かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【書評】ジグムント・バウマン(伊藤茂訳)『コラテラル・ダメージ』(青土社、2011年)

2013年12月12日 | 読書

 「コラテラル・ダメージ」は軍事用語の「コラテラルな犠牲者(collateral casualty)」から派生した概念で、「意図しない、計画されていない、そしていわば誤って予期せぬ被害を与えてしまう効果を意味」 (p. 13) している。
 この言葉から直ちにその典型的な例として思い浮かぶのは、アフガニスタンやパキスタン、あるいはイエメンなどでアメリカ軍によって行われている無人機の爆撃が子供や女性を含む非戦闘員である市民を無差別に殺戮していることだろう。非戦闘員の殺戮は意図していないというアメリカ軍の主張が正しいとすれば「コラテラル・ダメージ」である。もちろん、シリアにおける政府軍と反政府軍の内戦も多大な「コラテラル・ダメージ」を生み出している。

 著者がコラテラル・ダメージの例として挙げるのは、2005年にアメリカ・ルイジアナ州を襲ったハリケーン「カトリーナ」の被害が貧しい人々に集中した事実 (p. 14) である。貧しい人々(主として黒人)は、逃げ出すに必要な航空券も買えず、モーテルの宿泊代も持ち合わせず、なけなしの財産をカトリーナに持ち去られてしまった。自然災害は人を選びはしないが、被害はけっして中立ではないのだ。

 ナオミ・クラインもまた、その著書「ショック・ドクトリン」 [1] で「カトリーナ」の被害を取り上げているが、そこでは被害が集中した貧しい人々の救済よりもそれに乗じて新しい利益を生み出そうとする「ディザスター・キャピタリズム(惨事便乗型資本主義)」を厳しく批判している。それはミルトン・フリードマンを首魁とする新自由主義の経済学者と政治家によって遂行された(ている)ものだ。

 コラテラル・ダメージは、自然災害によるものよりも多くは政治的・社会的に生み出されている。著者は、その構造的な被害者として「アンダークラス」を挙げる。

 「アンダークラス」という言葉のただ一つの意味は、機能や目指すべき地位、分類など何らかの意味のあるものの外部に置かれることである。「アンダークラス」は何かの「なか」かもしれないが、それが社会「の」なかでないことは明らかである。アンダークラスは、社会の生存や福利にはまったく寄与しない。それどころか、社会はアンダークラスが存在しない方がうまく機能する。「アンダークラス」の地位は、その名称が暗示するように「内部の亡命者」あるいは「不法移民」、「内部の異邦人」、すなわち、社会から認知され、承認される権利をまつたく持たない人々のことであり、社会という有機体の「自然で」不可欠な部分には数えられない、ようするに、異質なものである。それは癌のように成長するものなので、そのもっとも賢明な治療法は摘出であり、それが行われないと、強制送還や換金の対象となる。 (p. 11)

 アンダークラスの概念は、ジュディス・バトラーが論じているように [2] 、ハンナ・アーレントの言う「ナショナル・マイノリティ」に対応している。かつて日本には制度として「」が存在していた(差別は現在も厳然として続いている)が、著者の概念規定によれば「アンダークラス」は「」のような存在におとしめられた(現代の)人々であろう。

 しかし、「コラテラリティ」(周辺性、外部性、廃棄可能性、政治的な議題の中でも正当でない部分)の立場にまで格下げされた、増大する社会的不平等と高まる人間の苦しみの危険な合成物が、人間が今世紀に直面し、対処し、解決するよう強いられている多くの問題の中でも、もっとも悲惨なものであることは確かである。 (p. 19)

 このような悲惨を生み出す社会的精神(この精神自体が無惨であるが)を私たちは日本の現在において「ヘイト・スピーチ」と呼ばれる言動の中にあからさまに見ることができる。ファシズム的帝国主義権力下において強制的にあるいは経済的にやむを得ず植民地から日本にやってきた人々の末裔に対して謝罪や補償という形どころか、「死ね!」とか「朝鮮に帰れ!」とか、白昼の路上で公然と罵る日本人たちがいる。このような日本人はまったく美しくない。唾棄すべきほどの醜さである。
 日本の国土だけでも美しいと言いたいところだが、私たちの国土は放射能まみれで、草も木も虫も鳥も、そして人間も未来に命がつなげない危機にあるのに、どんな風景が美しく見えるのだろう。「美しい日本」と括ってしまうには、どれほどの無知蒙昧や非人間的な感情を必要とするか、想像することも難しい。
 たとえば、フクシマの人たちは「周辺性、外部性、廃棄可能性」として扱われていないか。「アンダークラスが存在しない方がうまく機能する」と悪しき社会が考えるように、「フクシマが存在しないほうが社会はうまく機能する」と考えて「フクシマはなかったことにしたい」という政治的意図が見え隠れする日本は不幸なことに「コラテラル・ダメージ」の宝庫である。

 この本の主題は、グローバル化した世界でアンダークラスが被るコラテラル・ダメージを社会学的に分析するというものあろうが、実際にはコラテラル・ダメージに集中、深化するようには扱われていない。むしろ、アンダークラスを囲繞する政治・歴史的考察に多少の社会心理の分析を加える、というかなり広範な視点で記述されている。
 その点では、グローバリゼーションにおける強力な駆動力を発揮して、コラテラル・ダメージを世界中で引き起こしているアメリカ合衆国の新自由主義をベースにした軍事的・経済的国際戦略を徹底的に批判しているナオミ・クライン [1] やノーム・チョムスキー [3] の立ち位置とは大きく異なる。また、世界を席巻する〈帝国〉を論じながら、アンダークラスとしての「マルチチュード」の側からの叛乱の道筋を主題のひとつに掲げるアントニオ・ネグり、マイケル・ハート [4] とも大きく異なる。

 つまり、著者は分析対象の全てに対して中立であろうとしているようだ。職業として物理学に携わっていた私としては、対象に対して中立であろうとすることは考えるまでもなく当然のことであって、学としての社会学も同じだろうと考える。
 しかし、直感として言えば、社会の不平等や貧しい人々のいわれのない不幸、政治的・社会的に押し付けられた悲惨を対象として扱いながら、学を行う人間として中立でありつづけることが可能なのだろうか。少なくとも著者自身、「一二〇年以上前に、アメリカの社会学者アルビオン・スモール(一八五四-一九二六)は、社会学は社会をよりよくしようという近代の情熱から生まれたと述べました」 (p. 26) と書き、加えて「社会学の未来、少なくともその近未来は、人間の自由に寄与する文化政治として生まれ変わり、確立し直そうという努力にかかっています」 (p. 275) と述べていて、社会学が分析対象を選択・決定する時点においても、一篇の論考を書き終えた時点でも真に中立であることは困難だろうと、私には思えるのだ。

