かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

『生誕100年 小山田二郎』展 府中市美術館

2015年01月30日 | 展覧会

【2015年1月30日】

 1914年生れの小山田二郎の生誕100年の回顧展である。あまり見る機会の多くなかった小山田の絵を見に府中市まで出かけた。府中市は初めての街で、お決まりの街歩きを企てていたが、ホテルの窓から見る東京は朝から雪降りで、どうしたものか判断に迷った。
 雪のため、いくぶん遅れが出ているJR山手線、京王線と乗り継いで府中に向かう。雪はベタ雪なのに、街は真っ白になっている。結局、地図まで調べて計画していた府中の街歩きを諦めて、府中市美術館に直行した。

 小山田二郎は、シュールレアリズム系の画家だとばかり思っていたので、期待半分の美術展である。半分というのは、シュールレアリズムが描き出すイメージはしばしば私の感性というか想世界からまるっきり外れて、感覚的な手がかりがまったく見つからないことが時々あるためだ。

 雪のせいか、観覧者も少なくて美術館はひっそりとしている。受付の女性に、「今日は小学校の美術教室がありますので、騒がしいかもしれません」という意味のことを伝えられた。会場の中で二度ほど40人ほどの小学生の集団とすれ違ったが、ほとんどの時間は会場を見渡す限り、2、3人の観覧者が見えるだけだった。
 周りに誰もいない静寂な場所で、小山田二郎の絵を次々に見ていくのは、正直言って、とても疲れる行いだった。小山田二郎の絵が発散する情念のエネルギーが直接私だけに向かってくるようで、多くの観覧者のざわめきにまぎれるということがない。


【左】《顔》1940年代後期、キャンヴァス・油彩、53.1×45.3cm、府中市美術館 (図録、p. 12)。
【中】《娘》1940年代後期、キャンヴァス・油彩、90.1×72.4cm、府中市美術館 (図録、p. 14)。
【右】《顔》1950年、紙・水彩、41.5×29.0cm、府中市美術館 (図録、p. 18)。

 最初期の具象的な人物画、シュールレアリズムやキュビズムに影響を受けたような《娘》や《顔》を見て、前日見たジュール・パスキンのように初期の人物の描き方から最盛期の人物像に至るような変遷を想像したりしたのだが、結果はまったく異なっていた。この3点の人物像からは想像できない展開が待っていたのだった。


《月と子供》19537年、キャンヴァス・油彩、145.5×97.0cm
 (図録、p. 28)。

 三角形や矩形で人体を構成するという作品はかなりの数があった。《月と子供》はそのような絵を代表する作品の一つだと思うが、私が気になったのは月の位置である。
 子供の膝のあたりの高さに位置する月は、砂漠のような地平に立つ子供を見上げるように描けば、何の不思議もない。問題は、頭部の脇に空中に浮かぶように描かれている山岳である。
 空間の多重構成はよくあることだが、異なった空間を示すのはその山だけだというのは不思議だ。子供が辿る時間を空間に託したのだろうかとも思ったが、よく分らない。


【上】《ピエタ》1955年、キャンヴァス・油彩、80.3×116.2cm、
個人蔵(府中市美術館寄託) (図録、p. 39)。

【下】《愛》1956年、キャンヴァス・油彩、130.3×193.9cm、
愛知県美術館 (図録、p. 41)。


《母》1956年、キャンヴァス・油彩、130.3×162.2cm (図録、p. 40)。

 聖書に題材をとった幾つかの絵は会場の中でとくに(私の)目を惹いた。《ピエタ》は、新約聖書の中では最重要なシーンである。しかし、ここではキリストの死は崇高な死としては描かれていない。私にはそう思える。無惨な死を死ぬ我が子を抱きあげるマリアに見えるのは母という存在の悲惨である。
 《愛》という作品は、さらに象徴的である。無数の人を包み込むであろうマリアの愛は、じっさいは無数の死者たちを包含することで成り立っている。マリアから母親へと一般化した《母》もまた、背後に多数の死者が配置されていて、経時的に死者たちを背負い込んでいることを示している。

 小林真結は、図録 [1] に「キーワードから見る主要作品解説」という論考を寄せていて、小山田二郎の次のような言葉を引用して、《ピエタ》や《愛》は「戦時下の渾沌と恐怖をまざまざと表わし」、「戦時下の人間存在に加えられた迫害の記憶を描き出す、戦後リアリズムの一断面を示している」 (p. 179) と解説している。

『愛』とは、私の内部の覚書である。戦争の惨禍が暗き日の傷口を開いて、黒い太陽にさらしていた時、突如脳裏を掠める忌まわしきことども、恐怖、饑餓、受身に於けるささやかな祈の混淆した重圧。そして人間の条件が、1枚ずつはぎとられて行ったあの日の覚書である。 (小山田二郎「作品と作家の言葉」『美術手帖』101号、1956年7月、p. 70)


【上】《盲人達》1954年、キャンヴァス・油彩、51.7×64.0cm (図録、p. 52)。
【下】《亡者達》1956年、キャンヴァス・油彩、72.7×116.7cm (図録、p. 54)。

 《盲人達》と《亡者達》は、同じ構図で、主題も同じと考えていいと思う。盲人を亡者と同一視するのは盲人を差別するかのようだが、悲しさや無惨さ、苦しみをおのれ自信の中に見る画家は、我が身の存在そのものを亡者や盲人に仮託しているのだと思う。盲人や亡者としての「存在」へのシンパシーが深いのだ。私はそう受け取った。

 小山田の絵の中では《盲人達》と《亡者達》は、他者への視線を向けた比較的穏やかな(小山田の絵には似つかわしくない表現だが、あくまで「比較的に」である)絵だと思う。
 しかし、図録の巻頭にねじめ正一が一文を寄せていて、父親が月賦で買った《盲人達》にまつわるエピソードを書いている。父親の亡くなった後、認知症の母が、母親には刺激が強いだろうと息子が片付けてしまった「小山田さんの絵」をとても見たがるのだという。「私は驚く。母のエネルギーに驚く。認知症になっても「盲人達」の絵を平気で見ることのできる母の命には驚かされる。母はまだ生きる。母はまだ生きる。………」 (p. 7) と詩人は綴っている。
 小山田二郎の絵は、どんなに穏やかであっても、それを見るには多大なエネルギーが必要だということだ。


【上】《鳥女》1960年頃、キャンヴァス・油彩、161.0×130.0cm (図録、p. 61)。
【下】《いこひ》1968年、キャンヴァス・油彩、32.2×41.1cm (図録、p. 119)。

 《鳥女》という作品はかなりの数が描かれている。一連の《鳥女》のシリーズを、「人間でありながら鳥でもあるこの生き物は、小山田が彼自身の内部から掬いとった悪魔のイメージでもあり、人間そのものに巣くう矛盾の表現」 (p. 180) だと小林真結は評している。
 ほとんどの《鳥女》という作品は、私にとってはすんなりと受容できるような容易な絵ではない。画家の激しく厳しい自己認識は、否定的であれ何であれ自己受容(許容ではない)の形として絵画化されているはずだと思うのだが、どうにもそのプロセスがイメージできないのだ。

