かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【書評】『水苑 高野公彦歌集』(砂子屋書房、2000年)

2013年03月29日 | 読書

              

 

ワインを飲み焼鳥を食ひ 遠からず我と別れむ教へ子ばかり (p. 312)

 高野公彦の短歌は安心して受容できるようだ。おそらく、私(たち)が立っている地平とほとんど同じ地平に立っていて、そこから文学的な高み(視座)へ誘ってくれるからであろう。冒頭に掲げた歌も、職業のすべての時間を大学で過ごした私にとって、少しは苦笑もし、少しは切ない気分を思い出させるのである。
 ワインと焼鳥という組み合わせは学生ならではあるけれども、私は酒を一緒に飲みながら遠からずやってくるであろう別れそのものを自覚的(感傷的)にはあまり思っていなかった。それなのにこの歌によって、この私にもあの何十回もの学生との別れの前にはこのような感覚に襲われていたのだ、と思えてしまうのだ。いわば、あまりにも自然な感傷なので時間を超えて再生(再創造)するらしいのだ。

 この歌集の「あとがき」に、「平成七年から平成十年までの作品の中から五五〇首を選び、この集を編んだ。『天泣』につづく第九歌集である。題名の《水苑》は「すいゑん」と読む」 [p. 341] とある。
 平成7年といえば、1月17日の「阪神・淡路大震災」があった年である。

巨鳥のつばさが空をおほふかと思ふまで寒し神戸燃ゆる (p. 30)

徹夜明けの五時ラーメンを煮て食へり神戸くづれてなほ燃ゆるころ (p. 31)

 私の平成7年1月17日は、関西で大きな地震があったという一報を聞いてから、朝6時頃に車で家を出ることで始まった。つくばで開かれる研究会に出席するためである。院生も含めほぼ研究室の全員が車に乗り合わせて高速を走った。途中のサーヴィスエリアで地震のニュースを見るのだが、ほとんど情報が届かないのだった。研究会には関西からの出席者もいたのだが、連絡がつかないまま変則的に研究会は終ったのだった。

 阪神・淡路大震災には大きなショックを受けたのは事実だが、仙台に住む私は二年前の〈3・11〉によって、阪神・淡路大震災でどんなにショックを受けたにせよ他山の石にもなっていなかったのだとしみじみ思い知らされることになる。
 東北地方太平洋地震による〈3・11〉東日本大震災は、地震による被害、津波による被害、そして東京電力福島第1発電所の炉心溶融にいたる大事故の三重苦をもたらす。地震と津波は、それがどんなに甚大な被害であっても地球上で生きようとする人類が避け得ないものである。
 しかし、原発事故は、知性ある人類であれば避けられたものだ。経済的発展を目指すということが反知性的な側面を持つことの象徴的な事例だろう。大学院修士課程まで「原子力工学」を学び、ある絶望をもって「物理学」に転じた私は、学び収めたことが何の役にも立たず、呆然と事態を見ているだけだったことにあらためて絶望しているのだ。

 歌人は、原発事故を予感しているかのように、不安感を滲ませながら原発を詠うのである。

わだつみのいろこの宮にほとりして原発はあり人居らぬ白 (p. 18)

とびとびに原発のある豊葦原瑞穂国よ吃水ふかし (p. 19)

人体にピアス増えゆくさまに似て列島に在る原発幾つ (p. 166)

桔梗(きちかう)の花のつゆけき秋の日も遠方(をちかた)に焦げくさき原発 (p. 168)

花のなき花瓶のなかのくらやみに蚊の声こもる久保山愛吉忌 (p. 179)

原子炉にとほくつながる電線が街路樹の葉のそばを走れり (p. 250)

 多くの人々が抱いていた「原発」が存在することへの「故知らぬ不安」こそ、正しく未来を予感するものであった。ただし、原子力工学を学んだ私の不安は故知らぬものではない。根拠のある不安であり続けたが、それを社会化することには力がなかったのだ。

 大震災や原発事故に思い至るような歌にばかり目がいってしまうのだが、私の日常の感覚、話題に繫がっていて共感できる歌も多いのである。
 たとえば、私は犬が好きで「イオ」という牝の老犬を飼っている。そういう犬好きの心を次のような歌が打つ。

路地多き浦安ゆけばふるさとの犬の顔した犬歩みくる (p. 29)

犬居らぬ奥まで照らし犬小屋を一伽藍とす秋の夕日は (p. 162)

 路地の犬に「ふるさと」を見る目、犬の不在を存在論的に見る目に惹かれる。

「役人が日本の川を殺してゆく」川下り人野田知佑言へり (p. 26)

 仙台の市街を流れる広瀬川の河畔に住まう私は、ヤマメ釣りとアユ釣りを趣味としてしょっちゅう川に入っている。長良川河口堰建設に反対する野田知佑の共鳴していた。何よりも野田知佑の文章、語り口が好きで彼の本はかなり読んでいた。

 あるいは、老いた私は両親も二人の兄も喪っている。年を経たものは、当然のことながら喪失の時を否応なく迎える。

鏡張り試着室にて喪服着る もうすぐ来べき父の喪のため (p. 259)

戻り来て喪服しまへばふるさとは遠し父亡きことさへ遠し (p. 266)

 これはもう書評などではない。高野公彦の短歌にかこつけたただの思い出話である。高野公彦の短歌を選んで並べただけでそうなってしまう。しかし、それは高野公彦の短歌の価値である。このように我が身に引きつけて受容する短歌が多くて、しかもその文学的審級は私の感覚をすくい取ってくれるように働いている。

 個人的な事柄に結びつけて短歌を選ばなくても、優れている歌は多い。いや、秀歌だとかそうでないとかというつもりも資格もないが、次のような歌がとても好きである。

家ごもり心は街をさまよひぬ牛蒡の煮ゆる甘き香の中 (p. 16)

傷のある木の幹立てりゆつくりと傷を閉ぢゆくひかりと時間 (p. 20)

衰老の我を思ひてそののちの無をこそ思へ椿に小雪 (p. 54)

影もちて街谷(がいこく)とベり蝶といふ白い小さな二曲屛風よ (p. 95)

ポケットの中の荒野に手を入れて冬の青山通りに立てり (p. 123)

たましひの四方のとびら開け放ち春の驟雨をゆつくり歩む (p. 246)

 しかし、歌人は次のようにも詠い、このような文章を書いている人間を刺すのである。

 誤解もて歌褒められて砂少し入りたる靴で歩む心地す (p. 162)


【書評】 『フィニ(現代美術第8巻)』(講談社、1993年)

2013年03月25日 | 読書

          

フィニーの絵のそこで
姉の筆端がふいに降り
有毒なイエローをたっぷりと付けたのだ
羽毛の仮面を被り
黒猫を抱きながら同性愛を語る
年齢不詳のこの女流画家は
姉の憧れだったから
夜空から急襲された
………
だから
あなたの道を念入りに避け
暗色の重い衣をつけ
良き書と良き戒めに
添うように生きてきたわけだ
つまり地上を這う者となり果てている
フィ二ーの黒い画集はレモンと一緒に
冷蔵庫におしこめたが
いつ取りだしても
画面の女たちは目覚めて動くだろう
              河津聖恵「姉の筆端」部分 [1]

 『河津聖恵詩集』を読んでいたら、フィニー(フィニ、Leonor Fini)の名前を見つけた。フィニの絵の実物は見たことがないが、画集は以前に仙台市立図書館から借りて見たことがあったのだが、河津聖恵の詩に触発されて、もう1度フィニの絵を見たいと思いたったのである。

 レオノール・フィニという画家をまったく知らなかった頃、フィニの絵が好きだという女性がいて、それから長い年月を経て、市立図書館で画集の棚の前でそのことを思い出した。そんなふうにして借り出して眺めたというのが、私の最初にしてすべてのフィニ経験である。そのときの印象を正直に言えば、「想像過多な女性性」は私の受容能力を超えた向こう側にあるようだ、というようなものだった。

 あらためて画集を開いてみると、いくつかの作品でその「想像過多」はいわば豊かな幻想性ということでもあって、思わず知らず惹かれているのである。

          
          