 中立性の困難は、著者自らが示しているのではないか。第2章「コミュニズムへの挽歌」において、「すでにその歴史的使命を終えたのではないか」(「訳者あとがき」、p. 293)とコミュニズムをあっさり否定しているのである。全体主義化したロシア(中国、北朝鮮)国家コミュニズムを否定することに異を唱えるつもりはまったくないが、国家コミュニズムばかりではなく、共産主義、社会主義に関連する諸々まで否定しているように見える。『マルクスの亡霊たち』 [5] でジャック・デリダが取り出して見せたマルクス主義(国家コミュニズムではない)の意味や、未完の民主主義追求のために潜在的にマルクス主義的思考を踏まえているジャン=リュック・ナンシー [6] の方が、コミュニズムをばっさりと切り捨てることがない点においてより中立的であるように私に思えるのだ。失敗し、破綻したコミュニズムは確かにあった。しかし、未完のコミュニズム(いずれコミュニズムと呼ぶことはなくなっているだろう)が残されているのではないか、と私は思う。私のなかでは「未完のコミュニズム」は「未完の民主主義」に等しい。

 著者はまず、ギリシャ・ポリスの「アゴラ」というデモクラシーの場から語り始め、啓蒙主義から始まった近代が代表制民主主義の発明とともにデモクラシーが完成すると信じられていた時代を「ソリッド・モダン」と命名する。つまりは、「大きな物語」が信じられていた時代である。ソリッド・モダンのもっともソリッドらしい硬さを担ったのがコミュニズムであった。資本主義の発達、国際化(つまり、グローバリゼーションの進展)に伴い、国家主権と権力の分離が生じ、権力は次第に市場に移る。「権力はすでにグローバルなものになっているのに、政治は哀れなまでにローカルな状態にとどまっている」 (p. 41) のだ。こうした消費の時代を著者は「リキッド・モダン」と呼ぶ。リキッド・モダン世界の資産のありようは、以下のようなものである。

 二、三の例を挙げるだけで十分であろう。四〇年前に世界でもっとも豊かな五%の人々の所得は世界でもっとも貧しい五%の人々の所得の三〇倍だったが、一五年前にはそれがすでに六〇倍になり、二〇〇二年には一一四倍に達した。
 フランスの思想家ジャック・アタリ(一九四三-)が『人間的な方法』で指摘しているように、世界人口の一四%を占めるにすぎない二二カ国が、世界貿易の半分とグローバルな投資利益の半分以上を得ている一方、世界人口の 一一%が暮らす四九の最貧国は、グローバル製品の〇•五% (地球上のもっとも豊かな三名の所得総額とほぼ同じ)しか受け取っていない。地球の富の総額の九〇%が、ほんの 一%の人々の手に収まっている。
 タンザニアは年に二二億ドルを稼いで、それを二五〇万人の住民に分配している。ゴールドマンサックス銀行は二六億ドルの利益を上げ、それを一六一名の株主が山分けしている。
 専門家によれば、欧米では動物の餌に毎年一七〇億ドルが支出されているのに対し、世界中の人々を飢餓から救うために必要な額は一九〇億ドルだという。 (p. 42-3)

 ソリッド・モダン社会では、資本家はプロレタリアートの持続的な労働力が必要であることを認識して、社会(福祉)国家を形成することで共生を図ろうとした。そこでは、資本と労働は「無制限の不平等を防ぐという点では利害が一致していた」のであって、「プロレタリアー卜の絶対的窮乏化をめぐるカール・マルクスの予言の誤りが自ら証明され、労働者を雇用された状態に保つ国家である社会国家の導入が「左右を超えた」超党派の課題となった」 (p. 78) とコミュニズム嫌いらしく著者は述べている。
 しかし、だからこそソリッド・モダンはリキッド・モダンに変化せざる得なくなって、資本はグローバル化の道をたどり、弱小国家、後進国家とその国民から(対象をプロレタリアートから替えて)搾取せざるを得なかったのではないか。資本のグローバル化(権力の国家主権からの離脱)と世界規模のアンダークラスの生成はどちらが先でも後でもない一体化した資本主義の自動的な時代変化であろう。「プロレタリアート」を「周辺国化した国々のアンダークラスの人々」と置き換えれば、資本主義の構造はマルクスが説いたものと変わらない。一国資本主義であれ、グローバル資本主義であれ、労働を搾取される人々の存在が必須であると、資本主義の機制を見抜いていたマルクスは正しいと言うべきではないか、と私は考える。著者自身も次のようの述べているではないか。

その結果、〔グレン・〕ファイアボーも述べているように、「先進」国と「貧しい」国の距離は縮まる傾向にあり、その一方、いまわしい社会的不平等からきっぱりと抜け出すのも近いと思われていた国々で、一九世紀初頭のヨーロッパのような「持てる者」と「持たざる者」の格差の際限のない拡大がよみがえりつつある。 (p. 88)

 単に、一工場内、一国内の搾取-非搾取の関係が世界規模に変わっただけで、マルクスが描いた資本主義の描像の骨格は変わっていないのである。搾取-非搾取を「持てる者」-「持たざる者」と言い換えても事実は変えようがない。
 また、著者は次のようにも述べている。

 だが、こうした〔福祉国家としての〕政治権力のあり方や、その使命や職務や機能はことごとく過去のものになりつつある。「福祉国家」体制の規模がしだいに縮小され、廃止されている一方、かつて自由な事業活動や市場活動とその結果に対して課せられていた規制が撤廃されている。失業者や障害者に対する国家の保護機能は削減され、「狙い撃ちされ」ており、マイノリティはしだいに社会的なケアの対象から外され、法と秩序の問題の枠内に収められている。個人の資源を使用し、個人的なリスクを冒しながら、法的な規則にしたがって市場のゲームに参加しょうにも参加できない人々は、しだいに犯罪的な意図を持つか、犯罪者となる可能性を疑われつつある。その一方で、国家は自由市場の論理(もっと正確に言えば、論理の欠如)によって生じる脆弱性や不確実性を放置しようとしている。また、社会的地位の脆弱さは個人的な事柄であって、個人が自らの資源を用いて対処すべき問題であると定義し直されている。 (p. 91)

 国家は福祉国家であることを放棄し、ナショナル・マイノリティの保護から手を引いて、著者の言うリキッド・モダン社会に移行している。その事実は争いようがない。しかし、それを著者は「国家は自由市場の論理(もっと正確に言えば、論理の欠如)によって生じる脆弱性や不確実性を放置しようとしている」と表現する。
 自由市場の論理の欠如がその理由だというのだ。この考え方は受け入れがたい。これこそ自由市場の論理を徹底させようとする「新自由主義」の政治思想が世界中にもたらしたものだ。新自由主義(の資本主義)こそが積極的に社会福祉政策の放棄を推し進めてきたのだ。たぶん、著者は資本主義を無条件に受け入れたうえで自由主義の立場に立っていると思われ、私としてはとうてい受け入れがたい考えが垣間見られるのである。

 本書は全11章から構成されているが、そのうち第5章から第8章までは「コラテラル・ダメージ」とは直接は関係ない社会分析(道徳、プライバシー、人間の絆、運、西洋の政治体制など)の記述なので、ここでは触れないことにする。

