かわたれどきの頁繰り (小野寺秀也)

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

『画家と写真家の見た戦争』展 世田谷美術館分館 宮本三郎記念美術館

2016年02月25日 | 展覧会

【2016年1月29日】

 世田谷美術館には、分館として宮本三郎記念美術館があることを、『画家と写真家の見た戦争』展の開催のことと一緒にネットで知った。一昨年(2014年)の秋、やはり世田谷美術館分館の向井潤吉アトリエ館で『向井潤吉 異国の空の下で』という美術展を見たことがある。世田谷美術館は、複数のギャラリーから構成されるイギリスの国立美術館のようである。
 先の大戦で、画家の多くが戦争に協力したということ、戦後そうした画家への批判がかまびすしかったことは知っているが、具体的にだれがどういう役割を果たしたのかはよく知らない。せいぜい藤田嗣治がそうした画家たちの中心的役割を果たしたらしいことは、他の画家たちを巡る話題から推測できる程度である。
 さいわい、手許に椹木野衣と《戦争画RETURNS》などを描いた会田誠 [1] の対談本『戦争画とニッポン』 [2] が手許にあるので、大いに参考になるだろう。


椹木野衣、会田誠『戦争画とニッポン』
(講談社、2015年)。

 展示は、見た順序で言えば写真家の師岡宏次、画家の向井潤吉、宮本三郎、久永強の作品で構成されている。師岡宏次の写真作品は、戦時下の農村の人々表情を写し取った作品や、敗戦直後の銀座のいわば戦争の傷跡を写しとったものであった。また、久永強の作品は、『友よねむれ――シベリア鎮魂歌(レクイエム)』 [3] に収められた作品の一部で、シベリア抑留体験を描いたものである。師岡、久永の主題は、従軍画家として戦地に赴いて戦争そのものを描いた向井潤吉や宮本三郎とはその直接性において異なっている。
 久永強の作品は、2013年の秋、世田谷美術館で『アンリ・ルソーから始まる――素朴派とアウトサイダーズの世界』という美術館で見た後、画文集『友よねむれ――シベリア鎮魂歌(レクイエム)』を取り上げて少しばかり感想をまとめているので、ここでは向井潤吉と宮本三郎の絵について書いてみようと思う。


向井潤吉《凍日》1937年、油彩・カンヴァス、116.0×145.5cm (『向井/小磯』[4] 図版29)。


向井潤吉《漂人》1946年、油彩・カンヴァス、
84.7×42.3cm (『向井』 [5] p. 26)。


向井潤吉《春泥の道》1951年、油彩・カンヴァス、49.0×59.5cm (『向井/小磯』図版14)。

 向井潤吉アトリエ館の『向井潤吉 異国の空の下で』展覧会は、パリ留学中の作品もあったが、もっぱら戦後の風景画の作品を見る機会であった。その時には、いわゆる「戦争画」ということばかりではなく、戦争そのものに関連したことがらを絵の中に見出したということはまったくなかった。
 この展覧会では、4点の油彩画と7点の素描画の向井潤吉作品を展示していた。素描作品には、《兵隊》や《(軍用機の中)》という作品があって、たしかに従軍画家でなければ書けない主題だが、私から見れば、「賛美」や「協力」することとは関係なく、画家がその現場にいれば自然と描くような素材としか思えないのだった。
 油彩画のうち、《凍日》と《献木伐採》が戦時中、《漂人》と《春泥の道》が戦後の作品である。その中で《献木伐採》(私の手元の画集には収録されていなかった)は、もっとも戦争画らしいタイトルだが、実際には数人の森人が大木を切り倒している様子を描いていて、《凍日》のヴァリアントの主題と言ってもいい作品である。ここでも、私には戦争の匂いを強く嗅ぎ分けることができないのである。
 『戦争画とニッポン』には向井潤吉の《四月九日の記録(バタアン半島総攻撃)》を収録されていて、椹木が「あれほど劇的な戦争画を描いた」(『戦争画』 p. 48)と向井を評している。その絵は、バターン半島に侵攻した日本軍の勝利を描いたもので、進軍する日本兵と虜囚となったアメリカ人兵士(とフィリピン人兵士)の集団を一人の日本兵が軍用車の運転席から立ち上がって睥睨している図柄である。いわば、「バターン死の行進」という歴史的悲惨(戦争犯罪)に至る直前の日本の勝利を讃えた作品である。


