かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

闇を超克する、その機制――セガンティーニをめぐる戸惑い―― 【2】

2019年11月08日 | 展覧会

【2012/3/12】

【続き】

【余剰としての象徴主義】

 ここまで話が進んでくると、「共時的分極」と名付けた第2の問い、対極的な図1と図2の絵がなぜ同時期に描かれえたのか、という問いはあまり重要な意味を持たないことが分かる。図1の「暗さ」は、ブリアンツァ時代の「暗さ」から直接繋がってくるものではない。
 「暗さ」、「薄暮」を超克しえた画家が、新しく切り開くことができた象徴的な世界の暗鬱さなのである。いわば「余剰としての象徴主義」の絵として、《The Evil Mothers》は描かれたのだ、と考えている。
 いや、結論をそんなに急がず、評論家たちの言に聴き入りつつ、もう少しゆっくり歩を進めることにしよう。
 まず、《The Evil Mothers(悪しき母たち、よこしまな母たち)》はどのような絵なのか、考えてみたい。

〔《悪しき母たち》の〕テーマは母性の崇高な原理を犯した女性への懲罰である。改悛者の魂を焼く煉獄を画家は高山地帯の荒涼とした、酷寒の氷界に移した。母親は子とともに一本の木の節くれ立った枝に身を捩った奇妙な姿勢で囚われている。後景左には、贖罪から救済に至る母親の苦難の道の三つのさらなる段階が描かれている。セガンティーニは文学モデル(ルイジ・イリカによってイタリア語に翻訳されたインドの涅槃の詩『パンジャヴァーリ』)にきわめて個性的で造形的な解釈を施したものだった。非現実的な主題であるにもかかわらず、およそ絵画におけるもっとも美しい雪景色の一つである。
             ベアト・シュトゥッツアー [25]

 私は、はじめ、この絵を 「反母性」が耽美的に描かれていると、受容していた。それは「反母性」への懲罰ではあるが、「贖罪から救済に至る」母性としても描かれている。したがって、セガンティーニが抱いている「母性」の心象が問題になる。
 「母性」を理解するには、人間が類として獲得した本性としてアプローチするのが一つの方法であろう。また、それに対して、クインザックのようにイタリア絵画史に現れた「母性」の潮流の中の一部として取り上げる方法もあるだろう [26]。時代のありようとしての、あるいは、その時代に通底する「母性」思想を問題にすることは可能であろうし、大切だとも思う。
 大塚英志が言うように、「母性」言説は近代国家成立過程におけるナショナリズムとも密接に関連するもので、「「母性」とは、そのように国家によって政治的に求められるものである」[27]というように、時代のイデオロギーとして考えなければならないことになる。クインザックはそこまで突っ込んで論じてはいないし、私にはその準備がない。

 けれども、私は、セガンティーニの「母性」性をその時代性、イデオロギー的性向から論じる必要はないのではないか、と思っている。というのは、ここで必要なのは、《アルプスの真昼》(図2)や《水飲み場にて》(図6)と《The Evil Mothers》との関係性、セガンティーニの心性における位置取りなのだからである。
 シュトゥッツアーの記述のうち、《The Evil Mothers》の主題を「反母性への懲罰」に重心を置くか、「反母性からの救済」に主眼を置くかでアプローチの仕方が異なるだろう。もちろん、「懲罰から救済へ」として、全体を考慮に繰り込むことが本道であろうが、これまで必ずしもそのようには議論されてはいない。最終的にはそう望むにしても、まず簡単な道から進もうと思う。


図8 セガンティーニ《生の天使》 [29]

1892年、油彩、カンバス、59×43 cm、セガンティーニ美術館。

 「母性」という観点からは、図8の《生の天使》のようないわば「聖母子像」に分類されるような絵を引き合いに出す向きがある。しかし、このような絵から画家固有の「母性」観を論じることは(少なくとも私には)難しい。
 ヨーロッパ絵画では、げっぷが出るほど、たくさんの「聖母子像」を観ることができる。もちろん、敬虔な宗教感情もあるだろうけれども、これだけ数が溢れていると、キリスト教(カソリック)社会を画家として生き抜いていくとき、「聖母子像」は、いわば、画家としての職業的儀礼のような性格を帯びることが多いのではないか、と私は考えている。セガンティーニの場合は、次のような記述から、強い信仰心から《生の天使》が描かれたとも考えにくいのである。

4人の子供の誰にも洗礼を受けさせず、「私は神を自分の外部に求めたことは決してなかった(……)」と語るセガンティーニは、カトリックでもプロテスタントでもなく、すべて自然に、自然のいたるところに神を見る汎神論者であり(……)
                            千足伸行 [28]

 それでもなお、《生の天使》を描くセガンティーニを素直に受け入れると、「反母性」を憎み、懲罰を主要な心情として《The Evil Mothers》に注ぎ込んだと考えたくなる。しかし、倫理、宗教心など、どのような心性にとっても真逆の価値を示す「聖母」と「懲罰に値するな邪悪な母」を、ともに樺の木の上にほとんど同じ構図で描くということがあろうか。
 ここから推測できるのは、セガンティーニは確かに涅槃の詩『パンジャヴァーリ』に則って描いてはいるが、激しい懲罰の意思を表明してはいない、ということではないか。

 もうひとつ、「懲罰」に重点を置いた見方は、セガンティーニの生い立ちから指摘されている。少し長いが、たいへん重要なので引用しておく。

(……)同時に彼は「私の誕生により、母は健康を大いに損なうことになった」とも語っている。つまり、母の死因は自分の誕生にあったことをほのめかしているが、セガンティーニ研究の第一人者アニー=ポール・カンザック〔クインザック〕によれば「自分のために母は苦しみ、死んだという自責の念は、彼が人に抜きん出た著名人となった時に(……)初めて克服された」(H. A. LÜTHY & C. MALTESE: GIOVANNI SEGANTINI, Zürich, 1981, p. 23)。
   母に対する自責の念の一方で、母が幼い自分を残して他界したという事実、「普通なら彼くらいの年頃の子供が母に期待できるはずの保護、安らぎを、母は与えてくれなかった」(B. STUZTER (ed.): BLICKE INS LICHT: NEUE BETRACHTUNGEN ZUM WERK VON GIOVANNI SEGANTINI, Segantini Museum, St. Moritz, Zürich, p. 97)という事実は残る。セガンティーニ自身はこれについては恨みがましいことはいってないが、セガンティーニの意識下の世界で母に対する愛憎半ばするアンビヴァラントな感情が働いていたことは考えられる。こうした観点からセガンティーニの人と芸術を分析したのが、フロイト派の精神分析学者カール・アブラハムである(K. ABRAHAM: GIOVANNI SEGANTINI: EIN PSYCHOANALYTISCHER VERSUCH, Leipzig & Belrin, 1911(reprint, 1970))。一般論として、幼い頃に「母性愛の剥奪」にあった子供が母との関係で「なにかに吸いつく、しがみつく、笑う、後を追う」など、「母への愛着」の現われと見られる行動を示すとすれば(『精神医学事典』、弘文堂、pp. 604-605(「母性愛の剥奪」の項)、《悪しき母たち》における母の胸にしがみつき、乳を吸う幼子、《愛の結実》における笑う子供のモティーフを、こうした観点から解釈することも可能であろう。アブラハムによれば、「一般的な意味での“悪しき母”を罰したいとの願望の背後に今や、自分自身の母を罰したい、(自分を置き去りにした=筆者補足)彼女に仇を討ちたいとのセガンティーニの密かな願望が生まれているのである」(F. SERVAES: GIOVANNI SEGANTINI: SEIN WERK UND SEIN LEBEN, Leipzig, 1908, p. 264)。
                   千足伸行 [30]

 じつのところ、精神分析の話になると、私自身は多少困惑してしまうのだ。というのも、たいていの場合、精神分析は人間の心理に「過剰な意味」を付与するように感じてきたからで、具体的な事例の精神分析にはいくぶん保留をおきたい気分になるのである。
 フロイトやユング、ラカンの偉業を讃えることになんの躊躇もないけれども、そういうこともあって、じつはあまり丁寧に読んだことはないし、いまも真剣に読んでみたいとは思っていないのである。
 上の文中の《愛の結実》(1898年、ライプツィヒ造形美術館)は、図8の《生の天使》とほぼ同じ構図で、慈愛に満ちた母の膝に抱かれて、幸せそうな笑顔を浮かべた乳児が描かれている絵である。いっぽう、前述したように、酷寒の荒野で《The Evil Mothers》の乳児は、我が子を無視するしかない懲罰の母の乳房を求めているのである。ここでも同じことを言わざるをえない。真逆のモティーフを、同じ構図で描くことがありうるだろうか、と。
 精神分析的な解釈では、セガンティーニには母親に対するアンビヴァレントな感情があったであろうとの推定を前提にして、この決定的にかけ離れた境遇の乳児の双方に、子供としてのセガンティーニの心理の両面の発現を仮託しようというのである。
 しかし、この極北と極南に位置するような心性をセガンティーニのうちに共在する「全的な心性」と仮定してしまったら、二つの極の間に張られた心理空間のどこかを選べば、どんな心理的発現も説明できることになってしまう。つまり、何でもあり、ということではないか。それでは、言を尽くして、無を手に入れることになってしまう。

 ここでは、過剰な想像力は措くこととして、千足が紹介しているように、セガンティーニ自身の言葉とそれに基づくカンザック〔クインザック〕の解説から出発する方が、わずかかもしれないにしても、確実な実りを得るアプローチではないかと思う。
 母の死は自分の誕生によるものだ、というセガンティーニ自身による仄めかしがあり、その自責の念は、彼が画家として成功をおさめるにつれて克服されたとカンザックは指摘している。つまり、この克服の始まりの時期とは、1985、6年頃の「薄暮の画家」から「光の画家」への変貌の始まりの時期そのものではないか、と私は考えているのである。
 そうであれば、セガンティーニが「母への自責の念」を克服した以上、《The Evil Mothers》が「自分自身の母を罰したい、彼女に仇を討ちたいとのセガンティーニの密かな願望」のもとに懲罰を主題として書かれた考えることは不可能である。
 聖母子像を描くような単純な「母性」観による主題、あるいは「母への懲罰」という主題、それらの一方だけでは《The Evil Mothers》を説明できない、ということになってしまった。
 それを解く鍵は、セガンティーニにおける「象徴主義」にある、と私は考える。セガンティーニの象徴主義についてはクインザックも解説している [31] が、千足の解説がきわめて示唆に富んでいる。

(……)イタリアの分割主義が今日記憶されているのは、主にその象徴主義的作品によってである。(……)セガンティーニでいえばイタリア時代の《湖を渡るアヴェ・マリア》から、スイスに移ってからの《悪しき母たち》、《逸楽の女たちの懲罰》、《虚栄》、《生の天使》、《愛の女神》を経て、絶筆となった三部作《生・自然・死》などがこれに当たる。これらは(1)神話的、キリスト教的、寓意的な主題による作品、たとえば《悪しき母たち》、《生の天使》、《虚栄》などと、(2)《湖を渡るアヴェ・マリア》、《森からの帰途》、《生・自然・死》など、一見、現実的でリアルな世界を描いているが、同時に象徴的にも解釈される、いわば「二重底」の作品に大別される。
  イタリアに限らず、世紀末の象徴主義にはこれに先行するリアリズムへの反動という側面もあるが、セガンティーニにあってはリアリズムと象徴主義は対立するというより、しばしば同時並行的に進行している。
             千足伸行 [32]

 この記述の中で、(とくに私にとって)重要なのは、(1)分割主義と象徴主義の関係についての指摘と、(2)セガンティーニの中ではリアリズムと象徴主義が共在していたという指摘である。



図9 セガンティーニ《湖を渡るアヴェ・マリア(第2作)》 [33]
1886年、 油彩、カンバス、 120×93 cm、 個人蔵(ザンクト・ガレン)。


 上の記述で千足が象徴主義の作品として取り上げた例のうち、もっとも早く描かれた絵、《湖を渡るアヴェ・マリア(第2作)》は、きわめて象徴的(駄洒落ではない)な作品である。「1986年に制作された《湖を渡るアヴェ・マリア》は、セガンティーニの代表作であるだけでなく、まさに世紀末のイコンといえよう」 [34] と評されるほど、セガンティーニの画業中で重要な位置を占める絵である。

 1982年に初めて描かれた《湖を渡るアヴェ・マリア》のモティーフは、が、1986年になってあらためて分割主義の技法を用いて描き直される。それが図9の(第2作)の意味である。この絵は、セガンティーニが初めて分割主義を用いた絵であると同時に、明瞭な象徴主義的モティーフのもとに描かれた絵としても、セガンティーニ画業の中で劃期をなすものである。

 プシアーノ湖畔で描いた《湖を渡るアヴェ・マリア》(1982)は、夕暮れ時に野外での制作を終えたセガンティーニがビーチェを伴って、対岸に住む乳母の所から長男ゴッタルドを家に連れ帰る場面を描いている。 
              久保州子 [23]

 《湖を渡るアヴェ・マリア》(第1作)を見ることは叶わないのだが、1982年当時の画風と、上の久保の叙述からすれば、淡々としたリアリズムで描かれた「薄暮の夕景」として想像される。そして、前述したように、ブリアンツァ時代はセガンティーニが「家族」を発見しつつ、光の心象へ向かう準備期間であって、その中で自らの家族を描いたものとして 《湖を渡るアヴェ・マリア》(第1作)は描かれたのだ、と考えることができる。
 そして、そのモティーフを再度描く時には、分割主義の手法を手にしており、マリアとイエス、そして「父」のヨセフ(セガンティーニ!)の「聖家族」になぞらえた自らの家族を、さらに高く、強く象徴的に描くことに成功する。
 繰り返しになるが、自ら形成し得た家族への希望がセガンティーニの心を光の世界へ向かわせ、分割主義がその転移(変貌)を駆動した、と言いたいのである。《湖を渡るアヴェ・マリア》(第2作)は、そのような記念碑的作品として位置づけられる。そして、ここで付け加えるべき重要な一点は、これを契機として、象徴主義的作品が次々と産み出されるようになる、ということである。
 私が考えている、そのようなセガンティーニという画家の精神宇宙を、惑星運動の楕円軌道になぞらえた図式で考えてみよう。(図式化するということは、単純化することであって、注目する因子と無視する因子とを截然と分ける行いである。無視された因子に主要な意味が隠されている場合には、あっさりと誤謬に至るという代物だが、たまには役に立つこともある、と思う。)
 円軌道が一つの中心を持つように、楕円軌道は二つの焦点(中心)を持つ。太陽系であれば、どちらか一つの焦点に太陽が位置しているわけである。楕円の扁平の度合は、二つの焦点の距離(と長径と短径の長さ)で定まる離心率で表される。離心率が0であれば真円であり、微少有限値から1に近づくにつれてだんだん長ひょろい楕円になり、1以上では軌道は放物線や双曲線となって、惑星は無限宇宙へ去ってしまうのである。

 ブリアンツァ時代までのセガンティーニの心性は、幼少年期に強く形成された暗い「闇」ないし「薄暮」の心象の源を一つの焦点に置く楕円にたとえられる。離心率は小さく(円に近い楕円)、セガンティーニの心的現象、心的発現はその一つの焦点からの距離で測ることができる。
 しかし、新しい家族の上に降りそそぐであろう光への希求がもたらした転移は、心性軌道を離心率の大きい楕円に変え、一つの焦点には分割主義に助けられて顕在化した「光」の心象の源があり、他方の焦点には、従来の「薄暮」の心象の源が残されている。つまり、二つの心象源があるのだが、力学系としては、「光」の心象源のみが実在源であり、「薄暮」の心象源は参照系として存在するようになる。
 したがって、図式的には、《アルプスの真昼》のような リアリズム系の「光」のモティーフに属する絵は、「光」の心象源としての焦点からの距離のみで記述できる空間に位置している、と言える。
 ところが、《悪しき母たち》の座標となると、そのように簡単には座標を定められない。涅槃の詩『パンジャヴァーリ』に啓示を受けて、絵画制作へ向かうセガンティーニは、「光」の心象源を焦点とする運動をしつつ、その主題にふさわしい心象風景を与えてくれる「薄暮」の心象源を参照系として用いたはずだ。人間の心が作為的な手続きで動かされるような表現をせざるをえなかったが、これが図式的であることの欠点である。

 セガンティーニという独立する精神、心性のなかに統合された2焦点として共在するのだから、主として片方に依拠しつつ、もう一方を参照するのはごく自然なことである。ただし、参照の強度によっては、もう一方の焦点も力学系に組み込まれるような実在源となる。軌道上に絵画主題があり、実在質量の大きい「光」の心象焦点に加え、さらにもう一方の「薄暮」の心象焦点に軽度とは言えある実在質量を措定すると、力学的には3体問題となって、図式的に軌道を指定することは困難になるが、措定条件によって、実に多様な軌道が発現することになる。
 そのように新しく生まれた軌道を「余剰」と呼んでみたのである。心象風景の「豊かさ」と呼んでもよい。そして、「薄暮」の心象源を参照しないリアリズム系《アルプスの真昼》とは異なり、さまざまな強度で参照する「象徴主義」系作品では、その強度に応じて象徴性の強度は変化している、と考えている。これが、「余剰としての象徴主義」と呼んだ所以である。
 「余剰としての象徴主義」である以上、《アルプスの真昼》と《悪しき母たち》が同時期に描かれることになんの不思議もないことになる。「薄暮」の心象源への力点の置き方を変えるだけで、セガンティーニは自在に心象宇宙を渡っていくのである。「分割主義」を武器として「闇・薄暮」を超克した画家は、「闇・薄暮」がなければ生まれない力をも自在に手に入れることができるようになったのだ。うずまきナルトが「妖狐・九尾」を超克し、その「闇のチャクラ」を自在に操るようになったように。
 「余剰」として、《The Evil Mothers》が描かれていると考えれば、初見の私の印象はあながち無茶な方向を向いていたわけではない、ということが分かる。よこしまな母たちへの懲罰という重い主題にもかかわらず、その母は耽美的な姿態で描かれ、美しい雪原の背景と相俟って、感動の発動点になっているのだと思う。
 この描写は、心性の中心が「光・希望」にあって、参照系として「闇」を扱いうる豊かさに基づいているのだろう。

【余分な最後:付け足し】

 たった1枚の《The Evil Mothers》への感動で始まったセガンティーニ経験であったが、ここまで話が進んでも、この絵に対する感動の質は高まりこそすれ、衰えたり、萎びたりする気配はまったくない。
 展覧会で実物を見ることは叶わなかったが、旧図録で《湖を渡るアヴェ・マリア》(第2作)を知ることができたのも幸運であった。ありきたりな表現だが、胸が打ち震えるほどに、素晴らしい絵だと思う。実人生の途上でに実物を見る機会があるかどうか心許ないが、それを願うのみである。

 たぶん、私はセガンティーニの絵が余剰として抱え込んだ象徴主義的情感に強く惹かれているのである。
 ところが、「象徴主義」の系列に分類される絵画の中に、《生の泉の天使》とか《虚栄》という絵が含まれている [35]。前者には、文字どおり大きな羽を持つ天使が泉の畔に、遠景に愛し合う恋人たちが描かれている。後者は、泉の水面を鏡代わりに我が身を映して見とれている金髪で裸体の若い女性が描かれている絵である。
 つまり、象徴主義の度合の強い、というより、ほとんど寓意そのものと言ってよい作品である。正直にいうと、私にはどうもこの手の絵に対する受容力がないようなのである。アレゴリー感受力が弱いのである。

 西洋絵画を見て歩くとき、いつも悩ませられるのが寓意表現としての絵画、あるいは寓話そのものなのである。まず第1に、寓意そのものが分からない。ある時、上野の国立博物館のミュージアムショップで『西洋絵画の主題物語 I 聖書篇」と「同 II 神話篇』(美術出版社、1997年)という本を見つけて、絵画に登場する神話、伝説の類を勉強したが、どうも付け焼き刃のためか、本質的に単なる知識と感受力には相関がないのか、何の効果もないのであった。
 何世代も何世代もかけて語り継がれ、さまざまに変容しつつ、また繰り返し語り継がれてきたギリシャ神話やローマ神話、その変容時に加えられたその土地土地の伝説、民話、そして、厖大な蓄積を持つキリスト教神話、それに加えて広く社会に広まっているであろう時代時代のアレゴリカルな都市伝説。そういったものが、血のように、肉のように身体に染み渡っている人々のあいだでアレゴリーは伝達表現として成立している。そんなふうに考えると、じたばたしないで諦めるのが1番、そんなふうに私は今を生きようとしている。
 諦めているのに、ベンヤミンの言葉に、幾分ざらっとした気分になるのである。

