かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

大塚英志、宮台真司 『愚民社会』 (太田出版、2012年)

2012年07月31日 | 読書

 森達也の『A3』がオウム事件後の社会を描きつつ批判しているとすれば、この『愚民社会』は、「3・11」後の社会批判である。とはいっても、3・11後に変わった社会を批判しているわけではない。むしろ、3・11にもかかわらず変わらない「愚民」である私たちの社会を批判しているのである。
 本書は、3つの対談から構成されているが、第一章「すべての動員に抗して――立ち止まって自分の頭で考えるための『災害下の思考』」だけが3・11後になされているので、ここではその章だけに限って触れてみたい。

 宮台真司は「私たち」を「田吾作」と呼び、大塚英志は「土人」と呼ぶ。それは、私たちが「未完の近代」または「前近代」を生きているにすぎないことを前提としている。しかし、深い洞察を秘めた該博な知識を有する二人の俊秀が、雄弁に語り合うことをまとめるのは至難の業である。
 ここでは、これからも続く「震災後社会」を生きる私たちに棘のように刺さってくるであろう(と私が考える)話題を拾い上げるにとどめる。

 対談は、いきなり震災直後の天皇の「おことば」から始まる。

宮台 三月一六日、震災のわずか五日後に天皇のビデオによる「おことば」が流れました。天皇が不特定多数の日本国民に対し、マスメディアを通じて自らメッセージを伝えたことは、一九四五年八月一五日の昭和天皇による玉音放送以来、六六年ぶりだったこともあって、一部では「平成の玉音放送」と表現されたりもしました。
 
僕の考えをいえば、天皇の「おことば」が"田吾作による天皇利用"であるのは至極当たり前です。田吾作というのは、真理や知識が意味を持たず、従ってどこにも大ボスがいないにもかかわらず、空気に縛られる存在のことです。昨今の原子力ムラ的なコミュニケーションが典型です。 (p. 28)

大塚 ……さらにもう一つ指摘しておきたいのは、国難みたいなものに対して天皇の気持ちに国民が心をシンクロさせる、そして、その天皇との心の一体感こそが日本人なんだと思い込むような古典的フレームの存在ですね。ぼくは、ラフカディオ・ハーンのエッセイを思い出さざるを得ない。明治時代に口シア皇太子ニコライを津田三蔵が襲って大騒ぎになった(大津事件)際に、天皇の心中を察して国中がシーンと静寂としている、その姿にハーンは感動したんだけど、冷静に考えれば、強国ロシアの皇太子に手を出してしまって、「まずくないか、おい」つて、国民全体がひいていただけだと思う。それを天皇の心にシンクロしている日本人という、いわば外国人が語った日本人論みたいなものが語られ、日本人の自己像として反復され近代天皇制がつくられていったのだということを改めて実感しました。ハーンの目には、日本人は言葉は悪いけど「土人」に見えたはずです。そこに感動したんですけど、感動された日本人の方が、「そうか、日本人ってそうなのか」と思っちゃった。明治以降、外国人の語る日本人論が日本人像の原型になっているケースが極めて多いですよね。
  ……
 だから、問題は「日本人の自己像」がどう錯誤的につくられてきたのかという問題とも関わってくるのですが、ハーンの誤解が今や日本人の自己像になっている。そういう「日本」にぼくは違和しかない。
  
……
 ぼくが今懐かしく思うのは、昭和天皇が亡くなったときに皇居の前に集まった人たちを見て、浅田彰が「土人」だといったことです。あのときは、さすがに浅田彰はいいすぎだろうとぼくは思ったんだけれど、それは正しかつたと思います。
  ……
 だから震災以降、いろいろなことに対してああ、「土人」なんだ、この国の住人は、そう思うとすべてが氷解する。宮台さんは「田吾作」というけど、やさしすぎる。「土人」なんです、この国は。「天皇」の言説で歴史を区分し得るっていうのも「土人」ですね。「改元」でチャラになってまたやり直すって、つまり「歴史」という近代的な時間軸がつくれないってことでしよう。「時間はただ循環するだけでリセットを繰り返す」というのは思考回路が近代以前にあるってことでしかない。むろん、「土人」というのはあからさまな差別用語ですが、ここでは「日本人」たちが「近代」を忌避し、思考停止の中で生きている状態をそれこそ差別的に指します。 (p. 31-33)

  そして、「近代」とは何か、という議論に進む。宮台は「エリート主義」を標榜してきたが、震災後にはいっそうその必要性を痛感し、近代主義的な行動規範を主張する。

宮台 つまり先に紹介した「〈任せて文句を垂れる作法〉から〈引き受けて考える作法> へ」云々は憲法前文に表明されているのです。ところが憲法施行直後に文部省が配布したあたらしい憲法のはなし』を読むと、民主主義とは多数派政治であり、多数の意見は滅多に間違わないなどと書いてあります。憲法前文に表明された精神から一〇〇歩以上後退しているのです。
 多数派政治よりも大切な民主主義の本質は、参加・自治・少数者尊重・科学的態度です。つまり、(1)「〈任せて文句を垂れる社会〉から〈引き受けて考える社会〉へ」、(2)「〈空気に縛られる社会〉から〈知識を尊重する社会〉へ」、(3)「〈行政に従って褒美を貰う社会から〈善いことをすると儲かる社会〉へ」です。これらを欠いた多数決はクソも同然。
 大塚さんはこうした民主主義に不可欠な 〈心の習慣〉を定着させようとしておられる。僕もそれを唱導しているほどで、それは必要な営みだと思います。 (p. 36-7)

宮台 ヨーロッパでは、一九八六年のチェルノブイリ原発事故で、エネルギーと食の危険が同時に意識されて、従来の〈食の共同体自治〉を目指すスローフードが、〈エネルギー共同体自治〉を目指す自然エネルギー運動につながります。フクシマ以降の日本的脱原発運動は巨大電力会社に電源取替えを要求するだけで、スローフードの取違えをリピートしています。
 
市場であれ国家であれ巨大システムに依存するのは危ないとする〈食の共同体自治〉と〈
エネルギーの共同体自治〉の運動が、日本では巨大システムに食材取替えや電源取替えを要求する運動にすり替わります。ヨーロッパでは、デンマークのサムソ島が典型ですが、共同体の空洞化が始まった場所を、自然エネルギーを通じて再生しようとさえしています。 (p. 102-3)

大塚  今、震災で地域の存続が問題になっていますが、ムラ的な共同体は近代の明治期あたりで解体し始めて、昭和初頭の世界恐慌のときにほぼ崩壊しているわけです。地域の「互助システム」を使って共同体単位で日本を復興しょうとするのは世界恐慌時の政策です。農山漁村の経済更生運動、とかいうやつです。でも失敗した。とうに旧来のムラのシステムは崩壊していたからです。結局、何をやったかといえば郷土史や民話集をつくって「郷土愛」みたいなものを「あること」にして、ファシズムの下支えとしての郷土をつくった。だから厳しい言い方をすれば被災地の復興が進まないという責任の一つには「あなたたち、復興し得るような社会システムやモチベーシヨンを本当は持っていないんでしょう?」ということでしょう。 (p. 115)

大塚 本当になんとかしたいのだったら、東北だけはリアルなカタストロフィが今回あったわけで、それは、彼らだけは「近代」をやり直すチャンスがあるということです。たぶん、やらないで、中央の政治家に助成の陳情して、おしまいだと思いますが。
宮台 暴言で失脚した復興担当大臣の松本龍は実はそういったんですよ。正しいのです。
大塚 お前ら少しは自分の頭で考えろよって、ね。ぼくも彼は正しいなと思いましたよ。震災後の政治家の発言で唯一、同意できた。神戸みたいに復興予算を使い切っても何も変わらないのか、歴史のスパイラルを東北だけは一段先に行けるのかやらせりゃよかった。 (p. 116-7)

大塚 さっきもいったけど明治時代、西洋からやって来た人問はずっとこのことをいい続けているわけです。その日本人像にあわせてきた結果が現在なんですね。パーシヴァル・ローウェルは日本人は進化論的に劣勢だから自我が発達していないといい切った人です。それを踏まえた上でラフカディオ・ハーンをはじめとする明治期の外国人たちの日本人論が成り立っていて、個人的な自我、「個我」と訳されますが、個我が発達していないから集団的なのだ、と、それが最終的には美徳なのだという具合に変わっていく。
 
ローウェルはつまり日本人は猿だ、土人だといつてるのにそれが自己肯定的な日本人像になっていく。どう勘違いすればそうなるのかと思いますけど、「動物化」もこの文脈で受け取るべき日本人論に過ぎない。外国人が語った日本人論によって日本文化が語られて、いわば、それが「近代」へのサボタージュの方便や根拠の一つになっている。 (p. 149)

大塚 宮台さんのおしやつていることはどんどん柳田の「公民の民俗学」に近づいていっています。自分のいる、今、この場所で、公共性や社会を形成していく責任を引き受け、それは具体的には自身の言葉で合理的に考えていくということです。「共同体エリート」とは柳田が『明治大正史 世相編』の中で「選手」という形容をしているあり方に重なります。
 
でもやはり問題はそこから先だということに戻ります。宮台さんが育てるとすればそうした理論的前衛ですよね。「誘導する」側です。でも、思想を具体化する設計された制度を動かす必要もある。さっきいった小さなリーダーの問題ですが、具体的にはそれを各々の行動の中で振る舞い、行動として、あるいは嚙み砕かれた言葉として使っていけるような人間たちをつくっていかなければいけないわけです。それは「土人の近代化」というプログラム抜きにはあり得ない。「草の根運動」は「草の根」が「バカ」ならアメリカのティーパーティーにしかなりません
 
もちろん、前衛やエリートが大衆が「動物」や「土人」でただ欲望と本能で動いていってもなんとかなる社会を設計できるっていうならすればいいし、WEBってツールは「土人」統治にはよく向いている気がします。でも、WEBで「土人」を統治する社会にぼくは関わりたくない。
 
柳田國男が考えていた理想というのは、エリート階級の構築ではなくて、共同体の中での上位グループの実践的教育による近代化の達成です。その人たちが、理論的抽象的概念ではなく、具体的な振る舞いであるとか、民俗学でいうと習慣ですよね。習慣そのものの修正とか再設計をたぶん柳田は野心していたんですよね。 (p. 158-9)

宮台 僕の思惑通り、世田谷区や目黒区のママたちは大挙して子供たちを疎開させました。リスクマネジメントの観点から当然の行動です。ママたちの多くは日頃から原発情報に注意してきたわけではないと思いますが、震災二週問後にメルトダウンの可能性を示唆した原子力安全保安院の係官を左遷した政府&東電連合軍のインチキにいち早く気づいてくれました。
 
政府と東電は嘘つきだから宮台ツイートを参照したほうが良いと口コミしてくれることで、大人数の子供たちの疎開を可能にしたママたちの振る舞いは、明らかに公共的です。批判にはあたりません。ただ、しばらくたって問題だと思ったのは、僕は疎開に際してヨソの子を連れて行きましたが、同じように振る舞った人がほとんどいなかったということです。
大塚 問題はそこですよね。
宮台 大塚さんのいうように、「子供のため」という場合、「え、自分の子供だけだったのか」という問題です。というのは、近隣にも子供がいて、お父さんやお母さんの都合で東京を離れられないケースはいくらでもある。「子供のため」というなら、そういう子たちを連れて行くべきです。でも、実際にはそういう動きがほとんどなかった。想定外でした。
 