向井潤吉《坑底の人》1942年、油彩・カンヴァス、130.8×161.6cm (『向井/小磯』図版23)。

 いわゆる「戦争画」を見ることを期待していたわりには拍子抜けしてしまうような展示だったが、参照の為に眺めた『20世紀日本の美術17巻 向井潤吉/小磯良平』[4] という画集の中には、《四月九日の記録(バタアン半島総攻撃)》ほど「戦争画」らしくないにしても、いくつかの戦場を描いた作品が収められていた。そのなかで、戦場そのものではないが《坑底の人》に強く戦争を感じた。坑道で働く人がまるまる戦う兵士の姿のようであるというばかりではなく、銃後で働く日本人に覆いかかる戦争というものを考えさせるものがある。
 坑夫が勇敢な兵士に見えてしまう私にとって、軍国主義に真っ黒に染まって戦時を突っ走った日本人と、激しい圧迫のもとで厳しい労働に追いやられる日本人が合わせ鏡のそれぞれに映っているように見えるのである。
 向井潤吉の《献木伐採》という実作品と《坑底の人》という画集収録作品を見て思ったことは、仮にこの画家に戦争賛美、戦争協力の意図があったにせよ、画家としての才能(技量)が描き出した現実には巧まずして反戦の表象を内在させてしまうことが想像以上に多くあるのではないか、ということだった。
 しかし、一方で、それは観者の側の問題でもあるだろう。《献木伐採》や《坑底の人》を見て戦意を高揚させた人々がいたからこそ、向井潤吉は「戦争画」を描いた作家として評価(批判)されたはずなのである。つまりは、私たちは私たちの政治意識、歴史認識を超えて絵画作品を受容することはない、という必当然な結論を受け入れざるをえない。


宮本三郎《飢渇》1943年、油彩・カンヴァス、130.0×97.2cm 
(『宮本』 [6] p. 32)。


宮本三郎《山下、パーシバル両司令官会見図》1942年、油彩・カンヴァス、
180.7×225.5cm (『宮本』p. 30)。

 《山下、パーシバル両司令官会見図》の下絵や《海軍落下傘部隊メナド奇襲》の下絵など典型的な戦争画も展示されてはいたが、宮本三郎の作品を見た感想もまた、ほぼ向井潤吉の場合と似ているものだった。それは何よりも《飢渇》の強い印象による。左腕を負傷しながら満帆のリュックを背負って行軍中の日本兵が飢えに堪りかねて泥水を啜ろうとしている。その水に映った兵士の目の異様な輝きに恐れを感じてしまうほどだ。
 《飢渇》を見た一瞬、これは優れた反戦画ではないか、そう思ったのである。そう思ってしまうと、《山下、パーシバル両司令官会見図》もまた、その現場に報道記者がいたら報道写真として写し取っていた場面というだけではないかと思えるのである。もちろん、マレー半島における勝利をおさめた日本軍の将軍たちと敗北した連合軍の将軍たちをそれらしく描くことで戦争画として十分な役割を果たすのだろうが、威厳ある山下将軍に軍国主義の象徴を、ラフな服装のパーシバル将軍に自由主義国家の象徴を見ることさえできるのではないかと、私は思うのである。

 戦争画を期待していたのだが、(私の受け止め方の問題かもしれないが)展示されている絵画作品の中に単純簡明な戦争協力、戦争賛美を見ることは私にはできなかった。展示されていなかった向井や宮本のいわゆる典型的な「戦争画」の実物を眺めることができたらどう感じるかは定かではないが、少なくとも「戦争画」と呼ばれる絵画作品を批判することと、戦争に協力した画家(芸術家)を批判することを混同させてはならないということだけは確かだ。
 ある画家がなぜ戦争画を描くか(描いたか)ということについて、椹木野衣が宮本三郎を巡って語った言葉が興味深い。

 宮本は、戦争画を「頼まれ仕事」と言っていたこともあるようなんですが、その一方で「面白いから描くんだ」という言葉も残しています。さらに、戦後には「あの戦争に過ちがあったかもしれない。けれども、もう一度、ああいう環境に仮に再び私が生存したら、もう一度同じ過ちを犯すだろう」とも言っている。要するに過ちだったかもしれないけれど、絵に対しての反省ははしない、ということですね。 (『戦争画』 p. 47)

宮本はヨーロッパに留学して研鑽を積んだので、西洋における戦争画の重要性を肌で感じてきたはずです。だから、戦争が終わって戦争画が描けなくなり、いくら得意の裸婦に戻ったとはいえ、戦争画を描いたことを根本的には懺悔していないのだから、心の空洞というのはすごくあったのではないでしょうか? 歴史的には誤りかもしれないけれど、一旦は美術史の核心に迫れたのに、今は女の裸を描くしかない自分という、何か自虐にも似たものを宮本の裸婦像から感じるんです。 (『戦争画』 p. 48)