 そのシリーズの中で、少しばかり近づけそうな気分がした作品が上の《鳥女》である。逞しい肉体と存在感のある両手が特徴だ。他の《鳥女》の手は、文字通り鳥の手のように細いのだが、この絵の《鳥女》の手は、はるかに人間の手に近い。そのせいか、この《鳥女》の実在感が私の受容範囲に引っかかったのかもしれない。

 《鳥女》は、画家の自己イメージであり、さらには人間存在そのもののイメージを仮託したものだろう。だとすれば、自己嫌悪のように描くこともあれば、他者の存在のあり方として描くこともある。後の場合が、《いこひ》という作品であろう。
 家族のような二人が腰掛けて休らう様子は、色調も鳥女の姿もいくぶん他者を慈しむ視線によって描かれているように感じられる。この絵によって、鳥女は自分自身でもあり、家族でもあり、そしておそらくは他者一般となって、人間そのものへと昇華したのではないかと想像する。


《夜の塔》1954年頃、紙・水彩、34.0×25.7cm (図録、p. 90)。

 正直に言おう。小山田二郎のたくさんの展示作品の中で、どれか一品と問われれば、問題なく《夜の塔》である。理由は簡単である。家に飾ることが可能であれば、と考えたのである。ねじめ正一ではないが、他の作品では、その絵によって日々喚起されるエネルギーの消耗に私は耐えられないのではないかと思う。
 《夜の塔》は、実在か心象風景は定かではないが、あきらかに小山田作品の中では例外的な風景画である。例外的な絵が一番のお気に入りというのは、なにか絵画受容としては問題があるように思うが、こればかりはどうにもならない。


《納骨堂略図》1964年、キャンヴァス・油彩、72.3×90.0cm、栃木県立美術館
 (図録、p. 112)

 《夜の塔》を一番のお気に入りだとしたのだが、もっとも足止めされて眺め入ったのは《納骨堂略図》である。黒い物全体が納骨堂なのか、その一部が納骨堂なのかはよくわからないが、全体を納骨堂と考えることにする。
 真っ赤に燃え上がるような背景も異常だが、右下の地面近くで火が燃え上がっている。それはあたかも死者を焼く炎のように見える。左上の穴(窓)からは炎が吹き上がっている。あたかも納骨堂の内部は燃えさかっていて、炎が隙間から吹き出しているかのようだ。
 納骨堂としてはありえない情景なのだ。骨になり、灰になった死者たちは、いったい何を燃やし続けているのか。考え込んで、考え込んで、結局分からない。怨念のようなものか、などとつまらないことしか思い浮かばない自分に嫌気がさして《納骨堂略図》を後にした。


《火のモニュメント》1976年、キャンヴァス・油彩、130.3×162.1cm (図録、p. 138)。

 《火のモニュメント》の前では、少しばかり不謹慎なことを考えた。『BLEACH』という漫画がある。私はもっぱらアニメで見ているのだが、そこにメノスという霊体が登場するのだが、《火のモニュメント》の細身で長躯の人物像にそっくりなのである。
 ジャコメッティの彫刻の人物像を思い出せば良さそうなものを、先に思い出したのは、堕ちてしまった人間の魂が救われないままに人間を襲う霊体となったメノスという怪物なのである。しかし、画家の主情は、ジャコメッティよりも、人間の悲惨も辛苦も体現しているようなメノスに近いのではないかと、これは決して負け惜しみではなく、そう思うのである。


《舞踏》1982年、キャンヴァス・油彩、130.0×162.0cm (図録、p. 142)。

 最後に、《舞踏》をあげておく。舞踏も長い期間にわたって小山田の主題だったようだ。踊る人の下半身が大きく開いているというのが、初期の作品から後期のこの作品まで共通している特徴である。初期の作品の踊り手の足の開き具合には、どこか縄文時代の遮光土偶を思わせる作品もある。
 この《舞踏》作品は、小山田作品の中では数少ない明るい色調である。踊り手は様式化されているように見え、小林真結によれば、「小山田にとって、《舞踏》は過去の記憶を呼び起こすためのテーマでもあり、色彩と形態の実験場でもあった」 (p. 179) という。小山田にとって《舞踏》を描く時間は、人間存在がかき立てるおどろおどろしい情念から離れて、造形と色彩へ思いを傾注した希有な時間だったことを意味しているのではないか。

 小山田二郎の絵を眺め続けながら会場を行きつ戻りつしているとき、小学生の集団のざわめきで鑑賞が中断されたが、それは救いであった。小学生のざわめきが聞こえる間に十分に息継ぎをして、気を取り直して次の絵に進むことができた。小山田二郎の絵を見るのは、緊張を強いられ、エネルギーを消耗する感じが強かったのである。

 

 [1] 『生誕100年 小山田二郎』図録(以下、『図録』)(府中市美術館、2014年)。

 


『パスキン展――エコール・ド・パリの貴公子』 パナソニック汐留ミュージアム

2015年01月30日 | 鑑賞

【2015年1月29日】

 ジュール・パスキンは、初見の画家である。図録 [1] に掲載されているローズマリー・ナポリターノの「パスキン、モンパルナスからモンマルトルへ」という評伝にしたがっておさらいをしておく(以下、引用のページは図録の掲載ページである)。

 1885年にブルガリアで裕福なユダヤ人のブルジョワ家庭で生まれたパスキンは、ウイーンで中等教育を受けた後、ミュンヘンに移り、風刺画家として評価を受ける。
 20歳の時、パリに移る。「20世紀初頭の芸術の中心パリには、シャガールやスーティン、モディリアーニ、キスリングに続いて、フジタ(藤田嗣治)もやってきた」 (p. 9)。足繁く通ったパリの美術館では「18世紀の放埒な作品」を好み、頻繁に引っ越しを繰り返し、ノルマンディーやベルギー、遠くチュニジアまで旅をした。
 1914年、第1次世界大戦が始まるとニューヨークに移り、滞米中にルイジアナ、ニューオーリンズ、フロリダ、キューバなどを旅した。大戦終了後の1920年にパリに戻った。
 パリでは、毎晩のように友人たちとのパーティーや夜遊びに暮れ、南仏やチュニジアへも出かけた。しかし、「悩ましく、満たされることのない、憂鬱な存在。亡命者だったパスキンは、自らユダヤ人であることを強く主張しないが、反ユダヤ主義には深く傷ついている様子だった。アルコールや麻薬、そしてセックスという悪魔の生け贄になった」 (p. 11)
 1930年6月、ジュール・パスキンは、モンマルトルのアトリエで縊死した。享年45歳であった。「三つの丘のプリンス、さすらいのユダヤ人、ドナウのアメリカ人、千夜一夜物語のプリンス、放蕩息子―作家や美術批評家の友人たちにそんな風に評されたパスキンは、モンパルナスの芸術共同体の中で特別な地位を与えられた」 (p. 9) のだという。

 私は展覧会会場で絵画のタイトル以外はほとんど文字を読まない。それで、美術展ではパスキンの評伝などまったく知らないままに彼の絵画を見たのである。あらかじめいろいろなことを知っておけば、より絵画を楽しめ、理解できるかも知れないのだが、思い込みや先入観で絵を見ることを怖れているのである。ありていに言えば、自分の感受力に自信がないのである。何の知識もなく絵を見て、何も感じないのならそのまま諦めていいと思っている。


