かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

原発を詠む(28)――朝日歌壇・俳壇から(2015年10月26日~11月30日)

2015年11月30日 | 鑑賞

朝日新聞への投稿短歌・俳句で「原発」、「原爆」に関連して詠まれたものを抜き書きした。

 

八キロは全数致死のグラフありて原子力空母町に入り来る
             (横須賀市)梅田悦子  (10/26 馬場あき子選)

いつまでもこの瀬戸内の秋の日の鯊(はぜ)を釣りたし遠く原発
             (福山市)武暁  (11/2 高野公彦選)

子を抱き国境越ゆるシリア難民原発避難のわれらにも似て
             (国立市)半杭螢子  (11/8 高野公彦選)

黒色のフレコンバッグの積まれゐる飯舘村は紅葉に染まる
             (東京都)松崎哲夫  (11/8 馬場あき子選)

ヒロシマとナガサキは核フクシマは原子力ならオキナワはなに
             (枚方市)石川智子  (11/8 馬場あき子選)

福島は遠くにありて川内(せんだい)の原子炉二基が粛粛と起(た)
             (埼玉県)石塚忠次郎  (11/16 馬場あき子選)

兎田(うさぎでん)、猿田、狐田、狸石除染されてく山里の道
             (福島市)美原凍子  (11/16 馬場あき子選)

山裾の里も田圃(たんぼ)も霧の中ああ原発がまた動き出す
             (三重県)高山幸子  (11/16 佐佐木幸綱選)

またぞろの再稼働へとそちこちの原発すでに隠れ助走す
             (福島市)美原凍子  (11/16 佐佐木幸綱選)

原爆を落とせる国の軍隊が七十年経し今も居座る
             (宇都宮市)渡辺玲子  (11/16 高野公彦選)

なんてことしてくれたのと子や孫に言われたくなし原発稼働に
             (船橋市)山崎三千子  (11/30 佐佐木幸綱選)

軍艦も原子炉さえも抱えつつ秋深まりゆくヨコスカの街
             (横須賀市)梅田悦子  (11/30 馬場あき子選)

 

下北に反原発のましら酒
             (久慈市)和城弘志  (10/26 金子兜太選)

(こがらし)や海へ払ひし核の灰
             (相馬市)鹿又一武  (11/2 長谷川櫂選)

原発ともんじゅの町よ冬に入る
             (敦賀市)村中聖火  (11/30 長谷川櫂選)

フクシマの苦海にむかう片時雨
             (さくら市)大場公史  (11/30 金子兜太選)

産土は被爆してをり鮭還る
             (いわき市)馬目空  (11/30 金子兜太選)



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『ゴーギャンとポン=タヴァンの画家たち』展 パナソニック汐留ミュージアム

2015年11月14日 | 展覧会

【2015年11月14日】

 こんなことを書くのはいささか口惜しい気がするが、正直なところ、ゴーギャンの絵は得手ではない。好きでも嫌いでもないのだ。世界的に評価されている画家の絵に感動しない自分の美的センスを疑うが、こればかりは修正もごまかしもきかない。
 ただ、この美術展はぜひ見たいと思った。「ポン=タヴァンの画家たち」というタイトルに惹かれたのだ。ポン=タヴァンの画家たちという私のよく知らない画家たちの作品に出会えるだろうという期待である。


ポール・ゴーギャン《ポン=タヴァンの木陰の母と子》1886年、油彩・カンヴァス、
93×73.1cm、ポーラ美術館 (図録 [1]、p. 30)。

 のっけからの困惑である。《ポン=タヴァンの木陰の母と子》には、森の小径で休息する母子が描かれている。二人の前には、小道の右端から切れ落ちた低地に広がる林が広がっている。
 そのような空間把握でいいのだと結論づけたのは、この絵を見始めてからしばらくたってからである。斜めに走る小道の右端が切れ落ちていて、広がる林が低地になっていると受け取ることができず、それでいながら、右手の木々の根元は確かに低い位置に見えることにしばらく途惑っていたのである。
 上の結論にも一抹の不安はあって、帰宅して図録を眺めてもう一度自分を納得させたのである。作品を味わうプロセスが、描かれた風景の空間把握の作業にないがしろにされてしまったような気がして心残りがしたのだった。
 ゴーギャンがあまり遠近法に拘っていないことは知っているつもりだったが、自分があまりにも古典物理学(ニュートン物理学)な時空把握から抜け出せていないのではないかなどと考えた。そういえば、量子論を習い始めた頃、その物理的世界像をイメージできなくてだいぶ悩んだことがある。キアロスクーロのような古典的な描法を好みとする鑑賞力が近代絵画についていけない、ということにすぎないのかもしれないが……


ポール・ゴーギャン《ブルターニュの子供》1889年、パステル、水彩・紙、26.3×38.21cm、
福島県立美術館 (図録、p. 43)。

 《ブルターニュの子供》ではもう悩まない。ゴーギャンらしい平板さをそのまま受け止めることができるし、少女のスカートの色彩を楽しむことができる。ゴーギャンが人物を描くと、人間たちが醸し出す雰囲気は「ゴーギャン的雰囲気」としか呼べないような独特な画調が顕われてきて、いつも不思議に思う。


ジャン=ベルトラン・ペゴ=トジェ《昼寝》1911-12年、油彩・カンヴァス、88×130cm、
カンペール美術館(ロリアン美術館寄託) (図録、p. 93)。

 ペゴ=トジェの《昼寝》はとても印象的である。「総合主義」の画家らしい太い輪郭線の絵である。《昼寝》する男性の寝姿というか、ズボンやシャツの質感がとてもいい。太めの輪郭線なのに、衣服の柔らかさを通じて肉体のしなやかさを表現しているようだ。上部の木々によって区切られた遠景のオレンジ色の夕焼け空も印象的な作品だ。
 手前から向こうに連なっている石積の塀の距離観とこちらを向いている女性の距離観が違うように見える。石積塀を急速に小さくなるように描いた効果かもしれないが、距離からみれば婦人座像はやや大き過ぎるように感じる。こうした奥行き感のアンバランスな表現は、昼寝をする青年への女性の興味の強さを象徴してでもいるのだろうか。ちょっとした遠近感のアンバランスも含めて、太めで柔らかい線描輪郭が印象的な作品である。


【左】エミール・ベルナール《会話(ステンド・グラスのエスキス、サン=ブリアック)》1887年、
水彩・紙、28.4×21cm、ブレスト美術館 (図録、p. 49)。
【右】ポール・セリュジュ《先頭アーチの風景》1921年、油彩・カンヴァス、105×65cm 
(図録、p. 103)。

 私はあまりゴーギャンやポン=タヴァンの画家たちが唱えた「総合(統合)主義」を理解してはいないのだが、奥行きの感じられない平面的な表現や太い輪郭線と平塗りという特徴を極端にすればステンド・グラスのようになる。そんなふうに思っていた私の前に《会話(ステンド・グラスのエスキス、サン=ブリアック)》の展示が現われたときには、いくぶんその偶然に驚いたが、大いに納得もした。
 《会話(ステンド・グラスのエスキス、サン=ブリアック)》と比較すると、セリュジュの《先頭アーチの風景》の不思議な魅了が理解できそうだ。先頭アーチで区切られた風景は、リアルな遠景であると同時に、先頭アーチを外枠として太い輪郭線で区切られた1枚のステンドグラスのようにも見える。実際にはもう少し複雑で、手前の高い緑の木と紅葉する木が大きなステンドグラスの前にあるようにも見え、平面の重なりが奇妙で魅力的な空間を構成しているように感じる。


【左】ポール・セリュジュ《呪文或いは物語 聖なる森》1891年、油彩・カンヴァス、
91.5×72cm、カンペール美術館 (図録、p. 49)。
【右】ジョルジュ・ラコンブ《赤い土の森》1891年、油彩・カンヴァス、71×50cm、
カンペール美術館 (図録、p. 69)。

 《呪文或いは物語 聖なる森》や《赤い土の森》の幻想的な森の表現に、平面的な描法がとても効果的である。平塗りのせいか、どちらの作品も日本画的なフレーバーを強く感じる。
 この森の幻想性を描いた2作品は、ルネ・マグリットの《白紙委任状》[2] という森の中を行く騎手と馬の像を描いた騙し絵風の作品を思い起こさせる。そこでは、樹幹に隠れているはずの姿が見え、樹間から見えるはずの姿が消えている。人間の寿命をはるかに超える木々が群生する森は、いつでも私たちにとっては幻想の源泉なのかもしれない。


