かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

『デュフィ展』 Bunkamura ザ・ミュージアム

2014年06月30日 | 展覧会

2014年6月30日

 若い頃(40年も昔のことだが)、画集でデュフィを見たのは確かだが、もうすっかり忘れていた。小さな画集を2冊 [1,2] ほど眺めて、見ていて楽しそうな絵だということ思いだしてから、東京に向かう新幹線に乗った。

 デュフィの絵は、ほんとうに気楽に見ていることができる。分かりやすいデッサンに美しい配色。これはけっして軽んじているわけではないが、上等な雑誌のイラストレーションのようだ。顧客である読者を喜ばせるために附されたイラストのように思うことがある。
 この美術展を見終わってから、図録 [3] を読んでいたらソフィ・クレプス(パリ市立近代美術館主任学芸員)がロラン・バルトの言葉を引いて次のように描いていた。少し長いが、デュフィの絵の本質をみごとに説明していると思われるので、引用しておく。

「ギッド・ブルーには絵になるような風景しか出てこない。起伏のある所はすべて絵になる。ここでまたあのブルジョワ層を狙った山の宣伝や、古いアルプス神話が登場する[……]。山がちであることが良しと褒めちぎられ、そのため他の種類の地平線は廃され、同様にその土地の人間性はそこの記念碑の排他的利益を優先して消滅する」 [註] デュフィは主題に対して、そして自然に対して優位になることを好んだ。もしこのロラン・バルトの分析が主題に関わることも言っているとすれば、主題についてのデュフィの考え方は彼の顧客でもあるこの優勢な社会層の期待によってあらかじめ方向付けられていることを、分析は明らかにしている。この意味では、画家の向き合う大衆から離反していないし、自身もまた旅行者なのである。デュフィは裕福な社会層の慣習を象徴するような有名な眺望を取り上げている。それはカジノであり、ヤシ並木の散歩道、弧を描く砂浜、水上の祭りやレガッタなどである。彼はあの「美し国フランス」を見せ続けてくれる。シエスタの時の閑散とした広場、活気ある港、夏の陽光の下の小麦畑、青い空、それと同じくらい青い海。牧歌的で平和な光景に、青はかくも向いている。 [4]  [註] Roland Balthes,《le guide bleu》, Mythologies[1957], Seuil, Paris, 1970, PP.113-114. 

 「画家の向き合う大衆」という言葉使いに多少の違和を覚えるが、みごとな解説だと思う。文中、「ギッド・ブルー」とは旅行ガイドブックのことで、良質のイラストという私の感じ方によく対応している。
 「画家の向き合う大衆」が、避暑地の海岸でカジノに出入りして人生をエンジョイしている裕福なブルジョワ層であるなら、その期待に応えるデュフィの絵が心地よさを提供するものになることは当然すぎることだ。

《マルティーグ》1903年、油彩、カンヴァス、44×61cm、
ズィエム美術館、マルティーグ (図録、p. 33)。

 1877年生れのラウル・デュフィにとって、《マルティーグ》は画業初期の風景画である。10点ほど展示されていた初期風景画の中で、この《マルティーグ》が私の目を惹いたのは、波に映る建物と空の影の美しさのためだ。波立ちに途切れる影、そのリズムがとてもいい。背景の空よりも、映った海面の波に変調された空の色彩がはるかに美しいのである。

《ヴァンスの城壁の眺め》1919年、水彩・鉛筆、紙、50.5×63cm、
ストラスブール近現代美術館 (図録、p. 99)。

 ソフィ・クレプス(あるいはバルト)の指摘通り、観光絵葉書に使われそうな絵である。「いいなぁ」と思わず口にしそうになる。絵というよりも、絵に描かれた土地、そのような風景を作りだす土地に憧れるような「いいなぁ」なのである。
 それこそデュフィが意図したことだろうと、クレプスは言うのである。

《カルタジローネ》1922-23年、油彩、カンヴァス、65×81cm、パリ国立近大武術館、ポンピドゥー・
センター(ゼルヴォ美術館、ロマン・ロランの家、ヴェズレー寄託) (図録、p. 103)。

 《カルタジローネ》は、デュフィの風景画の中ではかなりおもむきが違う。太く荒い筆致で描かれ、雲は重苦しく、海は灰色である。図録解説によれば、「素早さを強調する筆触はより装飾性を強め」、屋根の波形、家々の小さな矩形など、後の風景画に現われる「造形記号を形成しはじめ」た作品だという。
 絵の惹起する感情が他の風景画と異なるこの絵を、デュフィが描こうとした契機はなんだったのか知るよしもないが、その異和性が私の興味を強く惹いたことはまちがいない。この絵はほんとうに目立っていたのだ。

《ラングルの風景》1936年、油彩、カンヴァス、65×100cm、株式会社平田牧場 (図録、p. 133)。

 デュフィらしい絵のひとつとして、《ラングルの風景》を挙げておく。まさにデュフィらしい心地よい美しさ、ブルーがとてもいい、などと気楽に鑑賞していた。
 後で読んだ図録解説では、多少の説明があった方がよい作品らしい。元々この絵は収穫期の麦畑を描くべく写生地が定められたのだが、その当の麦畑は「城塞のふもとの黄色の帯、橋の左側、運河近くの麦が積まれた荷車にしか見出せない」のだ。
 恥ずかしながら、解説なしでこれらの黄色が麦を表わしているなどとは思いもしなかったのである。というより、細部を吟味するような見方をまったくしていなかった。そもそもデュフィの絵は細部を吟味するような絵だとは、ついぞ思っていなかったということだ。

《パリ》1937年、油彩、カンヴァス、4面:各190×49.8cm、ポーラ美術館 (図録、p. 149)。

 きわめて装飾的だけれども、《パリ》はとても好もしい絵だ。青からワインレッドのような赤、そして黄色への遷移がいい。時間の異なるパリの風景の中に、有名な建物をピックアップして大きく描き、前面に花を配するというのは、まるで俗っぽい観光用宣伝ポスターだけれども、デュフィらしい独立したデッサンと配色がとてもいい雰囲気を構成している。
 デュフィの絵の構造はきわめて単純だけれども、どこか松本俊介のモンタージュ手法で描かれた都会(建物と人物)の絵のシリーズを想わせる。俊介の絵の時空構造は、デュフィの絵とは比べものにならないほど複雑だけれども、やはり、線描を越えて塗られる青色がとても美しいのだ。ちなみに、松本俊介はそのような絵を1938年から41年頃に描いている。

《コンサート》1948年、油彩、カンヴァス、81×65cm、
鎌倉大谷記念美術館「大谷コレクション」 (図録、p. 167)。

 《パリ》が青の美しさなら、《コンサート》はさしずめ赤の美しさである。オーケストラの背後から観客席の方を描いている。ほとんどの観客はただの小さな円で描かれ、細部を越えて赤が広がっている。
 勝手に想像すれば、外は冬で、内部はオーケストラの熱演と観客の静かな興奮で空気がどんどん暖まっていく。赤は空気であり、雰囲気であり、気分なのだ。

《花束》1951年、フレスコ、163.5×122.9cm、宇都宮美術館 (図録、p. 180)。

 風景画のデュフィばかり見てきたが、晩年は花の絵もたくさん描いている。テキスタイルのデザインに従事したことがあるデュフィが花々を描いてもなんの不思議もないが、《花束》はそれらの絵の中でもっとも「派手でない」静謐な雰囲気を醸し出している絵である。そして、全展示の最後を飾っていた絵でもある。
 《花束》なのに青と緑と白で描かれている。わずかに黄色も使われているが、とくにアクセントになっているという感じもない。むしろ、明るい褐色のテーブル(たぶん)が全体を引き立てている。

 最後は、デュフィの印象をまとめるような絵ではなく、デュフィの異なった貌を見たような気分の絵で会場を後にしたのだった。


[1] 『ファブリ世界名画集46 デュフィ』(平凡社、1969年)。
[2] 『新潮美術文庫41 デュフィ』(新潮社、昭和50年)。
[3] 『デュフィ展』(以下、図録)(中日新聞社、2014年)。
[4] ソフィ・クレプス「デュフィの風景画」図録、p. 19。


『ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展』 世田谷美術館

2014年06月29日 | 展覧会

2014年6月29日


 外国人の日本趣味に興味があるかと問われれば、ないと答える。片言の日本語を話す外国人に、国語としての日本語を学ぶ愚は冒さない。それでは、この美術展は回避するか、となると悩みは多い。
 ポスターに大きく載っているモネの《ラ・ジャポネーズ》のような絵ばかりの展示なら、わざわざ仙台から出て行かない。しかし、そんなことはないだろう。《ラ・ジャポネーズ》は、モネにとっても、ボストン美術館にとっても例外中の例外だろう。そう、思いたい。結局は、新幹線に乗ったのである。

 いかにモネといえども、私にとって《ラ・ジャポネーズ》は受け入れがたい。俗っぽいこと、夥しい。たとえ、日本人の婦人が描かれたにしても、この打ち掛けの品のなさはきつい。「粋な」心意気も「侘び」も「寂び」もまったく理解できない日本人は確かにいて、そんな人間がこんなものを着る。千利休を殺す秀吉の美学である。日本では、これを俗っぽさの最たるものとして「成金趣味」という。

 この美術展を見た後で知ったことだが、図録 [1] にモネ自身が、この絵は、「ガラクタさ。あれはただの思い付きさ」と語ったことが紹介されている [2] 。ほっとした。金に困ったモネが苦肉の策として描いたらしいのである。この絵は嫌いだが、モネの所業は是である。なぜなら、この絵を例外として、私はモネのほとんどの絵がすごく好きだし、そうした絵を描く画家に敬意を抱いているからである。モネほどの才能が貧苦に喘ぐのは、理不尽だと思うのだ。

 「期待しないけど、行ってくる」と言って家を出て、「とてもいい展覧会だったよ」と言いながら帰った、そういう美術展だった。

ジェームズ・ジャック・ジョゼフ・ティソ(フランス、1836-1902)《新聞》1883年、
エッチング、ドライポイント、37.8×29.2(55×35.5)cm (図録、p. 72)。

 西洋絵画におけるジャポニズムとしては、19世紀後半から20世紀初頭に印象派や後期印象派などの画家が浮世絵に注目したことがよく知られている。ある意味で、ジャポニズムにおける日本絵画は、よかれあしかれ、浮世絵によって代表されてしまったとも言える。
 この美術展においても、日本絵画として参照されているのはほとんど浮世絵である。ジェームズ・ジャック・ジョゼフ・ティソの《新聞》は、文机に頬杖をついて物思いにふける遊女(菊川英山《風流近江八景石山》)や文机に片肘をついて文の言葉を考えあぐねている遊女(鳥橋斎栄里《(近江八景 石山秋月)丁子屋内 雛鶴 つるし つるの》)等との近縁性を持つとされるいくつかの絵画の中の一点である。
 この新聞に見入る婦人の絵が、上の浮世絵とどのような類似性、近縁性、影響関係があるのか、私には定かではない。強いて言えば、目が隠されている点で、部分で全体を連想させるという日本的な技法に近いということだろうか。少なくとも私は、参照の浮世絵からもっとも遠いと思われるこの作品に一番惹かれたのである。

【左】メアリー・スティーヴンソン・カサット(アメリカ、1844-1926)《湯浴み》1891年頃、ドライポイント、
ソフトグランド・エッチング、カラーアクアチント、31.8×24.6(43.6×27.9)cm (図録、p. 91)。