【左】《ミュンヘンの少女》1903年、鉛筆・紙、35.3×23cm、パリ市立近代美術館 (図録、p. 83)。
【中】《女の肖像》1903年、木炭・サンギーヌ・紙、40×27cm、個人蔵、パリ(図録、p. 84)。
【右】《チョコレート》1907年、水彩・紙、31×21cm、個人蔵、パリ(図録、p. 88)。

 展示は、ミュンヘン時代の初期の作品から始まる。1番目の絵は《ミュンヘンの少女》で、きっちりと丁寧に仕上げられた素描はとてもリアルな少女像である。
 ところが2番目の展示は《女の肖像》である。きっちりとしたデッサンには違いないが、どこか女性の醸し出す雰囲気、周囲の空気感まで描こうとしている印象を受ける絵である。
 さらに、2枚の絵をおいて《チョコレート》が現われる。風刺画や挿絵をたくさん描いたパスキンがこのような絵を描くことは不思議でも何でもないが、立て続けにとても印象の異なる三つの作品を見せられて、なにかわくわくする感じがしたのだ。女性の描き方、とらえ方における感性のバンド(帯域)がとても広いのではないかと期待感が湧いたのである。


《キューバでの集い》1915/17年、油彩・カンヴァス、92×73cm、
個人蔵 (図録、p. 41)。

 肖像画や裸婦像をいくつか見ながら歩を進めると、急に画調の変わった《キューバでの集い》が現われる。色調は、前後の絵とそれほど変わらないが、キュビズム風の人物の描き方に強い印象を受けたのである。
 会場に入って最初に受けた女性像における感性の広さに加え、キュビズムまで取り込んだ造形性がどのような展開を見せるのか。そんな期待をしたのだが、残念ながら、キュビズムのフレーバーが漂う絵は《キューバでの集い》だけで終ってしまった。


【左】《ジャネット》1923/25年、油彩・カンヴァス、73.2×60.3cm、
カンブレー美術館(ルーベ市立美術館に寄託) (図録、p. 43)。

【右】《ヴィーナスの後ろ姿》1925/28年、油彩・カンヴァス、81×65cm、
パリ市立美術館 (図録、p. 46)。

 パスキンの絵で圧倒的に多い主題は、女性像である。その中で、《ジャネット》と《ヴィーナスの後ろ姿》は、比較的明瞭な輪郭で描かれ、力強さというか存在感を感じさせる女性像である。とくに、《ヴィーナスの後ろ姿》の迫力ある女性の肢体に目を奪われた。


【左】《椅子にもたれる少女》1928年、油彩・カンヴァス、81×65cm、個人蔵、パリ (図録、p. 62)。
【右】《テーブルのリュシーの肖像》1928年、油彩・カンヴァス、80×58cm、個人蔵 (図録、p. 63)。


《幼い女優》1927年、油彩・カンヴァス、73×92cm、個人蔵、パリ (図録、p. 60)。

 《椅子にもたれる少女》と《テーブルのリュシーの肖像》は、私にとってはかなり好もしい絵である。パスキンの女性像の中では比較的女性の表情に力点が置かれているように見える。若い頃にきっちりと描いた《ミュンヘンの少女》に表現された感性を受け継ぎ、成長させたように思われるのである。
 そのうえで、人物の衣装、テーブル、背景などは独特な空気感を帯びるような描き方なのである。初っぱなに見た《ミュンヘンの少女》と《女の肖像》が異なった感性によるのではないかと思ったのだったが、ここでは完全に統合された感性になっている。これは、パスキンという個性に属することで当然のことなのだが、初めの印象が印象だっただけにそんな思いがしたのだ。

 《幼い女優》も、《テーブルのリュシーの肖像》や《椅子にもたれる少女》と同じような印象を受ける絵だが、色彩がもう少し鮮明な感じになっていっそう好もしい。


《二人のジプシー女》1929年、油彩・カンヴァス、92×73cm、
ジャスティ・アストラップ、UK (図録、p. 73)。

 《二人のジプシー女》の解説では、「世界中を放浪し続けたパスキン」は「彷徨えるユダヤ人」と呼ばれたという。漂白の人生を送ったパスキンはジプシー(ロマ)と呼ばれる「流浪の民に自らの資質を重ね合わせ、共感とエキゾチシズムとを託している」(p. 72) ということである。
 私には到底そこまでは読み取れないが、パスキンにとっては晩年に近いこの作品は、白色に近い部分が発色して、かすかに輝いているような印象が強い。この色彩感覚はパスキン独特のものにちがいない。そう思える。


《三人の裸婦》1930年、油彩・カンヴァス、81×100cm、北海道立近代美術館 (図録、p. 81)。

 《三人の裸婦》は最晩年(といっても45歳だが)、自死の年の作品である。《二人のジプシー女》で受けたパスキン独特の色感はさらに強調されている。「真珠母色の淡い色彩が生む朦朧とした空気」 (p. 81) だと図録で評されている。
 18歳の時に描いた《女の肖像》の空気感は、《三人の裸婦》として完成したのである。

 パスキン最晩年の作品を見終えれば美術展は終りであるが、パスキンの絵画のラインから少しならず外れたような印象の絵が気にかかっていた。《ラザロと悪徳金持ち》という絵である。


《ラザロと悪徳金持ち》1923年、インク・紙、50×65cm、個人蔵、パリ (図録、p. 94)。

 《ラザロと悪徳金持ち》は、風刺画や挿絵を特異としたパスキンにとってはとくに異常な作品と言うわけにはいかないだろうが、人物をここまでデフォルメした作品は展示中ではこの1品だけだった。
 何よりも気になったのは、デフォルメの方向がいつかどこかで見たように思ったことだ。アール・ブリュット、あるいはアウトサイダー・アート、または素朴派とカテゴライズされる分野の絵のなかに雰囲気がよく似ているものがあったように思ったのである。


【左】ルイ・ステー《身振りをする6人》1937年、インク・紙、44.0×58.0cm、[2]。
【右】木元博俊《人の身体27》1989~2008年、色鉛筆、ボールペン・紙、177×230cm [3]。

 帰宅してから画集を探して見たが、もちろん《ラザロと悪徳金持ち》にそっくりな絵が見つかるわけがない。たとえば、ルイ・ステーの《身振りをする6人》や木元博俊の《人の身体27》が描く人物造形が、強いて言えば、似た印象を与えると言えそうではある。
 パスキンは、その他の絵に描いたようなリアルな人物の肉体からデフォルメの結果として《ラザロと悪徳金持ち》に至る。いっぽう、アール・ブリュットの画家たちは、(おそらくは)直接的に絵に近い人体把握をしていて、(これも、おそらくは)絵に描こうとする際の具象化作用の結果として《身振りをする6人》や《人の身体27》に至っていると考えることが出来よう。
 パスキンとアール・ブリュットの画家たちの出発点はずっと離れており、変容のベクトルは逆向きだが、いずれどんどん近づき、ついには出会って同じ想空間で切り結ぶようになるのではないか。それはprobableではないかも知れないが、possibleであろう。その可能性こそが芸術の豊かな可能性なのだ。そんな想像をした。

 

[1] 『パスキン展』図録(以下、『図録』)(ホワイトインターナショナル、2014年)。
[2]『アンリ・ルソーから始まる ―素朴派とアウトサイダーズの世界』(世田谷美術館、2013年) p. 89。
[3] 『アール・ブリュット・ジャポネ』(現代企画室、2011年) p. 52。