シャルル・フィリジエ《ル・プールデュの風景》1892年、グワッシュ・紙、
26×38.5cm、カンペール美術館 (図録、p. 62)。

 「シュルリアリズムの先駆者」(図録、p. 60)と呼ばれたシャルル・フィリジエの「真の代表作」(p. 62)と評されているのが《ル・プールデュの風景》である。輪郭線と平塗りには違いないが、他の総合主義の画家たちとは大いに異なっている。
 木立の上に立ち上がっている奇妙なものが大きな樹木であることを理解するのにそれなりの間があったし、鳥が飛んでいると思ったのはヨットで、背景が空ではなく海であることを知り、そして上端の灰色が装飾枠ではなく空であることをやっと知るのである。絵の前でそんなふうに時間が進んだ。
 これはたしかに風景画だが、輪郭線と平塗りを徹底していく先に見えてくる抽象の美への道筋を示している作品に違いない。それが抽象画の世界か、超現実主義の世界か、私には分からないけれども


マキシム・モーフラ《黄色い黄昏、海岸の泥炭地、ロクテュディ》1898年、
油彩・カンヴァス、51.5×65cm、カンペール美術館 (図録、p. 75)。


マキシミリアン・リュス《岩石の海岸》1895年、油彩・板、25×40cm、
カンペール美術館 (図録、p. 113)。

 《黄色い黄昏、海岸の泥炭地、ロクテュディ》も《岩石の海岸》も海岸の風景画である。泥炭地というものをまったく知らない私は、それの様子を知りたくてモーフラの作品に見入ってしまったのだが、泥炭地の実態が理解できるはずもなく、潮が引いて複雑な模様を見せる浅瀬に残された小舟の影などを眺めていたのである。
 マキシミリアン・リュスの絵については、今年の1月に『新印象派展』(東京都美術館)で《海の岩》や《工場の煙突》など数点の作品を見る機会があった。新印象派の点描の画家という括りであったが、点描でありながら筆致の力強さにうたれた記憶がある。
 《岩石の海岸》は小品というためか、必ずしも点描というわけではないが、筆致の力強さと色彩の大胆な変化など、以前に見た作品と同じような印象を受けて好もしい。


フェルディナン・ロワイアン・デュ・ビュイゴドー《藁ぶき家のある風景》1921年、
油彩・カンヴァス、81.5×60.5cm、カンペール美術館 (図録、p. 91)。

 《藁ぶき家のある風景》は、絵のど真ん中に太陽を配するという大胆さとその色彩の美しさにうたれた美術展で1番のお気に入りの作品である。絵の大半を空が占め、空の上部は青空へ、下部は夕焼け(あるいは、朝焼け)へと染まっていく。
 主題はあきらかに太陽が沈む(あるいは、昇る)時間帯の空気だと思うが、下部に小さく描いた藁ぶき家をタイトルに持ってくることも好もしく思える。
 ビュイゴドーはまったく初めての画家だが、図録解説に「点描主義と分割主義を混同した独自の道をたどって進んだため、絵画の核心からは遠ざかったままだった」とか、1921年制作の本作品は「かなり伝統的な印象主義のタッチ」(図録、p. 91) で描かれているという評があった。とすれば、私がビュイゴドーの他の作品に出会うことはもうほとんどないと思われる。貴重な1枚ではある。

 

[1] 『ゴーギャンとポン=タヴァン展』(以下、図録)(ホワイトインターナショナル、2015年)。
[2] 『マグリット展』(読売新聞東京本社、2015年) pp. 230-31。
[3] 『新印象派――光と色のドラマ』(日本経済新聞社、2014年) pp. 118-23。

 

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『マルモッタン・モネ美術館所蔵 モネ展』 東京都美術館

2015年11月13日 | 展覧会

【2015年11月13日】

 東京都美術館で『モネ展』があると知ったとき、それを見に行くことに一瞬の躊躇があった。理由は二つほどあって、その一つは、予想される混雑のことである。若い頃から「人酔い」をする質なのだ。学生時代、東京という街を見たくて二度ほど出てみたが、人酔いで早々に仙台に引き返したことがあった。退職後、東京の街歩きをするようになって、街中の混雑では人酔いをすることはほとんどなくなったが、室内での人混みにはまだ自信がない。
 もう一つの理由はとてもつまらないことで、それに思い当たって我ながらがっかりした。最近は美術展を見た感想をブログに書くのを慣らいとしている。モネは有名だし、見る機会も多くて、書くべきことがありそうにない、というのがためらいの理由になっていた。書くことがなければ、ブログを書かなければすむことで、まったくの本末転倒である。
 取るに足りない戸惑いでモネの絵がたくさん展示されている美術展を見ないなどという選択肢はありえない。とはいえ、JR上野駅公園口から美術館に向かう人の列の中で少し気後れしているのは確かなのだった。

 〈「印象、日の出」から「睡蓮」まで〉という惹句が添えられた美術展だが、《印象、日の出》の展示は終わっていて、後期は《ヨーロッパ橋、サン=ラザール駅》が展示されていた。じつは、このような目玉作品はあまりあてにはしていないのである。いつか、フェルメールの作品一点を目玉にした美術展で、作品前に群がる人々の背後からちらっと眺めて終わりにしたことがあった。そのときと同じように、《ヨーロッパ橋、サン=ラザール駅》の前は格段の人だかりである。それでも、なんとか満足する程度にながめることができた。


《ポリーの肖像》1886年、油彩・カンヴァス、74×53cm
 (図録 [1]、p. 89)。

 展示は、「家族の肖像」のコーナーから始まっていたが、人物画としては次のコーナー「モティーフの狩人I」に展示されていた《ポリーの肖像》がよかった。
 モネが1886年に訪れたベリール島で、モネの世話をした漁師の肖像だという。質素な身なりで、どんな気構えもない純朴そうな人物がすっとまっすぐにこちらを見ている。
 とても希有なことだが、その瞳に見つめられると思わずたじろいでしまうほどにイノセンスを体現している人間がいる。イノセントな聖性とでも呼べばいいのだろうか。ポリーなる漁師もそのような人間に見える。もちろん、それはそのようなイノセンスを描ききることのできるモネの画力にほかならないのだが。 


《ヨット、夕暮れの効果》1885年、油彩・カンヴァス、54×65cm (図録、p. 87)。


《オランダのチューリップ畑》1886年、油彩・カンヴァス、54×81cm (図録、p. 91)。

 《ヨット、夕暮れの効果》も《オランダのチューリップ畑》も中央に帯状に広がる赤色がとても魅力的だ。しかも、二つの作品とも、ほぼ真ん中にヨットと風車が配されている。《印象、日の出》の小舟のような役割を、ヨットと風車が果たしているのであろう。
 細かく筆致が流れる方向に風が吹き、水が流れているようである。リアリズムを超える美の抽象があって、しかもぎりぎりのところで風景画として成立する領域なのではないか、などといくぶん大げさなことを思ってしまう。


《睡蓮》1907年、油彩・カンヴァス、100×73cm 
(図録、p. 102)。

 この《睡蓮》には、驚かされた。どう見ても睡蓮が主題だとは思えないほど、水面に映る夕映えが強烈だ。睡蓮以外は、すべて水面に反射する光景である。
 この《睡蓮》と並べられて展示されていた作品が、下の《睡蓮》である。上図とまったく同じ構図で、夕焼けの空が日中の青空に変わっているだけだ。夕焼けの《睡蓮》を見た後では、こちらの《睡蓮》も水面に映りこむ柳と空が主題ではないかと思えてしまう。


《睡蓮》1903年、油彩・カンヴァス、73×92cm (図録、p. 103)。


《睡蓮とアガパンサス》1914-17年、油彩・カンヴァス、140×120cm
 (図録、p. 107)。


《睡蓮》1916-19年、油彩・カンヴァス、200×180cm (図録、p. 111)。

 《睡蓮》という題にもかかわらず水面に映る光景が主題ではないか、そう思ってしまう作品を見た後で、《睡蓮とアガパンサス》を見るとごく普通にタイトルが主題を表していることに安心する。
 その流れで1916-19年の《睡蓮》を見ると、柳や青空が水面に映りこんではいても、この作品も間違いなく睡蓮が主題であると確信できる。白黄色の小さな睡蓮の花をいくつか描きこむだけで睡蓮が主題となったと思った。ところが、1903年の《睡蓮》にも花は描かれている。ただ、手前から奥までどの睡蓮にも同じように花を描いたことで睡蓮の主題化が薄れたのではないかと推測する。
 しかし、誰かが《睡蓮》と題された作品はすべて睡蓮が主題であると言い切ってしまえば、わたしの感想はまったく意味をなさないのだが、そのように感じたことだけは間違いない。