《世界の果て》 1949年、画布・油彩、35.025.0cm、個人蔵 [図版1]。

 《世界の果て》は、画集の一番はじめに掲載されている。坂上桂子の作品解説 [p.93] によれば、「生命の死を思わせる沼」の中にいるのは紛れもなくフィニ自身であり、腐敗と死の世界が描かれていると言う。しかし、腐臭(死臭)に満ちた沼はまた再生の場でもある、とも言う。たしかに意志に満ちた女性の表情は、再生の世界へと突き抜けていこうとする決意に満ちていると解釈できるのかもしれない。しかし、女性であるから「生」を産みだすなどと安易な女性性をフィニに見ることは(たぶん)できない。私にはどうしてもフィニは少なくともジェンダーとしての女性性を拒否しているようにしか見えないのだから。

 幻想的な絵としては、《夜の水飲み場》 [図版13] という絵もあって、水飲み場というよりも沐浴場であるような水場に上半身を浮かべる裸の女性たちがいて、みな目を瞑っている。それはある種の快楽のけだるさに浸っているように見えるし、中の一人は死の瞬間のストップモーションのような表情を浮かべている。水面には花々が浮かんでいるようであり、空中にも闇の中から花々が析出してきているのではないかと思えるような幻想的な色彩が浮かび上がる。輪郭を曖昧にした描法で、幻想性が極めて高い。良い絵である。

 幻想性という点からいえば、《ゾルニガ》と《エオラ》という作品もきわめて特徴的な作品である。

          
            左:《ゾルニガ》 1959年、画布・油彩、80.0×25.0cm、個人蔵 [図版16]。
            右:《エオラ》 1959年、画布・油彩、80.0×25.0cm、個人蔵 [図版15]。

 ゾルニガもエオラも私にはまったく未知の固有名詞(たぶん)だが、この二枚の絵は紛れもなく人物画である。色調はきわめて魅力的、つまり絵画として限定的に見る限り、美しいということに何の異存もないのだが、人間の身体をここまで変容させうることの不思議にうたれる。この絵を見ていると、人間身体を画家はどのような構造としてとらえているのか、そもそも構造や器官としてとらえているのか、という疑問にとらえられる。たとえば、ピカソが人間の身体をきわめて構造的にとらえ得たことと考え合わせれば、この人間身体の変容はフィニ固有のものと言うしかない。

 《ゾルニガ》と《エオラ》を見ていて、アール・ブリュットの絵を思い出した。

          
            
左:エヴァ・ドゥロポヴァ(Eva Droppova, 1893-1950, Brazil) 
              《無題》、フェルトペン、色鉛筆、紙、45×17cm、1992年。 [2]
            右:ジャンヌ・トリピエ(Jeanne Tripier, 1869-1944, France) 
              《無題》、絹刺繍、布、40.5×9.5cm。 [3]

 上の絵は、女性作家であることやそれぞれの部分が有機的な柔らかさと広がりで連続している特徴から小出由紀子によって「女たちの有機形態」というカテゴリーに分類された作品である。これもまた人間の身体、特定されない(あるいは画家自身)人物の像である。これらの絵もまた、私の想像力を遙かに超えていて、驚かされるのである。

 アール・ブリュットの絵は、いわば私たちのような凡庸な人間が思い描くような人物身体の構造や機能の脱構築の結果としてあるのだと思う。心的作業としての器官や構造の解体ないしは機能の無化を通じて描かれているとしか思えないのである。それこそ「生の芸術」における表象の素過程はそういうものではなかろうか。
 一方、フィニの身体像における心的作業は、メタモルフォーゼである。あくまでもおのれの美意識を意識的に駆使して身体の変容を試みているのだと思う。フィニの画業から窺われることは、フィニはセックスとしての女性とセクシュアリティにおける女性(それがヘテロであろうとホモであろうと)というものを受容していながらジェンダーとしての女性を拒否しているように見える。
 《ゾルニガ》と《エオラ》における変容は、女性身体の美しさをセクシュアリティとしての女性性の果てへ向かわせる作業としてあるのだと思える。だからこそ、私などの想像力の域をどこかで超えてしまっているのだと感じるのだ、きっと。

   
       左:《錠》 1965年、画布・油彩、116.0×81.0cm、個人蔵 [図版20]。
       右:《ヘリオドラ》 1964年、画布・油彩、116.0×81.0cm、個人蔵 [図版19]。

 《錠》や《ヘリオドラ》のように女性の身体を様式的に描く場合もある。意匠化された構図は、ロートレックのポスター画にもあったように思う(ウイーンのレオポルド美術館(Lepold Museum)で3階分のフロアーびっしりのロートレックのポスター展を見たことがあるが、さすがにうんざりしてしまって、量的過大さとは逆にどうにも記憶が希薄になってしまったのだが)。また、ミュシャ(ムハ)ほど装飾性はないが、モティーフはよく似ている。ただし、ロートレックやミュシャとは女性身体の印象がまったく異なる。有り体に言えば、ロートレックとミュシャの女性身体は、男性である私にとってきわめてわかりやすい表現であるのに対して、フィニのそれは私の見知らぬ女性性の余剰を隠している、そんな印象を強く受ける。

 さて、冒頭の河津聖恵の詩にもあるように無類の猫好きとしてのフィニの絵もピックアップしておこう。

       
         《日曜日の午後》 1980年、画布・油彩、126.0×94.0cm、個人蔵 [図版39]。

 「80歳にならんとする老女流画家」は14匹の猫と暮らしていた、と俳優の中尾彬が画集の中で書いている [p. 69]。世に「猫派」と「犬派」がいるらしいが、フィニは典型的な猫派のようである。といっても、私にはなぜ猫派と犬派とに分類できるのかがよく理解できない。私は人生で三匹目の犬を飼っているが、生涯で最初のペットは小学三年生の頃の猫であった。大人になってからもずっと猫も飼いたかったのだが、妻も義母も猫が嫌いだというので実現していない。いくら聞いても、妻が猫を嫌う理由を私は理解できないままでいるが、押し切るほどの実力もない。私にはどうしても猫と犬を好き嫌いの評価の場に並べうるという論理(感情?)構造がわからないのである。好き嫌いというのは、所詮そういう無惨なものではあるらしい。

 とまれ、《日曜日の午後》である。猫は、フィニの中で美の主題であり続けた女性身体と同等の大きさを与えられている。猫は凛とした姿勢でこちらを向いているが、女たちは思い思いの姿勢で日曜日の午後を猫に寄り添い、猫に癒されながらくつろいでいる。猫好きの世界観ではある。

 河津聖恵の詩に触発されて、フィニの画集を眺めなおした。きっかけを与えてくれた詩人は、「夢」と「旅」の詩人、時として「夢の旅」の詩人であると私は思っている。「世界」を見通すために旅をし、必要とあらば、夢のなかの旅で世界を見に行くのである。そして、それは見る行為自体を自己存在のようにすることであるらしいのだ。

〈みる〉というのは、行為ではなく現象なのだ。わたし
にとってもっとも本質的な気象なのだ。わたしは淡々し
い裸体。夜へとむかう雲。または灰の欲望。なにものこ
したくなどない。くずれてみよう、もっとくずれてみよ
う。
                  河津聖恵 「Front」部分 [4]

それがわかるのは
わたしが"よこたわる人"だからだ
                  河津聖恵 「シークレット・ガーデン」部分 [5]

 「見る人」と「横たわる人」、まるでそのままを絵にしたようなフィニの絵がある。《彼女は遠くを見つめる》である。

 
  
《彼女は遠くを見つめる》 1989年、画布・油彩、81.0×116.0cm、個人蔵 [図版49]。

 詩人は世界としての遠景を見ている。当然のことながら、世界を確かなものとして見続ける先には、世界を構成する(融合する、あるいは反抗する)自己へと還帰する視線が生まれてくるにちがいない。
 ジェンダーとしての女性性を拒否していることを象徴するような坊主頭の女性が遠くを見やると、そこにはセクシャリティとしての女性性に祝福されているかのような女性が愛する猫とともに横たわっているではないか。遠くを見つめる人は、横たわる人でもある。そのような絵である。

 ただし、フィニの「遠く」は世界ではない。


[1] 『河津聖恵詩集(現代詩文庫183)』(思潮社、2006年) p. 10-11。

[2] 小出由紀子(編著)『アール・ブリュット パッション・アンド・アクション』 (求龍堂、2008年)p. 83。
[3] 同上、p. 85。
[4] 『河津聖恵詩集(現代詩文庫183)』(思潮社、2006年) p. 72。
[5] 同上、p. 89。


