かわたれどきの頁繰り

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【書評】樫村愛子『ネオリベラリズムの精神分析』(光文社、2007年)

2014年01月07日 | 読書

 

 副題の「なぜ伝統や文化が求められるか」というのが、著者がこの本で強く語りたかったことだろう。けっして、ネオリベラリズムの政治や経済、そのグローバルな展開についての論述ではなく、ネオリベラリズムが席巻する現代資本主義のもとでの社会的、文化的現象の社会学的、心理学的分析について述べているのだ。そして、ポストモダンの思想家、社会学者の様々な文化批評や社会分析が広範に紹介されていて、社会分析の教科書という印象もある。
 教科書というものはたいがい面白くないものと相場が決まっているが、この本はとても面白く読めた。その第一の理由は、多くの著書の引用として紹介される社会分析の様々な手法や概念が、私たちがよく見知っている現代、とくに日本の社会情況を適切に解説してみせていることにあると、私には思われる。自分の知らない新しい概念や思考方法が書かれていること、それを知ることによって、社会、世界(自然)が少しばかりではあっても見通しがよくなること、それが私にとっての読書の意味である。

 本書は、私たちの社会に存在している多くの問題を指摘しているものの、「おわりに」で「具体的な処方箋を書くスペースは本書にはなかった」 (p. 316) と述べているように、社会諸現象の解決策を提示しているわけではない。ただ、正しい解決方策、処方箋に至るためには著者のような「臨床社会学」の立場からの「社会の見方」や「理論的展望」(p. 317) が必須の前提的知見であることは間違いない。そして、短兵急に解決策を知りたがる私のような人間にはとくにこんな本が必要なのだと、あらためて知らされたのである。

 この論考を執筆する著者には、日本の政治における復古的な伝統主義(=原理主義)への危機感と同じように教育に対する危機感も強くあって、それが本書の基調になっているようだ。それは、新自由主義による社会の流動化が文化や言葉に基づく社会の恒常性を希薄化させたことによる。恒常性のない社会での教育の困難と、恒常性を安易に伝統に求める政治とを憂えているのである。それが、私の粗っぽい本書の要約である。

 「ネオリベラリズム」とは、「新自由主義」、また、より批判的な意味を込めて市場原理主義」「市場独裁主義」と呼ばれる、現在の社会・経済のあり方を指している。 (p. 11)

 著者は、新自由主義が1970年代の先進国の変動相場制の導入に始まると見ているようだが、それはフリードリッヒ・ハイエクに始まりミルトン・フリードマンを中心とするシカゴ学派によって提唱された新自由主義的経済政策を国際戦略として採用したアメリカ合州国やそれに追随した資本主義先進国の経済政策を意味している。
 
そこに至る資本主義の変遷を理解する上で興味深いリュック・ボルタンスキーとエヴ・シャペロ(著者はシアペロと記述)の説が紹介されている (p. 162-5)。19世紀末に表われた第1段階の資本主義は「アナーキーで個人主義的」であったためマルクス主義や社会主義の批判(「社会的批判と」と呼ばれる)が生れ、ニューディール政策などに典型的に見られるような資本主義の修正によって「福祉国家」(ジグムント・バウマン流に言えば「社会国家」 [1] )へ発展する。しかし、福祉国家化には、国家による社会への過重な干渉をもたらすというような負の側面があり、官僚主義、管理主義への反発としての「個人的でアナーキー」な「芸術的な批判」がなされて現在の(第三の)資本主義に至っており、その契機としての〈1968年〉の言説に注目しているというのである。
 
〈1968年〉の世界的な学生叛乱は、社会主義国家も資本主義国家も官僚制の強化による管理社会強化を進めていることに対する「自由」を求める闘争であったのは確かだが、官僚制に対抗できない既成左翼に対する「左翼的」叛乱でもあったというのが、私の理解である。もちろん、「個人的でアナーキー」な「芸術的な批判」であったことも肯けないわけではない。そういった意味では、青木やよひが日本の〈1968年〉について次ぎのように述べているのは印象的であった。 

確かに、政治の季節であったあの数年間が過ぎてみると、体制のシステム自体はゆるぎもしなかったが、時代の空気がはっきりと変っていた。たとえば「権威」というものの価値があらゆる分野で低落し、人々はよかれ悪しかれ自分の好みを優先させるようになった。また、年齢や階層による行動規範がくずれ、服装のユニセックス化やジーンズ化が広く定着した。風俗を含めた文化状況のこうした自由化には、人々の意識をなしくずし的に変えてゆく力がある。ウーマンリブの登場もこの背景と無縁ではない。 [2]