この部分には大塚さんの批判があたります。「なぜヨソの子を連れて疎開しないのか」と朝日新聞の記事でも語りました。リスクマネジメントの観点から疎開は合理的だといってきましたが、自分の子だけを疎開させることは合理化できません。そこには母性の自然感情を偽装したエゴセントリズム(自己中心性)があり、それ自体がこの社会の空洞ぶりを顕わにします。
大塚 そうですよね。だから、そこに共同体自治の可能性の契機を見ることは、正直にいえばとてもできない。宮台さんが夢見たように、他の家の子供も疎開させるようなことはなかった。また、ツイッターとかを介しながらも、そのネットワークはたぶん経済的なクラスの中で、完結している。宮台さんのツイッターから持ってきた情報を地域全体の母親が共有するのではなくて、そもそも母親たちは同じような経済状態でカテゴライズされていますから、その同じ階級の中で広がっていく。「安全保障」は常に保障される対象を限定しますよね。貧乏な家の子供は対象外だし、そもそも住めない。
宮台 そうですね。
大塚 その時点でアウトでしょう。 (p. 127-8)

 彼らの広範な話題の展開の中で、上のピックアップは議論を少し矮小化しているかも知れない。いや、じつはハウツー的な矮小化を意図的にやったのである。震災後の今を生きる私たち「愚民」は、近代論や近代社会システム論、はては近代政治論や民俗学の中で迷子になりそうな気がしたためである。小さくとも即応した方がいいのではないか、いや、それは「土人」の行いか。


【書評】森達也『A3』(集英社インターナショナル、2010年)

2012年07月31日 | 読書


 
ぼんやりと鈍感に生きてきた私にも、世の中の空気が変わったな、とはっきりと感じる事件がある。


 近くから挙げれば、もちろん「3・11」大震災である。これは大地震とそれに伴う大津波という「未曾有の自然災害」だが、これに東京電力福島第一原子力発電所の原子炉溶融という「未曾有の人災」の複合事故である。
 それから、2001年「9・11」に、ニューヨークの世界貿易センターとアメリカ国防総省(ペンタゴン)へとハイジャックした航空機とともに突入したイスラム原理主義グループ(と喧伝されている)によって敢行された同時多発テロがあった。
 もっと前には、1989~1995年にわたるオウム真理教による坂本弁護士一家殺害事件、松本サリン事件、地下鉄サリン事件に代表される一連の犯罪があった。

 そして、それらの事件、事故は、それ自体の意味というよりは、それへの応答としての社会の反応はさまざまであったけれども、その中でのもっとも歴史的に重要な意味を持つであろう反応が、いわば「愚かさ」または「蒙昧さ」によって主導されるという特徴がある。
 9・11では言うまでもなく、十字軍としての戦いを口にしつつ、イラク侵攻を命令した子ブッシュの政治判断である。イラク侵攻の口実であった大量破壊兵器もアルカイダとの関係も存在しないことが明らかになったように、いかなる正義の根拠も満たされない政治的、軍事的決断・行動であった。
 3・11の原発事故では、広大な放射能汚染地域によって国土を失い、厖大なフクシマの避難民を生みだすことで国民の生活の場を失い、かつ被爆による放射線障害によって将来にわたって国民の命が失われる事が確実に予想されるという、もっとも明確な形をとって原発の安全神話は粉みじんに崩壊した。
 にもかかわらず、野田佳彦は「私の責任において」という虚飾に満ちた前振りのもと、がむしゃらに大飯原発の再稼働を宣言する。「生産の効率優先という政策のテレオノミー(目的指向)の、露骨な貫徹」(見田宗介)はあっても、将来にわたる国土、国民の命にたいする想像力は皆無としか言いようのない決断をする。

 そして、オウム真理教事件に対しても、私たちの愚かで不正義な反応があった。それに対する批判と言うよりは、ジャーナリストらしい冷徹な観察報告として森達也の『A3』はある。『A3』は、「麻原法廷の顛末」を記したものだが、それを通じてオウム真理教事件がもたらした「私たちの側」の社会的実相をくっきりと描き出している、と私は思う。

 結論から言えば、そのような社会のありよう、歪んだ世論やそれを煽り、同調するマスコミのありようを見通す森達也のまなざしの確かさに、私は同意し、強い賛意を持つ。

 例えば、マスメディアと「私たち」はこんなふうに同期していなかったか。

 テレビを筆頭とする当時のマスメディアが、オウムを語る際に使ったレトリックは、結局のところ以下の二つに収斂する。

  (1)狂暴凶悪な殺人集団
  (2)麻原に洗脳されて正常な感情や判断能力を失ったロボットのような不気味な集団

 この二つのレトリックに共通することは、オウム信者が普通ではない(自分たちとは違う存在である)ことを、視聴者や読者に対して強く担保してくれるということだ。
 
それはこの社会の願望である。なぜなら、もしも彼らが普通であることを認めるならば、あれほどに凶悪な事件を起こした彼ら「加害側」と自分たち「被害側」との境界線が不明瞭になる。それは困る。あれほどに凶悪な事件を起こした彼らは、邪悪で狂暴な存在であるはずだ。いや邪悪で狂暴であるべきだ。 (p. 80-1)

  そうして、オウム真理教に関わるすべてのこと、すべての人を憎み、排除し、果てには抹殺することが、あたかも正義を代表するかのように「私たち」は振る舞ったのではなかったのか。テレビなどとは異なり、良質のメデイアと思われた場所においてもこうである。

 「世紀末航海録」連載終了後、『宝島30』(一九九六年三月号)で藤原〔新也〕は、「麻原と水俣病についてもういちど語ろう」と題されたインタビューに応じている。

 宝島 「しかし、ほとんどの人が麻原こそ凶悪犯罪の首謀者であると考えている状況下で『麻原=水俣病』説を展開するということは、『水俣病の人間はそういうことをするのか』という誤解を世間一般に生みかねない、そういう危惧はお持ちではありませんでしたか」
藤原 「それは短絡でしょ。その論法に巻き込まれていったら、何も書けなくなります」(中略)
宝島 「すると麻原彰晃という人物は日本近代が生み出した被差別者であり、だからこそ、そのルサンチマンによって引き起こされた彼の犯罪には文明論的なものがあるという立場になるわけですか」
藤原 「立場というより、その可能性を捨ててはいけないということです」(後略)

 オウムの危険性を煽るばかりの他のメディアとは一線を画していた当時の『宝島30』にして、このときの藤原に対しては詰問調になる。つまり正義をまとっている。ここには当時(そして以降)、メディアと社会とがオウムによって嵌り込んだ隘路の深さが、くっきりと示されている。仮に麻原が水俣病だからといって、「水俣病の人間はそういうことをするのか」などと思う人はまずいない。麻原の視力に先天的な異常があつたからといって、「目が不自由な人は犯罪を起こしやすい」などとは誰も発想しない。もしもいるならばバカと言えばよい。その演繹は明らかに間違っている。 (p. 113-4)

  正義の仮面をかぶった「私たち」の排除の論理は、麻原彰晃の子供たちや信者をこの社会からの排除へと向かう。たとえば、自治体は住民票の登録を拒む。大学は入学許可を取り消す。この二つの出来事は明確な憲法違反である。親のゆえを持って為す、ということは中世における一族郎党をすべて罰する、ということと同等であって、憲法を持ち、刑法を持つ近代国家では許されていない。

 三女が入学を拒絶されたのは和光大だけではない。同年には文教大学が、さらにこの前年には武蔵野大学が、入学を一方的に取り消している。
 
出自によって入学を取り消す。これは明確な差別だ。しかしあらゆる差別問題に取り組むはずの部落解放同盟を含め、ほとんどの人権団体はこの事態に抗議しない。異を唱えない。声をあげない。反応しない。まるですっぽりとエア・ポケットに入っているかのように、明らかな異例が明らかな常態になっている。
 
オウムは特別である。オウムは例外である。暗黙の共通認識となったその意識が、不当逮捕や住民票不受理など警察や行政が行う数々の超法規的(あるいは違法な)措置を、この社会の内枠に増殖させた。つまり普遍化した。だからこそ今もこの社会は、現在進行形で変容しつつある。
 
要するに問題はここだけにあるわけじゃない。そこにもあるし、あそこにもある。そこら中にある。 (p. 146)

 もはや、大学は近代知を代表していない。大学知識人は、マスメディアに煽られる大衆と変わるところはない。もちろん、多くの論者が大学知識人はとうの昔に社会への影響力を失っていると主張していることは承知している。しかし、ここで起きていることはそれ以下の事象である。同じ職にあったものとして忸怩たるものがあるけれども、起きた事実は消えない。

 そして、愚かな私たちが獲得したのは、「団体規制法」という法である。私たちはあたかも、嬉々としてこれを受け入れたのではないか、と思えるほどである。

 しかしそれから二年後の一九九九年、組織の存亡を賭けた公安調査庁は最後の手段として破防法棄却の理由となった「将来における再犯の明らかなおそれ」を適用要件から除外し、団体規制法と名称を変えた新たな治安予防法の成立を再び目論んだ。
 
オウム新法との別名が示すとおり、この法は明らかにオウムを対象に制定された。つまり「法の下の平等原則」(憲法一四条)や、「信教の自由」(憲法二〇条)への侵害であり、恣意的な立入検査が行われることで「住居の平穏」(憲法三五条)や「プライバシー権」(憲法一三条)にも抵触する。さらには「適正続き」(憲法三一条)違反であり、無令状での立ち入り検査は「令状主義」(憲法三五条)に抵触し、事後的な立法によって二度目の応訴を余儀なくさせる「二重の危険の禁止」(憲法三九条)違反にも該当する。つまり多重に憲法を逸脱している。破防法とほぼ同様に(あるいは破防法以上に)問題点が多くある法律だ。
 
でも団体規制法は成立した。その背景には明らかに世論の変化があった。この法案が上程された一九九九年あたりから、自治体によるオウム信者の住民票不受理や、オウムの子供たちの就学拒否などが、当たり前のように行われるようになっていた。つまり「オウムを排除するためなら何でもあり」的な意識が、事件直後の一九九五年より明らかに強くなっている。  (p. 76-7)

  この法律は、オウム真理教にのみ適用し、彼らを排除するのに有効だと私たちは思い込んでいたのではないか、「私たち」には適用されるはずがないと。たかだか1000人規模の集団のために国家が法を作ったと信じられる知性をいまさら疑ってもしょうがない。事実としてそれはあった。
 もちろん、公安調査庁は1億すべての国民に適用する。なぜなら、それこそが「法の下の平等」なのだから。恥ずかしくなるほど、平明な事実である。

 さて、森達也が麻原裁判に対して一貫して主張したことは、裁判の過程で「人格が崩壊した」ように見え、裁判の継続に耐えられないと思われる麻原彰晃に対して、刑事訴訟法第314条を適用して裁判を延期し、麻原に治療を施したうえで再開すべきだということである。
 それが、一連のオウム事件の真実の解明に近づく道ではないか、と主張するのである。

 念のために書くが、麻原に対しての刑の免除や減刑をすべきと主張するつもりはない。ただし治療すべきとは主張する。近年の精神医療の進展はめざましい。症状がこれほどに急激に進行したということは、適切な治療さえ行えば劇的に回復する可能性が大いにあるということを示している。ならば治療してある程度は回復してから、裁判を再開すればよい。きわめて当然のことだと思う。ところが精神鑑定が為されない以上はいつさいの治療が望めない。病状は進行するばかりだ。
 だ
からやっぱり不思議だ。なぜ精神鑑定の動議すらできないのか。なぜ検察も弁護団も裁判所も沈黙してきたのか。なぜこれまで裁判を傍聴してきたメディアや識者やジャーナリストたちは、麻原の様子がどうも普通ではないとアナウンスしてこなかったのか。 (p. 37)