【右】喜多川歌麿(生年未詳-文化3(1806)年)《(母子図 たらい遊)》享和3(1803)年頃、
大判錦絵、35.3×24cm (図録、p. 90)。

 カサットの《湯浴み》は、喜多川歌麿の絵と主題、構図、線描など、その類似性は明白だが、喜多川歌麿の絵を参照しなくても、独立した絵画の良さがある。人物に和服を着せたり、扇や団扇を配したりするつまらないジャポニズムはここにはない。

【左】フェリックス・エドゥアール・ヴァロットン(スイス、1865-1925)《(版画集『息づく街、パリ』より)
にわか雨》1894年、亜鉛版リトグラフ、22.7×31.2(32.1×44.2)cm (図録、p. 113)。

【右】歌川広重(寛政9(1797)年-安政5(1858)年)《名所江戸百景大はしあたけの夕立》
安政4(1857)年9月、大判錦絵、36.3×24.2cm (図録、p. 40)。

 ヴァロットンと広重の絵については、絵画的な影響関係と言うよりも、どちらかと言えば技術的な共通性に興味がわいたのである。主題の類似性もさることながら、版画とリトグラフでは雨の表現方法が似てしまうのは必然ではないか、と思ったのだ。近縁性、影響関係は必然的であったのではないか。
 異文化の摂取が、意識的な進取性に基づくのか、当該芸術分野の進展における必然性であるのかは、おそらく結果としての作品の芸術性に質的な差異を産みだすだろうと想像するが、テーマが大きすぎて手に負えそうにない。

ハーマン・ダドリー・マーフィー(アメリカ、1867-1945)《アドリア海》1908年頃、
油彩、カンヴァス、50.8×68.9cm (図録、p. 163)。

 《アドリア海》は一目で気に入った。こういう絵が好きなのである。ジャポニズム性は、おそらく、浮世絵の大胆な空白の使い方が、ほとんど何もない海、わずかな雲だけで変化のすくない広大な空、空と海に茫洋とした境などを大胆に描くことをインスパイアしていることだろう。
 非対称性の美というのも日本的なはずだが、それとはまったく無縁の構図である。このような浮世絵の存在を想定しなくても、そして近縁性や影響関係を想定しなくても、まったく問題がない作品であることは、絵画にとってとても大切なことだと思う。

【左】ジョン・ラファージ(アメリカ、1835-1910)《ヒルサイド・スタディ(二本の木)》1862年、
油彩、カンヴァス、61×32.7cm (図録、p. 187)。

【右】歌川広重(寛政9(1797)年-安政5(1858)年)《名所江戸百景神田明神曙之景》
安政4(1857)年9月、大判錦絵、36.5×25cm (図録、p. 186)。

 広重のきわめて大胆な構図の《名所江戸百景神田明神曙之景》がエンカレッジしたような絵もある。広重の絵は、縦長の画面を真ん中で分断するような樹幹、両脇にも部分だけが描かれた垂直な幹。加えて縁台と棚組が水平な線で描かれ、幾何学的な格子を形成するという大胆さである。
 しかし、垂直に延びる樹幹というのはごく自然であって、《ヒルサイド・スタディ(二本の木)》のように描かれると、とくに大胆な構図だとは言い難い自然なリアリズムが生まれている。地面も広重のように単色化されている点、背景の空と雲の構成が比較的シンプルだという点も、広重的な構成に近いとも言える。

エドヴァルド・ムンク(ノルウェー、1863-1944)《夏の夜の夢(声)》1893年、
油彩、カンヴァス、87.9×108cm (図録、p. 189)。

 ムンクの《夏の夜の夢(声)》も画面を垂直に切断する樹々が重要な構成要素である。水辺の裸地を示す二本の横のラインも広重の上の絵を想起させる。しかし、この絵も《ヒルサイド・スタディ(二本の木)》も、その主題は人間であって、一方の広重の絵の主題は風景である。構図を借りて、異なった主題を描いているのである。

 明らかに浮世絵の構図を参考にして描いたと思われる作品は、クロード・モネにもいくつかある。

【上】クロード・モネ(フランス、1840-1926)《トルーヴィルの海岸》1881年、
油彩、カンヴァス、60.7×81.3cm (図録、p. 195)。

【右】歌川広重(寛政9(1797)年-安政5(1858)年)《東海道五拾三次之内四日市
三重川》天保4(1833)年頃、横大判錦絵、22×34.6cm (図録、p. 194)。

 「モネはしばしば、その膨大な浮世絵コレクションの中から特定の作品を参照して制作」したのだ、図録解説にある。《トルーヴィルの海岸》は、広重の《東海道五拾三次之内四日市 三重川》の構図と色彩を取り入れた作品である。同じ図録解説につぎのようなとても重要な指摘があった。「《トルーヴィルの海岸》では、合理的な空間構成を実現するため確立された西洋に手法、すなわち遠近法と陰影法の使用を遠ざけた。」(図録、p. 195)
 西洋絵画史の詳細は分からないが、古典的な遠近法と陰影法からの脱却、現代美術への展開の初期的な契機の一つに浮世絵があったというなら、それはとても重要なことだろうし、興味深いことだ。

【上】クロード・モネ(フランス、1840-1926)《積みわら(日没)》1891年、
油彩、カンヴァス、73.3×92.7cm (図録、p. 197)。

【右】歌川広重(寛政9(1797)年-安政5(1858)年)《東海道五拾三次之内鞠子
名物茶店》天保4(1833)年頃、横大判錦絵、22×34.2cm (図録、p. 196)。

 《積みわら(日没)》は、《東海道五拾三次之内鞠子 名物茶店》の構図による作品だという。構図ばかりではなく、色彩によって遠近を表現している点も似ているという。
 しかし、そうした類似点にもかかわらず、印象は、まったく別種の絵だということに尽きる。《積みわら(日没)》はほんとうにモネらしい作品で、《東海道五拾三次之内鞠子 名物茶店》もまた、これこそ広重という作品だ。

 モネの《ラ・ジャポネーズ》への嫌悪の予感から始まった美術展体験だったが、最後は、その当のモネの《トルーヴィルの海岸》と《積みわら(日没)》という二つのいい絵で締めくくることになった。

 実際の最後の締めくくりは、モネの《睡蓮の庭》、《睡蓮》の展示であった。

 

[1]『ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展――印象派を魅了した日本の美』(以下、図録)(NHK、NHKプロモーション、2014年)。
[2] エミリー・A・ピーニー「日本人の姿をしたパリジェンヌ」図録、p. 29。


『ジャン・フォートリエ展』 東京ステーションギャラリー

2014年06月29日 | 展覧会

2014年6月28日

 これを成長というのか、成熟というのか確信はないけれども、画家の想像もできない変容を、その画業を通じて眺めるのは、人間存在の不思議に打たれるような感動がある。
 リジッドな具象からアンフォルメルな抽象へ変容を遂げた画家は、図録 [1] の中で山梨俊夫が引用しているように、「絶対的〈アンフォルメル(不定形)〉の非現実性は何ももたらさない。無償の遊技だ。どんな形の芸術であろうと、現実(レエル)の一部を含んでいなければ感動を与えることはできない」 [2] と語っている。

 ジャン・フォートリエ:1898年、パリ生れ。ロンドンで育ち、絵を学び、第一次世界大戦にフランス兵として従軍。1921年の除隊後、画業に専念。1964年没。

《管理人の肖像》1922年頃、油彩、カンヴァス、81×60cm、
ウジェーヌ・ルロワ美術館、トゥルコワン (図録、p. 29)。

 画家24歳頃の作品、《管理人の肖像》のリアリズムに圧倒される。表層的な美に惑わされることなく、冷徹なリアリズムが見出すのは、人間存在そのもの、〈実存〉の形態と色彩、だと断言しているような作品である。
 とても印象深い絵だが、心が安まるなどという鑑賞からほど遠い。小柄な老婆の体躯には不釣り合いに大きい掌、組まれたその手指に目を奪われて立ちつくしてしまう。そんな作品である。

【左】《左を向いて立つ裸婦》1924年頃、サンギーヌ、紙、102.2×66cm、
個人蔵 (図録、p. 49)。
【右】《後ろ姿の裸婦》1924年頃、サンギーヌ、紙、70×46.5cm、
個人蔵 (図録、p. 50)。

 同じ時期の裸婦像が何枚も展示されていたが、この2枚は飛び抜けて目を惹く。他の裸婦像からうかがうかぎり、画家は、けっして人間の肉体の持つ美しさ、醸し出す人間臭さ、そうしたことを無視しているわけではない。しかし、まずは、肉体が在ること、在るがままのことに専念しているように見える。《管理人の肖像》と同じように、そのような強い意志に貫かれて、この2枚は描かれたようだ。

《森の中の男》1925年頃、油彩、カンヴァス、92×73cm、
パスカル・ランスベルク画廊、パリ (図録、p. 40)。

 そして、《森の中の男》を見て、わたしはやっと安堵する。男の右腕と平行にやや斜めに立ち上がる木の幹、その傾きと対称をなすような背景の木の幹。その安定した絵画的構図は平静な感情を促すし、健康そうな壮年の男の表情は神経を安定に支えてくれる。
 リアリズムは、真実へのガイドではあっても、私たちの感情や精神の味方であるとは限らない。フォートリエの絵はそう教えてくれるようだ。

【左】《美しい娘(灰色の裸婦)》1926-27年、油彩、カンヴァス、92×60cm、
パリ市立近代美術館 (図録、p. 57)。
【右】《青灰色の裸婦》1927年頃、油彩、カンヴァス、116×73cm、
ミヒャエル・ハース画廊、ベルリン (図録、p. 58)。

 フォートリエの画業が「黒の時代」と呼ばれる28~30歳頃の一連の裸婦像では、リアリズムから遠ざかっていく様子がうかがえる。たとえば、《美しい娘(灰色の裸婦)》は、《青灰色の裸婦》などのような一連の裸婦像の中で、なぜ「美しい」と形容されねばならないのか。ここにはすでに、画家の表象過程に潜む美意識の謎が示されている。しかし、謎は謎であって、私にはたぶんずっと謎のままであろう。

《花》1928年頃、油彩、カンヴァス、65×54cm、個人蔵 (図録、p. 70)。

 黒の時代のいくつか静物画の中で、花と葉をほとんど黒一色で描いた(花の下地に赤色が配されているが)《花》が目を惹いた。何よりも器の白さの対照が印象的な絵だ。背景も器も黒で描かれた静物画よりかなり明るく感じるのである。


《醸造用の林檎》1943年頃、油彩、顔料、紙(カンヴァスで裏打ち)、65×92cm、
ガンデュール美術財団、ジュネーブ (図録、p. 91)。

 《醸造用の林檎》には、かなりの比重で具象が残されている。厚い白のマチエールの上に重ねられたワインレッドがとてもいい。林檎ってこんな色だったか、と思ったりもしたが、美しさがそれを一瞬で打ち消す。そんなふうにこの絵を見ていた。

【左】《人質No.3》1943-45年、油彩、顔料、紙(カンヴァスで裏打ち)、35×27cm、
ソー美術館、オー=ド=セーヌ県 (図録、p. 97)。

【右】《人質》1943年頃、油彩、顔料、紙(カンヴァスで裏打ち)、27×22.5cm、
ソー美術館、オー=ド=セーヌ県 (図録、p. 98)。

 第二次世界大戦後、フォートリエは《人質》という連作を発表する。第一次大戦の従軍体験、第二次大戦のゲシュタポによる拘留体験などに裏打ちされた作品群は、すべて人間の頭部だけを描くことによって表現されている。
 エティエンヌ・ダヴィドは、次のように解説している。「40余点の「人質」連作では、片方あるいは両方の目が、鼻が、口の一部が、さらには顔面の半分が欠けた、傷ついた頭部が公然と晒されている。戦争の悲劇的な苦痛の中で、顔によって象徴化された人間は匿名の存在となっている」 [3]

