かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

原発を詠む(10)――朝日歌壇・俳壇から(2013年12月16日~2014年2月17日)

2014年02月17日 | 鑑賞

朝日新聞への投稿短歌・俳句で「原発」に関連して詠まれたものを抜き書きした。

 

キャスク、プールまた新たなる語彙ふえて廃炉始まる三度目の冬
             (福島市)美原凍子  (12/16 野公彦、馬場あき子選)

人類が言葉発して五万年それより永き核のゴミ処理
             (岸和田市)西野防人  (12/23 佐佐木幸綱選)

わが町に避難して来し人ありて原発事故は他人事ならず
             (高知県)藤田兆大  (1/13 佐佐木幸綱選)

ほとぼりがさめたと見てか原発はじわりじわりと息吹き返す
             (中央市)前田良一  (1/13 佐佐木幸綱選)

原発で夢稼がんか誘いくる男の背中のるまあるらし
             (ホームレス)坪内政夫  (1/20 佐佐木幸綱選)

原発の輸出を約し握手する総理テレビに笑みを浮かべて
             (前橋市)荻原葉月  (2/3 永田和宏選)

廃鉱の街に住みにし歳月を廃炉の地にて思えば小雪
             (福島市)美原凍子  (2/3 馬場あき子選)

白鳥の鳴き交わしゆく空残し原発被災地枯野となりぬ
             (南相馬市)深町一夫  (2/3 馬場あき子、佐佐木幸綱選)

フクシマの傷ざっくりとあくごとし人住まぬ家の窓窓の闇
             (三鷹市)増田テルヨ  (2/3 馬場あき子選)

汚染水タンク1000基の建ち並ぶ画像が今は〈秘密〉ではない
             (堺市)丸野幸子  (2/3 佐佐木幸綱選)

振り向けば見えぬ汚染の町があり青き空あり山河煌めく
             (横浜市)田口二千陸  (2/10 馬場あき子選)

東京に原発一基作ったら地方人口増えると思う
             (新潟県)涌井武徳  (2/10 佐佐木幸綱選)

雲淡く稜線かすめ冬日さすこの両岸に原発はあり
             (福井県)大谷静子  (2/10 永田和宏選)

鮮やかな緑色なす封筒で内部被爆検査(ホールボディカウンター)通知来ぬ
             (福島市)美原凍子  (2/17 佐佐木幸綱、馬場あき子選)

人麻呂の歌碑訪ひ来たる奈多の海ゆ伊方原発遠く光る見ゆ
             (中津市)久恒啓子  (2/17 野公彦選)

 

福島を置き去りにして街クリスマス
             (川越市)横山由紀子   (12/23 金子兜太選)

原発へ激浪といふ冬景色
             (廿日市市)頼経正道  (2/10 金子兜太選)

福島に戻れぬ日々や鬼遣らひ
             (鴻巣市)佐久間正城  (2/17 金子兜太選)


『「モネ 風景を見る眼」展』 国立西洋美術館

2014年02月11日 | 展覧会

【2014年1月29日】

 モネの絵をたくさん見ることができると、単純に喜び勇んで会場を歩き始めてから奇妙な感じになってきた。「どうもモネらしくないなあ」と思うような絵がある。ある絵の前に来て、「違う。これはクールベだ」とやっと気付いたのだ。
 その時まで、じつに精緻で写実的なシャルル・メリヨンの銅版画を見ては、「モネといえども線描の版画ではこんなふうに描くのか」だとか、「大胆な色彩の風景画もあるんだ」とゴッホの絵を見ながら通り過ぎていたのである。なんという鑑賞力。

 私は、会場に掲げられている説明文をほとんど読まない。作品リストは必ずもらうが、作品と対応させて見るということがない。音声ガイドというのも借りたことがない(外国の美術館では2回ほど借りたが)。
 私は、自分の鑑賞眼というか審美眼というものに自信がないのである。あらかじめ何らかの情報をインプットしてしまうと、それに引きずられてしまうのだ。

 気付くのが遅すぎた。これは「モネ展」なのだが、国立西洋美術館とポーラ美術館の所蔵品の中からモネを中心として、関連する同時代の作品を集めたものだった。やり直しである。入口付近まで戻って、画家名を確認しながらの鑑賞とする。
 それはそれで、楽しい鑑賞の仕方に気付いた。たとえば、さっき間違えたゴッホの絵と似たような構図のモネの絵がある。つまり、モネの絵とモネ以外の画家の絵を1:1で対応させて見ると、いっそう興味深そうなのである。

  最後まで全部見てから、対応しそうな絵をチェックして、戻って確認する。一度だけの確認ですむほど記憶力がよくないので、会場を数回往復する羽目になった。順路に従えば2回階段を上り下りして展示室を移動するので、8回は階段を上り下りしたはずである。展覧会場は衰えてきた肉体鍛錬の場にもなった。