  八四%の人たちに共通するもうひとつの見解は、「これ以上裁判を続けても真相など明らかになるとは思えないから早く結論を出すべきだ」とのレトリックだ。テレビのニュースで観たほとんどの被害者遺族たちも、みなこれを口にした。
 確かに僕も、仮に麻原彰晃が正気を取り戻したとしても、法廷の場で事件の真相が解明されるという全面的な期待はしていない。その可能性はとても低いと考えている。
 
でもだからといって、手続きを省略することが正当化されてはいけない。「期待できない」という主観的な述語が、あるべき審理より優先されるのなら、それはもう近代司法ではない。裁判すら不要になる。国民の多数決で判決を決めればよい。国民の期待に思いきり応えればいい。ただしその瞬間、その国はもはや法治国家ではない。 
 
例外は判例となり、やがて演繹される。人は環境に強く馴致される生きものだ。例外はいつのまにか例外として認識されなくなる。だからこそ司法は原則を踏み外すべきではない。 (p. 272-3)

 そう主張する森達也は、当然のように批判を受ける。一つは、麻原に人格障害を認めないという立場から為される。心神喪失状態の犯罪を罪に問えないという刑法に依拠しているらしいのだが、刑法と刑事訴訟法を取り違えて(故意にかもしれないが)いるだけのことである。
 そして多くの批判は、「私たち」の正悪二元論から為される。敵に有利なことをひと言でも言えば敵である。敵でなければ味方である。絶望的な単純さが人を弾劾するのである。宗教学者・島田裕巳をめぐる人民裁判とでも呼ぶような攻撃がその愚昧な犯罪性を明証している。そして、「私たち」は正義を貫徹しているという幻想に酔いしれる、という深い病に侵されることになる。

 当時も今も、私は、「私たち」に困惑し、ある絶望をもって「私たち」として存在している。時代が進み、知が啓かれていけば、社会はよくなる、という啓蒙主義的な幻想はとっくの昔に捨てているけれども、社会がどんどん「悪い場所」になっていくとも思っていなかった。辛いことではある。
 森は次のように言う。

 サリン事件以降、メディアによって不安と恐怖を煽られながら危機意識で飽和したレセプターは、やがて仮想敵を求め始める。治安状況における意識と実態との乖離を、何とか埋めようとする。検察や警察など捜査権力の暴走は加速し、厳罰化は進行し、設定した仮想敵国への敵意は増大する。こうして冤罪はこれからさらに増えるだろう。自分たちは正義であり、無辜の民であり、害を為す悪を成敗するのだとの意識のもとに。 (p. 492)


『アール・ブリュット・ジャポネ展』 岩手県立美術館

2012年07月22日 | 展覧会

  「アール・ブリュット」とは何か、それから始めなければならない。それは、ジャン・デュビュッフェによって名付けられ、「生(き)の芸術」を意味するという。
 2010年3月から11年1月にかけてパリ市立アル・サン・ピエール美術館において、日本の作家63人の700点もの作品を集めて「アール・ブリュット・ジャポネ展」が開催された。これは、いわばその凱旋展である。

 アル・サン・ピエール美術館長であるマルティーヌ・リュザルディによる「アール・ブリュット」の解説を見ておこう(私には、これ以上の言葉はない)。

……アール・ブリュッ卜の作者たちはアヴァンギャルドや断絶の伝説とは無縁であり続けた。彼らは、知的文化、特に芸術文化の影響から免れ、表現せずにはいられない欲求から創作し、他者の眼差しから離れて、自分自身の表現方法にだけ集中することを強いられた。こうした保護がアール・ブリユットを近代美術、現代美術の歴史を横断する様々な流派の外におくことになった。だから、アール・ブリュットを最も洗練された文化領域、美術の領域に紹介したのは、"普通の人"ではありえず、自分たちが織り込まれてきた文化の価値に異議を申し立てていた発見者たちであった。実際、クレ一やブルトン、デュビユッフェ以上に、誰が、この未発表の、予測不能の、最高に想像力豊かなフォル厶の無名の発明者たちを認めることができただろうか。
   ………
 今日、アール・ブリュットは歴史を持ち、その現実はデュビュッフェのオーソドックスな見解を逸脱している。しかし、アール・ブリュット作品の存在論に関する考察や論争は、特に制度化の問題に直面している現在、依然としてアクチュアルなものである。アール・ブリュットを認知させてきた反制度的価値、あるいは反文化的価値は、アール・ブリュットに、制度に反対するのではなく、制度に身を委ねるなと命じているのだ。閉ざざれたイデオロギーの回路に囚われてしまえば、懐柔され、さらには否認ざれてしまうのを目の当たりにしなければならないから。 [1]

 アール・ブリュットの作家たちが、いかなる流派とも無縁で、歴史的影響関係の外部に立って制作していることには、もちろん理由がある。それはこういうことである。

この展覧会に一堂に会した約60人の創造者たちは、そのほとんどが、精神障害のために施設にいるか、施設に通っている人たちである。自閉症、トリソミー(染色体異常の一種)といった様々な病気におかされた彼らは、知的障害を被り、社会の文化的要求にうまく適応できない。彼らは、自身の奥底から自らのテーマ、表現方法を引き出し、原初かつ究極の創造を経験した人たちである。スタイルを主張したリ、個性を発揮しようとか、栄誉を得ようなどと思い煩うことはない。彼らの作品総体が、彼らの秘密が隠された、豊穣で奇抜な宇宙のモザイクを発見させてくれるのだ。  [2]

 いや、じつに多様なのだ。人間の心が到達しうる世界の広大無辺さを思い知らされる。そして、その世界のほとんどを私は知らないのである。しかも、その世界はその場所場所に応じた「深度」と「エネルギー」を示すので、見終わったときにはクラクラと疲れ切ってしまうようだった。

 この多様性をなにほどかの言葉で括ることは不可能である。リュザルディのようなまとめが、私たちにできることのせいぜいであろう。
 しかし、全体を見て、あらためて振り返ると、ある共通した感じ(気分)を与える幾人かの作家がいることに気づく。その例をいくつかあげてみると次のようになる。


《ルオーよりもっと力強く、率直に》

 線の極限は、太さも面積もゼロである数学的抽象である。その線に有限の幅を付与すると、どこまで「線」であり得るのだろう。そんなことを考えてしまうほど、「線」が存在を主張するような絵があった。
 線こそが実在の本質だと主張している。そして、ルオーのような逡巡がない(その逡巡こそが芸術的? 世間では)。そして、構成のシンプルさ。例えば、舛次崇の絵の解説には、「彼の意識は、全体のバランスなどには向かわない。描き進んで紙の端が来ると、形成されていた形はそこで潔くプッツリと終わる」と述べられている。
 私たちは、少し大げさだが、いわば構成主義的に時空を見る。客観的だと思い込みたいが、構成のプロセスに主観が混じってしまう。そのため、見える世界は凡庸である(あくまで私のような場合であって芸術家のことではない、としておく)。
 まず、彼らはそのような構成主義的な世界観をはなから拒否しているのだ。

  
上左:畑名祐孝《東京タワー》 2002~2003年/黄ボール紙にパステル、クレヨン、墨汁 760×350mm [3]。 上右:畑中亜未《二灯の裸電球》 2003年/紙にクレヨン 380×272mm [4]。下:舛次崇《ペンチとドライバーとノコギリとパンチ》 2006年/水彩紙にパステル 546×790mm [5]。


《空間は歪む、主情の強さに寄り添うように》

 実在体の質量が巨大な場合、空間は観測されるほどに歪む、という相対性理論の話をしようとしているわけではない。人間は時空、あるいはその中の存在体をあるがまま客観的に見ることはできない。経験と科学的知見と想像力によって、抽象として客観的対象を構成しているに過ぎない。カメラですらレンズを介するために歪んだ空間しか写し取ることができない(科学的知見はその歪みを補正はできるけれども)。
 人間の見る景色は、その見ようとする意志、対象への感情に沿って歪む。それが自然である。キュビズムはその典型である。
 秦野良夫は、何も見ずに古い記憶を描いているのだという。彼の描く空間の微妙な歪みには、ある「懐かしさ」が張りついている。生まれ育った家、幼年の記憶というもののまとった感情が歪みとして表れているのではないか、と思う。部屋の歪みと独立の座標系で歪んでいるようなテレビ、遠近法を越えて急激に遠くなる外景。これがそれぞれの事物に表象される記憶の本質ではないだろうか。
 辻勇二は、まず交叉点を描いて、そこから空想の町を展開させるのだという。そして、町と背景の海は異なった時空に属している。構成主義的な後智恵としての客観性を拒否して、純粋に「見る」ことの意味を表明している、と私は考える。 

  
左:秦野良夫《家の記憶》 2004年/紙に鉛筆、色鉛筆 515×364mm [6]。 上右:辻勇二《心でのぞいた僕の町》 2000年/紙に水性ペン 415×597mm [7]。


《私たちは才能豊かな分光器である》

 すべての色を含んだ光は、白色である。すべての色を含んだ絵の具は、黒色である。私たちに優れた分光の才能があれば、色彩豊かな世界を再現することができる(もちろん、私には無理だが)。
 この二つの絵は、私たちの周りに色彩が溢れていることを教えてくれる。そして、異なる色彩は明確な境界(線)でくっきりと区別される、ということに驚かされる。《プードル》では複雑に曲がる線によって、《ダンス》では明瞭な直線によって。
 空間の各部分がくっきりと分割され、それぞれの部分を特定の波長の色と閉じられた境界として指定することは、数学的に空間を描こうとする物理学の出発点としての優れた仮説のようだ(「それはリアルではない」と考える常識人には物理学もまた無理なのである、当然だが)。

  
左:蒲生卓也《プードル》 2000年/紙に色鉛筆、水性ペン 407×320mm、作家蔵 [8]。 右:八重樫道代《ダンス》 制作年不詳/紙に水性ブラシマーカー、油性ペン 546×789mm [9]。


《心を温める抽象》

 優しい心根にさせてくれるような絵もある。優しい色調だけではない、空間把握もまた何となく優しいのである。そのどちらも、具体的な対象から始まりながら、抽象として成立し、完成しているようなのだ。
 手と足だけが連なっている《人の身体20》は、いわば「器官のない身体」の連帯のようである。いや、言葉なしでじっと見ていることが、必要にして十分なことであった。 


左:木本博俊《人の身体20》 2007年/紙に色鉛筆、ボールペン、水性ペン 177×230mm [10]。 右: 村田清司《無題》 1988~1991年/和紙にパステル 152×106mm [11]。


《性:嫌悪から受容へ》

  絵を深読みすればもっとあるのかも知れないが、私の目から見るかぎり、セクシャリティに関連する絵は少なかった。
 一つは男女間のセクシャリティを素直に受容しているように見える小幡正雄の絵画、もうひとつは自己の性への嫌悪感を露わにしながら、あるがままの性を受容しようともがいているかのような(すずき)万里絵の絵である。
 小幡正雄は、「男がいて女がいる。間にいるのは子ども。どれが欠けても駄目でしょう? 人はそうでなくてはならないのだよ」と力説するのだそうである。この圧倒的な自然な人間観の受容に打たれる。
 一方、万里絵は写真のような絵は「見た人がびっくリするでしょう」と言って、他人と共有するイラスト調の絵を描き分けるのだそうである。性的な抑圧から解放されて《全人類をペテンにかける》を描き、そして抑圧された性の常識世界へ移行する。つまり、あたかも抑圧された性を抱えて日常を生きる私たちに同情するように、である。 