 《人質No.3》は、鼻だけを含む輪郭だけの顔で、目や耳や口は描かれていない。《人質》は顔の半分が毀損されている。

【左】《人質(人質の頭部No.9)》1944年、グワッシュ他、石膏、紙(カンヴァスで裏打ち)、
73×60cm、大原美術館 (図録、p. 100)。

【右】《人質の頭部》1944年、油彩、顔料、紙(カンヴァスで裏打ち)、64×54cm、
国立国際美術館 (図録、p. 103)。

 全連作で確認することはできないが、展示されているかぎりにおいて、「人質」連作は、背景に描かれた顔の輪郭の中に白いマチエールの厚塗りで描かれるという共通点がある。《人質(人質の頭部No.9)》もまたその例に洩れないが、白い絵の具の上に薄く異なった輪郭線が描かれている。地の輪郭線の近くには複数の線で、離れている輪郭ははっきりとした線で描かれている。厚塗り部分の実在の一人の顔は、それに連なる同じ運命を辿って死んだ無数の顔たちを代表しているかのようだ。
 《人質の頭部》の複数性は、《人質(人質の頭部No.9)》のそれとは異なっている。地の輪郭線の中に厚塗りの顔が描かれるが、さらにその内側に二段の厚塗りで異なった顔が描かれるという構造になっていて、最上部の顔の目は失われている。

 フォートリエの頭部だけの「人質」像は、あたかもエマニュエル・レヴィナスの倫理哲学が〈顔〉から出発し、〈顔〉によって語られたことと呼応しているような気がしてならない。
 レヴィナスによれば、他者の「顔」は一挙に全面的に〈私〉に関わってくる。〈私〉を見つめる他者の〈顔〉によって、私は直ちに他者に対して責務を負う立場となり、他者に対して有責となるというのだ。責務を負い、罪あるものとして〈私〉は他者に対して振る舞わなければならない。ジャック・デリダは、「レヴィナスの倫理はすでに宗教なのだ」 [4] と述べたほど、レヴィナスの倫理は徹底している。
 《人質》の〈顔〉と対面して、あるいはその〈顔〉に連なる無数の他者(あるいは死者)に対して、私(たち)は有責である。世界大戦を生き残った私(たち)は有責である。この世界が新しい人質を生み出し続けていることにおいて、私(たち)は有責である。そう語っているのではあるまいか。倫理が試されているかのように……。

《永遠の幸福》1958年、油彩、紙(カンヴァスで裏打ち)、89.4×146cm、
大阪新美術館建設準備室 (図録、p. 135)。


《小さな心臓》1962年、油彩、紙(カンヴァスで裏打ち)、81×116cm、個人蔵 (図録、p. 153)。

 《永遠の幸福》は、「アンフォルメル(不定形)」と称されるフォートリエ絵画のひとつの典型である。薄く塗られた紙(カンヴァス)の中心に厚塗りでマチエールが置かれる。《永遠の幸福》という観念的なタイトルが珍しくてここに挙げたが、普通はごく具体的な主題をアンフォルメルに表現するというスタイルである。
 《小さな心臓》も青い薄地の上に不定形化した心臓(たぶん)が描かれる。ただ、観者としての私には、それが「小さな心臓」や「永遠の幸福」でなくても絵画として十分に楽しめるのである。《無題》と命名された抽象画を楽しめるように楽しめるというのは、フォートリエが語る「現実の一部を含んでいなければ感動を与えることはできない」ということと矛盾するのだろうか。あるいは、抽象というのは人間が生きる現実や人間が想像しうる世界からの抽象化としてあるがゆえに、優れた抽象は現実を内包しているということであろうか。判然とした答えを私はまだ持たないが、答えが出なくても、単なる観者の楽しみは変わらない。けれども、それはそれなりに気になるのだ。


[1]『ジャン・フォートリエ展』(以下、図録)(東京新聞、20144年)。
[2] 山梨俊夫「絵画の現実性(レアリテ)を求めて――フォートリエの軌跡」図録、p. 19。
[3] エティエンヌ・ダヴィド「厚塗りから「人質」へ(1938-1945年)」図録、p. 83。
[4] ジャック・デリダ(広瀬浩司、林好雄訳)『死を与える』(筑摩書房、2004年) p. 173。


『オランダ・ハーグ派展』 損保ジャパン東郷青児美術館

2014年06月27日 | 展覧会

2014年6月27日

 風景画(展示は風景画ばかりではなかったが)をたっぷりと堪能した美術展だった。風景画は、たいていの場合、時代を問わず心地よく受け入れることができる私の好みのジャンルである。ましてや、オランダ・ハーグ派の画家たちは、フランス・バルビゾン派の影響を強く受けているので、どのような風景が描かれているか、という点においても私にとってはとても好もしいのだった。

 展示は3部構成で、はじめにバルビゾン派、つぎに本命のハーグ派、最後がハーグ派と関連の深いゴッホとモンドリアンの絵が展示されていた。

【左】ジュール・デュプレ(1811-1889)《森の中―夏の朝》1840年頃、油彩/カンヴァス、
95.5×76.0cm、山梨県立美術館 (図録、p. 38)。

【右】シャルル=エミール・ジャック(1813-1894)《森はずれの羊飼いの女》1870-80年頃、
油彩/カンヴァス、81.2×66.3cm、山梨県立美術館 (図録、p. 41)。

 こんなことは常識なのかもしれないが、バルビゾン派の風景画を眺めていて、陽の光の扱いが共通していることに気が付いた。陽光は全面にあたることはなく、ごく1部にだけハイライトとしてあたっているのだ。極端に言えば、陽が燦々と降りそそぐ明るい野の風景というものは見られない。

 例えば、ジュール・デュプレの《森の中―夏の朝》では、前面の木々や草には陽は射さず、明るい遠景と強いコントラストを見せている。もちろん、林の中ではこのような陽光の分断はよくあることで、決して不自然だというわけではない。しかし、画家はそのような時間帯をあえて選ぶか、またはそのように風景を再構成しているのだ。
 それは、シャルル=エミール・ジャックの《森はずれの羊飼いの女》ではさらに顕著で、光はあたかも広めのスポットライトのように羊たちと羊飼いだけを照らしていて、陽光が作る印影の効果を最大限に活かしているように思える。

レオン=ヴィクトル・デュプレ(1816-79)《風景》1879年、油彩/板、
45.2×61.1cm、ハーグ市立美術館 (図録、p. 49)。

 レオン=ヴィクトル・デュプレの《風景》でも、遠景は広く光が当たっているのだが、前景の主題部分では、たった一本の木の幹の部分と2頭の牛にだけ光が当たっている。そのため、わずかに描かれている水に映る牛と空の感じがとても効果的だ。

ヴィレム・ルーフロス(1822-1897)《虹》1875年、油彩/カンヴァス、
57.7×110.8cm、ハーグ市立美術館 (図録、p. 65)。

 ハーグ派の風景画では、上のバルビゾン派に見たような強調された陽光の陰影の使い方は顕著ではない。ヴィレム・ルーフロスの《虹》は、その少ない例だが、似ているようで明らかに違う。陽光そのものが主題である。雨上がり、広大な農地に陽が差し始めた瞬間を描いている。

 「川や沼、運河、またはオランダの干拓地に典型的な堰といった「水辺」は、ハーグ派の風景画の際立った特徴である」と図録 [1] の解説 (p. 62) にある。その中から、水辺というよりも水面そのものが美しく描かれた数点を挙げておく。

ヴィレム・ルーフロス(1822-1897)《アプカウデ近く、風車のある干拓地の風景》1870年頃、
油彩/カンヴァス、47.1×74.6cm、ハーグ市立美術館 (図録、p. 63)。

 《アプカウデ近く、風車のある干拓地の風景》は、《虹》と同じくヴィレム・ルーフロスの作で、手前の水路の向こうにオランダの典型的な風車を含む風景が描かれている。水面に映る雲の陰影と風車の影が印象的な作品である。

【上】ヘラルト・ビルデルス(1838-1865)《山のある風景(フランス、サヴォワ)》
1858年頃、油彩/板、70.0×100.6cm、ハーグ市立美術館 (図録、p. 66)。
【下】ヴィレム・マリス(1844-1910)《水飲み場の仔牛たち》1863年頃、
油彩/カンヴァス、91.4×67.9cm、ハーグ市立美術館 (図録、p. 89)。

 ヘラルト・ビルデルスの《山のある風景》もヴィレム・マリスの《水飲み場の仔牛たち》も、牧場の水飲み場としての小川や池を前景にして、夕焼けの空や陽光とともに牛の姿を映し出している水面がとても美しい。
 私は、展示会場を行きつ戻りつしながら、上の3点の水面ばかりを眺めていた。「水辺」の風景画ではなく、風景画の中の「水面」を楽しんだのである。

【左】ヨーゼフ・イスラエルス(1824-1911)《日曜の朝》1880年頃、油彩/板、
74.9×81.3cm、ハーグ市立美術館 (図録、p. 93)。

【右】ヨーゼフ・イスラエルス(1824-1911)《縫い物をする若い女》1880年頃、
油彩/カンヴァス、83.5×58.0cm、ハーグ市立美術館 (図録、p. 94)。

 ハーグ派は、風景画ばかりではなく、農村の暮らしぶりもたくさん描いている。上の2点は、そのような暮らしの中の一コマをヨーゼフ・イスラエルスが切り取ったものだ。
 図録のコラム (p. 92) が参照しているように、窓から差し込む光の中で女性がなにか仕事をしているという構図は、フェルメールの絵そのものである。ただ、フェルメールの絵は風俗画としての要素が強いこともあって、ヨーゼフ・イスラエルスの絵とはだいぶ印象が異なる。
 フェルメールの絵は、いつも隠された物語を強く印象づけることが多い。それに比べれば、ヨーゼフ・イスラエルスの絵は、農家の女性がいつものようにそこにいる、そのままを素直に描いているように見えてとても好感が持てる。ありていに言えば、フェルメールの窓辺の光の描写は天才的だと思うものの、絵全体が持つ物語には時としてかなり俗っぽい印象を持ってしまうことがあるのだ。ヨーゼフ・イスラエルスの上の2点には、それがない。

ベルナルデュス・ヨハネス・ブロンメルス(1845-1914)《室内》1872年、
油彩/カンヴァス、47.3×40.8cm、ハーグ市立美術館 (図録、p. 96)。

 《室内》もまた、特別な家庭の風景ではない。親子3人の農家の家族の平凡で静かな日々の暮らしの中の朝(たぶん)の室内の一コマを描いている。暮らしとしてその場所にそうあることを、静かで穏やかにそのまま受容する。そうするしかないとても良い絵だとおもう。

 展示の最後は、ゴッホとモンドリアンである。そこには、幾何学的な表象、シンプルなコンポジションのピート・モンドリアンとは異なる、私の知らないモンドリアンがいた。

ピート・モンドリアン(1872-1944)《アムステルダムの東、オーストザイゼの風車》
1907年頃、油彩/カンヴァス、75.0×63.0cm、ハーグ市立美術館 (図録、p. 124)

 空の描き方はいくぶん微妙だけれども、《アムステルダムの東、オーストザイゼの風車》は、〈ハーグ派〉のモンドリアンが描いた、そう言っていいのではないか。図録解説 (p. 111) では「ハーグ派の自然主義に加えて、印象派の鮮やかな色彩を用いている」とある。さしずめ、空の描き方は印象派らしいということだろう。

【上】ピート・モンドリアン(1872-1944)《ダイフェンドレヒトの農場》1916年頃、
油彩/カンヴァス、85.5×108.5cm、ハーグ市立美術館 (図録、p. 125)。
【下】ピート・モンドリアン(1872-1944)《夕暮れの風車》1917年頃、
油彩/カンヴァス、103.0×86.0cm、ハーグ市立美術館 (図録、p. 127)。