 「第9章 悪の自然史誌」では、人間が悪に手を染める機制に触れていて興味深い。ナチスによるジェノサイドやスターリンによる大粛清などは私たちに「具体的で急を要する「善良な人々がどうやって悪に転じるのか」という謎(もっと簡単に言うと、家族思いの人々や親切で善良な隣人が怪物に転じる、謎に満ちた変貌の秘密)を解こうとする取り組み」 (p. 214) を強いるのである。それは、ハンナ・アーレントが『イスラエルのアイヒマン』 [7] で断言したような「悪の陳腐さ」に象徴される人間性についての考察である。

アーレントの言わんとすることは、怪物性には怪物は必要ではなく、違法行為には違法な性格は必要ないということであり、心理学や精神医学の専門家によれば、アイヒマンの問題とは、彼が(多くの共犯者と同様)怪物でもなければサディストでもなく、異常なまでに、そして恐ろしいほど「正常」だということである。ジョナサン・リテルも、アイヒマンが決して「顔がなく、魂のないロボット」ではないというアーレントの主張を少なくとも部分的に踏襲した。そうした系譜に連なる最新の研究の中でも、二〇〇七年に発刊されたフィリップ・ジンバルドーの『ルシファー〔もとは天使であつたが、神に反逆して悪魔となった堕天使〕効果』は、善良で普通の愛すべきアメリカ人の一団が、はるかかなたのイラクという「無名の地」に派遣されて、邪悪な意図を持つ下等で人間以下の存在とされる囚人を監視する職務についたとたんに怪物(モンスタ-)に変貌してしまう、身の毛もよだつような現象に関する研究である。 (p. 217)

カウンターで微笑んでいる少女が、海外に派遣されたとたんに、自分が担当する監房で、奇抜で悪辣ないじめや拷問、屈辱を与える方法を思いつく才能を発揮するなどとは誰も考えもしなかった。彼女や彼女の同僚の生まれ故郷の隣人たちは、自分が子供のころから知っているこれらの魅力的な男女と、アブグレイブの拷問室のスナップショットの中の怪物が同一人物であるとは信じたくないと述べている。だが、彼らは同一人物なのである。 (p. 218)

 アーレントのアイヒマン裁判報告は、イラク・アブグレイブ刑務所におけるアメリカ人軍人・軍属による残虐な虐待の世紀まで見抜いているようだ。そして、イラクにおける無数の虐待・殺戮を推し進めているのが新自由主義に基づくアメリカの国際戦略であることを忘れてはならない。
 著者はまた、戦争(第2次世界大戦)をめぐる驚くべき人間心理の事実の例を挙げている。ひとつは、戦略的にはなんの価値もないようなドイツ・ハルバーシュタットのじゅうたん爆撃についてである。

 〔W・G・〕セバルドは、ドイツの映画監督のアレクサンダー・クルーゲの『時の不気味さ』にならって、ドイツ人ジャーナリストのクンツェルトが行なったアメリカ第八空軍のフレデリック・L・アンダースン准将とのインタビューを引用している。クンツェルトからアメリカのじゅうたん爆撃による故郷の町、ハルバーシユタットの破壊を防ぐ方法があったかどうか説明するよう促されたアンダースンは、爆弾は結局のところ「高価な品物」であったと答えた。「爆弾を作るのに多大の労力を費やしたのに、それを山や平野に投下することはできなかった」。非常に率直なアンダースンは、正確に核心を突いていた。(の爆弾が使用されることになった)ハルバーシュタットが問題だったのではなく、(ハルバーシュタットの運命を決めた)その爆弾をどう処理するかの方が重要だったのだ。ハルバーシュタットは爆弾製造工場の成功にまつわる「コラテラルな犠牲者」(軍事用語を改変した言葉で、巻き添え被害者の意味)に他ならなかった。セバルドが説明しているように、「航空機や高価な爆弾などの軍需物資を製造してしまってから、それを東イングランドの飛行場に放置しておくことは、健全な経済の本性に反するものだった」。 (p. 227)

 アメリカ軍人にはハルバーシュタットを故郷として生きている人々のことは想像の中にはなかったのである。爆弾にかけた費用がもったいないという理由だけで爆弾を投下する行いが、アイヒマンの悪に匹敵することは言うまでもない。

 さらに著者は同じような心理がもたらす巨悪についても例を示す。それは、ヒロシマ、ナガサキに投下された原爆をめぐるアメリカ大統領トルーマンの決断のことである。少し長いが引用する。

最初の〔ヒロシマへの〕原爆投下の一カ月ほど前に、日本の支配者には降伏する用意があった。そして、次の二つのステップを踏むだけで彼らは武器を放棄していただろう。それが、ソ連軍による対日参戦にトルーマン大統領が同意することと、日本の降伏後に天皇の地位を保全すると連合国が約束することだった。
 しかし、トルーマンの決断は引き延ばされた。ニューメキシコ州アラモゴードで行われる原爆実験の結果を待っていたのだ。それにより最初の原爆の性能についての最終的な感触が得られることになっていた。実験結果の知らせは七月一七日に連合国の首脳会談が行われていたドイツのポツダムに届いた。結果は単なる成功の域を超えていた。爆発の衝撃はもっとも大胆な予測をも上回るものだった……。こうした非常に高価な技術を廃棄すべきとする提案に憤りを覚えたトルーマンは、しばらく時間を稼いだ。彼が決断を遅らせたことによって手にした利益については、広島の一〇万人余りの生命を破壊した後『ニューヨークタイムズ』に掲載された意気揚々たる大統領演説から容易に推測されよう。「われわれは二〇億ドルに上る史上もっとも大胆な科学的な賭けを行ない、勝利した」。二〇億ドルを捨てることなどできょうか? その製品を使用する機会が訪れる前に、当初の目的が達成されてしまったら、その支出に見合った「経済感覚」を保持するか回復するためにも、すぐさま別の目的を見つけなければならない……。 (p. 229-30)

 つまり、二〇億ドルを捨てない、二〇億ドルがもったいないという理由でヒロシマとナガサキに原爆は投下されたのである。「戦争を終らせるために……」と今でも多くのアメリカ人が語るのは、単にそう信じなければ「黙示録的な「地球規模の虐殺(globocide)」 (p. 228)を企図するヒットラーとトルーマンは似たものであり、それに加担するナチス党員も民主党員も思想的には等しい存在になってしまうからであろう。

 「第10章 われわれのような貧しい人間」は、アンダークラスの置かれた状況と心理を描いた短いが優れた記述である。そこでは、「「われわれのような貧しい人間」は、オーストリアの作曲家アルバン・ベルク(一九八五-一九三五)のオペラ『ヴォツエック』の第一幕における主人公ヴォツェックの歌の一節」 (p. 242) で、ヴォツェックの語る「われわれ」について考察される。