 その評価はどうであれ、人類は歴史的に様々な戦争、闘いを経験してきた。その歴史的、ドラマティックなシーンを描いた雄大な絵画は、少なくともヨーロッパの美術館では普通に見られる。そして、少なくともそのような絵画を戦争画として批判的に紹介している例を私は知らない。
 歴史的な大転換の場に立ち会った画家がそれを作品として具象化したいという欲求は当然のような気がする。歴史的な重要な場面に出くわしたカメラマンがその対象にカメラを向けないなどということがあろうか。描かれた作品、写し取られた写真に作家のイデオロギーや精神性が反映されるのは当然かもしれないが、その精神性が作品の価値を保証するわけではないこともまた自明であるが。
 たとえば、社会主義や共産主義によって社会変革を目指した熱気にあふれた時代に社会主義リアリズムという芸術運動があったが、その思想のもとで生産された「芸術作品」の多くはじつにつまらないものだった。その思想にもかかわらずなのか、その思想ゆえになのか、私にはつまびらかにする力量はないけれども、少なくとも私の若い時代の経験は(芸術)思想が作品の価値をけっして保証しないという歴史的証明のようなものであったことは間違いない。
 しかし、そのようなことが、芸術家が戦争を賛美し、人々を戦争に鼓舞することにどのようなエクスキューズをも与えるわけではない。人間としての倫理的責任を芸術作品が肩代わりできるはずがないのである。カラヴァッジオの作品が西洋絵画を代表する傑作だからといって、彼が殺人者であることのエクスキューズにはならないのである。

[1] 『会田誠展:天才でごめんなさい』(森美術館、2012年)
[2] 椹木野衣、会田誠『戦争画とニッポン』(以下、『戦争画』)(講談社、2015年)。
[3] 久永強(絵・文)『友よねむれ――シベリア鎮魂歌(レクイエム)』(福音館書店、1999年)
[4] 『20世紀日本の美術17巻 向井潤吉/小磯良平』(以下、『向井/小磯』)(集英社、1986年)。
[5] 『向井潤吉アトリエ館 名品図録』(以下、『向井』)(世田谷美術館 向井潤吉アトリエ館、2012年)。
[6] 『宮本三郎の仕事』(以下、『宮本』)(世田谷美術館、2014年)。


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『英国の夢 ラファエル前派展』 Bunkamura ザ・ミュージアム

2016年02月19日 | 展覧会

【2016年1月28日】

 奇しくも一昨年(2014年)の1月28日に六本木の森アーツセンターギャラリーで『ラファエル前派展[1] を見て、2年後の同じ日に渋谷で『英国の夢 ラファエル前派展』を見ることになった。
 前回はロンドンの国立テート美術館のうちのテート・ブリテン所蔵作品による美術展だった。今回はリバプール国立美術館所蔵展であるが、ウォーカー・アート・ギャラリー、サドリー・ハウス、レディ・リーヴァー・アート・ギャラリーの三施設の所蔵作品が出品されている。 
 ラファエル前派の作品は、神話や伝説、文学作品を多く主題として取り上げるというその物語性(と象徴性)に特徴があるが、その描法は自然性を重んじ、描かれる人物(とくに婦人像)はヴィクトリア朝という時代を反映してか、とても華やか(ときとして艶やか)な雰囲気をもって描かれることが多い。
 同じ時期に大陸では印象派が活躍していたが、それに比べればラファエル前派は古典的にすら私には見え、当時のイギリス美術界で彼らのアヴァンギャルド性が驚きをもって迎えられ、批難されもしたということが直感的には信じられないくらいである。ラファエル前派作品に顕われるロマン主義的傾向という点からはドイツ・ロマン派を想起させるが、当然のことだが、ドイツ・ロマンティーク [2] もまた私には印象派よりもはるかに古典的に見えるのである。


【上】ジョン・エヴァレット・ミレイ《いにしえの夢―浅瀬を渡るイサンブラス卿》1856-57年、
油彩・カンヴァス、125.5×171.5cm (図録 [3]、p. 29)。

【下】ジョン・エヴァレット・ミレイ《森の中のロザリンド》1867-68年頃、油彩・板、
22.6×32.7cm (図録、p. 35)。

 ラファエル前派といえば、私にとってまず誰よりもエヴァレット・ミレイである。先のテート美術館展では《オフィーリア》を見ることができたことが何よりだったが、今回の目玉作品の一つは、《いにしえの夢―浅瀬を渡るイサンブラス卿》であろう。
 図録解説には「ミレイの画業の初期における最も野心的でロマンティックな一点」(p. 28)と評されているが、自然の忠実な描写を目指したラファエル前派の運動の原則から離脱を示した作品であるとも示唆されている。それは演劇的な構図や絵画的に過ぎる描法、あるいは画商の要求によって不自然に大きく描かれた馬などに現れている。イサンブラス卿のエピソードも与えられておらず、物語的、象徴的な意味合いも強くないのである。

 いくつかのミレイの展示作品のなかで、私が最も心惹かれたのは《森の中のロザリンド》という小品である。この小品の細部が、近眼で老眼の目に明らかになる前に打たれた感じがした。そして、それは私の少年期のロマン主義的な感情と共鳴したのだ。
 この絵を見て強い感情が惹起されたことに驚いたのは、当の昔に消えてしまったと思い込んでいたロマン主義に感動する感覚が私の内部に生き残っていたことに驚いたという意味が強い。
 木々の太い幹がそれに寄りかかるロザリンドの可憐さを強調しているように見え、男装しているとはいえ不幸な道行が画面全体に漂っているようにさえ思ってしまう。いわば、この絵の持つ物語性に過剰に反応してしまう何かが私の中でいまだ蠢いているようなのだ。


