かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【書評】ジュディス・バトラー『戦争の枠組 生はいつ嘆きうるものであるのか』(清水晶子訳) (筑摩書房、2012年)

2012年09月28日 | 読書


 私が初めてジュディス・バトラーの著作を読んだのは、スラヴォイ・ジジェクの何冊かを読んだ後、その流れで選んだジジェクとバトラーにエルネスト・ラクラウを加えた3人による『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』(竹村和子、村山敏勝訳、青土社、2002年)である。

 ラカンの流れを汲む饒舌なジジェク、グラムシ、アルチュセールに続く現代左翼のラクラウに対して、クイアの理論家としてヘーゲルとフーコーを携えて論戦を挑むバトラーを読んだのである。3人のそれぞれの言説がすんなりと理解できたわけではないが、バトラーの文章にどこかハンナ・アーレントを思わせる誠実さのようなものを感じた。
 それで、『ジェンダー・トラブル』、『触発する言葉』、『生のあやうさ』と読み進めて、本書に至った。 

 この本は、ある程度までは二〇〇四年にヴェルソ社から出版された『生のあやうさ』につづくものであり、とりわけ、特定の生がそもそも生きているものとして捉えられていない場合、それらの生が傷ついたり失われたりしたことも感知されえない、という主張をひきついでいる。 [1] 

 『生のあやうさ』も『戦争の枠組』も、9・11以降のアメリカ合州国が生みだす罪科のもろもろに向き合おうという哲学的意志に基づいている。合州国は、「自らをグローバルな共同体の一員として定義する機会を失いつつあること、その代わりにアメリカではナショナリズム言説が力を得て、監視メカニズムが強化され、憲法で保障された権利が停止状態になり、あからさまなものであれ暗黙のものであれ、検閲が蔓延することになってしまった」 [2] のであり、国を覆う言論の状況は次のように述べられている。 

あのような出来事のあと、おおやけに発言をしてきた知識人たちが、正義の原則に基づく自らの公的債務に迷いを覚え、ジャーナリストたちも真相究明というジャーナリズムの伝統に背を向けてしまった。アメリカ合衆国の国境が侵犯され、看過できない脆弱性が暴露されたこと、人命におそるべき被害がもたらされたこと、それらは恐怖と悲嘆を引き起こし、今でもそのような状態が続いている。 [3]

 当時、アメリカ合州国への攻撃の「理由」を理解しようとした人は、攻撃した者を「免責」していると一様に見なされた。たとえば『ニューヨーク・タイムズ』の社説は「平和好き(ピースニクス)」――六〇年代の枠組みに根ざしたナイーヴで懐古的な政治活動家を指して使われた言葉――と、「拒否好き(レヒューズニクス)」――ソヴィエト式の検閲と統制に従うことを拒否し、その結果としてしばしば職を失った者たち――にかけて、「大目に見る好きもの(エクスキューズニクス)」という単語を使って非難した。 [4]

 「九月一一日にはどんな口実もありえない」という叫びが、こうしたテロ行為を可能にした世界を作るのにアメリカ合州国の外交政策がどう手助けしてきたかについての真摯な公的議論をすべて押し殺してしまった。このことをもっとも如実に示す例が、よりバランスのとれた国際紛争の報道の試みが放棄され、アメリカ合州国の軍事政策に対するアルンダティ・ロイやノーム・チョムスキーのような重要な批判が、アメリカの主要新聞から軒並み追放されてしまったことだ。(……)きわめて深刻なことに、異議申し立てを現代アメリカ合州国の民主主義的文化の重要な価値と見なす考え方そのものが疑われるようになったのである。 [5] 

 「反セム主義」と批判することで裏返しの反イスラムであることを強要するような状況(そのような言論封殺によってイスラエルを擁護することにユダヤ系アメリカ人である彼女は反対する)も含め、『生のあやうさ』ではそうした言論の危機的状況を分析、批判しているが、そのなかでバトラーらしく、ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァクの「白色のオトコが茶色のオトコの手から茶色のオンナを救おうとする」という言葉を引いて、反イスラムに組み込まれるフェミニズムの文化帝国主義について厳しく批判している [6]。

 アメリカ合州国の国家として振る舞いを分析、批判するに際して、バトラーはミシェル・フーコーの「生政治」と「主権」概念やジョルジョ・アガンベンの「主権の例外化」「例外状態」 [7] 概念を援用している。バトラーは明示してはいないけれども、この理路は、アメリカ合州国の国家的振る舞いがファシズム、全体主義国家のそれとして分析できることを示唆している。明らかに人間の生を「嘆きうる生」、「嘆くに値しない生」と2分することに拠ってしかなしえない戦争、殺戮、虐待が語られる。

 そして、『生のあやうさ』の主題は、グアンタナモ基地に拘束されている囚人(厳密には裁判を受ける権利がないので法律上の囚人ではない。また、国際法の適用も受けないため「捕虜」でもない)や、アフガニスタンやパレスチナで殺害される人々の「生のあやうさ」に論を進めるのだが、その基底にある思想はレヴィナスに強い示唆を受けていて、それは『戦争の枠組』にも脈々と流れている。

 エマニュエル・レヴィナスの考えによれば、倫理とは生の脆さ(プレカリアスネス)に対する危惧に依存している。それは他者の脆弱な生のあり方の認知から始まる。レヴィナスは「顔」に注目し、それが生の脆さと暴力の禁止をともに伝える形象であるとする。攻撃性は非暴力の倫理では根絶できない。レヴィナスはこのことを私たちに理解させようとする。倫理的闘争にとって人間の攻撃性こそが絶えざる主題なのだ。攻撃が押さえ込もうとする恐怖と不安、これらを考察することで、レヴィナスは倫理とはまさに恐怖や不安が殺人的行為にいたらないように抑えておく闘いにほかならないと言う。レヴィナスの議論は神学的で、神を源泉とする倫理的要求をたがいに突きつける人間の対面を引きだそうとする。 [8] 

身体は、社会的、政治的に分節化された力にさらされるのである。程度の差はあれ実存主義的な概念である「あやうさ(プレキャリアスネス)」は、こうして、より明確に政治的な観念である「不安定存在(プレカリティー)」と結びつけられることになる。そして、わたしの見るところ、不安定性が格差をともなって割り当てられているということこそが、身体の存在論の再考と、進歩的あるいは左翼的な政治との双方にとって、出発点となるのだ。アイデンティティーのカテゴリ—を乗り越え、横断しつづけていくようなかたちで。 [9] 

 『戦争の枠組』がもっとも強い関心で取りあげているのは、イラクのアブグレイブ刑務所における捕虜の拷問(性的陵辱)である。その様子が写真によって暴露されたときの合州国における国家としての反応は絶望的なものであったが、またそれは世論の変化を喚起した。

 アブグレイブの写真が最初に合衆国において公開されたとき、保守的なテレビ評論家たちは、これらの写真を見せるのは米国の国益に反する、と論じたのだった。わたしたちは、合衆国の人員の犯した拷問行為の生々しい証拠など、手にしないはずだった。合衆国が国際的に承認されている人権を侵害したことなど、知ることはないはずだったのだ。これらの写真を見せるのは反米的だし、その写真から、戦争がどのように遂行されているのかについての情報を探り出すのは、反米的なのである。保守派の政治評論家のビル・オライリ—は、これらの写真は合衆国についての否定的なイメ—ジをつくりだすのだと、そして、わたしたちには肯定的なイメージを擁護する義務があるのだと、考えていた。ドナルド・ラムズフェルドも以たようなことを主張し、これらの写真を見せるのは反米的であるとほのめかしていた。もちろん、アメリカ国民には自国の軍隊の活動について知る権利があるかもしれないことも、国民が完全な証拠にもとづいて戦争についての判断をくだす権利が参加と討議という民主的統の一部をなすことも、二人ともまったく考えてはいなかったのである。とすると、いったい何が本当に言われていたのか? わたしには、この時にイメージの力を制限しようとした人々は、情動の力、憤りの力を制限しようとしていたのだと思える。そのような力が、世論をイラクでの戦争に反対する方向に変えてしまうだろうということを、彼らは十分すぎるほど知っていたのだし、たしかに世論は変わったのだ。 [10] 

 捕虜に対する性的陵辱を駆動する精神は、本質的には反イスラムとしての人種差別に拠っている。陵辱しつつ誇らしげに写真にポーズを取る兵士、陵辱のシーンを撮影することになんのためらいもない撮影者、その精神性を分析しつつ、キリスト教西欧世界に深く浸透している反イスラムの思想に基づくことを明らかにする。イスラムは教えとして、同性愛を戒めている。そして、それを知ったうえでのアメリカ人兵士のホモフォビアが重なっていく陵辱プロセスが語られる。

 反イスラム精神は、じつは「リベラリズム」とか「市民的自由」だとか、あるいは「フェミニズム」だとか「同性愛への寛容」だとか、近代を経つつ西欧が獲得した進歩的思想と同期している、または、それをも根拠にしている。というのが、慧眼のバトラー、クイアの理論家としてのバトラーの主張である。

 たとえばオランダでは、新しく移民の申請をする者は、二人の男性がキスをしている写真を見せられる。そして、その写真が不快かどうか、個人の自由を表現していると理解されるものかどうか、ゲイの人々の自由な表現の権利を尊重する民主国家で生きるつもりがあるかどうか、報告するように求められるのだ。この方針に賛成する人々は、同性愛を受け入れることは、近代性を受け入れることと同じだ、と主張する。このような場合に、近代性がいかに性的な自由と結びつけて定義されているか、そしていかにとりわけゲイの性的な自由が、前近代的と考えられている立場と対照的な、文化的に先進的な立場の例として理解されているかが、わかる。どうやらオランダ政府は、近代的と推定される階級の人々のための特別の取り決めをしたようで、そこにはこのテストを免除される次の集団が含まれている。つまり、EU諸国の国民、年に四万五千ユーロ以上を稼ぐ亡命希望者と技能労働者、そして、合衆国、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、日本、スイスの各国民――これらの国では、ホモフオビアが見当たらないか、そうでなければ、ここでは、目覚ましい所得水準を持ち込むことが、ホモフォビアを持ち込む危険に優先しているのである。 [11]

 この試験は寛容をためす手段なのだろうか、それとも、寛容どころか実際は宗教的少数派への攻撃をあらわしているのだろうか?この攻撃は、オランダに入るためには伝統的な信仰や慣習をすベて捨てされと宗教的少数派に要求する、国家によるより広範な強制的な取り組みの一環なのだろうか? このテストは、わたしの自由を擁護するリベラルなものであり、わたしはそれを嬉しく思うべきなのだろうか? それとも、ここではわたしの自由は強制の道具として使われているのだろうか――みずからを支える暴力を問うことなく、ヨーロッパを白く純粋で「世俗的な」ものにしておこうとする、強制の道具として? [12] 

 リベラルな自由はいまや、覇権的な文化、「近代性」と呼ばれ、増大していく自由という特定の進歩的な説明に頼った文化に依存したものだと、理解されているのだ。無批判な「文化」の領域がリベラルな自由の前提条件として機能しており、それが今度は、文化的、宗教的な憎悪や棄却のさまざまな形態を是認する、文化的な基礎となっているのだ。 [13] 

 一方、ゲイやレズビアンによる子育ては子供の健全な成長を阻害するというフランスでの言説も紹介される。子育てには父親が必須だと考える父系主義は国家主義と結びついて、ヨーロッパ社会における移民コミュニティにおける家族構成(家父長制と婚姻という家族の基礎の維持に失敗している、と見なされている)に対する攻撃に向かう。それは右翼ばかりでなく、左翼もまた同じ論理に立っている、という。
 これはごく常識的だが、「反同性愛」、「家父長制」、「父権主義」という非進歩的な思想もまた国家主義を通じて反イスラムに向かうのである。

 私たちは「リベラル」であること、「自由」を尊重すること、「性的マイノリティ」の権利を尊重すること、そうやって我が身に深く近代性を宿したつもりになっているが、それが「国家」または「国家意識」を通すことで、「あやうい生」たちへ突きつける刃の思想となりうる、またはすでにそうなってしまっている、ということを心に刻まなければならない、ということである。

