かわたれどきの頁繰り

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【書評】 バトラー、スピヴァク(竹村和子訳)『国歌を歌うのは誰か?』(岩波書店、2008年)

2013年04月22日 | 読書


 最近読んだガヤトリ・スピヴァクの『ナショナリズムと想像力 [1] に、日本で翻訳出版されたスピヴァクの著作一欄があって、その中にバトラーとの共著である本書が紹介されていた。タイトルから判断してナショナリズムに関する著作であろうと予想されたが、私の興味はどちらかといえば、フーコーに親近性を抱くジュディス・バトラーとデリダを評価するスピヴァクが繰り広げるであろう議論の行方にあった。

 訳者の竹村和子がこの二人をきわめて簡潔に次のように紹介している。

 ジュデイス・バトラーとガヤトリ・スピヴァクの対話は、現在の批評界でもっとも期待され、もっとも読者を惹きつける企画である。かたや一九九〇年出版の『ジェンダー・トラブル』以降、セクシュアリティを思想のアリーナに引き摺りだし、そればかりか思想それ自体の枠組を根底から揺るがして、さまざまな学問領域や社会運動に影響を及ぼしてきた理論家、かたや一九八〇年代半ばに発表した「サパルタンは語ることができるか」で緘黙化の暴力を言挙げして以降、フェミニズムの視点からポストコロニアリズム批評を先導し、また九〇年代にはグローバル化研究の視座を切り拓いて、ネオリベラリズムへの対抗議論を力強く繰り広げている批評家である。 (「「グローバル・ステイト」をめぐる対話 ―あとがきにかえて」、p. 97)

 続けて竹村は、二人はともにフェミニストとして発言するポスト構造主義者でありながら、バトラーは哲学出身で、スピヴァクは(比較)文学研究者であって、学問領域、関心領域が異なるため、「この二人の対話の可能性に思い至らなかった」と述べている。

 本書と平行して、バトラーの『権力の心的な生』 [2] を読んでいたのだが、じつは、すんなりと理解するのが難しかったので再読中だった。『偶発性・ヘゲモニー・普遍性 [3] を除けば、それまでのバトラーの著作をほとんど思想の書として読んでいた私は、哲学的に詳細を究めて議論を進める『権力の心的な生』に手を焼いていたのである。哲学と思想を峻別するのは難しいが、バトラーをそんなふうに受けとっていたのである。
 だからといってスピヴァクが読みやすいなどということではない。講演の書き起こしであるスピヴァクの『ナショナリズムと想像力』は一見平易にみえる文章でありながら、文学研究者らしい比喩や言い回しがあって、これまたそれほどすんなりと理解できたというわけでもない。

 加えて、私はどうも座談(対話)形式の著作をまとめるということが苦手である。二つの人格の差異の流れをうまくまとめられないのである。以前に、大塚英志と宮台真司の対談を収めた『愚民社会[4] について書いてみて、結局はどのようにまとめて良いのか混乱して、途中で投げ出してしまったような文章を書いてしまったことがある。

 これだけの言い訳をして書き出すのだが、幸いなことに本書は対談とはほど遠い構成になっている。はじめに、バトラーが「国民/国家 (nation)」と「国家/状態(state)」について長い講義を行い、スピヴァクがそれに応える形になっていて、後半部では対話の形を取っているが、ある程度まとまった発言が維持されている。そのせいか、読後感としていえば、対話というより、分担された共著のような感じである。

 議論の立ち上がる地点を、バトラーは以下のように述べる。

バトラー ステイトはかならずしも国民国家(ネイション・ステイト)ではないのです。たとえば非-国民国家もあれば、国民を基盤にした国家(ステイト)に積極的に異を唱えている安全保障の状態(ステイト)もあります。だからステイトという語はすでに「国家(ネイション)」という語からは分離されています。「ネイション」(国民/国家)と「ステイト」(国家/状態)をとりあえずハイフンで結ぶ場合(nation-state) もありますが、 そのときのハイフンはどんな働きをしているのでしょうか。説明が必要な両者の関係を、ハイフンは巧みにごまかしているのではないでしょうか。ハイフンは、国民(nation)と国家(state)のあいだに歴史的に生まれた密着性を露わにしているのでしょうか。それとも両者の関係の核心に誤謬があることを示しているのでしょうか。 (p. 1-2)