【左】《ドルチェアクアの城》1884年、油彩・カンヴァス、92×73cm (図録、p. 81)。
【右】《日本の橋》1918-24年、油彩・カンヴァス、89×100cm (図録、p. 129)。

 モネの晩年の作品は、まったくといっていいほど私には言うべきことはないのだが、最後にたくさんの《日本の橋》の中から上の作品を挙げておく。この絵を前にした背広姿の二人連れの片方が「日本の橋らしいが、分からないね」と言っていたのを聞きとがめたというわけではないが、そんなこともあって挙げてみたのだ。
 《ヨット、夕暮れの効果》や《オランダのチューリップ畑》の風景画で感じた風景画として成立するぎりぎりの限界までの抽象がもっと過激に進められた、そんなふうに思える。それでも、明らかに具象画である。
 78歳を過ぎてからのこの作品に、アーチ橋を描いた44歳の作品《ドルチェアクアの城》を並べて、画家の成熟を考えてみたいと思ったが、ことはそう簡単ではない。ただ、風景を描いたターナーもまた晩年になって抽象画と呼んでもいいほどの絵を描いていたことを思い出した。天才的な画家は、この世界の具象のことどもから「美」という抽象をあたかも具体物のように抽出できるかのようである。


 [1] 『マルモッタン・モネ美術館所蔵 モネ展』(以下、図録)(日本テレビ放送網、2015年)。

 

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『アルフレッド・シスレー展――印象派、空と水辺の風景画家』 練馬区立美術館

2015年11月12日 | 展覧会

【2015年11月12日】

 アルフレッド・シスレーの絵をまとめて見る機会は、私にとっては初めてだが、印象派関連の美術展が多いせいか、作品を見る機会そのものは多い。最近だけでも、2013年12月に『印象派を超えて 点描の画家たち』展(国立新美術館)、2014年2月に『モネ 風景を見る眼』展(国立西洋美術館)、9月に『オルセー美術館展』(国立新美術館)、2015年3月に『ワシントン・ナショナル・ギャラリー展』(三菱一号館美術館)などで数点ずつのシスレー作品を見ている。
 シスレーは、私にとっての風景画というカテゴリーでイメージする絵画のほぼ中心に位置するもっとも好もしい画家の一人である(ヨンキントやピサロもいい)。プッサンやロイスダール、とくにドイツロマン派などのシスレー以前の風景画には、風景におけるドラマ性が強調されているように思うし、シスレー以後の風景画には風景を越えた美的表現に重心が移っている作品が多い。同時代のクールベの風景画にはリアリズムの持つ厳しさがある。
 シスレーの絵には、感情が揺すぶられるような圧倒的な感動は(正直に言って)ないのだが、心静かに眺めていられる、あるいは日々の暮らしでざらざらしてしまった感情を沈静化してくれるような風景の優しさが湛えられていると思うのだ。


《マルリーの通り》1879年、油彩・カンヴァス、38.0×55.2cm、
岡山、大原美術館 (図録 [1]、p. 30)。

 はじめに、展示作品の中で一番印象に残った(お気に入りになった)作品として《マルリーの通り》を挙げておく。石畳の歩道もあるが、馬車の通る道は土の道である。現代都市のように細々と区割りし、所有権を主張しているような街並みとは異なり、家々の間に大きなスペースを空間の余剰のように残している通りの風景である。
 日本の東北の小さな農村で生まれ育って、フランスなどとはなんの縁もない私にも、この風景はとても「懐かしい」のである。


《マントからショワジ=ル=ロワへの道》1872年、油彩・カンヴァス、46.0×56.0cm、
公益財団法人吉野石膏美術振興財団(山形美術館に寄託) (図録、p. 22)。


《麦畑から見たモレ》1886年、油彩・カンヴァス、51.0×73.0cm、
東京、松岡美術館 (図録、p. 40)。


《ロワン河畔》1891年、油彩・カンヴァス、59.6×57.4cm、
神奈川、ポーラ美術館 (図録、p. 42)。

 いつの頃からか判然としないずっと若いときから、洋画における風景画というと楡やポプラの並木のある街道が描かれている光景を思い浮かべてしまう。そのようなイメージがどんなプロセスや経験で形づくられたものか記憶にはまったくないが、それはたぶん私にとってもっとも好もしい風景画にちがいない。
 上の三作品は、並木道という私の原初的なイメージそのものというわけではないが、木々が主要な構成要素になっている。樹種は分からないが、《麦畑から見たモレ》に描かれているような細く高く立ち上がる木に心惹かれる。このような樹形の木は、日本ではポプラぐらいしか思いつかないが、森や林ではなく、街道沿いの並木にふさわしい樹形ではある。
 《ロワン河畔》では、木々のある風景に水辺の風景が加えられている。「印象派、空と水辺の風景画家」という美術展のサブタイトル通り、水辺の風景が主題の作品も多く展示されていた。


《サン=マメス》1885年、油彩・カンヴァス、54.5×73.0cm、
公益財団法人ひろしま美術館 (図録、p. 38)。


《サン=マメスのロワン河》1885年、油彩・カンヴァス、38.7×55.6cm、
神奈川、ポーラ美術館 (図録、p. 39)。


《レディース・コーヴ、ラングランド湾、ウェールズ》1897年、油彩・カンヴァス、
65.0×81.0cm、東京富士美術館 (図録、p. 43)。

 水辺を描いた作品で印象が強かったのは、《サン=マメスのロワン河》である。空と水の青、木々の緑、枯れ草の色の中で二軒の家の屋根の赤が映えている。シスレーの絵の多くを知っているわけではないが、シスレー作品にこのような色彩配置は珍しいのではないかと思って眺めていた。
 《レディース・コーヴ、ラングランド湾、ウェールズ》は、フランスではなくイギリスの風景だが、砂浜と岩の岬と海と空という構図の作品はほかの画家でも何度も見ているように思う。今は、モネの「波立つプールヴィルの海」[2] ぐらいしか思い浮かばないが、画家たちにとって構図的に安定した魅力があるのだろう。


《ルーヴシエンヌの一隅》1872年、油彩・カンヴァス、45.9×39.8cm、
東京、三菱一号館美術館寄託 (図録、p. 23)。


《ヒースの原》1880年、油彩・カンヴァス、50.0×73.0cm、
個人蔵 (図録、p. 31)。


《サン=マメスの平原、2月》1881年、油彩・カンヴァス、55.0×73.0cm、
サントリーコレクション (図録、p. 34)。

 木々の緑、青い空と海ばかりではない。当たり前のことだが、冬枯れで葉をすっかり振るい落した冬の風景も描かれている。若くて体力任せに山歩きをしていた頃、奥深い山里に住む老人に「山を知りたければ、冬の山を歩け」と教えられたことがある。葉を振るい落した冬枯れの山では景色が遠望できて、山の地形をよく観察することができるから、ということだった。危険な冬山に挑む度胸がなくてそれは適わなかったが、冬枯れの木々の間から、シスレーの描く台地の構造が見えるのではないか、などと思ったのである。
 木々の葉に遮られずに遠望できるという感じは《サン=マメスの平原、2月》だけで、しかもこの絵でもとくに見えていなかった大地の構図が顕わに見えてくるということはない。考えてみれば当然のことで、緑の木々を描いたにせよ、そこから見え隠れする大地の構造の魅力を描くのが風景画なのであって、それを描ききることが画家の力量というものだろう。
 むしろ、3枚の絵を並べてあらためて興味がわいたのは、葉が1枚もない木の構造がそれぞれ異なっているということだった。明らかに樹種の異なる木の幹と枝が描き分けられている。ここにも優れた風景画の秘密があるように思える。異なった樹種であることを明晰に把握した上でこれらの木々は風景に配されているのだ。もちろん、優れた風景画家は優れた植物学者だなどというつもりはない。ただ、緑の木々だなどという漠然とした括りで、風景に向かい合う私(たち)とは違うということだけは確かなことだ。


鈴木良三《モレーの寺院》1931年、油彩・カンヴァス、80.3×65.2cm、
目黒区美術館 (図録、p. 71)。

 最後に「シスレーの地を訪ねた日本人画家」というコーナーが設けられていて、中村彝、正宗得三郎、中村研一、鈴木良三の作品が展示されていた。
 鈴木良三の《モレーの寺院》は、シスレーの《モレの教会、夕べ》とまったく同じ構図で描かれているが、教会の壁の質感に圧倒された。壁の厚みが見えるのだ。