 最後の章で、バトラーは「非暴力の要求」として暴力論を展開する。ふたたび、レヴィナスが顔を出す。

 レヴィナスにとって暴力とは、顔を通じて伝達される他者の生のあやうさと出会った主体が感じるかもしれない、一つの「誘惑」である。顔が、殺害の誘惑であると同時にその禁止であるのは、このためだ。そこから「顔」を守るべき殺人の衝動がなければ、「顔」には何の意味もない。そしてどうやら、「顔」が無防備であるというまさにそのことが、禁止されている攻撃性をかき立てるのだ。レヴィナスは顔と邂逅した主体にとってのある種のアンビヴァレンスを明確にしている。すなわち、殺す欲望と、殺さないという倫理的必要とである。 [14]

 非暴力の命令が意味をなすためには、まず、まさにこの、知覚的な生を通じて作用している格差――図式的で理論化されていない不平等主義――の可能性を、克服しなくてはならない。非暴力の命令が無意味なものとなるのを避けようとするならば、この命令は、生きうるもの、嘆かれうるものとみなされる生とそうでない生とに格差を設ける規範についての批判的な介入と、結びつかなくてはならない。生が嘆かれうるものである(前未来において理解される)という条件のもとにおいてのみ、非暴力の要求は、認識に関する不平等主義の諸形態との共謀を避けることができる。暴力をふるう欲望は、こうして、暴力をふるい返される不安に常にともなわれることになる。その場における普在的な行為者のすべてが、等しく、傷つきやすい存在だからである。 [15] 

 非暴力は「寛容」によって獲得されるような言説があるが、ことはそれほど簡単ではない。ジャック・デリダが主張する無条件の「歓待」の可能性はどうか。あるいはまた、ネグリ&ハートが言う「マルチチュードの革命」に期待できるのだろうか。難しい課題ではある、その実現の道筋が、私にはよく見えていないのだ。 

[1] ジュディス・バトラー(清水晶子訳)『戦争の枠組 生はいつ嘆きうるものであるのか』(以下、「戦争の枠組」)(筑摩書房、2012年)p. 9。
[2] ジュディス・バトラー(本橋哲也訳)『生のあやうさ 哀悼と暴力の政治学』(以下、「生のあやうさ」)(以文社、2007年)p. 3。
[3] 「生のあやうさ」 p. 3。
[4] 「生のあやうさ」 p. 6。
[5] 「生のあやうさ」 p. 22。
[6] 「生のあやうさ」 p. 83。
[7] ジョルジュ・アガンベン(高桑和巳訳)『ホモ・サケル』(以文社、2003年)。
[8] 「生のあやうさ」 p. 13。
[9] 「戦争の枠組」 p. 11-2。
[10] 「戦争の枠組」 p. 56-7。
[11] 「戦争の枠組」 p. 135。
[12] 「戦争の枠組」 p. 137。
[13] 「戦争の枠組」 p. 139。
[14] 「戦争の枠組」 p. 208。
[15] 「戦争の枠組」 p. 216-7。


『吉原治良展』(図録) (朝日新聞社、2005年)

2012年09月21日 | 読書

 小出由紀子編著の「アール・ブリュット パッション・アンド・アクション」と同じ日に、図書館で見つけた。この本もまた9月3日に国立新美術館で『「具体」――日本の前衛18年の軌跡』という展覧会を観ることがなかったら、いつまでも見逃していた本だったろう。

 吉原治良、1905(明治38)年大阪生まれ、14才で油絵を始め、22才頃より展覧会に出品。1934年(29才)に藤田嗣次に出会い、同年二科展にデビュー。戦後の1947(昭和22)年「汎美術家協会」設立、1954(昭和29)年「具体美術協会」結成。1957(昭和32)年ミシェル・タピエの来日後、「具体」は国際的な評価を得る。1972(昭和47)年逝去、それに伴い「具体美術協会」は解散する。

 絵を選んで、その絵のデータのキャプションを書き、上の段落の吉原の略年まで書き終えて、時間切れ、寝てしまった。
 夢の中で、吉原の絵の分類と評価をしていたらしい。最後の方の3枚ほどの絵画については、「名付けることがそのまま絵の評価になる」ということを発見(?)して喜んでいるあたりで目が覚めた。
 その3枚がどの絵だったか覚えていない。たぶん、絵の方ではなく方法の発見に主題があったのだろう。確かに、「そこに在る」絵をその在るがままに、つまり「本質と全属性」を併せて「在るものとして名付ける」ことができるなら、それは理想的な評価であろう。何しろ、それは存在論ですらある。しかし、目覚めてみれば、それが不可能であることを知るのである。
 これから、実物の絵ではなく、図録を前にして鑑賞の代替を為そうとしている程度のことなのに、何と不遜な夢なのだろう。

 それでも、始めるのである。
 制作年代順に気になる絵を見ていくことにする。文中の引用は、『「具体」――ニッポンの前衛 18年の軌跡』展の図録 [1] と、本書の『吉原治良展』という図録 [2] に拠る。

    
            《風景(風景B)》 1933-34年頃、油彩、カンヴァス、91.0×116.5cm、
                   大阪市立近代美術館建設準備室。 [吉原図録、p. 74]

 28、9才頃の作品に《風景(風景B)》 がある。これは文字通り風景画であるが、その色使いは先の「具体」展で私のお気に入りになった《作品A》という抽象画と強い共通性がある。
 《作品A》は、この《風景(風景B)》 の数年後の制作である。ところが、ほぼ同年代の作品である下の《図説》は、色彩よりも幾何学的な図像に力点がある。熊田司によれば、《図説》は「比喩的にいえば、二科出品の《風景(風景B)》の、谷を隔てた向こうの人気ない丘にぽつねんと立つ案内板が、いきなり吉原の眼前に具体的な形象をともなって現れ出た」 [3] 作品ということらしい。つまり、《風景(風景B)》の具象的な風景と《図説》に幾何学的抽象が一体のイメージとして存在しているらしい。

   
 左:《図説》 1934(1936-37)年頃、油彩、カンヴァス・板、158.8×133.5cm、東京都現代美術館。
   [吉原図録、p. 84 ; 具体図録、p. 95]

 右:《夜・卵・雨》 1936-37年頃、油彩、カンヴァス、45.5×38.0cm、大阪市立近代美術館建設準
   備室。 [吉原図録、p. 85]

 《図説》も《夜・卵・雨》も、とくに感傷的な印象を受けない、いわば渇いた印象の抽象画である。じつのところ、わたしは幾何学的な図像にあまり感情が動かされない。物理学を職業としてきたために、数学的、幾何学的図像に慣れてしまっている、あるいはうんざりしている、ということかもしれない。

 《図説》も《夜・卵・雨》も二科展出品作品であるが、外山卯三郎に「私の不満に思ふのはその画題である、こんな文学的な文字をさけることが必要ではあるまいか」と批評され [3]、しばらくは《作品》のような画題にしたそうである。
 《図説》も《夜・卵・雨》もごく即物的で、それほど文学的な画題とは思えない。どうしても意味がまとわりつく文字そのものが、抽象を志す芸術家にとっては避けるべきことに属するのだろうか。
 私が考えていたのはまったく逆で、描かれた抽象を文字に還元できないために《無題》とか《作品》という画題にせざるを得ないのだ、と思っていた。つまり、言葉ないしは文字に還元できれば、それはそれでいいと思っていた。絵が先行して、画題はただの従属的な結果ではなかったのだろうか。

 抽象画としては、次の《作品B》には強く惹かれる。「具体」展での 《作品A》と同じようなモチーフで描かれていて、『吉原図録』では《作品A》と並べられて収録されている。 

     
        《作品B》 1936(1939-40)年頃、油彩、カンヴァス、45.5×52.5cm、
               大阪市立近代美術館建設準備室。 [吉原図録、p. 101]

 《作品A》では「具体」展での実物と『具体図録』の写真ではかなり印象が異なっていたことを考えると、この《作品B》もその恐れが充分にある。《作品A》の場合、実物では奥行きの深い立体的な印象、その立体がいわば空間の運動のような印象を与えるのに、図録写真はかなり平板にしか見えなかったのである。
 ただ、《作品A》は薄い青の部分が遠い背景「空」の印象を与えていて、白から黒褐色で描かれた図像が空中に立体的に構成されているように見える。写真なのに奥行き感が強い。つまり、《作品A》の経験から言えば、《作品B》の実物はさらに立体感が強いのではなかろうか。 

    
        《防空演習》 1944-45年頃、油彩、カンヴァス、130.6×160.5cm、
              大阪市立近代美術館建設準備室。 [吉原図録、p. 117]

 すこし意外だったのは、吉原が《防空演習》のような絵を描いていたことである。私の偏見だろうが、抽象画の画家たちはマティエールと形象への関心が強すぎて、社会への関心が薄く、いわゆる芸術至上主義的な人が多いのではないかと思っていた。
 29才の時に藤田嗣次に出会い、いわば画家としての精神的な駆動力を得たと思われるのだが、藤田嗣次とは異なり、戦時中にはこの《防空演習》のほかに《夕立に飛ぶ飛行艇》くらいしか戦争に関連する絵を描かなかったたらしい。

     
           《犬と鳥》 1945-46年頃、油彩、カンヴァス、52.5×45.0cm、
              大阪市立近代美術館建設準備室。 [吉原図録、p. 118]

 終戦前後には、《犬と鳥》のような風景画のほかに鳥、蝶、虫、貝などの具象画が多い。この《犬と鳥》には、戦争画を描かずに戦争をやりすごそうとする画家の心性の辛さ、暗さが反映されているのではないか、と憶測する。哀しみの具象化ではないか、と思う。それにしても、三匹に犬のうち、 座ってこちらを向いている白毛の犬のリアリティは何としたことだろう。

     
          《子供たち(花と子供たち)》 1947年、油彩、カンヴァス、117.0×91.2cm、
               大阪市立近代美術館建設準備室。 [吉原図録、p. 135]

 戦後、吉原はふたたび幾何学的な図像の抽象画を描き始めるが、それと同時に、人間をも描く。その人物像はしだいに抽象化されていくのだが、《子供たち(花と子供たち)》はそのプロセスの初期に位置しているようだ。
 《子供たち(花と子供たち)》のような絵を見ると、どうしてもその意味を考えたくなるのだが、どうにも私にはわからない。色彩と構図は、私の中に「鬱々とした希望」のようなものを惹起する。しかし、その理由はわからない。

   
    左:《作品A》 1955年、白セメント、板、91.5×61.0cm、東京都現代美術館。 
            [吉原図録、p. 165 ; 具体図録、p. 45]

    右:《作品》 1957年、油彩、カンヴァス、49.9×65.1cm、大阪市立近代美術館建設準備室。 
            [吉原図録、p. 167 ; 具体図録、p. 46]

 上の《作品A》と《作品》は「具体」展で実際の絵を観ることができ、感動した2枚である。ただし、『具体図録』に収録された写真では魅力が伝わらないと思って以前には紹介しなかった作品である。
 『吉原図録』では、光の方向の案配か、絵の具の立体感がある程度表現されている。二つの作品とも単色(またはそれに近い)で描かれ、その感動の源泉は絵の具(白色セメント)の微妙な盛り上げそのものにある。そういう作品は現物に当たるのが本筋なので、実際に観ることができたのは幸運であった。

    
      《黒地に赤い円》 1965年、アクリル、カンヴァス、181.5×227.0cm、
          兵庫県立美術館。 [図説、p. 193 ; 具体図録、p. 199]

 晩年(吉原の芸術活動の後期)に、吉原は「円の画家」と呼ばれるほどに円を描く。円は、幾何学的な図形の中で完全形の一つである。対称性という点では完全無欠である。禅の世界で取りあげられる所以でもある。ほっとけば、いくらでも哲学的思弁の餌食になりそうなモティーフである。
 円そのものに魅力があると言えば言えるだろうが、しかし、完全無欠は魅力に乏しいとも言える。完全性の魅力と、その破れの魅力。対称性に溢れた現代物理学で「対称性の破れ」が宇宙理解を補完するように、円の対称性の破れ(この場合は、対称性からのずれというべきか)の魅力を、完全性の魅力に付け加えると、《黒地に赤い円》になる、というのは言い過ぎであろうか。とくに、下中央やや右の絵の具の小さな垂れは、「企まざる必須」として私の目を引いてやまない。