 国家(state)は、我々をどのような状態(state)にするのか。我々は、なぜ国民(nation)であるのか、あるいは国民(nation)であり続けることができるのか。実際に人々が置かれている(現実に存在する)状態(state)を具体的に指し示す、あるいは見ることができる。

バトラー 国家は最小に見積もっても、法制的な帰属を前提にしていると考えられがちですが、他方で国家は、まさに人を追放し、法的法護や義務を留保しうるものなので、そのような状態(ステイト)にわたしたちを、あるいは,わたしたちのある者を、置くことができます。国家は帰属ナシの淵源でもあり、帰属ナシを半永久状態にしておくことすらあります。(p. 3)

バトラー 人はかならずどこかに辿りつくとしても(すでにわたしたちはデストピア的な旅行談のなかにいると言ってよいでしょう)、そこが別の国民国家や別の帰属形態でないこともあるのです。それはグァンタナモ収容所のような、国家でない場所(にもかかわらず、国家権限を委任された権力が収容住人のいる領土を統制しテロル化している場所)かもしれませんし、「野外刑務所」と呼ぶのが適切なガザ地区であるかもしれないのです。 (p. 5)

 バトラーは、ハンナ・アーレントの政治論をベースに議論を進める。アーレントが「ナショナルな少数民(マイノリティ)」と呼ぶ無国籍者は、国民を強制的に国家に加担させようとする権力操作によって再生産される。つまり、国民国家は「ナショナルな少数民」を「放逐しつつ包摂」し、また、「包摂されつつ排除される者として生産」する。

バトラー ……政治は、公民権のない人や無給労動者やほとんど不可視の人たち、あるいはまったく不可視の人たちの領域を、措定しつつ排除するものなのです。存在の重みを奪われ、社会的理解可能性に満たないとされた亡霊のようなこれらの人たちは、年齢やジェンダーや人種や国籍や労働資格の点から市民の身分を奪われているだけでなく、無国籍という「身分を与えられている」のです。この最後の点は、非常に示唆的と言ってよいでしょう。なぜなら無国籍者は、身分を奪われているだけでなく、剝奪と追放を受ける身分を賦与され、そのように用意されているからです。 (p. 11)

バトラー 権力は人から自由を奪うことも、剥ぎ取ることもできません。自由は、自由の唯一の構成要素である協同行使を禁じられる人々というカテゴリーを作っていきます。したがって政治が人のカテゴリー区分を練り上げ、それを強制したとき、非市民という「身分」が生まれ、保護を受ける権利だけでなく、自由を行使する条件も奪われるという、無国籍者の資格が生まれます。「資格づける」ことは、主体の構築と排除を同時におこなうときの法制的手続きです。 (p. 15)

 バトラーは、「ユダヤ人主権の原則に則ってイスラエル国家を建設することにも反対した」アーレントの思想から、私たちは「帰属意識を共有していない人たちと共同して統治をおこなう」べきであり、「文化的親密さを共同統治の基盤にしないこと」を学ぶべきだと主張する。
 アーレントによれば、国民国家は、国民としてのアイデンティティ、特定のアイデンティティを強制する。したがって、あたかも国民国家の構造上の必然であるかのように国民アイデンティティから外れた「ナショナルな少数民」を繰り返し生産するのである。権力の領域内で言説によって、アイデンティティを「欠落している人間」が構造的に生み出されていく。  

バトラー したがってこうして放棄された生は、権力にどっぷりと浸かっています。ただし権利や義務は与えられていません。実際、放棄された生は、この理由によって権利を有さないまま、法制的なものの内部にいるのです。 (p. 22)