 20点のシスレー作品の展示というのは個人展としてけっして多いわけではないが、一方、これだけの作品が日本国内で所蔵されているということには少しならず驚く。丁寧なことに、図録には「国内所在のシスレー作品リスト」(p. 162) が添えられていて、さらに同数の非展示の作品の所在も示されている。
 シスレー作品を見終えた後、続く部屋には「シスレーが描いた水面・セーヌ川とその支流 ―河川工学的アプローチ―」というきわめて学術的な展示があった。図録にはその内容が収録されているばかりではなく、シスレー作品に関わる多くの資料も収められて、大部の図書になっている。展示作品鑑賞後の楽しみも多く残されるという美術展であった。


[1] 『アルフレッド・シスレー展――印象派、空と水辺の風景画家』(以下、図録)(練馬区立美術館、2015年)。
[2] 『モネ、風景をみる眼――19世紀フランス風景画の革新』(TBSテレビ、2013年)p. 82。

 

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『ジョルジュ・ルオー展――内なる光を求めて』 出光美術館

2015年11月11日 | 展覧会

【2015年11月11日】

 ジョルジュ・ルオーの作品は、出光美術館の膨大なコレクションばかりではなく、いくつかの美術館の所蔵作品として見ることができる。私の記憶では、損保ジャパン東郷青児美術館とパナソニック汐留ミュージアムが所蔵品を展示していたと思う。他にもあったかもしれない。
 パナソニック汐留ミュージアムでは一昨年、『モローとルオー』という美術展が開催されている。さらにその前年、損保ジャパン東郷青児美術館で開かれた『アンリ・ル・シダネル』展では、ル・シダネルの妹マルトと結婚したルオーの絵が別室に展示されていて、二人の画家の対照的な絵がとても印象深かった記憶がある。


《ギ・ド・シャラントネー像》1909年頃、水彩、グワッシュ、パステル・紙、
35.4×33.5cm (図録 [1]、p. 13)。

 会場に入ってすぐに目を惹いたのが《ギ・ド・シャラントネー像》だった。水彩でルオーら8しからぬあっさりした描写ということもあったが、「少し緊張した面持ちの少年」という解説文にあるように、たしかに少年の表情の緊張した感じに強く惹かれたのだ。
 大人と違って、幼いものの緊張した精神は多くの可能性の源泉だろうと思う。大望や希望に成長する緊張、喜びや悲しみに変化していく緊張、絶望や苦悩に落ちこむ前の緊張。さまざまな未来予持を抱えている少年の緊張感のようなものを感じてこの絵に惹かれたのだと思う。


《エクソドゥス》1911年、油彩・紙(カルトンで裏打ち)、63.3×84.0cm、
右下に署名 (図録、p. 21)。

 一昨年の『モローとルオー』展で《避難する人たち(エクソドゥス)》[2] というルオーの作品に感動して、次のような感想を書いたことがある。
 「エクソドゥスと称しながら、この絵はモーゼの民ではなく、二〇世紀の避難民を描いて いる。たとえば、いまやそれはシリアの民であり、フクシマの民である。現代の民は、モーゼの民のように神に導かれて海を渡ることができるのか。ルオーの描く民は神に導かれているだろうが、それでも彼らは黄昏れどきに脱出して、夜へ歩き出すのである。」
 この《エクソドゥス》にも次のような解説文が附されていて、《避難する人たち(エクソドゥス)》を見たときの感想にほとんど付け加えるべきものがないのである。

重い荷物を背負い、体を前に傾けながら、薄暗がりの中をあてどなく黙々と歩き続ける難民の家族。彼(女)らは、ルオーが幼い頃育った下町〈悩みの果てぬ古き場末〉の住人であり、なんらかの理由でそこを立ち去らざるえなくなつた人々、またはそこへと逃れて来る人々の姿である。〈逃れゆく人たちles fugitifs〉〈移住者たちles émigrants)〈貧しい家族pauvre famille)とも題され、以後も描き続けられていくこの主題は、ベルナール•ドリヴァルによれば、1909年のブロワの小説『貧しき者の血』の影響があるという。 (図録、p. 126)


【左】《「ミセレーレ」13 でも、愛することができたなら、なんと美しいことだろう》1923年、
エリオグラヴュール、シュガー・アクアティント、ルーレット、ドライポイント、バーニッシャー、
48.1×36.2cm(65.1×50.5 cm)、左下に頭文字と年記 (図録、p. 36)。
【右】《「ミセレーレ」42 母親に忌み嫌われる戦争》1927年、エリオグラヴュール、
シュガー・アクアティント、ルーレット、ドライポイント、スクレイパー、バーニッシャー、
58.3×44.0cm(64.8×50.2cm)、左下に年記と署名 (図録、p. 45)。

 銅版画集『ミセレーレ』に収められた多くの作品の展示のなかで、《「ミセレーレ」13》に描かれた子どもの頬の丸みをとても珍しく思った。たぶん、それはルオーが描いたキリストの顔の描写との差異への驚きのような気分なのである。「でも、愛することができたなら、なんと美しいことだろう」という大きな希望と暖かさを象徴するような子どもの顔のふくよかさなのだろう。
 一方、まったく同じ構図ながら「母親に忌み嫌われる戦争」というネガティヴな主題の《「ミセレーレ」42》では、ぴったりと寄り添う《「ミセレーレ」13》の親子に比べて、二人の間には微妙な空間が存在する。あたかもこの隙間に戦争への親子の不安が漂っているかのように思える。

 

《「ミセレーレ」28 “我を信ずるものは、死すとも生きん”》1923年、
エリオグラヴュール、シュガー・アクアティント、アクアティント、ドライポイント、
57.7×43.5cm(64.8×50.5cm)、左下に署名と年記 (図録、p. 41)。

 《「ミセレーレ」28》は、教会堂によって象徴される神の国を意味しているのだが、この絵は、多くの死者たち(骸骨)を描いた小山田二郎の《愛》や《母》という絵 [3] を強く思い出させる。
 小山田の《愛》に描かれていたのは、無数の人を包み込むであろうマリアの愛なのだが、その愛は無数の死者たちを包含することで成り立っているようなのだ。マリアから母親へと一般化した《母》もまた、背後に多数の死者が配置されているのだった。 《「ミセレーレ」28》に描かれた主題もまったく同様に、死者と救済という宗教の根源的な存在理由がそこには示されている。


【左】《「ミセレーレ」10 悩みの果てぬ古き場末で》1923年、エリオグラヴュール、シュガー・アクアティント、
ドライポイント、バーニッシャー、56.5×42.1cm(64.8×50.5 cm)、左下に署名と年記 (図録、p. 34)。

【右】《ひそやかな喜び》1930年代、グワッシュ、墨、エリオグラヴュール、アクアティント、エッチング・紙、
56.6×41.8cm(65.2×50.2cm) (図録、p. 53)。

 ルオーは、銅版画の主題を油彩やグアッシュでヴァリアントとして描いたという。そのなかで《ひそやかな喜び》は、《「ミセレーレ」10》版画の試し刷りを下絵として描いている。
 構図がまったく同じなのに、モノクロの版画と色彩がのった絵でこれほど印象が反転してしまうというのは驚きである。「悩みの果てぬ古き場末で」や「ひそやかな喜び」というタイトルの文言に感情が誘引されたこともあるだろうが、絵そのもの印象が「悩み」から「喜び」に反転しているのは間違いない。
 色彩による主題の反転が可能であることに、絵画芸術の持つ力、秘術を見るようで大いに感心してしまった。


「《受難》19 “…二つの宮殿に沿うこの荒涼とした道“」1935年、
油彩・紙(カンヴァスで裏打ち)、30.2×19.5cm(45.0×34.5cm)、
左下に署名、余白上部に書込み (図録、p. 75)。

 連作油彩画『受難』に含まれる多数の作品も展示されている。キリストそのものの絵、ゴルゴダの丘や磔刑、受難をめぐる聖書の物語が描かれているのだが、「《受難》19 “…二つの宮殿に沿うこの荒涼とした道“」が、妙に印象に残った。
 二つの建物の間の道を描いた小品で、小品ゆえに線描も色彩もごくシンプルなのに、遠近法で急に狭くなる道になぜかよくわからない惹かれ方をする。しばらく眺めていたが、いっこうに理由は分からないのだった。