  
左:小幡正雄《無題》 作製年不詳/段ボールに鉛筆、色鉛筆 411×516×2mm  [12]。 右:万里絵《全人類をペテンにかける》 2007年/紙に油性ペン 460×533mm、ボーダレス・アートミュージアムNO-MA蔵 [13]。

  以上が、私がピックアップしたアール・ブリュットが包含する絵画のいくつかの特徴である。しかし、じつは、もっと顕著な特徴があったのだが、どう扱って良いか分からない、というのがあった。

 その多くの作家に共通する特徴とは、確信ある細部(不変の具象)の気の遠くなるような繰り返しで空間を描きだす、という創造のあり方である。
 例えば、上田志保は「こゆびとさん」というごく小さな人の形を無数に並べて絵画空間を構成する [14] 。伊藤峰尾は「いとうみねお」と「伊藤峰尾」という小さな文字ユニットを無数に並べて書き出す [15]。文字の色と配列で新しい空間表象を実現しているのだ。佐々木早苗は、微妙にサイズも線描も色彩も異なる小さな四角形を並べるだけで、たゆたうような不思議な空間を描きあげている [16]。
 その特徴は彫塑作品にも現れる。石井春樹は、小さな牛を無数に貼りつけた《うし》という陶器作品を出展している  [17]。西川智之の《うさぎのりんご》という粘土造形は、無数の兎がりんごを形作っている  [18]。
 細部の無限の繰り返しに圧倒されるものの、その繰り返しが私たちを囲繞する世界へ繋がっていく(連続していく)機制が私にはよく分からないのだ。それが、「アール・ブリュット・ジャポネ展」を見終えた後の悩ましい心残りであった。

 [1] マルティーヌ・リュザルディ「「裂け目」としてのアール・ブリュット」(前田礼訳)『アール・ブリュット・ジャポネ』(以下、図録)(現代企画室、2011年)p. 136。
[2] 同上、p. 137。
[3] 図録、p. 96。
[4] 図録、p. 99。
[5] 図録、p. 72。
[6] 図録、p. 101。
[7] 図録、p. 84。
[8] 図録、p. 41。
[9] 図録、p. 126。
[10] 図録、p. 53。
[11] 図録、p. 122。
[12] 図録、p. 36。
[13] 図録、p. 76。
[14] 図録、p. 26。
[15] 図録、p. 18。
[16] 図録、p. 62。
[17] 図録、p. 10。
[18] 図録、p. 90。
* なお、文中で引用した作家解説は図録のはたよしこ、小林瑞恵による。

 

 


【書評】大澤真幸『夢よりも深い覚醒へ ―3・11後の哲学』 (岩波新書、2012年)

2012年07月18日 | 読書


 本のタイトルは、師・見田宗介の言葉であると「あとがき」で述べている [p. 264] 。3・11の(悪)夢から目覚めねばならないが、それは「夢よりも深い覚醒へ」である、と言う。
 

 ……3・11後に生み出されてきた言説のある部分は、あの凡庸な夢解釈のようなものではなかったか。「なんだ、そういうことに過ぎないのか」という表面的な安心を提供することで、夢の真実へと至る道を塞いではいなかったか。われわれに必要なのは、幕となっている中途半端な解釈を突き破るような知的洞察である。……真実を覚知するためには、彼は覚醒しなくてはならないが、それは通常の覚醒――「眠りから覚める」という意味での現実への回帰――とは反対方向への覚醒でなくてはならない。夢の奥に内在し、夢そのものの暗示を超える覚醒、夢よりもいっそう深い覚醒でなくてはならない。 [p. 9]

  これは理論の書である。まず、3・11の悲劇の類型への言及から始まる。テリー・イーグルトンに従って、現代社会の悲劇の対立的な二つの形態を「第一の悲劇は、息が止まるような強烈な破局、破壊的な出来事が、突然、外から侵入することである。第二の悲劇は、袋小路のような絶望的な状態が、鬱々と持続すること、つまり常態化した非常事態である」 [p. 26] とする。
 そして、3・11においては、地震・津波は第一の悲劇として、原発事故は第二の悲劇として「継起的・通時的につながっている」 [p. 29]。第二の悲劇の「鬱々と持続する袋小路のような絶望的な状態」を次のように描写する。

  いったん起きてしまった大規模な原発事故は、明確な収束の見通しが立たないまま、持続する。さらに、福島第一原発の事故が収束したとしても、原発が残っている以上は、いつでも事故のリスクがある。このことが、福島第一原発の事故以降、自覚されるようになる。また、原発は、正常に稼働しているときでさえも、ときに数万年も危険なレベルの放射線を発し続ける放射性廃棄物――その処理の方法がまだ確立されていないような放射性廃棄物――を大量に残すことも、広く知られるようになった。さらに、仮に原発を廃炉にするとしても、放射性物質にまみれた施設を解体し、廃棄すること自体がきわめて危険であり、その作業にも何年もの時間を要する。このように考えると、原発の存在、さらに原発の残留物の存在が、すでに、それ自体、潜在的な原発事故である。つまり、原発事故という破局は――原発を一度でも建設し使用し始めてしまえば――半永久的に持続する。 [p. 28] 

  原発事故以前の私たちの心的状態を「信と知の乖離」があったとする。

 振り返ってみれば、われわれは、3・11に起きたような破局、すなわち高さ二〇メートルを超える大津波とか、原発の爆発や炉心溶融といった破局は、論理的には起こりうることを、3 ・11の前から知ってはいた。それらが、論理的にはありうること――不可能なことではないこと――を知ってはいた。しかし、同時に、われわれのほとんどは、実際にはそんなことがあるはずはない、と思っていたのだ。破局Xは、論理的には可能だが、現実的ではない、と考えられていたのである。こうした心理の状態は、信と知との乖離として概念化することができる。われわれは、Xがありうることを知ってはいた。しかし、その可能性を信じてはいなかったのである。
 
信と知の乖離の原因は、第4節で述べたこと、すなわち第三者の審級の撤退にある。第三者の審級によって裏打ちされ、保証されると、知は信になる。そうでないとき、「知ってはいながら、信じてはいない」という心的態度が構成される。 [p. 58]

 そして、心理学的ではなく、歴史的問題として、原爆の唯一の被災国でありながら原発建設に邁進した日本のありように言及している。かつて、原子力は世界的にも夢のエネルギー源として過剰で非合理的な期待が掛けられていた。しかし、アメリカやドイツにおいては1970年代に入るとその夢は急速に醒めていく。
 だが、日本だけは一九七〇年代に入ってから原発の建設が盛んになる。それを大澤独自の概念、「アイロニカルな没入」によって説明する。それを次のようにオウム真理教と並べて述べている。

理想の時代が終わった後、日本人は、原子力に対してアイロニカルに没入したのではないか。日本人にとって、原子力は、いまだに神である。しかし日本人は、そのことを意識してはいない。このように考えることで、原子力についての、意識レベルの熱狂が消えてしまった一九七〇年代以降に、むしろ熱心に原発が建設され、維持されてきた、という事実も説明することができる。
 
さらこ、付け加えておけば、オウム信者の麻原彰晃への帰依も、また彼らのハルマゲドン(世界最終戦争)への執着も、アイロニカルな没入である。彼らは、麻原彰晃が「ただのおじさん」であることも知っているし、ハルマゲドンが虚構であることも自覚していた。だが、彼らは、麻原が最終解脱した神であるかのように、またハルマゲドンが実際に始まっているかのようにふるまったのである。 (p. 93)

 いささか激しく言い直せば、原発建設に邁進してきた日本人の心的、知的状態(レベル)は麻原彰晃に帰依していたオウム真理教信者のそれに等しかったということである。

 歴史的にいえば、「憲法九条」や「原子力平和利用三原則」をエクスキューズとして軍備を拡充し、原発建設へ突き進んだのである。日本はいまや世界で屈指の(潜在的な)核保有国なのである。

 3・11、とりわけ原発事故で日本はどうなったのか。日本人はどのような決断を要請されているのか。少し乱暴だが、私なりにまとめてみよう。
 原発事故、加えて事故を起こしていない原発ですら、未来の長期にわたる時代に負荷を与える。原発で生産された厖大な放射能はいずれ拡散する。拡散の激発的な例が原発事故だが、マクスウェルの法則を出すまでもなく長期間を考えれば、事故がなくても放射能は拡散する。ましてや、原発で発生した放射性物質は10万年単位の厳格な貯蔵を必要とする。人類が滅びているかも知れないような未来について現代人は責任を負わなくてはならない。

 私たちの思考、行動に必要なのは「第三者の審級」としての「未来の他者」である。たとえ、それが不可能であろうとも、原発事故が明示したことはそういうことである。
 もちろん、現状維持、何も変えたくないというのが日本の政治的現状だろう。大澤は、革命的変革の担い手としての新しいプロレタリア像(古い左翼の語るプロレタリアではない)の議論まですすむ。
 
 結論に進もう。私にとって、もっとも強い衝撃を与えた結論は次の部分である。

 先に、禍の預言は、いかに声高に叫んでも、その効力には限界がある、と述べておいた。その原因は、今述べたことにある。禍の預言は、「まだ……しなくてもよい」「これから……すればよい」という余裕を人に与えるのだ。禍の預言よりもはるかに恐ろしい啓示は、だから、「救世主はすでに来た」という宣言なのである。この宣言が発せられてしまえば、人は、今すぐ必死に活動しなくてはならない。
 
それならば、こうした考察を踏まえたうえで、原発事故という出来事、現代の神の死を告知するこの出来事に対応する、実践的な命令を引き出すとすれば、それは何であろうか。簡単なことである。事故は、否定的な仕方で――悲惨な災害を媒介にして――、「神の国」の到来を告知した。この場合の「神の国」とは、原発を必要としない社会、原発への依存を断った社会である。われわれは、今すぐに動き出さなくてはならない。この「神の国」の意味が実現するように、である。仮に、今すぐに原発をすべて停止したり、廃炉にしたりはできないとしても、停止を決断すること、明確な期限の付いた停止を決断することならばできる。「いつまでに停止する」ということ、できるだけ短い期限を設定した停止ならば、直ちに決定することができるはずだ。これがなすべき第一歩である。
 
イエスは、こう言っている。「手を鋤につけてから後ろをふり向く者は、神の国にふさわしくない」(「ルカによる福音書」9章62節)と。手を鋤につける、とは神の国に入ってしまった、ということである。もはや神の国に入ってしまったのだから、後ろを顧みるわけにはいかない。原発に未練を残すわけにはいかない。 [p. 192]

 少しばかり唐突な記述かもしれないが、それは、洗礼者ヨハネとイエス・キリストの役割、神の国の表象としてのキリスト、神の国の非在の標徴としてのキリストの磔刑、「ヨブ記」における神の全能性あるいは無能性の議論などを、私がはしょったためである。

 いつものように「第三者の審級」や「アイロニカルな没入」概念を使いつつ、該博な知見によって展開する「理論の書」は、読み終われば、じつに明晰な「実践の書」に変容している。

 さて、私の住む仙台でも、今週から「脱原発金曜デモ」が始まるのである。

 繰り返そう。私たちの置かれている実在相は、こうである。

原発の存在、さらに原発の残留物の存在が、すでに、それ自体、潜在的な原発事故である。つまり、原発事故という破局は――原発を一度でも建設し使用し始めてしまえば――半永久的に持続する。 [p. 28] 