 

[1] 『「具体」――ニッポンの前衛 18年の軌跡』(国立新美術館、2012年) (以下、『具体図録』)。
[2] 『吉原治良展』(図録) (朝日新聞社、2005年) (以下、『吉原図録』)。
[3] 熊田司「吉原治良―物質を切り裂く線の軌跡、あるいは一本の道―」 『吉原図録』 p. 11。

 


【書評】 『クァジーモド全詩集』(河島英昭訳) (筑摩書房、1996年)

2012年09月20日 | 読書



 サルヴァトーレ・クァジーモド、1901年シチリア島生まれ、14才(1915年)から詩作を始め、29才(1930年)で処女詩集『水と土』、57才で決定版第5詩集『比類なき土地』を刊行し、翌1959年ノーベル文学賞、1969年67才で死去。

 58才でノーベル賞を受賞するというのは早いかどうか、こうした大きな賞の受賞の芸術家の創造活動への影響については議論があるところだろう。訳者の河島英昭は「解説」で、次のように簡潔に触れている。 

……クァジーモド自身の詩は、『比類なき土地』(五八)のなかで、《対話詩》や《社会詩》のいずれの面においても必ずしも充分な展開はみせないまま、一九五九年秋のノーベル賞受貰が決定してしまった。そして何よりも、ウンガレッティとモンターレという、先行する巨大な二詩人が存在したために、毀誉褒貶相半ばするなかで、クァジーモドが落着いて真価を発揮する作詩の機会は失われてしまつた。 [1] 

 社会的に評価されている賞に限らず、社会的な有形的な(あるいは有価値的な)評価が、創造活動の「上がり」としか見なせないタイプの芸術家がいることは確かだが、クァジーモドの場合は受賞前年に発病したしたという健康上の理由もあったという。

人はみな独りで地心の上に立っている
太陽のひとすじの光に貫かれ、
そしてすぐに日が暮れる。
        「そしてすぐに日が暮れる」全文 [2] 

 この詩が処女詩集『水と土』の巻頭を飾る詩である。目に見える周囲としての「自然」とそれを見ている「自分」、「そしてすぐ日が暮れる」という詩句に、この詩人の未来を予感させる感受性の繊細がある。
 クァジーモドは、8才の頃、メッシーナ大地震による廃墟、混乱のなかの略奪者、それを鎮圧する軍警、そして夥しい屍を見たという。しかし、記憶も経験も成熟を必要とする。 

ぼくは病んでここに目覚める、
見知らぬ土地の苦さを噛みしめ
ぼくに愛を芽吹かせる
歌の変りやすい憐れみと
人びとと死の苦さを噛みしめつつ。
           「ぼくの土地で」部分 [3]

 人生の「苦さ」と「哀しみ」が、「愛の芽吹き」とともに成熟を始める。そして、その頃から「あなた」が頻繁に登場する。後年、《対話詩》なるものを主張することになる対話の相手であろうか。
 しかし、その具体的なイメージはわかりにくい。ただ単に、「詩人の独白の相手」 [4] というもっとも単純なものから、祈りの対象の神と受け取れる場合もある。ファシズム、そして第二次世界大戦を経験し、《対話詩》と《社会詩》を主張するクァジーモドにとって、この「あなた」もまた、成熟する必要があったのだろう。

 「あなた」の理想的な形は、たとえば、フッサールの「間主観性」を確かなものにする他者であり、あるいは、大澤真幸の「第三者の審級」を与えてくれる他者、と考えればよいだろう。そうであれば、詩人の想世界での「あなた」は、恋人から神へ、路傍の死者から自己の死を見ている他者としての自己へと自在に変容するのは、むしろ望ましい自然なふるまいと言えるのではないか。
 「あなた」のいくつかの例を挙げておこう。 

あなたを知っている。あなたのなかにすべては
失われていった、胸をあげて美は
腰に穴を穿ち、そして妙なる仕草で
おずおずと恥骨をひらいてゆく、
そしてまた調和のなかへ降りてゆく
十の貝殻をちりばめたあの美しい足もとへ。

けれども捕えてみれば、またしても
あなたはぼくの言葉であり悲しみだ。
                   「言葉」部分 [5]

ぼくは悔やんでいる
あなたに血を捧げてしまったことを、
主よ、ぼくの隠れ家よ。
           「ある修道士の聖像の嘆き」部分 [6] 

鋭い誕生の痛み、
見ればぼくはあなたに繋がれてゆく、
あなたのうちに折れる、そして無垢へと戻る。
                        「秋」部分 [7] 

ぼくの声のなかにあなたは訪れる。
闇のなかを静かな光が
矢となって降り注いでくる
そしてあなたの頭を取りまく星屑の雲。
宙吊りにされてぼくは、天使と、死者と、
弓なりに燃えたつ虚空とに、仰天している。

ぼくのではない、しかし空間のなかでは
燃え上って、ぼくのなかでは震えている、
あなたは闇と高さで作られている。
           「闇と高さで作られている」全文 [8]

あなたは望まない、悲歌も、牧歌も。ただ
わたしたちの命運のいわれだけを。ここで、
あなたは、優しく、精神の対立物に
命の明白なる存在物に
不安を抱いている。だが命はここにある、
確信にも似た一切の拒否のうちに。
              「アウシュヴィッツ」部分 [9]

 「人はみな独りで地心の上に立っている/太陽のひとすじの光に貫かれ、/そしてすぐに日が暮れる。」と繊細な精神の不安をイメージ化して始まった詩業は、ファシズムの暴力の洗礼によって大きく変容を受ける。《社会詩》を主張するようになる根拠でもある。

神話の罪びとが
思い出させる無邪気さよ、
あるいは永遠よ。そして掠奪、
そしてまた十字架の傷あと。

罪びとはすでにあなたの善と悪の相貌をとった、
そしてあなたは、はや、地上の祖国が
苦しむさまを思い描いている。
           「神話の罪びと」全文 [10]

虚しくも埃りのなかを探し求める、
哀れな手よ、この街は死んだ。
街は死んだ、最後の轟きも運河の心に
谺して絶えた。修道院の風見の上で、
日暮れまでは鳴いていた、夜鳴鶯も
尖塔から落ちてしまった。
中庭という中庭に井戸を掘るな、
命ある者はもう渇いていない。
手を触れるな、このように赤い、このように腫れあがった
死者たちには、死者たちは彼らの家の土に帰せしめよ。
街は死んだ、この街は死んだ。
           「ミラーノ、一九四三年八月」全文 [11]

 クァジーモドは戦後解放の高揚感によって(と想像する)一時的にイタリア共産党に入党する。そして「イタリアは私の国」 [12] のような詩を書くが、私はその詩を選ばない。かつて、「社会主義リアリズム」とか称して厖大な駄作を生みだした左翼文学活動があったが、その匂いがする。誤解のないように言っておくが、左翼文学全般のことではない、政治主導のもとに、などと称するたぐいの文学のことである。

 しかし、クァジーモドにとってはごく短い期間であったのだろう。上記の詩以外にはそのような詩はほとんどない。ただ、名声を得て旅行しつつ書いたような世界の土地をめぐる詩はまったく興味を引かなかった。ちょうど、俳句の「全句集」で吟行旅行よって作句された一連の句は読み飛ばしたくなるときのような感じである。

 そんな詩もあるが、クァジーモドは成熟する。

わが人生は路傍に微笑む人びとや
残忍な者たちとの巡り合いであったが、わが風景の
どこの戸口にも把っ手はついていない。
死への備えなど何もない、
物事の始まりはわかっている、
終りは一つの平面だ、そこへ
影の侵入者は旅立ってゆく
わたしは知らない、他の影のことは。
           「見えつ、隠れつ」部分 [12]

 少し、理が強すぎる気もするが、この平静は何ということだろう。私の老成(成ではないか)とは較ぶべくもない。

 詩人の「最初の詩」から始めた文を、詩人の「最後の詩」で終わろうと思う。「セスト・サン・ジョヴアンニの病院にて、一九六五年十一月」という題註が付与された(心臓発作で入院したベッドの上で書かれたらしい)詩である。

わたしの影法師が映っている、病院の
もう一つの壁に。花々は飾られているが、夜更けには
招き入れる。ボブラの樹々を、鈴懸を、公園から。
黄ばまずに、白茶けて、葉を落としてしまった
樹列を。アイルランド系修道女会の看護婦たちは
決して死を口にしない、風に吹かれて彼女たちは
動きまわるのか、うら若く汚れない身であることさえ
かえりみない。立てた誓いが、厳しい
祈りのうちに、解き放たれていくから。
一人の移民になったような気がして、わたしは
寝具にくるまり、目を見張って、心は穏やかだ、
この地上にあることで。たぶん絶えまなく死んでいるのだ。
けれども喜んで耳を傾けてはいる、決して理解できなかった
命の言葉に、いつもわたしが留ってきた
長い長い仮説の上に。たしかに逃げ出すことはできないだろう
命にも死にも忠実でありつづけるだろう、
肉体のなかでも精神のなかでも
予測された、目に見える、あらゆる方角のなかで。
問隔を置いて、何ものかがわたしを追い越してゆく
軽やかに、忍耐強い時間が、
死と幻想とのあいだを
駆けめぐる不条理の間隙が、
胸の奥で打つ音が。
        「花々は飾られているが夜更けには招き入れるボプラの樹々を」全文  [14]

 

[1] 河島英昭「解説」『クァジーモド全詩集』(河島英昭訳)(筑摩書房、1996年) p. 424、(以下、『クァジーモド全詩集』は『全詩集』と略する)。
[2] 「水と土」『全詩集』 p. 6。

[3] 「沈んだ木笛」『全詩集』 p. 42。
[4] 河島英昭「解説」『全詩集』 p. 427。
[5] 「沈んだ木笛」『全詩集』 p. 48-9。
[6] 「沈んだ木笛」『全詩集』 p. 58。
[7] 「沈んだ木笛」『全詩集』 p. 63。
[8] 「沈んだ木笛」 p. 85。
[9] 第四詩集「萌えゆく緑と散りゆく緑」『全詩集』 p. 243。
[10] 「新詩篇」『全詩集』 p. 130。
[11] 第二詩集「来る日も来る日も」『全詩集』 p. 179。
[12] 第五詩集「比類なき土地」『全詩集』 p. 2548。
[13] 第五詩集「比類なき土地」『全詩集』 p. 243。
[14] 第六詩集「与えることと持つこと」『全詩集』 p. 346-7。


【書評】小出由紀子(編著)『アール・ブリュット パッション・アンド・アクション』(求龍堂、2008年)

2012年09月16日 | 読書

 今年の7月に岩手県立美術館で「アール・ブリュット・ジャポネ展」を観たことで、この「アール・ブリュット」というカテゴリーの美術作品が積極的に評価され、コレクションされていることを知った。
 3日前、図書館をぶらぶらしているとこの本のタイトルが目に入った。以前、何度も面白そうな本を探して眺めていた書架なのに、まったく初めて目にしたような感じである。7月以前は、「アール・ブリュット」は意味を持った言葉としては目に入らなかったのである。
 世界には意味あること、価値あること、楽しいことがたくさんあって、知らぬがゆえにほとんど気づくことなく生きているのではないか。「無知であることの恐怖って、ない?」と妻に聞いたら、「なにそれ、しちめんどくさいことは考えちゃだめよ」と声にはならないが、そんな表情で一瞥されただけだった。

 マルティーヌ・リュザルディが、「アール・ブリュットを最も洗練された文化領域、美術の領域に紹介したのは、"普通の人"ではありえず、自分たちが織り込まれてきた文化の価値に異議を申し立てていた発見者たちであった。実際、クレ一やブルトン、デュビユッフェ以上に、誰が、この未発表の、予測不能の、最高に想像力豊かなフォル厶の無名の発明者たちを認めることができただろうか」 [1] と述べているように、アール・ブリュットの評価とコレクションは、ジャン・デュビユッフェがその功の大半を負っている。