【書評】 『こんなもんじゃ 山崎方代歌集』(株式会社文藝春秋、2003年)

2013年03月23日 | 読書

              

 山崎方代をまた読みたいと思った。種田山頭火や尾崎芳哉とおなじように、山崎方代を読みたいと思うような特別な気分というのがあるようだ。ただし、旅をする山頭火と方代の共通性はあまりないのだが。

 この本の編集部の注釈に「本書は山崎方代の全短歌(昭和七年~昭和六〇年)から四百十三首を、制作年時を問わず任意に選び構成したものです」とある。その構成は、ある程度の共通性を持つ歌をまとめてあるようだ。

茶碗の底に梅干の種二つ並びおるああこれが愛と云うものだ  (p. 4)

寂しくてひとり笑えば卓袱台の上の茶碗が笑い出したり  (p. 5)

手のひらに豆腐をのせていそいそといつもの角を曲りて帰る  (p. 7)

大きな波が寄せてくる 大きな笑いがこみあげてくる  (p. 8)

小屋のふた内からひらき陽を入れて心の底から暖まりおる  (p. 10)

口ひとつきかずにいるといちにちがながいながい煙管のようだ  (p. 14)

 本書は、上記のような類の歌がはじめにまとめられている。どこか尾崎芳哉の俳句に共通するような日常の心境が詠われている。

いつしかついて来た犬と浜辺に居る [1]

のうら洗へば白くなる [2]

わが顔があつた小さい鏡買うてもどる [3] 

夜更けの麦粉が畳にこぼれた [4]

火の気のない火鉢を寝床から見て居る [5]

 仮寓のような住まいに暮らし、社会との関係が希薄な孤愁を常とする人間は「卓袱台の上の茶碗」や「畳にこぼれた麦粉」に存在論的な意味を尋ねるような感覚を獲得するようである。

 方代にはささやかな身辺の事象に信条を仮託する秀句が多いのは確かだが、自己言及型の歌で自分の人生を直截に扱った歌にも考えさせられる歌がたくさんある。『山崎方代全歌集 [6] を読んだときに、「俺」、「吾」、「方代」のような自己呼称を用いた短歌をピックアップしたことがある。年齢とともに次第に「方代」の使用例が多くなるのだった。それは自らのアイデンティティ探しの歌であったろうと思う。

 方代は自らの生れについて詠う。まず、そのような歌を拾い上げてみる。

約束があって生れて来たような気持になって火を吹き起こす (p. 19)

間引きそこねてうまれ来しかば人も呼ぶ死んでも生きても方代である (p. 45)

生れは甲州鶯宿峠(おうしゅくとうげ)に立っているなんじゃもんじゃの股からですよ (p. 84)

このわれが生れ来しために父母はあたふたとあの世にいそぎ給えり (p. 96)

 そして、自らの死をも想定している。

早生れの方代さんがこの次の次に村から死ぬことになる (p. 45)

ふるさとの右左口郷(うばぐちむら)は骨壺のそこにゆられてわがかえる村 (p. 85)

たわむれにながろう勿れ・人問よ・暗い梯子が垂れている (p. 100)

地上より消えゆくときも人は暗き秘密を一つ持つべし (p. 127)

 誕生と死の間、その人生のなかで自己のアイデンティティを「方代」を用いて探すのである。

このわれが山崎方代でもあると云うこの感情をまずあばくべし (p. 42)

夕日の中をへんな男が歩いていった 俗名山崎方代である (p. 43)

青ぐらい野毛横浜の坂道の修羅を下る流転者方代 (p. 44)

しみじみと三月の空ははれあがりもしもし山崎方代ですが (p. 45)

ころがっている石ころのたぐいにて方代は今日道ばたにあり (p. 42)

踏みはずす板きれもなくおめおめと五十の坂をおりて行く (p. 74)

わたくしの六十年の年月を撫でまわしたが何もなかった (p. 74)

 山崎方代のアイデンティティは〈山崎方代〉である、とでも言うようなこのアイデンティティ探しは、しかし、困難な道である。

 私にも似たようなことがあったし、今もある。私は国立大学で物理学を生業として生きてきた。私の周囲には「生涯物理学者」、「生涯××学者」として生きるという先輩、同僚が多かった。それは何も学者に限ったことではない。芸術家などはほとんどそうであろうし、匠と呼ばれる職人、名人たちにしてもそうであるだろう。敬服し、感嘆もする人生である。
 しかし、私自身は、定年で職を辞す頃には、定年と同時に物理学者であることはやめよう、生涯物理学者という生き方ではなく、別の何者かになりたいと強く願うようになっていた。それで、定年と同時に専門書や大量に集積した論文のすべてを処分した。定年の翌日には坊主頭にした。もちろん、坊主頭にしたからといって何も内実が変わるわけではないが、別の何かになるという気分あるいは象徴(多少の決意)ではある。
 別の何者かになる、別の生き方をするなどと言ってはみても、特別に何かをしようとしているわけではない。私は〈物理学者〉というアイデンティティを生きるのではなく、強いて言えば、私は〈私〉というアイデンティティを生きたいと考えていたのである(今でもそうだが)。

 山崎方代のアイデンティティは〈山崎方代〉である、という自己言及型の命題を具現化するのは困難には違いない。〈山崎方代〉を主語とする述語を書かなければならない。不可能な還帰にみえる。しかし、人は本来、そのような不可能性を生きるのではないか。私のシニフィエとしての〈私〉、さらに〈私〉のシニフィエとしての述語を生きる。そのような有りようを自覚してあがいてみよう、ということである。

 だから、方代短歌に登場する「方代さん」そのものが山崎方代の歌業における最大の主題である。そう言っていいのだと思う。

 

[1] 『尾崎芳哉句集(二)』(春陽堂、平成2年) p. 12。
[2]  同上、p. 17。
[3]  同上、p. 20。
[4]  同上、p. 24。
[5]  同上、p. 63。
[6] 『山崎方代全歌集』(不識書院、1995年)。


【書評】 『河津聖恵詩集(現代詩文庫183)』(思潮社、2006年)

2013年03月18日 | 読書

         

 たとえば、この本の感想を語るとすれば、「夢」と「旅」の詩人であるとか、時として「夢の旅」の詩人である、などと始めればよいのだろう。そんなふうに思いながらこの詩集を読み進めていた。
 しかし、それはそれとして、じつはそういう評言とは関係のないイメージが次第に纏わりついてくるのである。少し困惑するような言葉が思い浮かぶ。そのような言葉で評して良いものか、逡巡してしまうのだ。
 それは「セカイ系」という評言である。コミックやアニメ作品のある分野を表していて、『エヴァンゲリオン』以降だと思うが、サブカルの世界でよく使われている(らしい)。私がこの言葉を見知ったのは、たぶん、大塚英司や東浩紀、宇野常寛の評論のどれかであったと思う。

 主人公である少年(たいがい気弱であるらしい)と恋人(らしい)少女という二人だけの小さな関係が、いきなり世界の危機に直面していくというのが基本的なストーリーというのだが、じつは私はこの分野の作品についてはほとんど知識を持たない。上記の評者たちの言から推測するに、その重要な特徴は、世界(宇宙)全体の危機のようなことが語られるが、私たちを取り巻く社会そのものは語られないことにある。
 若年層を対象とするアニメやコミックの分野で七面倒くさい社会領域の事柄を捨象してしまって、宇宙・世界の危機に向き合って闘うというファンタジーにしてしまおうというのはそれなりに商業的には意味があるのだろうと思う。ポストモダンの思想がつとに指摘するように、現在を生きる人々が、すでに現実(社会領域)はシミュラークルとしてしか存在しないと考え、それを受容しているという状況が「セカイ系」の意味を保証しているのかもしれない。

 しかし、「セカイ系」を、世界に直接向き合う自己(自己意識)、世界と自己存在の関係を表現するものと拡大して考えれば、それは芸術表現の基本のひとつであると言ってもいいのではないか。むしろ、とくに絵画や音楽の分野では、社会領域にまつわる諸々を盛り込もうとして俗悪な失敗をしている例は結構多いはずだ。文学においても世界を見通せないことを社会性のような衣でごまかす作品が多いのではないか、とすら私は思っている。