【見田宗介】 『まなざしの地獄 ―尽きなく生きることの社会学』 (河出書房新社、2008年)

2012年07月14日 | 読書


 この本は、「まなざしの地獄」と「新しい望郷の歌」の二篇の論文から成っている。2008年の出版だが、実際に書かれたのは、前者は1973年、後者は1965年である。戦後20年くらいの日本の社会が対象である。
 だから、扱われている社会的事象は古い。といっても、私の思春期から青年時代に相当する時代なので、私にとってはもっとも強く感覚に刻まれたことがらに属する。

 「まなざしの地獄」は、次のように始まる。

 都市とはたとえば、二つとか五つとかの階級や地域の構成する沈黙の建造物ではない。都市とは、ひとりひとりの「尽きなく存在し」ようとする人間たちの、無数のひしめき合う個別性、行為や関係の還元不可能な絶対性の、密集したある連関の総体性である。
 いまN・Nは、現代日本の都市に実在するひとりの少年である。本稿はこのN・Nの生活史記録を軸として展開する。しかし本稿はN・N論ではない。ひとりの少年が「尽きなく存在し」ようとしたゆえに、その生の投企において必然に彼の情況として照らし出してしまった、現代日本の都市というもの、その人間にとっての意味の一つの断片を、ここでは追求してみたいと思う。  (p. 7)

 N・Nは、連続殺人事件の犯人である少年・永山則夫である。N・Nと表象することで、あたかもその時代を生きる一般性としての少年、つまり、永山則夫と4才しか違わない少年・私でもありえた可能性を暗示するようだ。1965年にN・Nは中学卒業と同時に集団就職のために青森から上京する。同じように、東北の農村の中学を1961年に卒業した私の同級生のほぼ半分は「金の卵」として集団就職列車に乗ったのである。

 もちろん少年のがわからみれば、このような「金の卵」としての自己の階級的対他存在こそはまさしく、一個の自由としての飛翔をとりもちのようにからめとり限界づける他者たちのまなざしの罠に他ならない。
 彼らの階級的に規定された対他と対自のあいだには、はじめから矛盾が存在している。 (p. 22)

 N・Nの最初の転職については、そのN・N自身にとつての意味または無意味を憶測するどのような手がかりも残されていない。しかし翌年、大阪の米屋の住込み店員として、やはり半年ほど真面目に勤務したのちに、やめてしまったいきさつは示唆なである。
 このときは彼が、誤って蛍光灯を割り、破片を米の中に落としたので叱ったところ、「ぷいっと」やめてしまったということになっている。店側の記憶ではそうである
 ところがN・Nの母親によると、
「当時N・Nから戸籍謄本を送れと手紙がきたので送ってやった。すると折りかえし『オフクロ、オレは網走ノ刑務所デウマレタノカ』という手紙がきた。出生地が呼人番外地となっていたことと、三歳のときに火傷したキズをむすびつけてからかわれたと訴えていて、手紙の末尾には『オレハモウダメダ、シヌゾ』という一行が書かれていたという。そこで母親は担当の民生委員のとこへかけつけて、『そんなことはない』という事情を書いてもらい送る。だが、その手紙はまもなく本人所在不明で返送されてきて、そのあとのN・Nの音信は一時途絶えてしまった」
 これは先ほどの第二のケースの一つの典型といってよいだろう。
 周囲の人間はあることを何気なく言い、そして忘れてしまったのだろう。けれどもそれが少年を突然襲って、絶望でたたきのめすのである。  (p. 29-30)

 彼らはいまや家郷から、そして都市から、二重にしめ出された人間として、境界人というよりはむしろ、二つの社会の裂け目に生きることを強いられる。彼らの準拠集団の移行には一つの空白がある。したがってまた、彼らの社会的存在性は、根底からある不たしかさによってつきまとわれている。 (p. 32)

 「戸籍」そのものは、無力な一片の物体にすぎない。この無力な一片に、人間の生の全体を狂わせるほどの巨大な力をもたせるものは何か?
 それはこの過去性にひとつの意味を与えて(網走=犯罪者の子弟=悪、等々)、彼をあざけり、彼にその都度の就職の機会を閉ざし、彼の未来を限定する他者たちの実践である。
 
〈過去が現在を呪縛する〉といっても、このばあい「過去」が生きているもののごとくに本人の生のゆくてに立ちふさがるというわけではない。人の現在と未来とを呪縛するのは、この過去を本人の「現在」としてまた本人の「未来」として執拗にその本人にさしむける他者たちのまなざしであり他者たちの実践である (p. 38)

 われわれはこの社会の中に涯もなくはりめぐらされた関係の鎖の中で、それぞれの時、それぞれの事態のもとで、「こうするよりほかに仕方がなかった」「面倒をみきれない」事情のゆえに、どれほど多くの人びとにとって、「許されざる者」であることか。われわれの存在の原罪性とは、なにかある超越的な神を前提とするものではなく、われわれがこの歴史的社会の中で、それぞれの生活の必要の中で、見すててきたものすべてのまなざしの現在性として、われわれの生きる社会の構造そのものに内在する地獄である。  (p. 73)

 「まなざしの地獄」が大家族制度が崩壊しつつあった時代の家郷喪失者(ハイマートロス)を通じての社会理解であったとすれば、「新しい望郷の歌」はその家郷喪失者が、新しい家郷、「マイ・ホーム」へと向かう時代を切りとってみせる。
 当時のポピュラーな歌を拾い上げて、次のように時代が描かれる。

 六〇年代初期を代表した「ホーム・ドラマ」のテーマソング。

小さな町です/小さな家です、小さなお庭です
だけどいっぱい夢がある/夢、夢、夢見ヶ丘十番地
    (菜川作太郎作詞「チヤッカリ夫人とウッカリ夫人」)

 物理的には「小さな」家、「小さな」庭に注がれた、あふれんばかりのこの情感は、失われたふるさとと「家」に注がれたはげしいカセクシスの(前向きに!)転轍された姿としてこそ、はじめて理解することができる。

アカシアの 雨に打たれて
このまま 死んでしまいたい
夜が明ける 日が昇る
朝の光の その中で
冷たくなった 私を見つけて
あの人は 涙を流してくれるでしようか
    (水木かおる作詞「アカシアの雨がやむとき」)

 死者としての自己にたいして「涙を流してくれる」という「他人」の存在のふたしかさ。都会の問い。失われた共同体の記号としての「愛」。――自己の運命に無限定的(diffuse)な関心と愛着をよせる集団としての〈家郷〉をもたない、あるいはもはや〈家郷〉を信じきることのできない現代の若ものたちのこの切実な問いにたいして、彼らがまさしく望んでいるような「回答」を与えてくれたものこそは、百万をこえた超べストセラー『愛と死をみつめて』であった。それは彼らの、まだ見ぬ愛情共同体への郷愁にナマナマしい現実感を付与したのである。

こんにちは赤ちゃん あなたの生命
こんにちは赤ちゃん あなたの末来に
このしあわせが パパの希望よ
    (永六輔作詞「こんにちは赤ちゃん」)

 梓みちよ自身がそうであつたように、現実にこのような家庭をもたない多くの人びとによっても、この歌は口ずさまれた。それは新しい望郷の歌なのである。恋愛と結婚と家庭の幸福への夢をくり返しうたいあげるこれらの歌は、数々のホーム・ドラマや女性週刊誌と共に、孤独な現代の若ものたちの、まだ見ぬ心のふるさとの讚歌であった。

あなたがふるさとを愛すように
私は愛されたい 愛されたい
私がふるさとを愛すように
あなたを愛したい  愛したい
     (永六輔作詞「故郷のように」)

過渡期における愛着の方向転換の構造は、ここに最も論理的に直截な表現をとる。 (p. 90-92)

 最後に、大澤真幸が「解説」を書いている。そこでは、さらに家郷としての「核家族型マイ・ホーム」の機能不全の時代に進んで、1997年に神戸で起きた「酒鬼薔薇聖斗」と名乗る少年の連続殺人事件や、若者たちが家郷の新しい代替物をネット空間に架空している仮説的証左として「ネット心中」や「秋葉原事件」に触れている。
 見田宗介から大澤真幸へと「社会へのまなざし」がつながっていくのである。

  私は、大澤真幸、北田暁大、大塚英志らの優れた社会分析・評論に拠ってきたが、見田宗介が加わると社会分析手法の骨格がしっかりする、というか、見通しが良くなる、といった感じを受ける。


【書評】見田宗介 『現代社会の理論 ―情報化・消費化社会の現在と未来』 (岩波新書、1996年)

2012年07月12日 | 読書

 

 遅まきながらの見田宗介である。いまをときめく大澤真幸が自著の中でしばしば見田宗介の論文を引用している。大澤真幸は見田宗介の教えを受けていた、つまり見田宗介の学生だったのである。
 大澤真幸を読みながら、見田宗介の『社会学入門』と『現代社会の理論』は必須だな、と思いながらずっと読まずにきた。義務感のようなものが漂うと、かえって手が出しにくいのだ。
 この本は、時間つぶしの本屋で目の前にあった。何を探そうと思ったわけでもなくふらふらと書籍棚の前を漂っていたときなので、ほとんど何も考えずに手にとったのである。

 「読まねばならない」と考えていたことは、結果的には正しかった。現在に至ってしまえば、とくに目新しい切り口や人目を引く概念用語があるわけではないが、ここには「社会」理解の基本がある。構造主義であれ、ポスト・コロニアリズムであれ、カルチュラル・スタディーズであれ、きらびやかな「用語」を掲げたがる傾向の強い日本の論壇の中では、じつに貴重である、と私は思っている。
 著者自身が本書の「おわりに」で次のように述べている。

情報化/消費化社会の転回という、この本に記したような方向は、現状をそのままよしとする人びとからは、あまりにも「理想主義的」であるという批判をうけるだろうし、反対に、革命的な転覆を志す人びとからは、あまりにも「現実肯定的」であるという批判をうけることになるだろう。 (p. 180) 

 最終的に右に行くか、左に行くか、革命的か、反動的か、そういったことをあらかじめ措定しないことは、「学」ないしは「知」の本性でなければならない。「中庸が大事」などという戯けたことを言っているのではない。
 むかし、高橋和巳は「行く先はどうであれ、行けるところまで行こう」という意味のことを言って、全共闘の学生たちとの議論に望んだ、という。当時、本で読んだか、噂で聞いたか、経緯そのものは忘れてしまったが、新鮮な驚きであった。全共闘の学生たちであれ、私であれ、たぶんその頃は「結論」しか持っていなかったのではないかと思う。

 本書は、「情報化/消費化社会」として現代社会を捉える。そして、大量生産/大量消費は、必然的に環境の臨界/資源の臨界へと到達する。環境の臨界は、水俣病を典型とする環境破壊へ進み、資源の臨界は後進地域(国)資源の簒奪へと向かう。後進地域(国)への公害型産業の進出は、環境の臨界/資源の臨界のもっとも象徴的な典型であろう。つまり、「情報化/消費化社会」は、そのまま現代社会における重要な問題としての環境問題、南北問題そのものなのだ。

 本書には、ジョルジュ・バタイユとジャン・ボードリヤールの「消費」概念をベースにした大変興味深い議論もある。しかし、現在の日本の情況とのアナロジカルな対称という意味で一番惹かれたのは、「水俣病」に関する記述である。