【左】ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ《シビラ・アルミフェラ》1865-70年、油彩・カンヴァス、
98.4×85cm (図録、p. 49)。

【右】ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ《パンドラ》1878年、カラーチョーク・紙、
100.8×66.7cm (図録、p. 51)。


【左】ジョン・エヴァレット・ミレイ《良い決心》1877年、油彩・カンヴァス、110×82.2cm 
(図録、p. 39)。

【右】チャールズ・エドワード・ペルジーニ《シャクヤクの花》1887年に最初の出品、油彩・カンヴァス、
77.4×59cm (図録、p. 81)。

 ラファエル前派の絵画全体がそうではないのを承知の上で、「華やか(ときとして艶やか)な雰囲気」を感じたのは、先のテート美術館展でのロセッティの一連の女性の肖像画を見たためである。なかでも、図録の表紙にも採用されていた《プロセルピナ》などは、女性美の追求の最たるものであろう。
 しかし、今回のロセッティ作品にはそれほどの「華やか(ときとして艶やか)」さを感じない。描かれた絵が美しいかどうかということと、描かれた女性が美しいかどうかというのはまったく別の次元の話であるが、どうしてもその分別がつかないまま絵を眺めてしまう。
 それは、ミレイやペルジーニの女性像と比べてみればよく理解できる。ありていに言えば、私はロセッティの描く女性よりも、《良い決心》や《シャクヤクの花》の女性(像)が好もしいのである。ミレイやペルジーニの描く女性がロセッティの描く女性よりも美しいと思えるのは、モデルの女性の問題ではなくて、画家が女性の美しさをどうとらえているかということに他ならない。だから、これは女性の好みではなくて、絵そのものの好みだと思いたいのである。

 好みの問題はさておいて、ロセッティの絵の訴求力の源は何だろうかと考え込むのだが、よくわからない。《シビラ・アルミフェラ》にせよ《パンドラ》にせよ、よく理解できない物語性が女性の美しさとあいまって独特の雰囲気を作っているようだ。
 《シビラ・アルミフェラ》の図録解説(p. 81)によれば、それは絵の持つ象徴性によるらしい。例えば、女性が右手に持つヤシの葉は美の勝利の証であるという。しかし、それは女性に与えられたものか、誰かに与えようとしているのは不明のままその判断は鑑賞者に委ねられている。また、背後の左右の柱には「愛」と「死」の象徴が彫り込まれているという。
 このように絵の中に描き込まれた象徴性の強い事物とロセッティ流の女性美が共鳴的に醸し出す雰囲気が(象徴の意味を知らなくても)私の目を引きつけるということであるらしい。


上】アーサー・ハッカー《ペラジアとフィラモン》1887年、油彩・カンヴァス、113×184.2cm 
(図録、p. 89)。

【下】ジョージ・オーウェン・ウイン・アバリー《プロクリスの死》1915年、水彩・グワッシュ、鉛筆・紙、
78.9×134cm (図録、p. 95)。

 会場には、裸体画を含め女性の様々な美しい姿態を描いた作品がたくさん展示されていたが、女性の裸身像という点で、《ペラジアとフィラモン》と《プロクリスの死》という二つの作品の比較がとても面白いと思った。
 前者は、チャールズ・キングスレイの歴史小説『ヒパティア』に主題をとり、悔悛して荒野に出て死を迎えたペラジアの葬儀を兄フィラモンが執り行う場面である。後者は、古代神話に主題をとっていて、誤って妻プロクリスを矢で射殺してしまったケファロスが妻の死骸を前に嘆いている場面である。
 描かれる物語は違うが、ともに死んで横たわる女性を裸体として描いて、女性の肢体の美しさを表現している。《ペラジアとフィラモン》では女性の肢体の美しさを強調するかのように死体にポーズをとらせているように見え、一方、《プロクリスの死》では女性は死んだそのままの自然な死体が描かれている。
 そして、私はプロクリスの死体のまっすぐに伸びた右足の美しさに圧倒されたのである。さまざまに美しくポーズをとる女性の肢体を描いた作品群のなかで、私のお気に入りになったのはどんなポーズをとる(とらせられる)こともなく素直にまっすぐに伸びた女性の右足だったのである。


ジェイムズ・ハミルトン・ヘイ《流れ星》1909年、油彩・カンヴァス、64×76.8cm (図録、p. 113)。

 数は少なかったものの、風景画も何点か展示されていた。そのなかでジェイムズ・ハミルトン・ヘイの《流れ星》がとても印象深かった。図録からスキャンした画像では判然としないが、中央左寄りに微かに流れ星の飛跡が描かれている。

 雪原でもあろうか、白い大地と暗黒の空の境に人家が描かれている。その中の一軒から黄色い灯がこぼれている。雪原の右端には何本かの木立も描かれている。私は、光がなければ成り立たない絵画において、こういう漆黒の闇というべき風景を描こうと思い立った画家の心性に驚いたのである。