 この本 [2] は、近年設立された団体(abcd)によるアール・ブリュット作品のいわゆるabcdコレクションの紹介である。

Art Brut Connaissance & Diffusion (abed)は,アール•ブリュッ卜の収集、研究、普及を目的として,1999年パリに設立された非営利団体である。創設者ブルノ・デシャルムを中心に、美術史、美学、哲学.社会学、精神分析学などの専門家が集まり、アール・ブリュットの歴史、定義や思想を精査しつつ、理解を深め,展覧会や出版、映像制作を通して普及活動を行っている。 [3]

 アール・ブリュットにカテゴライズされる画家として、日本でもっとも高名なのは山下清であろう。著者によれば、戦前、山下清の評価については「日本の美術史の一大事件」と呼ぶべき論争があった、という。
 その論争のありようを知らないが、たとえば、松本竣介は山下清の絵画に否定的な次のような見解を述べている。

常の意識を持たぬ狂人や痴愚の、或種の感覚だけが異状に鋭くなった場合と、現実を強度に意識した上に研ぎ澄された感覚の場合とは、表現形式が類似してゐても、極端な等差のあることは言ふまでもない。例へばゴッホの作品にはヒューマンな愛情が満ちてゐるのに反し、清少年の作品は、怖ろしい程人間的に空虚だ。自然のやうに虚無だ。神のやうに虚無だ。現実と連繋する尻尾なしに生れたからだ。只一人で暗黒の空に無限に飛昇するこのやうな精神は僕達のものではない。 [4]

 少なくとも、文章活動においては精神主義的な言説を重ねたきた松本竣介らしい言葉だが、とても同意できない。ゴッホはヒューマンで、山下清は虚無だという物言いのなかに、評価が定まったものに依拠する権威主義、文化主義の匂いがする。それこそが、「クレ一やブルトン、デュビユッフェ」がアール・ブリュットを通じて批判しようとした当のものである。

 その山下清については、「戦後「裸の大将」ブームが起こり、山下清の知名度は全国的に高まったが、この魅力的なキャラクターに対する大衆人気が逆に美術関係者を敬遠させ、山下の絵に関する研究は長い間手付かずのままだった」 [5] ということだったらしい。つまりは、アール・ブリュットにカテゴライズされる種類の芸術に関しては、日本では近年まで社会化されていなかった、ということであろう。この本は、フランスの活動の紹介であるが、そういう意味で「アール・ブリュット・ジャポネ展」を企画した活動は、おそらく、きわめて貴重なものだったのはなかろうか。

 本書ではabcdコレクションのアール・ブリュット作品が、次のような項目に分類されて紹介されている。「ひとりぼっちの王国」、「ブリコラージュ・ブリュット」、「ちょっととした逸脱」、「聖霊に導かれて」、「内的風景」、「女たちの有機形態」、「欲望の迷路」、「人生の謎をとく手がかり」、「人間のイメージ」という区分で、もともと創作活動の出発点そのものから分類、整理が困難なアール・ブリュット作品の広がりをよく示唆している。

 初めに、日本で3度も個展が開催されたというヘンリー・ダーガーの作品を観ておこう。著者は次のように評する。

戦争、虐待、孤独、思春期、性倒錯、死体性愛、英雄願望など、ダ一ガー作品が内包するテーマは先鋭的で、鑑賞側と制作側の両方を震撼させた。熱狂的ファンを得ると同時に、ダーガーに触発されたより若い世代の美術作家が日本にも登場し始めている。 [6]

 しかし、このことは、ダーガーの絵が「現実と連携する尻尾」を持つこと、アール・ブリュット作品としては特異的に社会性を帯びていることを意味しているのではないか。

     
        ヘンリー・ダーガー(Henry Darger, 1892-1973, USA) 《無題》、
        コラージュ・グワッシュ・鉛筆・インク、紙、55.7×75.3cm、1950-60年頃。 [7]

 この絵のように、ダーガーの作品には複数の人物が描かれ、その役割、関係性など、いわば物語がわかりやすく描かれている(たとえ、それが異常で刺激的であっても)。
 バーガー作品は日本に紹介されるアール・ブリュットとしては、導入的な意味合いで最適であったのだろう。山下清の描写力、ヘンリー・ダーガーの物語性、ともに絵画が大衆的に受け入れられる重要な要素であろう。

 さて、ヘンリー・ダーガーに敬意を表したので、次は、「お気に入り」というか、気になる作品を観ていこうと思う。 

   
    左:レオン・プティジャン(Léon Petitjean, ?-?, France) 《無題》、鉛筆・インク・水彩、
      厚紙、32×17.4cm、1922年。 [8]
    右:オーギュスタン・ルサージュ(Augustin Lesage, 1876-1954, France) 《無題》、
      油彩、カンヴァス、140×110cm、1928年。 [9]

 アール・ブリュットで気になっている特徴のひとつは、細密性である。そこには、空間を埋め尽くす執念のようなものがある。しかし、私たちの呼吸しているこの時空が「在るもの」によって構成されている、というのはきわめて初元的な感覚ではないか。「無いもの」は存在しない、というのは認識の初めとして不自然ではない。

 レオン・プティシャンの構図は、まるでクリムトのようだし、オーギュスタン・ルサージュの絵は、「祭壇画を含む」祭壇の緻密な描写に見える。どちらも、華麗な厳粛さに満ちている、と私には感じられる。


左:アルビノ・ブラス(Albino Braz, 1893-1950, Brazil) 《無題》、鉛筆、紙、31.2×21cm。
右:フルリ=ジョセフ・クレパン(Fleury-Joseph Crépin, 1875-1948, France) 《無題》、
  油彩、カンヴァス、62.5×50.5cm、1941年。

 人間の原初的な感覚から始まる宗教感情というものがあるだろう、神話を生みだす感情と精神が。アルビノ・ブラスの絵も、フルリ=ジョセフ・クレパンの絵も、原初的な感覚をはるかに越えて、世界を包みこむ神話空間を構成しているようにさえ感じる。
 象徴化された世界と、花も蝶も鳥も生みだす女神としての女性、あるいは、人間たちの生活空間を高みから見下ろしている視線たち。世界はそんなふうに構成されているのだ、と言わんばかりである。


左:エヴァ・ドゥロポヴァ(Eva Droppova, 1893-1950, Brazil) 《無題》、フェルトペン、色鉛筆、紙、
  45×17cm、1992年。 [10]

右:ジャンヌ・トリピエ(Jeanne Tripier, 1869-1944, France) 《無題》、絹刺繍、布、 
    40.5×9.5cm。 [11]

 上の絵は、著者によって「女たちの有機形態」と名付けられた作品である。女性作家であることと、部分が有機的な柔らかさと広がりで連続している特徴がある。造形、色彩によって「驚き」と「感動」を与える。しかし、人によっては「不安」のような感じ方もあるかもしれない。
 「アール・ブリュット・ジャポネ展」に出品された(すずき)万里絵の《全人類をペテンにかける》、《泥の中のメメントモリ》などの作品はもう少し具象的だが、もっと激しく不安に落とし入れるような激しさがある。

 「感動」と「不安」のあわいをじわりと歩むように描画作業を行っているのだろうか、などと想像する。 

   
    上:ヘレン・バトラー・ウェルス(Helen Butler Wells, 1854-1940, Brazil)《無題》、
      色鉛筆、紙、20.2×26.5cm、1923年。 [12]

    下:F. セドラック(F. Sedlák, ?-?, Czech)《釣》、色鉛筆、紙、22×32cm、1924年。 [13]

 人間がどのような環境に置かれているのか、人と人はどう繋がっているのか、人間の関係性を具象化するとどうなるのか。その答えのあり方が、これらの絵ではないかと思う。
 複数の人間が、ある具体的な連結、接触あるいは抱擁によって寄り添っている。いや、もしくはせめぎあうように関係性の中に押し込められている。どちらかは、私には分からない。ただ、たくさんの人々が身近に立ちこめていることは間違いない。

 次は、ただ単純に「お気に入り」の作品である。

 
  エヴァ・ドゥロポヴァ(Eva Droppova, 1893-1950, Brazil) 《無題》、フェルトペン・色鉛筆、
                 紙、45×62.5cm、1992年。 [14]

 ひとつは、ふたたび「女たちの有機形態」のエヴァ・ドゥロポヴァの作品である。構図、色彩、その展開に驚くばかりである。構図、構成ばかりではない。ある一点に目をやり、静かに視点を移動させていくと、色彩が意味ありげに時間発展するような感じを受ける。不思議で、驚くべきイメージである。 

 
   ギョーム・ピュジョル(Guillaume Pujolle, 1893-1951, France) 《無題》、
         グワッシュ・医薬品、紙、23.5×31.5cm、1940年頃。 [15]

 もう一点は、ギョーム・ピュジョルの作品で、著者が「内的風景」に入れているものである。空、雲、太陽、月、建物、デザイン化された文字、そして変容する自己、それぞれの具象を描きながら、優れた抽象画を思わせる。つまり、具体物の高度な抽象化(人物はそう見えないこともない)ではなく、構図と色彩によって高い抽象化をはかる。優れた抽象化とは、優れた一般化である。そのように思わせる作品である。

 最後に、本書の巻末に納められているabcdコレクションの創始者、ブルノ・デシャルムのインタビュー記事について触れて起きたい。
 アール・ブリュットとの出会い、コレクションの意味について語っている中で次のように述べている。

アール・ブリュッ卜が見る者に引き起こす精神状態を表すのにぴったりな言葉は、当惑です。当惑の感情が湧き出し、目の前にあるものに対する答えが欲しくなります。けれど、その答えは永久に与えられない。はっきりした答えが出るような性格のものではないのです。 [16]

 「当惑」というのは的を得ている。私たちの常識的な(社会的に訓練を受けた、あるいは社会的な抑圧を受けた)精神や感受性にとっては、やはり「当惑」から感受が始まる。その「当惑」と「驚き」に惹かれると言ってもよい。
 インタビューの最後の頃に、次のように発言している。

最近abcdで注目しているのは、アール・ブリュットの創造者たちが極めて特異な形で文化を活用しているという事実です。この点、アール・ブリュットの社会学的側面より、心理学的側面が語るものを重視しています。アール・ブリュットの作品は、思考を介在させずに無意識から直接生み出されるものです。自分の内面に秘められた魔術的な力に身をゆだねた人々を媒介者として産出されます。そしてアール・ブリュットの作品は「正気でない」人たちが創造する作品でもあります。 [17]

 しかし、この発言にはいくぶん異和を感じる。社会学的、文化的側面に力を注いだデュビユッフェに対して、後発者として心理学的側面を重視することは、もちろん問題はない。どちらも重要だが、歴史的偏りを修正するということだろう。
 異和は、「アール・ブリュットの作品は、思考を介在させずに無意識から直接生み出される」と断言する点にある。逆にして考えてみよう。健常者である芸術家は、有意識(精神)のみによって作品を創作しているというのか。アンリ・ミショーなどシュール・レアリズムの作家、作品群を全否定しないかぎり、その主張には無理がある。有意識も無意識も、ともに作用しあって作品は生まれるのが普通ではないか。芸術家が全身全霊を傾ける、という表現は人間の持つ意識の一部分を使うという意味ではけっしてないだろう。
 そして、「正気でない」人たちには無意識しかないのか。そんなことはあるまい。彼/彼女らもまた、無意識も有意識も動員して全身全霊で創作している、と考えるのが自然だし、正しいだろう。
 デシャルムの発言は、先に紹介した松本竣介の発言の裏返しである。松本は精神性(社会性)がないから価値がないと言い、デシャルムは無意識だけだから価値があると、どちらもアール・ブリュットの作家たちの精神性を認めないのである。
 私は、「正気でない」人たちに対するそのような人間観を信じないし、否定する。

 