 「貧しい人間」はコミュニティを作らない。彼らの悲惨は、彼らを統合するのではなく、彼らをばらばらにする。貧しい人間は自分たちの苦痛に一人で耐える。ちょうど、自分たちの(個人的な原因による、個人的に被る)敗北や悲惨に対する非難を一人で耐えるように。彼らの誰もが自分自身の欠陥によって「貧しい人問」のカテゴリーに収められ、互いが自分の傷を一人で舐めるのである。 (p. 244)

 「私のような人間」を指す場合にヴォツェックが用いる唯一の言葉が「貧しい人間」ならば、彼が意識的/無意識的を問わず、間接的に示しているものは、「正常な」人間の集団から自分が排除されていることであり、そして、別のコミュニティから勧誘されることもなければ、他のコミュニティから入会を認められる見通しもなく、彼が知っていて、それについて知っているコミュニティから彼が追放されていることである。 (p. 245)

 「アンダークラス」のカテゴリーに収められて完全に排除されることは、すべての社会的に生産され、社会的に受容される衣装を剥奪されることであり、そしてまた、単なる生物学的存在を社会的存在やコミュニティへと引き上げる指標も奪われることである。アンダークラスは単なるコミュニティの欠如ではない。それはコミュニティの完全な不可能性である。結局のところ、このことは、人間であることの不可能性にもつながる。 (p. 246)

 私たちには憎む人間が必要である。というのも、私たちには、自分が抱える嫌悪すべき耐え難い状況や、私たちがそれを改善し、もっと安全なものにしようとして味わう無力感のために、誰かを非難する必要があるからだ。私たちは、自分は価値がない人間だという破壊的な感覚を払いのける(そしてできれば軽減する)ためにもそうした人間を求める。しかし、そうした感覚をうまく払いのけるためには、すべての個人的な怨念の形跡を完全に覆い隠す必要がある。選ばれた標的に対する憎しみや嫌悪感とはけ口を探す際の欲求不満が密接に結びついていることは、秘密にしておかねばならない。彼らに対する僧しみをどのような形で表現しようと、それを私たちは、彼ら悪意のある卑劣な人々による中傷や共謀から善良で尊い事柄を守ろうとするためだと、周囲の人々や自分自身に説明しようとする。私たちは、彼らを憎む理由や、彼らを排除しようとする決意が、秩序ある文明的な社会を維持しょうとする私たちの意志に根差す(それによって正当化される)ことを証明しようと懸命に努力する。私たちは自分が憎むのはこの世界を憎しみのないものにしようとするがゆえであると主張する  (p. 255-6)

 ここでは、アンダークラスとしての「われわれのような貧しい人間」の悲惨な状況、悲惨な心理状態が述べられている。それはこの社会の事実である。そして、アンダークラスは、資本主義(現在は新自由主義的経済戦略で武装している)がグローバル化を推し進める過程で日々新たに生産されつつある。
 社会学は、アンダークラスの存在と状況を分析し、記述すれば「学」として全うされるのかどうか、門外漢の私には分らない。しかし、思想の問題、正義や倫理の問題として言えば、そのアンダークラスを解放する未来を見通す力量が求められている。「社会をよりよくしようという近代の情熱」と「人間の自由に寄与する文化政治」をめざす営みこそが必要なのである。

 

[1] ナオミ・クライン(幾島幸子、村上裕見子訳)『ショック・ドクトリン――惨事便乗型資本主義の正体を暴く 上・下』(岩波書店、2011年)。
[2] ジュディス・バトラー、ガヤトリ・スピヴァク(竹村和子訳)『国歌を歌うのは誰か?』(岩波書店、2008年)。
[3] ノーム・チョムスキー(鈴木主税訳)『覇権か、生存か――アメリカの世界戦略と人類の未来』(集英社、2004年)。
[4] アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート(幾島幸子訳、水島一憲、市田良彦監修)『マルチチュード/〈帝国〉時代の戦争と民主主義 上・下』(NHKブックス、2005年)。同(水嶋一憲、清水知子訳)『反逆――マルチチュードの民主主義宣言』(NHK出版、2013年)。
[5] ジャック・デリダ(増田一夫訳)『マルクスの亡霊たち』(藤原書店、2007年)。
[6] ジャン=リュック・ナンシー(渡名喜庸哲訳)『フクシマの後で』(以文社、2012年)。
[7] ハンナ・アーレント(大久保和郎訳)『イェルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』(みすず書房、1969年)。


原発を詠む(9)――朝日歌壇・俳壇から(2013年10月14日~12月8日)

2013年12月08日 | 鑑賞

 朝日新聞への投稿短歌・俳句で「原発」に関連して詠まれたものを抜き書きした。原発事故隠しもその目的の一つと思われる特別秘密保護法を詠んだ歌も合せて抜き書きとした。

 

彼岸後に防護服での墓参り秋は静かに夜長に向う
             (福島市)澤正宏  (10/14 馬場あき子選)

満月は海より上り原子炉と人無き街と村とを照らす
             (福島市)美原凍子  (10/14 馬場あき子選)

誘われて行けなかったあの日のデモ今なら行くよ君を誘って
             (東京都)香西和衛   (10/21 永田和宏選)

靴底に拾う人なき椎の実を踏み拉(しだ)き行く被爆検査日
             (福島市)澤正宏  (10/21 馬場あき子選)

太古より一滴の水もこぼさない地球よあなたを汚してごめん
             (中津市)吉瀬和代   (10/28 野公彦選)

戦争も原発もない国がいいと天野祐吉別天地に転居す
             (上尾市)星芳継   (11/10 野公彦選)

避難解け主人と帰宅の番犬は出勤の朝に激しく吠える
             (福島市)澤正宏  (11/18 佐佐木幸綱選)

貝たちは汚染吐くため砂を吐く吐いても吐いても汚染は溜まる
             (長野市)関龍夫  (11/18 馬場あき子選)

福島より避難生活二年九カ月われも夫も疲れ果てたり
             (東京都)半杭螢子  (12/8 佐佐木幸綱選)

黒い木に「いちじく食ふな」の札がゆれ原発近き荒れ畑が見ゆ
             (浜松市)松井惠  (12/8 佐佐木幸綱選)

思いより時代が我を超えて行く汚染は止まず秘密保護法
             (三郷市)岡崎正宏  (12/8 佐佐木幸綱選)

トイレなきマンションではなく核のゴミは着陸できない旅客機なの
             (岸和田市)西野防人   (12/8 永田和宏選)

捨て場なきゴミ作るなと言ふ人を無責任とぞ責むる無責任
             (松山市)宇和上正   (12/8 永田和宏選)

 

空澄みて水澄みてなほ放射能
             (吹田市)柏原才子   (10/14 金子兜太選)

福島いま地獄の如し彼岸花
             (いわき市)坂本玄々   (10/14 金子兜太選)

許されて防護服着て墓参かな
             (福島市)池田義弘   (10/14 金子兜太、大串章選)