【上】ジョン・エヴァレット・ミレイ《春(林檎の花咲く頃)》1859年、油彩・カンヴァス、113×176.3cm 
(図録、p. 31)。

【下】ジョン・ウィリアムス・ウォーターハウス《デカメロン》1916年、油彩・カンヴァス、101.5×159cm
 (図録、p. 143)。

 群像を描いたラファエル前派初期のミレイ作品と後期のウォーターハウスの作品の比較も興味深くて、《春(林檎の花咲く頃)》と《デカメロン》を並べてみる。
 ミレイの《春(林檎の花咲く頃)》は、家族や知人たちが林檎の花が咲く果樹園に集っている様子が描かれている。ここには、ラファエル前派が多く描こうとした神話的な物語はなく、強いて言えば、横たわる女性の頭上の鎌が家族(あるいは友人)の上に降りかかる運命を暗示していることが目立つくらいである。
 また、人物の姿勢もどこか硬質で、自然の忠実な描写という点においても、物語性と同様にラファエル前派が目指した傾向や主義、手法からの逸脱が見られるように思う。
 それと比べれば、ジョン・ウィリアムス・ウォーターハウスの《デカメロン》に描かれる人物像はより自然である。とくに女性像は、ロセッティの描く女性を思わせて、いわばラファエル前派の本流を行くような印象を受ける。そして、正直に言えば、《デカメロン》の前に立ったとき、そのあまりにもラファエル前派のど真ん中という印象は、その描写力の確かさにもかかわらず凡庸性という感覚に結びついたのだった。
 しかし、じっさいには《デカメロン》はそのタイトルにもかかわらず、『デカメロン』という物語を暗示する象徴性がほとんどないと図録解説は指摘したうえで「明白で即座に理解可能な物語性の忌避を信条とする唯美主義の典型的な作例」(p. 142)だと評している。つまり、ウォーターハウスにおいても、方向は違えども、ミレイと同じように絵画性の追求によって「ラファエル前派」性からの逸脱が見られるということらしい。
 そうした逸脱は、考えてみれば当然のことだ。「〇〇派」とか「▽▽主義」と括られても、それぞれの集団の芸術思想や手法のど真ん中というのはごくごく抽象的な概念で、それぞれの画家はそれを共有しつつもそこから逸脱する自我を有していて、それこそが個性であり才能であるだろう。だから、ど真ん中そのものという印象が凡庸性という印象と結びつくのはあながち間違いではないのである(と、私の鑑賞力の弁解をしてみる)。


ジョージ・フレデリック・ワッツ《十字架下のマグダラのマリア》1866-84年、
油彩・カンヴァス、103×77.5cm (図録、p. 119)。

 私にとって、この美術展の最大、最良の収穫はジョージ・フレデリック・ワッツの《十字架下のマグダラのマリア》を見たことである。マリアの背後の柱の上には磔刑のキリストがいる(はずである)。ここに描かれているのは、もはや美しさではない。
 〈悲哀〉そのものの具現化としてのマリアである。力を失った腕、死せるキリストを見上げているというよりも、中空の〈絶望〉から目が離せなくなったように仰向く顔。哀切そのものの実存性。私にはそう思えるのである。
 かつて私は、しばしば主題として描かれるマグダラのマリアの改悛や苦悩のなかに見るマリアの美しさばかりを気にしていた。だれだれが描いたマグダラのマリアが一番美しいなどと考えていたのだ。愚かである。

 

[1] 『ラファエル前派展 ―英国ヴィクトリア朝絵画の夢』(朝日新聞社、2012年)
[2] 小林敏明『風景の無意識――C・D・フリードリッヒ論』(作品社、2014年)
[3] 『英国の夢 ラファエル前派展』図録(以下、『図録』)(有限会社アルティス、2015年)。 


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『ボッティチェリ展』 東京都美術館

2016年02月15日 | 展覧会

【2016年1月27日】

 ボッティチェリといえば《ヴィーナスの誕生》と《春(プリマヴェーラ)》である。というよりも、有名すぎるこの二作品くらいしか思い出せない。残念ながら、今回の展覧会ではこの二作品は展示されていない(二作品にばかり目を奪われることがなく、ほかの作品を楽しめるという意味ではよかったのかもしれない)。
 『ボッティチェリ展』と銘打っているが、メディチ家が栄えた1400年代のフィレンツェ美術展であり、実質的には、その時代を代表するフィリッポ・リッピ、サンドロ・ボッティチェリ、フィリッピーノ・リッピの三人展である。フィリッポ・リッピはボッティチェリの師匠である。フィリッピーノ・リッピはフィリッポ・リッピの子だが、ボッティチェリの弟子であり、ライバルでもあったという。
 当然のことながら、展示作品はその時代を反映して圧倒的に宗教画が多く、なかでも聖母子像が会場を圧倒していた。