[1] マルティーヌ・リュザルディ「「裂け目」としてのアール・ブリュット」(前田礼訳)『アール・ブリュット・ジャポネ』(現代企画室、2011年)p. 136。
[2] 小出由紀子(編著)『アール・ブリュット パッション・アンド・アクション』 (以下、『R. B.』)(求龍堂、2008年)。
[3] 小出由紀子「謝辞」『R. B.』p. 16。
[4] 松本竣介「アバンギヤルドの尻尾」『人間風景』(中央公論美術出版、昭和57年) p. 217。(初出は九室会機関誌「九室」第二号 昭和十五年二月七日)。
[5] 小出由紀子「アール・ブリュットの誕生とひろがりをめぐって」『R. B.』 p. 8。
[6] 同上、p. 13。
[7] 『R. B.』 p. 29。
[8] 『R. B.』 p. 10。
[9] 『R. B.』 p. 62。
[10] 『R. B.』 p. 83。
[11] 『R. B.』 p. 85。
[12] 『R. B.』 p. 66。
[13] 『R. B.』 p. 69。
[14] 『R. B.』 p. 82。
[15] 『R. B.』 p. 74。
[16] 「ブルノ・ デシャルム」(abcd創設者)へのインタビュー」『R. B.』 p. 151。
[17] 同上、p. 152。


『ジャコメッティ展』(図録) (現代彫刻センター、1983年)

2012年09月11日 | 読書

 あちらの美術館で二つ、こちらの美術館で一つというようにジャコメッティの彫刻作品を観ることがあって、その都度、心がザワザワするような印象があった。あの感覚はなにに由来するのだろうと、喉に刺さった小骨のように気になってしょうがなかったのだが、ずいぶん長い時間が過ぎてしまった。

 そして突然、なぜか「そうだ。ジャコメッティだ」と思い立ったのである。理由はない、ただの気まぐれである。

 仙台市立図書館に「ジャコメッティ展」という図録 [1] があったのでさっそく借り出してきた。しかし、図録を眺めたとしても、あのザワザワとした感覚の由来を明らかにできそうにない。「存在の孤独」だとか「苛立つ実存」などという言葉が浮かぶが、それから先にどんな言葉もない。何かが見えてきそうな感じがまったくしないのだ。

 図録を見たぐらいでどうにかなるなどということはやはりない。助けが必要だ。それで、矢内原伊作 [2] とジャン・ジュネ [3] とサルトル [4] も併せて借りてきた。


        左:『小さな広場(三つの人物像、一つの頭部)、 1950、 58×53.5×40cm [5]。 
        右:『歩く男II』、 1960、 190×27×110cm [6]。

 この特異な細長い人間の形は何に由来するのか。人間を描く、人間の存在を描く、「存在そのもの」を描く。人間の属性を次々に削いでいって「在る」ことだけを見ると、こういうことになるのか。「器官なき身体」という概念を「かたちづくる」とこうなるのか。 

「エトルスクその他古代のものを私は全く知らなかった。今でもほとんど知っていない。私は作品を小さくしようと思ったことは一度もない。自分の眼に見える通りのものを作ろうと努力する。そうすると作品の方がだんだん小さくなってしまうのだ。始めはこれ位でも、だんだん小さくなって、しまいにはこんなになってしまう」――「こんなに、こんなにcomme ça- comme ça」と言いながら、三十センチ位に開いた両手の距離を彼はだんだんせばめて一センチ位にし、「小さく小さくなって埃りみたいになってしまう。或る時から私は作品を絶対に小さくするまいとかたく決心した。そしてやってみると、今度は細く細くなるのだった。小さく或いは細くしょうと私が思うのではない。彫像自体がそうなるのだ。どうしてだかわからない。」それから彼は独り言のように呟いた。「が、今ではだいぶわかってきた、自分が何をやっているか、これからどうしたらいいか、以前よりはかなりわかってきている。」 [7] 

 彼の作業は、やはり「削ぎ落とすこと」のようだ。矢内原が繰り返し書いていることだが、「以前よりはかなりわかってきている」とジャコメッティは語るが、翌朝にはすっかり元に戻っていて、初めからやり直す。その繰り返しが続くのだそうである。

 私は、ジャコメッティの彫刻にある「孤独」のようなものを感じていたのだが、彫刻家はそれが不満らしい。 

彫刻家はしばらくしてから、「バーゼルでいま私の作品の展覧会が開かれている。それの批評が新聞に出ているのを幾つか読んだが、どの批評も作品の具体的なフォルムには触れず、現代の不安とか孤独とかといつたメタフィジックな内容ばかりを問題にしている、どうも不思議だ。」彼の言葉には不満らしい口吻があった。ぼくは自説を繰り返して言った。「それは明らかにあなたの作品には内容があるからです。内容のない彫刻が氾濫している現代にあって、あなたの作品だけが人間の本質を考えさせる力をもっているからです。」が、彼は、「内容があるかないか、どういう内容があるのか、私にはわからない。どういう内容のものを作るかというようなことを考えたことはない。私はただ私の眼に見えるがままの人間を作りたいだけだ。それすらも私にはできない」と暗い顔で言う。 [8] 

 彫刻家は見えるままの「在るもの」を描こうとしていて、それは私のような鑑賞者とのあいだの懸崖が厳しいことを意味している。しかし、「在るもの」が私に孤独に見えるとはどういうことか。ジャン・ジュネは「孤独」に言及している。

数限りない死者たちにジャコメッティの作品は、各存在が、そしてまた各事物が孤独であるという認識を、そして、この孤独がわれわれのもつとも確実な栄光であることを伝える。 [9]

 私は自分が感じたままをいってみよう――彼のさまざまな人物像が示すあの血縁性とは、そこにおいて人間存在がそのもっとも本質的なものにまで、つまり他のいかなる人問とも完全に等価であるという彼の孤独にまで導かれる、そんなかけがえのない地点なのではないか。
 もし――ジャコメッティの人物像たちは一切虚飾をはぎとられているのだが――偶有性が絶滅されれば、後には一体何が残るだろう。 [10]

 一種の友情がもろもろの事物を輝かし、それらの事物が友好的な思想を私たちに語りかける……と私は書いたが、それはいささか雑な語り方だ。フェルメールについてなら多分真実をうがっているだろう、ジャコメッティになると、これはまた別の話だ。ジャコメッディによって描かれた事物が私たちの心を動かし、私たちの心を安らげるのは、それが〈より人問的〉――有用なものであり、またいつも人間によって利用されているという理由で――になっているからではない。人間存在のもっともすぐれた、もっともやさしい、もっとも感じやすいものでそれが装われているからではない。逆にそれが事物の純粋無垢な新鮮さにおいて <〈この事物〉であるからだ。それであり、他のものは一切ない。完全な孤独におけるそれそのもの。 [11]

 そして、ジュネは究極的な審級に言い及ぶのだ。 

私が恐怖にかられたというのも、実はまぎれもなく神を前にしていたからだ。この恐怖感に非常に近いある感情とこれに匹敵するほど大きな魅惑とをジヤコメッティのいくつかの立像は私に抱かせる。  [12]

 もしかして、この孤独は神に前に立つアブラハムの絶対的な孤独なのではないか。キルケゴールが説く [13] 信仰の逆説に立ちすくむ究極の単独者、デリダの言う「不可能性の経験」 [14] にむかう単独者としての孤独。つまり、ジュネは神の前の単独者の絶対的孤独を見つつ、その孤独を通じて神を見ているのはないのだろうか。絶対的な逆説、絶対的な不可能性、そのような存在として「在る」所の人間アブラハム、すべての人間の側にある属性を無意味化しつつ神の前に立つ「存在」。つまりは、すべてを削ぎ落として描かれる人間存在として、ジャコメッティの彫刻像は現前している(と、断言するのはまだまだ心許ないが)。


 上:『犬』、 1951、 58×16×100cm [15]。 下:『猫』、 1951、 32×82×13cm [16]。

 人間ばかりではない。犬も猫も、細く細く立ち現れる。この『犬』と『猫』については、ジャン・ジュネに委ねることにする。 

 ジャコメッティの犬は素晴らしい。その奇妙なマチエール――石膏、こんがらかった紐や麻屑――がほどけてぼろぼろになったときはひときわ美しい。前足の、これといって関節らしいところもないが、それでいてよく感じを出した曲り具合は全く美しく、それだけで優にこの犬の身輊な歩きぶりを決定している。その犬は長い鼻づらをすりつけんばかりに地面を嗅ぎまわっているところなのだ。それはやせこけている。
 私はあの素晴らしい猫を忘れていた、石膏の、鼻づらから尻尾にいたるまで、ほとんど水平で、二十日ねずみの穴も通り抜けることができるほどの猫。そのきびしい水平性は猫が、たとえ、うずくまっているときでも、身に備えているフォルムを完璧に復元していた。 [17] 

  同じように細く肉体を削ぎ取られた「形」ながら、人間の彫刻とは大きく印象が異なる。孤絶した感じが薄い。猫は用心深く静かに歩み、犬は逡巡し立ちよどむ。人間像よりも特徴的な属性が顕在化しているような気がする。 

 ジャコメッティの芸術に関して、矢内原伊作やサルトルの言説の中にすごく重要だと思えるものの、十分に理解できない概念が用いられている。「虚無」、「空虚」という言葉、それが意味するものに私のイメージが届いていかない。
 たとえば、矢内原の「虚無」は次のように使われている。  

「あなたの作品は、オブジェの充実した空間ではなく、日常の空間とは全く違った、いわば虚無の空間を創り出している。そこにあなたの作品が他の多くの彫刻とは違う点があるのではありませんか」とぼくが言うと、彫刻家は、「それはそうかもしれないが、虚無の空間はよく人が言うようにメタフィジックなものではない、日常の空間が虚無なのだ、そうではないか、すべてのものは虚無の空間のただ中にある、私はそれを捉えたいのだ」と答えた。 [18] 

 オブジェが創り出す「虚無の空間」とはオブジェ自体なのか、それとも削ぎ取られた「非在」の空間のことなのか。しかし、彫刻家の考えは後者に近い。「すべてのものは虚無の空間のただ中にある」と、明らかに「在る」ものとして存在を見ている。
 サルトルの「虚無」と「空虚」は、もう少し難解である。 

 ジヤコメッティの一つの像は、彼の小さな局部的な虚無を作り出しているジャコメッティ自身である。しかし、われわれの名前のように、またわれわれの影のようにわれわれに属しているこれらの軽微な非在、これだけでは一世界を作るに足りない。これとは別に〈空虚〉そのもの、すべてからすベてへのあの普遍的な距離がある。街路はからっぽである。日が当たっている。そしてこの空虚の中に突然一人の人間があらわれる。彫刻は充実から空虚を創造するのだが、前からあった空虚のただ中に生まれ出る充実を彫刻は示すことができるだろうか。この間題に答えようとジャコメッティは繰り返し何度も試みた。 [19] 

確かにコケットな、また絶えず動いているので優雅な、またそれを取り巻いている空虚の故に不気咮なこれらの虚無の創造物は、身をかくし、われわれの眼から逃がれる故に完璧な存在に達するのだ。 [20]

 〈空虚〉な空間に創り出されたオブジェ(小さな像)が「小さな局部的な虚無を作り出して」いると言い、それを「虚無の創造物」と名付け直して、それが「完璧な存在」になるのは周囲の空虚の故だという。
 小さな彫像が虚無なのではない。彫像が虚無を生みだしている、つまり虚無をまとっている。虚無と一体となった彫像が、ジャコメッティの「存在」または「在ること」だという意味ではないか。そんなふうに理解すると矢内原の言との整合性がよい。

 ただし、「虚無」とは何か、と問い直す必要があろう。じつは、私の中には「虚無」という言葉に不信感のようなものがある。
 一九六〇年代、サルトルがもてはやされていた時代、人々(私を含めて)は「虚無」をはやり言葉のように使っていた。概念規定が曖昧で、何でもかんでも関連がありそうだと「虚無」と言いつのっていたのではなかったか。そして、いつの間にか誰も使わなくなったような気がする(これは、サルトル理解が不充分だった私自身のの個別的な感慨なのかもしれないが)。