 ボルタンスキとシアペロの言を認めれば、〈1968年〉の新左翼的運動における思想・言説は、新自由主義的経済思想の実践に期せずして寄与する補完的な働きがあったことになる。しかし、〈1968年〉の新左翼的運動は個人の自由を主張したことに対し、新自由主義の自由とは経済活動の自由、つまり「資本」の自由を主張しているに過ぎない。そのような自由、つまり経済的な自由競争は必ずや資本という経済権力を(ときとして政治権力とともに)あらかじめ保有している階層が一人勝ちできる自由にすぎず、それが現代社会の歪みの最大の要因になっている。
 とはいえ、「社会的批判」と「芸術的批判」というカテゴリーを設けて資本主義の変遷を理解しようとするボルタンスキとシアペロの解釈は興味深いものである。

 ボルタンスキとシアペロは、資本主義に対する批判をカテゴリー化して論じており、その中でも、「芸術的批判」と「社会的批判」を対立する重要な批判カテゴリーとしている。その両者を歴史的に交替しながら現れ、相互補完的な要素をもつものと規定している。そして現在の資本主義の精神は、六八年五月以降叫ばれた、日常生活の疎外(資本主義と官僚制の結合による)の告発という、「芸術的批判」の回復によるものだとする。現在の資本主義は、フォーディイズムの原理やヒエラルキー組織を放棄して、ネットワークとしての新しい組織を発展させ、物理的・精神的安全性を犠牲にしても行為者の能動性や仕事における相対的自律性を重視する。
 
そして、もう一方の批判的言説としてある、(組織的な左翼によって担われてきたような)資本主義の「社会的批判」は、現在古い図式から出られず、新しい批判の論理を失っているとする(日本においても旧・社会党や共産党など組織的な左派の失墜が激しい)。
 
二つの批判のカテゴリーを交替的なものとして立てている彼らは、現代は次の批判(「社会的批判」)が生まれにくい状況であるとし、「資本主義は栄えているが社会は滅びつつある」と述べ、現在は「資本主義の批判における冬の時代」だとする。社会的批判を行うためには、社会が存続していなければならないが、社会が解体しつつあるため、社会的批判は構成しにくいのである。 (p. 164-5)

 彼らは「二つの批判のカテゴリーを交替的なものとして立てている」のだが、歴史的には、「社会的批判」による資本主義の修正は1920年頃に一度だけ、「芸術的批判」によるものは1970年頃にこれも一度だけ生じたにすぎない。ともに一度きりしかない事例をもって、将来も「交替的」に生じると普遍化することになる(実験物理学を業とした私にはこのような普遍化はとうてい考えにくいことだが、社会科学では理路の合理性によっては可能なのかもしれない)。むしろ、問題なのは普遍化ではなく、この普遍化が、たかだか19世紀末から100年ちょっとしか経験していない資本主義の永続性を前提していることだろう。そうでありながら、現在のように来たるべき「社会的批判」がなされない(批判の交替制が成立しない)かぎり、社会の衰退と一体となって資本主義は衰退するしかないという。逆に言えば、資本主義を超克するには資本主義が寄生する社会そのものの衰退が必須であるということになってしまう。資本主義と人間の社会は一体化して切り離せないというイメージに近い。あたかもフランシス・フクヤマの「歴史は終った」論である。これはほんとうだろうか。

 新自由主義的経済によって社会は流動化した。この現代の社会の流動状況を、著者は「プレカリテとはなにか?」という章を設けて議論している。

 社会学者のバウマンは、……これらの語が明らかにしようとするのは、不安定性(身分、権利、生活の)、不確実性(永続性と将来の安定との)、危険性(身体と、自己と、財産と、近隣と、共同体の)の三層からなる現象であるとする。  (p. 31)

 新自由主義的経済政策は、国内的には「構造改革」や「規制緩和」という名目で福祉国家からの脱却(小さい政府化)を図ることに現われたし、グローバリゼーションのもとでの国際競争力強化の名目での大量解雇や非正規雇用の拡大などとして現出した。これらはすべて企業・資本の発展が経済発展そのものだという思想であり、格差の拡大や窮乏化は無視されるのである。人々は雇用不安と低賃金の恐怖にさらされ、しかもそれらは自由な競争の結果としての個人(能力)の責任として扱われるようになった。