一九五九年一一月一二日、厚生省の水俣病食中毒部会は、「水俣病は水侯湾およびその周辺に生息する魚介類を大量に摂取することによって起こる主として中枢神経系統の障害される中毒性疾患であり、その主因をなすものはある種の有機水銀化合物である」と答申をおこなった。 (p. 56)

 「水俣病」事件史の決定的な分岐点である、一九五九年一一月という時点は、巨視的な社会構造の変動という視点からみても、決定的な屈折点だった。前述のとおり、もしこの時点で、厚生省側の調査結果が封じられずに活かされていれば、悲惨な被害の大半部分は、未然に防ぐことができた。六年後の一九六五年六月には、新潟の阿賀野川流域で「第二水俣病」が発見されたが、その原因は、昭和電工鹿瀬工場の、チッソ水俣工場と全く同じ、アセトアルデヒド工場であった。 (p. 59)

けれども、この処置はされなかった。翌一一月一三日の閣議で、厚生大臣からこの答申が報告されると、時の通産大臣池田勇人氏は、水俣病の原因が企業の公害であると断定するのは「早計」であると異例の発言をする。肥料生産の関係工程の操業を停止することは、ここに強力な政策的意思をもって「留保」されたまま、その後九年間にわたって、廃水の排出は続行される。アセトアルデヒドの生産量はこれ以降かえって増大し、一九六〇年代後半に至るまで湾内の水銀量を増加しつづけ、新しい患者を発生しつづける。 (p. 56)

 この一九五九年の「留保」が解除されて、政府がはじめてこの公害の原因を正式に認めたのは、九年後、一九六八年九月二六日の、「政府見解」とよばれるものであった。それがどのような時点であつたかをみると、一九五九年一一月からの九年の「留保」の意味が、いっそう明確にみえてくる。
 第一に、原田正純の指摘するように、チッソと同型のアセトアルデヒド関係工場は、この一九六八年を以て、相次いで最終的に生産を中止している。時代の基本的な流れであった、電気化学から石油化学への転換の中で、この年旧式の製造工程が、最終的に「用済み」となったのである。つまり、被害を予防することにとっては全く意味がなくなった時点になって、初めて原因が認定されている。生産の効率優先という政策のテレオノミー(目的指向)の、露骨な貫徹である。
 第二にいっそう巨視的にみると、この一九六八年、日本のGNPは初めてヨーロッパ諸国を抜いて、自由世界第二位の「ゆたかな社会」を達成している。貨幣的な指標で測定される限りにおいては、この時期の日本は史上で「最も成功した資本主義国」として、大衆消費社会の展開を実現している。
 
水俣の汚染公害は、新潟の昭和電工による「第二水俣病」、四日市の石油コンビナートによる汚染、富山の神通川下流一帯のイタイイタイ病等と並んで、この大衆消費社会の繁栄の、もうひとつの創世記である。 (p. 59-61)

  これが「水俣病」公害の「経緯」と「結果」と「理由」である。「情報化/消費化社会」へと突き進む社会が、池田勇人という政治家を通じて資本主義の冷徹な論理を貫徹させたのである。そこでは水俣や新潟の人々の命は考慮されたことはないのだ。

 そしていま、野田佳彦は「原発」問題において、「水俣病」問題における池田勇人になろうとしているのではないか。原発がどれだけの被害をもたらすかは、すでに厖大な被害者を出していて明白このうえもない。これは窒素工場のたれ流す有機水銀が原因であることが明らかになっていたことと等価である。
 菅直人のように政府内部から「脱原発」の言説(厚生省が水銀原因説を認めたことと等価)があるにもかかわらず、がむしゃらに原発再稼働を宣言している。論理的破綻を政治的権力によって踏みにじるという姿において、池田勇人と野田佳彦は完全な相似形をなしている。

 さらに、大事故が起きたにもかかわらず、工業後進地域(国)に原発を輸出しようとしている事実は、見田宗介になぞらえて言えば、新しい南北問題を生みだすだろう。

 私の想像はもっと前に進む。

 いかに後進国といえども、さすがに事故を起こした日本の原発を輸入しようとするほど愚かでない(そうでもないか)と思うけれども、ネグリ&ハートにしたがえば、日本を含む先進資本主義国家は《帝国》として振る舞うだろう。つまり、《帝国》の一員としてどこかの国が原発を売りつけるだろう。そして、かつて公害産業を押しつけたように、「放射性廃棄物処理施設」や「最終処分施設」もセットにされるに違いない。
 そして、数十年後のあるとき、代替エネルギーによって国内の産業維持のめどが立ったとき(国民の生活維持のめどではない)、日本国政府は「脱原発宣言」をする。大量に出た放射性廃棄物は、資本でがんじがらめにされた後進国に「輸出」することになる(これは危険な原発を後進地域の福島や福井に押しつけ、交付金でがんじがらめにした構図と同じである)。
 「脱原発宣言」が出るとき、「あのとき止めておけばこんなに原発事故による被害が拡大していなかったのに」と悔いる破目に陥っているのではなかろうか。何度かの原発事故があって現在の10倍以上の被害者が出るということになっても、たぶん政府は原発を止めない。「生産の効率優先という政策のテレオノミー(目的指向)の、露骨な貫徹」を貫くであろう。

 これは私の想像の過剰だろうか。いずれにせよ、この想像は、政治家も、私たちも、先進国の国民も、後進国の国民も、つまりは全ての人間が歴史から学ばない、ということを前提にしている。そんなことはないと思いたいのだが、私が歴史から学んだことは、皮肉にも「人は歴史から学ばない、学ぼうとしない」ということである。そうでなければヒットラー張りの右翼ポピュリスト政治家が次から次に選挙で選ばれてくるはずがないのである。
 そうではなくて、やはりネグリ&ハートのいう《マルチチュード》としての私たちの叛乱が功を奏するという事態が来るのであろうか。


田澤拓也 『無用の達人 山崎方代』 (角川書店、平成15年)

2012年07月11日 | 読書

 この本は山崎方代論でも、歌論でもない。評論ではなくて、どうしたって伝記である。それなのに面白い。

 これは一般論だけれども、伝記というのはじつにつまらない。強制的に読まされた小学校低学年以来50年以上そう思い続けてきたし、いまでもそう固く信じている。
 まず、伝記は説教くさくて嫌だ。いったん伝記の主人公に取り上げたら、石にけつまずいて転んだことも思想的な信念に基づいた行為のように書かれたりする。たいがい伝記作家は文章が下手(50年前はそうだった。いまは読まないから知らない)なので、実際にあったのかどうか疑わしくなるようなリアリティのないエピソードが並べられる。小池光は次のような歌を詠んでいる。 

 偉人あれば偉人にかならず逸話あり近代少年に読ましむる為 [1]

  つまり、伝記の存在意義がすでに胡散くさいのである。ここまで書いてきて気がついたが、私の伝記嫌いは小学生のまんまである。つまり、ここでいう伝記とは幼児、児童向けの伝記のことだった。
 しかし、大人向けのはずの山崎方代についても、私が「伝記」に括って毛嫌いしてしまいたくなるような記述が出版されていたりする(名前はけっして出さないけれども)。

  この本が面白いのはもちろん著者の才能によるのだけれども、徹底した取材に基づいていることである。本人も許しを得て、主を失った「方代艸庵」に寝泊まりをすることから始め、方代の周辺の人に多くを語らせるという手法を採っている。つまり、自分の解釈に都合のよい言葉だけを借用するというような安易な手法を採用していないのである。とりわけ、方代のたった一つの恋、見も知らぬ人に恋したという伝説的な恋の対象、広中淳子という女性を捜し出すことに成功して取材していることは、この本が伝説的な方代を伝説的に(つまりいい加減な想像力で)書いてはいないという象徴的な証拠だと思う。
 そして、なによりも関係者が語る方代像が、とりもなおさず方代の歌論になっていることである。「歌論」というのが言い過ぎであれば、「方代の作歌の秘密に限りなく近づいている」と言い直しても良い。

 そのいくつかをピックアップしてみよう。 

  誤って生れ来しことのあやまちを最後に許し死なしめ給え

 合同歌集『現代』におさめられている方代のこの一首が石井〔三佐子〕はどうしても納得できない。そこで方代が歌会に顔を出したとき「だって気がついたときには、もう自分が生まれていたんでしょう。頼んで生んでもらったわけではないのだし、そんなに小っちゃくなることはないでしょう」と食いさがったが、方代は、やはり答えない。だが、どうしても気になる石井は一人で手広の艸庵を訪ね、再び大真面目に力説した。
「方代さん、なぜそんなに自分を責めるの。そんなに卑屈にならないで胸を張っていてほしい。私だって気づいたときにはもうこの世にいたんだから。生まれてこなければ、よいことも嫌なことも何もなかったわけだから」、
 
方代は石井の問いかけを無言で聞いている。むきになって熱弁をふるう石井に困惑しているようだ。ついに根負けしたように、一言、とぼけた軽い調子でいう。

「だって、こうしなきや短歌にならないじゃん」 (p. 35-6)

 それにしても、会うたび、こんなに酔っぱらってばかりでは、呼びだしておきながら失礼ではないか。ある日、怒った山形〔裕子〕は、方代より先にカップ酒のふたをとる。山形は酒に弱い。たちまち酔いがまわって鶴岡八幡宮の石段でダウンし、うずくまる。方代はおろおろと少しはなれたところで山形の様子をうかがっている。やがて山形が立ちあがると、方代はすりよってきて「酒はもうよすよ」としんみりという。
「本当はもう酒も煙草もいやなんだけんど、方代のトレードマークになっているのでやめられないんだ。でも、これからは公式のときだけにするよ」
 酒の公式のときとはどんなときなのかと山形は思うが、たしかに以後、街を歩きながら酒を飲んだり煙草を吸うことはなくなる。ところが新たな難題が持ちあがる。酒に酔わない方代は糞真面目で怒りやすくて会話がまったく面白くないのである。とくに女性と話すとき、方代は酒の力が必要なのだ。 (p. 57)

「私が先生と知りあった一年後に刊行された第三歌集『こおろぎ』に「一息に般若心経の一巻を写し終えたりまだだいじょうぶ」という一首があります。実は、この歌は、もとは「一息に焼酎一杯を飲み終えたりまだだいじょうぶ」だったのです。先生は「焼酎一杯」のところがつまらないなといって、数分間、私の見ている前で「う~ん、出ろ出ろ、う~ん、う~ん」と呻吟した末に「うーん、般若心経はどうだ」といって、こういう歌にしてしまったのです。ちなみに先生は般若心経を写経したことなど一度もないとのことでした。」 〈山形裕子の独白〉 (p. 92)

方代はしばしば「放浪の歌人」「漂泊の歌人」などといわれるが、実際に暮らしたのは、故郷の右左口村をのぞけば、横浜市西区の浅間町、同戸塚区(現栄区)の田谷、そして鎌倉市手広と、狭い範囲に限定されている。戦後一時期の風太郎生活なるものも浅間町の姉の家を出たり入ったりの暮らしだし、目が不自由なせいもあってか、とくに旅行好きなわけでもない。現実は、むしろ、およそ放浪や漂泊とは縁遠い「定住」の人なのである。 (p. 137-8)

会っても二人は短歌の話はほとんどしない。ただ、一度、梅雨どきの石榴の花がぼたぼたと落ちるころ手広を訪問したときのことである。方代がふと口にする。
「石榴は、あれは、るり色っていうんだろ」
 えっと鳥海〔昭子〕はひそかに驚く。
「方代さん、るり色ってのは青よ」
 鳥海はつぶやくように口にしたので方代の耳にとどいたかどうかはわからない。話題はそれきりで終わった。だが方代には鳥海の指摘が聞こえたはずである。……