 

 


『「新印象派――光と色のドラマ」展』 東京都美術館

2015年01月28日 | 展覧会

【2015年1月28日】

 2013年12月に、国立新美術館で『印象派を超えて 点描の画家たち』と名付けられた美術展を見たことがある。シニャックやスーラを中心とする画家たちの展覧会という点では、今回の新印象派展と似てはいるが、画家たちの括りはずっと緩やかだったように思う。
 「新印象派」という括りは、もっと濃密な影響関係、交友関係のある画家たちをきわめて限定的に意味しているようだ。

 新印象派を象徴する絵画は、《グランド・ジャッド島の日曜日の午後》というジョルジュ・スーラの代表作である。モネもルノワールも参加しなかった1886年の最後の印象派展にスーラとシニャックは初めて参加した。スーラが出品した《グランド・ジャッド島の日曜日の午後》は、「新しい運動のマニフェストと見なされた」 (『図録』 [1]、p. 29)という。「新印象派」の誕生である


【左】ポール・シニャック《アニエール、洗濯船》1882年、油彩・カンヴァス、38.6×56cm、
公益財団法人上原美術館 上原近代美術館 (図録、p. 27)。

【右】ジョルジュ・スーラ《石割り》1882年、油彩・カンヴァス、33×41cm、
個人蔵(図録、p. 28)。

 展覧会の展示は、新印象派に影響を与えた印象派のモネやピサロから始まる。1986年以前のシニャックやスーラは、《アニエール、洗濯船》や《石割り》のような印象派の影響下の絵を描いていた。
 スーラは夭逝してしまうものの、この美術展は、印象派の画風から始まった新印象派の画家たちの画業の変遷あるいは発展を展望する形で展示されていて、きわめて構成的な展示は、私にとってはとても受容しやすいのだった。


ジョルジュ・スーラ《セーヌ川、クールブヴォワにて》1885年、油彩・カンヴァス、
81×65.2cm、個人蔵(図録、p. 34)。

 新印象派にとって最も重要な意味を持つスーラの《グランド・ジャッド島の日曜日の午後》は展示さていなかったが、その一部を切り取って拡大したような《セーヌ川、クールブヴォワにて》からその画風を想像することが出来る。
 もっとも特徴的な点描(分割主義)という画法はさておき、人物像もまたスーラ独特である。ギリシャ美術に範を求めたデルヴォーシャヴァンヌのように、人物をまるで美しい塑像のように描いていると私には思えるのだ。


マクシミリアン・リュス《モンマルトルからのパリの眺め》1887年、油彩・カンヴァス、
54×65cm、プティ・パレ美術館、ジュネーヴ (図録、p. 72)。

 スーラ亡き後の新印象派はシニャックを中心として活動していくのだが、私は、これまでよく知らなかった二人の画家に注目した。その一人が、マクシミリアン・リュスである。
 《モンマルトルからのパリの眺め》の前で、はたと考え込んでしまったのである。この絵は、手前の建物、周囲の森、森の向こうのパリ、そして空という距離と色彩の異なる4つのパートから構成されていると見ることができよう。
 4つのパートの中で、森の木々の描写において点描のもっとも優れた効果が発揮されていると感じたのが、考え込む発端であった。つまり、点描が優れて効果を顕わす場合とそうでない場合があるのではないかと思ったのである。
 建物の屋根を除けば、森の部分がもっとも暗い。その暗さが優れた点描効果の理由なのではないか。理由は単純である。絵の具を使用して描くかぎり、さまざまな色を隣り合わせれば次第に暗色に近づく。限りなく黒に近い色は点描では容易に表現できるが、限りなく白に近い色は難しい。暗色ほど、深みや色相にさまざまなヴァリエーションを持たせることができるのではないか。そう考えたのである。


マクシミリアン・リュス《ルーブルとカルーゼル橋、夜の効果》1890年、
油彩・カンヴァス、63.5×81.5cm、個人蔵 (図録、p. 80)。

 最初に展示されていたリュスの絵は《モンマルトルからのパリの眺め》であるが、その後に登場するリュスの絵は、他の点描の画家と比べれば暗色、濃色の絵が多い。《ルーブルとカルーゼル橋、夜の効果》もその一つであるが、文字通り、夜が主題となっている。
 シニャックの明るい港の風景などを新印象派の絵画であるとイメージしていた私にとっては、リュスの暗い、あるいは濃色の風景というのは、ちょっとした驚きと言っていいほど新鮮なのであった。


【左】テオ・ファン・レイセルベルヘ《マリア・セート、後のアンリ・ヴァン・ド・ヴェルド夫人》1891年、
油彩・カンヴァス、118×84.5cm、アントワープ王立美術館 (図録、p. 90)。

【右】テオ・ファン・レイセルベルヘ《マルト・ヴェルハーレンの肖像》1899年、油彩・カンヴァス、
100.5×81.5cm、文学資料館・美術館、ブリュッセル (図録、p. 105)。

 リュスの濃色の絵における点描の成功などということを考えていた分だけ、《マリア・セート、後のアンリ・ヴァン・ド・ヴェルド夫人》の顔のハイライトの表現に感動してしまった。優れた画家は、限りなく白に近い色も点描で表現する、いや、もうそこではすでに点描を越えているのだ、と感心したのである。


【上】アンリ=エドモン・クロス《農園、朝》1893年、油彩・カンヴァス、65×98cm、
ナンシー美術館 (図録、p. 94)。

【下】アンリ=エドモン・クロス《農園、夕暮れ》1893年、油彩・カンヴァス、
65×92cm、個人蔵 (図録、p. 95)。

 この美術展で注目したもう一人の画家は、アンリ=エドモン・クロスである。農園の風景そのものはとくに珍しい主題ではないのだが、色彩の淡さが醸し出す幻想性と意匠化された松の描き方に驚いたのである。
 遠目では淡いグラデーションがべた塗りのように見えて、どこか日本画を思わせるものがあった。近づくとじつに細かい点描で、もう一度感心するという仕組みにうまく乗せられていた。


【左】アンリ=エドモン・クロス《山羊のいる風景》1895年、油彩・カンヴァス、2×65cm、
プティ・パレ美術館、ジュネーヴ (図録、p. 113)。

【右】アンリ=エドモン・クロス《プロヴァンスの風景》1898年、油彩・カンヴァス、60×81.2cm、
ヴァルラフ・リヒャルツ美術館 コルプー財団、ケルン (図録、p. 115)。

 《農園、朝》などでは、グラデーションのある淡い感じの色が主だったのに、その数年後のクロスの絵は、原色に近い色が使われるようになる。また、意匠化されていた松も写実的に変化している。
 《プロヴァンスの風景》では草叢に座っている男女二人の人物が描かれているが、浮き上がっているような奇妙な感じを受ける。強いて言えば、立体的なモンタージュとでも言いたくなるような描き方である。


【左】マクシミリアン・リュス《海の岩》1893年、油彩・カンヴァス、59.9×81.1cm、
個人蔵 (図録、p. 118)。

【右】マクシミリアン・リュス《シャルルロワの工場》1903年頃、油彩・カンヴァス、
48×44cm、シャルルロワ美術館 (図録、p. 123)。

 クロスの絵に次第に原色が多くなるように見受けられたが、それは先に挙げたリュスの絵も同様である。原色に近い色が使用されているばかりではなく、点描の点が大きく粗く(大胆に)なっている。