ボードレールは哲学者としてはお粗末で、芸術の理論家としてはそれよりましだった。ただ沈思家としてだけは比類のない人物であった。……沈思家はアレゴリーに精通している。 
                            ヴァルター・ベンヤミン [36]

 哲学者でもない、芸術家でもない、ましてや沈思家なんてどういうものかすら知らない。それでいて、アレゴリーもさっぱり……なんてなぁ。


[25] ベアト・シュトゥッツアー「ジョヴァンニ・セガンティーニ:近代へのパイオニア」 「新セガンティーニ図録」 p. 16。
[26] アニー=ポール・クインザック「序説」 「旧セガンティーニ図録」 p. 118。
[27] 大塚英志「「伝統」とは何か」(ちくま新書、2004年) p. 70。
[28] 千足伸行「アルプスの画家:“魔の山”から“光の山”へ」 「新セガンティーニ図録」 p. 20-21。
[29] 《生の天使》 「新セガンティーニ図録」 p. 111。
[30] 千足伸行「アルプスの画家:“魔の山”から“光の山”へ」 「新セガンティーニ図録」 p. 19-20。
[31] アニー=ポール・クインザック「序説」 「旧セガンティーニ図録」 p. 117。
[32] 千足伸行「アルプスの画家:“魔の山”から“光の山”へ」 「新セガンティーニ図録」 p. 25。
[33] 《湖を渡るアヴェ・マリア(第2作)》 「旧セガンティーニ図録」 T. 14。
[34] 《湖を渡るアヴェ・マリア》図版解説「新セガンティーニ図録」 p. 92。
[35] 《生の泉の天使》、《虚栄》「新セガンティーニ図録」 p. 118-119。
[36] ヴァルター・ベンヤミン(今村仁司・三島憲一ほか訳)「パサージュ論 第2巻」(岩波現代文庫 2003年 ) p. 328。

【ホームページを閉じるにあたり、2012年3月12日に掲載したものを転載した】



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闇を超克する、その機制――セガンティーニをめぐる戸惑い―― 【1】

2019年11月07日 | 展覧会

【2012/3/12】

光は主体となる以前に闇に染まる。
          ジャック・デリダ [1]


【まえおき】

 最近、セガンティーニの絵をめぐって、戸惑いと混乱が続いている。じつは、セガンティーニをよく知らなくて、ベルヴェデーレ [2] でたった1枚の絵を7、8年かけて都合3回ほど見ただけだった。いくぶん特異な感じの絵に感動して、記憶はしていた。2年ほど前、宮城県美術館で開かれた「大原美術館」の所蔵展でもう1枚のセガンティーニの絵を見て、戸惑いは始まった。
 その後、34年も前に日本で開催されたセガンティーニ展の図録をなんとか手に入れた。その後すぐ、2011年夏にNHKのセガンティーニについての番組を見て、それを伝えた義姉が大津で開かれたセガンティーニ展に出かけ、その図録を送ってくれた。続けて東京開催の展覧会に出かけることができた、というシークェンスは、また異なった戸惑いと混乱を積み重ねる原因となるのであった。

 ベーシックな戸惑いの理由ははっきりしている。ジョヴァンニ・セガンティーニの絵画をめぐって戸惑っている、そんな自分に戸惑っているのである。
 幼いころころから、絵画とか音楽とかはまったく不得手なものと思い込んで生きてきたし、実際にそうなのである。見たり聴いたりはするが、それ以上でもそれ以下でもないと思ってきた。
 ふつうに美術展にも行くし、妻に強要されて苦労して入手したチケットを手にしてシュテファン寺院(ウイーン)のクラシックコンサートにも行ったこともある。そういったことも、妻には従わざるを得ないという事情もあるけれども、強いて評価すれば、教養主義的な「気取り」に過ぎないのである。人生をやっていくには、時にはそんな「気取り」も「見栄」も少しは必要だろうとは思っている。ただ、せいぜいその程度である。
 たしかに一度は、ヴィルヘルム・ハンマースホイの絵から受けた衝撃から、柄にもなく、リルケやフッサールを引き合いに出して、無謀にも解釈を試みたことはある。初めてで最後の一回だけの「無茶」なら許されると、そのときは思ったのだ。
 それなのに、またもや、わたしはセガンティーニの絵をめぐって戸惑っており、その戸惑いを何とかしようともがいているのである。そのような自分に戸惑い、戸惑いと混乱は階層を為してしまっている。


図1 セガンティーニ《The Evil Mothers》 [3]
1894年、油彩、キャンバス、105×200 cm、国立オーストリア美術館。


【初発の戸惑い】

 前述したように、 数年前までの私のセガンティーニ経験は、まったく限定的なのである。初めてセガンティーニの絵を眼にしたのは、ウィーンの「Österreichishe Galerie・Belvedere」 のことで、たった1枚の絵、《The Evil Mothers》(図1)を見ただけだった。一度ベルヴェデーレが工事中で見ることがかなわなかったことがあるけれども、三度ほどその絵を見る機会があった。他のセガンティーニの絵があったかどうか、定かではない。《The Evil Mothers》の印象が、それだけ強かったのである。
 ウイーンで、クリムトやシーレの絵をたくさん見た目で《The Evil Mothers》をみると、年代も同じ頃で、ウイーン世紀末美術にカテゴライズされる絵だろうと自然に(誤って)思い込んでいたし、「反母性的で、耽美的な」という形容を勝手に与えて、感動していたのである。

木々はたがいに寄りそい、声高に叫びだす。
――私たちは何故地に繋がれていなければならないか、
――私たちは何故立ち枯れていかなければならないか。
悲歌しても誰も唱和しない、
だから木々の嘆きは私たちの耳にとどまらない。
               中村稔「悲歌」部分 [4]

 罪深き母たちは、立ち枯れ(冬枯れ?)の樺の木(だと思う)に繋がれ、樺の木は厳冬の凍り付く大地に繋がれ、児が乳を求めているのに無関心で、欲望に身を委ねてエクスタシーに達しているかのように身をくねらせている。
 そんなふうに考えて、私のたった1枚のセガンティーニ経験は、誤りを前提にしているとはいえ、それなりに完結し、ある感動も覚えていたのだ。

 2年ほど前、たしか倉敷市の大原美術館の所蔵品展が宮城県美術館で開催され、妻と出かけた。そこで、私自身としては2枚目のセガンティーニを見たのである。図2の《アルプスの真昼》である。
 白樺か岳樺、いずれにしても樺らしい樹木が共通しているものの、《アルプスの真昼》から受ける印象は《The Evil Mothers》とはほとんど真逆である。


図2 セガンティーニ《アルプスの真昼》 [5]
1892年、油彩、キャンバス、86×80 cm、倉敷、大原美術館。

 セガンティーニにはこのような絵もあるのだ、そんなふうに幾分は驚いて、《アルプスの真昼》の写真複製をミュージアムショップで求め、あり合わせの額に入れてしばらくは眺めて暮らしたのである。
 情感のまったく異なる二つのセガンティーニに少し戸惑ったというのは事実だが、ごく軽微なものである。まったく当たり前のことだが、もともとたった二枚の絵を見ただけで、セガンティーニの画家としての統一的なイメージを造ろうとすること自体ありえないのである。まぁ、いずれ彼の画業のかなりの部分に接することができれば、自然と解消するものだろう、とたかをくくっていた。


【セガンティーニ展に出かけるまで】

 それでもセガンティーニは気になる画家だったわけで、県立図書館や市立図書館で検索したが、適当な本は1冊もない。市内の本屋巡りもしたが、「フェルメール」などの本は山ほどあるのだが、セガンティーニ本はないのである。これは、ハンマースホイを気にしていた時と全く同じ状況である。
 日本だけではないかもしれないが、「超(後期)資本主義」社会のなかで、芸術もまた、ファンタスマゴリーとしての消費と流通、ポピュリズム的商品展開から、当然のごとく、逃れられないのである。下世話に言えば、印象派とかフェルメールくらいしか商売にならないのかもしれない。
 私の感受できる領野が偏頗でマイナーなのかもしれない。そういえば、こういうこともあった。セガンティーニを初めて見たウイーンで、Feridinand Georg Waldmüllerという画家の農民や市民の日常を描いた絵が気に入って、ウイーンの何軒かの本屋を廻って画集を探したが、彼の絵を数枚だけ収録したようなものしかなくて、諦めたことがあった。もちろん日本でも探してはみたのだ、無駄だとは思いつつ。

 とまれ、セガンティーニである。昨年(2011年)の夏、ネットで調べていて、「日本の古本屋」という古書店団体が作るショップ [6] で、1978年に兵庫県立近代美術館で開催された『セガンチーニ展』の図録 [7] をやっと見つけて、ただ同然の値で手に入れることができた(どういうことか、いまだ理解できないが、同じタイトルで数万円の値がついてるショップもあったのだが)。
 またそのすぐ後、3・11大震災の響大震災の2転3転したらしい「セガンティーニ展」が大津市の佐川美術館で開催されることになり、その案内も兼ねて放送された「NHK日曜美術館『もっと光を! もっと高い山へ、セガンティーニのアルプス』」 [8] という番組を見ることができた。
 さすがに、仙台から大津までセガンティーニを見に行く、とは言いかねて(その程度の熱意とも言える)、近くに住む義姉(妻の姉)に展覧会のことを教えるだけだったが、ありがたいことに、さっそく出かけた義姉がすぐに図録 [9] を送ってくれた。
 その図録で、その年の暮れに東京の損保ジャパン東郷青児美術館でも開催されることを知り、妻と一緒に出かけた。

 2冊の図録も見た。展覧会で直接、たくさんの絵も見た。全体像を見れば納得できるだろう、という私の予想はまったく甘くて、「軽微な戸惑い」だったはずが、じわーっと重くなり、捻れはじめて、混乱となって立ち現れるようなのであった。


図3 新旧のセガンティーニ展の図録表紙

左:「セガンチーニ ―アルプスの牧歌と幻想―」展、兵庫県立近代美術館、1978年 [7]。
右:「セガンチーニ ―光と山―」展、佐川美術館、静岡市美術館、損保ジャパン東郷青児美術館、2011年 [9]。


【戸惑いと混乱の発展】

 これは偶然かもしれないけれど、新旧のセガンティーニ展の図録の表紙が、全く同じ絵ではないものの、私の初発の戸惑いのそれと見事に対応していることに驚かされる。
 旧図録の表紙は、図1とまったく同じ構図にもう一人の母がくわえられたやはり《よこしまの母たち The Evil Mothers》(年期なし〔1896~1897〕、油彩、ズグラッフィート、厚紙、40×74cm、チューリッヒ美術館) [10] と名づけられたものである。「セガンチーニ ―アルプスの牧歌と幻想―」と銘打たれた展覧会らしくセガンティーニ絵画の「幻想」美にも焦点を当てたものと思われる。
 一方、新図録の表紙は、同じく《アルプスの真昼》(1891年、油彩、キャンバス、77.6×71.5 cm、セガンティーニ美術館) [11] で、図2と完全に同一のモチーフで描かれている。こちらの展覧会は「セガンチーニ ―光と山―」と題されているように、明るいアルプスの光に重心が移っている。
 この二組の対照的な絵は、セガンティーニの画歴のなかでは、ほぼ同時期に描かれており、セガンティーニは二つの非常にかけ離れた(と私には思える)モチーフを同時に抱えていたことになる。


 NHKの日曜美術館の番組の流れは、上述したように「光」(明るさ)をテーマとして進められ、むしろ、若い時の薄暮のような「暗い」絵から後年の《アルプスの真昼》への変化、つまり、千足伸行さん(以後、すべての方の引用での敬称は省略する)が語ったように「音楽で言えば、1オクターブか2オクターブ、パッと高くなるような」[8] 明るさの変化に注目している。
 実際にセガンティーニ展に行って、制作年代順に並べられた絵を順に観ていくと、はっきりと分かることがある。それは、1985,6年頃を境に「薄暮」(暗)から「光」(明)へと明確に画調が変化していることである。

 このようにして、私の戸惑い(混乱)は増えてしまったものの、次のように整理することができた。

(1)時間発展としての転移: 「薄暮」の画家が、いかなる契機をもって「光」の画家へと変貌したのか。環境、精神、表現(技法)のどのような機制がセガンティーニの表現上の変身を支えたのか。

(2)共時的分極: 「光」の画家となった後、目眩くような光溢れるアルプスの風景と、邪悪な母たちが繋がれる暗鬱で過酷な風雪の荒野とが、画家の精神のなかで同時的に存在しうるのはなぜか。いかなる精神性が対極のイメージを抱え込むことができるのか。

 すこし大げさなまとめであるが、上の2点の疑問に答えることで、私の混乱は解消できそうなのである。
 NHKの番組や2冊の図録に収録されている専門家の解説、評論に多くを教えてもらいながらも、上記の二つの疑問については、どうもうまく得心できないでいた。


【時間発展としての転移】

 津田正夫 [12] に従って、少しだけジョヴァンニ・セガンティーニの経歴をおさらいしておこう。

 セガンティーニは、1858年、北イタリアのアルコというところで生まれ、7才の時に母が病死したことに伴い、父に連れられてミラノに移る。ミラノでは、父は出稼ぎで不在となり、、異母兄姉の家に居候する彼は孤独な少年時代を過ごすことになる。家出をしたり、感化院に収用されたりしながらも、17才で美術学校に入学した。
 22才で結婚した後、1881年にブリアンツァ地方のプシアノ、カレラ、コルネーノという村々に移り住む。ミラノ時代とそれに続くブリアンツァ時代が、私が「薄暮の画家」と呼ぶ時期に相当する。
 1886年になって、イタリア-スイス国境のアルプスの地、標高1213mのサヴォニンに移って、しだいに「光の画家」へと変貌を遂げる。1890年になるとさらに高みを目指し、標高1980mのマロヤに移住し、文字どおり「アルプスの画家」となる。

 前述したように、セガンティーニが「薄暮の画家」から「光の画家」へと変わる時期は、1986年前後、ブリアンツァ地方からアルプス地方へ移り住む時期に相当する。
 その画家の変化について、セガンティーニ美術館の学芸員で新図録の共同監修者でもあるベアト・シュトゥッツアーはNHKの番組のインタヴューで次のように述べている(訳は番組のオーバースクリプトによる)[5]

セガンティーニは、光を描きたかったのです。しかし、移り住んだブリアンツァ地方は霞や霧に閉ざされることが多い地方でした。だから、この作品〔《11月の寒い朝》〕のように、ぼんやりとした薄暗がりや、太陽が最後の光を投げかける夕方の情景を描いた作品が多くなることもやむを得ないことだったのです。
                    ベアト・シュトゥッツアー [8]

 つまり、セガンティーニは本来的に「光の画家」であって、ブリアンツァ地方がたまたま暗い地方だったから、やむを得ず暗い絵を描いたのだ、というのである。
 しかし、本当にそのようなことがありうるだろうか。常識的に考えれば、昔から人の住む土地で、太陽が姿を見せない土地などないのである。霧の都と呼ばれるロンドンだって快晴で、夏の陽が射す日は何日もある。
 前出の津田は、セガンティーニの足跡を訪ねて、ブリアンツァ地方の気候風土をこう述べている [13]

ここ〔カレラ村〕は374mの高地で、プシアノ湖を見下ろし、どこをみても春の花いっぱいのところ、これでどこからか麦笛でも聞こえて来たら申し分なしと言う長閑な牧歌的なところだった。
 カレラの家の賃貸契約が切れたので彼等は「コルネーノ」という村に移った。カレラよりも少し高所で、センガチニの望む太陽の光は澄み切った大気を通して強烈に輝いている。
                      津田正夫 [13]

 シュトゥッツアーの語るブリアンツァ地方と真逆のイメージである。もちろん、津田は旅人として訪れているので、たまたまこのような明るい日だったのかもしれないし、津田自身もまた、セガンティーニを本性的な「光の画家」として見ているらしいので、気候風土への思い入れや、強調が含まれている可能性もないわけではない。
 それにしても、セガンティーニが本性的に光を求める画家であるなら、ミラノやブリアンツァ地方において「薄暗がりや、太陽が最後の光を投げかける夕方の情景」をことさら選んで描く、つまり「太陽の光」が「澄み切った大気を通して強烈に輝いている」光景を敢えて避ける、などということはどうしても考えにくい。太陽が強烈に輝く日が年に本当にわずかしかないなら、それを狙って、そんな日の陽光に強く執着して描く方がよっぽど自然なことではなかろうか。
 透きとおるように明るい山岳風景を描く「アルプスの画家」という後年のイメージを動かしがたい前提として、時間を遡ってモチーフや画調の変化を理解しようとすることが、シュトゥッツアーのような解釈にいたる理由であろう。


図4 セガンティーニ《水飲み場にて》 [14]

1881-83年、木炭、紙、キャンバスに貼る、67.5×51 cm、クリストフ・プロヒャー・コレクション。

 むしろ、ここでは素直に、順時間的に考える方がよいのではないか。つまり、母親の死、ミラノでの孤独で荒れた少年時代を経験した青年画家が、図4のような「薄暗がりや、太陽が最後の光を投げかける夕方の情景」をことさら選んで描くことはごく自然なことではないか、と私は考える。
 人は、時間を遡りつつは変われないのである。時間とともに成長し、何ごとかを経験し、何ごとかを発見し、そうして、秘めたる才能に応じて、人は変わる、と私は素直に考えているのである。すなわち、時間発展としての相転移のように、セガンティーニは「薄暮の画家」から「光の画家」へと変貌を遂げたと私は考えたいのだ。
 セガンティーニの変貌について、旧図録の共同監修者でサウスカロライナ大学教授のアニー=ポール・クインザックは、次のように述べている [15]

 彼がサボニーノ〔サヴォニン〕に移った頃には――この移転の動機はもうブリアンツァの景観をすっかり汲み尽くしたと彼が感じた点にある――すでに彼のパレットはずっと明るくなっていた。瀝青はほぼ完全に姿を消し、緑、白、茶という、かつての彼のパレットに特有な三つの基本色は、もっと鮮明な色と交替しようとしていた。
           アニー=ポール・クインザック [15]

 クインザックの見解は、シュトゥッツアーのそれよりはるかにシンプルで、ブリアンツァ時代のセガンティーニの暗いモチーフなどは気にもしていない。「画家としブリアンツァの景観をすっかり汲み尽くした」ので別の場所に移った、というのである。そういった意味では、シュトゥッツアーの考えと矛盾しているわけではない。私の読み過ぎ、穿ちすぎかもしれないが、クインザックは、汲み尽くしたブリアンツァの景観が薄暗ければ描かれた絵も薄暗いだろう、と暗に主張しているとしか思えないのである。
 しかし、私はそのような言を信じることはできない。画家のモチーフと彼が住む環境が相互作用をして、その結果として絵画表現が成立していると考えることは問題ないのだが、暗い地方に住めば暗い絵、明るい地方に住めば明るい絵、そんなふうに芸術家が環境に一意的に依存している、などというのは悪い冗談だ。

 100パーセント純粋な風景画家という存在をごく観念的に想定して、目の前の景観がモチーフのすべて、そして、セガンティーニがそのような画家だと見なせるなら、クインザックの述べていることに異を唱えられない。だが、図1、図4、旧図録の表紙の他に聖母子像やアレゴリカルな《虚栄》のような絵も描くセガンティーニが、そのような抽象的にしか存在できないような風景画家であるはずがない。表出したいと願うモチーフが内在し、外在する景観(環境)となにほどか共鳴して、表現としての絵画が成立する。セガンティーニもまた、そのような画家であったはずだ。
 繰り返しになるが、画家の抱える主題、モチーフが環境の影響を受けないと主張したいのではない。環境の項は重要ではあるが、画家の心性が唯一の変数(環境)で記述されるような単純な1変数関数ではない、ということである。
 とはいえ、セガンティーニの生い立ち(環境)が、ブリアンツァ時代までの彼の絵に暗い色調を与えていることは間違いないだろう。そして、「太陽の光」が「澄み切った大気を通して強烈に輝いている」光景が広がるブリアンツァの環境も、薄暮のようなモチーフに傾く彼の心性を変えることはできなかった、と考えるのがもっとも自然な解釈だと思える。
 したがって、考えなければならないのは、『にもかかわらず、なぜセガンティーニは「明るいアルプスの光の画家」に変わりえたのか』という理由である。その点については、上記のクインザックの記述がきわめて示唆的である。
 クインザックは、セガンティーニの絵はサヴォニンへ移った頃には明るくなっていた、という単純な事実を述べているにすぎないが、その事実を「すでに彼のパレットはずっと明るくなっていた。瀝青はほぼ完全に姿を消し、緑、白、茶という、かつての彼のパレットに特有な三つの基本色は、もっと鮮明な色と交替しようとしていた」と述べている。