  るり色の冠つけし鶏が男巡礼に道をゆずれり

  るり色の柘榴の花のきわだちて日本列島梅雨に入りたり  (p. 192-3)


  なつかしい甲陽軍鑑全巻を揃へてほっと安気なんだよ

 だが方代が少年時代から『甲陽軍鑑』を愛読していた形跡はない。方代の遺品をまとめた『山崎方代旧蔵資料目録』によると、蔵書のなかに『甲陽軍鑑』は「すり切れた奴」も「最近新しく買った」のも見あたらない。ただし甲府市内の出版社から五八年一一月二日の日付で「甲陽軍鑑二冊」を購入した旨の領収証コピーがのこされているので、のちに紛失したか贈呈したかはともかく、この時期、同書を購入したのは事実と思われる。ちょうど同時期の「短歌」五九年一月号にも、それと関連するような次の一首がある。

  おのがじし冬の田螺は子もちなり甲陽軍鑑には出ていない

 遺品が何らかの事情で紛失したのだとすれば「すり切れた奴」もともに蔵書中から消えさった可能性はある。
 けれども方代の歌のなかに「甲陽軍鑑」が出てくるのは、わずかに、この晩年の二首だけなのである。 (p. 232)



[1] 「現代短歌文庫65 続々 小池光歌集」(砂子屋書房 2008年) p. 112。


『オルソン・ハウスの物語 アンドリュー・ワイエス展』 宮城県美術館

2012年07月10日 | 展覧会

 私は、人生の初期、小学生の頃に「歌を歌う」ことと同じように「絵を描く」という行ないを諦めてしまったが、もしそうでなかったら、生まれ育った農村の風景、農家や納屋、畑や田んぼ、背後の里山などを素直に描いていたのではないか。ワイエス展を観て、最初に思ったことはそういうことだった。

           
                  『アンドリュー・ワイエス展』のチラシ。

 「絵を描く」という人間の行いの一次的現出としては、このような絵ではなかろうか。「絵を描くということはこういうことだなぁ」とごく自然に感じたのである。一次的には、ひとは身の回りを画題とするのではないか。風景の中の農家(オルソン・ハウス)、その納屋の中の小さな卵計量器、全景から細部まですべて画題になる。

 ワイエスは「オルソン・ハウス」という農家、周りの農地、農耕用の牛や馬を画題として見出したばかりでなく、そこに暮らすクリスティーナとアルヴァロというオルソン姉弟の人生をも画題として発見したのである。会場の展示を見ていくと、そういう事情がしだいに明確になってくる。 

  
  《小舟にペンキを塗るアルヴァロ》1947年、水彩・紙、55.8×76.1cm、丸森芸術の森 [1]。

 私の目を引いたひとつは《小舟にペンキを塗るアルヴァロ》である。リアリティの高い風景画なのに、なにか幻想的な奇妙な感じを受けたのだ。たぶん暗い大地で輝くように浮かび上がる小舟の白、本来は明るいモノトーンのオルソン・ハウスの壁に乱暴に塗られた影、それは黒い霧のようにすら見える。それらが、幻想のような効果を生み出しているのだと思う。

 《小舟にペンキを塗るアルヴァロ》の隣に掛けられていた《干し草をかき集めるアルヴァロ》も印象的であった。海岸近くの農地に吹く強い風を感じさせる絵である。馬のたてがみや尾、荷車に積まれた干し草が風に煽られている。この地の農業は厳しいのではないか、などと想像したりしたのである。

  
  《干し草をかき集めるアルヴァロ》1947年、水彩・紙、55.1×75.6cm、丸森芸術の森 [2]。 

  
   《クリスティーナの世界》習作、1948年、〔左〕水彩、ドライブラッシュ・紙、37.9×54.4cm部分[3]、
             〔右〕鉛筆・紙、41.7×55.5cm部分[4]、丸森芸術の森。

 この展覧会は、丸沼芸術の森所蔵品の水彩と素描作品の展示で、その中にはたくさんの「習作」が含まれている。とくに《クリスティーナの世界》の習作は9点も展示されている。 クリスティーナは生まれついての病気で四肢に機能障害を持ち、弟のアルヴァロの世話を受けて暮らしている。
 そのクリスティーナの「世界」をどんなふうに描くのか、次、その次の習作へと移りながらしだいに興味が高まっていくのであった。横座りに座るクリスティーナの後ろ姿の習作が数点、体を支える右手だけの習作、沼か入り江を描いたような習作、そして遠くにオルソン・ハウスが見える草地(農地?)に座る(あるいは四肢が不自由なため、這っている)クリスティーナの姿の習作は全体の構図を偲ばせる。
 つまり、《クリスティーナの世界》は、まずクリスティーナが生まれて育ったオルソン家の具象としての全て(農地と家の全景)に、その地を這うように生きるクリスティーナの人生の象徴的表象が加えられるのだろう。
 これだけの習作を見せられ、想像力がかきたてられているというのに、《クリスティーナの世界》の完成画の実物が見られないのは本当に残念なことである(画集に小さな挿入写真があるが [6])。 

  
   《クリスティーナの世界》習作、1948年、鉛筆・紙、35.4×50.5cm部分、丸森芸術の森 [5]。

 展示を進んで行くと、馬が死に、牛は売られて、ガランとした納屋を歩く猫の絵があったり、最後には、《オルソン家の終焉》と題された絵の習作が3点展示されて終わる。つまり、アルヴァロ、クリスティーナと相次いで亡くなって「オルソン・ハウス」は住人のいない空屋となる。

 文字通り、「オルソン・ハウスの物語」は終焉となるのである。
 

[1] 『アンドリュー・ワイエス オルソン・ハウス』高橋秀次監修(丸沼芸術の森、2009年) p. 48。
[2] 同上、p. 50。
[3] 同上、p. 67。
[4] 同上、p. 65。
[5] 同上、p. 64。
[6] 同上、p. 16。

 

 

 

 

 


【書評】『山崎方代全歌集』 (不識書院、1995年)

2012年07月09日 | 読書

 山崎方代を評するに「漂泊」、「放浪」、「無用者」などの形容が用いられることが多い。そして、種田山頭火や尾崎放哉と比べられることがあるが、私にはそんなふうには思えない。
 放浪の時期といわれているときも、横浜の姉の家に住んでいて、そこを根城に出歩く程度なのである。山頭火の漂泊には遠く及ばないし、ましてや保険会社の重役の身分を捨てて寺の堂守となった放哉のような意志的に俗世を捨てたわけでもない。姉の死後、その家を出て2度ほど住居を変えるが一貫して定住している。
 29才(1945(昭和18)年)の時、チモール島クーパンでの戦闘で無数の弾の断片が顔に刺さるという負傷で右眼の視力を失い、左眼も0.01程度の視力になってしまった。目を負傷する以前から、どのような職についても長続きせず、それに弱視が加わることで極度な貧困の中で暮らすが、住居を提供する支援者がいたり、彼を取り巻く同人仲間も多くいて、戦後、休むことなく作歌活動を続ける。

 その歌は、口語体を多用する平明な表現が多い。そして、貧しい生活、妻も娶らず、孤独な人生のありようを、ときに明るく、ときに切なく切りとってみせるのである。戦後の現代短歌の先鋭たちの多くが歴史的仮名遣いも文語体も捨てずに現代的感覚を切りとって見せたことと、きわめて対称的である。歌われる内容もまた、「近代」とか「現代」とか言挙げするようなものではない。
 
 歌集『迦葉』の解説で、玉城徹は方代を「意識的に能動的に、自分を自分たらしめてる作家」として捉え、次のように述べている。

その方法論を、整理すると、次の二方向に要約できそうな気がする。
(a) 虚構(フィクション)。方代は、これを「ほんとの嘘」と言った。「拵えもの」ではいけないと言うのである。要は、必然的な根拠あるフィクションを方代は考えたのである。その「根拠」は、方代が方代を生きることによって保証されるであろう。
(b) 叙事詩性格。方代は幼時より『甲陽軍鑑』を耽読し、今日も作歌上の座右書としていることを告白している。これが、いわば「方代のホメロス」で、日常の経験、事物を元型化して感ずる基盤になっている。ここから、方代の作品は、全体として一つの叙事詩としてよめる形に、次第に成長してきているのである。 (p. 189)  

 (b)については賛成しかねるけれども、(a)は方代短歌の本質の一端を言い当てていると思う。方代の歌の中には当然のことながら「俺」、「吾」のような自己呼称が用いられるが、「方代」という自分の名前を直接用いる例が多い。その現れ方に「虚構のリアリティ」の存非がかかっているようである。
 ここには、歌を詠む自分と歌の中の自分との複雑な関係があるようだ。歌中の自分には、歌を詠む自分と完全に同一の場合、客観的に眺められている自分、まったく別人格のような自分、そして「彼」と表現する方がふさわしい物語の主人公としての自分。歌を詠む自分のメタ的立ち位置もそれに応じて変わるのである。直截に日常を読む場合、虚構としての日常を読む場合、人生の物語(実人生の場合も虚構の人生の場合も)を読む場合、などのシークェンスに応じて詠む自己と詠まれる自己は複雑な時空を形成するのである。
 私の手には負えないだろうが、いつかこの「方代」における自己表現と自己の中の他者性の問題を考えてみたいと思っている。とりあえず、ここでは「俺」、「吾」の歌と「方代」の歌のいくつかを引用しておく。

かなしきの上に泪を落す時もわたくしの感情にはおぼれておらず 『方代』(p. 14)
大阪の佐伯に逢いぬもう吾のゆく所はなし死んでしまおう 『方代』(p. 17)
仕末のつかぬ俺の所業にてこずって身をけずる姉が浅間町にあり 『方代』(p. 18)
地下鉄の口に吸われてゆくかげにわれ踏み入りて消息をたつ 『右左口』 (p. 39)
ゆく秋のわれの姿をつくづくと水に映して立ち去ってゆく 『右左口』(p. 50)
わたくしはわたくしよりも億兆の遠くにありてまなこ離たず 『右左口』(p. 70)
これやこのわれとて水呑百姓の父の子なりき誇らざらめや 『こおろぎ』(p. 98)
ふるさとの右左口郷は骨壷の底にゆられてわがかえる村 『こおろぎ』(p. 104)
わたくしの六十年の年月を撫でまわしたが何もなかった 『迦葉』(p. 141)

下し扉が下りつつ軋しむ十八時目的のなき方代も急ぐ  『方代』(p. 14)
冬の日が遠く落ちゆく橋の上ひとり方代は瞳をしばだたく  『方代』(p. 15)
このわれが山崎方代でもあると云うこの感情をまずあばくベし  『方代』(p. 25)
方代の嘘のまことを聞くために秋の夜ながの燠が赤しも 『右左口』(p. 64)
恐ろしきこの夜の山崎方代を鏡の底につき落すべし 『右左口』(p. 65)
方代の一日が暮れて朝が来て又ふあふあと日が開けてゆく 『こおろぎ』(p. 97)
間引きそこねてうまれ来しかば人も呼ぶ死んでも生きても方代である 『こおろぎ』(p. 108)
留守という札を返すと留守であるそしていつでも留守の方代さんなり 『こおろぎ』(p. 109)
柳の木の下にどじょうがいたわけではないけれど一人方代が立ちすくんでいる 『迦葉』(p. 138)
方代さんはこの頃電気を引きまして街ではちっとも見かけませんわよ 『迦葉』(p. 147)
馬の背の花嫁さんは十六歳方代さんのお母さんなり 『迦葉』(p. 166)
早生れの方代さんがこの次の次に村から死ぬことになる 『迦葉』(p. 174)