【上】クロード・モネ《波立つプールヴィルの海》1897年、油彩/カンヴァス、
73.5×101.0cm、国立西洋美術館(松方コレクション)(図録 [1]、p. 82)。

【下】ギュスターヴ・クールベ《波》1870年頃、油彩/カンヴァス、
72.5×92.5cm、国立西洋美術館(松方コレクション) (図録、p. 84)。

 モネの絵と並べて際立つ差があるのはクールベである。「波立つ」とわざわざ形容されたモネの波に比べれば、ただ「波」とだけ素っ気なく名付けられたクールベの絵の波立ち方はすさまじい。
 写実を重んじたクールベと、印象といういわば空気感を大事にしたモネの絵の間には,同じようなモティーフでもこれだけ違うのである。これだけ違ってしまうと、どちらが好み、などというごく単純な審美すら成り立たない。

 「印象派の技法――筆触分割――は、1869年にモネとルノワールによって、パリ郊外の行楽地ラ・グルヌイエールで完成されたという」と岩崎余帆子が解説(図録、p. 14)で述べているが、そのルノワールの絵と並べてみよう。

【左】クロード・モネ《サン=ジェルマンの森の中で》1882年、油彩/カンヴァス、81×65 cm、
吉野石膏株式会社(山形美術館に寄託) [2]。

【右】ピエール=オーギュスト・ルノワール《木かげ》1880年頃、油彩/カンヴァス、55.8×46.3cm、
国立西洋美術館(松方コレクション) (図録、p. 70)。

 ルノワールの《木かげ》の展示を見て、『印象派を超えて 点描の画家たち』という展覧会で見た同じような構図のモネの絵を思い出した。《サン=ジェルマンの森の中で》である。ともに茂る木の枝が覆い被さって続いている森の道の絵である。
 色彩を見れば季節が違うようだが、あえて比較すれば、モネは幻想的で、ルノワールはやや写実的に見える。モネの絵は、見る者を誘い込むような森の道がまるで緑の洞窟のようで、そこをくぐってから開ける世界を期待させるかのようだ。
 モネは、構図的に自然を変容させているばかりではなく、その色彩構成が幻想性を生み出しているのだと思う。明るい道が、いったんほの暗くなって続き、ずっと奥でふたたび明るくなっているという構成が絶妙である。

【上】クロード・モネ《ジヴェルニーの積みわら》1884年、油彩/カンヴァス、
66.1×81.3cm、ポーラ美術館(図録、p. 61)。

【下】ピエール=オーギュスト・ルノワール《エッソワの風景、早朝》1901年頃、
油彩/カンヴァス、72.5×92.5cm、ポーラ美術館(図録、p. 74)。

 もう一組、ルノワールとの対比を見て見よう。《ジヴェルニーの積みわら》の前にはジャン=バティスト=カミーユ・コローの絵が数点並べられ、モネは農村を自然の一部としての風景として描き、コローはそこに生きる農民の暮らしも取り込んだ農村の姿として描くという対比を、展示によって示している。
 そこでは、「モネが風景に人物を描き入れないのは、人物が引き起こす、何らかの意味合いを排除するため」(図録、p. 48)と解説されている。風景画への物語性の拒否なのだ。
 それではルノアールが風景に配した人物はどうなのだろう。コローとは違って、物語性は弱い。むしろ、風景と同等の美的審級を人間の姿に与えていると考える方が、ルノワールの他の画業との通性がいいと思う。

 ここで気になるのは、ルノワールの描く木の、というより葉の茂りの質量感なのだ。モネの並木とは決定的に違う。モネの木々の葉の茂りは、その間を風が吹き抜けていくようで自然感に満ちている。《エッソワの風景、早朝》の右端の1本の木を見る限り、二人は同じ種類の樹木の並木を描いているように見えるのだが。
 ルノワールからモネへの風景画の変化を延長させると、その先にはアルフレッド・シスレーの風景画があるように思える。正直に言えば、シスレーの風景画の方が私の好みだ。

【上】クロード・モネ《グランド・ジャット島》1878年、油彩/カンヴァス、
56.3×74.5cm、ポーラ美術館(図録、p. 28)。

【下】フィンセント・ファン・ゴッホ《ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋》1888年、
油彩/カンヴァス、46.8×51.3cm、ポーラ美術館(図録、p. 42)。

 同じ川岸の風景である。色彩感がまったく違う。空の色も、水の色も、土の色も違う。モネとゴッホの名前を並べてしまえば、その違いをそのまま納得できそうである。
 人物の扱いも違う。モネの人物は風景の一部、極端な言い方をすれば、ゴッホの絵の中の煙突と同じような美的位置を与えられているにすぎない。ゴッホの場合は風景画でありながら、そこで人間が何をしているのかという形で、人間への執着がきちんと描かれている、そんなふうに思えるのだ。