図5 セガンティーニ《アルプスの真昼》(図2) の部分拡大図
左:空の一部、中央:雪山の一部、左:草地の一部

 たまたま、「アルプスの画家」の明るい絵の典型としての《アルプスの真昼》(図2)の写真複製を身近において眺めていたのだが、クインザックの記述をベースにして、あらためて見なおすと、明らかに気づくことがある。
 図5は《アルプスの真昼》の写真複製から部分コピーしたもので、それぞれ、晴れ上がった青空、残雪の残る山脈、夏の放牧地の地面のパートである。クインザックの謂う「瀝青、緑、白、茶」が使われているのである。もちろん、これでクインザックの揚げ足取りをしようというのではない。彼が主張しているのは、使用される色の量的な比率、あるいは使用の頻度のことであろうから。
 明るいアルプスの真昼の絵が、濃色の細部を抱え込んで表現されていることは、展覧会で実物を見ると、その絵の具の重なり具合からもっと強く実感できる。また、クインザックは次のようにも述べていて、このこともまた私にとっては示唆的であった。

(……)セガンチーニは、カンバスを茶色の下塗りで覆っており(……)、それが彼の画風(テクスチュア)の濃密さという効果を与えることになる。
           アニー=ポール・クインザック [16]

 つまり、わたしの仮説はこうである。彼は「闇」や「薄暮」の心性を抱えたまま、それを表現に至る内在性として抱えながらも、「光」や「明るさ」を表現する手法を発見し、確立したのだ。瀝青も緑も茶もけっして隠すことはなく「1オクターブか2オクターブ、パッと高くなるような」明るさを表現する技術を手に入れたのである。その手法とは「分割主義」である。千足伸行は、「分割主義」を次のように説明している。

分割主義(Divisionismo)とは読んで字の如し、色彩を分割する絵画技法である。具体的には純粋色(プリズム色、レインボー・カラー)をパレット状で混ぜることなく、細い糸のように平行して置いてゆく技法で、「櫛で描いたよう」ともいわれるゆえんである。
                   
    千足伸行 [17]

 セガンティーニは、明るいアルプスの自然といえども暗い色彩を内包していることを発見したのではないか。画家としての新しい自然理解が、新しい手法とあいまって、セガンティーニに訪れた。そうして、明るい外景を志向する感情と、幼い頃からしみこんでいる薄暮の感情を、全人格的に統一しつつ表現できる手段を獲得したのだ、と私は考える。

人々は、芸術を形式の面から革新しようと意図していた。ところが、形式こそは自然の本当の秘密ではないのか? 自然というのは、純粋に事柄に即して建てられた問題に、正しい解決、事柄に即した解決。論理的な解決をまさに形式によって与えるために待機しているものだからである。
                          ヴァルター・ベンヤミン [18]

 自然が「分割主義」を教え、「分割主義」が矛盾のない心性の表現を教えた。いや、そうではない。それらは一体となって、共時的にセガンティーニの中で達成されていったに違いない。もちろん、そこでは、「闇」や「薄暮」を抱えたまま、というのは正しくない。 「闇」や「薄暮」を否定することなく、超克することができたということではないか。。

光がいちはやく
なぞる道を
闇はすばやくなぞりかえす
ひとつの輪郭をささえながら
比喩とはならぬ
過剰なものを
闇のかたちへ
追い立てながら
         石原吉郎「闇と比喩」部分 [19]


図6 セガンティーニ《死んだカモシカ》 [20]

1881年、油彩、キャンバス、75×100 cm、ミラノ市立近代美術館。


図7 セガンティーニ《死んだノロジカ》 [21]
1892年、油彩、キャンバス、55.5×96.5 cm、セガンティーニ美術館

 濃淡の色彩を並べ、互いになぞりあわせる「分割主義」の技法によって、セガンティーニは「光がなぞる闇」と「闇がなぞりかえす光(の輪郭)」を、一枚のキャンバスの上にともに描きとどめることができたのだ。
 「分割主義」と「光・明るさ」の関係にかかわるもうひとつの典型例を、図6と7の比較で見ておこう。上の二つの絵は、ともに死んだシカが納屋(たぶん)の藁の褥に横たわっているというまったく同じ画題でありながら、そのおもむき、明るさはまったく異なる。
 図6は、ブリアンツァに移る直前のミラノ時代の作品らしく、暗い色調で描かれており、一方、図7はサヴォニン時代に描かれ、分割主義の技法が明瞭に見てとれる。
 上の2枚の絵の典型的な「闇」と「光」の対照を、新図録の解説は、一方が狩りの獲物の静物画(図6)で、獲物の誇示のような絵画的な伝統にしたがって描かれ、他方、図7は、ノロジカの死を「生けるものの死」として画家が向きあって描かれたものだ、という趣旨でなされている。 つまり、この「闇」と「光」の対照は、画家の心性の対照でもある、と理解されるのである。
 先に述べたように、セガンティーニが「光の画家」に変貌するためには、「分割主義」による闇と光のなぞりあいの発見が重要である。それは確かだが、「分割主義」を採用すれば自動的に明るくなるなどという機械主義的なことを言おうとしているわけではない。
 「分割主義」はあくまで「闇」を超克して「光」へと突き抜けてゆくときの機関(エンジン)のような役割を果たしていて、その機関を目的へ向けて駆動する志向性とエネルギー源は必要不可欠である。
 その駆動力の源は、孤独で暗い少年時代をへて、青年画家となったセガンティーニがミラノ、ブリアンツァ時代を通じて家族を形成しえたことではないか。

幼い頃に父母を失い、孤児として家庭の温かさを知らずに育ったセガンティーニにできることといえば、できるだけ早く結婚して自分の家庭を持ち、自分が父となることであった。(……)1880年に知り合った時、セガンティーニ22歳、ビーチェ17歳であった。(……)その2年後には第一子のゴッダルドが生まれ、1883年と1885年にはそれぞれ次男のアルベルト、3男のマリオが、1886年には待望の娘ビアンカが生まれ、ビーチェはここで良き妻であると同時にセガンティーニにとっては亡き母にとって代わる存在ともなった。
               千足伸行 [22]

 そして、久保州子も書いている。

 その間(ブリアンツァ時代)、ゴッダルダ、アルベルト、マリオの息子三人が次々と生まれ、画家としてに華々しいスタートを切る契機となる作品も制作され、セガンティーニは公私ともに充実してきた。

                久保州子 [23]

 生まれいずるわが子(たち)を前に、その未来に光あれと願わない親がいるだろうか。幼年における母の喪失、少年期における父親からの遺棄、異母兄姉からの拒絶、その過程から形成された「闇」を克服することなしに、幸福にも形成しえた自らの家族を「明るい光」の下で守り、育むことが可能であろうか。
 セガンティーニは、こうして「闇」、「薄暮」を超克し、「光」を求める志向性、エネルギーを持ちえたのであり、その心性と「分割主義」技法との奇跡的な調和、共鳴によって「光の画家」へと変貌を遂げたのである。凡庸ではあるが、子であり、父でもある私には、そのようにしか考えられないのである。

 フィクションではあるが、画家としてのセガンティーニの変貌の機制とアナロジカルによく似たストーリーがある。『NARUTO -ナルト-』において、「火の国、木の葉隠れの里」の忍者・「うずまきナルト」がわが身に封印された「九尾の妖狐」に打ち勝ち、超克する話である。 [24]。
 孤児であるナルトは、妖狐・九尾が自身の身体に封印されている忍者で、「人中力」と呼ばれ、いわば化け物として差別を受けながら孤独に育つ。忍者として里の滅亡の危機を救うヒーローになるまで成長するが、その闘いの最中に父である四代目火影(里の長)・「波風ミナト」が顕現し、また、冥想修業の時には母「うずまきクシナ」 が顕在化する。
 九尾はもともと母・クシナに封印されていたのだが、ナルトを出産するさいに封印が解け、クシナは瀕死の状態でナルトを守り、父・ミナトは幼いナルトを信じ、希望を託しつつ、自分の命と引き換えに九尾をわが子に封印する。そうして、両親はナルトの誕生と引き替えのように命を落とす。 幻としての父と母の顕現によって、父と母の死を賭した愛情と、わが子への確固たる信頼によって託された希望として、現在の自分の生があることをナルトは確信する。そのようにしてナルトは、時間を遡って「家族」を発見するのである。そして、そのことによって生まれる強い希望と意思が「志向性」と「エネルギー」となり、修練の賜としての忍法が駆動機関となって、わが身に宿る「妖狐・九尾」を超克し、厖大な「闇のチャクラ」をわが身の力とすることに成功するのである。

 結婚と我が子の誕生という家族形成を通じて、生い立ちがもたらす「闇」、「薄暮」の超克に向かうセガンティーニ、幻の顕現とはいえ、父、母、子の確固とした絆の認識を通じて、身中に封じられた「闇のチャクラ・九尾」の超克に向かううずまきナルト。その転移への契機と機制は、よく似ているのではないかと思ったのである。


[1] ジャック・デリダ(梅木達郎訳)「火ここになき灰」(松籟社、2003年) p. 43。
[2] 「Österreichishe Galerie・Belvedere」 、「国立オーストリア美術館」と訳すらしい。The Duke of Marlbourough, Prince Eugene of Savoy (1665-1736) の住居 Belvedere Palace であった建築物。ウイーンの人たちは、簡単に「Belvedere」と呼んでいるようであった。
[3] 「Prestel Museum Guide: Österreichishe Galerie・Belvedere, Vienna」(Prestel, Munich・Newyork, 2001) p. 135。
[4] 中村稔「新輯・幻花抄」(青土社 2002年) p .67。
[5] 「セガンティーニ ―光と山―」 ベアト・シュトゥッツァー、千足伸行監修(以下、「新セガンティーニ図録」)(NHKプロモーション、2011年) p. 95。
[6] 『日本の古本屋』 http://www.kosho.or.jp/servlet/top
[7] 「セガンティーニ ―アルプスの牧歌と幻想―」 アニー=ポール・クインザック、池上忠治監修(以下、「旧セガンティーニ図録」)(神戸新聞社、1978年)。
[8] 「NHK日曜美術館『もっと光を! もっと高い山へ、セガンティーニのアルプス』」(以下、NHK番組)、NHK・Eテレ、2011年7月31日放送。
[9] 「新セガンティーニ図録」。
[10] 《よこしまの母たち The Evil Mothers》 「旧セガンティーニ図録」 T. 44 (p. 152)。
[11] 《アルプスの真昼》 「新セガンティーニ図録」 p. 94。
[12] 津田正夫「セガンチニ巡礼」 「旧セガンティーニ図録」 p. 173。
[13] 同上、p. 175。
[14] 《水飲み場にて》 「新セガンティーニ図録」 p. 47。
[15] アニー=ポール・クインザック「序説」 「旧セガンティーニ図録」 p. 114。
[16] 同上、p.115。
[17] 千足伸行「アルプスの画家:“魔の山”から“光の山”へ」 「新セガンティーニ図録」 p. 22。
[18] ヴァルター・ベンヤミン(今村仁司・三島憲一ほか訳)「パサージュ論 第1巻」(岩波現代文庫 2003年 )p.356。
[19]石原吉郎「詩集 礼節」(サンリオ出版 1974年) p. 52。
[20] 《死んだカモシカ》 「新セガンティーニ図録」 p. 40。
[21] 《死んだノロジカ》 「新セガンティーニ図録」 p. 100。
[22] 千足伸行「アルプスの画家:“魔の山”から“光の山”へ」 「新セガンティーニ図録」 p. 20。
[23] 久保州子「セガンティーニの足跡」 「新セガンティーニ図録」 p. 167。
[24] 岸本斉史「NARUTO―ナルト―」『週刊少年ジャンプ』(集英社)、アニメ版:「NARUTO―ナルト―疾風伝」(テレビ東京系列)。


【続く】

【ホームページを閉じるにあたり、2012年3月12日に掲載したものを転載した

 

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純化する表現と透明な時間 ――初めて出合ったハンマースホイ(2)――

2019年10月28日 | 展覧会

【2009/10/17】

現在の時間と過去の時間は
おそらく未来の時間の中では現在となる
また未来の時間は過去の時間の中に含まれる。
もし凡ての時間が永遠に現在ならば
凡ての時間は贖うことができない。
かつてあったかもしれないものは
ただ冥想の世界にのみ永遠の可能性を残すひとつの抽象なのだ。
かつてあったかもしれないもの あったものは
ひとつの終局を指している
常に現在というものを。
     T・S・エリオット「バーント・ノートン」部分 [1]

【フッサールの表現論】

 ハンマースホイの絵画に初めて出合ったころ、たまたまジャック・デリダの「声と現象」 [2] を読んでいる途中であった。厳密に言えば、難しかったので再読していたのである。この本は、「フッサールの現象学における記号の問題入門」という副題が示すように、フッサールの「論理学」や「イデーン」における表現や記号の問題を批判的に論じたものである。デリダに興味があり、ついでにフッサール現象学も理解できるのではないかと、甘い期待で読み始めたのだが、現状は残念ながら「虻蜂取らず」のままである。
 「声と現象」の前半は、表現とはいかなるものかについて当てられている。フッサールにおける〈表現〉はギリシャ哲学以来の伝統通りに音声表現を本質と考える。表現における時間性、同時性の問題からそのように措定されるのだが、デリダは〈表現〉をエクリチュール一般へと拡大する。そのため、伝達される内容のずれ、誤配が生じるとするのである [3]
 とまれ、それを読みながら、なにかしらフッサールの〈表現〉についての考えがハンマースホイの絵画表現を読み解くヒントになるように感じたのである。ところが、私はいまだ「論理学」や「イデーン」を読んでいない。デリダに助けられてなんとか大著の「論理学」や「イデーン」のフッサールを、というのがこの姑息な読書の理由なのだ。フッサールについては、「デカルト的省察」と「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」くらいで終わらせるのが、私の現在の余力(たぶん、能力も)だろうとおもう。そのため、ここでは姑息で恥ずかしいのだが、デリダから「孫引き」をしながら話を進めることにする。
 フッサールは〈表現〉を言述に限定して考察していて、絵画表現を直接的に意味してはいないのだが、ここでは表現一般として(つまり、アナロジーとして)考えることにする。フッサールの〈表現〉は人間の言述行為にまつわる様々な不純要因を徹底的に排除することによって成立する。「可視性や空間性は……(中略)……意志の、そして言述(ディスクール)を開始する精神的生気づけの〈自己への現前性〉を失うほかないだろう。可視性や空間性は、文字どおり〈自己への現前性〉の死なのである。」とデリダは要約する [4]
 したがって、『われわれは、表情や身ぶりを(表現から)除外する。表情や身ぶりは……(中略)……言述の協力がなくても、ある人の精神状態が周囲の人々にとって理解可能な「表現」となるようなものなのである。このような表出=外化(エクステリオリザシオン)(Äusserungen)は、言述(Rede)という意味での表現ではまったくない』 [5] ということになる。
 不純物の排除は、さらに徹底して、「心的体験の伝達あるいは表明に属するすべてのもの」を「指標作用の名のもとに、そこから除外する」 [6] 。ここでいう「指標」とは何だろう。「指標という概念を規定してきた、内世界的(ムンダーン)現実存在、自然性、可感性、経験性、連合等々の諸価値は、なるほどわれわれが予測する多くの媒介を通してではあるが、たぶんこの非-現前性の中に、その最終的統一性を見出すことになるのかもしれない。そして、この生き生きした現在の自己への非-現前性は、同時に〈他人との関係一般〉と〈時間化作用(タンポラリザシオン)の自己への関係〉とを特徴づけているのである」 [7]
 言述や発話行為を描画行為、絵画表現と読み変えて、アナロジカルにフッサールの表現論をハンマースホイの画業に適用しようとする私に、デリダは次のような決定的な要約を与えてくれる [8]

……汚染=混淆(コンタミナシオン)は、つねに現実の会話の中で生じるので(表現は、会話においては、直感に対して永久に隠された内容を、つまり他人の体験を指示するからであり、同時にまたBedeutung〔意-味〕のイデア的内容と表現の精神的側面が、そこでは感覚的側面と結びついているのだから)、まさしく伝達作用を持たない言語の中で、独り言の言述(ディスクール)の中で、「孤独な心的生活」(im einsamen Seelenleben)の絶対的に低い声の中で、表現の手つかずの純粋性を追いつめていかなければならない。奇妙な逆説によって意-味は、あるとの関係が中断されるときにだけ、その-現性〔ex-pressivite外に-押し出すこと〕の濃縮された純粋性を抽出することができるのである。

 表現から言述の指標作用を排除して残るものは、純粋な超越論的イデアの表現となるのであろうが、もちろん前述したように、絵画表現にそのまま適用できるわけではない。しかし、私たちが普通に考えている表現というものが多くの非本質的介在物をまとったものであること、それらを排除して真正の〈表現〉が成立するということは重要である。
 そして、〈他人との関係一般〉と〈時間化作用の自己への関係〉が非-現前性を示しても、表現は成り立つ、というよりもそれによってこそ表現が成り立つとフッサールは言っている(らしい)。
 このことは、ハンマースホイの画業の基底をなす心性そのものではないか。顕在的ではないにせよ、ハンマースホイは〈他人との関係一般〉と〈時間化作用の自己への関係〉を表象する事物をカンバスから可能なかぎり排除したうえで、彼の絵画表現を成立させたいと願っていたにちがいない。実際には、そのような心性と「健常」な心性の間を揺れ動きつつ、二つの心性が張る時空上でハンマースホイの画業が成立しているのである。


図1 ハンマースホイ《室内、ストランゲーゼ30番地》 [9]
1901年、油彩、カンバス、62.5×52.5cm、ハノーファー、ニーダーザクセン州博物館


【純化のプロセス】

 その二つの心性の揺動の様子を見てみよう。図1では、テーブル、椅子、ピアノ、花台と花瓶、壁の絵、カーテンそして妻イーダらしい人物(後ろ姿であるが)までもが描かれている。すこし寂しい感じはするが、室内の道具立てはそろっている。
 おそらく、この絵についての鑑賞者の大きな関心は、テーブルやピアノの脚の影が逆向きに描かれ、ピアノの後脚、イーダの左足が描かれていないことなど、きわめて不合理、不自然であることだろうが、ここでは考えないことにしたい。というより、よく分からないのである。時間のたたみ込み(二重の時間の重ね合わせ)があるのか、社会性、日常性の排除の中途半端さなのか、精緻な精神病理学的解釈が必要なのかもしれない。いずれにしても、社会性、日常性の忌避を志向する心性の兆しは見えている。
 次の絵(図2)には、椅子に坐るイーダの後ろ姿だけが室内に存在している。同じ場所を描いた他の絵から判断すると、窓にはカーテン、壁には絵が掛けてあるはずであるが、ここでは描かれていない。


図2 ハンマースホイ《室内、ストランゲーゼ30番地》 [10]
1909年、油彩、カンバス、55.5×60.5 cm、個人蔵


図3 ハンマースホイ《陽光習作》 [11]
1906年、油彩、カンバス、54.5×46.5 cm、コペンハーゲン、デーヴィズ・コレクション

  さらに、図3になると、壁、窓、ドアというこの場所から排除できないものだけが描かれる。あたかも、この部屋で生活が営まれていないかのように。窓の向こうに見えるはずのコの字形の建物の一方も判然としない。
 これが、ハンマースホイによる〈他人との関係一般〉と〈時間化作用の自己への関係〉の表現空間における自己への非現前化へ志向する心性のもっと振れ幅が大きい絵であろう。