《伝説の風景》1938年、油彩・紙(カンヴァスで裏打ち)、73.5×103.0cm、
右下に署名 (図録、p. 99)。


《たそがれ あるいは イル・ド・フランス》1937年、油彩・紙(カンヴァスで裏打ち)、
101.7×72.6cm、右下に署名 (図録、p. 101)。

 《伝説の風景》はルオーらしい線を堪能できるし、《たそがれ あるいは イル・ド・フランス》では色彩の豊かさが十分に楽しめる。赤を主調とした夕景であるが、所々の鮮明な青の美しさが際立っていると思う。


【上左】《辱めを受けるキリスト》(部分)1912年頃、油彩・紙(カンヴァスで裏打ち)、99.6×61.2cm、
右下に署名 (図録、p. 22)。

【上中】《「ミセレーレ」58 “我らが癒されたるは、彼の受けたる傷によりてなり”》1922年、
エリオグラヴュール、シュガー・アクアティント、ルーレット、バーニッシャー、
57.9×47.2cm(65.5×50.5cm)、左下に年記と頭文字 (図録、p. 52)。

【上右】《“イエスがあなたを慰めに来たということは、ひたむきな巡礼者よ、それはあなたが許される
であろうということです”》1930年、墨、グワッシュ、パステル・紙、37.7×33.2cm、
左下に署名と年記 (図録、p. 61)。

【下左】「《受難》23 “思い、深いまなざし“」(部分)1935年、油彩・紙(カンヴァスで裏打ち)、
30.0×20.0cm(45.2×34.7cm)、右下に頭文字、余白上部に書込み 
(図録、p. 77)。

【下中】《キリストの顔》1930年代、油彩・紙(カンヴァスで裏打ち)、44.9×27.0cm 
(図録、p. 94)。

【下右】《キリスト(とパリサイ人)》(部分)1938年、油彩・紙(カンヴァスで裏打ち)、
74.3×104.5cm、右下に署名 (図録、p. 98)。

 ルオーの作品にきわめて多いのが、キリスト像である。キリストの顔だけを描いた作品もたくさんある。そこで、1912年41歳から1938年67歳までの間に描かれたキリストの顔を並べてみた。
 成熟していく画家とその画家が描くキリストの表情の変化を見たいと思ったのだが、期待したほどの変化はない。たしかにルオーの絵(とくに油彩画)はいつも安定していて、ルオーそのものとしか呼びようのない絵ばかりなのである。
 とはいえ、上段の3枚と下段の3枚には違いがあるように思える。上段ではキリストは目を見開いてこちらを見つめているのに、下段では次第に目を閉じて最後には黙考するかのように変化している。それは、あたかも壮年時代の湧きあがるような信仰心から、老熟期の沈静へ向かうルオーの精神を映し出しているかのようではないか。


【左】《ピエロ》1953-56年、油彩・カルトン(パネルで固定)、61.2×47.2cm、
G.ルオーのアトリエ (図録、p. 111)。

【右】《アルルカン》1953-56年、油彩・カルトン(パネルで固定)、
70.0×52.5cm (図録、p. 112)。

 会場の最後の辺りで、とても目を惹いたのが並べられて展示されていた《ピエロ》と《アルルカン》の2作品である。このアルルカンは仮面をつけていないので、主題も構図もまったく同じに見えるのだが、会場に立ち止まって眺めたとき、とても大きな違いを感じた。ところが、図録を開いてゆっくりと眺めていたら、あんなに強く感じたはずの違いがどんなだったか、まったく思い出せないのである。
 二人の表情にその違いがあったのは確かなのだが、どちらをどう感じたかを思い出せないのである。強いて言えば、《ピエロ》の善良と《アルルカン》の悪意、ということかもしれない。これは後付けで考えたことなので、ただの牽強付会かもしれないのである。


《「ミセレーレ」44 わが美しの国よ、どこにあるのだ?》1927年、エリオグラヴュール、
シュガー・アクアティント、ルーレット、ドライポイント、スクレイバー、バーニッシャー、
42.2×59.0cm(50.7×65.6cm)、左下に年記と署名(図録、p. 46)。

 最後に銅版画集『ミセレーレ』のなかから《わが美しの国よ、どこにあるのだ?》と題された1枚を挙げておく。
 この絵を、「美しい国」などといういつの時代にもありもしなかった幻想の日本をお題目として、この国を戦争ができる「普通の国」にしたがっている愚昧な政治家たちに捧げておく。

 

[1] 『ジョルジュ・ルオー展――内なる光を求めて』(以下、図録)(公益財団法人 出光美術館、昭和27年)。
[2] 『モローとルオー――聖なるものの継承と変容』(淡交社、2013年) p. 175。
[3] 『生誕100年 小山田二郎』(府中市美術館、2014年)。

 

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【書評】ジョルジョ・アガンベン(岡田温司、多賀健太郎訳)『開かれ――人間と動物』(平凡社、2011年)

2015年11月10日 | 読書

 

あらゆる眼で生きものは見ている
開かれた世界を。ただ 私たちの眼だけが
まるで逆さまのようだ そしてまったく生きもののまわりに
彼等の自由な外出を囲んで 罠として置かれている
外にあるものを 私たちはただ動物の顔から
知るだけだ なぜなら既に幼な児を
私たちは振り向かせ 無理に背後に向って
物の姿を見させているからだ それは動物の眼のなかで
あんなに深い 死から解放されている 開かれた世界ではない
死を見ているのは私たちだけだ 自由な動物は
その没落をいつも背後にして
まえには神をのぞみ見ている そして彼等が歩むときは
永遠の中へ歩んでゆくのだ ちょうど泉がそうであるように。
私たちはいちどもただの一日(ひとひ)たりとも
花がそのなかへ無限に立ちのぼって開く
純粋な空間をまえにしたことはない あるのはいつも世界
そしていちども否定のない「何処でもないところ(ニルゲンツ)」であることはない
     ライナー・マリア・リルケ「ドゥイノの悲歌 第八の悲歌」より [1]

 

 「開かれ」は、「ドゥイノの悲歌」の第八の悲歌でリルケによって詠われたものをハイデガーが哲学的に転倒してみせた概念である。アガンベンは、世界や環界への存在の「開かれ」のありようで人間と動物のあいだの異同を論じようとしている。
 人間とは何か、人間はいかなる根拠で人間たり得るか、という設問はヒューマニズムのもっとも根源的な主題である。それは、ナイーヴには、人間は他の動物とは違うということを強調することで語られることが多かった主題でもある。『ホモ・サケル』や『アウシュヴィッツの残りのもの』で「人間ならざる人間」の存在を問い続けてきたアガンベンが、本書ではヒューマニズムの系譜で語られてきた人間と動物を同時に俎上に載せている。

 アガンベンが最初に取り上げるのは、きわめて暗示的な「アンブロジアーナ写本の細密画」である。ただし、多賀健太郎による「解題」には、「巻頭と第一九章に挿入された二枚の絵をあらためて眺めてみよう」(p. 181) と記されているものの実際には掲載されてない(第一九章の絵は挿入されている)。残念なことだが、アガンベンの描写から想像するしかない。

 ミラノのアンブロジアーナ図書館には、貴重な細密画を含む一三世紀のヘプライ語聖書が一冊保管されている。第三写本の最後の二頁全面に描き出されているのは、神秘的かつメシア的な霊感に充ちた情景である。(……)最後の頁(136r)は、二つの部分に分かれ、上部には「三匹の太古の動物たち」が置かれている。(……)
 しかし、とりわけわれわれの興味を惹くのは、写本を閉じるという意味でも、人類の歴史を締めくくるという意味でも、最後のものとなる情景である。そこには、最後の審判の日における義人たちのメシア的な宴が描かれているのである。二人の楽人の音楽に活気づいた楽園の木陰で、冠をつけた義人たちは、豪華な御馳走を並べた食卓についている。メシアの世において、トーラーの淀を一生涯遵守した義人たちが、適正な方法に則って屠られたかどうかを一切気にすることなく、レヴィヤタンやべへモー卜の肉の御馳走にありつける、という考えは、ラビ伝承ではきわめておなじみのものである。だが、驚くべきは、今日にいたるまで言及されることがなかった部分にある。細密画家は義人たちを、冠の下に人間の姿としてではなく、見紛いようもない動物の頭部をもった姿で描いていたのである。この絵の右手にいる三人の義人たちには、終末論的な動物たちのなかでも、鷲の獰猛な嘴、牛の赤茶けた顔、獅子の頭部が認められるだけでなく、図中のそれ以外の二人の義人も、一人は驢馬のグロテスクな特徴を、もう一人は、豹のような横顔を見せている。さらに、二人の楽人もまた動物の頭を戴いている――とくに右側の人物がいっそうわかりやすいだろうが、彼は猿のような神妙な面持ちでヴィオールとおぼしき弦楽器を奏でている。 (pp. 11-2)