【上】クロード・モネ《セーヌ河の日没、冬》1880年、油彩/カンヴァス、
60.6×81.1cm、ポーラ美術館(図録、p. 79)。

【下】オディロン・ルドン《ブルターニュの海》 油彩/カンヴァス、3
4.0×50.1cm、ポーラ美術館(図録、p. 124)。

 《セーヌ河の日没、冬》になると、有名な《印象・日の出》に対する思い込みもあって、感心して眺め入るばかりだが、ルドンの《ブルターニュの海》と奇妙な共通点があることに気付く。どちらも水面や空の光の変化を「大胆な色彩と平面的な筆致」(図録、p. 14)で描いていて、夕景の「空気感」の圧倒的な描写に成功している。
 ある種、茫洋とした空気感こそがこの二つの絵の価値だと思うのだが、奇妙なことにモネは小さな島と数本の木々、ルドンは鋭い岩山を風景の左端に配したうえで、空や海とは違って写実的に描いている。そのため、空や水面に拡がる夕景の空気感がいっそう際立っているように見えるのだ。《印象・日の出》では、小舟とその上の人物の影が同じような役割を果たしていると考えればいいのではなかろうか。

【上】クロード・モネ《サルーテ運河》1908年、油彩/カンヴァス、
100.2×65.2cm、ポーラ美術館(図録、p. 172)。
【下】アンリ・ギョーム・マルタン《ヴェネツィアの大運河》1910年、油彩/カルトン、
34.0×50.1cm、国立西洋美術館(松方コレクション)(図録、p. 124)。

 運河や港、船の絵といえば、ジョルジュ・スーラやポール・シニャックの絵と並べればよいのだが、ここでは私にとってあまり馴染みのないアンリ・ギョーム・マルタンの《ヴェネツィアの大運河》を、モネの《サルーテ運河》と並べてみる。
 マルタンの絵は点描技法とはいえ、スーラやシニャックのような機械的な繰り返し配置の点描技法ではなく、より自然な空気感があって、私にとってはスーラやシニャックより好もしいものだ。
 モネにいたっては、スーラやシニャックの絵と比べれば一目瞭然だが、すでに点描画法を越えているとしか言いようがない。そんな大胆な色彩配置を施していることが、《サルーテ運河》の運河壁や建物が水に溶けこんでしまったかのような描き方にも顕われている。あたかも街並みが水面に浮かび上がっているかのような奇妙な感覚を与えている。

【左】クロード・モネ《睡蓮》1907年、油彩/カンヴァス、93.3×89.2cm、
ポーラ美術館(図録、p. 141)。

【右】クロード・モネ《睡蓮》1916年、油彩/カンヴァス、200.5×201.0cm、
国立西洋美術館(松方コレクション)(図録、p. 142)。

 モネといえば《睡蓮》だが、もちろん私は、モネと対比させうるような睡蓮を描いた画家を知らない。だから、ここではモネとモネを対比させてみる。
 二つの絵の描かれた時期には7年の隔たりがある。後年の《睡蓮》の筆致が大胆になっているのは、モネの技法の年代的変化に対応しているように思える。しかし、より強い色彩で描かれていることも年代的変化によるものかは、私には分らない。
 むしろ、同じモティーフ、構図でありながら、色彩感がこれだけ違うのは、画家が持つ分光の才能、いわば多様な分光器を持っていることに例えることができるのではないか。しかし、この例えの問題は、画家があるモティーフを抱いてカンヴァスの前に立ったとき、自動的(無意識)に採用する分光器が選ばれているのか、あるいは、明確な意志を持って分光器を選択しているのか、私には分らないことだ。
 いずれにしても、画家は自然を多様な色彩構成で眺めることができ、描くことができる、ということだろう。

【左】エミール・ガレ《クロッカス文花器》1898年、ガラス、44.4×11.2cm、
ポーラ美術館(図録、p. 147)。

【中】エミール・ガレ《イヌサフラン文花器》1900年頃、ガラス、25.8×10.3×8.2cm、
ポーラ美術館(図録、p. 148)。

【右】エミール・ガレ《ナラ文花器》1900年頃、ガラス、22.4×8.0cm、
ポーラ美術館(図録、p. 149)。

 エミール・ガレの5点のガラス器が展示されていたので、3点を挙げておく。初めはモネ以外の絵が展示されていることすら思っていなかった私にしてみれば、ガレの器が展示されているとは思いもよらないことで、なにか付録で大当たりした気分である。
 本や雑誌、時にはテレビでガレの器を見ることは多いが、実物を見ることはほとんどない。ガラス器よりははるかに陶磁器が好きな私でも、ガレは特別である。日本の陶磁器のような馴染みやすさはないが、かといって、西洋の器にしばしば感じる他者性(異文化性)のような感じもない。うまく表現できそうにないのだが、いわば私の美の審級のはざまをするっと抜けていって、胸の奥底におさまってしまうような、そんな感じなのだ。

 