フクシマの死せる秋汐ひたひたと
             (東京都)廣川風韻   (10/21 金子兜太選)

震災時配給されしマスクあり
             (相馬市)根岸浩一   (12/2 長谷川櫂選)

 

【特別秘密保護法】

 国民に見ざる聞かざる言わざるを強いる事項は?それも秘密だ!
             (向日市)赤川次男  (12/8 佐佐木幸綱選)

思いより時代が我を超えて行く汚染は止まず秘密保護法
             (三郷市)岡崎正宏  (12/8 佐佐木幸綱選)

知らぬ間に戦争うしろに立っていた秘密保護法成立を怖る
             (津山市)菱川佳子   (12/8 永田和宏選)


『「古径と土牛」展』 山種美術館

2013年12月05日 | 展覧会

  東京の三日目は山種美術館、「古径と土牛」展である。東京に出てきたときはまとめて美術館を回る(美術館を回るために東京に出て来るというのが正確)のだが、こんなふうに同じ時期に見たい展覧会がいくつも揃うのは珍しい。私の受容範囲は狭いので、三つ目あたりは大いに悩むのである。

  実際のところ、日本画に関していえば、画集を眺めることはあったものの、美術館に足を運ぶようになったのはここ4年くらいである。少ない機会の中で山種美術館はいちばん回数が多い。偶然だが、私が東京に出かけられる機会と美術館の企画がうまくマッチするらしい。

 小林古径の生誕130年を記念する企画展で、梶田半古のもとで兄弟弟子だった奥村土牛作品を併せての展示である。

小林古径《伊都峻島》大正9年、絹本・彩色・軸(一幅)、
57.7×83.1cm、山種美術館 (図録 [1]、p. 30)。

 《伊都峻(いつく)島》は、宮島(厳島)の朝霧に包まれた景色を描いている。昨日は東京都美術館の「ターナー展」に行き、ターナーの風景画をたっぷり見てきた。そこではいつも遠景が霞むように描かれていて、《伊都峻島》の前景が霞んでいる景色と良い対照をなしている。
 古径の絵は霧という実体があって前景が隠されている。ターナーにおいても霧や雨で霞むのは同様だが、遠景ほど見えにくいという物理的な合理性に従っているように思える。もちろん、霧が近くに発生するのは自然として不思議はないけれども、遠くほど見えにくいというのは自然を認識するときの合理的判断として私たちの思い込みとして刷り込まれているのだ。

 いわば、古径の絵はそのような西洋的合理性(らしき感覚)とは無縁だということだろう。そして、この絵が私の感覚にすっと入ってくるのは、おそらくこの日本で生まれ育って、もちろん日本画を見る機会もあるだろうが、連綿と続いてきた美意識が日常の暮らしの中で知らず知らず身についていたからだと思う。育ってきた場所、環境が私の感性を左右しているのは当然のことだ。少なくとも私にとって日本画のほとんどは、感動の多寡がどうであれ、ほとんど違和感なく受け入れられるのだ(もちろん、感動の多寡こそ大切なのだが)。

小林古径《果子》昭和11年、絹本・彩色・軸(一幅)、
56.8×72.2cm、山種美術館  (図録、p. 41)。

 《果子》はいい。こころがほっこりとする。古径はその線描の美しさを高く評価されているが、この絵もその評価の根拠となっているだろう。物理的に言えば、果物とそれを包む空間(空気)の間に線は存在しない。境界面があるだけで、どんな空間の1点でも、果物に属するか、空気の領域に属するかである。つまり、この線は空間を切り分ける抽象的な概念であって、数学における線の概念と同じなのである。
 しかし、実在しなければ描かないというのはつまらない俗流リアリズムだ。存在しないものを描くことで、実存性が見事に表現できるというのが芸術というものだろう。フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスは「レアリズムはより上級のレアリズムの名においてのみ否認される」 [2] という意味のことを述べているが、「上級のレアリズム」というのは芸術家が対象をいったん象徴界に抽象化(昇華)した後の表象として作品が表現しえたものであろう。
 妙に理屈っぽくなってしまったが、要するに、古径の線は「上級のレアリズム」だと思ったということである。 

小林古径《清霽》昭和12年、紙本・彩色・軸(一幅)、
58.3×70.3cm、山種美術館 (図録、p. 46)。

 冬木の姿に惹かれるというのは私の常だが、《清霽》もまた例外ではなかった。なぜ冬木に心惹かれるのか、うまく説明できないが、次のような短歌や俳句に強く惹かれることと同じではないかと思う。

切実な言葉をはけよ葉をすべて落とし垂直の意志持つ木々に
                                                    大口礼子 [3]

意志持ちてゆく明るさの冬木立    岡本眸 [4]

 歌も句も、なにがしか冬木に喚起される意志ということを詠っている。秋を経て葉をすべて振り落とした冬木は終末をイメージさせ、一方で春に芽吹く期待と可能性を秘めている。枯れ木のような姿にもかかわらず、生の大転換を意味していて、そのような大変身は優れた意志に導かれているように見えるということなのだろう。

 凡庸な鑑賞者が冬木に表象された「意志」のようなものを云々しているというのに、古径は画題を《清霽》とする。冬木の背景の晴れた空のことである。「溢れるような静謐さ」というのは形容矛盾のような気もするが、私の古径観の一部で、それが画題も含めたこの絵にも表わされていると思う。

奥村土牛《雪の山》昭和21年、絹本・彩色・額(一面)、
93.0×114.8cm、山種美術館  (図録、p. 64)。

 《雪の山》は併せて展示されている奥村土牛の絵である。「古径と土牛」という企画展なので、古径と土牛の違いはどんなところにあるのだろう、会場を歩きながらそんなことをずっと考えていた。「繊細と豪放」では、土牛にあたらない。古径の繊細さとの対照で、土牛を豪放と言ったのではあまりにも言い過ぎである。土牛だって十分に繊細なのだ。

 この絵や《城》 (図録、p. 59) を見て思いついたのが、「曲線と直線」という対照である。《雪の山》は、冬山の厳しさと美しさが大胆な直線で描かれている。これもまた「レアリズムを越える上級のレアリズム」である。
 さて、「曲線と直線」という対照だが、思いつきに気をよくして会場をもう1度回り返してみたのだが、大はずれだった。二人はともに必要にして十分に直線と曲線を組み合わせているのだった。もともと二項の単純な対照で二人を理解しようとしたのが無理だったのである。

小林古径《牡丹》昭和26年頃、紙本・彩色・軸(一幅)、
57.7×83.1cm、山種美術館  (図録、p. 72)。

奥村土牛《富貴草》昭和期、絹本・彩色・軸(一幅)、
58.0×73.0cm、山種美街館 (図録、p. 73)。

 二人の対照をよく示す作品が並べて展示してあった。《牡丹》と《富貴草》で、どちらも一輪の牡丹の絵で白と紅の対照である。古径の牡丹の花弁は、古径らしく線で縁取られている。葉の色も古径らしい清澄さを示すように青みがかる。土牛の牡丹の花弁は紅から黄へのグラデーションで縁取られている。葉は花色を際立たせるかのごとく白みを帯びた緑である。
 二つの絵は対照的でありながら、それがどんな対照かを指摘しようとはもう思わない。兄弟弟子、ときとして師弟関係にあった二人だからよく画風が似ている、とごく普通の評言にとどめておく以上のことは私にはとうてい無理だということだ。。