 立憲国家においては、「国民」は憲法によってその諸権利が保護されているはずだ。しかし、ジョルジョ・アガンベン(それと、私は読んでいないが彼が批判的に取り上げるカール・シュミツトも含めて)によるまでもなく、「憲法による保護を宙づりにする主権の権限をもたらしているのが、憲法それ自体と考えられて」いる。アガンベンが指摘するように、国家主権は「例外状態」を常態化させることで憲法も国際法をも宙づりにする。そうすることで、グァンタナモ米軍基地での捕虜でも犯罪者でもない「剝き出しの生」がアメリカ合州国の国家主権の名のもとに産みだされている。もちろん、アフガニスタンやイラクにおける事態も同様の理由による。

 バトラーは、ナショナリズムに関するハンナ・アーレントの考えを次のように評する。

バトラー 彼女はただ問題を提起しただけです――厳密に非ナショナリズムでありえるような帰属の形態はあるのか、という問いです。ナショナリズムへの批判はあまりに強いので、そのような問いにならざるをえないと思いますが、他方で、少なくともこの段階の彼女の思考では、帰属の権利を保持したいとも考えています。では、この種の帰属の権利とはどんなものでしょうか。ハイフンが付いたかたちの国民国家(nation-state)への彼女の批判はじつに徹底しており、だから彼女が明確に望んでいることは、ある種の人権に基づいた(あるいはそういった人権の行使に基づいた?)法の支配であり、それが「政治体(ポリティ)」を統治することです――この「政治体」という語は、たとえそれが古代の都市国家を典拠にしているにせよ、国民国家に代わるものとして出されています。とはいえここでわかることは、彼女は国民(ネイション)も、国民的(ナショナル)集団も、ナショナルなマジョリティも、さらにはナショナルな少数民によってさえも縛られるような法の支配を望んではいないということです。たとえ彼女が望む状態が国民国家であるとしても、それはナショナリズムとは真っ向から対抗する国民国家であり、国民国家そのものを無効にしていく国民国家なのです。もしも彼女が望む共同体や、彼女が賛同する帰属形態が、この枠組のなかで彼女に何らかの意味を与えているなら、それらが非ナショナリズム的であるということでしょう。それらがどんなものになりうるかについては、彼女は語っておらず、ただ問いを投げかけているだけです。 (p. 35-6)

 バトラーは、国民国家とナショナル・マイノリティをめぐる「非常にドラマティック」な事例、本書のタイトル『国歌を歌うのは誰か?』の由来となった興味深いエピソードを語る。それは次のようなものである。
 2006年の春ころ、アメリカ合州国西海岸で多くの都市で不法滞在者の街頭デモがなされたとき、ロサンゼルスでは「米国国歌がまるでメキシコ国歌であるかのようにスペイン語で歌われ」たという。

バトラー 「ヌエストロ・ヒムノ」(我らの歌)の出現は、国民の複数性つまり「わたしたち」や「わたしたちの」という興味深い問題を提起しました。非ナショナリズム的あるいは対抗ナショナリズム的な帰属形態に寄与するのは何かという問いを立てるときには、グローバル化について語る必要があるでしょう。ガヤトリが答えてくれると思いますが、このデモで主張されているのは、国歌を歌う権利、つまり所有の権利だけではなく、多様な帰属形態でもあるのです。 (p. 42)

 当然のように、ブッシュは「米国国家は英語で歌われるべきだ」と主張する。これは国民とは言語的多数民を意味し、言語を国民の帰属を決定し統制する手段として強制することである。国歌ならずとも、かつて大日本帝国は朝鮮半島を侵略したときに、日本臣民化を強要する手段の一つとして日本語を強制した。そのように、合州国ではナショナルな多数民が、大日本帝国ではファシズム権力(それに追随するナショナルな多数民としての日本人)がそれぞれの言語を「自分たちが望む条件で国民を規定しようとし、さらには、自由を行使できる人を定める排除規範を打ち立て、それを取り締まりさえする契機」とするのである。
 そして、それは「平等」の問題だという。