 プレカリテに至るもう一つの側面として、著者も「ボードリヤールは、「呪われた部分(死、幻想、否定性、悪など)」を追放したユートピアとしての消費社会」 (p. 15) と述べているように、文化、宗教、芸術に担われていた「呪われた部分」を排除しようとする志向は、社会の「呪われた部分」としてのマイノリティ(被差別ナショナル・マイノリティ)の排斥へと向かうということも挙げられるだろう。政治・経済的にも社会・文化的にもプレカリテは昂進するのである。

しかし「プレカリテ」は、しばしば「プレケール=plécaire (不安定な人)」という言葉で説明されるように、「個人化(社会現象や社会問題が、個人の問題として捉えられるようになること。例えば、虐待の背後に貧困があっても、母親の心理の問題であると考えられること)」を前提に記述されている。すなわち、社会問題としてではなく、個人の問題として扱われているのである。 (p. 36)

 プレカリテを個人の問題として切り捨てられた人々は、一人一人が各自の生き方を手探りながら生きなければならない。そこで問題になるのが「再帰性」である。

 ギデンズは、再帰性について「活動条件についての情報を、その活動が何の活動であるかを常に検討し直し、評価し直すための手段として活用すること」と述べている。
 
仏ロベール社の『社会学事典』では、仏社会学者アンサールが、再帰性を「主体が、自分自身の行為の起源や方法や結果を分析するために、自分自身の行為を振り返る能力」と定義している。
 
ギデンズが再帰的行為と対比させるのは、「伝統」や「伝統的行為」である。自分の行為の起源や結果を考えることなく、これまでなされてきたことをくり返すことが、伝統や伝統的行為である。 (p. 63)

 アンソニー・ギデンズはブレア政権のブレーンだったイギリスの社会学者で、それだけでも小泉政権の竹中平蔵を思わせて十分に胡散くさいのだが、もちろんこれはギデンズについて何も知らない私の予断(偏見)だ。
 
しかし、この社会の成員がすべて再帰的に思考し、決断し、行動しうると考えることは、各人が「合理性や論理性、高度な知的レベルをもつことを前提」している。そして、「ギデンズ自身、再帰的主体を支えるものとして、「存在論的安心」という、再帰性と相容れない再帰性の外部にある概念を精神分析理論から導入」 (p. 66) せざるを得ないのである。「存在論的安心」というのは、例えば生存のための条件への信頼であったり、安心して身を委ねられる安定した社会・文化的な伝統であったり、社会的・政治的安定性だったりするわけだが、新自由主義的な政治経済による社会の流動化は、「存在論的安心」を与えるべき社会的基盤そのものを解体してしまっている。

 このように、現在の「自己決定社会」「自己責住社会」の大きな難点は、その中に生きる主体をどう形成するのか、また問題のある者をどうケアするのかについて、その内部に、それを扱う理論がないことである。 (p. 67-8)

 著者の最も主要な主張の一つは、人間が十分な「再帰性」を獲得できて現代社会を健全に生き抜いていくために重要なのは「恒常性」だということである。

 これまでの議論で、「再帰性」という議論を掲げてきたギデンズ自身が、専門家システムは大衆の信頼によって支えられていると述べていること、創造的な再帰性は実存性をはらむ象徴的なものによって支えられ、それは他者や社会と関わること、現実を留保する時間や空間が想像のために必要であること、現実にないものを見る想像力が社会を創造していくこと、などを見てきた。
 
この信頼、象徴性、想像性、留保などが、「恒常性」と関わるものであり、「プレカリテ」とネオリベラリズムの社会の中で奪われつつあるものである。そして「恒常性」とは、これまでの議論で垣間見られるように、現実と距離をもつフィクションであり、他者と共に構成しているものである。そしてそれは文化や社会と同義である。 (p. 115)

  文化は、「本能が壊れている」人間にとって、人間と世界を橋渡しする社会的生産物である。文化の中で最も大きな位置を占めているのは「言語」である。
 
人間は、他の動物と比べて他者に絶対に依存しており、その他者が現実的に不在になるとき、その不在(は同時に自身の不在を意味する)を言語によって代補し、恒存させた。 (p. 131)