    
左:『赤いシャツを着たディエゴの肖像』、 1954、 89×62cm [21]。 
    右:『ヤナイハラの肖像』、 1959、 92×73cm [22]。

 ジャコメッテイの絵を実際には見たことがない。図録で初めて油彩画を見た。肖像画の人物は、彫刻ほど細くはない。しかし、『赤いシャツを着たディエゴの肖像』に見られるように身体を囲む苛立つような無数の線が意味するのは、矢内原がくり返し報告しているように、存在にたどり着こうとして苛立ち、完成間近な絵を放棄してやり直す、それを何度も繰り返すという。苦しみ抜きながら何度も何度もやり直す作業そのものが凝縮されたような無数の線なのではないか。 

顔はそれ自身の上に戻る。それはそれ自身で完結している円環である。そのまわりをまわって見たまえ、決して輪郭を見出すことはないだろう、充実以外の何も見出せないだろう。線は否定の端緒であり、存在から非存在への移行である。だがジャコメッティは現実にあるものは純粋な存在性だと考えている。つまり、存在がある、そして突然その存在はもはやない、しかも存在から虚無への転移は全く知覚し得ないのだ。彼がひくおびただしい線が、いかに彼の描く形に対して内的であるかをよく見たまえ。いかにそれらの線が存在と彼との内密な関係をあらわしているかを見たまえ。上着の襞、顔の皺、筋肉の隆起、運動の方向。これらの線はすべて求心的である。これらの線は絶えず引きしめようとし、眼をその動きに従わせていつも顔の中心に連れ戻す。 [23] 

 一方、 『ヤナイハラの肖像』では激しい線は抑えられている。この違いが何に由来するのか、私には分からない。「完成した」と言いながら初めからやり直す創作過程のどこかの瞬間を切りとると、このような差違が顕現するのだろうか。
 ジャコメッティの肖像画について、サルトルが述べた次の文章にいたく感心してしまった。とくに『ヤナイハラの肖像』を見た後でこの分を読むと「なるほど」と言うしかない。

これらの驚くべき像は、しばしば透明になってしまうほど完全に非物質的でありながら、拳固の一撃を人に与えるほど、そして人がそれを忘れることができないほど完全に現実的である。これらの像はいったい現われるのか隠れるのか。その両方だ。それらは時にはあまりにも透明なので人はそれらの頭部がどんなふうなのかと考えてみようとさえしない。ただ、それらが本当に存在しているのかどうかを知るために自分をつねってみるのだ。 [24]

 二枚の肖像画の差違が、風景画にも現れているのではないか。下のような二枚を選んでみた。複数の線で輪郭をなぞられる家、輪郭線のない白い建物。この差違も、存在へのアプローチの過程での切断の瞬間の差違によると考えてよいのではないか、と思う


 左:『真向かいの家』、 1952、 70×39cm [25]。 右:『白い家』、 1958、 65×81cm [26]。 

 どこまで行っても、ジャコメッティの彫刻に近づいていってる実感はない。彫刻も油彩画も、まとめて観る機会があればいいのだが。
 最後に、彫刻家自身による「答え」のようのものを記しておこう。 

 人体は、私にとつて、決して充満しているマッスではなく、いわば透明なコンストリュクシオンだった。 [27]
 


[1] 『ジャコメッティ展』(以下、「図録」)(現代彫刻センター、1983年)。

[2] 矢内原伊作『ジャコメッティとともに』(以下、「矢内原」)筑摩書房、昭和44年。
[3] ジャン・ジュネ「ジャコメッティのアトリエ」(以下、「ジュネ」)『ジャン・ジュネ全集 第3巻』 (新潮社、1967年)p. 421。
[4] ジャン・ポール・サルトル「 ジャコメッティの絵画」(以下、「サルトル」)    『サルトル全集 第30巻』(人文書院、昭和39年)p. 296。
[5]  「図録」図版18、Collection Foundation Maeght, Saint-Paul。
[6]  「図録」図版49、Collection Foundation Maeght, Saint-Paul。
[7] 「矢内原」p. 19。
[8] 「矢内原」p. 81。
[9] 「ジュネ」p. 428。
[10] 「ジュネ」p. 431。
[11] 「ジュネ」p. 449-50。
[12] 「ジュネ」p. 424。
[13] ゼーレン・キルケゴ-ル「おそれとおののき」(桝田啓三郎訳)『キルケゴール著作集 第五巻』(白水社、1962年)。
[14] ジャック・デリダ『死を与える』(広瀬浩司/林好雄訳)(ちくま学芸文庫、2004年)。
[15]  「図録」図版22、Collection Foundation Maeght, Saint-Paul。
[16]  「図録」図版23、Collection Foundation Maeght, Saint-Paul。
[17] 「ジュネ」p. 431-2。
[18] 「矢内原」p. 81-2。
[19] 「サルトル」p. 300。
[20] 「サルトル」p. 308。
[21]  「図録」図版52、Collection M. et Mme Adrien Maeght, Paris。
[22]  「図録」図版62、Collection M. et Mme Adrien Maeght, Paris。
[23] 「サルトル」p. 302-3。
[24] 「サルトル」p. 307。
[25]  「図録」図版54、Collection M. et Mme Maeght。
[26]  「図録」図版60、Collection M. et Mme Maeght。
[27] 「矢内原」p. 322。


『ベルリン国立美術館展 ―学べるヨーロッパ美術の400年』 国立西洋美術館

2012年09月04日 | 展覧会

 大混雑の東京都美術館での「マウリッツハイス美術館展」は、昼過ぎまでかかって見終えた。上野の山を下って遅い昼食、ふたたび山を登り(エレベーターを使ったが)、西洋美術館に向かう。じつのところ、「ベルリン国立美術館展」は明日の予定にしていたのだが、二つの展覧会の対比に少しばかり惹かれての予定変更である。

 ポスターがあからさまに主張するように、「マウリッツハイス美術館展」の目玉はフェルメールの《真珠の耳飾りの少女》であり、「ベルリン国立美術館展」のそれは同じくフェルメールの《真珠の首飾りの少女》である。「耳」と「首」の勝負なのである。日本人のフェルメール好きはどれほどのものか、想像するのが難しい。
 私もフェルメール好きではあるけれど、あまり煽られないように、できるだけフェルメールに力点を置かないように気を遣って観たし、観るつもりである。

  
  アンドレア・デッラ・ロッビア《聖母子、通称アレッキアの聖母》、15世紀後半、彩釉テラコッタ、
           63×58×9.5 cm、ベルリン国立美術館彫刻コレクション [1]。

 ベルリン国立美術館展の展示は、15世紀の宗教絵画、彫刻から始まる。当然のように聖母子像が多く、その彫刻が3つ並んでいる。そのうちの一つ、アンドレア・デッラ・ロッビアの《聖母子、通称アレッキアの聖母》のマリアの表情の美しさに足が止まる。

 そのすぐ後に聖母子像の絵があって、そのマリアも美しい。西洋絵画には圧倒的な数で聖母子像が描かれていて、それを観る機会も多い。しかし、今日のようにこんなにもマリアの美しさが気になったことはなかったように思う。

       
        ベルナルディーノ・オイントゥリッキオ《聖母子と聖ヒエロムニムス》、1490年頃、
        
テンペラ・板(カンヴァスに移替え)、49.5×38 cm、ベルリン国立絵画館[2]。

 鑑賞の基準が、マリアが美人かどうかなんて、どういう審級なんだ。そんなことをうだうだ考えながら会場を進んで行くと、「わぁ、きれい」という女性の声がする。また、美人の登場である。その女性ではなく、その人の前の婦人の胸像が、である。グレゴリオ・ディ・ロレンツォ・ディ・ヤコポ・ディ・ミーノの《女性の肖像》の繊細な感じが美しい。
 この胸部肖像は、おそらくこの展覧会のもうひとつの目玉らしく、図録には前後左右から撮した写真が併せて5枚も収録されているという特別扱いである。

    
       グレゴリオ・ディ・ロレンツォ・ディ・ヤコポ・ディ・ミーノ《女性の肖像》、1470年頃、
         ストゥッコ、50.5×47×22 cm、ベルリン国立美術館彫刻コレクション [3]。

 《女性の肖像》についての作品解説を見ておこう。

1460年代および1470年代におけるグレゴリオの様式は、デジデリオやミーノ・ダ・フィエーゾレ(1429-1484)の作品と非常に結びつきが強く、彼の理想美はこうした彫刻家に由来する。引き伸ばされた首、強い正面性、眉・鼻・口の明快な輪郭が特徴の整った横顔にそれは顕著である。………こうした胸像は、美しい肉体に宿る有徳の魂、すなわち外見と内面の美しさの関連性をめぐるルネサンス期の主題をよく示している。つまり、こうした形式の肖像は像主の女性の純潔と貞節を讃えているのである。 [4]

 「16世紀:マニエリスムの身体」という彫刻を主とする展示がある。「マニエリスム」も、じつは私にとって分かるようでいて判然としない美術概念である。「ああ、そういうことか」と言葉で理解したつもりにはなるのだが、具体的な作品で「マニエリスム的要素」を峻別できない。そうして、いつのまにか「マニエリスムってなんだ」とすっかり戻ってしまうのである。

       
       アレッサンドロ・ヴィットリア《アポロ》、1550年頃、ブロンズ、高さ28.9 cm、
              ベルリン国立美術館彫刻コレクション [5]。

 アレッサンドロ・ヴィットリアの《アポロ》には、確かにマニエリスムの特徴である「長く延びた人体と、手足の長いプロポーション、そしてさまざまな方向へのねじれや回転を含んだ動きやポーズ」 [6] が顕されている。またまた、作品解説による勉強である。

この「抒情的で繊細なアポロ像」(ヴァイラウフ)を、ブラーニシヒは「ヴイットリアのマニエリスムによる規範」と称した。「マニエリスム時代の“フォルツァート(強制力)”、つまり人物表現を決定的に支配する、様式観念におけるぎこちない形態、装飾的な輪郭線は、ここでは様式主義という言葉とともにその最良の体言者として私たちに立ち現われている」。
 ………
 ベルリンのアポロ像は、その長く伸ばされた、ほっそりとした手足や小さい頭部表現によって、16世紀中頃にヴェネツィア芸術で理想と見なされ、また当時享受された芸術理論において理想的美と広く説かれた、マニエリスム的人物タイプを表わしているのである。 [7]

 いずれ、同じような作品を前にして「マニエリスムってどんなだ」と悩むことになるとしても、一応今日のところは少しだけ「マニエリスム」が分かった、ということにしておく。 

       
        ヤーコブ・ファン・ロイスダール《滝》、1670-1680年頃、油彩・カンヴァス、
                  69×53 cm、ベルリン国立絵画館[8]。

 「17世紀:絵画の黄金時代」の展示では、ベラスケスやジョルダーノの人物画、ルーベンスの歴史(風景)画などビッグネームが並ぶ。しかし、ここではロイスダールの風景画を挙げておこう。《滝》である。マウリッツハイス美術館展にもロイスダールの風景画が数点展示されていた。日頃、ロイスダールは良いと言いつのっているのに、ホッペマの風景画に気をとられてしまって、なんとなく気がかりだったのである。

 ヤン・ステーンもまたマウリッツハイス美術館展で展示されていた。いつものように、物語性がわんさと詰め込まれた風俗画である。カードプレーヤーの喧嘩の様子ではなく、その場所に集う人々の姿形、庭前の様子など、見ていて楽しい。 


   ヤン・ステーン《喧嘩するカードプレーヤー》、1664-1665年頃、油彩・カンヴァス、
              90×119 cm、ベルリン国立絵画館[9]。

 ロイスダールの風景画やヤン・ステーンの風俗画は、いろんな美術館で見かけるような気がする。いつもモティーフは同じなので、取り立ててこの一点というものもないけれど、見慣れたというかよく眼に馴染んでいる。
 これは余計なことだけれども、ロイスダールを初めて観たのはウイーンかどこかヨーロッパの美術館で、そのときRuisdaelを「ルイスデール」と読んで、ずっとそう思い込んでいた。

       
        フェデリコ・バロッチ《《キリストの割礼》のための祈る天使と手の習作》、
          1581-1590年頃、黒色天然石・赤色天然石・白墨・青染紙、
             285×221 mm、ベルリン国立素描版画館[10]。