 牡丹という花は、ごく日本的な対象で、芸術家の心を惹きつけるものらしい。古径と土牛の牡丹にうまく照応するかどうかはわからないが、牡丹を詠んだ三句を挙げて、古径と土牛へのオマージュとしておこう。

牡丹見るこの驕奢のみ許さしめ       山口誓子 [5]

栄華とは、牡丹この朝自刃せんとは   荻原井泉水 [6]

牡丹見てゐる間も人は老いゆくか    安住敦 [7]

 

[1] 『古径と土牛』(以下、図録)(山種美術館、2013年)。
[2] エマニュエル・レヴィナス「現実とその影」『レヴィナス・コレクション』(筑摩書房、1999年) p. 302。
[3] 『大口玲子歌集 海量(ハイリャン)/東北(とうほく)』 (雁書館 2003年) p. 27。
[4] 『岡本眸読本(俳句研究別冊)』(富士見書房平成11年)p. 201。
[5] 『季題別 山口誓子全句集』(本阿弥書店 1998年)p. 227。
[6] 『現代日本文學大系95 「現代句集」』(筑摩書房昭和48年)p. 472。
[7] 『わが愛する俳人 第二集』(有斐閣 1978年)p.33。


『ターナー展』 東京都美術館 

2013年12月03日 | 展覧会

 ターナーの絵といったら、大海原で荒れ狂う大波に翻弄される帆船であるとか、風雨と霧の中を疾駆してくる列車とか、とにかく自然の持つ激烈なドラマ性を目一杯表現しているもの、そんなイメージが私には刷り込まれている。ターナーの絵は好きではあるが、それを見るには時と場所、あるいは心性における条件があると思うのだ。たとえば、風景画を一つ欲しい(もちろん、複製画だが)と思ってもターナーは候補外である。小さな家の小さな部屋で毎日ターナーの激しい自然ドラマを眺めていたらきっと疲れてしまうだろうと思ってしまう。

 私が想像するようなターナーの絵が次々に並んでいたら、きっとへとへとになってしまう、そんな気がする。ターナー展はまもなく展示期間が終ってしまうので、とても気が揉めていたのだが、なんとなく腰も引けていたのだ。
 私の想像は完全に的外れに終った。想像していたような絵はごくわずかだったのだ。ほんのわずかなターナー経験を拡大解釈してしまったターナー知らずの要らぬ心配だった。

《月光、ミルバンクより眺めた習作》1797年ロイヤル・アカデミー展出品、
油彩・板、31.4×40.3 cm [図録、p. 43]。

 初期の作品、《月光、ミルバンクより眺めた習作》はテームズ川の夜景を描いたじつに静謐な情景を描いていて、私のターナーのイメージと真逆の作品である。こういう絵ならいついかなる時に眺めても、じっと見入り続けることができる。
 月光の中の風景というのは私の好みの画題のようだ。初めて見たアンリ・シダネルの《月明かりのテラス》や《月下の川沿いの家》に感激したのもそんな好みのせいである。

《鉄の値段と肉屋の小馬の装蹄料を巡って言い争う田舎の鍛冶屋》
1807年ロイヤル・アカデミー展出品、油彩・板、54.9×77.9 cm  [図録、p. 86]。

 《鉄の値段と肉屋の小馬の装蹄料を巡って言い争う田舎の鍛冶屋》もまた私の想像外の風俗画である。風俗画といっても、ブリューゲルやヤン・ステーン、ワルトミューラーのような農民、職人など庶民の風俗が描かれた絵が好きなので、この絵はすっぽりと私の好みに嵌った。
 図録 [1] の解説によれば、ナポレオン戦争の影響で鉄への増税があったことが背景にあるのだという。時代の風俗と歴史事象が籠められた作品ということらしい。

《スピットへッド:ポーツマス港に人る拿捕された二隻のデンマーク船》
1808年ターナーの画廊に展示、油彩・カンヴァス、171.4×233.7 cm [図録、p. 88]。

 《スピットへッド:ポーツマス港に人る拿捕された二隻のデンマーク船》もまたナポレオン戦争が背景にあるのだが、制作事情のようなことにあまり拘泥しないでおくことにしよう。
 この絵は荒れ狂う大洋という絵ではないと思う。不思議なのは、右手の二隻のデンマーク船あたりを境に手前の海が荒れていて、帆船から向こうの海は凪いでいるように見えることである。波のうねりとそれに伴って変化する色彩の美しさもさることながら、海面の様子の不思議に打たれていた。物理的にはありえないのだから、何か象徴主義的な意味合いがあるのだろうかと疑ってしまうのだが、一方で私の目の錯覚かもしれない、とも考えて困惑した(今もしている)。

《レグルス》1828年ローマで展示、1837年加筆、
油彩・カンヴァス、89.5×123.8 cm [図録、p. 63]。

 光に包まれた遠景には何があるのか、それにしても太陽が光の中心にあるとしてもその広がりの不自然さはどうしたのだろう。《レグルス》の絵の不思議さは、さすがに解説なしでは理解できなかった。長いが重要だと思うので引用しておく。

本作の主題は古代口一マの将軍マルクス・アティリウス・レグルス。第一次ポエニ戦争(紀元前264-前241年)でカルタゴの捕虜となった将軍である。歴史の伝えるところによると、レグルスは両国の和平をとりもつように指示されたものの、ローマの元老院に提案を拒むよう助言した後、傲然とカルタゴに帰還したため、結局、拷問され、殺された。ターナーがとくに興味を憶えたのは、レグルスが命を落とすまでの奇怪な経緯だった。伝説によると、レグルスは暗い地下牢に閉じ込められ、瞼を切り取られる。その後、牢獄から引きずり出され、陽光に当たり、失明する。ターナーは、瞬きできないレグルスの目が眩いばかりの陽光に晒される悲惨な瞬間を絵画化して不朽のものとし、鑑賞者は命運尽きたこのローマ人同様、絵の中心で燃え盛る白熱の太陽を見つめるよう強いられる。 [2]

 強烈な陽光に灼き尽されて盲いていく過程の一瞬、その灼かれている網膜に写った光景だというのだ。あの輝く光の球は急速に全景に拡がって、そして暗転するのだろうか。それとも、網膜全面に白熱する光が固着するように、見えない目は白光だけを見続けるのだろうか。この光景は、戦慄するような恐怖に支えられている。