 美術展では、リュスやクロスの画風の変化も含めて、「色彩の解放」そして「フォーヴィズムの誕生へ」というコーナーを設けて締めくくっている。


【左】ポール・シニャック《マルセイユ、釣舟》または《サン=ジャン要塞》1907年、油彩・カンヴァス、
50.5×61.5cm、アノンシアード美術館、サントロペ (図録、p. 129)。

【右】アンリ=エドモン・クロス《裸婦習作》[1906-08年]、油彩・厚紙、34×26.7cm、
文学資料館・美術館、ブリュッセル (図録、p. 138)。

 新印象派の中心人物であるシニャックの海の絵《マルセイユ、釣舟》もまた、原色の赤と青に近い色で、描点も大きくなっている。
 習作とはいえ、クロスの《裸婦習作》ではさらに描点が大きくなっているうえに、裸体の女性はすでに点描で描かれてはいない。大胆な色彩と筆使いは、もうフォーヴィズムの領域に足を踏み込んでいるように見える。


【左】アンリ・マティス《日傘の女性》1905年、油彩・カンヴァス、46×37.5cm、
マティス美術館、ニース (図録、p. 139)。

【右】アンリ・マティス《ラ・ムラード》1905年、油彩・カンヴァス、28.5×35.5cm、
個人蔵 (図録、p. 141)。

 展示の締めは、フォーヴィズムである。新印象派の画家たちと親交のあったマティスの《日傘の女性》は、マティス流の点描画で、新印象派の点描の画家たちへのオマージュでもあろうか。私の勝手な印象だが、なにか微笑ましいのであった。

 新印象派の変遷(展開)からフォーヴィズムへという展示構成はたいへん説得力があって、大いに納得して会場を後にしたのである。

 

[1] 『新印象派――光と色のドラマ』図録(以下、『図録』)(日本経済新聞社、2014年)。


『ホイッスラー展』 横浜美術館

2015年01月27日 | 展覧会

【2015年1月27日】

 1834年、アメリカ合州国に生まれたジェームズ・マクニール・ホイッスラーを、図録解説は、画家として次のようにじつに簡明に紹介している。

 ホイッスラーは、1855年にパリに渡り、1859年にロンドンに移住するが、その後英仏海峡を往来する「クロス・チャンネルの画家」として活動し、英国とフランス両国のアヴァンギャルドとの交流により、独創的な作風を確立した。レアリズム、古典主義、シンボリズム、ラファエル前派、ジャポニスムの要素を取り入れて結合させ、1870年代に入ると、唯美主義者として独自のスタイルを築き上げた…… [1]

 ラファエル前派や印象派、後期印象派の画家たちと同じ時代にあった画家として、おそらく私は、幾つかの美術展でその絵に接していたと思う。だが、ホイッスラーの名前は確かに記憶にあるものの、その画家が描いた絵を思い出せない。まったくの初見と同じである。「初めて」という気分で美術館に出かけるのは、期待値が高くて楽しい。


《煙草を吸う老人》1859年頃、油彩・カンヴァス、41×33cm、オルセー美術館
 (図録、p. 21)。

 「主題の選択にクールベのレアリズムへの傾倒が表れている」と作品解説(図録、p. 21)が付されている《煙草を吸う老人》の画力を凄いとは思ったものの、ホイッスラー絵画の固有性を見つけるのは私には難しい。クールベのレアリズムを同伴しつつ、バルビゾン派や印象派が隆盛を極めた時代のことを思えば、ホイッスラーもその方向へ傾くのかと考えてしまった(もちろん、それは違ったのだが)。


【左】《ジョー》1861年、ドライポイント・紙、画寸22.7×15cm、紙寸37.9×27.7cm、
ニューヨーク公共図書館 (図録、p. 35)。

【右】《小さな赤い帽子》1892-96年頃、油彩・カンヴァス、73×49.8cm、
グラスゴー大学付属ハンテリアン美術館(図録、p. 51)。

 いくつか人物画の力作が展示されていたが、私は《ジョー》という作品に惹かれた。ドライポイントの小品でありながら、ジョーという女性の存在感の厚みに強く心惹かれたのだ。ジョーことジョアンナ・ヒファーナンは、6年ほどで別れたというホイッスラーのモデルでもあり愛人でもあったという。
 モデルへの強い愛、そのような画家の感情が絵画に描かれる人物の存在感を左右するものかどうか私には分からないけれども、対象を見つめ始めた瞬間からの心性を考えれば、それはあり得ることだ。しかし、対象への愛情が深ければ優れた絵が描けるなどというのは単純に過ぎるだろう。必要かもしれないが、少なくともそれだけでは十分ではない。

 《煙草を吸う老人》を描いた同じ画家が《小さな赤い帽子》を描いたことをその絵の前で知ったとき、期待は大きく膨らんだのである。クールベのレアリズムには圧倒されるが、レアリズムだけでは絵画の世界は狭すぎるだろうと思う。レアリズムについて、哲学者のレヴィナスが次のように語っていた。

美的規範としてはこきおろされたが、レアリズム〔現実主義〕はその名声をいささかも失ってはいない。事実、レアリズムはより上級のレアリズムの名においてのみ否認されるのだから。 [2]

 もちろん、私はレアリズムを美的規範としてはこきおろしたりはしていない。レヴィナスは、シュールレアリズムを上位のレアリズムと見なしていたが、シュールレアリズム自体はレアリズムの土台なしでは成立しないのである。レアリズムこそは現実界の出発点であり、象徴界の到着点であろう。そのパスこそが芸術の豊かさだろうと思うのである。


【左】《石灰製造業者》(『16点のテムズ川の風景エッチング集』(「テムズ・セット」)より)1859年、
エッチング・紙、画寸25.1×17.7cm、紙寸36.2×26.7cm、大英博物館 (図録、p. 92)。
【右】《サンタ・マルゲリータ広場の鐘楼》1879-80年頃、チョーク、パステル・紙、30.2×18.7cm、
アディソン美術館(図録、p. 108)。

 ホイッスラーにはエッチングの仕事がたくさんある。テムズ川の風景を描いたシリーズの中では、川を直接には描いていない《石灰製造業者》がお気に入りになった。前景の構造物から遠景を覗き見るような構図がいい。

 一方、《サンタ・マルゲリータ広場の鐘楼》は色彩の美しさが抜群だ。エッチングやリトグラフ作品で見られるような空白の扱いも絶妙だ。「鐘楼」とタイトルにありながら、鐘楼の上部は判然としないのも、想像力に美を補強させているようで感心した。


《肌色と緑色の黄昏、バルパライソ》1866年、油彩・カンヴァス、58.6×75.9cm、テート美術館
 (図録、p. 105)。

 黄昏を、《肌色と緑色の黄昏、バルパライソ》のような色彩で描いていることに驚いてしまった。モネやブーダンの夕景が素晴らしいと思っている私にはじつに新鮮な印象であった。黄昏が多様なばかりではなく、人間の感受力も多様であるということだろう。


【左】《ノクターン:青と金色―オールド・バターン・ブリッジ》1872-75年頃、油彩・カンヴァス、
68.3×51.2cm、テート美術館 (図録、p. 173)。