図4 ハンマースホイ《白い扉、あるいは開いた扉》 [12]
1905年、油彩、カンバス、52×60 cm、コペンハーゲン、デーヴィズ・コレクション

 もう1点、揺動の極にある絵を見ておこう。図4は食堂から、隣室、廊下を見通した絵である。食堂のテーブルもストーブも壁の絵ももちろん描かれない。図2と図3の対照のように、図4にも同じ部屋に後ろ向きのイーダがいたり、食堂テーブルが描かれたりする絵がいくつか存在する。制作年をみると、一つの心性からもう一つの心性へと移り変わっていったのではなく、揺り返しながら制作されていることが分かる。


【積み重なった透明な時間】

 このようなハンマースホイ固有の絵が、私たちの心に惹起するものは何だろう。何もない寂しさ、孤独感、生活感のない暗さ、暗鬱な北欧の、あるいは北欧人の気分のようなものだろうか。
 それは、累々と積み重なった生活の時間の透明化ではないのか、と私には思える。20 数年前、家の建て替えのため、全ての家財を運び出してがらんとした旧宅の部屋の中に立って、その建屋に住み始めた頃から、子供が生まれ、育ち、そして現在に至る長い時間が、そのときの現在の時間そのもののように感じられたことがある。
 暮らしてきた時間に具体的に存在した家財類がすべて排除されている空間の中でこそ、、そこでの生活に張り付いていた時間が、積み重なり、透明となって現在性としてそこにある、そのような感受が成立していたように思う。

古いさびしい空屋の中で
椅子が茫然として居るではないか。
その上に腰をかけて
編物をしてゐる娘もなく
暖爐に坐る黑猫の姿も見えない
白いがらんどうの家中で
私は物悲しい夢を見ながら
古風な柱時計のほどけて行く
錆びたぜんまいの響を聽いた
        萩原朔太郎「時計」部分 [13]

 たとえば、この詩に描かれる「がらんどうの家」には椅子があり、まだ動いている「古風な柱時計」がある。だからこそ、「編物をしてゐる娘」、「暖爐に坐る黑猫」が想起されているのである。想起される時間の射程が短いのである。 がらんどうの部屋に、現在の生活で使っている道具を置いてみよう。時間はその道具にトラップされ、現在の生活の時間のみを表象するだろう。

 ストランゲーゼ30番地の家は17世紀に建てられ、ハンマースホイは1898年から1909年までここに住んでいる [14]。図3や図4の部屋が描かれた時には、200年以上の生活の時間がそれらの部屋を過ぎていっているのである。何代もの、何家族もの生活の時間を全て見通すには、それぞれの生活に結びつくような事物があってはならない、ということが結果からの逆射として言うことができよう。
 そして、何世代、何家族もの積み重なった時間から抽象され、外化された時間性こそが、フッサールの〈表現〉を絵画表現へ翻訳したものに対応しているのはないか、と私は思う。

あかるいへやのなかに
ちいさなへやがあり
くらいへやのそとに
いくつものへやはひしめき
へやはたがいにかさなりあって
どこの土地や因習にざわめくへやにも
かならずゆかねばならない
へやは まったくぶきみで よそよそしく
いつも どこかのへやのすみで
ひとがやってくるのを
いじわるそうに待っているのは
へやの風だ
       永島卓「毒には毒を食わせてやれ」部分 [15]

 そして、累々と積み重ねられた時間は、その純化、その透明化が徹底されるにつれ、それぞれの部屋固有の積算された時間ばかりではなく、「どこの土地や因習にざわめくへや」につながるように、透明な時空の積み重ねのように変容していく。そこにもし動くものがあるとすれば、それは「へやの風」だけだ。
 ハンマースホイの絵が、累積した透明な時間を私たちの心に惹起するとき、透明であるがゆえに、感受する私たちそれぞれの累積した生活時間の、あるいはまた、父祖からの累積した記憶の時間特有の色に染まった時間として、私たちの心に現前するだろう。それこそが、NHKのテレビ番組で小栗康平が「見る側の想像力を解放している」と評したことの本質だろうと思う。

 ヴィルヘルム・ハンマースホイの絵に出合ったことは、近年の私にとってきわめて重要な事件であった。このような新鮮な驚きを伴った出会いがこの後もあるのだろうか、と思うほどである。これは私の感受力の問題だから、あまり期待できないとは思うのだが、やはり未練がましく再びのなにがしかの出会いを願ってみたりする。

[1] T・S・エリオット「エリオット詩集」(上田保、鍵谷幸信訳)(思潮社 1965年) p. 238。
[2] ジャック・デリダ「声と現象」 林好雄訳(筑摩学芸文庫、2005年)、以下「デリダ」。
[3] 東浩紀「存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて」(新潮社、1998年)。
[4] 「デリダ」 p. 78。
[5] 「デリダ」 p. 78 (出典はフッサール「論理学」第1章、第5節)。
[6] 「デリダ」 p. 82。
[7] 「デリダ」 p. 83。
[8] 「デリダ」 p. 49。
[9] 「ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情」 佐藤直樹、フェリックス・クレマー編(以下、「ハンマースホイ図録」)(日本経済新聞社、2008年) p. 153。
[10] 「ハンマースホイ図録」 p. 61。
[11] 「ハンマースホイ図録」 p. 149。
[12] 「ハンマースホイ図録」 p. 153。
[13] 「萩原朔太郎詩集 青猫」(新潮文庫、昭和30年) p. 230。
[14] 「ハンマースホイ図録」 p. 12。
[15] 「永島卓詩集 I 碧南偏執的複合的私言」(国文社、 昭和48年) p. 42。

【ホームページを閉じるにあたり、2009年10月17日に掲載したものを転載した】

 

 

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揺動する心 ――初めて出合ったハンマースホイ(1)――

2019年10月22日 | 展覧会

【2009/10/16】

【ハンマースホイ展】

 2008年の秋、定年退職を翌春に控えた秋に「大琳派展」を見に上野の国立博物館に出かけた。妻と一緒である。老年に近付くにつれて、尾形光琳や酒井抱一の様式美というか、意匠化された絵画や工芸に惹かれるようになっていたので、楽しみにしていた展覧会であった。
  貯まっている年休を消化したいのと、妻は火曜日だけ休めるということもあって、仕事をさぼっての遊びである。上野駅公園口から向かう道すがらの西洋美術館の看板に、全く知らない画家の展覧会の案内が出ていて、暗い室内を描いた絵のポスターが奇妙に気になったが、そのまま通りすぎた。妻も全く聞いたことがない名前だという。帰り道でハンマースホイという名前を記憶するだけでその日は終わった。
 後日、何気なくテレビのチャンネルを変えていったら、NHK教育テレビの「新日曜美術館」という番組でヴィルヘルム・ハンマースホイを取り上げているのを見つけた。ゲストの小栗康平(映画監督)、国立博物館の佐藤直樹という人の鑑賞、解説を面白く聞かせてもらった。
 司会の壇ふみが「ほとんど何も語っていないのに、でも何かを語っているように感じる」という感想を述べていて、これが「奇妙な構図」、「奇妙な静けさ」を持つハンマースホイ絵画に対する率直でど真ん中の感想のようで、番組はそのような趣旨で進められ、構成されていたようであった。
 たとえば、佐藤直樹さんはフェルメールの強い影響を指摘され、構成のよく似ている室内に立つ婦人像を描いた両者の絵を比べて、フェルメールは人が主題で解釈可能なのに、ハンマースホイの絵は人物ではなく室内のドアが主題のようにさえ見え、解釈が困難である旨の解説をしていた。
 また、小栗康平さんは人物に動きを想像させる要素がないこと、後ろ向きの人物像が多く描かれていることが見る側の想像力を解放しているのではないか、という解釈を示された。テレビ画面を通していくつかの絵を見ながらただひたすら「なるほど」と思いながら見ていたのだった。
 テレビを見た時からハンマースホイ展を見に行きたいという思いが募り、妻におそるおそるそのあたりの気持を匂わせると、意外にあっさり「行ってみたら」というので、ふたたび休暇を取って、今度はひとりで、いそいそと出かけたのである。仕事をさぼっての遊びが後ろめたいこともなく結構楽しいと感じるようになったのはいつ頃からだろうか。年を重ねて、ただただ図々しくなったのだ。 
 さて、「ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情」と銘打たれた展覧会である。相変わらず人の多い東京に閉口しながらも、「奇妙な、静かな感動」の一日だったのは間違いない。ただ、テレビ番組で仕入れた知識や鑑賞の仕方と私の印象には微妙にずれがあって、ちょっとだけ考え込んでしまった。


図1「ヴィルヘルム・ハンマースホイ」展の入場券


【リルケは何を見たのか】

 ギリシャ古代彫刻の素描から始まった展示に早々に出てくるのは《若い女性の肖像、画家の妹アナ・ハンマースホイ》という画家21才の作品で、当時の肖像画の基準に合わないと言うことでコンピティションで落選させられ、デンマークの美術界で論争を引き起こしたとされる油彩画である。
 美術史に素養もなく美術史的な事柄に関心が薄い私には事情はどうであれ、黒い衣服に身を包み、どのような感情も顕在的でないまま、どこか遠くを見つめている19才の少女自体もその絵も美しいと思えた。その「どこか遠くを見つめている」ということが問題だったらしいのであるが、それこそがその絵の、あるいはその少女の美しさの源泉であるとしか、私には思えないのだ。
 そのすぐ後に展示されていたのが《イーダ・エルステズの肖像、のちの画家の妻》(図2)で、この絵を見たマリア・ライナー・リルケがハンマースホイに会いに行ったという解説が付された絵である。


図2 ハンマースホイ《イーダ・エルステズの肖像、のちの画家の妻》 [4]
1890年、油彩、カンバス、106.5×86cm、コペンハーゲン国立美術館

 リルケの詩に惹かれて15才ころから19才くらいまでのあいだ何度も読み返していた私にとっては、当然ながら、この絵のどんなところにリルケが魅せられたのか、強い興味がかき立てられたのである。ハンマースホイとリルケの出会いについては、展覧会に合わせて出版された図録の中でフェリックス・クレマーという人が触れているが、リルケが何に惹かれたのかは残念ながら記されていない [1]
 私の本棚にあるリルケ全集の中の美術論 [2] や書簡 [3] のどこにもハンマースホイの名は見あたらない。簡単な手がかりはないようである。
 この絵には左の瞳が青色、右の瞳が茶色で描かれているという「驚くべき」特徴がある [5]。しかし、私の強い興味を引いたのは、同じ図録の解説に、画家はこの絵を「真っすぐにカメラの方を見つめている」イーダの「写真を元に描いた」にもかかわらず、「彼女は放心しているように虚空を見つめている」と記されている箇所である。
 また、フェリックス・クレマーは、「この画家の、会話を妨げるような固い沈黙に言及している」リルケのことを述べ、さらに、画家が「神経衰弱症に苦しみ、1900年頃には、しばしば診断を受けていたこと」がよく知られており、「デンマークで最初の神経症の画家」と呼ぶ美術史家がいる」と指摘している [1]
 これらはきわめて重要なキーに思われる。これらの指摘が、ヴィルヘルム・ハンマースホイの画業の基底を指し示しているのではないだろうか。
 ハンマースホイは家族、知人の肖像画も、コペンハーゲン市内の建築物を含む風景画も、田園や農家の風景画も、妻イーダがいる室内、いない室内の絵も、絵を描く自画像すらも描いている。つまり、画題がけっしてある範囲に偏っているとは言い難いのである。
 それは、誰もいない室内を静物画とみなせば、画家の日常、周辺を画題としていて、私たち凡庸な人間が画家一般を想像した時、その想像された画家が描くであろうごく普通の画題にすぎない。
 しかし、全ての絵に通底する特徴はきわめて個性的、ハンマースホイ固有的である。それは、どのような絵を描いても、その基盤には、社会性、日常性の拒否への静かな志向性があることである。
 画題の選択、決定に際しては、日常性も社会性も引き受け、その現在性を一心に担っている画家がいる。それは、社会性をきちんと生きようとする画家の努力、または、生い立ちや家族との暮らしがもたらす正しい(とみなされる)知恵として作用しているのだろう。
 ところが、一方で、カンバスに向き合っている表現の時空では、日常的な事柄、周りの事物、人間関係を拒否したい、忌避したいという感情に突き動かされている精神がある。 そのような二重性が、ヴィルヘルム・ハンマースホイに固有、個別的な意味ををもたらしているのではないか。そんなふうに思えるのである。芸術表現と精神病理の問題ということである。
  図2の絵に戻ろう。画家は、写真とはいえ、こちらをしっかりと見つめているイーダを見ていたはずである。「写真に黒鉛で方眼を書い」ていたそうであるから、私たちが物を見る時とは異なり、画家は強く、かつ精細にイーダを、イーダの眼を見ていたに違いない。
 しかし、対象をしっかりと見つめる眼、瞳としてではなく、「放心しているように虚空を見つめている」ように描いたのは、あきらかに画家の心象として像が成立する(描かれる)ためであろう。イーダの眼がどのような対象と切り結ぶことがないように描いたのは、社会性や日常性をまとった現実のいかなる事象からも逃れようとしている画家の精神がイーダの眼の表現へと顕在化しているからだ。
 画家の精神は、イーダを描きながらもひたすら内部世界へ、内在性へと向かっているのではないか。イーダの瞳は、画家の精神の象徴ではないか。それはおのれの実存への固執とも見えないわけではない。

通りすぎる格子のために
疲れた豹の眼には もう何も見えない
彼には無数の格子があるようで
その背後に世界はないかと思われる

このうえなく小さく輪をえがいてまわる
豹のしなやかな 剛(かた)い足並の 忍びゆく歩みは
そこに痺(しび)れて大きな意志が立っている
一つの中心を取り巻く力の舞踊のようだ

ただ 時おり瞳の帳(とばり)が 音もなく
あがると—─そのとき映像は入って
四肢のはりつめた静けさを通り
心の中で消えてゆく
     リルケ「豹」(富士川英郎 訳)全文 [6]

 この豹の眼こそ、イーダの眼、ハンマースホイが現実と向き合おうとしながらも、現実の拒否へと志向する画家の眼そのものではないか。私の遠い記憶では、この詩は実存主義を強く示す詩として大いに論じられたのである。
 ハンマースホイとリルケという同時代人が出会う契機は、「1929年にフッサールが講義し、すぐあとに変更されてフランス語に翻訳され、出版された『デカルト的省察』は、……やがて[ハイデッガーの]『存在と時間』の問題に遭遇する。それは、1935年にサルトルの「自我の超越」という論文を生み出す。」とミシェル・フーコーが指摘するように [7]、実存主義と関係しているだろう。
 絶対的な歴史や世界から語るヘーゲル的精神でもなく、客観理性から議論するカント的精神でもなく、明証的な直感から世界へ向かうエトムント・フッサールや、その弟子で実存主義の祖ともいわれるマルチン・ハイデッガーなどと同時代を生きたリルケが、内在性に沈潜しつつ、そこから表現を立ちあげるハンマースホイの芸術が醸し出す同じ時代の空気、実存主義的感性に共鳴したのではないかというのが、一つの私の推論である。


図3 ハンマースホイ《3人の若い女性》 [8]
1895年、油彩、カンバス、128×167cm、リーベ美術館


 図3の絵は前述のNHK番組でも取り上げられ、詳しく解説されたものの一枚である。3人は画家の家族で、左から義兄の妻インゲボー、妻イーダ、妹アナである。画家に近しい家族が集まりながら、それぞれは誰とも眼を合わせず、図録の解説は「空間を共有しながらも心理的な接点を持たない3人の女性は、現代社会の象徴ととることも出来るが、それはむしろ、画家から明確な「語り」を徹底的に排除した画家の芸術的志向の必然的な帰結」としている。
 そうなのである。3人の女性が実際に心理的な接点を持たないのかどうかはわからない。解説の前半部の記述はさておき、画家は3人の像が目を合わせたり、触れたり、表情を交わしたりする日常の家族が持つ関係性を排除している。現実の時間にまつわる可能な物語性を拒否しているのである。
 ここでも、リルケはハンマースホイと同じカンバスに向き合っているかのような詩を残している。

ごらん ふたりが同じ出来事を
別々に身につけ べつべつに理解するのを
それはまるで異
(ちが)
った時間が ふたつの
同じ部屋をよぎってゆくかのようだ

    リルケ「姉妹」(富士川英郎 訳)部分 [9]

 おのれの実存に正しく向き合う者は、内面の表現を同じくする。ひとりは精神病理のゆえに、ひとりは精神の言語化の辛い作業のゆえに--というのは言い過ぎだろうか。
 そして、物語性の排除(というよりも物語性の忌避というのが正確だろう)は、図2の場合と同様に、モデルとしての3人の側の在りようの問題でも、画家と3人の関係の在りようの問題ではない。ただ、ひたすらに社会性、日常性を避けたいと強く志向する画家の心性のもたらす結果であるだろう。
 図2における結婚前のイーダは、当然のように画家の愛の対象であったろうし、この絵の3人も、普通に幸せな家族を形成していると考えて何の不思議もない。前述したように、現在性がもたらすあらゆる社会性の忌避は、ハンマースホイの全てに通底しているのはないか。
 我が家の室内を描く時には、妻イーダが登場するのはごく自然だが、そのほとんどは図1のように後向きか、横向きでもその表情は判然とは描かれず、そしてついに室内は無人になるのである。
 風景画には人の姿は登場せず、現在の日常を示唆する事物もほとんど現れない。市内の城も農家も自然の一部であるかのように描かれる。あの精神を病んでいるようなユトリロですら、ゴミのような描写であれ、風景画に人物の点描を添えているのに。
 そして、これらは画家の時間的発展として現れるのではなく、画業の全プロセスにおいて、全ての画題に向き合おうとする〈健全〉な社会性を持つ画家と、現在性、社会性にまつわる物語を忌避しようとする引きこもりのような心性のもとで表現に向かおうとする画家との二重の存在として、ふたつのかけ離れた心性の間をきわめて大きな振幅で揺れ動く画家の描いた絵として私たちに立ち現れてきているのである。この揺動こそがハンマースホイの固有性であり、結果的にリルケの実存主義的表現意識に強く訴求したものだと考えられる。
 国立西洋美術館のキュレーターである佐藤直樹氏は、前述したように、17世紀オランダの画家ヨハネス・フェルメールの影響を示唆している [10]。指摘のように、ハンマースホイの《手紙を読むイーダ》という作品は、フェルメールの《手紙を読む青衣の女》ときわめて親近性が高い構図をしている。構図だけを取り上げれば、鏡映対称であるようにすら見える。しかし、イーダの顔から表情は読み取れず、手紙を読むという人間の行いに関係するであろう事象は一切描かれていない。  一方、フェルメールでは旅行中である夫(あるいは愛人)を示唆する地図、その関係性を強く示唆するように妊娠姿(そうではなく単なる流行のスカートがそう見えるだけだとする説もある)の婦人が描かれ、その日常性、物語性は過剰なまで表現されている。
 フェルメールの絵における物語の過剰性は、「真珠の耳飾りの少女(青いターバンの少女)」1点から1編の映画が制作されるほどに私たちを物語想像へかきたてるのである [11]
 ここに、佐藤氏が指摘しているように、ハンマースホイとフェルメールの解釈不可能性、解釈可能性という大きな差異が現れる。残された作品の少ないフェルメールにも室内に人物を配置した絵は多いほうで、ハンマースホイの室内画との類似性を探せばもっとあるに違いないし、画法の影響関係も議論できるだろうが、しかし、それは専門的な絵画技術の問題で私の手には負えない。
 ハンマースホイとフェルメールの二人はその目指す表現において全くの対極に位置している、と私には思える。フェルメールは、徹底した17世紀の風俗の画家であって、物語性こそが彼が絵に込めた価値の重要な一つであるだろう。そのため、彼は《二人の紳士と女》や《取り持ち女(放蕩息子)》のような官能的な性愛を顕在的に表現する物語も描くのである [12,13]
  ハンマースホイは、これまで明らかにしたように、物語性どころか、ささやかな日常性を示唆するような事物、眼差しのように人と人との関係性を表象するものですら、可能であれば忌避したいという強い心性のもとで表現しようとしている。たとえ、人物画を描いている時でも。
 ハンマースホイの画題がどのようにして生まれてきたか、小さいけれども私なりの結論に達したと思う。次の問題は、大きな二つの心性を揺動する表現がどのようにして高い芸術性を獲得したのか、という点にある。