 だからここでは、「セカイ系」について一般的に了解されている意味とは多少違うかもしれないが、積極的な肯定性において使いたいと思う。「セカイ」ではなく「世界」ということである(であれば、「セカイ系」という評言をあえて用いなくてもよいということか)。

 この詩集の最初の詩は、第1詩集である〈姉の筆端〉に収められた「秋のタンポポ」で、「ターナーは雲ばかり描いた/ということにしよう」というフレーズで始まり、次のような詩句が描かれる。

絵はさわるとみんな冷たい
冷たい私のあなうらより
もっと冷たい人や鳥や太陽
私は知っている
私をくるむこの男の頭からも
零時を回れば
しんだ星々がでるのだ
              「秋のタンポポ」部分 (p. 8)

 第1詩集には、ほかにもフィニー、カンディンスキー、ゴッホなどの画家の名前が出てくる。その後の詩集でも、ポール・デルヴォーアンドリュー・ワイエスという画家の名前が出てくる。詩人は、世界を風景として(絵画的要素を大切にして)描くことを心定めて詩の世界に踏み込んだのではなかろうか。そのような印象を持ったのである。そして、当然のように、世界の風景を辿るために「旅」を必要としたのではなかろうか。あるいはまた、世界を見る自在性を獲得するために「夢の旅」に踏み入ったのだと考えてよいのではないかと思う。

 まずは、いくつか「世界・宇宙」を拾い上げてみよう。

やがて、まちの夜の織く抽象的な指(冷た
いネオン製の)がしめるしぐさで近づき、こわばり、う
なだれ、そこに摑むあらゆるものを落とし、(しんだ蝗、
蟻、えのころ草、星の唾液)最後のものを味わう私は、
夢の湿気を含みおおきくなる掌につつまれて眠り、歴史
から官能的にはじかれて、夢のさらに奥へ。
                       「吐息」部分 (p. 21-2)

某月某日バグダッド 死者は数百
魚がいつのまにか水をおのずから光らせて消えるように
小さな真珠の泡のざわめく空白にみたされ
私たちはふたたび 仄白い人のすがたで地上のザラメをかんじとる
世界はのこされたのに 世界そのものであった
数百の味わうオレンジの味が消えた
ひとりの深い夢のバス停で泣いていた光るほど黄色いシャツの
どんないきものでもある私が消えた
                       「grazia…」部分 (p. 100)

三月は夢の瑪瑙の中を人と歩きだす
私だけが記憶することなく憶えていた
世界から忘れられた小さな人
もしかしたら人というもののもっとも美しい破片だろうか
この世界に人というものが失せたとしても
小さくいとおしいとだけわかる他者が
誰にも残されているのだろう
                       「瑪瑙の人」部分 (p. 101-2)

あるいは 果てとは世界の美しい合わせ目で
喪われたもののために
幻の雪を降らせつづけるのだろう
水銀灯 約束の場所 国境 頁の凍った詩集
真綿に包まれてゆく世界の小道具
死者はない
宇宙の風に吹かれる前髪から溶けて
かれらこそがこの白さの濃度をあげるのだから
やがて、吹きあげるようにさえして
                       「schneeblind」部分 (p. 108-9)

 けっして世界の風景を絵画のように叙述しようとしているわけではないが、かといって世界の風景に主情を重ねて色づけているようには感じられない。確かにその世界に「私」は関わっているのだが、もっぱら「見ること」に専念する存在としてそこにいるように思われるのだ。

わたしは眠っている。
…………
雨は夜のガラスの上で吃り
柔らかいかぎざきをつくり
すべての色をあつめ
一つ一つが美しい曲線の終わり
一つ一つがわたしを渴かせる終わり
それを見ている。
眠っているはずの目が見ている。
夢のなかへ「見ること」はつづいてゆく。
「見ること」がすべてで
(いつだって、すべてで)
…………
                   「夏の終わり 9」部分 (p. 58)

〈みる〉というのは、行為ではなく現象なのだ。わたし
にとってもっとも本質的な気象なのだ。わたしは淡々し
い裸体。夜へとむかう雲。または灰の欲望。なにものこ
したくなどない。くずれてみよう、もっとくずれてみよ
う。
                   「Front」部分 (p. 72)

それがわかるのは
わたしが"よこたわる人"だからだ
                   「シークレット・ガーデン」部分 (p. 89)

わたしはみているのだろうか
それともみえないというかなしみなのか
みたいというよろこびか
空にむかいときおり不思議な穴のようになる視野
かすかに藻のようにうごく
心のうごめきの感触だけがわかる
                   「今わたしはなにかをわすれてゆく」部分 (p. 91-2)

 必要であれば横たわり、時には眠ることによって世界を見るのだ。世界に働きかけるのではない。働きかけることができるのは世界ではない。「セカイ系」が捨象した社会領域ならば働きかけることもできるだろうが、世界の実景は見ることによってしか立ち現れない。

 世界を見るひとつの確実な方法は、「旅」に出ることである。もちろん、「夢の旅」であってもかまわない。したがって、当然のように旅に関わる詩が多く収録されている。

ガス灯の淡いひかりが夢のタブレットの
ようにまつわる髮と瞳から、おまえにひそむ甘美な眠り
の匂いを嗅ぎあてて(あの匂いは裸体そのものにひそん
でいたものだ)、男たちが後を追うこともあったが(デル
ボーの絵画のような、裸で階段をのぼる青い闇の中の夜
光の背中をわたしも追っていた。おまえの夢、おまえの
異国の中で)、奇妙なことにおまえのもとへいたる階段や
踊り場は追跡者にとっては生きるもので、枯れたキンポ
ウゲやヒナギクの花冠を落としたり、光に照らされる白
い雨をふらせてみたり、ときには終着駅か始発駅か黄色
いバターのような窓の機関車を止まらせたりして、かれ
らの意図をまるで思い出のような赤や青の明滅に変えて
ゆくのだった。
                      「花火の部屋」部分 (p. 39-40)

通過する駅という駅に
緑の蔦の火花をふきあげる切符。
であわなかつたおおぜいがわたしたちに負けたとしんじ
踏み去っていったのだから
わたしたちはわたしたちにもあらず、ふたたび。
(あれはひかりの千ピース)
(夏だ
 夏のふしぎなせんそうは終わらない)
                      「ひかりあれ、」部分 (p. 45)

高速で高架を通過する(白く泡立つ駅名、)
中世の法服に似た踝まで長い衣服を着た女たちが
夢のように半透明に立っているプラットホ—ム
デルボーの女たちのように大きな魚の目
どんな懲罰に耐えているのか、あるいはどんな快楽に?
                    「アリア、この夜の裸体のために」部分 (p. 68)

駅はカテドラル。みあげれば高い穹窿状の天井の闇か
ら、またアナウンスのこだまは意味を失った透明な雪と
なって返ってくる。言葉の塵たちがふうわりとふりだし
ら、またアナウンスのこだまは意味を失った透明な雪と
なって返ってくる。言葉の塵たちがふうわりとふりだし
た。静かな恩寵ともききまごう、異国の言葉の残響。そ
れを吸われるようにしてあびていると、会いたかった人
たちが名も顔もなく思いだされてくる。行き先や出発時
刻や番線をつげているはずのアナウンスの、意味や発音
から揺らめいて抜けでてゆく陰影は、たましいのように
なつかしい。
                       「駅はカテドラル」部分 (p. 76)

 これらの詩編に二度も登場するデルヴォー(デルボー)の絵を重ね合わせると、詩人が見ているもの、見ようとしているものが少し理解できるのではないか。

 
ポール・デルヴォー 《トンネル》 1978年、油彩・カンバス、150×250cm、ポール・デルヴォー財団 [1]

 たとえば、《トンネル》 というデルヴォーの絵を「駅はカテドラル」に重ねてみよう。デルヴォー自身が、「……観賞に堪える作品にするために必要なことが数多くあります。詩的性質の強さに応じた色づかいであること、主題が具体的であること、文学的(時に陥ってしまう恐ろしい危険です)でないこと、そして全体が建築的に構成されていること、すなわち、全ての要素が調和的な相互関係を保っていることです」 [2] と述べているように、文学性(社会領域における物語性)を拒否して、美の世界はそれ自体として描かれなければならない。
 《トンネル》 の女性たちは生活や社会状況に繫がるような表情や感情を顕わさず、ひたすら美術空間(世界)を構成する美的事物のようですらある。それは詩人が世界をそれ自体として見つめることと同義であろう。