バトラー この国歌の唱和のなかに、「ソモス•エクアレス」(わたしたちは平等だ)という言葉を聞くことができます。ここで立ち止まって、この発話――「わたしたち」の平等性を大胆にも宣言しているだけでなく、翻訳について考えることも要求している発話――は、国民のただなかに翻訳という仕事を設定しているのではないかと考えなければなりません。隔絶や裂け目こそが平等の可能性の条件となり、したがって平等は、国民の同質性の拡大や増大にはつながりません。もちろんこれは、おわかりのようにわずかの複雑さを集団のなかに許容するだけで、結局は同質性の再設定でしかない複数性にすぎないかもしれません。けれどもこれを、複数性の行為と、翻訳される発話の両方として考えたとき、少なくとも二つの条件が、平等の主張のなかだけでなく、自由の行使のなかでも機能していることを見ることができるのではないでしょうか。差異と翻訳が不可欠な言語あるいは一連の言語のなかで、ある集団が自由を行使できるようになるには、リベラルな個人主義という存在論と共通言語という理念は二つとも放棄されるのです。 (p. 44-5)

 これは、スピヴァクが『ナショナリズムと想像力』で主張していたことと同質の主張である。彼女は、植民地ないしはポスト植民地的な地域における言語のクレオール語化(による言語の単一化という統制)を強く批判し、翻訳や比較文学を地域主義的に拡大強化することを訴えている

 国歌をマイノリティの言語で歌うというのは、きわめて刺激的なイメージを喚起する。最近、日本のレイシスト集団が東京・新大久保や大阪・鶴橋地区で反朝鮮民族デモを行っている。これは、阿倍自民党政権の誕生で気が強くなった一部の右翼レイシスト集団の跳ね上がり行動らしく、彼らの数倍を超える一般市民によるカウンター抗議に萎縮しはじめているらしいので、それがいかに醜悪な行いではあってもそれ自体は重要な社会的問題とはいえない。むしろ、「朝鮮人は死ね!」などとコールする日本人の集団行動にマスコミ・ジャーナリズムがさほど反応しないことの方が日本における深刻な社会的病理であろう。
 新大久保や鶴橋に住む在日の人々は、大日本帝国の誤謬によって強制的にナショナル・マイノリティとされた人々(の末裔)である。バトラーが語るマイノリティ言語で国歌を歌うという抵抗運動のことを読みながら、国歌による強制でナショナル・マイノリティとして異国に住まざるをえない人々が彼ら自身の母国語で「君が代」を歌うことをイメージした。もちろん、彼らは「君が代」を歌いたいなどとはけっして思ってはいないだろうし、現実に顕在化しているレイシストたちの醜悪な運動が誘起するであろう危険性を考えたらけっして勧められないことだが、そのような「君が代」を聞くマジョリティとしての私たち日本語国民の衝撃はどんなだろうか、と思うのである。
 それはけっして在日の人々のことだけではない。たとえば、アイヌ語で歌われてもいいし、琉球語で歌われても同じ問題を提起するだろう(ただし、これは琉球語を日本語の方言ではない独立した言語と見なすことを前提としている)。この4月28日に自民党政権は「主権回復の日」の式典を強行する。つまり、いわば沖縄の人々を日本の主権から除外するという現代の「琉球処分」を行ったサンフランシスコ平和条約の発効日(1952年4月28日)をあらためて祝うということは、まぎれもなく沖縄の人々はナショナル・マイノリティであると阿倍政権(国家権力)が宣言したに等しいのだから。
 しかし、このマイノリティの言語による「君が代斉唱」というイメージには明らかな弱点がある。つまり「君が代」そのものがそれに向いていないということである。米国国歌にせよ、多くの国の国歌は近代化の過程で形成された。その時点で、近代国民国家は曲がりなりにも理念的には多民族を内包することを前提にしている。ところが、「君が代」は近代国家形成のプロセスとは何の関係もない。むしろ、日本そのものがいまだ「未完の近代」に喘いでいる状態なのだと思う。そうであれば、マイノリティ言語で「君が代」が歌われたにせよ、バトラーが語るような国家や国民をめぐる豊かな思想的展開が生まれないのかも知れない。こういった点においても、日本は大塚英志の言う「土人」の国、宮台真司の言う「田子作」の国なのかも知れない [4]