 

[1] 「ヴィルヘルム・ハンマースホイ『静かなる詩情』佐藤直樹、フェリックス・クレマー編(以下、「ハンマースホイ図録」)(日本経済新聞社、2008年) p. 11。
[2] 「リルケ全集」第8巻 富士川英郎編(彌生書房、昭和37年)
[3] 「リルケ全集」第10, 11巻 富士川英郎編(彌生書房、昭和36年)。
[4] 「ハンマースホイ図録」 p. 49。
[5] 「ハンマースホイ図録」 p. 48。
[6] 「世界文學大系53 リルケ」(筑摩書房 昭和34年)p.83。
[7] ミシェル・フーコー「生命─経験と科学」(廣瀬浩司訳)(「フーコー・コレクション6 生政治・統治」小林康夫、石田英敬、松浦寿輝編、筑摩学芸文庫、2006年) p. 422.
[8] 「ハンマースホイ図録」 p. 93。
[9] 「世界文學大系53 リルケ」(筑摩書房 昭和34年)p.101。
[10] 「ハンマースホイ図録」 p. 33。
[11] 「真珠の耳飾りの少女」トレイシー・シュヴァリエ原作、ピーター・ウェーバー監督(イギリス、2002年)。
[12] 尾崎彰宏「西洋絵画の巨匠⑤ フェルメール」(小学館、2006年)。
[13] 朽木ゆり子「フェルメール 全点踏破の旅」(集英社、2006年)。

【ホームページを閉じるにあたり、2009年10月16日に掲載したものを転載した】

 

 

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『ムンク展――共鳴する魂の叫び――』 (東京都美術館)

2018年12月13日 | 展覧会

【2018年12月4日】

 混雑しているのではないかと心配していたが、ほどほどの観客で人酔いもせず見ることができた。さすがに《叫び》の前だけは立ち止まらないようにという指示があったが、ゆったりしていたので何の不満もない。
 展示は、自画像を中心とする「ムンクとは誰か」というコーナーに始まって、「家族――死と喪失」と続き、「夏の夜――孤独と憂鬱」のコーナーに入ったあたりで、エドヴァルド・ムンクは風景画を描かなかったのではないかと思い始めた。ムンクは人間存在、実存をめぐる心性を主要なテーマとして画業に邁進したのではないかと思ったのだが、それはそれでこれまでの私が抱いていたムンクのイメージにふさわしいような気がした。じつは、次々と続く主題別のコーナーの最後の方に「躍動する風景」があって、私の思い込みはまったくの間違いだったのだが、それでもムンクの心の中では風景は主要な主題ではなかったのではないかという思いはなかなか消えそうにないのである。

【自画像】
 ムンクは生涯にわたって多くの自画像を描いたのだという。私はいつも画家が自分自身を描くということに興味を持って眺めているが、自画像というものに定かなイメージや意味合いを持っているわけではない。多くの画家が自画像を描いているので、画家というものは自画像を描くものだというごくつまらない感想に落ち着きそうだが、太平洋戦争で早逝した靉光の自画像の衝撃、ゴッホの一連の自画像のもつ(私の)感情への訴求力などは、自画像が私などが想像するよりはるかに深くて重い意味を有していることを思わせる。

 哲学的に言えば、自画像を描くことは思考における〈対自〉として自己認識、人間認識へ向かう作業といってよいのかもしれない。そういう意味では、自画像を描く意味、自画像を描くことがもたらすものは画家それぞれに固有のものだろう。未来のない戦場へ赴く靉光の自画像と、精神を病むゴッホの描く自画像が同じ意味、役割を持っているとは考えにくい。私が、自画像全般に共通する意味を見つけられないのは当然と言えば当然なのである。


左:《自画像》1882年、油彩、紙(厚紙に貼付)、26.5×19.5cm、
オスロ市立ムンク美術館 (図録、p. 46)。 

右:《青空を背にした自画像》1908年,油彩、カンヴァス、60.0×80.5cm、
オスロ市立ムンク美術館 (図録、p. 32)。


左:《家壁の前の自画像》1926年、油彩、カンヴァス、92.0×73.0cm、
オスロ市立ムンク美術館 (図録、p. 35)。 

右:《自画像、時計とベッドの間》1940-43年,油彩、カンヴァス、
149.5×120.5cm、オスロ市立ムンク美術館 (図録、p. 195)。

 多くの自画像の中からムンクが19歳、45歳、63歳、77歳の時の作品を選んでみた。個人展ではいつも思うことだが、ムンクもまた確かな描写力のもとで画家として出発したことは、19歳の《自画像》に明らかである。
 《青空を背にした自画像》は、図録に「この自画像を描いた1908年という年は、ムンクの人生のターニング・ポイントとなった」(図録、p. 32)と解説されている。「ヨーロッパ大陸中を絶え間なく旅し、 住まいを変え続けてきた10年以上もの放浪生活を終え」たものの、「神経衰弱に苦しんだのち、コペンハーゲンの診療所に数ヵ月にわたって入院した」年だったという。それまでの暗く暗鬱な印象を与える色調から、この絵の空の描写に見られるような明るい色彩へと変わったということである。
 ムンクの自画像群の中では、《家壁の前の自画像》に強く惹かれる。63歳という年齢で、自信も苦悩も成熟して、いわば確固たる人格と化しているという印象を受ける。緑色を含む色彩と陰翳で描かれる頭部は、あたかも老成しつつある人格の豊かさ、複雑さを表象しているように思う。
 《自画像、時計とベッドの間》は、80歳で死ぬまでの最後の3年間に手がけた作品ということに興味が惹かれる。室内の全身像という自画像はとても珍しいように思うが、そのせいか作品を前にしたときには自画像という印象はあまりなかった。また、図録解説を読むまで、この絵が持つ象徴的な意味合いについても気づかなかった。時計とベッドは、人生と死を象徴し、右端の壁に掛けられた裸身像は、ムンクの尽きない性愛への関心を示していると指摘されている。
 自分が生きている居室の情景と自らの老いた全身を描くことで、いわば自らの人生そのものを象徴的に表現したということということだろう。

【病と死】
 ムンクが5歳のとき母親は結核で死亡、14歳のとき姉ソフィエも同じ病気で亡くなった。そのような喪失経験を基調として、最愛の人々の死や病を主題とする作品が「家族――死と喪失」というコーナーに集められていた。


上:《死と春》1893年、油彩、カンヴァス、73.0×94.5cm、
オスロ市立ムンク美術館 (図録、p. 51)。 

下:《病める子I》1896年,リトグラフ、57.5×69.5cm、
オスロ市立ムンク美術館 (図録、p. 55)。

 死を主題とする作品には、リトグラフやエッチング・ドライポイントなどのモノクロームの作品が多かった。その中で《死と春》は奇妙な明るさが満ちた油彩画として目をひいた。死者が横たわるベッドや装束がやや明るめの色調で、死者の顔色もさほど死者らしいわけでもない。
 何よりも窓外の景色が春の光に溢れている。解説は、「死」と「春」とを「死と新しい生命」あるいは「現生と来世を分かつ死」と「誕生と死滅を永遠に繰り返す転生的な生」を象徴的に対比させていると見る。私は私で、どのような華やかな春の日にも死は厳然として訪れるのだ、という人間の諦めや絶望とも言える悲しみの表現としてこの絵を受け止めた。
 姉ソフィエの死に至る病を主題とした《病める子》という作品群の中に、《病める子I》と題されたまったく同じ構図のリトグラフ作品が2点展示されていたが。一方は赤みを帯びた線描で、もう一方は黒のみの線描である。私には黒白の陰翳のみで表現された作品の方が格段に死にゆく少女の実在感と画家の悲しみを表現していると感じられた。

【性愛と別離】
 「性愛」と勝手に名付けてみたが、これは《接吻》というシリーズと《吸血鬼》というシリーズの作品群を見たとき、それらに共通する主題であると思ったからである。


左:《接吻》1895年、エッチング・ドライポイント、49.7×39.0cm、
オスロ市立ムンク美術館(図録、p. 110)。 

右:《吸血鬼》1916-18年,油彩、カンヴァス、83.0×104.5cm、
オスロ市立ムンク美術館 (図録、p. 115)。

 《接吻》と《吸血鬼》と題された作品群は、「接吻、吸血鬼、マドンナ」と並列表記されたタイトルのコーナーで、高次のカテゴライゼーションが難しいということかもしれない。
 《接吻》には抱き合い接吻する男女が窓辺や浜辺あるいは背景なしで、着衣であったり裸体であったりというヴァリエーションがあるが、私には上のエッチング・ドライポイントの作品がもっともその情緒を伝えているように思えた。
  《吸血鬼》に描かれている血を吸う裸女(吸血鬼)と血を吸われる男の間には恍惚とした陶酔感があるのではないかと私には感じられ、《接吻》と同じようにこれらも「性愛」が主題ではないかと思ったのである。解説にも「さらに踏み込むならば、単なる生と死の激しいせめぎ合い以上のものが見えてくるかもしれない。女が抱擁する姿に欲望の感覚を見てとることもできる。彼女は恋人を癒し、護っているのだろうか。男のほうは、吸血鬼の両腕に身を委ねている。」(図録、p. 114)とあって、私が受けた印象があながち的外れということでもなさそうである。


左:《別離》1896年、油彩、カンヴァス、97.5×128.5cm、
オスロ市立ムンク美術館
(図録、p. 133)。 
右:《魅惑II》1896年,リトグラフ、44.5×70.0cm、
オスロ市立ムンク美術館
(図録、p. 134)


《すすり泣く裸婦》1913-14年、油彩、カンヴァス、110.5×135.0cm、
オスロ市立ムンク美術館 (図録、p. 143)。

 「接吻、吸血鬼、マドンナ」というコーナーの後に、文字通り愛(性愛)に関する作品を集めた「男と女――愛、嫉妬、別れ」というコーナーが設けられていた。
 《別離》という作品の前で少しばかり考え込んだ。別れる男女は互いに背を向けあっている。男は別れの悲しみに打ちひしがれているようだが、女の姿勢は意を決したように歩き出そうとしているように見える。しかし、女は浜辺の砂と溶け合うような色彩で描かれていてその存在が希薄に描かれている。あえて言えば「消えるように立ち去っていく」ということなのだろうか。
 私が考え込んだ不思議は、じつはそのことばかりではない。女の長い金髪の半分ほどだけが男の方へ長く不自然に靡いているのである。なぜこのような不自然な姿に描いたのだろう。決然と別れていく心性の中に未練のようなものが残っていることを顕わしているのだろうか。
 《別離》に続いて《魅惑II》、《別離II》、《女の髪に埋まる男の顔》といういずれも男女の頭部を中心に描かれた作品が展示されていた。《魅惑II》では女の髪が向き合った男を抱くように伸びている。《別離II》では背を向けあった男の肩を後方に伸びた女の髪が覆っている。《女の髪に埋まる男の顔》ではタイトルそのままに女の左半分の髪が男の頭部を覆っているのである。
 ムンクは、愛し合う男女の心のつながりがあたかも女性の髪を通じてなされているような象徴的表現をしているのだろう。私にはそうとしか思えなかったのである。とすれば、《別離》で描かれた後方に伸びる女の髪が意味しているのは未練などではなくて、今まさに男の肩から髪が離れてしまったところを描くことで愛の終わりを表現したということなのかもしれない。
 しかし、ここでもう一つの疑問がわく。「愛する」ことも「愛を終わらせる」ことも、髪で抱いたり、抱いていた髪を解いたりする女が主体的に行っているようにしか見えない。男は一体何をしているのか。なぜ、愛は女から一方的に与えられるものなのか。そういう疑問が残ったままである。

 《すすり泣く裸婦》はモデルを用いて描いたものと思われる作品群の中で際立って目立っていた。絶望といえるほどに悲しみにくれているその情感が際立っていたということなのだが、表現されたエロティシズムの強度にも驚いたのである。濃密な赤いベッドの上で泣く女と、描かれてはいないが、傍らにはきっと裸の男が呆然と立ち尽くしている姿を想像してみる。いや、そうであるべき男の不在を嘆いているのだろうか。様々なことを想像させる絵ではある。

【近代的自我】
 
ムンクの代表作《叫び》については多くの言葉が費やされているだろうから、私などの贅言は無用だろう。ただ、ムンクの表現しようとする不安や苦悩は、「近代的自我」の形成に随伴するものだろうという想定は私の中からは外せない。


上:《グラン・カフェのヘンリック・イプセン》1902年、リトグラフ、
51.6×66.4cm、オスロ市立ムンク美術館 (図録、p. 59)。

 
下:《フリードリッヒ・ニーチェ》1906年、油彩・テンペラ、カンヴァス、
201.0×130.0cm、オスロ市立ムンク美術館 (図録、p. 152)。

 肖像画の中に、いわば近代的自我を象徴するような人物が含まれていたのが興味深かかった。もとより、私にはムンクの自我形成にどんな人物、思想、芸術が強い影響を及ぼしたのか詳らかにする知識はない。だが、一般的な意味で『人形の家』を書いたイプセンと「神は死んだ」と語るニーチェを「近代的自我」を象徴する芸術家、思想家と見なすことはできるだろう。彼らとムンクの間にどのような交流があったか私にはわからないのだが、少なくともニーチェやイプセンと同じ時代の空気を吸って生きていたのは間違いない。
 ニーチェの肖像画がこの後に示す《叫び》や《絶望》と同じような空を背景に描かれているのは、ニーチェが精神を病みつつ死んだことを思えばことさら印象深い。フーコーではないが、「狂気」もまた近代的自我を表象する心性の一つであろう。

【苦悩、そして叫び】
 《メランコリー》は「夏の夜――孤独と憂鬱」というコーナーに、《叫び》と《絶望》はその次のコーナー「魂の叫び――不安と絶望」に展示されていた。あたかも憂鬱が不安へ、不安が絶望へと変化していく人生を暗示しているような展示だった。


《メランコリー》1894-96年、油彩、カンヴァス、81.0×100.5cm、
コーデ(KODE)、ラスムス・メイエル・コレクション、ベルゲン
 (図録、p. 67)。


左:《叫び》1910年?、テンペラ・油彩、厚紙、83.0.5×66.0cm、
オスロ市立ムンク美術館 (図録、p. 95)。 

右:《絶望》1894年,油彩、カンヴァス、92.0×73.0cm、
オスロ市立ムンク美術館 (図録、p. 134)。

 《叫び》というタイトルで同じ主題の作品が数点あることは私も知ってはいたが、それは、図録に収められた水田有子の論考によれば、次のような事情によるものらしい。

当時センセーショナルな反応を巻き起こしたこの問題作が注目を集め、発注者が現われるたびに描き、手放すという「現実的な動機」が確かにあったのである。しかし見逃してならないのは、ムンクが作品の「源泉」を自分の生い立ちに求め、何度も同じ作品の制作に取り組んだ点、自身の芸術の独自性を同一主題のヴァリエーションによって伝えようと思考を巡らせた点にこそある。彼にとって再制作とは単なるコピーを意味するものではなく、ある必然性をもった繰り返しなのであった。 (図録、p. 19)

 最初の《叫び》は、1893年に制作され、オスロ国立美術館が所蔵していて、今回展示されているオスロ市立ムンク美術館所蔵の作品はそれから17年後の1910年ぐらいに再制作されたものと推定されている。制作年が正確に確定できないため「1910年?」と表記されている。
 私はムンクを「悩める芸術家」とか「近代的自我の苦悩を表現した画家」などと漠然と考えていたが、《叫び》などの有名作品を再制作する「現実的な動機」は、画家を職業として生きるムンクの生き方そのものによるらしいことを、図録に寄せたヨン=オーヴェ・スタイハウグの論考が記している。

実際のムンクは、非常に多作で成功した芸術家であると同時に実業家の精神も備えていた。彼は、唯一の目的かつ真の仕事、つまり偉大な芸術を創作し、それによって認められるということに全人生を捧げ、膨大なエネルギーを注いだ。ムンクは各地での展覧会の計面を立て、パトロン、コレクター、美術館館長、親しい友人ら自分をサポートしてくれる人たちとのネットワークを築くことで、芸術家としての野心を実現しようとしたのである。(図録、p. 11) 

 近代的自我の苦悩を表現しえた画家は、また近代資本主義社会をたくましく生き抜いた職業人でもあったのである。どんな優れた芸術家も時代を超えることはできないのだから、「ムンクが近代資本主義を生き抜く」などいうことは言わずもがなではある。
 1893年に最初の《叫び》を製作し、その翌年にはまったく同じ構図で前景の人物だけが異なるような《絶望》を描いたときにも「現実的動機」なるものが制作にあたる契機の一部であったのだろうか。

【人のいる風景、いない風景】
 上に挙げた《メランコリー》という作品は、「夏の夜――孤独と憂鬱」というコーナーに展示されていた。そのコーナーには、海岸を背景とした人物が描かれている作品が多く展示されていたが、背景そのものはどこの海岸と指定できない画家の想念上の風景である。
 私が美術展会場で歩を進めながら「ムンクは風景画を描かなかったのではないか」と思い始めたのは《メランコリー》のように人物の背景に想像上の風景を配しているのを眺めたあたりからである。ムンクは人物に主要な関心を寄せていて風景にはあまり気を遣っていないのではないかなどと思ったのだった。


《太陽》1910-13年、油彩、カンヴァス、163.0×205.5cm、オスロ市立ムンク美術館
(図録、p. 171)。


左:《星月夜》1922-24年、油彩、カンヴァス、120.5×100.5cm、
オスロ市立ムンク美術館 (図録、p. 185)。 

右:《庭の林檎の樹》1932-42年,油彩、カンヴァス、100.5×77.0cm、
オスロ市立ムンク美術館(図録、p. 189)

 そうした私の想像は、「躍動する風景」というコーナーにさしかかったときに潰えたが、それでもまた異なった感想が生まれたのである。
 人物が描かれていない風景画は二点しか展示されておらず、その内の1点が《太陽》である。この絵の躍動感にとても惹かれたものの、風景画という印象は受けなかった。太陽が主題の風景画というのは私の記憶にはまったくない。図録には、この絵の制作の動機としてオスロ大学の式典用ホールの装飾画の注文があったと解説されている。そこには「この太陽のイメージを生成的な力と生命の爆発の象徴として生み出した」(図録、p. 170)とも記されている。岡本太郎の絵を評する言葉とそっくりで、ますます風景画というカテゴリーから遠ざかってしまうようだ。
 風景画として「画家の晩年」という展示コーナーから2点取り上げてみた。《星月夜》には前景に立つ二人の人物の影が前方に長く伸びている様子が描かれている。《庭の林檎の樹》ではリンゴの樹と家との間の芝生らしきところに二人の人物が小さく描かれている。この人物の小ささは、パリ市街の風景画を多く描いたユトリロがどの絵にも必ず小さな人物を描きいれたことを思い出させる。
 ユトリロに比べれば、ムンクの人間への関心がよほど大きいことは、「躍動する風景」に展示された《真夏》や《水浴する岩の上の男たち》などの作品は、どちらかといえば人間が主題としか思えないし、《疾駆する馬》に至ってはタイトル通り御者と馬が主役であることからも推測される。
 

[1] 『ムンク展――共鳴する魂の叫び――』(以下、図録)(朝日新聞社、2018年)。


 

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『ピエール・ボナール展』 国立新美術館

2018年09月29日 | 展覧会

【2018年9月28日】

 乃木坂駅からエレベーターで地上に出ると入場券売り場が閉まっている。案内の人に尋ねると、「そこで買ってください」と無人の売り場を指す。暗くて見えなかっただけで、よく見れば確かに中に人がいて売り場は開いている。
 この美術館に何回通っただろうか。入場券売り場に一人も並んでいないというのは、初めての経験だった。ただそれだけのことで、入場券売り場が閉まっていると誤解したのだ。たまに東京に出て来てみる美術展ではいつも混雑に悩まされていたので、まったくその逆のありようは想像の埒外だった。ましてやボナールがマイナーな画家であるはずはないのだから、私がうろたえて勘違いしたのも、故のないことではない(と思う)。
 私にはボナールだけの美術展は初めてだが、印象派のコレクションを展示した『ワシントン・ナショナル・ギャラリー展』で、中でも最も充実したコレクションとして独立したコーナーで紹介されていたのがピエール・ボナールとエドゥアール・ヴュイヤールで、それぞれ10点ほどの作品が展示されていた。
 そこでは、ナビ派のボナールとヴュイヤールを「ゴーガンやセザンヌらポスト印象主義の先駆者たちを飛び越えて印象派から直接引き継いだ、驚くほど多くの共通点が残存」[1]しているアンティミストの画家と紹介されていて、この二人を印象派の画家たちから峻別する眼を持たない私は妙に納得したのだった。