【右】《黒と金色のノクターン:落下する花火》1875年、油彩・カンヴァス、73×100cm、
デトロイト美術館 (図録、p. 156)。

 展示には、「ジャポニスム」という大きなコーナーが設けられていた。《ノクターン:青と金色―オールド・バターン・ブリッジ》は、歌川広重の「名所江戸百景」のなかの《京橋竹がし》の影響があると指摘さている。おぼろに霞む遠景はホイッスラーのものであるが、橋の下から遠景を望む構図、橋の下の小舟と船頭という共通点がある。

 《ノクターン:青と金色―オールド・バターン・ブリッジ》にも花火が描かれているが、《黒と金色のノクターン:落下する花火》は花火そのものが主題である。こちらは、広重の《両国花火》との共通性が指摘されているが、広重の絵よりもはるかにレアリズムに近い。
 この絵は、ホイッスラーを破産に追いやったというエピソードが作品解説で語られている。「絵具壺のなかみをぶちまけるだけ」と酷評した批評家との間で名誉毀損の訴訟に発展し、勝訴したものの訴訟費用で破産したというのである。私から見れば、「絵具壺のなかみをぶちまけ」たにしてはおとなし過ぎるように思えるのだ。もうちょっとだけ花火が派手でも、ここに描かれた夜の美しさは保持できるのではないかという素人考えである。


《青と銀色のノクターン》1972-78年、1885年蝶の加筆、油彩・カンヴァス、44.5×61cm、
イェール英国芸術センター (図録、p. 181)。

 ホイッスラーの「ノクターン」のシリーズには、海港や川の絵が多い。そのひとつ、《青と銀色のノクターン》を挙げておく。《ノクターン:青と金色―オールド・バターン・ブリッジ》と同じように、霞むような遠景の描き方は油彩の「ノクターン」シリーズに共通している。
 船頭の乗る艀の配置は、浮世絵を見慣れた私(たち)には絶妙な空間を形成しているように見える。「愛しさ」だろうか、「懐かしさ」だろうか、対岸のかすかな灯火が点々と見える景色に胸が締め付けられるようだ。私の感傷にはちがいない。「感傷」について、アメリカの画家、マーク・ロスコが次のように述べていた。

ある意味で、心情は感傷sentimentalityと密接な関係にあるのだが、定義付けるとすれば、心情とは気分をイリュージョン的に再現したものであると言え、感傷とは心情の過剰な、そしてそれゆえに凡庸な再現に過ぎないと言えよう。 [3] 

 厳しい批判ではあるが、凡庸な私にとっては「感傷」もまた手放し難い絵画受容の重要な通路、パスの一つである。

 

[1] 『ホイッスラー展――James McNeill Whistler Retrospective』図録(以下、『図録』)(NHK、NHKプロモーション、2014年) p. 129。
[2] エマニュエル・レヴィナス「現実とその影」『レヴィナス・コレクション』(筑摩書房、1999年) p. 302。
[3] マーク・ロスコ(クリストファー・ロスコ編、中林和雄訳)『ロスコ 芸術家のリアリティ――美術論集』(みすず書房、2009年) p. 55。


【書評】ベルナール・スティグレール『象徴の貧困』(新評論、2006年)

2015年01月14日 | 読書


ベルナール・スティグレール
(ガブルエル・メランベルジェ、メランベルジェ眞紀訳
象徴の貧困 1 ハイパーインダストリアル時代
(新評論、2006年)


 近代の社会形成体においては、社会を組織する形式としての象徴交換はもう存在しない。とはいえ、象徴界は、死がとりつくように近代社会にとりついている。象徴界が社会形式をもはやとりしまらないからこそ、近代社会は象徴界の強迫観念しか知らず、象徴界への要求もたえず価値法則によってさえぎられてしまう。
       ジャン・ボードリヤール『象徴交換と死』 [1]


 著者は、現代を「自己破壊的になってしまった資本主義社会」である「ハイパーインダストリアル社会」 (p. 4) と定義する。現代と括ってしまったが、時代区分的に言えば、ボードリヤールが『消費社会の神話と構造』で描いて見せたポストモダンにおける消費(消費者)の時代とおおむね重なるのだろうが、ボードリヤールとスティグレールの年齢差の分だけその重心はずっと今に近いと考えた方がいいようだ。

 われわれの時代の特徴は、象徴的なものがインダストリアルテクノロジーによってコントロールされるようになったということである。そこでは感性的なものが経済戦争の武器になると同時にその舞台となっている。その結果、感性の条件付けが感性的経験に取って代わるという悲惨な事態が生じるのだ。
 この貧しさ(misére悲惨さ)は恥である。それは「哲学をするためのもっとも強力な動機のひとつであり、それによって哲学が必然的に政治哲学になるもの」として哲学者が時に抱くことのある恥の感情なのだ。「人間であることが恥ずかしい」という思いが呼び起こされるのは、今日ではまず、「コントロール社会」が生み出すこの象徴の貧困mlsére symboliqueによってである。  (p. 15-6)

 本書で語られることは、人間であることと象徴、ひるがえって、象徴の貧困と人間の貧しさ、恥ずかしさについてである。象徴とはなにか、象徴の貧困はいかにして生み出されてきたか。象徴は社会を形成する人間が必然的に形成してきたもので、象徴なしには社会は形成されえなかった。

 ところでヒト化の黎明期からすでに、社会を構成する集団的個体化のためには全員が「一なるもの un」、すなわち全体toutの形成に参加することが前提であったと思われる。それは「社会」と呼ばれることになる架空のまとまりの舞台が設置されるために必要なファンタスムでありフィクションであった。そこで手段としてつねに利用される社会的な次元dimensions(たとえば言語や、宗教や、家族制度、生産様式など)は、構造とか体系とか装置dispositifなどと名付けられたものであり、それらは根源的な外在化をつねに前提としており、その外在化によってさまざまな運命が支えられるのである。 (p. 32-3)

 つまり、象徴とは、「感覚的、認識的、精神-霊的(幽霊espritsのようによみがえり,毎回異なり、反復しながら永続するという意味で)な共有(paltage分有)としてのシン-ボルsym-bole、ギリシャ語のsum-bolon (p. 36) である。象徴を通じて、私たちは人間的感情を共有できる。「私」という個人は「われわれ」になることができる。だから、象徴は個人が個人として主体を形成(個体化)しつつ、全体の中の一人として「われわれ」となる根拠である。
 樫村愛子が現代社会にとって重要なのは「文化」だと語るとき [2] 、スティグレールの語る「象徴」の意味合いを強く含意していることは間違いない。さらに、「象徴」には時間的な共在性のイメージが強いが、樫村が強調する社会の「恒常性」もまたこの象徴に含意されるだろう。つまり、共時的な共有性ばかりではなく歴史的な共有性もまた重要なのである。

これらの配置を支えているもののことを、私は「後成的系統発生épiphylogénétique」による層、あるいは第三次過去把持と呼んだ。それは人間の世界の事物chose du mondeとして受け継がれる物や装置において、知や権力が凝結することを指す。その点でそれらの物や装置は、厳密な意味での記憶術ではないとしても、ムネモ-テクニックな(記憶-技術的)次元を持つ。……
 厳密な意味でのムネモテクニック〔文字〕は新石器時代以降出現し、すぐに権力を配置する装置となった。 (p. 34)