 社会が大きく変容するときにも、人々がその変化に適応するためのフィクションとしての「恒常性」が生み出される。それは「移行対象」(フレドリック・ジェイムソン、スラヴォイ・ジジェク)や「消滅する媒介装置」(上野俊哉) (p. 120) と呼ばれる。卑しい行為と見なされてきた金銭獲得の行為を乗りこえるために初期の資本家たちは「神のための利得行為」というフィクションを信ずることで乗りこえた。「プロテスタンティズムの倫理」がこの橋渡し(移行対象、媒介装置)となったというのが、マックス・ウェーバーの有名な論考である。そして、移行が済んでしまった現代の資本家には「プロテスタンティズムの倫理」は不要となる(移行対象は消滅する〉のである。

 著者は、「日本では、恒常性が維持可能な文化的・社会的空間が貧困である」と指摘し、「社会から排除され生活世界が解体している事例」としての宗教的共同性や、「同様に生活世界や共同性が解体」している若者たちが「そのつどその場で」共同性を形成していくためのコミュニケーション行為などについて「共同性を維持する現代の社会現象」 (p. 194) という章を設けて論述している。そこでは、「宗教的共同性」、「企業的共同性」、「文化的共同性」、そして「若者のコミュニケーション」が取りあげられている。

 宗教的共同性の例として、はじめに挙げられているのは「ニューエイジ」と呼ばれる宗教現象である。それはアロマテラピーやヨガなどのような心理療法を模倣した「教団組織を持たない宗教」で、「商品を消費する形で信仰されて」いて、「読書宗教」とか「オーディエンス宗教」 (p. 195) とも呼ばれている。
 例えば、アロマテラピーで香りを楽しむ人々の中で「その成分や物質が聖なる力をもっていると、本人が強く信じ」 (p. 195) ることで宗教化する。一般的に信仰には「大いなる他者」への帰依が存在するが、ニューエイジでは「自分の中の無意識」や「無限の力が信じられており」、それを通じた他人との繋がりは「観念的で脆弱」 (p. 200) なものとなる。また、宗教的共同性の例として「自己啓発セミナー」や江原啓之や細木数子などの「メディア・スピリチュアリズム」もまた批判的に分析されている。
 「企業的共同性」では「マクドナルト・カルト」が例として取りあげられ、「文化的共同性」では「オタク共同体」がオタク文化の心理学的分析も含めて論述されている。

 若者たちのコミュニケーションの特徴は、「話題も遊び内容もくるくると変わる最大の流動性と、コミュニケーションそのものにツッコミを入れる(再帰的である)最大の再帰性だけで構成されており、安定した共同性がない」 (p. 238) ことである。そして、「自分をやつす(自己主張せず目立たないように自己を相対化する)コミュニケーション」をすることでかろうじて「彼らなりの共同性―恒常性を維持している」 (p. 241) のだという。このような議論を通じて、著者は共同性の困難について次のようにまとめている。

 この章で紹介した現象に共通して見られるのは、生活世界的な共同性が信じられておらず、社会的共同性の解体の中で共同性の構成が困難になっていることである。また、若者のコミュニケーションの例のように、コミュニケーションの中で遂行的に共同性が構成されるところまで事態が進み、そうではない共同性は成立や維持が困難であり、基本的には嫌われ排除されること(共同体への囲いこみ自体が、再帰的で透明性を求める社会の巾で困難になっている)である。
 
そこでは、個人化を前提に、さまざまな共同性への接続は個人に委ねられているが、現実には、その背景に勧誘や誘惑など個人のコントロールを超える過程があり、そこには本人の自己責任を超えた困難がある。むしろ社会的コントロールがない暴力に晒されがちであり、結果的にそこから自力では回復しづらいリスクが存在する。 (p. 249-50)

 これまで取りあげられた「共同性」においては、たとえそれが貧弱であってもメタレベルでの「他者」の存在がそれなりに認められるのに対して、そのような他者への信頼なしにコミュニケーションを行なう事例として「電子メディアと解離的人格システム」が論じられている。

 電子メディアは、矛盾するものを統合するような機能を持ち合わせないまま、その能力を超えて、恒常性の機能を担おうとしている。それというのも、コミュニケーションが文化を代替しようとしているからであり、人々がコミュニケーションに文化を求め、電子メディアにその幻想を抱いているからである。
 
しかし、精神分析のモデルで見たように、コミュニケーションを可能にするためにこそ、文化的認識や営みが必要である。
 
芸術が与える新たな幻想は、政治的言説以上の、幻想の脱構築的力(再構築も含めて)をもっている 

 電子メディアについての論説には多く接することができるが、私にとっては「解離的人格システム」は馴染みのない概念である。

 「解離的人格システム」とは、人々が文字通り多重人格になっているというのではなく、まるで多重人格者のように、一人の人がさまざまな相容れない人格を使っていることを指している。
 