 展示は、「日本かぶれのナビ」と題されたコーナーから始まっていた。ナビ派にはボナールやヴュイヤールのほかにモーリス・ドニ、クリスティード・マイヨール、フェリックス・ヴァロットンなどが加わっていたのだが、彼らは写実主義的なものを拒否していることは確からしいが、それ以外に彼らをナビ派としてカテゴライズする共通性が私にはよくわからない。
 図録解説によれば、「〔ポール・〕セリュジェがポン=タヴェンで先輩画家ポール・ゴーギャン(1848-1903)の教えを受けて描いた小品を、アカデミー・ジュリアンの仲間たちに見せたことをきっかけに、ナビ派が誕生」し、「多くの画家が加わり、流動的な共同体としての趣が強かった」ものの、「セリュジェが持ち帰った《タリスマン(護符)、愛の森を流れるアヴェン川》は、黄、赤、緣といった色斑で構成されており、再現的描写ではなく、色彩という等価物によって対象を暗示することに力点が置かれている。当時のパリを席巻していた象徴主義の影響下で試行錯誤していた若き画家たちがこの絵の美学のもとに集い、ボナールも身近な主題を平坦な色面を組み合わせて描き出すことに没頭していった」[図録、p. 34] のだという。
 そう言えば、3年前に『ゴーギャンとポン・タヴァンの画家たち』という美術展でナビ派設立の契機を担ったポール・セリュジェのほかにモーリス・ドニの作品も5、6点ずつ展示されていた。
 『ゴーギャンとポン・タヴァンの画家たち』、『ワシントン・ナショナル・ギャラリー展』と本展で、ゴーギャン、ポン・タヴァン派、ナビ派と続く時代の流れを粗っぽくながら追うことができそうである。


【左】《庭の女性たち―格子柄の服を着た女性》1890-91年、デトランプ、
カンヴァスで裏打ちされた紙(4点組装飾パネル)、160.5×48cm、
オルセー美術館 (図録 [2]、p. 38)。

【右】《砂遊びをする子ども》1894年頃、デトランプと紙、カンヴァス
(装飾パネル)、167.5×51cm、オルセー美術館 (図録、p. 47)。

「日本かぶれのナビ」と呼ばれるほど浮世絵に惹かれたボナールは、「浮世絵の明確な輪郭線や遠近表現を自らの絵画に積極的に取り込んだ」[図録、p. 34] 作品として展示されていた《庭の女性たち》4点組のうち《格子柄の服を着た女性》を挙げておく。
 4点組のそれぞれの女性は、たしかに浮世絵によく見られるポーズ(姿態)で描かれている。とはいえ、それらの絵の前で私が想起したのは、ロートレックやミュシャが描くところの広告画の中の女性像だった。どう見てもミュシャの描く女性像とはかけ離れているとしか言えないのだが、どこか意匠化された女性像という印象が強いせいだろう。次のコーナーに「ナビ派時代のグラフィック・アート」という展示があって、ボナールには女性像の意匠化という私の印象は必ずしも無茶な印象というわけではないだろうと勝手に納得したのである。
 たしかに《庭の女性たち》にジャポニスムを見ることはできるが(言われてみればだが)、《砂遊びをする子ども》を見たときの印象ほどではない。《砂遊びをする子ども》は、空間の使い方はまごうかたなく浮世絵の世界である。
 2014年の『ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展』でかなりの数のジャポニスム作品を見たのだが、正直なところ私にとっては感動が多かった美術展ではなかった。西洋の芸術家たちの日本(の美術)理解に何か違和のような感じがあって落ち着かなったのである。その中で、浮世絵の構図、空間(空白)の使い方を積極的に取り込んだ作品(どちらかといえば風景画に多い)には惹かれるものが多かった。その時、空間構成の美しさは、浮世絵を超える(洋の東西を問わない)一般性があるのだろうと思ったのだった。《砂遊びをする子ども》を見て、その感興を思い出したのである。


【左上】《バンジョー奏者》1895年、油彩、板、43×66.7cm、オルセー美術館 
(図録、p. 54)。

【右上】《ランプの下の昼食》1898年、油彩、板で裏打ちされた厚紙、
23.3×31.8cm、
オルセー美術館 (図録、p. 55)。
【左下】《ランプの下》1898年頃、油彩、桟張りされた厚紙、37.4×50.2cm、
オルセー美術館 (図録、p. 56)。

【右下】《ランプの下》1899年、油彩、厚紙、34×44.2cm、オルセー美術館
 (図録、p. 57)。


《男と女》1900年、油彩、カンヴァス、115×72.3cm、オルセー美術館
 (図録、p. 59)。

 アンティミストのボナールが、親しい(近しい)人々と集う室内を主題とすることは何の不思議もないけれども、私が見知っているのは明るいアンティミスムであって、《バンジョー奏者》などのような陰翳の強い主題を描いている作品は知らなかった。
 《バンジョー奏者》では主題である奏者そのものが影絵であり、《ランプの下の昼食》では幼児以外の前景の3人は翳り強く描かれ、幼児の世話をする人物もランプの陰で判然としない。この二作品に比べれば、《ランプの下》と題する二作品は、それほど象徴主義的な物語性が強いわけではない。
 暗い室内で灯火に照らされた人物像というのは、私にとってはとても惹かれる主題である。コントラストの強さが眼差しの向かう先を強く誘導するためだろう。そのような美しさを強く意識しだしたのは、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの《大工の聖ヨセフ》や《ランプをともす少年》などの作品(実物ではなく図録で)見てからのことだった。上の四作品の中で、コントラストによる幼児への視線の集中度の高さで《ランプの下の昼食》にもっとも強く惹かれたのは、そういう理由だっただろう。
 陰翳の強い室内からしだいに明るい室内へと主題が変化してきたのは、ボナールが30歳を過ぎたころかららしい。その一つの例として《男と女》が挙げられていた。情事の匂いがするきわめて大胆な主題だが、画家自身とその恋人マルト・ド・メリニーがモデルと推測されている。
 刺激的な主題ということもあるが、私には衝立で垂直に二分される画面構成に興味が惹かれた。先に挙げた『ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展』で、木の幹で画面を大胆に二分割している歌川広重の《名所江戸百景 神田明神曙景》がジャポニスム作品に与えた影響が取り上げられていた [3] ことを思い出させる作品である。


【左】《浴盤にしゃがむ裸婦》1918年、油彩、カンヴァス、83×73cm、
オルセー美術館 (図録、p. 115)。
【右】《浴盤にしゃがむマルト》1908-10年、モダン・プリント、7.8×5.5cm、
オルセー美術館 (図録、p. 92)。


《バラ色の裸婦、蔭になった頭部》1916年、油彩、カンヴァス、91×46cm、
オルセー美術館 (図録、p. 113)。

 ボナールは、実用化されたばかりの写真機(「カメラ」ではどうも時代の雰囲気が出ない)で多くの写真を撮った。その写真作品群が「スナップショット」というコーナーに展示されていた。それらの写真のなかに、マルトの写真が多く含められていて、中でも《浴盤にしゃがむマルト》は、次のコーナー「近代の水の精(ナイアス)たち」で展示されている《浴盤にしゃがむ裸婦》と強く関連していると思われる。
 ボナールは、マルトをモデルとした多くの作品を描いたらしいが、《バラ色の裸婦、蔭になった頭部》に象徴的に顕われているように、個人としてのモデルは昇華されていわばボナールのイデーとしての〈女性〉を追求したということである。たしかに、展示されている裸婦像作品に描かれる女性の多くは、俯いたり横顔だったり後ろ向きだったりして、顔の造作は判然としない。特定の肖像画を除けば、もともとボナールの人物像は、個人を特定できるようには描かれてはいない。つまり、ボナールは、写実性、再現的描写を超えようとしているということだ。


【左】《テーブルの上の林檎の皿》1910-12年、油彩、カンヴァス、43.3×63.2cm、
オルセー美術館 (図録、p. 134)。
【右】《果物、濃い調和》1930年頃、油彩、カンヴァス、37.7×33.26cm、
オルセー美術館(ルーヴル美術館保管) (図録、p. 143)。

 アンティミストらしい日常の居間、室内を主題とした作品と果物などの静物画が「室内と静物「芸術作品――時間の静止」」というコーナーにまとめられていて、とくに際立った感興もなく(つまりはそれぞれに同じように感心しながら)一つひとつ眺めて行って《果物、濃い調和》の前まできてやっと微妙な違和があることに気づいたのだった。
 果物の質感、存在感は静物画としてまったく問題ない。そうのだが、どうも主題は果物ではないような感じがするのである。皿に盛られた林檎が主題なら、なぜ主役の存在感が薄れるような同じような明度(暗さ)で背景を描くのだろうか。そんな軽い疑問を持ったのだが、理由は、《果物、濃い調和》という画題に示されているようだ。
 図録には「ボナールは静物そのものと同じくらい、静物が及ぼす周囲への干渉と影響関係に意識を向けていた」(図録、p. 142)と解説されていて、ボナールの静物画の主題は、静物そのものよりも静物と周囲の美的調和、色彩的な調和ということなのだろう。
 そんなことに気づいて、後戻りしてもう一度静物画を見直した。たしかに「静物が及ぼす周囲への干渉と影響関係に意識を向けて」描かれただろうということに得心がいった。見直してみると《テーブルの上の林檎の皿》はいくぶん例外のように思えた。ここにはボナールなりの周囲の調和が描かれているのだろうが、《果物、濃い調和》とは異なって、逆光で描かれた林檎が反射光で輝くテーブルを背景として存在感を際立たせている。正直なところ、私の好みは、《果物、濃い調和》よりも《テーブルの上の林檎の皿》の方にある。

 
《日没。川のほとり》1917年、油彩・カンヴァス、40.1×61cm、オルセー美術館
 (図録、p. 162)。


《花咲くアーモンドの木》1946-47年、油彩、カンヴァス、55×37.5cm、
オルセー美術館 (図録、p. 192)。

 展示の後半は、風景画が続く。色彩の調和ということだろうが、平穏で優しい風景が描かれた作品の中で《日没。川のほとり》の色調は際立って目をひいた。筆致はまるで異なるが、色調はナビ派の一人、フェリックス・ヴァロットンの風景画に近いと感じた。
 同じナビ派といえどもボナールとヴァロットンは、人物画でも静物画も風景画でもまるで違う。なのに、なぜか《日没。川のほとり》をみてヴァロットンの絵を思い出したのである。いや、なによりもたくさん並べられているボナールの風景画の中でこの作品の色調が際立って異なっていたのである。私は、ただそのことに目を奪われていただけなのかもしれない。
 展示の最後を飾るのは《花咲くアーモンドの木》である。アーモンドの木はとても粗い筆致で、地の花や草たちは丁寧に塗り重ねられて描かれている。静謐で、そして華やかである。79歳、ピエール・ボナールの遺作である。

 

[1] 秋山菜穂子「「親密さ」の系譜」『ワシントン・ナショナル・ギャラリー展』(読売新聞東京本社、2015年)p. 120 。
[2] 『オルセー美術館特別企画 ピエール・ボナール展』(以下、図録)(日本経済新聞社、2018年)。
[3] 『ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展――印象派を魅了した日本の美』(NHK、NHKプロモーション、2014年) pp. 186-189。


 

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『プーシキン美術館展――旅するフランス風景画』 東京都美術館

2018年05月27日 | 展覧会


【2018年5月25日】

 シスレーやコロー、あるいはブーダンやトロワイヨン、もちろんモネなども含むが、そうした画家の風景画に限定するかぎり、心静かに眺めていることができる。そんな気がするのだが、クールベやセザンヌとなるとざわざわとする感情がわずかに生まれるようだ。それはクールベの写実性やセザンヌの筆致に顕在化しているエネルギーのようなものが伝わってくるからだろうと思う。それはそれで味わいがあるのだが、好みの問題で言えば(断言するにはいくぶんの逡巡があるものの)、私にとっての風景画のスタンダードは、アルフレッド・シスレーあたりらしい。
 風景画というカテゴリーが成立するのはそれほど古い時代ではない。それは『ウィーン美術史美術館所蔵 風景画の誕生』という美術展などを見てもよくわかる。風景は、聖書や神話の物語の背景として描かれる時代が長く続いた。そこに描かれる風景は、絵が表象する物語性のために、シスレーの絵を眺めるようには心静かに眺めていることができない。というよりも、「物語」に心が向いてしまって「風景」が薄れてしまうのである。

 この美術展も、神話や聖書のエピソードを主題とする絵から展示が始まる。


ニコラ・ランクレ《森のはずれの集い》1720年代後半、油彩、カンヴァス、64×79cm
(図録 [1]、p. 53)。


クロード・モネ《草上の昼食》1866年、油彩、カンヴァス、130×181cm(図録、p. 139)。

 ニコラ・ランクレの《森のはずれの集い》は、けっして聖書や神話から主題をとったわけではないが、風俗画とでも呼ぶべき絵のなかに背景として風景が描かれている。図録解説では、この絵を「自然の中に身を置き、遊興に耽る貴族たちの様子」を描いた「雅宴画(フェト・ギャラント)」と見なしている(図録、p. 52)
 「雅宴画」がどのようにカテゴライズされているのか詳細を知らないが、ランクレの《森のはずれの集い》が雅宴画ならば、モネの《草上の昼食》もまた雅宴画ということにならないだろうか。もっとも、貴族の遊興は雅で新興ブルジョワの遊びは雅にあたらないなどということであれば別だが……。
 絵をカテゴライズすることに鑑賞上の意味がそれほどあると思えないが、時代を越えて同じような主題の絵を鑑賞するのはそれなりに面白い。時代をもう少し新しくすれば、ジョルジュ・スーラの《グランド・ジャット島の日曜日の午後》もほぼ同じ主題といっていいだろうが、《草上の昼食》よりもずっと風景画らしさが弱まっている。
 スーラよりもモネと同時代のエドワール・マネのその名も《草の上の食事》という作品を引き合いに出す方が面白いかもしれない。タイトルもほぼ同じ、森の中に敷物をひいてその上で男女が食事をしているという構図もまったく同等だが、女性の一人が全裸でこちらを見ているのである。マネの絵は、私にとっては明らかに「風景画」でも「雅宴画」でもないのだ。
 マネの絵は問題含みである。ミシェル・フーコーは、「印象派を準備することができたものを越えて、クヮトロチェント以来の西洋絵画において基礎をなしていたもののすべてをひっくり返したのだということができる」 [2] とエドワール・マネの絵画を評している。マネの《草の上の食事》をランクレの《森のはずれの集い》やモネの《草上の昼食》と同じカテゴリーに属するとはとうてい思えないという私の印象も、フーコーが指摘したマネの絵の特質に由来しているのだろう。


ギュスターヴ・クールベ《山の小屋》1874年頃、油彩、カンヴァス、33×49cm(図録、p. 99)。

 クールベの《山の小屋》の前に来た時、向井潤吉の妙高山や白馬岳、その山麓の藁屋根の農家を描いた絵を思い出した程度で、心静かに絵の前を離れたのだった。シスレーやコローの風景画とは異なって、クールベの風景画では写実の強靭さにいつも心惹かれるのだが、この絵ではなぜかさほどのこともなく通り過ぎてしまった。
 《山の小屋》への感興は、東京からの帰りの新幹線のなかで図録解説を読んでいたときにじわりと湧き出してきた。解説には、パリ・コンミューンに加わったクールベが政府軍によってコンミューンが鎮圧されたため、やむなくスイスに亡命していたときの作品であると記されていた(図録、p. 98)。それを読んだとき、ふと思いついたのはフリードリッヒなどのドイツロマン派の風景画のことだった [3]
 かなり唐突に、クールベとフリードリッヒの風景画の対比がそのまま「ナチスが生まれるドイツ」と「ナチスに蹂躙されるフランス」という対比に飛躍するのだった。フリードリッヒの風景は、崇高な自然、完全なる神の造形として画家によって「創造」された風景である。自然は、いわば解読されるべき「神の言葉」として捉えられていた。そのような過剰な精神性、絶対性を求める思念の先に、自ら描いた絶対性から外れる存在を徹底的に排除、殲滅しようとするファシズムが生まれるのではないかと思ったのだった。  


アルフレッド・シスレー《霜の降りる朝、ルーヴシエンヌ》1873年、油彩、カンヴァス、46×61cm
(図録、p. 159)。


ポール・セザンヌ《ポントワーズの道》1875-1877年、油彩、カンヴァス、58×71cm
(図録、p. 167)。

 フランスの風景画ということで、当然のことだがシスレーもセザンヌも展示されている。私にとってシスレーは風景画のスタンダードだと書いたが、じつはシスレー、コロー、ピサロなどの風景画は、微妙に見分けがつかないことがある。
 それに引き替え、《ポントワーズの道》もそうだが、会場では遠目でもセザンヌの絵はそれと判別できる。もちろん、それは色や筆致の個性的な使い方によるのだが、そうした特徴をうまく表現できない。セザンヌはセザンヌだと言ってしまえばいいのだろうが、敢えてそれを「色の深度」の違いとでも言えばいいのかもしれない。


アンリ・ルソー《馬を襲うジャガー》1910年、油彩、カンヴァス、90×116cm(図録、p. 216)。

 展示作品にはマティスやヴラマンクの風景画まで包含されているが、中でもアンリ・ルソーの《馬を襲うジャガー》が目を惹いた。ルソーの風景は、風景そのものを超えてしまっている。フリードリッヒは自然の崇高さを際立たせるために風景そのものを「創造」したが、ルソーは美そのものために風景を「創造」しているのだろう。
 この絵の前では、こちらを見つめているらしい馬に視線が釘付けになってしまう。《馬を襲うジャガー》ではなく《ジャガーにおそわれる馬》が正しい主題ではないかなどと考えてしまった。まっすぐこちらを向いている馬の異様な無表情に視線が捉われてしまったのである。


ジャン=ルイ・ドゥマルヌ《街道沿いの農場》1800年代、油彩、カンヴァス、49.3×59.5cm
(図録、p. 77)。

 この展覧会に「旅するフランス風景画」というサブタイトルが付いていたことに気づいたのは、迂闊なことに図録を読んでいる時であった。『プーシキン美術館展』を見に行くと決めたときには、風景画の展示だと知っていたので、私の認識のなかでなぜか「旅」だけが消えていたのである。
 ジャン=ルイ・ドゥマルヌの《街道沿いの農場》は、最初の「近代風景画の源流」のコーナーに展示されていた作品で、どちらかといえば農場の風俗に主眼が置かれた絵のように思える。
 タイトルに含まれる「街道」という言葉に誘起されたこともあるが、旅人の私が田園の中の長い道を辿ってこの農場にさしかかった場面としてこの絵を眺めたのである。いわば、ヴァーチャルな風景として感情移入してしまったようなのだ。リアリティ溢れる想像のようであり、そのような旅への憧れのようでもあった。
 20年近く前、私のもとで初めて博士号を取得してある大学で助教授になっていた教え子と、そのとき博士号を取得しようとしていた大学院生との3人で南ドイツの田舎道を歩いたことを思い出した。どこまで続くのだろうと不安になるような農地のなかのまっすぐな道の先に小さな森が見え出し、その森の端にある農場レストランで昼食をとった思い出である。
 国際会議の合い間のささやかな観光だったが、その時も今も街道を歩きつづけるような旅に憧れているのである。皮肉なことに長いゆったりした時間が必要な旅は、体力がある若いときには仕事が支障になり、時間のたっぷりある現在では体力が支障になってとうてい無理なのだが……。
 いずれにせよ、《街道沿いの農場》はヴァーチャル・リアリティの世界に引き込まれるような感受をした初めての絵のような気がする。絵の魅力がそうさせたのか、旅に憧れる私の心性がこの絵への没入を誘ったのかは判然としない。

 