 しかし、モンドリアンは変容を始める。《ダイフェンドレヒトの農場》に描かれた冬木の枝は幾何学的に規則正しく交差している。まさしく「不自然」であって、ハーグ派自然主義から遠く離れたことを意味していよう。
 《夕暮れの風車》もまた、後のモンドリアンを窺わせる配列で雲が描かれている。逆光の風車はリアルな形状で描かれながら、その下部は茫洋として黒い台地に連続する。すでに風車は、風景からコンポジションの一要素へと変化し始めているのではないか、そう思わせるものがある。

 風景画を堪能できたばかりではなく、ゴッホはさておき、私の知らない風景画のモンドリアンを見ることができたのは幸運だった。仙台から新宿まで出かけてあまりある展覧会だった。

 

[1]『近代自然主義絵画の成立 オランダ・ハーグ派展』(以下、図録)(「近代自然主義絵画の成立 オランダ・ハーグ派展」カタログ委員会、2013年)。


原発を詠む(14)――朝日歌壇・俳壇から(2014年6月8日~6月23日)

2014年06月23日 | 鑑賞

朝日新聞への投稿短歌・俳句で「原発」に関連して詠まれたものを抜き書きした。

 

また一人ましな現場を求め去る浪江の空の渡り鳥のごと
             (南相馬市)池田実  (6/8馬場あき子選)

原発を逃れ来し人桜島の陽を消すほどの火山灰(よな)を楽しむ
             (西之表市)島田紘一  (6/16 高野公彦選)

ほんとうに心配なことは知らされないそれすら知らず送る毎日
             (上田市)笠原幸子  (6/16 永田和宏選)

「吉田調書」やはりてんでんこ逃げていた危険感じたその場にいた人
             (盛岡市)堀米公子  (6/16 佐佐木幸綱選)

衝撃の吉田調書が明らかに特報なくば未だ知られず
             (千葉市)鈴木一成  (6/16 佐佐木幸綱選)

福島に住むなは天の声として他に住む人の永遠のご無事を
             (福島市)山田毅  (6/16 佐佐木幸綱選)

わが首長らは避難者側と対座する国の職員の横に並びて
             (田村市)久住秀司  (6/16 佐佐木幸綱選)

巨き輪を内から外へと越せばまた同心円の続くふくしま
             (福島市)青木崇郎  (6/16 佐佐木幸綱選)

使用済み燃料棒は釜の外プールで白む「五重の防御」
             (宇部市)崎田修平  (6/16 佐佐木幸綱選)

三百坪の土地と六十五坪の家を捨てて惜しみ離れつわが福島を
             (国立市)半杭螢子  (6/23 佐佐木幸綱選)

よどみなくアベノミクスと唱え居り休耕田は汚染土の山
             (福島県)山崎圭  (6/23 佐佐木幸綱選)

 

ヒロシマナガサキそしてフクシマ田水張る
             (さぬき市)野崎憲子  (6/16 金子兜太選)

聖五月被爆マリアの海青し
             (川口市)青柳悠  (6/16 金子兜太選)


【書評】サロモン・マルカ(内田樹訳)『レヴィナスを読む』(国文社、1996年)

2014年06月22日 | 読書

 

レヴィナスの倫理はすでに宗教なのだ。
                    ジャック・デリダ『死を与える』 [1]

 エマニュエル・レヴィナスという哲学者を、私は、長い間、知ることがなかった。初めてその名を意識したのは、7,8年前に読んだ『死を与える』で、ジャック・デリダがヤン・パトチュカの『異教的詩論』の読解を通じて、ヨーロッパ的(キリスト教的)責任論を論じながらレヴィナスを参照していたときである。しかし、そのときの私の関心は、その後で論じられる旧約聖書のアブラハムの試練についてであった。
 デリダは、アブラハムの試練を論じたゼーレン・キルケゴールの『おそれとおののき』 [2] の読解を展開しているのだが、若いときに全集本を購入してキルケゴールを読みふけった身としては、何十年ぶりかでキルケゴールの『おそれとおののき』の理解に到達したような気分(あくまでも気分だけだが)になったのだった。聖書とキルケゴールとデリダの本を並べて、どことなく満足していたのだ。
 結局、デリダの『死を与える』では、キルケゴールのことばかりが印象に残って、パトチュカの名もレヴィナスの名も霞んでしまっていた。

 レヴィナスの名前との二度目の遭遇は、ジュディス・バトラーの『生のあやうさ』という本である。バトラーは、〈9・11〉後に起きたアメリカ合州国でのグアンタナモ基地に拘束されているモスレムやイラク侵略戦争時におけるアブグレイヴ刑務所でのイラク人に対する非人道的な虐待、拷問を強く批判する中で、人間の根源的な倫理を語る際にレヴィナスを引用している。

 エマニュエル・レヴィナスの考えによれば、倫理とは生の脆さ(プレカリアスネス)に対する危惧に依存している。それは他者の脆弱な生のあり方の認知から始まる。レヴィナスは「顔」に注目し、それが生の脆さと暴力の禁止をともに伝える形象であるとする。攻撃性は非暴力の倫理では根絶できない。レヴィナスはこのことを私たちに理解させようとする。倫理的闘争にとって人間の攻撃性こそが絶えざる主題なのだ。攻撃が押さえ込もうとする恐怖と不安、これらを考察することで、レヴィナスは倫理とはまさに恐怖や不安が殺人的行為にいたらないように抑えておく闘いにほかならないと言う。レヴィナスの議論は神学的で、神を源泉とする倫理的要求をたがいに突きつける人間の対面を引きだそうとする。 [3]

 レヴィナスの「顔」という概念に強く引かれた。人倫について語るとき、レヴィナスを知っているかどうかというのは決定的ではないか、そう思ったのだ。バトラー贔屓なので簡単に影響を受けたのである。

 しかし、どう読んでもレヴィナスは難しい。難しい思想なのかもしれないが、まず語り口が難しい。一時は、翻訳が悪いのではないかと疑ったくらいに理解しにくい。図書館でレヴィナス解説本らしき『他者と死者 ――ラカンによるレヴィナス』という内田樹の本を開いてみたら、まえがきでいきなり「私はレヴィナスについてはかなり長期にわたって集中的な読書をしてきたが、いまだにレヴィナスが「ほんとうは何を言いたいのか」よく分からない」 [4] という文章が目に入ってくる。内田樹にしてそうならば私には無理だ、レヴィナスは諦めようと私の心は定まりかけた。
 幸なのか不幸なのか定かではないが、内田樹の著書の隣に本書のサロモン・マルカ著『レヴィナスを読む』が並んでいた。内田樹訳だったので、手にとって訳者あとがきを眺めると、次のようなことが書いてある。

 このなかからまずマルカを選んだのは、本人が書いているように、彼が専門の哲学者ではなく、レヴィナスの教え子であり、その人間に接して深く傾倒しているという、どちらかと言えば研究の中立性を損なうような要因に着目したからである。
 私たちがマルカに期待しているのは、とってつけたような客観性ではなく、もっとなまなましいものである。レヴィナスがフランスの青年ユダヤ知識人の目にどのような人物として映じているのか、その威信と影響力はいかばかりのものであるのかを知ろうと思って読む限り、マルカの「党派性」は、本書の資料的な有用性を損なうものではないと思う。 (p. 181-2)

 「師に仕える」とは、師のもらす片言隻語のうちに、師の起居動作のうちに珠玉の叡智が宿っていると信じる関わり方のことである。それはひとりの哲学者の思想的な深さや精密さを客観的に評価するためのポジションではない。客観性を代償とすることによってしか得られない知見というものが存在する。私たちは師に仕えてそれを学ぶのである。 (p. 184)

 私は「師に仕える」という生き方をしない。尊敬する人も、かつて教えを受けた人も大勢いるが、いわば「帰依する」ようなあり方で接したことはない。「客観性を代償とする」ということができないのである。もちろん、帰依しなければ到達できない「智」というものがある(らしい)ことは知っているつもりだが、論理学をベースとする哲学の本でここまであからさまに断言していることに妙に感心した。
 「研究の中立性を損なうような要因に着目し」て、マルカの本を訳することにした、という意味のあまりのけれん味のなさに驚いて、つい本書を借りだしてしまった。なんか、引っかけられた気がしないでもないが、これが、『レヴィナスを読む』を読むきっかけである。レヴィナスを理解したいなどという気持ちから少しならず脱線しつつある。

ロシア文学とドイツ哲学とフランス文化を滋養とし、へブライ語の聖書とアラム語のタルムードとで骨格を形成されたこの同時代人は、私たちの巡歴の物語をその始めから語り直し、私たちに踏み行ってゆくべき「扉」(Baba)を改めて教えてくれます。顔の出現。私たちの観念に到来する神。私たち自身に対する忠誠。書物の偉大さ。古代の文典に隠された宝庫。彼の民族の狂気の、そして崇高なる冒険。問いは普遍的ですが、答えは彼ひとりのものです。そこに私たちは魅了され、ひとたびこの著作を愛するようになると、それを他のひとびとに伝えずにはいられなくなるのです。 (p. 4)

 「日本語版への序文」で、レヴィナスの紹介と自分の立場を簡潔に表現した著者は、「まえがき」ではレヴィナスの仕事を「平易な言葉に言い換えてよいものだろうか」 (p. 5) として、「たしかにレヴィナスは「万人に通じる学問」というようなナイーヴな考え方をする人ではない」 (p. 6) として難解であることを率直に認めている。
 そのような難解な思想を読み解く思想家たちは、もちろん大勢いるらしく、著者は第1章でレヴィナスの文体、文章を賛美する言葉を集めている。

デリダは『全体性と無限』の文体の効果を指摘してこう書いている。

 『全体性と無限』における主題の展開は純粋に記述的でも純粋に演繹的でもない。それは岸辺に打ち寄せる波の限りない執拗さとともに繰り広げられる。同じ波が同じ岸辺に繰り返し寄せては戻る。しかし、ひとつひとつの波は完結しており、無限に更新され、豊かになってゆく。解釈者と批評家に対するこの挑戦ゆえに『全体性と無限』は単一の論題をめぐる叙説(trait)ではなく、一個の作品(œuvre)となっているのである。(『エクリチュールと差異』(L’Ecritlire et la différence,éd. du Seuil, coll. “Points,” p,124, note 1)

 文体は張りつめ、震えている。批評家たちはこの文体が厳正であるがけっして威圧的にはならないことを認めている。「引き締まり、自己修正する刻苦のエクリチュール。終わりなく穿たれる、目も眩むほどの深み」とギィ・プティドマンジュは記している。「語法は精密で、緩みがないけれど、同時に小刻みに震えている。」ジャック・コレット。「厳正で、抑制され、しかし小刻みに震えている。」モーリス・ブランショ。マルク・フェスレールは「燃え立つような重み」を備えた文体について語っている。 (p. 12-3)

 つまり、こういうことだ。レヴィナスの文章では記述性や演繹性に期待してはいけない。「打ち寄せる波の限りない執拗さ」や「目も眩むほどの深み」を見通す能力、あるいは「小刻みに震えている」エクリチュールを受容する繊細な感受性がなくては、レヴィナスを理解することは難しいということらしい。あたかも先天的に付与された能力が必要であるかのようだ。
 レヴィナスの語が「哲学の境界線を切り広げてゆくとき、ひとは詩的領域と出会う」 (p. 14) のだという。つまり、学問から芸術への変容を追随できる才能を必要とする。これは明らかに困難な仕事だ(当面は、不可能とまでは言わないでおくが)。