《逆賊門、ロンドン塔(サミュエル・ロジャーズの『詩集』のための挿絵)》
1830-32年頃、水彩・紙、19 ×30.6 cm [図録、p. 138]。

 《レグルス》の恐怖に裏打ちされた光景の「美しさ」から一変して、《逆賊門、ロンドン塔(サミュエル・ロジャーズの『詩集』のための挿絵)》はもっと軽やかな明るさの「美しさ」である。
 最初にこの小品を見たとき、「いい絵だな」とは思ったがあっさり通り過ぎた。そのあと、遠景が霞んでいるような、風景画でありながら部分部分に何があるのか判然としないような絵をいくつも見ながら最後の展示まで進み、入口まで戻っての見直しの途中で文字通りこの絵を「見直した」のである。

 風景画の遠景を霞ませてしまうというのは、その方が〈美〉としてふさわしいからであろうし、あるいは省略することによって主題を際立たせる効果もあるだろう。しかし、一方で、あるべき風景が見えないことに対する不安(私の場合はこれが強い)や苛立ちも生じることがあるだろうと思う。もちろん、それはそうした技法がもたらす〈美〉との競合であろうが、正直に言えば、いくつかの絵によっていくぶんもやっとした不安感が生まれていた。
 そのような気分でこの絵を見たとき、線や絵柄の鮮明さに打たれたのである。顔を近づけないと何が描かれているのか分らないほど小さい絵だが、鮮明であることは離れていても分るのだった。詩集のための挿絵であるためか、一連のターナー作品の中で異なった系列に属しているような絵である。


《ハイデルベルク》1844-45年頃、油彩・カンヴァス、
132.1×201.9 cm、 [図録、p. 170]。

 《ハイデルベルク》もまた遠景が霞むように描かれている作品である。下部に描かれた人物群の姿には王族の物語が籠められているが、ここで挙げたのは私の個人的な懐かしさのためである。たった一度訪れただけのハイデルベルクだが、その時に私が見た風景を彷彿させるのである。あの辺に川が流れ、橋があり、対岸には素敵な散策路がある。茫洋とした遠景の描き方に説得力のあるリアリティがあるのだ。

《サン・ベネデット教会、フジーナ港の方角を望む》
1843年ロイヤル・アカデミー展出品、油彩・カンヴァス [図録、p. 184]。


《日の出》1835-40年頃、水彩・ダワッシュ・青い紙、19.5×27.8 cm [図録、p. 192]。


《湖に沈む夕陽》1840-45年頃、油彩・カンヴァス、91.1×122.6 cm [図録、p. 204]。

 上の三作品を並べて眺めると、画家が自然から〈美〉を抽出していくプロセスが理解できるようだ。ターナーは風景画という徹底した具象、リアリズムをもって画業を開始した。そして、《湖に沈む夕陽》を描くような境地に達するのである。レヴィナスは次のように述べている。

美的規範としてはこきおろされたが、レアリズム〔現実主義〕はその名声をいささかも失ってはいない。事実、レアリズムはより上級のレアリズムの名においてのみ否認されるのだから。シュルレアリズムとはレアリズムの最上級なのである。 [3]

 リアリズムを評価できるのはさらに上位の審級としてのリアリズムだというのだ。

 《サン・ベネデット教会、フジーナ港の方角を望む》では、舟はやや明瞭、港の構造は少し痕跡を残し、遠景の具象は色彩に置き換わっている。《日の出》になると、おそらく水平線から昇る太陽であることは推測できても、河口なのか港なのか、それとも拡がる海面と砂州なのか、判然としなくなる。存在は色彩と形象である。絵画としては当たり前と言えば当たり前なのだが、それが実現されているようだ。
 《湖に沈む夕陽》になると、太陽の位置は分るし、右手に何らかの構造があるようなことも分る。しかし、この絵を《無題》として提出しても、つまり一枚の抽象画としてもまったく違和感がない。

 この三枚の絵は、芸術というものがその表象の中から現実の意味に汚れた夾雑物を取り除いて〈美〉だけを抽出していく過程を表わしているように思える。これは、デリダによるフッサールの(言語の場合の)「表現」論の解釈 [4] だが、言述から身振り、手振りを取り除くことはもちろん一つ一つの言葉が持つ指標作用そのものを排除して純化することで「表現」となるという。絵画のケースに翻訳すれば、風景、静物、人物、それぞれの具体がもつ指標作用(纏わり付いた美意識)を排除するということだろう。そうしたプロセスの中で様々なレベルの審級があるだろうけれども、抽象画やシュルレアリズム(シュールリアリズム)がきわめて重要な審級に位置していることは確かだろう。

 ターナーは、〈美〉の審級の道をしっかりと歩んでいたのである。言うまでもないことだが、一人の画家の画業全体を俯瞰できるというのはとても大切なのだ。 

 

[1] 『ターナー展』(以下、図録)(朝日新聞社、2013年)。
[2] 図録、p. 111。
[3] エマニュエル・レヴィナス「現実とその影」『レヴィナス・コレクション』(筑摩書房、1999年) p. 302。
[4] ジャック・デリダ(林好雄訳)『声と現象』(筑摩学芸文庫、2005年)。


『「印象派を超えて 点描の画家たち」展』 国立新美術館

2013年12月02日 | 展覧会

クロード・モネ《サン=ジエルマンの森の中で》1882年、油彩/カンヴァス、81×65 cm、
吉野石膏株式会社(山形美術館に寄託) [図録、p. 29]。

 展覧会場に入ってすぐ、十分に満足してしまった。すぐ目の前にモネの《サン=ジエルマンの森の中で》がある。色づいた落ち葉が敷き詰められた林の道がずっと遠くまで続いていて、引き込まれるように歩を進めたい欲求が沸き立つ。
 山歩きが好きで、奥深い東北の山麓の林に惹かれている私の心性に共鳴するような作品である。この絵は、風景の中へ入っていくこと、風景に没入することをうながす絵として私の前にある。

 モネの絵から振り返ると、そこにはシスレーの《モレのポプラ並木》が展示されている。子供のころから私の中の風景画の典型というのは、このような街道筋や畑の境界の楡やポプラの並木の絵である。どれくらいの幼年のときかも、誰の絵によってかもとっくに定かでなくなっているが、そんな風景画を美しいと心に焼き付けてしまったのだろう。
 このような風景画は、立ち止まって眺めているその風景から旅を続けるようにうながされ、次の風景へと歩いて行き、また新しい風景にであって旅をうながされる、そんな風な風景としてある(あくまで私にとっては、ということだが)。

アルフレツド・シスレー《モレのポプラ並木》1888年、油彩/カンヴァス、54×73 cm、
吉野石膏株式会社(山形美術館に寄託)  [図録、p. 35]。

 そんなごく個人的な理由(心性)で感動しているので、見知らぬ三流の画家が《サン=ジエルマンの森の中で》や《モレのポプラ並木》のような構図で描いたとしても、きっと私はそれなりに感動するに違いない。印象派だの分割主義の技法だのということは関係ない私的な感情の話である。なんと凡俗な絵画鑑賞なのだろうと思うが、発現してしまった感情を消そうとしても意味がないし、簡単には元に戻せない。
 しかし、そうした記憶や感情がモネとシスレーの絵によってとても刺激的に掬い取ってもらえたのだから、もう十分満足した、そんな気分である。だから、その後に展示されている画家にはきわめて申し訳ない気分で会場を歩くことになったのだった。