[1]『プーシキン美術館展――旅するフランス風景画』(以下、図録)(朝日新聞社、2018年)。
[2] ミシェル・フーコー『マネの絵画』 (阿部崇訳) (筑摩書房、2006年) p. 7。
[3] 小林敏明『風景の無意識――C・D・フリードリッヒ論』(作品社、2014年)

 


 

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『「岸田劉生と椿貞雄」展』 宮城県美術館

2018年02月24日 | 展覧会

【2017年8月29日】

 

 岸田劉生の《麗子像》(ヴァリアントがどれほど描かれたが知らないが)ほど私たちによく知られた絵画は少ないのではないか。それほど様々な印刷物で見かける絵画である。そういうことがあると、私(たち)はその絵をよく知っているという気分になる。この気分は、作品を実際に見たかどうかということとは関係なさそうである。
 例えば、ある《麗子像》が出品されている展覧会が東京で開かれたとしても、ほとんどの作品が集められている大回顧展ならいざしらず、仙台から出かけていく気にはなかなかならないだろう。《麗子像》という作品の問題ではなく、よく見知っているという気分がそうさせるのである。これはもちろん、私自身のことであって絵画愛好家がそうであるなどということではない。
 しかし、岸田劉生と椿貞雄のそれぞれの童女像を並べた美術展のポスターを見れば話は別である。ましてや、それが宮城県美術館の特別展なのである。わが家から美術館までは徒歩で5分もかからない。出かけない理由はまったくないのである。

  図録 [1] にしたがって、おさらいをしておく。岸田劉生は1891(明治24)年生まれで、椿貞雄はそれから5年遅れの1896(明治29)年に生まれている。すでに第一線の画家として活躍していた劉生23歳のときの個展を観た18歳の貞雄は、劉生に学ぶことを決意する。劉生が肺結核を患って転地療養で鵠沼に移った時には、貞雄もまた鵠沼に転居するほどの私淑ぶりだった。
 私が注目したのは、1923(大正12)年、劉生32歳、貞雄27歳の時の関東大震災後の二人の生活ぶりである。京都に転居した劉生は茶屋遊びなどの遊蕩にふけり、貞雄は船橋の小学校の教員と慶応義塾幼稚舎の教員を兼任するなど(生活のために)懸命に働く。家庭や、経歴、画家としての名声の違いなど、事情はあるにせよ、この暮らしぶりの違いは注目に値する(そんな気がするのだ)。
 1929(昭和4)年、慢性腎炎を病んでいた劉生が急逝する。劉生38歳、貞雄33歳のときである。その後、椿貞雄はパリ遊学などを経て、1957(昭和32)年、病を得て61歳で逝去した。


【左】岸田劉生《自画像》1913(大正2)年、カンヴァス、笠間日動美術館 
(図録 [1]、p. 22)。

【右】岸田劉生《椿君に贈る自画像》1914(大正3)年、カンヴァス、油彩、
44.0×36.8cm、東京都現代美術館 (図録、p. 28)。


【左】椿貞雄《自画像》1915(大正4)年、カンヴァス、油彩、60.5×45.5cm、
千葉県立美術館 (図録、p. 32)。

【右】椿貞雄《夜の自画像》1949(昭和24)年頃、板、油彩、53.0×45.5cm、
米沢市上杉美術館 (図録、p. 125)。

 椿貞雄が岸田劉生に師事することを決意し、初めて訪ねた際に《自画像》を持参して賞賛され、勧められて出品した巽画会美術展で最高賞を受賞し(図録、p.32)、《椿君に贈る自画像》はそれを記念して描かれたものだという(図録、p.28)
 早逝した劉生の二つの自画像は、23歳と24歳のものであるが、椿貞雄のそれは19歳と53歳ころのものである。言葉で表現するのは難しいが、このように二人の自画像を並べてみると、それぞれの人柄が描かれているように見えて興味深く感じる。
 これはすべての展示作品を見終えての感想だが、自画像にもそれが顕われているだろう。劉生は、ソフィスティケートされ、芸術の質として美を求め、劉生の美に深く心酔する貞雄の美には内なる強い情愛が強く表出さているように思えたのである。
 昨年(2017年)『リアルのゆくえ』という高橋由一や岸田劉生をはじめとする日本洋画における写実性の高い画家たちの絵画を集めた美術展が開かれ、私はそれを見る機会を持てなかったが、手もとにその美術展の図録がある。その中に、劉生の興味深い言葉が紹介されている [2]

装飾のない写実は、本当らしく描くといふ事に止まる。
決して「本当」は描いてない。
その人が美しいと思ったのは、奇麗の程度か、或は概念的な程度に止まる。
形に宿る形以上の領域、それが形に宿つてゐる感じ、
これを形の上に見出すのが、「美」を見る亊である。其処には装飾がある。
これが内なる美化である。
その表現が写実である。
ここに於て、写実といふ語は生きる。
「実」とは、真実の意味となり、美術に於ては即ち美の意味となる。
                                             (「写実論」1920年)

 写実の「実」は、すなわち「美」そのものだという。いくつかの《麗子像》を見ていても感じることだが、劉生は写実を徹底し、さらにそれを突き抜けて「真実=美」を求めている。それは私などには、劉生なりのデフォルメのようにしか見えないこともある。デフォルメは言い過ぎだろうが、創造性(クリエイティヴィティ)に強く突き動かされているように見えるのである。


【左】岸田劉生《画家の妻》1914(大正3)年、カンヴァス、油彩、53.0×45.7cm、
石橋財団ブリヂストン美術館 (図録、p. 27)。

【右】岸田劉生《古屋君の肖像》1916(大正5)年、カンヴァス、油彩、
45.5×33.5cm、東京国立近代美術館 (図録、p. 39)。

 
【左】椿貞雄《母子像》1931(昭和6)年、板、油彩、22.5×15.7cm、
米沢市上杉美術館
 (図録、p. 104)。
【右】椿貞雄《母の像》1938(昭和13)年頃、カンヴァス、油彩、45.5×33.4cm、
米沢市上杉美術館 (図録、p. 119)。

 劉生の描写力(高い写実性)をよく示しているのが《古屋君の肖像》である。カメラなどでは到底表現できない立体感や肌の質感まで表現されていて、展示作品の前で驚いて眺め入った。《画家の妻》もまた、ささやかな手のポーズが深い存在感を顕わしていてとても魅力的な作品である。
 同じ妻の肖像画でも。劉生の《画家の妻》に対して貞雄の《母子像》を並べるのは適切とは言えないかもしれない。そう思いながらもこの絵を選んで並べたかったのは、むしろ非-劉生的な要素を強調したかったからである。筆致が大ぶりなのはけっしてこの作品が小さいことによるばかりではないだろう。そのような描き方で母と子の情愛、それを見つめる夫として父としての画家の思いを表現しようとしたのだと思える。写実性を重んじたと思える《母の像》からも、そのような感じを強く受ける。


【左】岸田劉生《麗子座像》1919(大正8)年、カンヴァス、油彩、72.7×60.7cm、
ポーラ美術館 (図録、p. 54)。
【右】岸田劉生《野童女》1922(大正11)年、カンヴァス、油彩、64.0×52.0cm、
神奈川県立近代美術館寄託 (図録、p. 58)。

 劉生が「これは余の肖像画の中でも最もすぐれたものであらう」と日記に記した(図録、p. 59)という《童女図(麗子立像)》は、この美術展のポスターや図録の表紙に用いられている代表作だが、ここでは《麗子座像》を取り上げた(こちらが単に私の好みだというに過ぎないが)。
 その《麗子座像》の横に《野童女》を並べてみた。この童女は、間違いなく麗子に違いないが、この変容ぶりには驚くしかない。図録解説によれば(図録、p. 59)、中国宋時代の画家、顔輝の作と伝えられる寒山図の構図を現代洋画に持ち込もうとしたということらしい。私のような凡庸な人間には思いも及ばないことだが、愛娘の愛らしさ、美しさを越える芸術の「真実=美」の追求が顕現していることだろう。


【左】椿貞雄《菊子座像》1922(大正11)年、カンヴァス、油彩、60.8×45.5cm、
平塚市美術館
 (図録、p. 60)。
【右】椿貞雄《菊子遊戯之図》1922(大正11)、カンヴァス、油彩、
72.0×59.5cm、
山形大学付属美術館 (図録、p. 61)。

 《菊子座像》も《菊子遊戯之図》も劉生への私淑ぶりがうかがえる作品だが、初めてこれらの作品を見る私は「よもやここまでとは……」と驚くばかりだった。図録に収められている加野恵子の「巨星・岸田劉生とともに歩んだ画家の葛藤と光」という論考によれば、劉生の「追従者」「模倣者」と揶揄されることもあったという(図録、p. 8)。劉生に従い、そして劉生を越えて、とでも考えてもいたのだろうか。


【左】椿貞雄《朝子像》1927(昭和2)年、カンヴァス、油彩、41.0×32.0cm、
平塚市美術館
(図録、p. 69)。

【右】椿貞雄《彩子立像》1954(昭和29)、板、油彩、72.0×59.5cm、
米沢市上杉美術館 (図録、p. 129)。

 椿貞雄が、単なる劉生の「追従者」「模倣者」ではないことは、《朝子像》ひとつとっても明らかで、この絵は、美術展のポスターで劉生の《童女図(麗子立像)》と並べられていて優れた対比になっている(図録の表紙には《童女図(麗子立像)》と《菊子座像》が取り上げられているが)。
 師弟という強いきずなで結ばれ、深く共感された芸術観を持つ二人の画家を並べて展示する美術展の目的は、二人の美術の異同を明らかに示すことには違いない。もちろん、私もまた共通するところは何か、異なるところは何かと意識して見はじめたのだが、いつの間にか違いだけを探しているのだった。
 5年ほど前に『モローとルオー』[3] という美術展が開かれた。師であるギュスターヴ・モローと弟子のジョルジュ・ルオーの二人の作品を並べるという今回と似たような企画だった。パンフレットや図録でモローとルオーが師弟関係にあることを知ることなく、いや、それを知った後ですらこれほど画風の違う二人の絵に通底する共通項を見出すことは難しかった。
 しかし、それは不思議なことでも偶然でもない、ごく当然のことだ。モローとルオー、劉生と貞雄、それぞれは師弟関係にあって大きな影響もあっただろうが、いずれも個性あふれた芸術家であって、それだからこそ彼らの画業が揃って私たちに(歴史的に)残されているのである。つまり、こういう企画展が実現していること自体、師弟ともに優れて独立した画家であることを意味している。そんな至極当然の事実を前提にしたうえで、二人の絵画の異同がどうであるかという視点は、私などの鑑賞力ではまったく無駄な努力に違いない


椿貞雄《晴子像》1938(昭和13)、カンヴァス、油彩、
80.3×65.0cm、山形美術館 (図録、p. 115)。

 椿貞雄の人物画を一つ選べと言われたら、先の《母の像》も捨てがたいが、私は《晴子像》を選ぶだろう。どうも、ここでの私の眼は、椿貞雄の人物画が含み込む物語性(文学性)に引きずられているようだ。
 《晴子像》は、三女晴子が10歳の時の肖像画である。背筋を伸ばし、凛とした姿勢で世界を見つめる少女像に打たれる。(K.K.)とサインされた作品解説に「日中戦争が始まり、不穏な気配が増すなかで、10歳の娘の健やかな生命を描くことがどんなに尊いかを椿は十分に自覚していたはずだ」と記されていて、いっそう味わいに文学性が増してくる。
 私が《晴子像》に惹かれたのには、もう一つ理由があった。劉生をはげしく敬愛し、その影響を強く受けた椿貞雄の絵画の中でこの《晴子像》は、劉生絵画との離接を象徴しているよう思えたのである。劉生から学んだものがごく自然なかたちで、そしてなおかつ椿貞雄その人のものとして表現されている。私はそんなふうに思えてしばし眺め入ったのだ。


【左】椿貞雄《壺(白磁大壺に椿)》1947(昭和22)年、カンヴァス、油彩、
72.7×60.6cm、米沢市上杉美術館 (図録、p. 123)。

【右】椿貞雄《静物》1950(昭和25)、カンヴァス、油彩、53.0×65.2cm、
米沢市上杉美術館 (図録、p. 123)。

 劉生死後、椿貞雄には長い画業の時代が続き、人物画、風景画、また日本画にも多くの作品を残しているが、その中から静物画2点を選んでみた。ともに写実性と静謐さにおいて際立っていた。
 何よりも、染付の大きな碗の中に小さな果実が3個、あるいは丸く豊かに膨らんだ大ぶりな白磁の壺に比べればとても小さな椿の一枝という構図にとても惹かれたのである。洋画ではあるが、日本の静物画であるという印象が強い。


椿貞雄《睡蓮図》1944-46(昭和19-25)、カンヴァス、油彩、60.6×80.3cm、
米沢市上杉美術館 (図録、p. 123)。

 《睡蓮図》の前に来た時も、「ああ、日本のスイレンだ」という感想を抱いたのである。もちろん、念頭にはモネの睡蓮があったが、オモダカとの混生の様子やそれぞれの葉のあわい輪郭によって「日本のスイレン」ないしは「日本画の睡蓮」を想起させられたのであって、モネの睡蓮画とは比べようがない。どちらかと言えば、モネの睡蓮図よりも、アンリ・ルソーの幻想的な植物画を思い浮かべたが、どこがどう似ているというよりも、色調のせいか雰囲気にやや幻想的な趣があるというに過ぎない。
 《睡蓮図》にアンリ・ルソーを連想したのは、前段の印象があったからである。この美術展で最初に展示されている椿貞雄の絵は、《落日(代々木付近)》と《道》という2枚の風景画であった。18歳と19歳の時の作品で、図録解説はゴッホの影響に触れていた。たしかに《落日(代々木付近)》の夕陽の描き方、畑を描く筆致にはゴッホらしさが見られると思うが、《道》の常緑樹を描く筆使いや道脇の草叢がルソーの描くシダ類のように見えたのだった
 いずれにせよ、《晴子像》や《睡蓮図》を見ることができたことは、私に「椿貞雄を発見した」という気分をもたらしてくれた(大げさでもなんでもなく)。そんな印象深い美術展であった。

 

[1] 『求道の画家 岸田劉生と椿貞雄』(以下、図録)(公益財団法人日動美術財団、2017年)。
[2] 『リアルのゆくえ』図録(生活の友社、2017年)p. 112。
[3] 『モローとルオー ――聖なるものの継承と変容』(淡交社、2013年)


 

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『「ルオーのまなざし 表現への情熱」展』 宮城県美術展

2017年09月08日 | 展覧会

【2017年8月29日】

 ルオー作品をまとめて観るのは、三度目になる。4年前に汐留パナソニックミュージアムで『モローとルオー展』[1] があった。師であるギュスターブ・モローとその生徒だったジョルジュ・ルオーを対比的に取り上げる興味深い企画展だった。また、2年前の出光美術館の『ジョルジュ・ルオー展』[2] は、ルオー作品にどっぷりと浸ることができる美術展だった。これらの美術展は、汐留パナソニックミュージアムや出光美術館など国内の美術館にじつに多くのルオー作品が所蔵されていることで実現したものだった。
 宮城県美術館で開かれている『ルオーのまなざし展』は、国内に多数所蔵されているルオー作品をベースに、ルオーと同時代に互いに交流のあったヴァシリー・カンディンスキーなど表現主義の画家たちを共に紹介する美術展である。
 当然ながら、先の二つの美術展で展示されていた作品もここにはたくさん含まれている。印象深い作品は、何度見ても印象深いことに変わりなく、このような展覧会の感想を書こうとするとどうしても同じような作品に眼が行ってしまう。しかし、ここではあえて前の二つの美術展に関する文章で触れていなかった作品だけを取り上げてみることにした。例えば、《キリスト》(1937-8年)や《避難する人々(エクソドゥス)》(1048年)は、『モローとルオー展』の感想を記したブログで取り上げているし、銅版画集『ミセーレ』(1948年刊)のうち、《でも愛することができたなら、なんと楽しいことだろう》、《母親に忌み嫌われる戦争》、《われらが癒されたるは、彼の受けたる傷によりてなり》と《アルルカン》(1953-56年)は『ジョルジュ・ルオー展』のブログで取り上げた。
 この美術展では『ルオーのまなざし 表現への情熱』[3] という画集がミュージアム・ショップで販売されていたが、展示作品よりはるかに多くのルオーと表現主義の画家たちの作品が収録されている。美術展のカタログを兼ねているのだろうが、展示構成と収録構成がまったく異なっているものの、美術展を見た後での再確認だけにはとどまらない楽しみがある本である。なお、ここで取り上げる作品には『ルオーのまなざし 表現への情熱』における収録ページを記しておいた。


【上】ジョルジュ・ルオー《人物のいる風景》1897年、紙(紙と麻布で裏打ち)、パステル木炭、
80.0×120.0cm、パナソニック汐留ミュージアム(p. 27)。

【下】ジョルジュ・ルオー《パリ(セーヌ川)》1901年、紙(紙と麻布で裏打ち)、水彩・パステル、
16.5×28.0cm、パナソニック汐留ミュージアム(p. 30)。

 ルオーの作品群が並べられていれば、どうしても筆太の筆致で描かれた人物像(キリスト像も含めて)や聖書の物語の絵に引きつけられてしまう。そして、たとえそれが「聖書の風景」と名付けられていても、ルオー作品ではそれを風景画としては受け止めていなかった。そんなふうにルオーを観ていたので、風景画の印象はあまり残っていない。
 この美術展の一番目の展示作品である《人物のいる風景》も確かに『モローとルオー展』で見ていたはずだが、あまり記憶に残っていなかった。ここで《人物のいる風景》をあらためて風景画として印象付けられたのは、この美術展の展示構成のおかげである。
 最初の展示コーナーは「I. 真の姿を見つめる眼」というタイトルで、ルオーの初期作品が並べられている。《人物のいる風景》も《パリ(セーヌ川)》もそのコーナーに並べられていた。続くコーナーの「II. 響きあう色とモチーフ――ルオーと表現主義」では、カンディンスキーなどの表現主義の画家の絵も並べられていて、ルオーの画風の変容を見ることができる。その変容こそが、《人物のいる風景》に際立った印象を後づけることになって、この最初の展示作品まで思わず引き返したのだった。
 表現主義の画家たちとの交流は20世紀に入ったばかりのころで、この時期にルオーの作品の〈ルオー化〉が始まっているという印象があって、それが風景画に顕著に示されているのではないか、そんな思いがルオーの風景画をピックアップする動機になった。


【上】ジョルジュ・ルオー《フランスの田舎道(散歩道)》1913年頃、紙(麻布で裏打ち)、油彩、
80.0×120.0cm、パナソニック汐留ミュージアム(p. 38)。
【中】ジョルジュ・ルオー《キリストと漁夫たち》1947年頃、厚紙(板で裏打ち)、油彩、
57.7×74.7cm、パナソニック汐留ミュージアム(p. 78)。
【下】ジョルジュ・ルオー《冬、人物のいる風景》製作年不詳、紙(麻布で裏打ち)、油彩、
14.1×17.0cm、パナソニック汐留ミュージアム(p. 141)。

 もちろん、画風の変容が一次の相転移のように不連続に突然起きるとは考えにくい。とはいえ、表現主義の画家たちとの交流が始まっていた1913年頃に描かれた《フランスの田舎道(散歩道)》では、ルオー作品の〈ルオー化〉がかなり完成の段階に近づいている。そう私には思える。
 《キリストと漁夫たち》や聖書の物語を描いた作品群は、その主題から考えて風景画のカテゴリーに入れていいかどうか逡巡する。しかし、《冬、人物のいる風景》は「風景」が主題にもかかわらず、聖書の一シーンを描いた多くの作品と〈ルオー化〉のレベルはほとんど同じで、わたしには区別することができない。
 そして、《冬、人物のいる風景》などを〈ルオー化〉の到達点と考える私には、その到達点の一歩手前で描かれたような《キリストと漁夫たち》がとてもお気に入りの作品」なのである。
 私が勝手に作った〈ルオー化〉という大雑把な概念は、初期の段階では時間軸に沿っての変化と見ることができそうだが、《フランスの田舎道(散歩道)》が描かれた頃から後では、時間軸ではなく画家の主題選択に依存して微妙に変化すると考えた方が理解しやすい。つまり、盛期(ないし後期)のルオー作品を見るに際して〈ルオー化〉などという概念はあまり役に立ちそうもないのである。