 最後の審判で生き残るのは「完全な人間性を体現する義人たち」であり、「イスラエルの生存者を代表する人々」(p. 13) である。メシア到来の時、その義人たちが「動物」の頭部を持つ「人間」、動物人(テロモルフォ)として描かれている意味を、アガンベンは「最後の審判の日、動物と人間の関係が新たなかたちへと和解され、人間そのものがその動物的な本性との宥和を告げるだろう、ということだった」(pp. 14-5) と推測している。
 究極の世界で人間と動物が宥和を遂げるという考えは、近代哲学にも存在する。ヘーゲル-コジェーヴ的な歴史の終焉における人間の完結の姿である。歴史が終焉を迎えた後、つまり歴史以後(ポスとストリコ)とは、「ホモ・サピエンス種という動物が人間になるという忍耐強い労働と否定の過程を経て、それがついに完結を迎える暁のこと」(p. 17) で、次のようなコジェーヴの一文を引用している。

歴史の終焉における〈人間〉の消滅は、全宇宙的な終末(カタストロフ)ではない。すなわち、自然界は永遠に値するものでありつづけるのである。それは生物学的な終末ですらない。すなわち、〈人間〉は、〈自然〉や所与の〈存在〉と一致する動物として生きつづけるのである。消滅するものとは何かといえば、それは、本来の意味での〈人間〉、すなわち所与を否定する〈活動〉であり〈誤謬〉であり、総じていうなら、客体に対立する主体なのである。実際、人間的〈時間〉の終焉、もしくは〈歴史〉の終焉、つまり、本来的な意味での〈人間〉、もしくは自由かつ歴史的な〈個人〉の決定的な根絶は、端的にいえば、語の強い意味における〈活動〉の廃棄を意味している。このことが実質的に示しているのは、血腥い戦争や革命の消滅である。さらにまた、それは〈哲学〉の消滅でもある。〈人間〉がもはや本質的な仕方で自分自身を変革しなくなるや否や、〈世界〉と〈人間〉自身の認識の基底にある(真の)諸原理を変革する動機もなくなってしまう。だが、それ以外のものすべて、いいかえれば、芸術、愛、遊びなど、要するに人間を幸福にするものすべては,際限なく継続してゆくのである。 (Kojéve [2]、p.18)

 この主張に対し、コジェーヴの年長の弟子であり、象徴的な誌名の『アセファル(無頭人)』という雑誌を発行していたジョルジュ・バタイユは、「芸術、愛、遊びなど」が「ただたんに動物的実践へと送り返されてしまった」(p. 20) ということが受け入れられず、「用途なき否定性」として人間は存続すると反論する。それはあたかも、アンブロジアーナ写本の細密画に描かれたメシア到来後の世界を生きる動物人に対応するような、歴史の終焉以後を生きる無頭の人間「アセファル」を措定しているかのようである。
 しかし、動物人(テロモルフォ)や無頭人(アセファル)には人間と動物の存在論的な象徴的関係性ないしは魅力的なアレゴリーが含意されているように思うものの、私自身はメシアの到来や歴史の終焉にどのようなリアリティも感じることがない。
 さて、おそらくほとんどの人間はいつもナイーヴに自己の中に動物性を見ている。

 ビシャによれば、あらゆる高等的な有機体において、あたかも二匹の「動物」、すなわち内部に存在する動物外部に生きる動物が同居しているかのようである。前者、つまり、内部に存在する動物の生――ビシャの定義では「器質的(オルガーニュ)な生」――は、いわば盲目で意識を欠いた一連の諸機能の反復(血液、呼吸、消化、排泄などの循環)にほかならない。かたや後者、つまり、外部に生きる動物の生――ビシャにとって「動物的な生」という名称に値する唯一の生――は、外部世界との関係を介して規定される。この二匹の動物は人間のなかに同居してはいるが、一致してはいない。内部の動物の器質的な生は、胎児にあっては、動物的な生に先立って始まり、老化や臨終の際にあっては、外部の動物の死後まで生きつづける。 (pp. 34-5)

 意識を欠いた諸機能の反復としての「器質的な生」は、植物的な生の機能を担っている。近代医学は、この器質的な生を人間から分節化できることをよりどころとしていたし、近代国家の生政治はこの植物的な生を統治すべき人間に置き換えてしまったのである。

かくして、植物における生と関係からなる生、器質的な生と動物的な生、動物的な生と人間的な生の分割線(チェズーラ)は、動く境界線として、とりもなおさず生きた人間の内部に移動するのであり、このような内的な分割線を欠くならば、人間的なものと人間的でないものとを決定するということ自体、おそらく不可能になろう。 (p. 36)

 人間の内部に動物と人間の分割線があるとすれば、「新たな仕方で提起されねばならないのは、まさに人間――そして「ユマニスム」――という問題」(p. 36) だとアガンベンは言う。

もし万が一にでも、動物的な生と人間的な生とが完全に重なり合うとすれば、人間も動物も――そして、おそらくは神でさえも――もはや考察されえないだろう。だからこそ、歴史以後(ポストストーリア)に到達するということは、人間と動物の境界線が画定されていた、歴史以前(プレイストリコ)の閾をふたたびアクチュアルなものにする、ということを必然的に意味しているのである。  (p. 44)

 アクチュアルな歴史以前の認識論に立ち至ることに、私はもちろん賛成する。そして、アガンベンはまず手始めとして、トマス・アクィナスの「人間たちが動物を必要としたのは、おのれの本性から経験的認識を導き出すためだった」という認識を強く批判する。

おそらく強制収容所や絶滅収容所もまた、この種の経験=実験、すなわち、人間か間かを決定しようとする極端かつ途轍もない企てといえるだろう。そして、この企ては、最後には、人間と間とを弁別する可能性そのものを破局へと巻き込んでいくのである。 (p. 46)

 動物から人間を弁別する思考・概念を、アガンベンは、人間を生み出す装置と見なして「人類学器械」と呼ぶ。たとえば、近代生物学における分類学の泰斗リンネのそれは、「人間の持つ種としての特性は、ただおのれを認識できるということだけである」(p. 52) という考えである。

人類(ホモ)とは、「人間の形をした(アオントロポモルフォ)」(リンネが『自然の体系』第一〇版まで一貫して使用した用語にしたがうならば、「人間に類似する」)ものとして構成された動物であり、この動物が人間的たりうるためには、人間ならざるもののうちにみずからを認識しなければならないのである。  (p. 54)

 生物学に対して、人文主義(ユマニスム)もまた人類学器械となる。しかし、「人文主義のマニフェスト」(p. 56) と呼ばれるピコ・デッラ・ミランドラの演説が示したものは、人類を動物と人間の間に宙づりにしたままであった。

汝自身のいわば自由意志を具えた誉れ高き造形者にして形成者として、汝は、汝が望むような姿で汝自身を模(かたど)ることができる。汝は、下位の存在にある獣へと頽落することもできるだろうし、また心がけしだいでは、上位に存する神的なもの、と転生することもできるだろう。 (Pico della Mirandola [3]、p. 58)

 人類が宙づりのまま、動物と人間の端境に置かれていることを明確に述べたミランドラの文言をジグムント・バウマンも引用している。神は人間をどのように仕立てたかを、ミランドラは次のように語る。

〔神は人間を〕明かされていない自然の創造者に仕立て、人間を宇宙の真ん中に据え、人間にこう告げた。「お前には、既定の場所もお前だけの形も特別な機能も与えていない。おお、アダムよ。そういうわけだから、自分の欲望と判断にしたがって、お前が望むどの場所でも、どの形でも、どの機能でも持つがよい。何の制約も受けないお前は、自分自身の性格を自分で決めるがよい……」。 (Pico della Mirandola [4])

 つまり、ユマニスムという人類学器械が生み出したものとは、「人間そのものの不在の発見なのであり、人間の尊厳=序列(ディグニタース)の取り返しようのない欠如の発見」(p. 54) だったのである。ここでは、人間と動物は宥和することもなく、分割線を隔てて隣接する存在同志でもない。人間は、「動物」と「ヴァーチャルな人間存在」とに引き裂かれた時空に「何ものでもなく」吊り下げられているだけだ。
 次なる「人類学器械」は、人類学そのものである。「人間と動物を隔てるものは、人間が言葉を持っていることだ」という言説は、いまや巷にありふれている。しかし、言葉を人類学器械に導入しても、アポリアは残される。
 進化論的には人間は言葉を獲得した猿であるが、進化系列の途中で人間が発生するが、そのとき言語の発生と機を一にしていたとは考えにくい。

