこで見たことがあると思わせる効果がある。見知らぬ背景も登場人物もぼんやりとしているが、たった一人の人の顔だけがありありと思い出せるほど鮮明な夢、そんな夢を本当に見たかどうかじつは記憶にはないのだが、よく見る夢のように思えてしまう。これこそが「識閾」の象徴的共有性なのではないか。


《良き大地》1964-1966年、マルケの野 (pp. 176-7)。

 辺見庸は、ジャコメッリの作品にはあまりキリスト教の影響を感じないという趣旨のことを述べているが、私は《良き大地》というシリーズ名そのものにキリスト教を感じた。写真集の最初に集められていた写真シリーズの「自然」は耕された農地のことであり、《良き大地》で描かれる世界も農地とそこで働き、暮らす人々を描いている。この大地は、聖書で語られる豊穣の大地、惠みの大地のイメージである。
 ジャコメッリ自身は、キリスト教的精神性を写真表現に明示的には持ち込んでいないのはたしかだと思うが、イタリアの地に根付くように続いたキリスト教文化は意識されざるままに「識閾」の中の背景をなしているのではないかと思われる。しかし、辺見庸がジャコメッリの写真に見る「聖性」は、個別的な宗教を越えてすべての人間において同等である「死」を通じて獲得されたものに違いない。

映像から読みとるかぎりにおいて、ジャコメッリの死生観は、そこに立ち会った人間でなければわからないようなおそろしさを秘めていると私は感じる。それは、人間的とか非人間的とかいう問題ではない。そのような、いってみればありきたりのヒューマニズムではない。そのような次元を突きぬけたところにしか、かれは関心をもっていなかったとおもわれる。ジャコメッリが惹かれたのは、死にゆく人間がつかの間放射する〈聖性〉のようなものだったのかもしれない。

いまわの際にある者の聖性。ジャコメッリはたしかに死にゆく者の幾人かを聖人のように撮った。 (『私と……』、pp. 68-9)

 誰にでも例外なく訪れる「死」によって生まれる共有性こそが、私たちが芸術作品を通じて共鳴しうる根拠なのかもしれない。そして、じつは私(たち)の貧しさが無意識的に「死」を避けてしまう日常的頽落に基づいているだろうことも確かなことのように思われる。

 [1] ベルナール・スティグレール『象徴の貧困』(新評論、2006年)



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