 最後に、大量の素描が展示されていた。その中の一点、フェデリコ・バロッチの《《キリストの割礼》のための祈る天使と手の習作》は、どこか廊下の壁かなんかに飾れたら素敵だろうと思える作品である。なにより、天使以前の天使というのがいい。
 祈りの手は別として、手だけの素描というのは特別な雰囲気がある。物語を秘めた深い表情があるようでいて、限定的な物語はけっして示されない。存在論的な表情とでもいうのだろうか。ごく最近、アンドリュー・ワイエスの手だけの素描を見たときもまったく同じ感慨だった。

 美術展を1日に二つも見るというのは、意外にきつい。足に来る。

 


[1] 『ベルリン国立美術館展』(以下、図録)(国立西洋美術館/TBSテレビ、2012年)p. 51。
[2] 図録、p. 53。
[3] 図録、p. 101。
[4] シュテファン・ヴェッペルマン(友岡真秀訳)「《女性の肖像》作品解説」図録、p. 100。
[5] 図録、p. 125。
[6] 図録、p. 119。
[7] フォルカー・クラーン(深田麻理亜訳)「《アポロ》作品解説」図録、p. 124。
[8] 図録、p. 167。
[9] 図録、p. 169。
[10] 図録、p. 289。


『オランダ・フランドル絵画の至宝 マウリッツハイス美術館展』 東京都美術館

2012年09月04日 | 展覧会

 すごい人出である。人の列は、地下1階の入口から地上に上がり、さらにぐるりと建物の2辺を囲むように並んでいる。「1時間待ち」ということだ。これもひたすらただひとつの絵、フェルメールの《真珠の耳飾りの少女》を観るためである。
 うんざりしたが、仙台に引き返すわけにも行かないので、熱暑の中を並んだ。東京はいつも、人、人、人である、と言いたいところだが、昨日の国立新美術館の「具体」展はとても静かに鑑賞できた。まったく対象的である。

 さて、なかなかその名前を覚えられなかった「マウリッツハイス美術館」のことである。図録には次のような解説がある。

マウリッツハイス美術館の非凡な特色は多岐にわたる。17世紀にハーグ市中に建設され、1822年より美術館のコレクションを収容しているその素晴らしい邸宅は、建物そのものがオランダ古典様式建築の精華といえる。由緒正しいコレクションの基礎は、オランダ総督オラニエ家歴代当主の収蔵品にあり、それが美術館の公式名称である「王立絵画陳列室マウリッツハイス」の由縁となった。南北ネーデルラントで17世紀に描かれた絵画を中心とするコレクションにはレンブラント、フェルメール、フランス・ハルス、そしてルーベンスなどの傑作が含まれる。それに加え15世紀、16世紀の巨匠ロヒール・ファン・デァ・ヴエイデン、ハンス・ホルバイン(子)も名を連ねる。マウリッツハイス美術館を訪れれば、巨匠の傑作はもとより、知名度は劣るにせよ、名匠には変わらぬ画家たちの作品との出会いが待っている。マウリッツハイス美術館のユニークさは、親しみやすい、私邸らしい建物に、きわめて上質のコレクションを収蔵している点にある。 [1]

 展示の構成は、I.美術館の歴史、II.風景画、III.歴史画(物語画)、IV.肖像画と「トローニー」、V.静物画、VI.風俗画という6部から成っている。

 「I.美術館の歴史」は、オラニエ家の肖像画や美術館の建物、その内部の絵画である。

 「II.風景画」では、やはりヤーコブ・ファン・ライスダールの絵が2点含まれていて目を引いた。私の思い込みだが、ライスダールの風景画はいつ観ても「西洋の風景画の典型」のような印象を受ける。同じ風景画家としてサロモン・ファン・ライスダールというヤーコブの叔父に当たる画家がいるということを今日初めて知った。


メインデルト・ホッペマ《農家のある森》、1665年頃、油彩・カンヴァス、88×120.7 cm [2]。

 印象に残った風景画を一点だけ挙げるとすれば、メインデルト・ホッペマの《農家のある森》である。とくに、5,6本の木立の向こうの陽の当たる広場と木陰の明暗が際立った印象を与える。そんなに大きくない絵に、農民や馬、犬などが細密に描写されている。眺めていて飽きない絵である。


  レンブラント・ファン・レイン《シメオンの讃歌》、1631年、油彩・板、60.9×47.9 cm [3]。

 「III.歴史画(物語画)」の部では、レンブラントの《シメオンの讃歌》に強く惹かれた。広く大きな会堂で演じられるドラマを、観客としての私が離れた場所から鑑賞しているような構図である。シメオンと幼子イエス、そして聖母マリアにだけスポットライトが当たっている。高い天井をもつ広い空間に広がる闇はきわめて効果的で、シメオンの讃歌とともにしだいにイエスの放つ光が満ちてくるのではないかという予感さえするようだ。

 次の「IV.肖像画と「トローニー」」の部に《真珠の耳飾りの少女》が展示されている。《真珠の耳飾りの少女》は肖像画ではなく、「トローニー」である、という。「トローニー」と《真珠の耳飾りの少女》について、次のような解説がある。

1665年頃にフェルメールの描いた数点の「トローニー」のなかで、マウリッツハイス美術館を訪れる誰もがお目当てにするこの少女が、最も名高いことに疑問の余地はない。オランダ語で「顔」を意味する「トローニー」は人物の胸から上、あるいは顔を描き、モデルの素性を明らかにするのではなく、ある種の性格のタイプの表現を試みるもので、17世紀のオランダ絵画ではこのジャンルが人気を集めた。少女の理想化された顔だちと風変わりな衣装があいまって、作品は時代の枠を超え、神秘的な性格を帯びる。絵は静寂と調和の気配に包まれ、時の流れがしばし停止したような印象も与える。かすかに唇をひらき、肩越しにこちらを振りかえる少女の視線を浴びて、我々はあたかも少女の夢想を妨げたような気分を味わう。 [4]


左:ヨハネス・フェルメール《真珠の耳飾りの少女》、1665年頃、油彩・カンヴァス、44.5×39 cm [5]。
右:フランス・ハルス《笑う少年》、1625年頃、油彩・板、直径30.4 cm [6]。

 いまさら、私が《真珠の耳飾りの少女》についてあれこれ言を費やすのは気恥ずかしいくらいのものである。強いて言うことがあるとすれば、フェルメールの中でもっとも好きな作品は「デルフトの眺望」とか「デルフトの小路」のような風景画であり、次に好きなのは「トローニー」に分類される《赤い帽子の女》、《少女》、《真珠の耳飾りの少女》であり、その次に、したたかに物語性を詰め込んだ風俗画群である、という私の好みのことぐらいである。

 フランス・ハルスの 《笑う少年》もまた、小品ながら「トローニー」の傑作である。具体的なモデルをもたない人物画である「トローニー」は、対象の人物にとらわれずに絵画としての美を追究できる。そういった意味では、いったん抽象化作用を経るために、一般化された、あるいは普遍化された人物像に迫ることができているということだろう。

 レンブラントも多くの「トローニー」を描いている。《老人の肖像》は、具体的なモデルが特定されていないものの「肖像画」として扱われている。しかし、この絵の徳は、「トローニー」的感性をつぎ込んで描いたことにあるのではないかと想像している。名声や富、社会的しがらみに拘束されずに人物を描きうること、「トローニー」を描くときには常にそうであったことがこの傑作を生みだしのではないか。

    
  レンブラント・ファン・レイン《老人の肖像》、1667年、油彩・カンヴァス、81.9×67.7 cm [7]。

 「V.静物画」の部では、問題なくアードリアン・コールテの《5つのアンズのある静物》がもっとも強く惹かれた1枚であった。5つという数、枝と葉の配置、壁の色、台の上の光と影、そして何よりもアンズの色。台から転げ落ちそうな不安定感さえ「美」のために必要ではなかったか、と大げさに思ってしまうほど気に入ったのである。「気に入った」というのが私の中のこの美の価値である。

       
         アードリアン・コールテ《5つのアンズのある静物》、1704年、
              油彩・カンヴァス、30×23.5 cm [8]。

 さて、最後の「VI.風俗画」の部では、私の好きなヤン・ステーンの絵を挙げようとおもったが、人物ではなく風景に注目して《デルフトの中庭(パイプを吸う男とビールを飲む女のいる中庭》を挙げておこう。理由は、「フェルメールの《デルフトの小路》の左手に描かれている木戸を開けて入っていくと、この絵のような中庭に出るのではないか」という想像を喚起してくれたためである。

      
     ピーテル・デ・ホーホ《デルフトの中庭(パイプを吸う男とビールを飲む女のいる中庭》、
           1658-1660年頃、油彩・カンヴァス、78×65 cm [9]。

 それにしても、フェルメールの《デルフトの眺望》を所蔵しているのはまぎれもなく「マウリッツハイス美術館」である。それなのに、この「マウリッツハイス美術館展」には《真珠の耳飾りの少女》の絵の手前に《デルフトの眺望》の写真が飾ってあるだけであった。我が家の居間には、額装の写真複製を飾ってあるほど、好きな絵だというのに。
 

[1] レア・ファン・デァ・フィンデ「マウリッツハイス美術館の歴史とコレクション」『オランダ・フランドル絵画の至宝 マウリッツハイス美術館展』(以下、図録)(朝日新聞社、2012年)p. 13。
[2] 図録、p.57。
[3] 図録、p.75。
[4] カンタン・ビュヴェロ、アリアーネ・ファン・スヒテレン「ヨハネス・フェルメール作《真珠の耳飾りの少女》―オランダのモナ・リザ」図録、p.27。
[5] 図録、p.83。
[6] 図録、p.89。
[7] 図録、p.105。
[8] 図録、p.89。
[9] 図録、p.105。


『「具体」 ―日本の前衛 18年の軌跡』 国立新美術館

2012年09月03日 | 展覧会

 かつて活躍した前衛美術グループ「具体」とその展覧会については、9月1日の神戸新聞の電子版署名記事にじつに簡潔に紹介されている。

 戦後、阪神間で活躍した前衛美術集団「具体美術協会(具体)」。解散から40年を経た今、国内外で再評価の動きが高まっている。東京では首都圏初となる大規模な回顧展が開催中で、米・グッゲンハイム美術館も来年2月から展覧会を予定。底抜けに自由な創造性と新しい時代を求める精神が、人々を引きつけてやまない。(神谷千晶)
 具体美術協会は1954年、抽象美術の先駆者・吉原治良(じろう)をリーダーに若手美術家らが結成。「人のまねをするな」をモットーに、72年の解散まで独創的な作品を次々と生み出した。
 当時から欧米で高く評価され、地元・関西でも80年代以降、回顧展や研究が続けられてきたが、東京ではほとんど顧みられる機会がなかった。奔放な作風への違和感や、一地方の集団でありながら海外と直接結びついていたことへの複雑な感情などが背景にあるという。
 国立新美術館(東京・六本木)で開かれている「『具体』‐ニッポンの前衛 18年の軌跡」展(10日まで)は、メンバー39人の作品約150点を紹介し、活動の変遷をたどる。入門かつ総覧的な展示だ。
  ……
  具体は57年、フランスの美術評論家ミシェル・タピエとの出会いによって一気に国際化。中期の作品群からは、海外へ輸送しやすい平面に比重を移し、「アンフォルメル(非定型)」の分野で高く評価された軌跡が伝わる。 [1]

 「具体」というグループ名とその志向は、リーダーである吉原治良の言葉に端的に表明されている(平井正一の引用による)。

われわれはわれわれの精神が自由であるという事を具体的に提示したいと念願しています。新鮮な感動をあらゆる造形の中に求めて止まないものです。 [2]

これが美術であるかないか、そんなことはどちらでもよさそうです。美術の概念にあてはまらないものの方が、食欲を催すのです。発見こそ尊敬に価することと信じているわけです。非常に直接に感動を定着すること、或いは精神と物質の直接の結びつき。これらのことに,具体の人々は異常な真剣さと歓喜をもって、おおらかに生命を燃やし続けている人々です。 [3]

