かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

『「印象派を超えて 点描の画家たち」展』 国立新美術館

2013年12月02日 | 展覧会

クロード・モネ《サン=ジエルマンの森の中で》1882年、油彩/カンヴァス、81×65 cm、
吉野石膏株式会社(山形美術館に寄託) [図録、p. 29]。

 展覧会場に入ってすぐ、十分に満足してしまった。すぐ目の前にモネの《サン=ジエルマンの森の中で》がある。色づいた落ち葉が敷き詰められた林の道がずっと遠くまで続いていて、引き込まれるように歩を進めたい欲求が沸き立つ。
 山歩きが好きで、奥深い東北の山麓の林に惹かれている私の心性に共鳴するような作品である。この絵は、風景の中へ入っていくこと、風景に没入することをうながす絵として私の前にある。

 モネの絵から振り返ると、そこにはシスレーの《モレのポプラ並木》が展示されている。子供のころから私の中の風景画の典型というのは、このような街道筋や畑の境界の楡やポプラの並木の絵である。どれくらいの幼年のときかも、誰の絵によってかもとっくに定かでなくなっているが、そんな風景画を美しいと心に焼き付けてしまったのだろう。
 このような風景画は、立ち止まって眺めているその風景から旅を続けるようにうながされ、次の風景へと歩いて行き、また新しい風景にであって旅をうながされる、そんな風な風景としてある(あくまで私にとっては、ということだが)。

アルフレツド・シスレー《モレのポプラ並木》1888年、油彩/カンヴァス、54×73 cm、
吉野石膏株式会社(山形美術館に寄託)  [図録、p. 35]。

 そんなごく個人的な理由(心性)で感動しているので、見知らぬ三流の画家が《サン=ジエルマンの森の中で》や《モレのポプラ並木》のような構図で描いたとしても、きっと私はそれなりに感動するに違いない。印象派だの分割主義の技法だのということは関係ない私的な感情の話である。なんと凡俗な絵画鑑賞なのだろうと思うが、発現してしまった感情を消そうとしても意味がないし、簡単には元に戻せない。
 しかし、そうした記憶や感情がモネとシスレーの絵によってとても刺激的に掬い取ってもらえたのだから、もう十分満足した、そんな気分である。だから、その後に展示されている画家にはきわめて申し訳ない気分で会場を歩くことになったのだった。

ジョルジュ・スーラ《グラヴリーヌの水路、海を臨む》1890年夏、油彩/カンヴァス、73.5×92.3 cm、
クレラー=ミュラー美術館 [図録、p. 51]。

ポール・シニャック《マルセイユ港の入口》1898年、油彩/カンヴァス、46×55 cm、
クレラー=ミュラー美術館 [図録、p. 63]。

 スーラとシニャックは、分割主義(divisionism)と点描を主題とするかぎりにおいてこの展覧会のハイライトであろう。二人は、しばしば同じような画題を描いていて、スーラかシニャックか判断に戸惑ったりしたが、すぐに判別がつくようになる。ごく簡単なことで、点描の点自体がシニャックの方が大きいのである。
 《マルセイユ港の入口》はシニャックの点描の絵の中でも描点が大きいので、スーラの《グラヴリーヌの水路、海を臨む》と並べると違いは鮮明である。分割主義における描点のサイズは画家の個性として重要なのだろうか、と考え込んでしまった。

 とまれ、シニャックの《マルセイユ港の入口》の美しさにはしばらく見とれてしまった。点描で描かれた夕景の光の美しさである。そして、この絵はジョバンニ・セガンティーニの《湖を渡るアヴェ・マリア》という絵を想い起こさせる。やはり夕景の美しい絵だ。
 この展覧会は、オランダのクレラー=ミュラー美術館のコレクションを主体とした展示なので、イタリアのセガンティーニはコレクションに含まれていないが、セガンティーニもまた分割主義の画家なのである。セガンティーニの分割主義は《湖を渡るアヴェ・マリア(第2作)》をもって始まった、と私は理解していて、その時期にセガンティーニの絵は暗い色調の画風から清澄な明るさへとドラマティックに変化していくのである。《湖を渡るアヴェ・マリア(第2作)》は絵自体の素晴らしさに加えて、画家の生涯の画業のエポック・メーキングな事象を象徴する絵としても印象深いのである。

ジョバンニ・セガンティーニ《湖を渡るアヴェ・マリア(第2作)》 1886年、
油彩/カンバス、120×93 cm、 個人蔵(ザンクト・ガレン) [2]。

 《湖を渡るアヴェ・マリア(第2作)》は点描ではなく、短く途切れた線によって描かれている。その線群は絵(光)の中心を囲む円に沿うようにきわめて細かく配置されている。それは、シニャックの《マルセイユ港の入口》の夕日を囲むように置かれた点(太い線)群と似ているが、セガンティーニでは円様の配置は絵全体に及んでいる。

 シニャックとセガンティーニの絵が光彩の美しさで互いに匹敵しているのは、分割主義という画法に由来するのか、単に夕景を描く技量によるのかは私に判断できないが、ともに私にとっては忘れられない絵ではある。