 ここまで引用して分かることは、「方代」は後年になって多くなり、それに伴って「俺」、「吾」、「わたくし」の用例は減っていくのである。多分、それは歌詠みの自分と物語の主人公として自分の関係が安定化したためであろう。

 さて、私が好きな歌は、どちらかと言えば「俺」、「吾」、「わたくし」、「方代」が含まれない歌に多いようだ。

ゆくところ迄ゆく覚悟あり夜おそくけものの皮にしめりをくるる 『方代』(p. 14)
ばらの木に返り咲くばらの花あればくやしき涙にじみ来るなり 『方代』(p. 21)
茶碗の底に梅干の種二つ並びおるああこれが愛と云うものだ 『方代』(p. 25)
わからなくなれば夜霧に垂れさがる黒き暖簾を分けて出でゆく 『右左口』(p. 39)
おのずからもれ出る嘘のかなしみがすべてでもあるお許しあれよ 『右左口』(p. 48)
右の手に鋤をにぎって立っておるおや左手に妻も子もいない 『右左口』(p. 56)
山かげの五六ヵ村の夕まぐれひとり生まれて一人死にゆく 『右左口』(p. 67)
盲いてゆく瞼をとじて遠きひと姉の名を呼ぶ弟なれば 『右左口』(p. 74)
踏みはずす板きれもなくおめおめと五十の坂をおりて行く 『右左口』(p. 74)
何かしら後めたいことあるような佗助椿が花こぼしおる 『右左口』(p. 75)
本当に泣いているのだ喑がりに威儀を正してめし食べている 『こおろぎ』(p. 95)
ふるさとの右左口郷は骨壷の底にゆられてわがかえる村 『こおろぎ』(p. 104)
しぼり出る汗の匂いを華というふざけた事はいわないでくれ 『こおろぎ』(p. 110)
うつくしい花もつ合歓は折れやすく吾のいのちを盗みかねつも 『こおろぎ』(p. 126)
とうきょうの夜更の街の柱に体あずけてあきらめている 『迦葉』(p. 136)
母の名は山崎けさのと申します日の暮方の今日の思いよ 『迦葉』(p. 155)
詩と死・白い辛夷の花が咲きかけている 『迦葉』(p. 186)


(写真は記事と関係ありません)


『壁画帰郷記念展 野田英夫そして多毛津忠蔵』(図録) (熊本県立美術館、平成4年)

2012年07月03日 | 読書

 野田英夫もジョージ・グロスと並んで松本竣介のモンタージュ手法を用いた時期の絵に影響を与えたと言われている画家である。グロスと同様に「野田英夫」も私にとっては初見の名であった。グロスの時もそうだったが、宮城県や仙台市の図書館にはその画集はなく、ネット上の「日本の古本屋」で図録を見つけた。
 図録は、多毛津忠蔵の絵が半分を占めるが、ここでは当面の関心、松本竣介との関連という意味で「野田英夫」だけ取り上げ、多毛津忠蔵の絵には触れない。

 野田英夫の画家としての生涯については、窪島誠一郎が1冊の本にしている [1] 。少し長くなるが、窪島の記述をいくつか紹介して、野田英夫の画業の要約としよう。〔 〕内は、私の注釈である。


……〔1908年(明治41年)〕アメリカに出生し中等教育までを祖国日本でうけた「帰米二世」の英夫には、アメリカの「属地主義」に対し「属人主義」をとる日本国籍法によって日本国籍をあたえられることになり、いわば「二重国籍的」な境涯をも余儀なくされたといえるのである。それはひとつ、国籍だけの問題ではなく、英夫が画家として立つための精神的な立脚点、つまりは自我のありようにも大きな意味をもつことがらであつたといえるだろう。 [2]

ゲオルゲ•グロッス〔ジョージ・グロス〕との出会いも大きな事件にかぞえられる。グロッスは、一八九三(明治二十六)年ドイツに生まれた卓抜なカリカチュア画家で、二十世紀初頭の社会的動乱や革命をきびしい画家の眼でみつめ、強烈な反戦、平和運動をモチィフにした作品を発表していた。……〔グロッスはアート・スチューデンツ・〕リーグの夏期学校を手伝うためにウッドストックをおとずれ、生徒として通ってきていた英夫と出会うことになるのだが、英夫がこのグロッスの画法や思想、また画家として社会とかかわりあう姿勢のありかたにつよい共感をおぼえたのはむろんであったろう。グロッスとの出会いは(リベラや国吉との出会いもそうであつたが)、後年英夫が自らの画作を通して社会主義思想や改革の運動に身を投じてゆく一つの精神的な下地となったともいえる。 [3]

 ……英夫の、都会の深部にうごめく貧しい労働者たちへのふかい同情と理解は、やがて「アメリカン・シーン派」あるいは「ソシアル・シーン派」といわれる在米画家の一人として、一九三四(昭和九)年の「都会」(第二回新制作派協会展出品)、そして翌一九三五年に発表された代表作「帰路」(第二十二回二科展出品)、一九三七(昭和十二)年の「都会の冬」(第二回新制作派協会展出品)などの成果となって結実してゆくのである。 [4]

 英夫の「ストリート・シーン」(「アメリカン・シーン」)には、いつもどこかに神秘的な明るさをひめ、それでいてどこか寂しげな静けさをたたえた海の水平線が登場する。それはときとして、街の舗道のむこうにのぞく青い空や、麦畑や、パースぺクティヴな地平線としてもえがかれ(「帰路」や「都会の冬」がその例だろう)、何か英夫の心にさしこむ一条の光のような役割をはたしているのである。それは英夫自身にさしこむ光であると同時に、英夫が生きたその時代のアメリカぜんたいがうしなってはならない改革の夢というものを象徴していたのではなかろうか。  [5]

小熊秀雄は、アトリエ村にあった「セルパン」や「コティ」という茶房にも出入りしていて、そこで松本竣介、古沢岩美、靉光、田中佐一郎といった画家たちとも交流をもっていた。「コティ」ではときどき自分のデッサンの展覧会や、詩の朗読会などもやった。とくにその頃太平洋近代洋画研究所を結成し、NOVA展や北斗展といった小グループ展でも積極的に活動していた岩手県盛岡そだちの松本竣介(戦後まもなく三十六歳で病没した)は、自らも油彩画「建物」を出品していた第二十二回の二科展で英夫の「帰路」や「夢」をみてつよい衝擊をうけていた。これまでのヨーロッパ帰りの画家の仕事にはない、何か心の底からわきでてくるような英夫の作品の瑞々しい生命感と、そこに用いられている「アメリカン・シーン」という新しいモンタージュの画法に松本はひかれたのだった。松本は一度小熊に「ぜひ野田さんに会わせてほしい」とたのんだことがあつたが、英夫はめったに「コティ」に顔を出すことはなかったので、二人が直接出会う機会は生まれなかつたという。
[6]


 野田英夫は、1939年(昭和14年)東京で30才5ヶ月の生涯を終える。彼もまた、松本竣介と同様、夭折の画家であった。

 松本竣介のモンタージュ手法を用いた都市を題材にした一連の絵は、1937年あたりから1940年くらいまでの期間に描かれている。その松本が、野田英夫の絵に惹かれたのは、窪島が書いているように1935年の二科展に出品された《帰路》と《夢》の2点による。残念ながら《夢》は図録に収められていないが、《帰路》は次の絵である。

        
        野田英夫《帰路》1935年、油彩、カンバス、97.0×146.0cm、東京国立近代美術館 [7]

 この絵を見ると、直感的にはグロスよりはるかに松本竣介に近い。うまく言葉で表現するのは難しいが、モンタージュの各パーツ(画題)そのもの、その色彩ばかりでなく、構成全体にある種の共通の感性のようなものを感じる。パーツ間の境界はあるのだが、滑らかにごく自然に連続していて空間の閾の感じがしない。不透明ではあるが、パーツの重なりもある。

 竣介との近さは、次の絵《追憶》にも見られる。たとえば、右上の二人の線描の人物は背景と別空間に存在するわけではないが、手法的には竣介となんら変わらない。たぶん、野田英夫は「時空の重畳」を手法として意識していないと思われるが、左下の人物や鉢植えの植物も含めて線描部分は竣介ときわめて近いものを感じる。 

           
           野田英夫《追憶》1935年、油彩、カンバス、38.1×45.7cm、横浜美術館 [8]

 手法的には、松本竣介とジョージ・グロスとの中間的な位置に野田英夫はいるが、主題としてはずっとグロスに近い。グロスの激しく厳しい社会風刺の画業に接し、またみずからはアメリカ共産党員でもあった野田英夫は、みずからの絵に物語性を強く付与するのである。
 代表作の《ムーヴィングマン》は物語性の典型である。ふたたび窪島の解説である。 

「ムーヴィング・マン」には、もっとやるせない英夫の苦衷があらわされている。描きかけの肖像画、石膏像、蓄音機、椅子、枯れた花、木炭紙の束、無数の四角い箱、円筒形の箱……そんな家財道具の一切を背負い、片手には何か掃除器のパイプみたいなものまでさげた画家は、いったいどこへゆこうとしているのか。画家のまわりには、いちめん深い水色と褐色の色彩がぬりこまれ、そのなかにアメリカの古典建築を思わせるような白い建物と、窓から顔をのぞかせている少女、遠いブリッジ、頰づえをついて考えこんでいる裸身の男の塑像がえがきこまれている。そして、静まりかえった街なみと、ボートがうかぶ小さな湖面の一かくがあわい微光のなかにうっすらとうかびあがっているのである。 [10]

 図録には習作が掲載されているので、これからでも《ムーヴィング・マン》の物語性は十分に窺うことができる。

         
                     野田英夫《ムーヴィングマンの習作》1937年、
                  グァッシュ、紙、25.5×35.8cm、熊本県立美術館 [9]

  しかし、松本竣介の絵の良さは物語性の稀薄さにあると、私は思っている。その意味では、洲之内徹の竣介評 [11] には肯けるものがあることを否定しない。竣介が文章にしたような観念的なことがらを絵画に具象化しようとする一時期の試みを、私もまた、それほど評価できないのである。生真面目な竣介が時代状況に一言ありたいと思ったであろうことは、心情的にはよく理解できる。しかし、それは彼の感性が主導する絵画表現としっくりしなかった(と鑑賞者が受けとるであろう)ことは明らかだ。
 そういうことなしに彼の絵は素晴らしいのだ、ということに芸術家本人が自覚的であるということは、私が想像する以上に難しいことかも知れないのだが。優れた絵画には優れた思想が必要だという論理的必然はどこにもないのである、と私は考えている。

[1] 窪島誠一郎『漂泊――日系画家野田英夫の生涯』(新潮社、1990年)。
[2] 同上、p. 40。
[3] 同上、p. 92。
[4] 同上、p. 106。
[5] 同上、p. 110。
[6] 同上、p. 192。
[7] 『壁画帰郷記念展 野田英夫そして多毛津忠蔵』(熊本県立美術館、平成4年)p. 30。
[8] 同上、p. 28。
[9] 同上、p. 38。
[10] 窪島誠一郎『漂泊――日系画家野田英夫の生涯』(新潮社、1990年)p. 122。
[11] 洲之内徹『帰りたい風景――気まぐれ美術館』(新潮社、昭和55年) pp. 139-140。