 詩は主情的(叙情的)であることによって、受容されやすさを獲得することがある。私もまた叙情性豊かな詩を好むが、叙情性を時として安易な感情移入を呼び込もうとする通俗的でチープな感傷と取り違えている詩が多いことも確かだ。
 だからこそ、この詩集の詩人のように、世界を見つめることに専念するということは、きっと詩を書くという行いのきわめて正しいベースではないかと思う。

 そうであればこそ、言葉によって切り取られた風景の中に浮かび上がる「二人」がごく自然に、感傷的ではない美しさと勁さで語られるのだと思う。

デッキの手すりに凭れ
一人は横顔をふかく外の方へ翳らせている
みえないそここそが本当の夜であるのだろう
藻類の姿のまま言葉が生まれては消えている場処
心と呼ぶのも違う
そこでいつか名づけられない者として出逢うところ
二人とは
一人の心のない夜が器のように一人の心を呼ぶことだ
手と手はひとつの淡いものにつつまれて乗った
ふれることにだけ欲望というもののないことをしった
湾岸の光のエッジは
いまだふれえないくちびるのふるえをふるえている
(あそこで眠っていた、眠っている、眠るだろう)
ランドマークタワーの灯を水の中の砂糖のようにみつめている目
                       「夜が夜を憶えているように」部分 (p. 81-2)

 

[1] 『ポール・デルヴォー展 ―夢をめぐる旅―』(図録)(「ポール・デルヴォー展 -夢をめぐる旅-」実行委員会、2012年) p. 60。
[2] 「ポール・デルヴォーの言葉「作品が生まれるまで」」、同上、p. 9。


【書評】ミシェル・フーコー、北山晴一、山本哲士『フーコーの〈全体的なものと個的なもの〉』

2013年03月12日 | 読書



ミシェル・フーコー、北山晴一、山本哲士
『フーコーの〈全体的なものと個的なもの〉』
(三交社、1993年)

 

 こうしたことは誰もが知っているありふれた事実です。しかし、ありふれた事実は、ありふれているからといって存在しなくなるわけではありません。ありふれた事実を前にしても、そうした事実にかかわる特有の問題や、もしかしたら独創的でさえあるかもしれない問題が発見できるのか否か、あるいは発見しようと試みるのか否か、その差はわれわれの側に属しているのです。 (p. 11)

 本書は、1979年にミシェル・フーコーがスタンフォード大学で行った講演『全体的なものと個的なもの――政治的理性批判に向けて』を北山晴一が訳出した本文と、『フーコーの権力論をめぐって』という北山晴一と山本哲士の討議、北山晴一による訳者解説としての『ディシプリンから真理へ』という論考の三部から成っている。フーコーの仕事の概観から、当該講演の解説、フーコーの権力論に主眼を置いた討議などを加えた本書の構成は、理解しやすさという点において、私などにとっては少なからず役立つ仕組みになっている。

 フーコーは「ヨーロッパ社会では政治権力の形態は時を追うごとに集権化にむけて推移した」 (p. 13) が、一方でまったく逆に「個人を対象としながらしかもその個人を継続的、恒常的に支配するための政治技術が発展した」 (p. 14) として、その個々の人間に向かう政治権力を〈牧人権力〉と呼び、二回の講演の1回目を〈牧人権力〉の系譜学的論述に当てている。

 集権化の客体であるとともに,主体でもあるそのような権力の政治的形態が国家であるとするなら、個別化を行うものとしての権力はこれを牧人権力と呼ぼうと思っています。 (p. 14)

牧人的権力とは、群れのそれぞれの構成員に対する個別的な配慮を前提としているわけです。 (p. 21)

 エジプトのファラオ(ファラオン)は「羊飼い」であり、バビロンの君主も「人々の羊飼い」の称号を持っていたが、神だけが人々の羊飼いであるとするヘブライ人が「牧人のテーマを発展させ増幅させた」 (p. 16) とする。
 牧人権力はオリエントを始原とするが、ギリシアにおいてプラトンが牧人権力に言及していることが紹介される。かつて人間の群れは牧人神人に率いられていたが、神々は人々の羊飼いであることをやめる。そうして人間は自らに責任を持たなければならなくなり、政治家が人々を結び合せて共同体に集め入れ、シテのためにすばらしい布地を織り上げる役割を果たすようになる。

起源はもともとオリエントのものであったとしても、やはりプラトンの時代には識論の対象になるくらい十分重要なテ—マとなっていたことを示しているように思われます。ただし、それはそうした考え方に疑義を提出するためだったということも記憶しておくべきでしよう。 (p. 31-2)

 オリエントからの〈牧人権力〉、ギリシャからの〈シテ〉を維持する中央政治権力は、ともに相まってヨーロッパ社会の権力を構成することになるのだが、キリスト教はきわめて重要な役割を果たすことになる。

これらの問題は、西欧の歴史の全体を覆っているものであり、現代社会にとっていまなお最高度に重要な問題なのです。それらは、国家の統一性の法的枠組みとして機能している政治権力と、他方の、「牧人的」と呼ぶことのできる権力、すなわちすべての個々人の生命に四六時中こころを配り、彼らに助けを与え彼らの境遇を改良することを役割とする権力との間の関係にかかわっていることなのです (p. 33)

 キリスト教的牧人は、ギリシア人もへブライ人も考えつかなかったひとつのゲームを導入したのだといってよいでしょう。生と死、真理、従属、個人、アイデンティティーを要素とする奇妙なゲームです。市民の献身を介して生き残るシテのゲームとは何の関係も無いように見えるゲームです。これら二つのゲ—ム――シテとその市民のゲームおよび羊飼いと群れのゲ—ム――の両方をわれわれが近代国家と呼んでいるものの中で巧みに結合させることによって、まさしくわれわれの社会は悪魔的な社会となってしまったのです (p. 41-2)

 牧人権力の系譜学的考察の第一講を踏まえて、第二講では近代国家における「国家権力の行使の際に動員される〔政治的〕合理性の形態」 (p. 48) について論じるが、そこでは「国家理性」と「ポリス」という概念を、マキアヴェリ、テュルケ、ドゥラマール、フォン・ユスティなどの論考を系譜学的に取り上げている。

 要約していえば、国家理性とは神や自然あるいは人間の法に従って統治を行う技法のことではありませんでした。この統治法は世界の一般的秩序の尊重など必要としてはいなかったのです。国力に従って統治することが大事だったのです。それは、こうした国力を拡張的かつ競争的な枠組みの中で強化していくことを目的とするような統治の形態を意味していたわけです。 (p. 57)

ポリスの十一の対象に関する彼〔ドゥラマール〕のコメントの内容をここで見てみましょう。まず、ポリスは宗教に注意を払うとされていますが、しかし、それはもちろん教義上の真理性を問題にするわけではなく、人生の道徳面での質を問題にするためです。健康と食糧供給に気を配ることによって、ポリスは生を保護するように努めます。商業、作業場、労働者、貧民および公の秩序に関する分野では、ポリスは生活の快適面について気を配ります。演劇や文学、見世物を管轄するときのポリスの対象は、人生の喜びそのものです。一言でいえば、人々の生活こそがポリスの対象であり、そこには不可欠と有益と余裕が含まれています。人間が生存し、生活し、さらによりよく生きるのを可能にするのが、ポリスの役割だというわけです。 (p. 65-6)

フォン・ユスティは、一八世紀になると次第に重要さを増すことになるあるひとつの概念――すなわち住民について、ドゥラマールと比べればはるかに詳しく述べているからです。住民とは、生きた個人のグループだと定義されています。また、その特徴は、同じ種に属し隣接して暮らすすべての個人の特徴だとされています。(ですから、住民はその特徴を出生率や死亡率にあらわされるし、疫病や人口過密現象の犠牲にもなります。また、領土区分のある種のタイプを示すことにもなります。) ポリスの対象を定義するためドゥラマールもたしかに「生活」という用語を使ってはいました。しかし、彼はそれについてあまり深く言及していませんでした。ところが一八紀においては、とくにドイツでは、この住民なるもの――すなわち、ある一定の地域で生活する個人のグループ――がポリスの対象だと定義されたのです (p. 70)