ジョルジュ・スーラ《若い女》
(「グランド・ジャット島の日曜日の午後」のための習作)
1884-85年、コンテ・クレヨン/紙、31.2×16.2 cm、
クレラー=ミュラー美術館 [図録、p. 63]。

 スーラの有名な《グランド・ジャット島の日曜日の午後》は展示されていなかったが、その習作のコンテ絵《若い女》をとても興味深く見た。人物を徹底して造形としてとらえようとしているスーラの姿勢がよく表現されていると思う。《グランド・ジャット島の日曜日の午後》にはたくさんの人物が描かれているが、どれもが彫像のような姿であり、表情は判然としないもののきっと無表情に違いないと思わせるものがあって、そうしたことがこの《若い女》で示されている造形性の追求から始まっているのだろうと推察されるのである。 

ユハン・トルン・プリッカ一《花嫁》1892-93年2月、油彩/カンヴァス、
147.1×88.2 cm、クレラー=ミュラー美術館 [図録、p. 149]。

 展示は、クレラー=ミュラー美術館が所蔵するオランダの分割主義を受け継ぐ画家たちの多くの絵を含んでいて、その中でユハン・トルン・プリッカ一の《花嫁》が強く私の目を引いた。分割主義との関連は分らないが、あきらかに象徴主義的なモティーフは私を考え込ませるのだった。
 右手に磔刑のキリストがいて、キリストのイバラの冠が花嫁の花冠に繋がっていて、この強い関係性を示していることは確かなのだが、「キリストと花嫁」なのか「刑死と花嫁」なのか「甦りと花嫁」なのか、と錯綜するのである。花嫁(ないしは処女性)として全なる神と結びつくという、女性としての画家の願望の表現ででもあろうか。

ヘンドリクス・ペトルス・ブレマー《石炭入のある食器洗い場の眺め》1899年、
油彩/カンヴァス、38.5×26 cm、クレラー=ミュラー美術館 [図録、p. 155]。

 ヘンドリクス・ペトルス・ブレマーの《石炭入のある食器洗い場の眺め》は、おそらくヴィルヘルム・ハンマースホイの絵を見ていなかったら見過ごしたかもしれない。ハンマースホイによって、家具、家財などいっさいないがらんとした室内の風景が得も言われぬ味わいで人生の深みを語りうるのだと教えられた。

ヴィルヘルム・ハンマースホイ《白い扉、あるいは開いた扉》1905年、
油彩/カンバス、52×60 cm、コペンハーゲン、デーヴィズ・コレクション [3]。

 《石炭入のある食器洗い場の眺め》では、手前の部屋には家具や家飾りは見られないし、ドアの向こうの食器洗い場も石炭入れはあるもののがらんとしている。このような光景は、長く暮らした家から家財が一切なくなって、立ち去る前にその部屋の中に立ち尽くしているときの何か切ない感情に似たものを誘起する。そうしたことが、私の人生の中でも数回はあったのである。

レオ・ヘステル《逆光の中の裸体》1909年、油彩/カンヴァス、54.5×98.8 cm、
クレラー=ミュラー美術館 [図録、p. 165]。

 最後に裸の婦人像、《逆光の中の裸体》を挙げておこう。私はとくに裸婦マニア、ヌード好きというわけではない(と本人は信じている)が、この絵の質量感、存在感に圧倒された。淡く、じつにごく淡く描かれながらの存在感(重量感)に驚いたのである。婦人の裸体像として美しいのかどうかは私の審級では判断できないが、画家はこういう風に〈現存在〉を語れるのだということを羨ましくも妬ましくも思ってしまうのである。

 

[1] 『印象派を超えて 点描の画家たち』(以下、図録)(東京新聞、NHK,NHKプロモーション、2013年)。
[2] 『セガンティーニ ―アルプスの牧歌と幻想―』(神戸新聞社、1978年) T. 14。
[3] 『ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情』(日本経済新聞社、2008年) p. 153。



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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
観に行かれたのですね! (元お蝶夫人)
2013-12-11 16:27:41
hdyondrさん
こんにちは(*^。^*)

ここの所ご難続きで美術館にはとんと足が向きませんので・・・羨ましいですね!
絵の好みは人それぞれで、自分が良いと思うものが良いんですよね^m^
私は厚塗りの絵が好きです。
点描に近い感じの絵も好きですよ。

ゴッホの「ひまわり」を昔は厚塗りな絵だと思いましたが、平沢喜之助の見たら薄塗りもいい所だと思いました(^◇^;)
火山灰のようにパレットの上に積み上げられた絵具はなんとも迫力がありました。
長野出身の画家さんですが、ご存知でしょうか。
須田剋太・林武なども好きです。

早く良くなって絵を観に行きたいなと思います!
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どんどん絵が好きになります (hdyondr)
2013-12-12 12:26:33
元お蝶夫人さん

ときどきまとめて美術展を見に東京に出かけます。東北生れの東北育ちなので、東京の街歩きとセットで楽しんでいます。
仕事をしているころは、いくら好きでもなかなかみる機会がなかったのですが、展覧会に行くたびに好きな絵や画家がどんどん増えていきます。
今まではほんとうに絵も画家も知らなかったということですね。

むち打ちの不快な気分で絵を見ても楽しめませんよね。
長くかかりそうとおっしゃってましたが、1日でも早くよくなるように祈っています。
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