 芸術は、共有する象徴を通じた共感をベースとする。象徴を通じて「他者の感受性」にコミットして「感性的な共同体」を形成するのである。しかし、社会が変化するときには芸術もまた変化する。著者は、その変化の機制を、ミシェル・フーコーをして「マネが印象派をも越えて可能にしたのは、二十世紀絵画のすベてだった」 [3] と言わしめたエドワール・マネの絵画革新を引いて次のように述べている。

 マネは伝統と決別し、皆と分かち合えるわけではない感覚の最先端を築いた。それによって、感性にまつわる葛藤が一九世紀以降操り広げられることになる。しかし社会の大規模な産業化のもとで起こったこれらの葛藤によって、人間の感性を特徴付ける共感を構成するプロセスが張りめぐらされ、あらたな共通の感受性を築くために世界を変革するような創造性が生まれた。そのあらたな共通の感受性が、来たるべき感性的共同体の「われわれ」を問いかけのかたちで作り出すのだ。これこそ感性的実験(科学的実験と言うように)と呼ばれるものである。芸術が行なっているのは、感じるということの他性を発見し、それが未来を担うものとなるということを見出すための実験なのだ。 (p. 23-4)

 政治もまた、象徴を通じた共有性に基づくものあることは言うまでもない。

ところで、政治というものは本質的に、共に感じること、-sym-pathieにおける他者と関係を問うことである。政治的なものの問題とは、いかに共にあるか、共に生きるかを知ることであり、個々の特異性(個々の「違い」よりさらに深いところ)から始めて、それを通じ、個々の利害の衝突を越えていかに全体として互いに我慢するか、を知ることにある。政治とは都市国家citéの統一性を、共通の未来を欲するその欲望において、その「個体化=不-可分になることin-dividuation」、ひとつになろうとするその特異性において保証する技法なのである。さて、そのような欲望は共通の感性という基盤を前提としている。共に-あるl’être-ensembleとは、感性的な全体ensemble sensibleとしてあるということである。政治的な共同体とは、したがって感じるということの共同体なのだ。他者と一緒に事物(風景、街、物、作品、言語など)を愛することができないなら、互いに愛し合うことはできない。それがアリストテレスの言うフィリアの意味である。 (p. 21)

 社会を形成するにも、文化や政治にとって共有することのできる象徴は不可欠であるにもかかわらず、現代は「象徴の貧困」の時代である。そう、著者は断言する。高度資本主義社会、消費の時代、スーパーインダストリアル社会において、なぜ象徴は貧困化するのか。

 大量生産の製品をさばくという組織化、つまり近代化と呼ばれる革新によって次々と生じる新しいものを消費者に取り入れさせるという組織化は、情動とそれが住まう身体、そして消費する身体をコントロールする社会に行き着く。そのような社会におけるエネルギーの機能的な循環は、象徴という面での参加衰退させる。それは象徴と情動の停滞でもあり、それはすなわち……個体化の構造的な衰退なのである。 (p. 36)

……文化と情報と認識の資本主義というものによって、これまででもっとも憂慮すべきインダストリアルエコロジーの問題が生じるのである。すなわち、人類のメンタルや知性、情動や感覚に関する能力がこの資本主義において大幅に脅かされており、しかもそれは、権力のある人間のグループが未曾有の破壊兵器を有しているまさに今起こっているのである。シンボルが商品として大量生産されることによって起こるエコロジー的危機とは、世界を覆う巨大な象徴の貧困であり、北にも南にも(かなり違ったかたちでだが)、そして極東として今や特別扱いしなければならない部分においても、等しくダメージを与えている。
 象徴の貧困という言葉で私が意味するのは、シンボル(象徴)の生産に参加できなくなったことに由来する個体化の衰退ということである。ここでのシンボルとは知的な生の成果(概念、思想、定理、知識)と感覚的な生の成果(芸術、熟練、風俗)の双方を指す。そして個体化の衰退が広まった現状は、象徴的なものの瓦解、すなわち欲望の瓦解を引き起こすにちがいなく、言い換えればそれは、厳密な意味での社会的なものの崩壊、つまり全面的な戦争状態へと至るのである。 (p. 39-40)

 象徴の貧困の一つの政治的な典型として著者が挙げるのは、2002年のフランス大統領選挙でジャン=マリー・ルペンに投票した人たちのことである。「それはあたかも、われわれがいかなる共通の感性的体験をも共有していないかのよう」であり、彼らは「自分たちが社会に属しているとはもう感じていない」のであり、彼らの場所は「感性的に脱落してしまったがゆえにもはや「世界」とは呼べない場所なの」だとして、次のように述べている。

 四月二一日は政治的-感性的に最悪のことが起こった日であった。果てしない象徴の貧困という状況にあるこの人たちは、現代社会の成り行きを嫌悪し、何より社会の感性を――それがインダストリアル的なものでないとき――忌み嫌う。というのもゾーンに閉じこもるということが本質的に意味している感性の条件付けは、感性的体験(実験)に取って代わり、その体験(実験)を不可能にしてしまっているからである。  (p. 24-5)

 しかし、このような政治状況は現在の日本でも同じである。「ヘイト・クライム」と呼ぶべき極右の示威行動が公然と街頭で行なわれている。それは朝鮮人や中国人への人種差別意識のもっとも低劣で悪辣な発露であり、しかもほぼ同等の政治意識を持つ政治家たちが「次世代の党」なる政治党派を結成した。そこの参加した一人は、東京都知事選挙において相当の票を獲得して、心ある人びとを驚かせた。ルペン現象と同じである。
 極右政党「次世代の党」は、2014年12月の衆議院選挙で壊滅状態に陥ったが、それは決して政治状況の変化、改善を意味していない。政権政党である自民党の極右化が、それらの票を吸収したに過ぎない。つまり、自民党の最右翼部分が極右政党の役割を果たしているのである。
 象徴の貧困を体現している人びとは、間違いなく現代社会のマジョリティである。思想も哲学も、文化も恒常性も見失った「貧困者」たちが現代の政治状況の物言わぬ主役である。

  あらたな貧困者たちを忌諱すべき野蛮人などと考えてはならない。彼らこそ消費者社会の中心であり、彼らこそ「文明」なのだ。しかし文明がそういうものであるからこそ、皮肉にも文明の中心(cœur 心)がゲットーとなっているのである。そしてこのゲットーはゲットー化していくということによって侮辱され、屈辱を受けている。われわれ、つまり教養があ るとみなされる者、学者や芸術家や哲学者、先見の明があるとか事情通とみなされる者は認識しなければならない。社会の大部分の人が、屈辱や侮辱からなるこ の象徴の貧困のうちに生きているのだということを。これこそが市場の支配的な統治から生じた感性の戦争がもたらす荒廃である。社会の大部分の人は感性の被災地であるゾーンに住んでいて、そのように感性的に疎外されているようなところでは、人は生きることも愛し合うこともできないのである。 (p. 26)

 象徴の貧困は、主体形成の貧困として結果するように思われる。ジュディス・バトラーは、主体形成の契機を社会(体制)からの呼びかけに応えるときに始まると見ている [4] 。しかし、人が共有しうるさまざまな象徴をその社会に見出すことが出来ないと、主体形成は困難になるだろう。主体形成、自我の形成が困難であれば、私たちは社会の一員としての自己を形成できない。つまり、私たちは「われわれ」になることが出来なくなる。