 権力は実体ではないし、それは個人間に存在する関係タイプである、とフーコーは述べる。「それはある特定の人々が、程度の差はあれ他の人々の行動の一切……を決定できることである」 (p. 72-3) ことが権力の弁別特徴だとして、それはけっして暴力的、強制的ではなく、いわば政治的合理性を帯びているのである。そして、その政治的合理性こそが「悪魔的な社会」を織り上げているそのものなのである。

 複数の人間の間の関係では、いくつもの要因が権力を規定している。ところがやはり、ここでも合理化への動きはたえず進んでおり、しかも特有の形態をおびている。それは、経済的プロセスとか生産・コミュニケーシヨン技術とかに固有の合理化とは異なっている。それはまた科学的言説の合理化とも異なっている。人間の人間による統治は――その人間たちのグループが卑しかろうと高貴だろうと、あるいは女に対する男の権力とか、子供に対する人人の権力、ある階級に対する別の階級の権力、さらには住民に対する官僚の権力であろうとも――それはあるかたちの合理性を前提としており、手段として暴力を前提としているわけではない。 (p. 73-4)

 政治的合理性は西欧社会の歴史の中で発展し確立されたものである。それはまず牧人権力の理念の中で定着し、次いで国家理性という理念の中でも定着した。個別化と全体化は、その避けることのできない結果である。解放は、この二つの結果のいづれかを攻撃したところでやってくるものではなく、政治的合理性の起源そのものを攻撃しないかぎりやってこないであろう。 (p. 75)

 フーコーの講演を受けて山本哲士と役者の北山晴一の二人が「フーコーの権力論をめぐって」というタイトルで討議を行っている。フーコーの権力論をめぐる興味深い議論が進められているが、なかでも山本がプラクシスに対してプラチックの重要性を強調している展が目を引いた。

山本――フーコーの哲学ないし思想とは、実存主義のプラクシスな自己・自我とちがって、「わたし」の存在プラチックを自由プラチックとして探りあてるものだといえます。そのためにフーコーは、禁止されることと許容されることとの境界画定に働いている、肯定的なパワーを「ディスクール的プラチック」と「社会プラチック」との相互関係領域に見いだしていき、「人間という主体」をつくりだす制約世界をとらえていったのです。
 この問題領域は、もはや自由・対・制約(強制)といった対立図式では考えられえないプラチックな領域をとりあげています。そして、この制約条件ないし制約状況のもとでの男女の存在は、実際には、簡単なことがらではありません。ここを、きょうはフーコー権力論のもつ意味と限界として議論していければと思います (p. 81)

山本――ひとことでいいますと、認識論的なヨーロッパの形而上学へ収斂していった哲学に対抗するかたちで、フーコーが考えようとしていた究極的な到達点は、自己認識ではなく、「自己の自己にたいするプラチック」、存在論だったのではないか。そしてその存在論を考えようとしたときに、批判否定的にではなくて、あくまでも批判肯定的に背負いこむ姿勢として哲学的に貫いて、社会認識を問題にしなかつたという感じがするのです。それはプラクシスをひきこんだサルトルの実存主義とまったく異質の〈個の存在論〉であり、構造主義という全体化=構造化の非—主体のイデォロギ-を批判媒介にしてつくりだされてきた。 (p. 106)

 プラチックを称揚する山本に対して、北山は幾分かの保留を見せるが、私もまた、どちらかと言えばプラクシスを重要と考えてばかりいたので、山本のように熱情的にプラチックを語ることに逡巡を覚えないわけではない。ただし、ここでの議論は私の逡巡を超えるほどに興味深いし、また、それはフーコーの淡々とした系譜学的アプローチや思考が実際には強靱でタフな思念であることとも見合ってもいるようである。

 最後に訳者である北山晴一の丁寧な解説が付されている。背景としてのフーコーの『監獄の誕生――監視と処罰』の解説から始まる本稿は、本書の『全体的なものと個的なもの』の逐次的で精細を極める解説でありながら、いわばフーコー権力論の入門書のような趣がある。私のようにフーコーを読みながらフーコーになかなか近づけない読者にとってはこのような解説が付されているのはありがたい。


『ポール・デルヴォー展 ―夢をめぐる旅―』 埼玉県立近代美術館

2013年03月09日 | 展覧会

 ポール・デルヴォーの絵を見ていると、ある種の懐かしさのような感覚が生じる。かつての私にきちんとしたデルヴォー体験のようなものがあったということではない。デルヴォーやそれに類似した表現群を「モダニズム」、もう少し限定的に言えば「アーバン・モダニズム」として眺めていたような気がする。もちろん、デルヴォーの絵がモダニズムに属するとか、アーバン・モダニズムであるとか具体的に考えていたわけではない。だいたい、「アーバン・モダニズム」というカテゴリーがあるのかどうかさえ分からない。私の造語である。東北の農村、田舎で生まれ育った私にとって、かつて「アーバン・モダニズム」と括りたくなるような世界が確かにあったと思うのだ。それは珍しくも新鮮であったが、どこか無縁な遠い世界のことでもあった。
 デルヴォーの絵を見て感じる懐かしさというのは、かつて私が「アーバン・モダニズム」と勝手に思い込んでいた自分の感覚への懐旧であるようだ。

 かつてとても新鮮で珍しく思いつつも、ある距離を感じていた絵はたぶん《トンネル》のような絵であったろう。女性は確かに美しい。しかし、その女性たちは動きも表情も乏しく、ひたすら美術空間を構成するために捧げられた美的事物のようですらある。そこには日常の私たちが抱いているような湿った感情というものがない。「あぁ、これがモダニスムというものだ」と若い私は思い込んでいたに違いない。
 デルヴォー自身がこう述べている。

……観賞に堪える作品にするために必要なことが数多くありますに詩的性質の強さに応じた色づかいであること、主題が具体的であること、文学的(時に陥ってしまう恐ろしい危険です)でないこと、そして全体が建築的に構成されていること、すなわち、全ての要素が調和的な相互関係を保っていることです。 [1]


     《トンネル》 1978年、油彩・カンバス、150×250cm、ポール・デルヴォー財団 [2]

 ここで言う文学的とは物語性が強いという意味であろう。《トンネル》が「建築的であること、文学的でないこと」は確かである。物語が美術にとって不要だとか、無用だとかいうわけではないだろう。物語性で空間や造形の美しさを補助してしまう(美の追究を疎かにしてしまう)俗物主義を嫌っているのだ。

  
        《夜明け》 1944年、油彩・カンバス、80×100cm、個人蔵 [3]

 《トンネル》から30年以上も前に、デルヴォーは《トンネル》に繫がる表現を示している。例えば《夜明け》である。ここにあるのはギリシャの建築物や彫刻や神話の世界である。神話といってもその物語性ではなく、デルヴォー的に言えば神話の強い詩的性質の表現と言うことになるだろう。ヨーロッパの文学であれ、美術であれ、哲学であれ、ギリシャへの強い回帰が表明されると、ある戸惑いと距離を感じてしまうことが多くなる。ヨーロッパ人のように生まれ落ちた風土の空気のようにギリシャ文化を我が身に包含していくというのは、私にはあり得ないからである。若い自分にはその遠さ、わからなさに苛立っていたが、いまは諦めることができるようになった。「わからなさ」を「わからなさ」で受容しようというわけである。
 そう思って見直せば、《夜明け》でも《トンネル》でも塑像のような女性の美しさが際立ってくるようだ。

  
    《森の小径》 1921年、油彩・カンバス、120×100cm、ポール・デルヴォー財団 [4]

 デルヴォーの画業そのものを「アーバン・モダニズム」などと勝手な言葉で括ることができないのは当然である。むしろ、どのような括りも難しいほどにデルヴォーの絵は変容するのである。
 例えば、24才の頃に描いた《森の小径》は印象明瞭な「印象派」とでも呼びたくなる。晩夏や初秋、空気が澄みわたる季節に森を歩くと、強い日差しの木漏れ陽は、地面や木の幹でそれ自体が発光しているのではないか思うほど輝いていることがある。残雪の山から下ってきてそのような林を歩いていると、木漏れ陽は雪と見まがうようですらある。
 山や森が好きな私にとってはとても印象的な作品である。木漏れ陽を《森の小径》のように描いた絵は珍しいのではないかと思う。