[1]『モネ、風景をみる眼 ―19世紀フランス風景画の革新』(以下、図録)(TBSテレビ、2013年)。
[2] 『印象派を超えて 点描の画家たち』(東京新聞、NHK,NHKプロモーション、2013年) p. 29。


『ラファエル前派展』 森アーツセンターギャラリー

2014年02月05日 | 展覧会

【2014年1月28日】

 1848年、「ラファエル前派兄弟団」が結成され、ラファエル前派と呼ばれるグループの活動が始まるが、それは19世紀中葉のイギリスにおけるアヴァンギャルド運動と見なされている。
 しかし、アヴァンギャルドといえば、キュビズム、フォービズム、ダダイズム、シュールレアリズムなどを想起する私には、彼らの絵がアヴァンギャルド芸術と見なされる要素を直感的には把握できず、展覧会会場を数往復する羽目になった。

 展覧会図録 [1] によれば、ラファエルやその追従者たち(ラファエル派)の絵画が美の規範として高く評価されていたヴィクトリア朝のイギリスにあって、ラファエル前派はラファエル以前、ルネッサンス初期の絵画に美の規範を見いだし、近代的表現へ結びつけたのだという。つまり、「歴史的にして近代的」 [2] なのだ、というのである。

 この展覧会は、テート美術館(ロンドン)所蔵の作品に依る。

フォード・マドックス・ブラウン(1821-93)《リア王とコーディリア》1849-54年、
油彩・カンヴァス、77.1×99.1cm (図録、p. 43)。

 彼らの新しさの一つは、聖書やギリシャ・ローマ神話に主題を取ることが多かった時代に、《リア王とコーディリア》のようにシェークスピア(1564-1616)の物語を取りあげることにもあった。
 いわば歴史画として、イギリス王の逸話を描いた絵ではあるが、この王の衣服には破れや汚れがリアルに描かれている。フランス軍との戦いの地における一時の休息の場面とは言え、そこには王族や貴族を描いたゴヤのような世界はもはやない。

【左】ジョン・エヴァレット・ミレイ(1829-96)《マリアナ》1850-51年、
油彩、・板(マホガニー)、59.7×49.5cm (図録、p. 49)。

【右】ジョン・エヴァレット・ミレイ(1829-96)《釈放令、1746年》1852-53年、
油彩・カンヴァス、102.9×73.7cm (図録、p. 51)。

 《マリアナ》もまたシェークスピアの『尺には尺を』の登場人物である(とはいえ、どんな物語だったか、私には思い出せないのだが)。図録解説によれば、持参金を失い、許嫁に捨てられたマリアナが長時間の刺繍仕事に疲れて、立ち上がり伸びをしているシーンで、「自然なポーズで女性の性衝動を素直に表わしている」(図録、p. 48)のだという。
 じつに魅力的な婦人の肢体表現で、輝くような藍色のベルベット(たぶん)の衣服や、椅子の赤色など色彩表現が鮮烈な絵である。

 《釈放令、1746年》もまた歴史画であって、1688年に起きたジャコバイドの叛乱で捕囚となったスコットランド兵と、釈放令を示して夫を迎える凛とした妻の姿を描いている。男尊女卑の意識が強い時代にあって、イギリス兵よりもスコットランド兵よりも強靭な精神を顕在化させている婦人がこの絵の主題である。
 この絵は、いわば「ロッホ・ローモンド」を歌わずに生還できた兵士の物語である。「ロッホ・ローモンド」は虜囚となったスコットランド兵が刑死を前にして故郷・スコットランドのローモンド湖を偲んで歌った民謡である。その歌詞のなかに次のような一節がある。

Oh ye'll tak' the high road
and I'll tak' the low road,
An' I'll be in Scotland before ye',
But wae is my heart until we meet again
On the Bonnie, bonnie banks
O' Loch Lomond.

 「君は高い道(天空)を行き、僕は低い道(冥府)を帰って行く。そして、君より先にスコットランドに(土となって)着くのだ。ああ、美しいローモンド湖よ! その畔でまた君に会えるまで、悲しみに胸をふさがれて!」。 おおむねこのような意味の歌である。

 わずか100年前の悲劇的歴史の可視化、あるいはラファエル前派流の悲劇の歴史化というべきだろう。

【上】ジョン・エヴァレット・ミレイ(1829-96)《オフィーリア(部分)》1851-52年、
油彩・カンヴァス、76.2×111.8cm (図録、p. 55)。

【下】《オフィーリア(全体)》 [3]。

 これは偶然なのだが、気になる絵をピックアップすると、ミレイの作品がどうしても多くなってしまう。《オフィーリア》もまたミレイの作品で、おそらく彼の作品の中でもっとも人々に知られている絵ではないかと思う。私にとっても、どこかで見た作品で、図録を見た妻もどこかで見た記憶があるという。妻はイギリスに行ったことがないので、テート美術館ではない。日本で開催されたミレイの回顧展のころは、私の仕事が忙しくて展覧会に行く余裕はなかった。これだけ有名な絵だから、本か何かで見た印象が残っているだけかもしれない、というのが妻と私の結論だった。