ある人格は真実で、ある人格は装われているというわけではなく、ある意味ではすべての人格を装っている。すべての人格を装っているなら、それらを装っているというメタレベルの人格があるはずだが、それがない状態である。ゆえに、すべての人格を装っているわけでもないしすべての人格が自分の人格というわけでもない曖昧な状態で、分裂的に複数の人格を使っている。 (p. 283)

 そして、ジル・リポヴェツキー(フランスの哲学・社会学者)によれば「解離的人格システム」はこの社会でコード化されており、「社会で共有されているポストモダン的感情制度であり、ポストモダン的儀礼」 であり、「ネオナルシシズム」の概念で説明できる (p. 287)ものだという

 リボヴェツキーは、「ネオナルシシズム」を、パーソナリティの統一性の喪失であるとし、人格の分裂によって定義している。そこに見られる法則とは、相対立するものの平和共存である。
 
リボヴェツキーは以下のように述べている。

 自分の悩み事をさらけ出したり、弱みを告白したり、孤独を吐露することは、もはやみっともないことではない。だが、理想はこれを「さりげなく」表現すること。率直さは現在の心理的現実である以上に社会的価値である。率直さは「さりげなさ」というコードに沿って表出されなければならない。過度に明け透けな表出、過度に芝居がかった言説は、もはや誠実さの印象を与えない。

 自分の悩みを「さりげなく」話すには、相当自分の気持ちが対象化できていないと不可能である。ゆえに「さりげなく」は解離的な切断になってしまうだろう。 (p. 287-8)

 社会の新自由主義的流動化による恒常性(共同性)の脆弱化は依るべき伝統や儀礼、文化の脆弱化、喪失をもたらしていて、いわば、人々はその代替として「解離的人格システム」を身にまとわざるを得なくなったとも言えるのである。
 著者は、電子メディアと解離的人格システムに関連して、次のような現実に日本で生じている深刻な事態を指摘している。

 しかし、電子メディアコミュニケーションは、想像性の負の部分を暴走させて、ヘイトスピーチ(差別的な言説)、弱者叩き、フェミバッシングなどを生む。
 
また、解離的な人格システムは、分離された感動が一人歩きすることを必ずしもコントロールできるわけではない。ネタがベタとなる政治的ハプニングは実際に起きている(コイズミ現象もそうであった)。
 
彼らのコミュニケーションは、ノリのためのメタコミュニケーションであり、それについてのメタ言及は排除され(せいぜい超疑似化の作法で維持されるのみ)、ノリを白けさせる言及は排除されている。それゆえ、一見開かれているかのような表層的な解離的人格システムは、実際にはコントロールを欠いた暴力的・排除的なシステムである。 
 
人々は昔ほど素朴にファシズム的なものに熱狂するわけではないが、暴走を止める術がむしろなくなっており、それ以外に共同性の場がないのである。どちらかといえば知っていてノッてしまう、いわゆるネタがベタになるというメカニズムである。「美しい国」だってネタがべタにならないとはいえない。改正教育基本法のセンスの悪さを多くの人が知っていながら、まさか……とタカをくくってしまったように(コイズミ選挙に対するマスコミの判断の敗北は深く自覚されただろうか)。  (p. 295-6)

 人々が貧しい再帰性の社会を生きていくためには、「恒常性」が重要だというのが著者の強い主張である。「しかし再帰性を排除するような貧しい恒常性(原理主義)も退けること」が大切だと主張する。そのために、最後に「文化の役割」という章を設けて、あらためて、恒常性を担う文化の重要性について述べている。
 最後に次の一節を引用して、まとめとする。

 人々がつながるためには、つながるための相互理解や認識、スティグレールのいうような信頼や幻想を醸造する文化的土壌が必要である。
 
ネオリベラリズムの透明性への幻想は(また安倍原理主義のような伝統的同一性を押しつける幻想も)、現実を無視して他者との同一性を押しつける暴力的なものでしかないだろう。
 
他者への興味、未来への関心、存在への問い、他者への倫理などのない状態で、社会のあり方を考えることはできないだろう。 (p. 308)

 

[1] ジグムント・バウマン(伊藤茂訳)『コラテラル・ダメージ』(青土社、2011年)
[2] 青木やよひ「政治の季節から文化革命へ」アラン・バディウ他『1968年の世界史』(藤原書店、2009年)p. 218。



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