 人間と動物を区分するのは言語である。しかし、言語は人間の心的構造のなかに先天的に具わる自然的な所与ではない。それどころか、言語は歴史の産物なのである。したがって、そういうものとしては本来、言語は動物にも人間にもあてがうことはできない。もしこの要素を捨象するならば、話さない人間――まさしく言葉をもたない人(ホモ・アラルス)――を想定しないかぎり、人間と動物の差異は無効になってしまう。ここでいう話さない人(ホモ・アラルス)は、動物から人間への橋渡しの役割を果たすはずであろう。しかしながら、言葉をもたない人が、たんに言語の投射する影、言葉を話す人間にとっての前提条件にすぎないことは明白である。われわれはむしろ、言葉を話す人間を介して、つねに人間の動物化(ヘッケルの猿人のような動物人)か、動物の人間化(人猿)かのいずれか一方だけを抽出してくるのである。動物人と人獣は、それらのいずれによっても埋めることのできない同じ断絶の二つの顔なのである。 (pp. 67-8)

 なぜ人間だけが言葉を獲得し、動物は言葉を獲得しなかったのか、その答はない。この答がなければ、いつ、どうして動物から人間が始まったかにも応えられない。
 こうしてみると、人間が歴史的に駆使してきた「人類学器械」そのものを問題にするしかない。人間と動物、あるいは人間と人間ならざるものという対立する二項によって人類学器械を作動させるかぎり、それは常に排除と包摂に寄って機能するしかないとアガンベンは主張する。

 おそらくこれは、近代人の人類学機械だろう。人類学機械は――これまで見てきたように――すでに人間であるものを(いまだ)人間ならざるものとして自己から排除することによって作動している。つまり、人間を動物化し、人間のうちから非人間的なもの、すなわちホモ・アラルス、あるいは猿人を分離することによって作動しているのである。また、われわれの研究領域を数十年先にずらしてみるだけでいい。そうすればわれわれは、こうした無害な古生物学の発掘資料の代わりに、ユダヤ人を、いいかえるならば、人間のうちに生み出された間を、あるいは新死体(ネオモール)や過剰昏睡状態を、すなわち、同一の人体のうちで分離された動物を手にすることだろう。  (p. 70)

 この近代の人類学器械は、「人間ならざるものが人間を動物化」するように作動しているのに対して、古代の人類学器械では、人猿や獣人のように「人間ならざるものは動物の人間化によって獲得される」(p. 70) のである。古代と近代の二つの人類学器械は、ともに人間と人間ならざるものの間に「まったくの空洞」である未確定の領域を設定している。その領域に「真に人間的なもの」を作り上げては更新し続けているのである。

したがって、いずれにせよ、獲得されるべきものは、動物的な生でも人間的な生でもなく、ただ自己自身から分断され排除された生――剥き出しの生――だけなのである。
 剥き出しの生という、人間と人間ならざるもののこの極端な形象を前にすると、双方の機械(あるいは、同一の機械の二つの異種)のうちのどちらのほうが良くていっそう有効なのか――あるいはむしろ、どちらのほうがより血腥くなく穏当なのか――と問うことなど、どうでもいいことである。むしろ重要なのは、それらの機械がどのように機能しているのかを把握し、いざとなったら、それらの機械を停止できるようにしておくことなのだ。 (p. 71)

 人類学器械を理解したうえで停止できるように準備しておくこと、それが人類の中から人類を排除するという悲劇を止める手立てを生み出すだろう、というのが本書の前半におけるきわめて重要なアガンベンの主張である。

 本書の後半はタイトルの「開かれ」を主題として、いわば哲学におけるもっとも近代的な人類学器械としてハイデガーの「形而上学の根本概念――世界・有限性・孤独」[5] という講義録を取り上げている。動物学者ヤコブ・フォン・ユクスキュルの「環世界(ウムベルト)」という概念に基づく存在論的動物論を踏まえて、人間の「倦怠」から人間と動物の異同を説き起こすハイデガーの理路をアガンベンは追うのだが、どことなく一度どこかで見た(読んだ)ことがあるのだった。数年前に読んだ国分功一郎『暇と退屈の倫理学』[6] の中で、そのハイデガーの論述が詳細に議論されていたことを思い出した。
 全二〇章からなる本書のうちで五章(前提となるユクスキュルの環世界論を含めれば七章)でハイデガーを論じているが、その最後に近いところでアガンベンのハイデガー評が述べられていて、ありていに言えば、私にはそれがもっとも興味深い記述なのであった。

 ハイデガーは、ポリス――隠匿性と非隠匿性、人問の動物性(アニマリタス)と人間性(フマニタス)のあいだの葛藤を統べる天蓋(ポロス)が、いまだなお実践可能な場であると、善意から信じることのできた、おそらくは最後の哲学者だった。ポリスという危険な場に身を置くことで、いまだなお人々――ひとつの人民(ポポロ)〔民族〕――は、みずからの歴史的な宿命を見出すことができるというわけだ。つまり、疑念や齟齬もないわけではないが、すくなくともある程度までは、ハイデガーは、人頃学機械が、人間と動物、開かれと開かれざるものとのあいだの闘争をたえず裁決し再編することによって、ひとつの人民にとっての歴史や命運をいまだなお生み出すことができると信じのかもしれない。そして、存在の歴史的企投に応えるような決断など誰にもできないことはわかっていたのではないだろうか。  (pp. 132-3)

 ハイデガーをもって、ルネサンス以来の長い伝統を持つヨーロッパのヒューマニズム(人文主義、人間中心主義)は終わり、人間を人間ならざるものへ排除する近代的人類学器械も終焉を迎えたということだろう。しかし、西欧の人間中心主義が終わり、人類学器械も正体を暴かれたにせよ、その人類学器械の作動を真に止めることができていると断言することは難しい。いま、人類学器械の作動に関わっているのはもちろん哲学者ではない。政治を消費すべき商品としか受け取らない無数の消費者集団が器械に取り付いている。彼ら(私たち)は、近代「生政治」によって「器質的な生」(植物的な生)を持つだけの統計的存在と見なされていることを無自覚に受容しているのである。
 とまれ、ユクスキュル-ハイデガーの章に戻ろう。さまざまな動物にとって、共通の世界というものはない。ある動物には固有の時間、空間を持つ「環世界(ウムベルト)」があるに過ぎないというのが、ユクスキュルの主張である。たとえば、ダニの環世界は、次のようなものである。

〔ダニの〕環世界は、たった三つの意味の担い手もしくは標識の担い手に還元される。(1) すべての哺乳類の汗に含まれている酪酸の匂い。(2) 哺乳類の血液と同じ三七度の温度。(3) 総じて、体毛を具え毛細血管に覆われている哺乳類に特有の体皮の類型。しかし、ダニはこれら三つの要素と、切っても切れない関係でじかに結びついている。人間の世界が外見上はどんなに豊かに見えようとも、その世界と人間とを結びつけている関係は、おそらくこれほどまで強烈な関係ではありえないだろう。ダニとは、この関係そのものである。そして、ダニが生きるのは、この関係のなかでしかなく、この関係を介してでしかない。  (pp. 83-4)

 そして、「実験室で、一八年ものあいだ、餌もないのに、つまり、環境から完全に隔絶された状態で、一匹のダニが、生きたまま飼われていた」という特異な事実から、時間においても空間においてもダニはわれわれの世界(人間の環世界)とは異なった世界で生きているのである。ユクスキュルは、「生きる主体を抜きにして時間は存在しえない」という帰結を導き出すのである。
 「酪酸の匂い」、「三七度の温度の液体」、「哺乳類特有の体皮」のたった3種の事物だけに反応して生世界を形づくっているダニのような状態を、ハイデガーは「世界の窮乏」と名付ける。3種の存在はダニの活動を「抑止解除」する。
 しかし、ダニは3種の存在を存在として知覚することはない。ただ、3種の刺激に捕われ、刺激によって抑止が解除され、動物として生きるのである。そのときのダニの動物としての反応を「放心」とハイデガーは名付ける。