 レヴィナスは、その哲学の基盤をフッサールとハイデガーに置いている。存在と存在者を截然と区別したハイデガー存在論を受けたレヴィナス哲学の鍵概念に「ある」(il y a) がある。「ある」の経験は、「非-意味の経験。というよりはむしろ、非-意味としての存在の経験、空虚に対する恐怖のうち生きられる、いかなる事物の存在でもないものとしての存在の経験」 (p. 22) なのだという。触ることも、言葉で指示することも、ましてや解釈することのできない「存在」。この存在を存在者としての「他者」の存在とすること、その他者の表徴としての「顔」。そんなふうに理解を進めればいいのではないか、というのが私のさしあたっての直感である。

 他者の他者性はあらゆる手がかりの届かぬところに置かれねばならない。なぜなら他者の「外在性」(extériorité)は不可逆的であり、還元不能であり、他者に賦与されるあらゆる「内容」に時間的に先行しているからである。 (p. 24)

 他者がそのようなものであれば、私のような凡庸なものにとっては、すでにいかなる関係も他者と切り結ぶことはできないと考えてしまう。しかし、レヴィナスは他者の「顔」と向き合い、ある美しい飛躍を見せる。

 レヴィナスにとって他者は、その顔(visage)に即して、私に対して意味する。顔は認識に与えられるものではない。そうではなく、顔は別の仕方で一挙に私にかかわってくるのである。他者は、その語の二つの意味において「私をみつめ=私にかかわる(meregsrder)」のである。つまり私は一挙に他者に対して責務を負う立場となり、他者に対して有責となるのである。他者は顔の開放性あるいは裸形性の名において私に語りかける。というのは、顔こそが表現そのもの、表現という出来事そのものであり、つまりあらゆる言語活動に先行する言語活動だからである。その裸形性において、その赤貧において、その無防備において、顔は最初の「語ること」である。「汝、殺す勿れ。」もっとも脆弱なものはこのとき同時にもっとも命令的となる。 (p. 23-4)

 「あらゆる手がかりの届かぬところに」にある「他者の他者性」としての「顔」に見つめられることによって、「私は一挙に他者に対して責務を負う立場」という自己認識にいたるプロセスは、明らかに宗教的飛躍である。この飛躍のプロセスは、息子イサクの命を捧げよと神に命じられたアブラハムを想起させる。「神へのアブラハムの関係について言われていることは、あらゆる他者としてのまったく他なるもの(=まったく他なるものとしてのあらゆる他者)[tout autre comme tout autre]への私の関係なき関係についてもあてはまる」 [5] 。「まったく他なるもの」への「関係なき関係」なのに、倫理的不可能性を無視するかのように沈黙のままアブラハムは神との黙契に従おうとする。そうすることで人間社会の倫理から神との絶対的関係、絶対的な倫理性へ転移する。
 神への冒しがたい絶対的契約としてのアブラハムの倫理は、レヴィナスにおいては絶対的な他者への負債から生まれる倫理なのである。そこでは、他者のありようがどうであるとか、情況がどうであるとか、そのような一切の条件は存在しない。そして「他者」はその表徴である「顔」によって絶対的な倫理を語りだし、命令するのである、「汝、殺す勿れ。」と。いわば、倫理とは「神の啓示」に等しい。

 自己の倫理を喚起するものとして存在する他者と神の関係について、著者は次のようなレヴィナスの言葉を引用している。

 他者は神の受肉ではなく、神が顕現する高さの現れである。その高さはまさしく他者の顔を通じて現出するのだが、それは顔において他者が受肉していないからなのである。〔……〕わがうちなる無限の観念――あるいは私と神の関係――は私と他の人間の関係の具体性、つまり社会性(それは私の隣人への有責性に他ならない)に即して私に到来するのである。というのも、この有責性は私がなんらかの「経験」を通じて負うことになったものではないからである。しかしこの有性は私がなんらかの「経験」を通じて負うことになったものではないからである。しかしこの有責性にもとづいて他者の顔は、その他者性、その異邦性そのものを通じて「どこから由来するのかわからない」戒律を語るのである。(『観念に到来する神について』 (De Dieu qui vient à l’idée, Vrin 1982)  p. 11  (p. 29)

 レヴィナスの思想は、ヨーロッパのキリスト教社会の中のユダヤ教という信仰のありようの理解なくしては近づくことが難しい。著者は、レヴィナスに先行するユダヤ人思想家についても述べ、たとえばフランツ・ローゼンツヴァイクとレヴィナスについて次のように記している。

 レヴィナスとローゼンツヴァイク、この二人の仕事は、その霊感において、静けさにおいて、ユダヤ教に最高の表現を賦与しょうとする共通の気遣いにおいて、異論の余地なく近い。二人の仕事の差異は、彼らを涵養した経験と、その誕生の「原風景」と、それがくぐり抜けた政治史の違いを映し出している。
 しかし私たちはこれ以上両者の照応と差異を詳述することはできない。ここでは私たちにとって決定的と思えるひとつの要素を指摘しておくことにとどめよう。それはローゼンツヴァイクは大外傷(le grand traumatisme)以前のヨーロッパを生きたということである。ローゼンツヴァイクは最終的試練を知らなかった。そしてこの試練こそがおそらくエマニュエル・レヴィナスの仕事の中核に位置しているのである。  (p. 96)

 つまり、レヴィナスの思想は、アウシュビッツで象徴される「大外傷」と向き合うことで骨格を獲得したとも言えるのではないか。「他なるものに対する強迫観念、他なるものを前にしたときの終わりなき有罪感。他なるものに対する無限の負債。自己廃位、自己剥奪。こういったことはすべておのれ自身に釘付けにされている「私」という不純物を洗い流すために必要」 (p. 101) としたうえで、「私」の上に立ち上げていく倫理こそが、あまたのユダヤ人迫害を乗り越えてきたユダヤ教のように、「大外傷」を乗り越え、昇華させることができるのだと思われる。

 アウシュヴィッツの神学? レヴィナスを神学者に列するよりも適切な遇し方があると私たちは思う。伝統的神学は――正統的神学は――つきるところ謎を深め、無意味なものを別の無意味なものに置き換える以上のことはしない。
 レヴィナスはアウシュヴィッツについて真実をつたえようとしているのではない。この出来事についても、ユダヤの民の上にこれまでふりかかってきた出来事と同じように、レヴィナスはそこに人間の条件のかたちを探し求めている。 (p. 102-3)

 著者は、アウシュヴィッツと向き合うレヴィナスの立ち位置を、「傷口に火を当てるような発言」としてレヴィナス自身の言葉を紹介している。

 六百万ユダヤ人――そのうちの百万人は子供たちでした――の受難と死を通して、私たちの世紀全体の贖いえない劫罰が開示されました。それは他の人間に対する憎悪です。それは開示であり、黙示でした。世界大戦と絶滅収容所と全体主義とジェノサイドと捕虜と核の危機と背中合わせの理性とスターリン主義に転化する社会的進歩の二十世紀。もしゲルニカからカンボジアにいたるまで地上に氾濫した血がいわば一点に集まり、時の終わりまで煮えたぎる場所があるとしたら、それはアウシュヴィッツです。ふたたびイスラエルは聖書に記されているとおり、万人の証人となり、その「受難」によって、万人の死を死に、死の果てまで歩むべく呼び寄せられたのです。 (『ラルシュ』1981年6月号) (p. 105)

 イスラエル(ユダヤ人)は、「その「受難」によって、万人の死を死に、死の果てまで歩むべく呼び寄せられた」という認識は、他者の「顔」によって「他者に対して責務を負う立場」を認識する倫理と通底している。上のテキストでは、レヴィナスが「アウシュヴィッツにおける神の不在」こそがユダヤ人が「ひとつの倫理的忠誠を引き受けることを命じていると主張している」のだと著者は語る。ここでもまたアブラハムの試練が想起される。
 レヴィナスの政治的立場というのははっきりしないが、「「初期マルクス主義」に分類する人がいるかもしれない」 (p. 51) ような文章を残している。

 経済的人間から出発するマルクス主義哲学の偉大な力は、根源的な仕方で説教の偽善性を忌避する能力のうちに権原を持つ。その意図が誠実である限り、飢えと渇きを癒そうとする善意がある限り、マルクス主義哲学が提起する闘争と犠牲の理想、つまるそれが指し示す文明は、このよき意図の深化に他ならない。マルクス主義が魅惑的なのは、そのいわゆる唯物論によってではない。この提言とこの指針が保持している本質的な誠実さのゆえなのである。(『実存から実存者へ』 (De l’existence à l’existant, Aux éditions de la revue Fontaine, 1947; Vrin1977)〔西谷修訳、朝日出版社、一九八七年〕 p. 69) (p. 51)

 しかし、もちろんコミュニストではない。だから、1968年に起きた重要(と私は思っている)政治的情況については、やや些末な否定的な言葉が著者によって拾われている。

六八年五月についてはいかなる言及もない。書かれたものを徴する限り、どのような態度表明もなされていない。私たちにわかるのはパリ大学ナンテール校の教授は、あえて語らないという方針を本能的に選択したということである。彼自身は学生からの異議申し立てを受けたわけではない。のちになってレヴィナスはコーン=バンデイットのある種のアクセントに引き込まれたことを認めている。その心の広さに心打たれたわけではない。レヴィナスはむしろ傷つけられたのである。善意にあふれ、学生の反乱に対して好意的であった学部長のポール•リクールは公共の場で自分の学生たちから罵倒され侮辱された。その光景が他のなによりも深くレヴィナスの心に刻みつけられた。 (p. 55)

  「六八年を拒否するのは、ひとつの伝統の擁護と顕彰のためである」と著者は理解を示す。その伝統とは「なにかを語るためには師を必要とする、という考え方」 (p. 58) である。いかにも、その師であるラビ、シュシャーニ師と出会ってから「一切の社交生活から身を引き、この奇怪なラビの門人」になって、タルムード(聖書と並ぶユダヤ教の根本教典)を徹底的に学んだレヴィナスらしい師弟観である。
 著者は、政治性を遠ざけるレヴィナスの立場を「慎重で孤高な」と形容しているが、次のような寓話を用いて擁護に務めている。

 聖書に登場するミリアムが「女預言者」であることを私たちはどうやって知るのだろうか。聖書の文章は彼女にその形容詞を与えているけれど、なぜ彼女がそう呼ばれるにいたったのかについてはなにも教えていない。答を教えてくれるのはラビ的注釈である。モーゼの姉ミリアムは、モーセがナイル河からファラオの娘の手で救い上げられたとき「遠くから見守っていた」。このちょっとした待機と警戒の態度が彼女を聖別し、女預言者の地位に押し上げたのである。この寓話を教えてくれたのは、ご賢察のとおり、レヴィナスその人である。  (p. 64)

 巻末に「エマニュエル・レヴィナスとの対話」という著者によるインタビューが収められている。その中で、レヴィナス理解にとって大いに助けになりそうな言葉があった

レヴィナス 私は「経験」(experience)という言葉よりも 「試練」(épreuve)という言葉のほうが好きです。それは「経験」という語のなかには、私を主体とする認識作用のようなものが語られているからです。一方、「試練」という語には、生と「真理の検証」という批判的な理念が二つながらふくまれています。私にとってひとつの「場面」にすぎないはずの「試練」が私からはみ出してしまうのです。ユダヤ的実存にとっての試練は確実にいたるところに現前しています。しかし、私の哲学的エッセィはすすんでドグマ的真理を論証しようとするものではありません。そこになんらかの精神性が見られたとしても、それはあくまで結果的にそうだということです。  (p. 154)