ジョルジュ・スーラ《グラヴリーヌの水路、海を臨む》1890年夏、油彩/カンヴァス、73.5×92.3 cm、
クレラー=ミュラー美術館 [図録、p. 51]。

ポール・シニャック《マルセイユ港の入口》1898年、油彩/カンヴァス、46×55 cm、
クレラー=ミュラー美術館 [図録、p. 63]。

 スーラとシニャックは、分割主義(divisionism)と点描を主題とするかぎりにおいてこの展覧会のハイライトであろう。二人は、しばしば同じような画題を描いていて、スーラかシニャックか判断に戸惑ったりしたが、すぐに判別がつくようになる。ごく簡単なことで、点描の点自体がシニャックの方が大きいのである。
 《マルセイユ港の入口》はシニャックの点描の絵の中でも描点が大きいので、スーラの《グラヴリーヌの水路、海を臨む》と並べると違いは鮮明である。分割主義における描点のサイズは画家の個性として重要なのだろうか、と考え込んでしまった。

 とまれ、シニャックの《マルセイユ港の入口》の美しさにはしばらく見とれてしまった。点描で描かれた夕景の光の美しさである。そして、この絵はジョバンニ・セガンティーニの《湖を渡るアヴェ・マリア》という絵を想い起こさせる。やはり夕景の美しい絵だ。
 この展覧会は、オランダのクレラー=ミュラー美術館のコレクションを主体とした展示なので、イタリアのセガンティーニはコレクションに含まれていないが、セガンティーニもまた分割主義の画家なのである。セガンティーニの分割主義は《湖を渡るアヴェ・マリア(第2作)》をもって始まった、と私は理解していて、その時期にセガンティーニの絵は暗い色調の画風から清澄な明るさへとドラマティックに変化していくのである。《湖を渡るアヴェ・マリア(第2作)》は絵自体の素晴らしさに加えて、画家の生涯の画業のエポック・メーキングな事象を象徴する絵としても印象深いのである。

ジョバンニ・セガンティーニ《湖を渡るアヴェ・マリア(第2作)》 1886年、
油彩/カンバス、120×93 cm、 個人蔵(ザンクト・ガレン) [2]。

 《湖を渡るアヴェ・マリア(第2作)》は点描ではなく、短く途切れた線によって描かれている。その線群は絵(光)の中心を囲む円に沿うようにきわめて細かく配置されている。それは、シニャックの《マルセイユ港の入口》の夕日を囲むように置かれた点(太い線)群と似ているが、セガンティーニでは円様の配置は絵全体に及んでいる。

 シニャックとセガンティーニの絵が光彩の美しさで互いに匹敵しているのは、分割主義という画法に由来するのか、単に夕景を描く技量によるのかは私に判断できないが、ともに私にとっては忘れられない絵ではある。

ジョルジュ・スーラ《若い女》
(「グランド・ジャット島の日曜日の午後」のための習作)
1884-85年、コンテ・クレヨン/紙、31.2×16.2 cm、
クレラー=ミュラー美術館 [図録、p. 63]。

 スーラの有名な《グランド・ジャット島の日曜日の午後》は展示されていなかったが、その習作のコンテ絵《若い女》をとても興味深く見た。人物を徹底して造形としてとらえようとしているスーラの姿勢がよく表現されていると思う。《グランド・ジャット島の日曜日の午後》にはたくさんの人物が描かれているが、どれもが彫像のような姿であり、表情は判然としないもののきっと無表情に違いないと思わせるものがあって、そうしたことがこの《若い女》で示されている造形性の追求から始まっているのだろうと推察されるのである。 

ユハン・トルン・プリッカ一《花嫁》1892-93年2月、油彩/カンヴァス、
147.1×88.2 cm、クレラー=ミュラー美術館 [図録、p. 149]。

 展示は、クレラー=ミュラー美術館が所蔵するオランダの分割主義を受け継ぐ画家たちの多くの絵を含んでいて、その中でユハン・トルン・プリッカ一の《花嫁》が強く私の目を引いた。分割主義との関連は分らないが、あきらかに象徴主義的なモティーフは私を考え込ませるのだった。
 右手に磔刑のキリストがいて、キリストのイバラの冠が花嫁の花冠に繋がっていて、この強い関係性を示していることは確かなのだが、「キリストと花嫁」なのか「刑死と花嫁」なのか「甦りと花嫁」なのか、と錯綜するのである。花嫁(ないしは処女性)として全なる神と結びつくという、女性としての画家の願望の表現ででもあろうか。

ヘンドリクス・ペトルス・ブレマー《石炭入のある食器洗い場の眺め》1899年、
油彩/カンヴァス、38.5×26 cm、クレラー=ミュラー美術館 [図録、p. 155]。

 ヘンドリクス・ペトルス・ブレマーの《石炭入のある食器洗い場の眺め》は、おそらくヴィルヘルム・ハンマースホイの絵を見ていなかったら見過ごしたかもしれない。ハンマースホイによって、家具、家財などいっさいないがらんとした室内の風景が得も言われぬ味わいで人生の深みを語りうるのだと教えられた。

ヴィルヘルム・ハンマースホイ《白い扉、あるいは開いた扉》1905年、
油彩/カンバス、52×60 cm、コペンハーゲン、デーヴィズ・コレクション [3]。

 《石炭入のある食器洗い場の眺め》では、手前の部屋には家具や家飾りは見られないし、ドアの向こうの食器洗い場も石炭入れはあるもののがらんとしている。このような光景は、長く暮らした家から家財が一切なくなって、立ち去る前にその部屋の中に立ち尽くしているときの何か切ない感情に似たものを誘起する。そうしたことが、私の人生の中でも数回はあったのである。

レオ・ヘステル《逆光の中の裸体》1909年、油彩/カンヴァス、54.5×98.8 cm、
クレラー=ミュラー美術館 [図録、p. 165]。

 最後に裸の婦人像、《逆光の中の裸体》を挙げておこう。私はとくに裸婦マニア、ヌード好きというわけではない(と本人は信じている)が、この絵の質量感、存在感に圧倒された。淡く、じつにごく淡く描かれながらの存在感(重量感)に驚いたのである。婦人の裸体像として美しいのかどうかは私の審級では判断できないが、画家はこういう風に〈現存在〉を語れるのだということを羨ましくも妬ましくも思ってしまうのである。

 

[1] 『印象派を超えて 点描の画家たち』(以下、図録)(東京新聞、NHK,NHKプロモーション、2013年)。
[2] 『セガンティーニ ―アルプスの牧歌と幻想―』(神戸新聞社、1978年) T. 14。
[3] 『ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情』(日本経済新聞社、2008年) p. 153。