われわれ」は、共に時間的であるということそれがわれわれの絆です。おそらく唯一の。でもそれはとても強力な、そしてとても際立ったsensible絆です。……この絆が深刻なまでに脅かされているのです (p. 58)

 意識とはそも そも自己の意識であり、それは「私」と言える意識です。「私」は他の誰とも同じではなく、私は唯一の、特異な存在であり、それはどういうことかというと私 は私に自分自身の時間を与えているのです。……ところが文化産業、特にテレビは、並はずれた規模で人々をシンクロさせる機械なのです。人々が同じ出来事を 同時にテレビで生放送で見るとき何が起こるかというと、何千万ひいては何億人という単位での世界中の意識が、同じ時間的なものを同時に自分のものとし、そ れを取り入れ、体験することになるのです。これらの意識が毎日同じオーディオビジュアルな消費活動を繰り返し、同じテレビ番組を同じ時間に見て、それが完 全に規則的になされたら(すべてはそのために作られているのですから)、そのときこれらの「意識たち」は一人の同じ人間の意識になってしまい、ということ は「誰でもない者」の意識になってしまう、つまり誰の意識でもなくなってしまうのです。 (p. 61)

 著者は、こうした機制を「私」と「われわれ」、そして「みんな」という言葉で説明する。人は、みずからが生きている社会で主体形成して「わたし」となる。主体形成が、共有しうる豊かな象徴(文化、恒常性)をもってなされるとき、私たちは「われわれ」としての絆を確かにした社会的存在となるのである。

 心的な個としての「」は、集団的個である「われわれ」に属しているものとしてしか考えることができません。「」というものは集団的な歴史を継承し、それを取り人れることで構成されるからです。そしてその集団的歴史の中に、複数の「」たちが自分の姿を認めているのです。  (p. 126)

 自己形成が貧しかった者、自らを「個体化する」、「特異化する」 (p. 117) ことに成功しなかった者、つまり「誰でもない者」の集まりは「みんな」と呼ぶしかない。このみんなのイメージは、幼児が物をねだって駄々をこねるときに「みんなが持っているから」と言うときの「みんな」にきわめて近い。たしかに人の集まりではあるが、個々の顔がない集団である。「誰でもない」人びとでしかない。消費の時代に「消費者」として括られてしまう人びとである。
 著者は、「みんなon」を群生する昆虫のようだとして、現代は「社会の昆虫化(人間の社会が昆虫社会とまではいかなくてもマルチエージェント(multi-agents多数の行為媒体)のシステムとなること)」 (p. 172) と呼ぶ。

……消費活動というものは、「」と「われわれの違いを失わせていく傾向であるように見えます。そのためもはや心的にも集団的にも個体化というものはなくなり、その代わり、私が「みんなon」と呼んだものが現れるのです (p. 144)

 象徴の貧困の時代は、「自分たちが社会に属しているとはもう感じていない」 (p. 24) 人びとが消費者社会の中心であればこそ、現代は「生きづらい」時代なのだ。

 今の時代の生きづらさがどのようなものかというと、「われわれ」に「私」を投影することがだんだんできなくなり、どんどん難しくなり、ついには全くできなくなるということです。そしてそれは他の「私」にとっても全く同じ状況なのです。
 「われわれ」というものが深刻な病を患っています。心的かつ集団的個体化に欠かせない過去把持の装置が、市場に完全に組み込まれた判断基準とその市場の今や支配的となった要請に服従してしまったことで、投影のプロセス(それによって、ある「われわれ」が自分たちを個体化することで構築されていく)が事実上不可能になったからです (p. 144)

 スーパーインダストリアル社会である現代は、「圧倒的多数」の「みんな」と「一握りの少数」の「われわれ」 (p. 179) の社会であって、圧倒的に生きづらい困難な時代である。著者は、次のように私たちに呼びかける。

……読者はおそらく、『象徴の貧困』のような本を読む気になりまた読む力がある以上、現在では非常に限られた規模の社会カテゴリーを代表しているのだということを忘れないでいただきたいと私は言いたいのです。そのようなカテゴリーは、よほど想定-外のことでも起きない限り、おそらく絶滅の一途をたどるでしょうから。 (p. 180)

われわれ、つまりこの講演を聴き、あるいはこの本を読んでいる「皆さん」と、この講演をおこない、この本を書く「」からなる「われわれ」、カントが精神の果実と言っていた人間の作品に通じているわれわれは、ほんの一握りの少数派となるのです。 (p. 182)

 しかし、もちろん著者は絶望しているわけではない。たとえば、一つの文化事象として「映画」に期待して、きわめて象徴的かつシニカルに次のように語っている。

……映画とテレビを単に対立させることが重要なのではなく、あらゆる映画につねにすでに住み着いている権力としてのテレビのことを、映画によって批判しなければならないのだ。映画とテレビの組み合い(composition共立)という実験が必要なのである。そこからなぜとはなしにバラが生まれることがある。そのときは神に感謝するしかない。たとえ神はもう死んでいるとしても。 (p. 209)

 さて、「圧倒的多数」と「一握りの少数」の社会で、「一握りの少数」がなすべきことを著者は「あとがき」の中で次のように述べている。

 私がここで象徴の貧困と名付けたのは、まずこの極右政党に投票した人たちが苦しみ、投票という証言――その証言がどんなに醜悪なものであり、またそう見えたとしても――をしているその貧困のことである。ただし、その政党そのものと私が話し合うということは当然ながらあり得ない。
 しかし、国民戦線との話し合いを拒むからといって、この政党に投票した人たちと話し合わないということでは決してない。それどころか私は誰よりもその人たちに向かって話さなければと考えている。たとえほとんどの場合、とても間接的なかたちでしか向かえないとしても。また私にとって、彼らに向かって話すとは、何よりもまず彼らという証人を憂え配慮し)、彼らが私の声を聞く理解することがまさにできないところでしている証言を憂える(配慮する)ということだとしても。そして、彼らが最悪の事態となる前に彼らに残された唯一の象徴交換の可能性としての投票という手段によって証言している現実がどんなに耐え難いものであろうとも、何よりもまずこうして彼らに向かって話すということが、私の目には絶対に優先すべきことに見えるのだ。 (p. 211-2)

 現代日本の状況もまったく同じである。しかし、私には「その人たちに向かって話」すべき言葉が見つからない。向き合って語る言葉がなくても、たしかに「間接的なかたち」で語り続けることは可能であろう。デモのようなパフォーマティブな言葉だってあるだろうとは思う。
 本書は、次のような言葉で締めくくられている。

 まただからこそ、私は繰り返すのであり、これからも繰り返すことをやめないであろう。国民戦線へ投票する人たちに異議を申し立てる闘いにおいて、私が彼らに何よりも言いたいのは、私の彼らへの友情なのだ。 (p. 219)

 

[1] ジャン・ボードリヤール(今村仁司、塚原史訳)『象徴交換と死』(筑摩書房、1992年) p. 11。
[2] 樫村愛子『ネオリベラリズムの精神分析――なぜ伝統や文化が求められるか』(光文社、2007年)
[3] ミシェル・フーコー(阿部崇訳)『マネの絵画』(筑摩書房、2006年) p.15。
[4] ジュディス・バトラー(佐藤嘉幸、清水知子訳)『権力の心的な生』(月曜社、2012年)