 《オフィーリア》は、それだけ印象の強い作品である。「鬱蒼と生い茂る草木と哀れなヒロインが描かれ、ラファエル前派ならではの自然、心理、物語性の表現を見事に示す古典的名作」(図録、p. 52)であることにまったく異論がない。
 水におちたオフィーリアは、川底に沈むまで静かに歌を口ずさんでいた。画面から溢れるような静寂さ、水面の上をオフィーリアの低い歌声が流れていく。そんな強靭な想像力に支えられたリアリズムがここにはある。

【左】アーサー・ヒューズ(1832-1915)《4月の恋》1855-56年、
油彩・カンヴァス、88.9×49.5cm (図録、p. 59)。

【右】フィリップ・ハーモジニーズ・コールデロン(1833-986)《破られた誓い》1856年、
油彩・カンヴァス、91.4×67.9cm (図録、p. 63)。

 ミレイ以外の画家も上げておこう。《4月の恋》は、アルフレッド・テニスンの詩から主題を取った絵だという。濃いブルーの衣服が浮き立つように輝いていること、窓の外の花木の描写が精細でリアルなことなどに感動した絵である。

 首飾りが婦人の足元に捨てられていて、塀の向こうでは睦まじく花を取り合う男女が描かれるという象徴主義的な《破られた誓い》もまた、《マリアナ》や《4月の恋》と同じように紺色の衣服をまとった婦人像である。
 このようにラファエル前派の絵は、読み解かなければならない物語性に支えられていて、見る側としてはなかなか大変なのである。私としては、だから、物語性を無視して(その知識もないのだけれど)印象深い作品だけをピックアップするしかない。

【上】ジョン・エヴァレット・ミレイ(1829-96)《両親の家のキリスト(「大工の仕事」)》
1849-50年・油彩、カンヴァス、86.4×139.7cm (図録、p. 79)。

【下】ジョン・エヴァレット・ミレイ(1829-96)《「両親の家のキリスト」の習作》
1849年頃、石墨・紙、91.4×67.9cm (図録、p. 81)。

 《両親の家のキリスト(「大工の仕事」)》は、ラファエル前派のアヴァンギャルド性の一端を示す良い例だろう。大工仕事をする家族の情景だが、子供の手のひらの傷を心配する主人はヨセフであり、子供を慰めるように寄り添うのはマリアで、怪我をした当の子供はイエス・キリストである。したがって、右端の子供は、洗礼者ヨハネである。

 古典的な絵画では聖家族を描くにあたって、その聖性をどのように表現するかが最大の問題であったはずである。しかし、この絵では、聖家族は普通の家族と同じリアリティで描かれている。いたずらをしたためか、手伝いの最中にか判然としないが、仕事場で不注意な子供が怪我をするというのもありふれたことだろう。
 強いて言えば、手のひらの怪我と足元に滴る血が、キリストの磔刑を暗示していることとか、心配するマリアを安堵させるかのように口づけするイエスの慈愛に満ちた仕草に宗教性を見出すことができよう。

 さて、下に示した習作は丁寧に描かれているが、じつはヨハネだけが描かれていない。ヨハネがいなくても聖家族は成立している。ヨハネは必然的要素ではないのだ。しかし、聖家族にはヨハネが慣例として描かれることが多い。この習作と本作の関係もまた、そのような事情をありていに示しているのだろう。
 ヨハネの扱いはいつもこの程度なのだ、と私は思ってしまう。無数の聖家族の絵が存在する。そして、そこにはしばしば洗礼者ヨハネがともに描かれる。イエスが幼子であれば、幼子のヨハネが、いくぶん成長したイエスであれば、ヨハネもそれに応じて成長した姿で。ヨセフとマリアとイエスの聖家族に、家族の一員ではないヨハネがぽつんと一人だけ描き足されているのである。
 そして、私は家族から離れてイエスの家族といなければならない幼いヨハネに同情してしまい、とても哀しく愛しいと思うのである。ずっと長い間、私はヨハネ贔屓なのだが、こんな理由なのだ(絵画から出た話とはいえ、絵画とは関係ないことであるが)。

【左】ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(1828-82)《ダンテの愛》1860年、
油彩・板(マホガニー)、74.9×81.3cm (図録、p. 149)。

【中】エドワード・バーン=ジョーンズ(1833-98)《クラーク・ソーンダーズ》1861年頃、
水彩・紙、69.9×41.8cm (図録、p. 153)。

【右】グスタフ・クリムト(1862-1918)《The Kiss(部分)》1907-08年頃、
油彩・金銀箔・カンヴァス、180×180cm [4]。

 これはただのつまらないこじつけかもしれないが、《ダンテの愛》と《クラーク・ソーンダーズ》の絵を続けて見た後で、この二つの絵からクリムトが生成するのではないかと思ったのである。