 


【上】ジョルジュ・ルオー《自画像》1920-21年、紙、油彩、
60.5×42.0cm、個人蔵(ルオー財団協力)(p. 41)。
【下】ジョルジュ・ルオー《呆然とする人》1948年頃、紙(麻布で裏打ち)、混合技法、
52.6×38.2cm、個人蔵(ルオー財団協力)(p. 84)。

 以前の美術展で2枚のルオーの自画像を観たことがある。1895年作の木炭と黒チョークで描いたものと1926年作の石版画のもので、どちらもモノクロームの作品である。そのせいか、初期の風景画と同様に記憶に残っている印象は薄い。
 しかし、この油彩の《自画像》は強烈だ。顔全体は道化師のような化粧に装われているようで、大きく見開かれた眼は恐怖もしくは大きな不安をもってこちら(描いているルオー自身)を見つめている。1895年作の自画像に描かれたルオーもこちらを見つめているが、先に挙げた《人物のいる風景》と同じような筆致で描かれた静かな印象を与える作品である。また、1926年の石版画に描かれた画家は斜め前方を向いていて、こちらもおとなしい印象の作品だ。これらの二作品と今回展示されている《自画像》を比べて鑑賞することは極めて難しい。この作品だけが油彩ということもあろうが、それほどに前に見た二作品との印象の隔たりは大きい。
 『ルオーのまなざし 表現への情熱』の作品解説(p. 47)には、この《自画像》はルオーが50歳前後の作品で、当時のルオーは友人に「ほかのどんな人たちよりも私を無限によく理解してくださる方たちに対してさえ、自己を見せる場合、私は常に裸で、震えているような気持ちになります」と話したことが紹介されている。《自画像》のルオーの眼が伝えているのは、生への不安というよりは、自らの存在自体への不安というべきだろう。私も50歳過ぎの数年間、強烈な神経不安症のような症状に悩まされたが、それと同じような精神状態だったのだろうか。しかし、ルオーと決定的に異なっているのは、そのような自己自身の精神状態を客体化して取り出して見せる方法も才能も私にはないということだ。

 《自画像》に描かれた顔がピエロのような化粧をしているのではないかと疑ったのだが、《呆然とする人》については明確に「ルオーが多数描いた道化師の姿と一致する」と作品解説(p. 84)に述べられている。
 ルオー作品の中で《アルルカン》や《道化師》と題された人物像がとても魅力的であることは言うをまたない。顔を覆うように化粧したピエロの顔がむしろピエロの悲しみや喜び、ときには絶望などの感情をあたかもその化粧が増幅して顕在化させているように見えるということは、私などでもしばしば経験することだ。ルオーは、隠すことによってかえってあふれ出てしまう人間の感情を《自画像》や《呆然とする人》のような絵を通じて表象しようとしたのだろう。その人物がどのような感情、どのような精神を抱えているか、その仔細を知らなくても、その感情や精神の強さ、激しさ、深さが表現されうることに私は驚くばかりだ。


【左】ジョルジュ・ルオー《踊る骸骨(習作)(「悪の華」)》1934年、紙、
アクアティントの上にメゾチント、50.0×32.5cm、ジョルジュ・ルオー財団 (p. 46)。

【右】ジョルジュ・ルオー《踊る骸骨(実現しなかった色絵版画「悪の華」のための習作)》
1939年、紙、校正刷りにガッシュで加彩、32.5×21.9cm、個人蔵(ルオー財団協力)(p. 47)。

 《踊る骸骨(習作)(「悪の華」)》も強く引き付けられた作品だ。同じ主題の《踊る骸骨(実現しなかった色絵版画「悪の華」のための習作)》を並べてみたが、あくまで比較のためであって、この作品にも惹かれたというわけではない。
 ルオーは太い輪郭線で人物を描くが、《踊る骸骨(習作)(「悪の華」)》の骸骨(人物)はそのような輪郭線で描かれているのか、という点が興味の中心である。手足(の骨)は輪郭線で描かれていると言えなくはないが、胴や頭部は陰影だけで描かれているように見える。
 陰影で描かれるルオーの人物像というだけでも興味がわくのだが、後述するカンディンスキーの作品との比較することでいっそう興味が募ったのだ。

 


【上】ヴァシリー・カンディンスキー《商人たちの到着》1905年、麻布、テンペラ、
92.5×135.0cm、宮城県美術館(p. 17)。

【下】ヴァシリー・カンディンスキー《夕暮》1904年、紙、ガッシュ、
31.0×47.0cm、宮城県美術館(p. 20)。

 44歳のころから抽象画を描き始めたカンディンスキーは、38、9歳のころには《商人たちの到着》や《夕暮》などを描いていたのである。ルオーの《踊る骸骨(習作)(「悪の華」)》との比較でこれらの作品で興味をひかれたのは、人物が一見黒い輪郭線で描かれているように見えるけれども、それは輪郭線ではなく陰の部分だということだ。
 《夕暮》にその特徴が強く顕われている。黒い背景の中に人物の光の部分だけが浮き上がるように描かれている。人物の輪郭は周囲の闇ということだ。女性のスカートの襞も線ではなく襞の陰の部分なのだ。《商人たちの到着》におけるたくさんの人物も黒の地にそれぞれの衣装の色を重ねているのである。いったん地を黒く塗りつぶしてから人物を描いているのだ。
 このような技法があることは不思議でも何でもないように思えるが、カンディンスキーのこれらの作品のように強い印象が残る同様の手法の作品の記憶はない。夜を描いた作品にはありそうな手法だが、少なくとも《商人たちの到着》は夜の時間を描いたものではない。

 《夕暮》に目を奪われたのには、ごくごく個人的な理由もあった。ここ数年、一眼レフのカメラをいじっているのだが、夜のデモを写す機会が圧倒的に多い。デモに参加する人々に当たるかすかな光だけで人物が写され、周囲は闇だけという写真を撮りたいと思う時がある。《夕暮》を見た瞬間、「こういう写真が撮りたいのだ」と思ったのだ。腕がないのできわめて難しいことなのだが、後で加工修正することのない、その時の瞬間のシャッターで実現したいという気持ちはまだあきらめきれずに抱いている。

 


【上】ハインリッヒ・カンペンドンク《少女と白鳥》1919年、画布、油彩、
69.0×99.3cm、高知県立美術館(p. 60)。

【下】ハインリッヒ・カンペンドンク《郊外の農民》1918年頃、麻布、油彩、
47.1×95.2cm、宮城県美術館(p. 73)。

 カンディンスキー以外の表現主義の画家の作品も展示されていたが、その中でハインリッヒ・カンペンドンクの幻想的な2枚が印象的だった。白鳥と題されているが、その鳥は白くない。周囲の色に誘引された体色を持つ白鳥として描かれているし、木々も山羊も馬も、そして人間も部分的ないし全面的に半透明な存在として描かれ、背景(周囲)と重ねあわされている。
 カンペンドンクは「自然のなかの動物」(p. 60)を良く描いた画家だと言われるが、これらの絵は動物たちも木々も草花も大地も人間もすべて等しくわが身を透かせて他者に重なり合う存在として描かれている。ありとあらゆる存在が等しく見つめられる世界はファンタジーそのものであり、描かれた世界は幻想的にならざるを得ないだろう。
 長い人間の歴史の中で、人文主義といいヒューマニズムといいながら、その実、人間中心主義の思想や精神に浸され、染まりきってはいても、私たちはきっとそんなファンタジーを胸の奥深くに大切にしまい込んでいるのだ。そして、カンペンドンクの絵のような作品によって、虫干しされるように引きずり出される。そう思う。

 『ルオーのまなざし展』を見終えた。ルオーと同時代に活躍した表現主義の画家たちとルオーの作品を並べて観ることもできたのだが、はてさて、何をどう評すればいいのか私にはやはりよくわからない。表現主義との交差がルオー作品の〈ルオー化〉を促進したに違いない、という(独りよがりの)発見をしたつもりになっているが、考えてみれば、ルオーが自立、自走的に〈ルオー化〉を果たしたということを否定する理由はどこにもないし、それも画家の変容としては十分にありうることなのだと思う。ただ、そういう想像ができることが一人の観者としての楽しみであり、許される権利と言ってもいいのではないかと思うのである。


[1] 『モローとルオー――聖なるものの継承と変容』(淡交社、2013年)。
[2] 『ジョルジュ・ルオー展――内なる光を求めて』(出光美術館、昭和27年)。
[1] 『ルオーのまなざし 表現への情熱』(パナソニック汐留ミュージアム、NHKプロモーション、2017年)。


 

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『ジャコメッティ展』 国立新美術館

2017年06月30日 | 展覧会

2017/6/30

 15日ほど前からこのブログの訪問者が、普段の2倍から3倍に増えているのに気づいた。そのほとんどが、5年前に書いた「『ジャコメッティ展』(図録) (現代彫刻センター、1983年)」という記事への訪問だった。
 やっと東京へ行く機会ができて、東京で開催されている美術展をネットで調べて得心がいった。「ジャコメッティ展」が開催されているのである。たぶん、今回の「ジャコメッティ展」のことを検索していて、間違って私のブログにたどり着いた人が多かったということだろう。
 思えばあのブログは、たぶん生きている間にジャコメッティ展を見るチャンスはもうないだろうと考え、30年近くも前の展覧会の図録で我慢しようと思い立って書いたものだった。ただ、ジャコメッティの彫刻に惹かれていたものの、なぜあのような針金のような人物像なのか、なぜ私がその形に惹かれるのかよくわからなくて、サルトルとジャン・ジュネと矢内原伊作の本の助けを借りてかろうじて書いたブログ記事だった。
 しかし、私なりに言葉を尽くしたからといって、その芸術作品が感受出来るというものではないし、理解できるというものでもない。結局は作品を見て味わうことしかないのだ、そう思い定めて新幹線に乗って東京に向かったのである。


《裸婦小立像》1946年頃、石膏、8.9×3.7×2.3cm、
神奈川県立近代美術館(宇佐美英治旧蔵) (図録 [1]、p. 58)。

 見る前には、ジャコメッティがどのような過程を経て、あの形態の彫刻にたどり着いたのか、そんなことに興味があった。芸術家がその人独自の表現にたどり着くまでの個人的歴史そのものが興味深いし、ましてやその変遷の必然性のようなものが理解出来たら作品鑑賞がどんなにか深まることだろう。たとえば「ジャン・フォートリエ展」では、フォートリエが過酷なまでのリアリズムに溢れた人物像から「アンフォルメル(不定形)」と呼ばれる抽象画へと変遷していく様子はとても興味深いものだった。
 「ジャコメッティ展」の展示も、期待通りに18歳の時の油彩の肖像画や16歳の時の人物(頭部)の彫刻などから始まり、キュビズム、シュールレアリスムの時代の彫刻へと展示は続いていた。
 しかし、2番目の「小像」というコーナーまで来たとき、私の当初の興味はどこかに行ってしまった。あまりにも小さくて、細部がほとんどわからない数センチメートルから20センチメートルくらいの細身の人間立像が展示されていた。ジャコメッティの超細身の人間立像は、細いばかりではなくとてつもなく小さい像として始まったのだ。このことに驚いてしまって、その前のキュビズムやシュールレアリスムのことはまったく気にならなくなってしまったのである。図録に次のような解説があった。

18-19歳のジャコメッティを襲ったとされる、よく知られた「洋梨のデッサン」のエピソードで語られるのは、「普通の距離」に置いた洋梨を、父の求めに応じて「梨がある通りに、見える通りに」描こうとすると、決まって父が描くような「実物大」にならず、避け難く小さくなってしまうという、自身が対象と向き合ったときに生じる「見えるものを見えるままに描く」ことの困難であった。 (図録、p. 34)

 描こうとする対象がどんどん小さくなってしまう、というのはジャコメッティの対象存在の本質的な認識のありようだったらしい。だとすれば、特定のモデルや対象を必ずしも必要としない20歳代から30歳前半におけるキュビズムやシュールレアリスム作品がごく〈普通〉であること、ふたたびモデルを描こうとしたとき「小像」化が生じたことはそれなりに理解できよう。
 「洋梨のデッサン」の時代から「小像」の時代へと、ジャコメッティ自身の中での時間発展としては直接つながっていたと考えることができる。そういえば、ジャコメッティ自身はキュビズムやシュールレアリスムの時代を否定的に語っているという趣旨の記述を読んだことがある(残念ながら記憶が不確かで出典を明示できないのだが)。

 そんなことがあって、今回の私の「ジャコメッティ展」は、「小像」から始まった。その「小像」作品群のなかでも、《裸婦小立像》という石膏像に惹かれた。惹かれたというよりも、この肖像を小さなわが二階家の階段の途中の窓の下枠に置いて、階段の上り下りのときに上から、下から、そして真横から眺められたらどんなにかいいだろう、そんな思いに捉われてしまった。鑑賞でもなんでもなく、そんな日々の暮らしのイメージに捉われたということだ。
 細部が判然としない、言ってしまえばやや抽象化された裸婦の立像が豊かな余剰としての想像を与えてくれそうな気がした。上から見下ろしたとき、下から見上げたとき、あるいは真横から間近に眺めたとき、それぞれのときはそれぞれの人間像を現前させてくれるだろうと思ったのだった。



《3人の男のグループI(3人の歩く男たちI)》1948/49年、
ブロンズ、72×32×31.5cm、マルグリット&エメ・マーグ財団美術館、
サン=ポール・ド・ヴァンス (図録、p. 75)。


《森、広場、7人の人物とひとつの頭部》1950年、ブロンズ、57×46×58cm、
マルグリット&エメ・マーグ財団美術館、サン=ポール・ド・ヴァンス (図録、p. 78)。

 「群像」というコーナーでは、《3人の男のグループI(3人の歩く男たちI)》と題する彫刻が目を惹いた。3人の男がそれぞれ異なった方向にすれ違って歩き去るように構成された作品である。代表作の《歩く男》と比べれば、一人一人の歩く姿は単純化されているが、同じ時刻の同じ街角ですれ違う人間たちの関係(距離)へのジャコメッティのイメージを想起させる作品である。
 複数の人間のイメージとしては、《森、広場、7人の人物とひとつの頭部》の作品もいっそう興味深い。7人の立像の大きさはバラバラである。かといって、子どもとか大人とかの属性によって大きさが異なるわけではない。まったく相似の人間像にもかかわらず大きさが異なる。同じ方向を向いて立つ立像は、それぞれ独立(孤立)しているように見える。ましてや、そのなかにひとつの胸像があって奇妙さは際立っている。
 直感的に言ってしまえば、それぞれの人物はそれぞれ固有の時空に存在しているのだが、その時空のサイズのまま、ある特異な空間で共立しているのである。図録解説に次のように記されている。

《広場、3人の人物とひとつの頭部》を制作したジャコメッティは、その硬さを克服しようと試行錯誤していた。そしてその過程で、アトリエの床の上に偶然置かれていた彫刻がふたつのグループを形づくっているのに気づき、それらを台の上に置いたという。こうしてできた《林間の空地、広場、9人の人物》と《森、広場、7人の人物とひとつの頭部》は、今度はジャコメッティの記憶と結びついた新たなイメージをまとうことになる。もともとすべて「市の広場」と題されていたこれらの作品の完成後に、「林間の空地」や「森」という、それぞれにふさわしい主題が見出されたのである。 (図録、p. 72)

 もともと独立していた彫刻がアトリエで出会うと、そこに「林間の空地」とか「森の中の広場」が(想像として)生まれたのだ。空地も広場も、林や森の中にありながら林や森そのものではない。林や森に内包されつつもそれぞれ特異な空間である。いわば、森や林という時空の特異点である。異なった時空に存在する人物がある特異な空間で出会ったという私の勝手な想像もあながち荒唐無稽とも思えないのである。異なった時空が一点に会するという場所は、世界の特異点に違いないのである。


【左】《タートルネックを着たディエゴの頭部》1954年頃、ブロンズ、34×13.5×13cm、
マルグリット&エメ・マーグ財団美術館、サン=ポール・ド・ヴァンス (図録、p. 95)。
【中】《男の胸像》1950年、ブロンズ、57×15.5×16.5cm、マルグリット&エメ・マーグ
財団美術館、サン=ポール・ド・ヴァンス (図録、p. 98)。
【右】《ディアーヌ・バタイユの胸像》1964/80年、ブロンズ、48.5×13.5×12.5cm、
マルグリット&エメ・マーグ財団美術館、サン=ポール・ド・ヴァンス (図録、p. 99)。

 ジャコメッティの彫刻は、存在の非本質的な部分を徹底的にそぎ落とし、そぎ落とし、その果てに残った実存そのもの、あるいは、ジャコメッティのオブジェが占めた場所は虚無の空間そのもの、あるいは、ジャコメッティの彫刻は虚無の空間に非在を生み出し、その非在は空虚の中に存在に充実を生み出そうとする、などなど、様々な評言に悩まされつつ、彫刻群を見ていく。ふらふらとする精神には、多すぎることのない観客はありがたいのだった。

 「モデルを前にした制作」というコーナーを歩いているとき、ささやかな発見をしたような気分になった。かつて、ジャコメッティはモデルを前にして制作していたとき、どんどん作品が小さくなってしまうことに困惑し、眼前からモデルを遠ざけて記憶のイメージで作品を制作するようになったという。
 それでも、身近な存在、親しい存在をモデルにして彫刻を作成したのだろう。そのような作品が並んでいて、そこから《タートルネックを着たディエゴの頭部》、《男の胸像》、《ディアーヌ・バタイユの胸像》を比べてみた。
 一見してわかることは、ジャコメッティの弟「ディエゴ」やジョルジュ・バタイユの妻「ディアーヌ」の胸像は、ジャコメッティ作品としては肉厚があって存在への写実性が高い。一方、「男」とのみ名指された胸像はその多くをそぎ落とされたジャコメッティ特有の人物像となっている。これはどういうことだろうか。
 人間存在の様々な属性をそぎ落とすように、ジャコメッティは人物の肉体をそぎ落としていく。仔細に一つ一つの彫刻にあたったわけではないが、「人物」とのみ名指されるまで属性をそぎ落とされた彫刻は、文字通り「線」のように細い。「女性像」とか「男」のように、「性」の属性が残された彫刻は、微妙に厚みを増している。
 人間の属性の中で、その人物の「名前」は、じつにさまざまな人間の属性を象徴している。人間一般という抽象ではなく、その人物の個別性を強調する。家族や一族、コミュニティや国家(社会)をも引きずっているだろう。そのような人物像からたとえ多くの属性をそぎ落としても、その人物の個別性はそぎ落とせない。それが、「ディエゴ」や「ディアーヌ」という名を持つ人物の胸像が肉厚で写実性がより高い理由ではないか。そんなことを思ったのである。「男」とのみ名指された《男の胸像》と比べれば、その差は圧倒的だ。
 人間の本質的でない属性を次々にそぎ落としていった先には、「実存」と「虚無」しかないのだ。サルトル流に言えば、そういうことだろうか。しかし、一方で、ジャコメッティは近しい(親しい)人たちをしっかりと象っておきたいと率直に願っただけではないか、と思うことで、凡庸な私としては自分を安心させたがってもいるのである。


《歩く男I》1960年、ブロンズ、183×26×95.5cm、マルグリット&エメ・マーグ
財団美術館、サン=ポール・ド・ヴァンス (図録、p. 177)。

 図録に収録されている《歩く男I》は、マーグ財団美術館の中庭に置かれた彫刻の写真らしい。美術館に展示された作品を眺めるのとは趣が大きく異なって、なぜか味わい深い感じがする。
 《歩く男》は2バージョン制作され、1983年の「ジャコメッティ展」図録に掲載されていたのは、《歩く男II》となっていた。《歩く男I》は、《歩く男II》よりいくぶん歩幅が狭くなっているが、上半身の傾斜はやや大きく、動的なイメージが強くなっている。
 直立する女性像や男性像と比べれば、《歩く男》の魅力は圧倒的だ。あらゆる属性をそぎ落とされて単に「男」としか呼べない存在が「歩く」のである。「歩く」ことによって回復された人間の属性とはなにか。人間存在に「歩く」ことを賦与することで人間のドラマはどんなふうに始まるのか。そんな思いが沸き立って、ワクワクするのである。

 
[1] 『ジャコメッティ展』(以下、図録)(TBSテレビ、2017年)。


 

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