 認識作用よりも真理の検証を重んじるという望ましい哲学的態度について語っていて、ここには、ユダヤ人が課されつづけた「試練」を哲学的基盤としてきたレヴィナスがいる。「経験より試練」という感覚は、ユダヤ教やキリスト教ならずあらゆる信仰心から遠い私にとっては、必ずしも馴染みやすいわけではない。にもかかわらず、それはレヴィナスに関心を持つ限り、避けては通れない。

レヴィナス 問いはこう立てられます。「自分が存在しているせいで、私たちはだれかを抑圧してはいないか。」このとき、おのれ自身の上に安住し、私は私であるという自己同一性のうちにとどまり続けていた自己同一的な存在が、自分にははたして存在する理由があるのだろうか、と自問することになるのです。人間として生まれたことの本当の甲斐というのは、おのれの存在を一度ひっくり返して、自己同一的な安心感と手を切ることにあるのではないのか、と自問することになるのです。私が私の本のなかで言おうとしてきたことは、ほぼこれに尽くされています。むろんこの話にさらにたくさんの複雑なものが付け加わるのですが。 (p. 155)

 もちろん、信仰心がこのような心性を支えることは大いにあろうが、ここでは、宗教とは独立して倫理を立てていくことの可能性と実行性が語られている。これこそレヴィナスがユダヤ教という宗教的枠組みを超えて、受容されている理由ではないかと思う。

 

[1] ジャック・デリダ(広瀬浩司、林好雄訳)『死を与える』(以下、デリダ)(筑摩書房、2004年) p. 173。
[2] ゼーレン・キルケゴール「おそれとおののき」(桝田啓三郎訳)『キルケゴール著作集 第五巻』(白水社、1962年)。
[3] ジュディス・バトラー(本橋哲也訳)『生のあやうさ ――哀悼と暴力の政治学』(以文社、2007年)p. 13。
[4] 内田樹『他者と死者 ――ラカンによるレヴィナス』(海鳥社、2004年)p. 6。
[5] デリダ、p. 162。


【書評】森達也『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい』

2014年06月13日 | 読書


森達也
『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい
――正義という共同幻想がもたらす本当の危機
(ダイヤモンド社、2013年)

 

ほんの少し視点を変えるだけで、たぶんこの世界は相当に違って見えるはずだ。それほどに世界は多重で多面で多層的だ。 (p. 11)


 とても刺激的な書名だが、著者の主題はおそらく「正義という共同幻想がもたらす本当の危機」というサブタイトルに集約されている。このテーマは、著者自身が常に問題意識として抱え、追求しつづけてきたものだ。

 まとまった著作として、私が初めて読んだ森達也の本は、オウム真理教事件の裁判をめぐって書かれた『A3』 [1] である。「麻原法廷の顛末」を記したものだが、それを通じてオウム真理教事件がもたらした「私たちの側」の社会的実相をくっきりと描き出している。オウムを悪と認定することの裏返しとして、大衆やマスコミが「我々は正義の側にある」という協同的な幻想に落ち込んでしまった。そうした事態がもたらしたものは、社会の歪み、オウム事件でいえば司法の歪みであり、自治体や教育機関で公然となされた人権侵害の問題であった。
 『A3』において著者が主張していたことは、オウム事件・裁判を通じて私が抱いていた社会の動きへの異和感を掬い取ってくれるものであった。例えば、次のような記述である。

 三女が入学を拒絶されたのは和光大だけではない。同年には文教大学が、さらにこの前年には武蔵野大学が、入学を一方的に取り消している。
 出自によって入学を取り消す。これは明確な差別だ。しかしあらゆる差別問題に取り組むはずの解放同盟を含め、ほとんどの人権団体はこの事態に抗議しない。異を唱えない。声をあげない。反応しない。まるですっぽりとエア・ポケットに入っているかのように、明らかな異例が明らかな常態になっている。
 オウムは特別である。オウムは例外である。暗黙の共通認識となったその意識が、不当逮捕や住民票不受理など警察や行政が行う数々の超法規的(あるいは違法な)措置を、この社会の内枠に増殖させた。つまり普遍化した。だからこそ今もこの社会は、現在進行形で変容しつつある。
 要するに問題はここだけにあるわけじゃない。そこにもあるし、あそこにもある。そこら中にある。 (p. 146)

 当時、大学に勤めていた私は、大学が風評や情緒に流されない「理と知の場所」というイメージから遠ざかりつつあることをそれなりに実感していたとはいえ、明白な人権蹂躙に加担するまで頽落化しているとまでは思っていなかった。そしてまた、それは人権問題という視点を欠落させたまま報道され、社会もまたそのまま受容しているように見えた。
 あるいはまた、犯罪者の家族に対する世間の目が厳しいことはよくあることだが、行政が犯罪者の家族の住民票受理を拒否するということは想定できないことだった。いわば一族郎党をすべて罰するという封建時代の処分に等しい行政の判断に驚くしかなかった。
 「私たちは正義の側だ」という思い込みが、いかに自らの行動に無自覚になるか、恐ろしいばかりである。社会の歪み、暴走に対してジャーナリズムは本来的には「対自的」に矜恃を持って批評しうると信じたいのだが、実際には、マスコミ・ジャーナリズムはそうした事態にほとんど無反応であった。そのようなジャーナリズムに対する批判もまた『A3』の主要な主題であった。つまり、『A3』には、私たちの社会の種々の位相に顕在している問題がほとんど含まれていたと考えることが出来る。

 『A3』に続いて、森達也の本としては『世界が完全に思考停止する前に』 [2]、『極私的メディア論』 [3]、『誰が誰に何を言ってるの?』 [4] などを読んだが、これらは雑誌などに掲載した時事批評、社会批評を集めたものだが、全体を貫く主題は『A3』から(それ以前からだと思うが、私が読んだ限りでは)一貫している。
 だから、本書を読んでいると、ときどき、これは以前に読んだような既視感(既読感)に襲われることがある。粗っぽく分ければそれには三通りあって、一つは明らかに同じ話題の場合であり、あるいは社会自体が同じ事象を繰り返している場合であり、そしてもう一つは異なった事象にもかかわらず同じ「社会的感情」を持った人びとがそれをになっている場合である。

 本書は、次のような章が立てられている。

第1章 「殺された被害者の人権はどうなる」このフレ—ズには決定的な錯誤がある
第2章 善意は否定しない、でも何かがおかしい
第3章 「奪われた想像力」がこの世界を変える
第4章 厳罰化では解決できないこの国を覆う「敵なき不安」
第5章 そして共同体は暴走する
エピローグ 九条の国、誇り高き痩せ我慢

 犯罪被害者の人権、被害者家族(遺族)の人権、加害者の人権、加害者家族の人権、みな等しく人権である。その人権を前提にして加害者は裁かれる。これが近代刑法の根本的な考えであり、また保証しているはずのものだ。ごく単純なことなのだが、現実はそうなってはいない。
 あるシンポジウムで、加害者、被告の人権に話題が及ぶと、次のようなことになる。

そしてこれに対して会場にいた年配の男性は、「殺された被害者の人権はどうなるんだ?」と反発した。つまりこの男性にとって被害者の人権は、加害者の人権と対立する概念なのだ。

でもこの二つは、決して対立する権利ではない。どちらかを上げたらどちらかが下がるというものではない。シーソーとは違う。対立などしていない。どちらも上げれば良いだけの話なのだ。加害者の人権への配慮は、被害者の人権を損なうことと同義ではない。  (p. 24)

 たとえば、こんなことがある(あった)。ある殺人事件で被告の無罪判決が出る。すると、マスコミが突き出すマイクの前で、被害者遺族は「納得できない。死刑にしてほしい。裁判官は私たち遺族の苦しみ、悲しみが分かっていない」と悲痛な面持ちで語る。このとき、私(たち)は遺族に同情するだろう。しかし、私は、同情はしても同意しない。被告が無罪(無実である蓋然性が極めて高い)であっても、極刑を求めるというのは、いわば己の悲しみを慰撫するために他者の命、生け贄が必要だという主張に等しい。そして、マスコミも上の引用の男性も、それがあたかも被害者(遺族)の人権であるかのように語る。
 こうした感情的な法精神の無視は、「死刑制度がある理由は被害者遺族のため」という愚劣な主張につながっていく。

ならば「死刑制度がある理由は被害者遺族のため」と断言する人たちに、僕はこの質問をしてみたい。

 もしも遺族がまったくいない天涯孤独な人が殺されたとき、その犯人が受ける罰は、軽くなってよいのですか。

死刑制度は被害者遺族のためにあるとするならば、そういうことになる。だって重罰を望む遺族がいないのだから。ならば親戚や知人が多くいる政治家の命は、友人も親戚もいないホームレスより尊いということになる。生涯を孤独に過ごして家族を持たなかった人の命は、血縁や友人が多くいる艷福家や社交家の命より軽く吸われてよいということになる。 (p. 30)

 被害者家族・遺族の人権を重んじるというのは、すべての人の人権を重んじるという意味で、とても大切だ。だが、それ以上に、特化された人権というものはないのだ。

 領土問題でも、著者の発言は過激だと受け取られるだろう。領土を巡る殺戮の歴史を鳥瞰しながら、次のように主張する。

もう一度書く。領土とは利権だ。ならば交渉はできる。何かに置き換えることも可能なはずだ。ところが多くの人はこの問題になると硬直する。代替案を発想できなくなる。交渉を受け付けなくなる。ナショナリズムに容易くリンクする。互いに正当性を主張する。そもそもは歴史をいつから区切るかで変わってしまう程度の正当性だ。でも互いに前提となる。その意味では正義に似ている。しかも主語が複数となったときに述語は暴走する。威勢がよくなる。
 こうして人は大地に縛りつけられながら、世界で最も悲しい声をあげることになる。

 無用な諍いや争いを回避するためならば、少しばかり領土や領海が小さくなってもかまわない。弱腰と呼びたいのなら呼ぶがよい。でもこれだけは絶対に譲らない。私たちは自国と他国の人たちの命を何よりも大事にする。
 もしもそんな判断をこの国が示せるならば、僕はそのとき本気で、この国に生まれたことを「誇り」に思う。 (p. 41-2)

 著者が主張するこうした方策以外に残された選択肢は戦争しかない。もちろん、国際司法裁判所へ付託するという手段もある。だが、悲しむべきことに、たいてい軍事力に勝る国がこれを拒否する。悲惨な戦争の歴史から人間は学ぶことができるが、国家というパスを通すと、結局は、「領土問題については、まるで遺伝子レベルで刷り込まれているかのように」戦争で片をつけようとする。
 憲法第9条を持つ日本こそが、著者が主張するような行動を取りうる最も近い位置にいる。世界で「誇り」ある国家になり得る確然とした法的根拠を持っているのは日本だけなのだ。

 このような著者の主張がどのような反応を引き起こすかは、語るまでもないだろう。「非国民で売国奴の僕はこの国でますます居場所を失うだろう」というタイトルで一節を書いているほどだ。とくにネットを通じての悪口雑言の類は、いまや珍しくもない現象になっている。
 その多くは、想田和弘がその著書 [5] の中で指摘しているように、「彼らは、「他人を罵る」という極めて個人的な作業にも、自ら言葉を紡ぐことなく」誰かの口移しの言葉を多用するのである。しかもず、思考の努力を要しない単なる悪口雑言に過ぎないので、あっという間に増殖する。

 ネトウヨと呼ばれる人々の口汚い罵りは匿名で為されるが、口汚さは同じでも「思想や信条は欠片もない」 (p. 57) 在特会(「在日特権を許さない市民の会」の略称)のヘイトスピーチデモは、白昼に行なわれるのだ。
 著者は、こうした人種差別への批判の最後に、マルティン・ニーメラーの詩を紹介する。ニーメラーの言葉は、ジグムント・バウマンの著書でも何度か紹介されていて、そこから私も数度引用している。とても深く示唆的な文なので、あえて森達也訳を引用しておく。