動物にとって、存在者は、開かれ(アペルト)てはいるが、近づくことができる(アッチエツービレ)ものではない。いいかえるならば、存在者は、接近不可能性(インアッチエツシビリタ)と不透明性のうちに、つまり、いうならば、非関係性のうちに開かれているのだ。人間を特徴づけるのが世界の形成であるとすれば、動物における世界の窮乏を規定するのは、まさに、この露顕なき開示〔apertura senza svelamento〕なのである。動物はたんに世界を欠いているばかりではない。なぜなら、動物は放心のうちで開かれているがゆえに、――石が世界を剥奪されてしまつているのとはちがって――世界を差し引き、世界なしですます(entbehren)ことを余儀なくされるからだ。すなわち、その存在において動物は、窮乏や不足によって規定することができるのである。  (p. 98)

 存在者は動物に「開かれ」てはいない。こうして、ハイデガーはリルケの「開かれ」を転倒する。リルケにおいては、世界は動物だけに開かれている。「ヴェールを剥ぎ取られた存在を名指す開かれを見ることができるのは、人間だけ、いやむしろ、真の思惟の本質的なまなざしだけである。逆に、動物は、この開かれをけっして見ることがない」(p. 102) のである。
 ハイデガーは、「人間は世界を形成する」と言う。しかし、ハイデガーは、人間に深く根ざす「深き倦怠」という根本的気分が動物の放心と共鳴しているとも指摘している。「深き倦怠」という概念も(ハイデガーらしく)やっかいである。倦怠の第1の契機は、「拒まれている存在者に引き渡されて」(p. 113) 空虚のままに残されていること、第2の契機は、「宙づりのまま保持され」(p. 117)、「不活性のまま滞留する」(p. 119) ことである。この第2の構造的契機は、「現存在に特有の可能性、現存在があれこれすることができる可能性」(p. 119) を意味している。

 かくして、深き倦怠の第二の本質的な特徴である宙づりのまま保持されてあることとは、特定の具体的可能性すべてを宙づりにし、奪取するなかで、根源的な可能化(すなわち純粋な可能態=潜在性(ポテンツア))がその真価を露わにしてくるという体験にほかならない。
 可能性の不活性化(Brachliegen)においてはじめてそれ自体として立ち現われてくるものとは、すなわち、可能態=潜在性の起源そのもの――さらには、現存在の、つまり、存在可能性の形式のうちに実存する存在者の起源そのもの――なのである。だが、この根源的な可能態(ポテンツァ)や可能化(ポシビリタツィオーネ)は――まさにそれゆえに――否定の可能態、つまり、無能性を構成する。というのも、できないこと、人為による個々の特定の可能性を不活性化することから出発してのみ、この根源的な可能化は可能だからである。 (p. 121)

 環世界で放心している動物は、その動物特有の抑止解除するものとの関係を宙づりにすることはできないので、純粋な可能性も立ち現れてはこない。ハイデガーの「深き倦怠」は、「世界の窮乏から世界へ、動物環境から人間世界のへの移行が実現される形而上学的操作のように思える」(p. 122) とアガンベンは指摘する。つまり、近代哲学における人類学器械である。そして、アガンベンは断言する。

現存在は、退屈することを習得した動物、自己の放心から自己の放心へと覚醒した動物にすぎない。生物がまさに自分が放心した状態へと覚醒すること、自己を開かれざるものへと――苦しくとも決然と――開くということこそが、人間にほかならないのである。 (p. 126)

 ハイデガーは、人類学器械によって生み出された(ヒューマニズムに適った)人間によって「人民にとっての歴史や命運をなお生み出すことができる」と信じていたとアガンベンは評したが、じつは、「人民の歴史的実存の大いなる震撼の可能性は消えてしまった。神殿も図像も衣装も、人民の鹿史的召命を帯びて、これを新たな使命へと衝き動かすことは、もはやできない」(p. 133) とも語っているのである。

 ヨーロッパの国民国家がもはや歴史的使命を帯びることができず、人民たち自身もいずれは姿を消すべく定められていたということは、ある意味では、第一次世界大戦の終結以来すでに疑いの余地のないことだった。もし二〇世紀の全体主義に、一九世紀の国民国家の最後の大きな使命の継続、つまりはナショナリズムと帝国主義しか認めないとするならば、この大規模な経験の性格は、完全に誤解されることになる。二〇世紀のさまざまな全体主義で賭けられているものは、そういったものとはまったくちがうものなのであり、もっと過激なものだ。なぜなら、そこで問題になっているのは、人民という人為的な存在そのもの、すなわち、結局のところは、人民の剥き出しの生を使命として引き受けることなのだから。こうした視点のもとで、二〇世紀の全体主義諸体制は、へーゲル—コジェーヴ的な観念とはまったく別の相貌を帯びた歴史の終焉をかたちづくることになる。すなわち、人間はその歴史的な目標=結末に到達してしまい、ふたたび動物と化した人類には、家政=管理を無条件に拡張することによって、あるいは、生物学的な生そのものを最高の政治的(あるいはむしろ非政治的)な課題に格上げすることによって、人間社会を脱政治化する以外に、何ひとつ残されていないということである。 (pp. 133-4)

 ハイデガーの人類学器械を批判的に検討することで、20世紀の政治を語り出すアガンベンは、じつにアガンベンらしい口調に達する。

 自己の動物性の統轄をみずからに引き受ける人類が、人間と動物とをそのつどそのつど決定づける=分断することによって人間性(フマニタス)を産出する人類学機械という意味において、なおも人間的であるとしても、人間的であるのか動物的であるのかもはや判然としない生の幸福が、充ち足りたものと感じられるのかどうかは、簡単には断言することはできないし、明確でもない。なるほどたしかに、ハイデガーの見也からすれば、このような人類は、動物の露顕されざるものへと開かれたままに保持されるという形式をもはやもたず、むしろ、あらゆる分野で、開かれざるものを開き、確保しようとしている。また、それとともに人類は、その同じ開示に自閉することで、みずからの人間性を忘却し、存在をもって、人類特有の抑止解除するものへと変貌させている。動物の完全な人間化は、人間の完全な動物化に符合しているのだ。 (pp. 135-6)

 アガンベンは、第一八章でベンヤミンにおける自然と人間の関係、自然と歴史の関係を取り上げているが、「そこでは、人類学器械は、まったく念頭に置かれていないように見える」(p. 140) としている。また第一九章では、ウィーン美術史美術館所蔵のティツィアーノの《ニュンフと牧童》を呈示して「人間と動物の無活動や無為」(p. 151) を論じている。
 しかし、ここでは深入りをせず、次のようなアガンベンの文言を持って、読書のまとめとしたい。

現代の文化にあって、あらゆる他の闘争を左右するような決定的な政治闘争こそ、人間の動物性と人間性のあいだの闘争である。すなわち、西洋の政治学は、その起源からして同時に、生政治学なのである。 (p. 138)

 

[1] ライナー・マリア・リルケ(富士川英郎訳)『リルケ全集 第4巻』(彌生書房、昭和36年) pp. 42-3。
[2] Kojéve, Alexandre, 1979, Introduction à la lecture de Hegel, Gallimard, Paris (la ed. l947) p434-35.〔アレクサンドル・コジェーヴ『ヘーゲル読解入門』上妻精・今野雅方訳,国文社,1987年〕
[3] Pico della Mirandola, Giovanni, 2000 Oratio/Discorso, a cura di Saverio Marchignoli, in Pier Cesare Bori, Pluralitd delle vie. Alle ongini del «Discorso» sulla dignità umana di Pico della Mirandola, Feltrinelli, Milano.〔ジョヴアンニ・ピコ・デッラ•ミランドラ『人間の尊厳について』大出哲,阿部包•伊藤博明訳,国文社,1985年〕。
[4] ジグムント・バウマン(伊藤茂訳)『リキッド化する世界の文化論』(青土社、2014年)p. 86。〔原典:Giovanni Pico delk Mirandola, Oration on the Dignity of Man, trans L. Kuczynski, in Przeglad Tomistyczny vol.5,1995, p.156.〕。
[5] Heidegger, Martin, 1983 Gesamtausgabe, XXIX—XXX: Die Grundbegnffe der Metaphysik. Welt—Enditckkett—Einsamkeit, Klostermann, Frankfurt a.M. (trad. it. I concetti fondamentali della metaftsica. Monde—Finitezza—Solitudine, II Milangolo, Genova 1999). 〔ハイデガー全集第29/30巻,『形而上学の根本諸概念世界有限性孤独』川原栄峰,セヴュリン・ミュラー訳,創文社,1998年〕。
[6] 国分功一郎『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社、2011年)


 

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