 衣服に包まれて肢体が見えない二人が寄り添っている。一方は、意匠化された背景と衣服の婦人像である。それが意匠化された衣に包まれて抱擁してキスし合う二人を連想させるのである。
 クリムトの絵を見たとき、その独創性に驚いたが、じつはヨーロッパにはその下敷きになる美的伝統が深く広くあったのではないか、と思わせるのだ(見当違いでなければ)。

【左】ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(1828-82)《ベアタ・ベアトリクス》1864-70年頃、
油彩・カンヴァス、86.4×66cm (図録、p. 171)。

【右】ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(1828-82))《プロセルピナ》1874年、
油彩・カンヴァス、125.1×61cm (図録、p. 181)。

 ロセッティの《プロセルピナ》は、図録の表紙や展覧会のパンフレットに用いられていて、ラファエル前派の代表的な作品らしい。色使いや写実性はたしかにラファエル前派らしさに溢れているが、私としてはロセッティならやや幻想的な《ベアタ・ベアトリクス》のほうが好もしい。

 《ベアタ・ベアトリクス》は、ダンテの恋人に仮託して描かれたロセッティの妻エリザベス・エレノア・シダルだという。アヘンの摂取過剰で若死にしたシダルの死をベアトリーチェの死に重ね合わせることで、その悲劇的な死から穏やかで幻想的な死へ昇華させようとしたのではないか。おそらく、画家の心性が強く反映した絵であって、それが《プロセルピナ》との際立った違いの理由であろう。

 現在を生きる私にとっては、19世紀中葉のアヴァンギャルド性を理解するのは難しいことだったし、それぞれの絵にことごとく強い物語性が込められていることもシンプルな受容を難しくしていると思う。
 もちろん、私は、絵画にとって物語性は本質的な属性だとは考えない、だが、物語性によって絵画の美的価値が著しく高められることがあることも確かなことだ。絵画を見る楽しみには、その物語性の乗り越え、文化的素養の障壁の乗り越えも含まれるようだ(私にはだいぶ難しいことだが)。
 

 

[1]『ラファエル前派展 ―英国ヴィクトリア朝絵画の夢』(以下、図録)(朝日新聞社、2012年)。
[2] ティム・バリンジャー、ジェイソン・ローフェルド(木下哲夫訳)「ラファエル前派 ヴィクトリア朝時代のアヴァンギャルド」『図録』 p. 11。
[3] 『西洋絵画の主題物語 II 神話編』(美術出版社、1997年) p. 230。
[4] 『Österrechische Galerie, Belvedere, Vienna』(Prestel, Munich・New York, 1996) p. 129。


『シャヴァンヌ展 ―水辺のアルカディア』 Bunkamuraザ・ミュージアム

2014年02月04日 | 展覧会

【2014年1月27日】

 ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(1824-1898)は初見の画家である。若い頃にとても安いので購入することができた「ファブリ世界名画集」の60冊にも入っていない。もっとも、その中の1冊にジョルジュ・ド・ラ・トゥールが入っているのをすっかり忘れて、図書館で画集を探したことがあったくらいで、私の記憶は当てにならない。

 シャヴァンヌ展の図録 [1] によれば、シャヴァンヌの画業は、次のような時代に位置づけられる

1863年のドラクラワ、そして1867年のアングルの他界により、19世紀前半の美術を豊かにしたふたつの絵画潮流であるロマン主義と新古典主義の代表作家がフランスから姿を消した。……英国ではターナー、フュースリ、ブレイクの、ドイツではフリードリヒの、スペインではゴヤの死により、ロマン主義の最後の火もすでに消えていた。
                                ベルトラン・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ [2]

 シャヴァンヌは、ギリシャ的な美によって理想郷、アルカディアを描くことに画業のほとんどをつぎ込んだという。シャヴァンヌが描き続けたアルカディアは、紀元前1世紀の古代ギリシャの詩人ウェルギリウスがその詩の中で描いたように、古代ギリシャ人にとっても現実にはない理想郷なのである。とすれば、シャヴァンヌが描くアルカディアの風景や人々がギリシャ的造形美を通してであろうことは容易に想像できる。シャヴァンヌのアルカディアは、古代ギリシャ的形象美を通して、あるいはギリシャ的形象美の彼方に見えるものであるだろう。
 時代はミレーやクールベのリアリズム、そして象徴主義やバルビゾン派、印象派の時代へ移っている。その中にあって、古代ギリシャ的アルカディアの世界を描くことに画業の道を見出したシャヴァンヌは、かなり特異なものであっただろう。美術館や市庁舎などの壁画・公共芸術としてギリシャ的アルカディアの情景を描いた画家には、じじつ、極端な不評と熱烈な支持とが相俟っていたということである。