 前衛ということで抽象性の高い作品が多いだろうと予測できるのだが、それなのになぜ「具体」なのだろうかと、いわば、「具体」という言葉に惹かれたのである。
 もともと私は、「前衛芸術」、「アバンギャルド」、「モダンアート」、「抽象絵画」、どう言ってもいいのだが、この手の作品にはどうにも腰が引けてしまうのだ。
 二十歳前だったずっと昔、ある美術雑誌でカンディンスキーの青を基調とした絵にひどく感動したことがあって、それからの未来ではそのような美しい抽象画に幾度も出会えるものと思っていたのだが、どうもそうではなかった。良いと思うこともあったが、素早くその印象が消えてしまうのだ。
 跡づけて考えれば、その手の絵は感覚にだけ作用して、言語に結びつく意識領野へは辿りつかないのではないか。少なくとも私の場合はそんな具合ではなかったか、と思う。霧のようにすぐに薄れてしまう印象が続くと、しだいにそのような芸術に接するための努力を放棄するようになる、つまり端的に言えば、観たいという欲求はなくなって今に至っている。

 しかし、今回は、それが私の怠惰な思い込みだったことを思い知らされた。

       
       白髪一雄《作品II》、1954年、油彩・紙、112.0×77.5 cm、個人蔵、スイス [4]。

 会場に入って最初に眼にしたのは、白髪一雄(1924-2008)の《作品II》である。この絵をすごく気に入ってしまった。「これは理想的な薔薇の花色である」というのが最初の印象、次に「紅の単色の濃淡が織りなす空間の美しい認識手法」だと思ったのである。ひと言でまとめればただ単に「美しい」と言うことだが。

 しかし、後年の白髪一雄には《天雄星豹子頭》 [5] とか《天暴星両頭蛇》 [6] のような2mを越える大作もある。床にカンヴァスを置いて、天上からのロープにぶら下がって足裏を使って描いたという迫力ある絵である。
 「雄大で迫力ある」ことに異論はないが、この絵を前にした私の感情を言ってしまうと、「イライラするような不快」である。この不快感には強度がある。とはいえ、同じような強度で「快」に属する感情をかきたてられる鑑賞者も多いに違いない(ほとんどの人がそちら側かもしれないが)。いずれにせよ、ある強度で感受力を喚起するのであるから、優れた作品と言えるのだろう。芸術作品は「快」だけをもたらさねばならないという存在論的必然はまったくないのである。ちなみに、前者は国立国際美術館、後者は京都市美術館の所蔵品である。

 美しさではなく「懐かしさ(のようなもの)」が強く誘起されたのは、吉田稔郎(1928-1997)の《SEP.》という作品である。板と焼け焦げの作品である。丘の上から眺めた懐かしい町の夕景に見えないか。そのような具体的な印象を持たなくても、静まりかえったような、それでいて「切なく懐かしい」感情が喚起されながら、この絵を眺めていたのである。

 
       吉田稔郎《SEP.》、1954年、板、66.3×92.0cm、芦屋市立美術博物館 [7]。 

 白髪富士子(1928-)の《白い板》を、すごくいいな、と思った理由を説明するのは難しい。この板を我が家の室内の壁に貼りつけておきたい、と思ったのである(それほど大きな洋間があれば、ということだが)。不思議だ、このシンプルさが心を打つのだ。

        
       白髪富士子《白い板》、1955年、ペンキ・木、393.0×55.5×2.0 cm、
                兵庫県立美術館(山村コレクション) [6]。

 白髪富士子には、1mを越える大きな縦長の厚地の和紙に天から地まで長い滲みのような線が入っていたり、細い線が斜めに入っているという作品があって、《白い板》のモチーフを白地の和紙で表現したような作品もある。その作品群も、やはり落ち着いた印象の感動を与える。

       
       吉原治良《手とカード》、1930年頃、油彩・カンヴァス、41.0×27.4 cm、
                大阪市立近代美術館建設準備室 [7]。

 具体美術協会のリーダー(指導者)である吉原治良(1905-1972)の作品も多く展示されているが、やはりグループの中では群を抜いている。

 《手とカード》は「具体」結成よりずっと前に描かれた吉原の初期具象作品であるが、いくつかの「具体」時代の作品を観た後でこの作品の前に進むと、吉原の作品群のある特徴の源泉のようなものが感じられる。それは、空間的な奥行きの表現である。
 もちろんこの絵のモティーフは「手とカード」であろうが、そこには遠景としての風景や、空と雲、光の当たり具合で色を変える鳥の群などが描かれる。目の前の手からずっとずっと向こうの山並みまでの深い奥行きが描かれている。何の根拠もないが、このとき、モナリザという女性が主題である絵の、モナリザの背後に広がる遠景、そしてそれを描く画家に思いが繋がったのである。 

       
       吉原治良《作品A》、1936年[1939-40年頃]、油彩・カンヴァス、116.5×91.0 cm、
               大阪市立近代美術館建設準備室 [10]。


 たとえば、《作品A》を観た印象でもっとも強度があったのは、やはり「深さ」である。写真図版ではほとんどその感じが消えてしまって残念だが、とくに中央の縦に運ばれた筆遣いは画面のずっと奥を表現しているように見える。「筆運び」と「配色」で豊かな3次元構造を表現していて、眼を奪われてしまった。
 一方、吉原には「構成」だけで「深み」を表現した作品、《作品(UNTITLED)》もある。使われた色は黒と白だけである。世界全景を1筆で描くような円、あるいは世界を覗く窓のような円とでも表現したらよいのだろうか。しかし、視線は中央部分に小さく描かれた途切れた水平な線に集まってしまう。これこそ、はるか彼方の水平線(地平線)のように視え、このシンプルな構図の絵が広大な空間を表現しているのだと強い確信を私に与える。


     吉原治良《作品(UNTITLED)》、1962年、油彩・カンヴァス、182.0×272.0 cm、
                  東京都現代美術館 [11]。

 さらに吉原には、板に白セメントを厚く塗った《作品A》[12] や、カンヴァスに暗赤色の絵具だけで描いた《作品》 [13] のように、単色ながらその凹凸が生みだす陰翳の美しさを表現した作品もある。こちらは、平面上に実際に3次元的に盛り上げた素材によって美を表現したものである。

 「具体」展は、いくぶん私の偏見を正してくれそうな気配である。じっさい、具象的な作品に比べれば、鑑賞時における「快」「不快」の激しい強度の振幅にたじろぐが、「不快」を覚悟しても鑑賞する価値があることを教えられたような気がする。


[1] 「 「具体」の精神再評価 東京で首都圏初の大規模展」 『神戸新聞news』(2012年9月1日)。
[2] 平井正一による引用「「具体」―近代精神の理想郷」『「具体」―ニッポンの前衛 18年の軌跡』(以下、図版)(国立新美術館、2012年)p. 12、(原典は、吉原治良「発刊に際して」『具体』創刊号(具体美術協会、1955年))。
[3] 同上、p. 12、(原典は、吉原治良「具体の人々」第1回具体美術展案内ハガキ(具体美術協会、1955年))。
[4] 図版、p. 24。
[5] 図版、p. 121。
[6] 図版、p. 122。
[7] 図版、p. 27。
[8] 図版、p. 34。
[9] 図版、p. 92。
[10] 図版、p. 96。
[11] 図版、p. 105。
[12] 図版、p. 45。
[13] 図版、p. 46。


原発を詠む(2)――朝日歌壇・俳壇から(8月20日~9月3日)

2012年09月03日 | 読書

朝日新聞への投稿短歌・俳句で「原発」に関連して詠まれたものを抜き書きした。

 

原発の再稼働否(いな)蟻のごととにかく集ふ穴あけたくて
                
(長野県)井上孝行 (8/20 佐佐木幸綱選)

 

100円の帽子被って参加した脱原発デモの後のかき氷
               
(神戸市)北野中 (8/20 佐佐木幸綱、高野公彦、永田和宏選

 

原発を残して死ねじと歩く老爺気負わずノーと夕風のごと
                
(秦野市)森田博信 (8/20 佐佐木幸綱選)

 

国会を囲む原発NOの輪に我も入りたし病みても切に
                
(埼玉県)小林淳子 (8/20 高野公彦選

 

身分明かす物持たず行くデモでなく気軽でもないパレードを歩く
                     (日野市)植松恵樹 (8/27 永田和宏選)

 

「故郷」の唄を歌いて人々は明り灯して国会包囲す
                     (東京都)白倉眞弓 (8/27 永田和宏選)

 

国会を包囲し気付けばお月さま明るく静かに見守っている
                     (町田市)北村佳珠代 (8/27 佐佐木幸綱選)

 

放射線に子ども御輿は三時間の制限の中ばち跳らせる
                     (伊達市)伊藤美知子 (9/3 永田和宏選)

 

原爆忌みな黙祷に福島を思ふ広島そして長崎
                     (三郷市)岡崎正宏 (9/3 佐佐木幸綱選

 

無恥なのか鈍感なのか日本人原爆忌もち原発忌もつ
               
 (いわき市)馬目弘平 (9/3 佐佐木幸綱選)

 

ホロビユクモノを見て来しまなこ今、コワレユクモノを見つめておりぬ
               
(福島巿)美原凍子 (9/3 高野公彦選

 

原発を再稼働して原爆忌
               
(伊丹市)土居 (8/20 金子兜太選)

 

空泣けりフクシマ黒き原爆忌
               
(福島県浅川町)塩田全宏 (8/27 金子兜太選)

 

ふぐしまを世界に恥じる広島忌
                    (東京都)鈴木淑枝 (9/3 金子兜太選) 


『美術館で旅行! ――東海道からパリまで――』 山種美術館

2012年09月02日 | 展覧会

 夏休み企画と銘打っての展覧会である。出だしは、歌川広重の「東海道53次」の浮世絵版画である。浮世絵としては広重だけの展示だが、浮世絵をこれだけまとめて観るのは、クラクフ(ポーランド)の日本美術技術センター“Manggha”で観たとき以来である。
 広重の空間構成の妙ときわめて高度な版画技術には感心するものの、何かにつけて見慣れているせいか、とくに新しい感動というものはあまりなかった。

 順路案内に従って観ていったが、どうも私自身は「夏休みの旅行」という気分にはなれなかった。想像力が十分に働かなかったのだろう。旅の楽しみは味わえなかったが、それぞれの絵を観る楽しさは十分に味わえた。

 
         奥村土牛《鳴門》1959年、紙本・彩色、128.5×160.5 cm [1]。

 広重の《阿波鳴門之風景(雪月花之内 花)》もあったが、もっと印象に残ったのは、奥村土牛の《鳴門》である。
 激しいはずの渦潮が、静謐な美しさで溢れている。音のない世界で、波立つ海がが発光しているようだ

 光といえば、同じ土牛の《輪島の夕照》も良かった。夕照という条件もあるだろうが、土牛の風景画としては濃い色彩で描かれている。

 
        奥村土牛《輪島の夕照》1974年、紙本・彩色、64.5×91.4 cm [2]。

 「東海道からパリまで」のパリの絵では、やはり佐伯祐三の2点の絵が圧倒的であった。《クラマール》と《レストラン(オ・レヴェイユ・マタン)》である。
 後者は展覧会のパンフレットにも掲載されていて評価が高いのかも知れないが、哀愁を帯びたその色調(少し感傷的な感じがする)よりも、
「クラマール」の迫力ある構図の方が、私は好きだ。
 いつか、佐伯祐三の絵をまとめて観る機会が
あればよいのだが。

 
         佐伯祐三《クラマール》1925年、カンヴァス・油彩、59.0×71.5 cm [3]。

 
 佐伯祐三《レストラン(オ・レヴェイユ・マタン)》1927年、カンヴァス・油彩、59.3×72.0 cm [4]。

 

[1] 『山種美術館所蔵 奥村土牛作品集』(山種美術館、2010年)p. 50。
[2]  同上、p. 64。
[3] 『ザ・ベスト・オブ・山種コレクション』(山種美術館、2011年)p. 197。
[4]  同上、p. 197。