ナチス時代のドイツでルター派の牧師だったマルティン・ニーメラーは、ヒトラー登場時にはほとんどのドイツ国民と同様に、ナチスを強く支持していた。しかしナチスによる迫害が教会に及ぶに至り、これに強く抗議して最終的にはザクセンハウゼンのホロコースト強制収容所に送られている。
 そのニーメラーが戦後に書いた詩を最後に引用する。読むたびにいろいろ思う。いろいろ考える。僕が書けることはここまで。あとはあなたが考えてほしい。

最初に彼らが共産主義者を弾圧したとき、私は抗議の声をあげなかった。
なぜなら私は、共産主義者ではなかったから。
次に彼らによって社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、
私は抗議の声をあげなかつた、
なぜなら私は、社会民主主義者ではなかったから。
彼らが労働組合員たちを攻撃したときも、
私は抗議の声をあげなかつた、
なぜなら私は労働組合員ではなかつたから。
やがて彼らが、ユダヤ人たちをどこかへ連れて行ったとき、
やはり私は抗議の声をあげなかった、
なぜなら私はユダヤ人ではなかったから。
そして、彼らが私の目の前に来たとき、
私のために抗議の声をあげる者は、誰一人として残っていなかった。
                     (意訳 森達也)  (p. 60-1)

  日本ではオウム・サリン事件、アメリカでは〈9・11〉連続テロ事件、それから世界は急激に「安全」という妄想へのめり込んでゆく。世界は危険だと煽られた人びとは自主規制として、権力の周囲の人びとは過剰な忖度として、厳罰化、異物の排除へと雪崩れていった。
 どちらが卵か鶏か判然としないまま、政治権力による厳罰化、マイノリティ(アンダークラス)排除のシステムができあがる。著者は、様々な事例から警告を発し、批判を重ねる。そして、そのとき著者の眼差しは、そうした情況に無自覚に踏み込んでいく人びとに向けられている。

無自覚な自主規制。このレトリックがすでに捩れている。本来なら自律的で主体的であることを意味する自主規制ではなく、他律規制という言葉を使うべきだろう。
 自分たちが作り上げた規制を付与(ア•プリオリ)の存在と思い込む。つまりこれもまた(僕の定義においては)共同幻想だ。 (p. 69)

 この「共同幻想」がもたらす人びとのありようこそがこの著者の主題であって、オウム事件、〈9・11〉からフクシマ(原発事故)、改憲問題まで取り上げられている。それぞれの事件・事象を取り上げるメディアもまた論究の対象で、「この世界を滅ぼすのは進化し続けたメディアかもしれない」という言葉に著者の思いの重さが見て取れる。

 刑事罰の厳罰化については、ノルウェーの例について詳細な記述がなされている。2011年7月22日、ノルウェーの首都オスロで政府庁舎が爆破されて8人が殺され、続いて起きたオスロ近郊のウトヤ島で銃乱射事件では69人が死亡した。両事件は、極右思想を持つ32歳のアンネシュ・ブレイビクで、彼はキリスト教原理主義者だという。このテロ事件を受けて、ノルウェー政府の執った態度は、オウム事件後の日本政府とはまったく反対であった。
 著者は、事件後のノルウェーの情況をノルウェー在住の知人のメールを紹介するという方法で伝えている。

 ご無沙汰しております。森さんにとつて、今回のテロ事件はとても大きなショックだったのでは、と推察します。もちろんノルウェー人にとっても、自国で起こった事件とはとても思えないという反応がほとんどです。あまりにも大きな事件で、今はノルウェー全体が麻痺しているような状態ですが、暴力・テロ反対の運動は強化されています。オスロで森さんがお会いした(法務省の)パイクのパー卜ナー(ノルウェーでシェア一位のタブロイド紙VGの編集長)も、紙面で暴力反対キャンペーンを展開しています。つまり『テロに対しては暴力では立ち向かわない』という姿勢です。すでにおおぜいの人たちが賛同しつつあります。  (p. 270-1)

 オスロは治安が悪いわけでもなく、犯罪が増加していたわけでもありません。今のところ私の周囲では、厳罰化や死刑復活などは、話題にも出ていません。『暴力やテロを絶対に許さない』と同時に、『暴力に対して暴力で立ち向かうべきではない』という世相は、まったく揺らいでいないと感じています。
 事件から三日後のVG紙に、娘を失いかけた父親の手紙が掲載されました。その一部を以下に引用します。
 『憎しみをばらまき混乱を力で世界に広めようとする人間が、勝利してはならない。亡くなった人々のためにできることは、ノルウェーの民主主義は暴力に決して屈さないことを示すことだ。不安や憎しみ、怒りに盲目になってはならない。それこそが彼らの望むことだからだ』  (p. 271)

 彼我の差を嘆いてばかりもいられないが、もう一点、とても象徴的で印象的で(人によっては衝撃的な)なことがある。

同容疑者が犯行直前にインターネット上に掲載した約一五〇〇ページの文書「マニフェスト」の中で、学ぶべき国として日本を挙げていたことが二五日、わかった。同容疑者は、日本は多文化主義を取っておらずイスラム系移民が少ないなどと高く評価。会ってみたい人物の一人として、麻生太郎元首相(七〇)の名前も挙げていた。(サンケイスポーツ 七月二六日)  (p. 276)

 麻生太郎副総理大臣兼財務大臣は、ドイツのワイマール憲法が改憲されることに言及して、日本も「ナチスの手口に学んだらどうか」と発言した政治家である。2014年6月現在、阿倍信三首相のイニシャティブで、特定秘密保護法(装い新たな治安維持法)が制定され、自民党・公明党の与党間に解釈改憲によって集団的自衛権を閣議決定で認めようという了解が成立していることは、日本では「ナチスの手口に学ん」で憲法の無力化が進められていると言うしかない情況に至っている。
 ヒットラー・ナチスからアンネシュ・ブレイビクを介して安陪信三(麻生太郎)・自民党へと黒い鎖がつながっているイメージが頭から去らない。明らかに、日本は困難な時代に足を踏み入れてしまっている。

 話題が広汎に及ぶ本書を簡潔にまとめることはとても難しいので、著者が『A3』から一貫して述べている「過ちに至る組織」の組織論とでも言うべき文章を挙げて、まとめとする。

 中枢の意志を過剰に忖度する周辺。そして周辺の意志を過剰に忖度する中枢。互いに忖度し合いながら集団は暴走する。一人称の主語を喪うからだ。特にオウムの場合は、教祖がほとんど失明状態でテレビや新聞を見たり読んだりすることができないため、弟子たちのメディア化が促進された。米軍が攻撃してくるとか,自衛隊が集結しているなどと、麻原の危機意識を煽り続けた。そうした情報をマーケット(麻原)が好んだからだ。
 連合赤軍やオウムだけではない。ナチスやポルポトや大日本帝国など、すべての組織共同体が引き起こす壮大な失敗の背景には、この相互作用的な忖度が絶対に働いている。 (p. 282)

 

[1] 森達也『A3』(集英社インターナショナル、2010年)
[2] 森達也『世界が完全に思考停止する前に』(角川書店、平成16年)。
[3] 森達也『極私的メディア論』(創出版、2010年)。
[4] 森達也『誰が誰に何を言ってるの?』(大和書房、2010年)
[5] 想田和弘『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波書店、2013年)


原発を詠む(13)――朝日歌壇・俳壇から(2014年5月19日~6月2日)

2014年06月02日 | 鑑賞

朝日新聞への投稿短歌・俳句で「原発」に関連して詠まれたものを抜き書きした。

  

除染する熊手の上に降る花弁愛でられず散る浪江の桜
                  (南相馬市)池田実  (5/19 高野公彦選)

「しょうがない」は日本人の悪いくせ九条原発秘密保護法
                  (さいたま市)田中ひさし  (5/19 永田和宏選)

全村避難の村の桜はさみしかろしいんと咲いてしいんと散って                                                                                             
                  (福島市)美原凍子  (5/19 馬場あき子選)

どれくらい除染すれば人は帰るだろう自問を胸に刈る浪江の草花
                  (南相馬市)池田実  (5/19 佐佐木幸綱選)

キビタキの胃に筋肉に放射能のシミ映し出す写真哀しき
                  (横須賀市)梅田悦子  (5/19 佐佐木幸綱選)

はらはらと浪江の土手に舞う桜しばし忘れる胸の線量計
                  (南相馬市)池田実  (5/26 永田和宏選)

原発が点で描かるる地図上に念のためなる同心の円
                  (東金市)山本寒苦  (5/26 佐佐木幸綱選)

除染終え飯場へ帰る車窓にはガレキ踏みしめ睨む猪(しし)見ゆ
                  (南相馬市)池田実  (5/26 高野公彦選)

その背(せな)に兵士立たしめ原潜は原子炉一基抱えて入り来
                  (横須賀市)梅田悦子  (6/2 馬場あき子選)                                                                                                                             

ロボットのメンテナンスは人が負う廃炉作業の深き下闇
                  (橿原市)福田示知恵  (6/2 馬場あき子選)                                                         

ほろほろと木通(あけび)の花のこぼれいて空き家はずっと空き家のまま
                  (福島市)美原凍子  (6/2 馬場あき子、永田和宏選)                                                         

福島に手当求めて流れ着く作業員という我らも難民
                  (南相馬市)池田実  (6/2 佐佐木幸綱選)
                  

 

夏隣り除染の山の影長し
                 (秋田市)松井憲一  (5/19 大串章選)

福島に帰る帰れぬ櫻かな
                 (長岡京市)寺嶋三郎  (5/19 金子兜太選)

万緑の中や原子炉発電所
                 (秋田市)松井憲一  (5/19 大串章選)


『バルテュス展』 東京都美術館

2014年06月01日 | 展覧会

【2014年5月31日】

 会場入口で、朝日新聞の「バルテュス展記念号外」を貰う。1面の見出しに、「称賛と誤解だらけの20世紀最後の巨匠」とある。2面には「少女に見た永遠の美」、「ピカソが認めた孤高の画家」とあって1面の見出し文を補完している。
 バルテュスが「称賛」されていることは当然だとしても、はじめは、「絵画を誤解する」とはどういうことだろうと考えた。神話や聖書を主題としたり、アレゴリーのような文脈を絵画に持ち込んでいる場合は、その文脈を誤解することはあるだろう。しかし、バルテュスはそのような画家ではない、などと考え込んだのだ。新聞記事には言及はないが、そんな意味の「誤解」ではないようだ。

 バルテュスは、少女(時には童女と呼ぶべき少女)の絵を描き続けたし、描かれた少女たちは挑発的なポーズを取り、時には全裸であったりする。展示作品ではないが、図録 [1] に参照されている《猫と少女》 (図録、p. 64) は、ウラジーミル・ナボコフの小説『ロリータ』の表紙になっていた。こうしたことが「誤解」を生み出した理由だろう。つまり,絵を誤解するのではなく、それを描いた画家の人となりに誤解があったということらしい。