【上】《休息》1867年頃、油彩、カンヴァス、108.5×148.0cm、
ナショナル・ギャラリー、ワシントンD.C. (図録、p. 55)。

【下】《休息(習作)》1861年、油彩、カンヴァス、61.5×89.0cm、
島根県立美術館 (図録、p. 51)。

 《休息》は、《労働》と対をなす絵として並べられている。ギリシャ的な理想郷で、ともに働き、ともに休息する平和で安楽な人々の様子を描いているのだが、習作も展示されていて、その比較がとても興味深い。

 中央には腰掛けて話をする老人(ホメロスと擬されている)、その周りで話に聴き入る人々と、子供も交えて団らんする家族がいるという構成である。習作ではよく目立つ糸巻き棒を持った裸の婦人が、本作では大釜を持った婦人に置き換わっている。何よりも特徴的なのは、腰を下ろしている二人の男性が半裸の女性に、ホメロスのすぐ脇の立派な体躯を持つ男性がミロのヴィーナス風のたたずまいの女性像に変わっていることである。
 本作で新たに登場した3人の女性と、前屈みで聴き入っている女性の姿は、明らかにこの絵の中で異質である。この4人を除けば、この絵は物語を語るホメロスとそれを熱心に聞くグループと休息を取りながら聞いているグループで調和的に構成されている。ホメロスの脇に立つ女性は、話に聴き入っているふうですらなく、ひたすら美しいポーズを取るために立っているとしか思えない。他の3人の女性もまた、欠かすことができないギリシャ的造形美の表現としてかなり強引に付加されているのだ。いわば、この絵は、画家がさらなるアルカディア、完成されたヘレニズム的美の世界へ向けて旅立つべく描いた力業の絵としてあったのだろう。



【左】《瞑想》1867年、油彩、カンヴァス、104.0×56.0cm、
個人蔵 (図録、p. 67)。

【右】《瞑想》1867年頃、白と赤のチョーク、黄褐色の紙、26.5×13.0cm、
個人蔵 (図録、p. 69)。

 ギリシャ的造形美を一人の女性像に託したのが、《瞑想》という作品であろう。右のチョーク画は習作ではなく、その錬成度において左の本作の後に描かれたものと推測されている。
 女性の肢体のわずかな変化や衣服の輪郭の明確化などに、画家の望ましいギリシャ的造形美へ向かうプロセスが窺えるようだ。

【左】《幻想》1866年、油彩、カンヴァス、263.5×148.5cm、
大原美術館 (図録、p. 63)。

【右】《幻想》1886-87年頃、油彩、カンヴァス、47.5×31.5cm、
個人蔵 (図録、p. 71)。

 《瞑想》がほとんど同時期に描かれた同じモティーフの微妙な変化を示しているのに対して、《幻想》と題された同じモティーフの二作品は、20年という年月を隔てて描かれている。
 腰掛けるミューズとペガサス、花を摘む少年という構図はまったく同じだが、青い色調の本作は冷たい神秘性を強調しており、一方、二〇年後の作品の色彩は柔らかな愛らしい印象さえ与えるほどの色彩に変わっている。これは、芸術家の気負いがなにがしかの自信(確信)と余裕に変化していることを示しているのではないだろうか。
 「色彩があまりきつくなく様式的にも恭順」で「収集家にとっては受け入れやすいものだった」 (図録、p. 71)と解説にあったが、絵を売ることを業とするべテラン画家の思惑もあったのであろうか。

《海辺の乙女たち》1879年頃、油彩、カンヴァス、61.0×47.0cm、
オルセー美術館、パリ (図録、p. 101)。

 《海辺の乙女たち》は奇妙な印象の作品である。3人のそれぞれの婦人は、まったく無関係に、それぞれの美的であるべき肢体として描かれている。ミロのヴィーナスを思わせる中央の婦人像に見られるように、ここではギリシャ的造形美としての女性像が主題であって、それが海辺であるかどうかは本質的であるとは思えない。
 エメ・ブラウン・プライスは、「確かなことは、ひとり一人が本質的に孤立していて孤独なことである。このことは人が集まっていることが常であるシャヴァンヌの公共芸術とは驚くべき対比をなす」 [3] と評している。この孤独は何に由来するのか。産業革命と資本主義の成立後の近代人の孤独なのか、芸術世界の激しい変容の中における画家の孤独なのか。もしかすると、この孤独の中に画家が生きている時代の心理的反映が秘められているのかもしれない。
 そういった意味では、《貧しき漁夫》はもっと特徴的である。