【左】フィリッポ・リッピ《聖母子》1436年頃、テンペラ/板(新支持体に移し替え)、27.3×21cm、
ヴィチェンツァ銀行 (図録 [1]、p. 71)。

【右】フィリッポ・リッピ《玉座の聖母子と二天使、聖ユリアヌス、聖フランチェスコ》1445-50年、
テンペラ/板、73×47.9cm、ロンドン、ピッタス・コレクション (図録、p. 81)。

 父リッピ(フィリッポ・リッピ)は、フィレンツェのカルメル会サンタ・マリア・デル・カルミネ修道院の「信仰心の乏しい修道士」(図録、p. 67)だったというが、彼の描く聖母子像はどちらかといえば硬質な感じがして、超越的な(聖別化された)存在として描くことに主眼が置かれていたかのように思える。意外なことだったが、人間の姿をした聖母子といえども、信仰心が強ければ強いほど聖別化が強調され、人間臭さが払底されるのではないかと、私は想像していたのである。
 《玉座の聖母子と二天使、聖ユリアヌス、聖フランチェスコ》の人物配置はきわめて古典的で、さらに多くの人物が描かれている《聖母子と天使たちおよび聖人たちと寄進者》や《玉座の聖母子と天使および聖人たち》もまた聖母子を中心として対照的に人物が配されている。
 このような構図はとても静謐な安定感がある。大作でもあれば教会や聖堂に架けられるべきものであろうが、どれもそれほど大きくはないので私的な信仰の小部屋で静かに見つめるのがふさわしいような絵である。


サンドロ・ボッティチェリ《聖母子(書物の聖母)》1482-83年頃、
テンペラ/板、58×39.6cm、ミラノ、ポルディ・ペッツォーリ美術館 
(図録、p. 115)。


【左】サンドロ・ボッティチェリと工房《聖母子、洗礼者聖ヨハネ、大天使ミカエルと大天使ガブリエル》1485年頃、
テンペラ/板、直径115cm、フィレンツェ、パラティーナ美術館 (図録、p. 121)。

【右】サンドロ・ボッティチェリと工房《聖母子と四人の天使(バラの聖母)》1490年代、テンペラ/板、
直径110cm、フィレンツェ、パラティーナ美術館 (図録、p. 129)。

 例えば、ボッティチェリの《聖母子(書物の聖母)》をみると、ボッティチェリが親リッピの弟子とはとても思えないほどである。一瞬はラファエロの柔らかさに近いと感じたのだが、全体を眺めた後ではラファエロ寄りというよりも親リッピにやや近い気もする。強引な言い方だが、聖別化した超越的な親リッピの母子像にラファエロ的な人間的な美しさを加えたようで、「神聖」と「美」の共在が成功しているという印象を受ける。
 マリアの崇高な表情に比べて、マリアを見上げるイエスは母親を見上げる幼児そのものである。親リッピの《聖母子》でもマリアの顎に手を伸ばして触れているイエスのしぐさに幼児らしさが顕われている。いわば聖性の破調のようなイエスの姿が、このような聖母子像の魅力の一つだろう。
 聖書や神話を描いた絵画では寓意としての事物が描かれることが多い。キリスト教文化の圏外で生きてきた私などにはなかなかに寓意を読み取るのは難しい。そのような寓意や象徴の意味を知らなくてもけっこう楽しめるのでつい無視してしまうが、知っている方がいいには違いない。
 この美術展の目玉の一つである《聖母子(書物の聖母)》も例外ではない。図録解説に次のようにある。 

……キリストは左手に金鍍金された3本の小さな釘を持ち、やはり金鍍金された茨の冠を腕に通し、将来の受難を暗示している。受難の象徴は、明快かつ幾何学的に配置された背後の静物モティーフにも見ることができる。木箱の傍らにあるマヨリ力陶器の鉢には、キリストの血を暗示するサクランボ、聖母の甘美を示すプラム、キリストの救済と再生を象徴するイチジクなどが盛られている。ここでは「聖母の読書」という主題が、「キリストの受難についての瞑想」という主題と重ね合わされているのだ。 (図録、p. 114)

 《聖母子、洗礼者聖ヨハネ、大天使ミカエルと大天使ガブリエル》と《聖母子と四人の天使(バラの聖母)》は、《聖母子(書物の聖母)》と比べれば様式度が高い。それは描かれる像が多いこととも関連するだろうが、トントと呼ばれる円形の絵を高価な額縁で飾って公共施設や個人の邸宅を飾る(図録、p. 120)ためにボッティチェリの工房で多く制作されたためではなかろうか。複数の人間の共同作業で製作されるためには、様式化することが必然だったのだと推測するのである。


【左】フィリッピーノ・リッピ《幼児キリストを礼拝する聖母》1478年頃、テンペラ/板、96×71cm、
フィレンツェ、ウフィツィ美術館 (図録、p. 181)。

【右】フィリッピーノ・リッピ《聖母子、洗礼者聖ヨハネと天使たち(コルシーニ家の円形画)》1481-82年頃、
テンペラ/板、直径173cm、フィレンツェ、フィレンツェ貯蓄銀行コレクション (図録、p. 187)。