          
          《若い娘のトルソ》 1933年、油彩・カンバス、120×80cm、個人蔵 [5]

 36才で描いた《若い娘のトルソ》は、《夜明け》や《トンネル》の女性像とは異なり、体温を直接感じられるような肉感性にあふれている。《若い娘のトルソ》の隣に展示されている《バラ色のブラウスの女性》という作品も同じような感じで描かれた女性像である(余分なことだが、その女性は女優の岸田今日子に似ているのだった)。

  
    《夜の死者》 1980年、油彩・カンバス、150×150cm、ポール・デルヴォー財団 [6]

 様々な変容を遂げるデルヴォーだが、《夜明け》や《トンネル》がもっともデルヴォーらしい作品であることは間違いない。《夜の死者》はさらに典型的にギリシャ文化へのオマージュになっているようだ。《夜の死者》という「文学的」なタイトルが気になるが、これはむしろ「強い詩的イメージ」ということにしておこう。

 

[1] 「ポール・デルヴォーの言葉「作品が生まれるまで」」『ポール・デルヴォー展 ―夢をめぐる旅―』(以下、図録)(「ポール・デルヴォー展 -夢をめぐる旅-」実行委員会、2012年) p. 9。
[2] 図録、p. 60。
[3] 図録、p. 47。
[4] 図録、p. 31。
[5] 図録、p. 42。
[6] 図録、p. 71。 


【書評】 ガヤトリ・C・スピヴァク(鈴木英明訳)『ナショナリズムと想像力』(青土社、2011年)

2013年03月05日 | 読書

               

 ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァクの著書は何冊も翻訳されているが、私が読んだのは『サバルタンは語ることができるか』 [1] だけである。ポストコロニアリズムに興味があって、フランツ・ファノンやサイードなどの本と同じ時期に読んだのだが、読み終えてしまうと何か未消化の塊が残っている気分だった。
 ブルガリアのソフィア大学で行われた講演とそれに続く質疑応答を書き起こしたこの本を読むと、少しばかりその理由が分かってくる。

 私(たち)は、次々と日本に紹介される近代思想をはじめポストモダンとしての構造主義やポスト構造主義と続く思想の系譜を受け入れてきた。そして、いつの間にか思想のハビトゥスとしてのヨーロッパ中心主義にどっぷりと浸かっているのではないか。マスコミを含め、私たちの周囲にあふれている擬白人意識、何となく日本人はヨーロッパや北アメリカの人々と同種であるかのような幻想、アフリカ、中東、アジアの有色人種へのレイシズムに知らず知らず荷担しているのではないか。そんな気がする。
 スピヴァクは、フランスのポスト構造主義の「二人の偉大な実践家」ミシェル・フーコーとジル・ドゥルーズとの対談「知識人と権力」〔1972年3月4日。『アルク』誌第四九号〕を批判的に検討することから『サバルタンは語ることができるか』を始めている。

いうまでもなく、ドゥルーズが語っているのは一九世紀の領土支配的帝国主義の遺産についてであるから、かれの言及はグローバル化する中心というよりは国民国家についてのものである。善意に充ちた第一世界がこのようなかたちで他者として第三世界を領有し書きこみ直そうというのが、今日アメリカ合州国の人文系諸科学の分野にあふれかえっている第三世界主義の基本的特徴にほかならないのである。
 またフーコーのほうは、〔ドゥルーズの発言から示唆をえた〕地理的な非連続性ということに訴えながら、マルクス主義批判を続けている。「地理的な(地政学的な)非連続性」の真の目安になるのは、労働の国際的分業である。しかし、フーコーがこの言葉を用いるのは、搾取(剰余価値の抽出と占有――つまりはマルクス主義的分析の分野)と支配(「権力」研究)とを区別したうえで、後者のほうにこそ連合のポリティクスにもとづいた抵抗のためのより大きな潜勢力がそなわっているということを示唆するためである。フーコーが提示しているような「権力」思想(それは方法論的に権力なる主体を前提とする性質のものである)への一元論的かつ一体化した接近がなされうるのは、搾取の一定の段階においてである。というのも、地理的な非連続性についてのフーコーのとらえ方は地政学的にいって第一世界に特有のものだからである。ところが、このことをフーコーは認めることができないのだ。  [2]

 そして、「「脱構築(deconstruction)」が批判的なものにせよ政治的なものにせよ適切な実践へと導くことができるのかどうかという問題に立ち向かっている」 [3] デリダを取り上げ、次のように述べている。

わたしにとってもっと重要なことは、デリダが、一人のヨーロッパの哲学者として、ヨーロッパ的主体には自民族中心主義にとっての周辺的な存在として他者を構成しようとする傾向があることを明確にするとともに、それをあらゆるロゴス中心主義的な努力、ひいてはまたあらゆるグラマトロジー的な努力を(というのも、この章の主要なテーゼは両者のあいだには共犯関係が存在しているということなのであるから)ともなった問題として位置づけていることである。これは一般的な問題ではなくて、あくまでヨーロッパの問題である。デリダが思考ないし知識の主体を格下げしようと絶望的なまでの試みをして、「思考とは……テクストの空白部分である」(OG「グラマトロジーについて」(一九六七年), 93)とまで述べているのは、まさにこの自民族中心主義のコンテクストの内部においてなのである。そして、思考がかりにテクストの空白部分であるのであってみれば、それはなおもテクストのなかに存在しているのであって、歴史の他者に引き渡されなければならないのである。 [4]

 ヨーロッパ的主体の自民族中心主義をあたかも私(たち)にも適用可能だと信じ込んで、自らをそのように擬装してしまえば、『サバルタンは語ることができるか』のスピヴァクをすんなりと受容できないのは当然である。いやむしろ、もっと恐れなければならないことがある。スピヴァクのヨーロッパ中心主義批判を受容することによって、日本人としてポストモダン思想を批判的に受容しえていると、二重に擬装していることに気付いていないのではないか。私にとって、ポストコロニアリズムはずっと遠くにあるのではないか。私は私を疑っているのである。

 本書でスピヴァクが述べているのは、ナショナリズムとそれに対抗しうる文芸的想像力についてである。そうしたナショナリズムという論点の流れの中にも、次にいくつかの例を示すように、上述したヨーロッパ主体の批判的切り取りがそこかしこに見られるのである。

 ヨーロッパの外部には私的という概念はないという紋切型があります。ヨーロッパの外部という領域――そう呼びうるとして――においては、安らぎを奪われているという深く根本的な不安を皆が感じており、まさにこうした不安が集団を束ねているのだといぅ紋切型、こうした紋切型に私たちはすつかり慣れてしまっています。 (p. 18-9)

 私が説明してきたナショナリズムは公的領域で活動します。しかしサバルタンは、私的なことで動員されたときに結集するのです。この場合の私的なことは、公的なことに関する意識から二次的に派生してくるのではありません。二次的派生物ではない私的なこと、これはヨーロッパの人びとにはとても理解しにくいものです。女たち、男たち、クイアな人たちは、いかなる場合でも公的-私的という線に沿って分断されているというわけでは必ずしもありません。 (p. 19)

国際性(インターナショナリティ)という点から見ると、国民国家(ネイション・ステイト)はこうした――いまでは合理的に決定された――等価性(イクィヴァレンス)を持っていると思われています。グローバリゼーション下においてはそうではありません。なぜならば、この場合には価値の媒体は資本だからです。現実的には、こうした地理学は神話をめぐるものではありませんでした。それは、ジヤン-フランソワ・リオ夕—ルが、そして彼の前にはマーシャル・マクルーハンが、ボストモダニティについて、印刷された書物の時代を跳び越えて、ある種直観的に述べたことです。この二人のポリティクスにおいては、サバルタン性のテクスチャーが無視され、国際性にぴったりと重ねられてしまいました。リオタールは『文の抗争』(一九八三年)において、この重なりを引きはがそうとしましたが、ほとんどの読者はそのことに気づきませんでした。ポストモダンをめぐる議論から切り離されてしまうと、直観的に語られた地理学はプレ-モダンと規定され、ホブズボームの場合はこれを前政治的(プレ・ポリティカル)と規定します (p.29)

