《2013年6月21日》
静かなスピーチ、激しいアジテーション。初夏の夕暮れどきの集会が進行する。熱意に満ちた演説に「そうだ、その通り」などと思いながら、若い頃のようにアジ演説に呼応してこぼれ溢れるようなエネルギーが沸き立つ感じはもうない。賛意は静かにわき起こる。
この時刻には闇もまだ脚に絡まず、
夜の訪れも、あこがれる
昔の音楽のように、或いは
なだらかな坂のように感じられる。
J. L.ボルヘス「見知らぬ街」部分 [1]
子どもの頃、夕暮れどきというのは寂しくて悲しい時間帯だった。鳥も虫もいなくなり、木も花も見えなくなり、そして友達もいなくなって一人で家に帰る頃合いだった。青年期には、1日が始まる朝は不安に満ちていて、夕暮れどきは時間をやり過ごすのに必死で、たいていは飲んだくれていた。老いて今は、1日を暮らし終えた夕暮れどきはとてもいい時間だと思えるのだ。
たつぷりと皆遠く在り夏の暮 永田耕衣 [2]
夕暮れどきは一人でいる時間のイメージばっかりだが、今はデモの中の一人である。そして、大勢の人の中で、どうしたことか、今日は夕暮れどきの感傷なのである。
夕焼けが赤いと、彼はまた愉しくなり、
雲が出ると、彼の幸福の
色も変わる。
心も変わるときがある。
ウンベルト・サバ「詩人」部分 [4]
そう、夕暮れは感傷的な時間帯と限られたわけではない。デモを歩いているということは、私(たち)は自らの「幸福の色」を変えようとしているということだ。そのために、その闘いのために、必要なら「心も変わるときがある」ということだ。
暗さが増した街角でデモは終る。これから、少しだけビールを飲んだりしながら、夕暮れどきの仙台の街をぶらりぶらりと家路につくのである。
仙台は小さき紫陽花の咲くところスーパーにホヤがごろりと並ぶところ
大口玲子 [5]
[1] 『ボルヘス詩集』鼓直訳(思潮社 1998年)p.10。
[2] 『永井陽子全歌集』(青幻社 2005年)p. 468。
[3] 『永田耕衣五百句』(永田耕衣の会 平成11年)p.157。
[4] 『ウンベルト・サバ詩集』須賀敦子訳(みすず書房 1998年)p.51。
[5] 『大口玲子歌集 海量(ハイリャン)/東北(とうほく)』(雁書館 2003年)p. 154。
《2013年7月12日》
ときおり小雨がぱらついていたが、その雨も止んでいて、デモに出発する。錦町公園からは定禅寺通りを西に向かって歩く。
顔上げて街を行くとも屈辱のごとく雲垂る西空が見ゆ
道浦母都子 [1]
同じ時代を見てきたが、私は道浦母都子のように激しく権力と闘ったわけではない。それでもやはり、デモの中にいると上の歌のような感情のフラッシュバックに驚くことがある。夕暮れ時の感傷には、そういう心性も含まれているのだろう。油断していて、感傷にずぶずぶになるのは嫌だ。そんなときには、金子兜太の句がふさわしい。
ほこりつぽい抒情とか灯を積む彼方の街 金子兜太 [2]
[1] 『道浦母都子全歌集』(河出書房新社 2005年)p. 121。
[2] 『金子兜太集 第一巻』(筑摩書房平成14年)p. 35。
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