 子リッピの《幼児キリストを礼拝する聖母》は、ボッティチェリの強い影響が指摘されている絵である。一見して、ボッティチェリの《聖母子(書物の聖母)》と比較しうる絵であることは明らかだが、図録解説(p. 181)によれば、主題そのものや構図がボッティチェリの《幼児キリストを礼拝する聖母と洗礼者ヨハネ》という作品と似ており、また前景の花々の描き方がボッティチェリの《春(プリマヴェーラ)》と共通しているという。
 聖母子像としての美しさはボッティチェリの《聖母子(書物の聖母)》に分があると思うのだが、それほど多いとは言えないものの私がこれまで見た限りでの聖母子像のなかで、このフィリッピーノ・リッピの《幼児キリストを礼拝する聖母》に描かれたマリアの美しさは屈指のものである。
 《聖母子、洗礼者聖ヨハネと天使たち(コルシーニ家の円形画)》は、ボッティチェリの円形画(トンド)と同じようにやや様式的である。私がこの絵の中でもっとも興味があったのは、右端に聖母子から遠く離れて小さく描かれた聖ヨハネ像である。この聖ヨハネ像は、絵が完成したのちに描き加えられたものだという。聖母子像にはお決まりの聖ヨハネ、などという程度の意味で加えられたにしては、聖ヨハネを含む聖母子像の作例から大きく外れている。もちろん理由が見えてくるはずもないのに、何か特別な意味があるのかとしばらく見入ったのだった。


サンドロ・ボッティチェリ《聖母子と洗礼者ヨハネ》1500-05年頃、
油彩/カンヴァス、134×92cm、フィレンツェ、
パラティーナ美術館 (図録、p. 161)。

 聖ヨハネに関して言えば、ボッティチェリの《聖母子と洗礼者ヨハネ》も興味深い。子リッピの《聖母子、洗礼者聖ヨハネと天使たち(コルシーニ家の円形画)》には成人した聖ヨハネが描かれているが、ここでは少年の姿をしている。

 本作品は一見、フィレンツユで当時よく描かれた洗礼者聖ヨハネをともなう聖母子像であるが、そこには大変興味深い仕掛けが施されている。マリアはイエスの体を下方のヨハネに委ねようとしているが、傍らには聖ヨハネの長い葦の十字架があるため、イエスの体の下降とあいまって、磔刑のイエスを十字架から降ろす、受難伝中の「十字架降下」を暗示する構図になっているのである。本図は未来のイエスの受難を予告しており、マリアの物憂げな表情は息子の運命を知る彼女の心境を反映してのものといえるのかもしれない。画面左端、マリアの背後にはバラの茂みがあり、赤いバラの花が咲いているが、この花はマリアの慈愛を象徴するとともに、殉教の象徴でもあることから、受難を暗示する本作品にはまことにふさわしい。 (図録、p. 160)

 マリアとイエスは自らの運命のすべてを知っているかのように感情を示すことのないまったく同じような無機的な図像なのに、目を見開きイエスを抱え込もうとしている少年ヨハネは、イエスの運命を懸命に引き受けようとしている。そう見えるのは、決して私のヨハネ贔屓のせいばかりではないだろう。


フィリッピーノ・リッピ《洗礼者ヨハネ》、《マグダラのマリア》(ヴァローリ三連画の両翼画)
1497年頃、テンペラ/板、133.5×37.5cm、133×37.7cm、フィレンツェ、
アカデミア美術館 (図録、p. 199)。

 聖母子像の登場するヨハネはイエスよりやや年長の幼児として描かれるというのは、私の思い込みに過ぎないようだ。子リッピの《聖母子、洗礼者聖ヨハネと天使たち(コルシーニ家の円形画)》では成人したヨハネだったし、上の《聖母子と洗礼者ヨハネ》ではイエスよりずっと年長の少年である。さらにボッティチェリの《聖母子と聖コスマス、聖ダミアヌス、聖ドミニクス、聖フランチェスコ、聖ラウレンティウス、洗礼者聖ヨハネ(《トレッビオ祭壇画》)》でも成人として描かれている。
 しかし、このように思いめぐらしているヨハネ像は、子リッピの《洗礼者ヨハネ》でどこかへ飛んで行ってしまった。キリストをめぐる悔悛者であるヨハネとマグダラのマリアを、悔悛者であるがゆえにこのように描いたものらしい。聖母子に寄り添う清純な幼児(ないしは少年)としてのヨハネや、荒野で悔悟する美しいマグダラのマリアなどではないのだ。これは、15世紀後半のフィレンツェでフェッラーラの修道士が唱えて広まった「厳格な禁欲と贖罪の原理を反映している」(図録、p. 198)のだという。聖書で語られる聖人もまた、時代時代の流行によってイメージが激変するということらしい。


サンドロ・ボッティチェリ《アペレスの誹謗(ラ・カルンニア)》1494-95年頃、テンペラ/板、
62×91cm、フィレンツェ、ウフィツィ美術館 (図録、p. 141)。