【左】《貧しき漁夫》1887-92年頃、油彩、カンヴァス、105.8×68.6cm、
国立西洋美術館(松方コレクション) (図録、p. 103)。

【右】ジョバンニ・セガンティーニ《湖を渡るアヴェ・マリア(第2作)》 1886年、
油彩、カンバス、120×93 cm、 個人蔵(ザンクト・ガレン) [4]。

 《貧しき漁夫》は、シャヴァンヌの画業の中ではまったく異質である。解説では、夕景の光の中、幼子が眠る小舟の上で祈りを捧げる貧しい漁夫の姿は、ミレーの有名な《晩鐘》の農夫の祈りに比されている。明らかに、アルカディアからもっとも遠い、貧しい者たちが現実を受け入れ、祈りに身を委ねるしかない情景である。
 この絵は、羊とともに小舟で帰宅する夕方の湖上で、羊飼いの親子が祈る情景を描いたセガンティーニの《湖を渡るアヴェ・マリア》とほとんど同時期に描かれている。先行するミレーの《晩鐘》が1857-59年頃に描かれたことを考えると、《貧しき漁夫》はこの19世紀中葉のヨーロッパの現実受容としての宗教的心理の直接的反映のようにすら思える。

【上】《諸芸術とミューズたちの集う聖なる森(部分)》1884-89年頃、油彩、カンヴァス、
93.0×231.0cm、シカゴ美術館 (図録、p. 117)。
【下】《諸芸術とミューズたちの集う聖なる森(全体)》 (展覧会パンフレットから)。

 シャヴァンヌの典型的な代表作《諸芸術とミューズたちの集う聖なる森》は、もともとリヨン美術館の壁画として描かれた460.0×578.0cmの大作で、上の絵は後にカンヴァスに描きなおされたものだ。展覧会の副題となった「水辺のアルカディア」の情景である。
 美の表象としての「ミューズたち」と擬人化された「諸芸術」(その中にはシャヴァンヌの絵の神もいるであろう)が集う水辺こそ、19世紀ヨーロッパの憧憬的世界であったのだろう。そこは理想的で完成された世界のためか、「動きと変化とはこの場にそぐわないだけでなく、余暇とけだるさ、そして現状維持(ステイタス・クオ)がここを支配している。シャヴァンヌの作品にはこの静止状態、平衡、そして究極の静寂の雰囲気が捉えられている」 [5] とプライスが語る世界が描かれている。

 正直に言えば、日本、その東北の寒村で生まれ育った人間の教養と知性にとってギリシャ的アルカディアはじつに遠い。ゼウスの暴力的素行ばかりでなく、様々な残酷な物語の世界を恐ろしい思いで受け入れながらギリシャ神話を読んでいた身にとって、同じ世界にアルカディアがあるとはとても思えなかったのである。想像力が貧しかったと言うしかないが、今となっては、こうした絵をギリシャ的な美しさの表象としてのみ受け入れるしかないのである。

【左】 《女の頭部》(〈聖ジェヌヴィエーヴの幼少期〉のための習作)1874-75年頃、
鉛筆、透写紙、21.8×17.6cm、ピカルディ美術館、アミアン (図録、p. 125)。
【中】 《裸の男の上半身》(〈プロ・パトリア・ルドゥス〉のための習作)1879年、 鉛筆・
白のハイライト、灰色に変色した青色の紙、20.3×16.5cm、ピカルディ美術館、
アミアン (図録、p. 128)。
【右】 《布の習作》(〈古代の光景〉のための習作)、 鉛筆・白のハイライト、
裏打ちされた透写紙、29.5×17.3cm、 リヨン美術館 (図録、p. 132)。

 展覧会にはたくさんの素描・習作も集められていた。いつものことだが、なかでも肉体の一部分だけを描いた素描に心惹かれた。ベルリン国立美術館展で見たフェデリコ・バロッチの《《キリストの割礼》のための祈る天使と手の習作》 [6] とか、アンドリュー・ワイエスの(不自由な身体を支える)地面についた手だけの素描 [7] などにも心を捉えられた記憶がある。部分がかき立てる全体像は見る者の想像力に委ねられていて、じっさいに具体的な全体像を想像しなくても、その部分は美しい全体の予兆として目の前にある。
 「神は細部に宿る」のだ。

 

[1]『水辺のアルカディア ―ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの神話世界』(「シャヴァンヌ展」図録(以下、『図録』)(島根県立美術館、2014年)。
[2] ベルトラン・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(太田聡訳)「孤独のピュヴィス・ド・シャヴァンヌ、決してひとりではない」『図録』 p. 8。
[3] エメ・ブラウン・プライス(宮澤政男訳)「ピュヴィス・ド・シャヴァンヌとアルカディアニズム」『図録』 p. 17。
[4] 『セガンティーニ ―アルプスの牧歌と幻想―』(神戸新聞社、1978年) T. 14。
[5] エメ・ブラウン・プライス「ピュヴィス・ド・シャヴァンヌとアルカディアニズム」『図録』 p. 19。
[6] 『ベルリン国立美術館展』(国立西洋美術館/TBSテレビ、2012年) p. 289。
[7] 『アンドリュー・ワイエス オルソン・ハウス』(丸沼芸術の森、2009年) p. 60。