「文化」とは人をだますシニフィアンです。自分が奉じる「市民」ナショナリズムが先進八ヵ国〔G8〕に肩入れしているときに、もしも「文化」ナショナリズムに肩入れするならば、必然的にそうなるというわけではありませんが、「文化的に」選ばれたネイションにおいて、再分配を目指す社会正義に反対することになる可能性も出てくるのです。(……)そうなる可能性があり、それは十分ありうることですらありますが、必然的なことではありません。ナショナリズムが位置(ロケーション)と混同されるならば、ナショナリズムは価値評価のためのカテゴリーを与えてはくれないでしょう。 (p. 46-7)

トルコがヨーロッパの一員になろうとしていますが、みなさんの国ブルガリアは、他の国々とは違った意味でヨーロッパの一員です。ただ、みなさんご自身は、ブルガリア人は完全にヨーロッパ人であるというわけではない、そうお考えでしょう。みなさんがヨーロッパと呼んでいる地域が、みなさんを周縁化して田舎者のようにしてしまっているからです。これはオーストラリアと似た状況です。オーストラリアの人びとも、ヨーロッパによって周縁化され田舎者にされているように感じています。しかし、オーストラリアのアボリジニはそんな風に考えてはいないでしょう。アジアでは、手を組む相手をいかに選ぶかということが問題なのです。 (p. 50-1)

私たち〔インド人〕は、民族のアレゴリー以外はなにも書けず、〔ヨーロッパから見て〕地方に位置しているという運命に加えて、新たな問題を抱えてきました。それはつまり、「ポスト構造主義の前提、ポスト構造主義に潜在しているアイデンティティ主義的な反アイデンティティ主義という逆説、マイノリティーの側につくポスト構造主義の反国家主義、資本主義に反対するユートピア的で批判的な展望がポスト構造主義には欠けているということ……」といったことです。救世主の出現を信じる者としてマルクスを読み、来たるべき民主主義について延々と書き続けてきた哲学者に対して、以上のような言葉をどう適合させればよいでしょうか (p. 51-2)

  「二十四の言語、方言を含めれば八五〇の言語がある」 (p. 35) インドで生まれ育ち、西洋哲学を学んだ著者は、ナショナリズムのそもそもの始原を、人が生まれ落ちた場所で身につける母語の言語習得過程に見ている。

母語を愛すること、自分の住む街の一角を愛することが、いついかにしてネイションにかかわることになるのでしようか。ナショナリズムではなく「ネイションにかかわること」と私が言うのは、ネイションに似た、生まれによって束ねられた集団、警戒し合う見知らぬ者たちから成る集団は、ナショナリズムが出現するずっと前から存在しているからです。国家の編成は変化し、ネイシヨンにかかわることは歴史の変位に沿って動きます。ハンナ・アーレントはこの点に十分気づいていて、ナショナリズムを国家という抽象的な構造体に結びつける試みないしは出来事には、古い歴史があるわけではなく、それが今後長く続くわけでもない、そうほのめかしました。ユルゲン・ハーバーマスが言うように、私たちはポスト・ナショナルな状況に生きているのです。やがてわかるでしょう。 (p.15-6)

 「ナショナリズムというものは、人が生まれた古代にまで遡ると主張することで消えてしまう歴史によって、再コード化」 (p. 13) されるものだが、「自分の話す言語や自分の家に感じる根本的な安らぎは、ナショナリズムが呼び起こすものですが、これはプラスの感情ではありません」 (p. 17) として、スピヴァクは次のように語る。

どの国のナショナリストであろうと、ナショナリズムを考える方法が通時的であろうと論理的であろうと、ナショナリズムを求める衝動は、「われわれのものである公的領域の機能を支配しなければならない」というものです。ナショナリズムが過去を蘇らせ利用するのはそのためです。ナショナリズムが、その必然的な帰結ではないとしても、自分たちのものではない他者の公的領域を支配しょうという決断につながることがあります。ここから、自分たちは比類のない民族であるという意識が、そして悲しいことに、他よりも優れた民族であるという意識が――の意識の変化はあっという間に起こります――多くはそれと気づかないままにですが、必然的に生じてきます。 (p.20-1)

 スピヴァクは、「インドの八二〇〇万人の土着民のなかでも、きわめて小さな声なき集団」 (p. 24) であるサバル族の女性たちに受け継がれてきた口承定型詩から〈等価性(イクィヴァレンス)〉という概念を導き出す。それは、場所(地域)の等価性であると同時に言語(母語)の等価性である。
 第一言語(母語)をきわめて重要であるとしつつ、インドの諸言語を人工的に英語と混ぜ合わせてクレオール語化しようとする動きを強く非難する。そして、言語の等価性を基底にしつつ、比較文学の想像力をナショナリズムの想像力に対置しようとする。

等価性にもとづく比較文学研究が掘り崩そうとするのは、ナショナリズムにもとづく所有、独占、孤立主義的な拡張政策といった考え方なのです。 (p. 34)

ふたつの言語は学べます。母語に加えてもうひとつ、n+1です。学ぶ過程で、ひとつの帝国編成の下で平板化されてしまった世界の立体模型地図を復元しましょう。復元されたその地図を帝国と呼ぶかどうかは問題ではありません。 (p. 42)

 ナショナリズムは、記憶を蘇らせることによって構成された集団的想像力の産物です。独占せよ、というナショナリズムの魔法を解くのは、比較文学者の想像力です。そうした骨の折れる仕事が楽しくなるように、想像力を鍛えなければなりません (p. 42-3)

 スピヴァクの主張は、講演後の質疑に応答する形でさらに進展する。私たちの想像力を囲繞するネイションを脱-超越論化するために文学、芸術における物語(ナラティヴ)の重要性を説く

 〔マーティン・ルーサー〕キングにとって、キリスト教は超越論的な物語(ナラティヴ)でした。私にとっては、それは物語(ナラティヴ)のひとつにすぎません。しかし文学者にとつて物語(ナラティヴ)は重要なのです――それは脱-超越論化することですから。そういうわけで私は、世間の人びとがせっかちになり、地球全体が金融化されているなかで、休まず務めを果たさなければならない、人文学の務めはケーキを飾るサクランボのようなものではない、そう言っているのです。したがって脱-超越論化とは、ラディカルな運動の一部となるベき訓練のようなものなのです。  (p. 73-4)

 さらにスピヴァクの論理は、〈国家の再発明〉へと進む。

そう、比較文学はきつと変わるでしょう。私たちは、国家の再編成について考えているのではなく、つねに国家に求められている機能――再分配――を実現する構造体として国家を再発明することを考えているのです。再編成は新自由主義とともに進んでいるので、自由市場が至上命令となります。こうした自由市場は、大企業そのものが課すさまざまな規制にもかかわらず「自由」だと見なされ、保護主義が世界貿易に書き込まれます。グローバル・ノースにおいて、それは福祉国家を解体するものです。しかし言うまでもなく、私はグローバリゼーシヨンとIT産業については触れていません。文学という学問がこうした危機的な変化と歩調を合わせていかに変わるかということは、解除反応的に、後からしだいに明らかになるでしょう。 (p. 85)

 本書は、講演の書き起こしなので平易な言葉で綴られているが、飛躍や順不同的な記述も見られる。しかし、スピヴァクの思想の基底としての幼年期の第二次世界大戦やインド独立の記憶から語り起こされていて、植民地から見るヨーロッパ(イギリス)を思想の視座に据えていて、『サバルタンは語ることができるか』に対する心情的な補完として、私には貴重であった。

 また、「訳者あとがき」でスピヴァクの著書が紹介されているが、その中にジュディス・バトラーとの共著『国歌を歌うのは誰か?』(竹村和子訳、岩波書店、2008年)がある。未読であるが、タイトルから判断するかぎり本書と関連した「ナショナリズム」についての論考であろうと思われる。そのような興味も強いが、じつは、バトラーはフーコーを、スピヴァクはデリダを、それぞれ思想的同伴者として議論しているのではないか、そんなことを勝手に想像しているのである。

[1] ガーヤットリー・チャクラヴォルティ・スピヴァク(上村忠男訳)『サバルタンは語ることができるか』(みすず書房、1998年)。
[2] 同上、p. 56。
[3] 同上、p. 65。
[4] 同上、p. 69。