 《アペレスの誹謗(ラ・カルンニア)》は、古代ギリシアの「画家アペレスが描いたとされる現存しない作品について、その復元を試みた」(図録、p. 140)絵であるという。
 この絵は、恐るべき寓意の塊のような絵である。図録解説を引用しておく。

 この主題は、誹謗中傷にあった人物の悲惨さを寓意的に描いている。画面全体は多くの擬人像によって構成される。松明を手にした美しい女性として表される「誹謗」は、祈るかのように手を合わせる若い青年姿の「無実」の髮を掴んで、玉座に座す大きな耳の「不正」のもとに引きずっていく。 「誹謗」の左手を取る貧しい身なりの男は「憎悪」。「不正」の耳元で彼に何かをささやく二人の女性は「無知」と「猜疑」。また「誹謗」の後ろで彼女に仕える二人の女性は「欺瞞」と「嫉妬」である。その後方の振り返る黒衣の老婆は「悔悟」、一番後ろで一人孤立して天を指差している裸体の女性が「真実」である。 (図録、p. 140)

 何が何のアレゴリーであるか、絵を見て即座に判断するのは難しい。かつて、その類の本を購入して読んでみたことがあったが、まったく身につかなかった。
 この絵を挙げた最大の理由は、左端に描かれた「真実」が、上にあげた手を胸に当てれば、《ヴィーナスの誕生》に描かれたヴィーナスの美しい肢体そのものであることによる。ただし、顔はまったくの別人である。


ルネ・マグリット《レディ・メイドの花束》1957年、油彩/カンヴァス、163×130.5cm、
大阪新美術館建設準備室 [2]。

 《ヴィーナスの誕生》へのいわばオマージュとして《アペレスの誹謗(ラ・カルンニア)》を挙げてみたので、《春(プリマヴェーラ)》に対してはルネ・マグリットの《レディ・メイドの花束》を挙げておこう。
 『マグリット展』を見た私の感想のなかの1節を引用して、オマージュのオマージュとする。

 山高帽を被ったコートの男性がバルコニーに立って庭(の林)を向いている。その背中に配されているのはボッティチェリの《春》に描かれている女神フローラである。《レディ・メイドの花束》には、どこにでもいるような紳士が描かれている(《ゴルコンダ》ではそのような男が群衆として無数に描かれている)にもかかわらず、きわめて鮮明な印象を与える。それは、ボッティチェリのフローラを背負う男としての不思議から来る。
 「背負う」と書いたが、ほんとうに男とフローラは何らかの関係があるのだろうか。もしかしたら、男は漫然とバルコニーに立っているに過ぎず。異次元空間に出現したフローラを意匠として男の背後に描いただけかもしれない。

 

[1] 『ボッティチェリ展』図録(以下、『図録』)(朝日新聞社、2016年)。
[2] 『マグリット展』(以下、図録)(読売新聞東京本社、2015年)p. 229。


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原発を詠む(29)――朝日歌壇・俳壇から(2015年12月7日~2016年2月1日)

2016年02月01日 | 鑑賞

朝日新聞への投稿短歌・俳句で「原発」、「原爆」に関連して詠まれたものを抜き書きした。

 

保管せる放射能汚染の牧草を被爆の牛に食わすかなしみ
             (南陽市)渋間悦子  (12/7 馬場あき子、佐佐木幸綱選)

帰還して被爆ひたすら生きてきた七十年よ夢じゃぁないよ
             (相模原市)日野一閑子  (12/7 佐佐木幸綱選)

小名浜の魚売り場に小名浜の海の魚の戻らぬ五年
             (いわき市)伊藤雅水  (12/13 永田和宏、馬場あき子、佐佐木幸綱選)

経済は政治の道具となり果てし原発動かし武器輸出する
             (埼玉県)島村久夫  (12/13 佐佐木幸綱選)

黒々と積み上げられしフレコンバッグわれらの帰還をかたく拒みて
             (国立市)半杭蛍子  (12/21 高野公彦選)

除染地に自動車(くるま)・猫車(ねこ)など赤錆て光なくして現場に終る
             (須賀川市)布川澄夫  (1/4 佐佐木幸綱選)

焚火することを禁じて原発を再稼働するあわれニッポン
             (東京都)東金吉一  (1/11 高野公彦選)

敷島のフクシマに国勢調査あり人口ゼロとされし町はも
             (熊本市)垣野俊一郎  (1/18 馬場あき子選)

放射能を含みし草をあまた食(は)む浪江の牛に降る雨冷たし
             (福島市)櫻井隆繁  (1/25 馬場あき子選)

ふる里の川の微かなセシウムの香を記憶して稚魚旅立つか
             (郡山市)柴崎茂  (2/1 高野公彦選)

 

置き去りのままの被爆地柿落ちる
             (いわき市)吉田めぐみ  (12/21 金子兜太選)

原発の呻き声聞く虎落笛(もがりぶえ)
             (鴻巣市)佐久間正城  (1/18 金子兜太選)


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