 同じ見出しの中の「20世紀最後の巨匠」というのはピカソのバルテュス評だという。「美術において20世紀は、「ピカソの時代」(ピエール・カバンヌ)と呼ばれることがある」 [2] と言われるピカソが、27歳も若いバルテュスを「20世紀最後の巨匠」と呼ぶことには、たとえそれが単なる讃辞であったとしても、バルテュスの絵画の本質を射抜く重要な意味があると思える。残念ながら、号外記事にはそれ以上の言及はない。
 バルテュスが「20世紀最後の巨匠」であるのは「これこれ」だからである、というべき「これこれ」が私には見当が付かない。高階秀爾が「フォーヴィズム、キュビズム、表現主義、抽象絵画等、新しい美学や大胆な試みが目まぐるしく登場してくる二〇世紀絵画の歴史において,バルテュスをどのように位置づけるかという問題は、つねに批評家たちを悩ませてきた」 [3] と書いているくらいだから、単なる観者である私が、バルテュスの絵を「これこれ」と括れないは当然なのだが、当てずっぽうであれ、どんな評言も不思議なほど思い浮かばないし、直感的に辿って行けそうな感覚もないのである。バルテュスの絵は私の文脈的理解を拒否している、と強弁したくなるのだが、もともと現代絵画に文脈的理解など無意味だという思いも働いて、混乱するばかりだ。

【左】《ピエール・マティスの肖像》1938年、油彩、カンヴァス、130.28×88.9cm、
ニューヨーク、メトロポリタン美術館(『図録』、p. 67)。

【右】《ジャクリーヌ・マティスの肖像》1947年、油彩、厚紙、100×80.6cm、
個人蔵 (『図録』、p. 75)。

 《ピエール・マティスの肖像》や《ジャクリーヌ・マティスの肖像》をバルテュスの代表作とは呼ばないだろうが、私にとっては、展示作品の中では最も素直にまっすぐ受容できる絵である。背景の深みのある色彩に惹かれる。大げさに言えば、西洋絵画の長い歴史が累々と積み重ねた画家たちの技術が、このような深みになって表現されているように感じられるのだ。
 《ピエール・マティスの肖像》は、実在の個人のイメージが鮮明すぎるが、《ジャクリーヌ・マティスの肖像》は、若い女性像の美しさの一般化(普遍化あるいは抽象化といってもよい)が見られて、格段によい。

【左】《キャシーの化粧》(部分)1933年、油彩、カンヴァス、165×150cm、
パリ、ポンピドゥー・センター、国立近代美術館 (『図録』、p. 57)。

【右】《猫たちの王》1835年、油彩、カンヴァス、78×49.5cm、スイス、
バルテュス財団(ヴヴェ、イエニッシュ美術館寄託) (『図録』、p. 59)。

 《ピエール・マティスの肖像》や《ジャクリーヌ・マティスの肖像》と比べれば、《キャシーの化粧》も《猫たちの王》も、私にとっては、ある違和を伴って受容するしかない。
 《キャシーの化粧》は、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』の一場面だが、そのような文脈は関係なさそうだ。無表情でどこか無機的な感じのする老婆と、あたかもギリシャ彫刻のように不自然な裸体でポーズを取るキャシー(図では省略したが、まったく別世界に沈潜するように考え込んでいるヒースクリフも含めて)は、小説のストーリーから開放された単なる芸術的画題に過ぎないように見える。

 このような人物像の扱いは、シャヴァンヌ [4]デルヴォー [5] のようにギリシャ的形象美を人物像に求めた画家に顕著に見られる。そこでは、人物たちは互いに干渉し合うことなく、それぞれ独立した美しい塑像のように配されるのである。

 《猫たちの王》は、若いバルテュスが求めていたダンディズムの表象としての自画像である。異様な長身として描かれているが、マニエリスムともエル・グレコの聖者像とも異なって、胸・腹部が異様に短い。「器官なき身体」を目指すかのように、足と手と頭部を強調した人物像はいくつかの少女像にも共通する特徴である。だが、これをもってバルテュスの特徴とすることが出来ないのは、《ピエール・マティスの肖像》や《ジャクリーヌ・マティスの肖像》で明らかだ。さらに言えば、展示作品には含まれていないが、《スカーフを持つ裸婦》 [6] や《鏡を持つ裸婦》 [7] もまた異様に細長い肢体の人物像であるが、裸婦の胸、腹、足は常識的なバランスで引き延ばされて描かれている。

《夢見るテレーズ》1938年、油彩、カンヴァス、150×130cm、ニューヨーク、
メトロポリタン美術館 (『図録』、p. 65)。


《美しい日々》1944-46年、油彩、カンヴァス、148×199cm、ワシントン、ハーシュホーン博物館と彫刻の庭 (『図録』、p. 77)。

 数ある少女像の中でも代表作に数えられるであろう《夢見るテレーズ》と《美しい日々》は、かなり異なった印象を与える。椅子やソファに寝そべった少女がポーズを取るという構図が多い中で、《夢見るテレーズ》はとても自然で、圧倒的なリアリティを持っている。解説に「無垢から性の目覚めへの過渡期を表わした」 (図録、p. 64) とあるが、まだ「無垢」のままの心であるがゆえにこのようなポーズをごく自然な振る舞いのように見せていると、私には思えるのだ。画家は、テレーズの無邪気なポーズをきわめて写実的に表現したとしか思えないのである。
 一方、《美しい日々》は、明らかに幼い少女の持つ美しさを強く意識してポーズを構成している。そして、おそらくこのようなポーズを取って、なお少女らしい美しさに留まるには、描かれた少女の年齢がぎりぎりの上限ではなかろうか。私は、この幼さゆえに性的な風合いをあまり感じないのだが、それでも、このよう絵によってバルテュスという画家が「誤解」されたのではないかと想像はできる。
 好みの問題として言えば、私としては圧倒的に《夢見るテレーズ》である。

《窓、クール・ド・ロアン》1951年、油彩、カンヴァス、150×82cm、
フランス、トロワ近代美術館 (『図録』、p. 93)。

 バルテュスには、窓から外を眺めている少女の後ろ姿を描いた絵が数点あるが、《窓、クール・ド・ロアン》は極めてシンプルな窓の絵である。室内のテーブルの上には水差しとガラス瓶とナイフが乗っているが、それ以外に部屋の装飾はまったくない。
 この絵は、ヴィルヘルム・ハンマースホイの絵を強く想起させる。ハンマースホイは、まったく何もない室内や窓を描いた魅力的な作品をたくさん残している。ハンマースホイのそのような静謐な絵に惹かれたように、《窓、クール・ド・ロアン》にも私は強く惹きつけられたのである。
 とても興味深いことだが、バルテュスとリルケの関係には及ばないにしても、ハンマースホイもまた詩人ライナー・マリア・リルケによってその画才が注目された一人なのである。

【左】《街路》1933年、油彩、カンヴァス、195.0×240.0cm、ニューヨーク、
ポンピドゥー・センター、The Museum of Modern Arts(画集、p. 1)。

【右】《コメルス・サン・タンドレ小路》1852-54年、油彩、画布、294.0×330.0cm、
個人蔵 (画集、p. 29)。

 バルテュスの画業の中で、《窓、クール・ド・ロアン》は特異な感じを受けるが、建物の描き方は街並みを描いた《街路》や《コメルス・サン・タンドレ小路》と共通している。この二つの絵は、この展覧会の展示作品には含まれてはいないが、バルテュスの絵の特異性の一つを見事に顕わしている。河本真理が次のように書いている。

 馴染み深いはずの日常が突如、非日常に変貌する瞬間――は、街路》や《コメルス・サン・タンドレ小路(パサージュ)》に出現する。ピエロ・デッラ・フランチェスカを想起させる、幾何学的でややこわばった身体と、何よりも一瞬の間静止したような時間――しかし、それは「一種の魔法の力で、永久にではなく5分の1秒間、過ぎてしまえばまた動き出すようなほんの束の間だけ石と化した人物」(アルベール・カミュ)が、次の瞬間動き出す前の通過点(パサージュ)なのだ――が、この変貌を可能にしている。この点において、バルテュスによく比較されるのは、ジョルジュ・スーラの《グランド・ジャット島の日曜日の午後》である。 [8]

 スーラの絵もまた、前述したシャヴァンヌやデルヴォーのように、ギリシャ的塑像のような人物たちが絵の中に配されている。人物たちは、ギリシャ彫刻、つまり「石と化した人物」として描かれているのだ。

 なぜバルテュスは時間を静止させたのだろうか。一つには、ギリシャ美術が描いたような姿形のなかに造形としての人間の美を見ているということだろう。そして、もうひとつ、私が想像するのは、人間が登場するあらゆる場面が避けがたく醸し出してしまう物語性を可能なかぎり排除しようとしたのではないか、ということである。物語の本質は「人びとの関係性」と「時間の流れ」である。時間の切断は、この時空が美として描かれる純粋な空間だけになることを意味している。《コメルス・サン・タンドレ小路》に見られるように、静止した時間の中にいる人びとは、それぞれがなんの関わりもなくそこに孤立して存在しているように描かれる。つまり、物語のもう一つの本質としての「人びとの関係性」も可能なかぎり希薄なものとして描かれる。

 このように、絵画から意味や文脈、物語性を可能な限り排除して、純粋な空間構成(2次元であれ3次元であれ)の美を追究するというのが、現代芸術の一つの大きな流れであろう。バルテュスの絵を眺めながら、ときどきシュールリアリズムの雰囲気のようなものを感じるのは、そのためではなかろうか。 


《白い部屋着の少女》1955年、油彩、カンヴァス、115×88cm、ニューヨーク、
ピエール・アンド・ターナ・マティス財団 (『図録』、p. 101)。

 上半身裸の少女が描かれる《白い部屋着の少女》も、とても気に入った作品だ。少女像といっても、明らかに《ジャクリーヌ・マティスの肖像》に連なる系譜の絵である。《夢見るテレーズ》と《美しい日々》の少女より年長で、より成熟した女体でなおかつ半裸であるにもかかわらず、エロティシズムのもつ際どさがない。逆光で、自然に膝の上で組まれた両手、静謐で落ち着いた色彩の背景、どれをとっても好もしい絵である。

【左】《冬の風景》(《ゴッテロン峡谷》のための習作)1943年、鉛筆、太い鉛筆、白いハイライト、濃色の紙、30.9×26.7cm、 スタニスラス・クロソフスキー・ド・ローラ・コレクション (『図録』、p. 151)。
【右】《アルベルト・ジャコメッティの肖像》1950年頃、 鉛筆、方眼紙、21×16.5cm、
節子・クロソフスキー・ド・ローラ・コレクション (『図録』、p. 159)。

 展覧会にはたくさんの素描・習作も展示されていた。最後に、素描を二点挙げておこう。
 《冬の風景》は、水墨画を含む東洋絵画を見慣れている私たち日本人には、とても馴染みやすいのではないだろうか。奥行きというか立体感というか、描かれていない空間に、見るものの想像力を刺激する良さを感じる。

 もう一点、とても惹かれた素描があった。《アルベルト・ジャコメッティの肖像》である。全体を描ききらない絵に惹かれるのは、日本画的な空白の美というものに惹かれるためだろうか。もちろん、私がたぶんにジャコメッティ贔屓であることも、この絵に惹かれる理由の一つかもしれない。

[1]『バルテュス』(「バルテュス展」図録、以下、『図録』)(NHK、NHKプロモーション、朝日新聞社、2014年)。
[2] 河本真理「バルテュス――もうひとつの20世紀、東西の親和力」『図録』 p. 17。
[3] 高階秀爾「バルテュス――眩惑の瞬間」『バルテュス(現代美術第2巻)』(以下、『画集』)(講談社、1994年) p. 89。 
[4] 『水辺のアルカディア ―ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの神話世界』(「シャヴァンヌ展図録)(島根県立美術館、2014年)。
[5] 『ポール・デルヴォー展 ―夢をめぐる旅―』(デルヴォー展図録)(「ポール・デルヴォー展 -夢をめぐる旅-」実行委員会、2012年)。
[6] 『画集』 p. 59。
[7] 『画集』 p. 60。
[8] 河本真理「バルテュス――もうひとつの20世紀、東西の親和力」『図録』 p. 19。