 ここでは、マイノリティ言語で国歌を歌うということを、近代国家における抵抗の一様式であると一般化しておいて先に進もう。

バトラー たしかに国歌の唱和は街路でなされましたが、街路はまた、集結する自由をもたない人たちが集まれる場所として開かれています。これこそ、袋小路に陥るのではなく、反乱のかたちで展開できるパフォーマテイヴな矛盾だと指摘したいのです。なぜなら問題は、単に街路に国歌を響かせることではなく、街路を自由な集会の場所として開いていくことだからです。この点でその歌は、自由の表明や市民権の切望としてのみならず――実際その両方であるのですが――街路を再舞台化することとして、つまり集会の自由が法によって明確に禁止されている場所や時において集会の自由を行使することとして、理解することができるのです。たしかにこれこそパフォーマテイヴな政治であり、そこでは、主張することで非合法的になることが、まさに非合法的なことなのですが、しかしそれにもかかわらず、承認を要求する法そのものに歯向かつてもいるのです。 (p. 45-6)

 一国家におけるナショナル・マイノリティのと問題としての多民族と多言語の問題は、当然ながら「サバルタン」や「ディアスポラ」が現実に担っているであろうグローバルな諸問題に直結している。
 バトラーの長い講義を受けて、スピヴァクが語り出す。

スピヴァク 今日のグローバル化のなかに見られるのは、国民国家の衰退です。けれども指摘しておきたいのは、国家の系譜的な圧力は依然として強いことです。概してその衰退は、グローバル資本に益するように国家を経済的-政治的に再構築した結果起こっています。けれどもアーレントが気づかせてくれているように、国民国家という形態は当初から欠陥があったので、これは当然のことでもあるのです。国民国家型のさまざまな統一プログラムがあちこちで崩壊するのに伴って出現しているのは、古いかたちの多民族混成です。一方では東ヨーロッパや中央ヨーロッパの国々、そしてバルカン半島やカフカス地方があります。インドや中国も台頭してきています。これらはアーレント的意味での国民国家とは考えられない、数多くの「ナショナリティ」をもった巨大国家です。けれどもグローバル資本がポストコロニアルな性質をもっているとはいえ、抽象的な政治構造は依然として国家のなかに位置づけられています。合衆国はいくぶんポストコロニアルな好戦構造を生み出してきましたが、そのせいで問題をさらに複雑にしています。 (p. 55-6)

スピヴァク ジュディスが語るのはパフォーマテイヴな矛盾のなかに宿る権利についてですが、わたしが言いたいのは、パフォーマテイヴな矛盾でなくて宣言的なもの――普遍的な宣言――のなかに存在している権利のことで、それは国家(アーレント)と革命(マルクス)の両方の失敗のうえに成り立っているということです。このことをさらに詳しく書いたことがありますが、要約すれば、帝国主義は、持続的搾取のエイジェンシーとして機能するように植民地の行政府を整えていったということです。共産主義は、別の分野で同様のことをおこないました。経済だけでなく政治も、国民国家の衰退を促しました。この線に沿った典型の一つは、古いかたちの社会主義運動で、国家の腐敗から市民社会を守ろうとした国家外集団です。過去の推進力の残滓が、今、国家の再考にますます関心を抱いているようです。 (p. 60)

 本書では、スピヴァクの地域主義についてはほとんど触れられていない。スピヴァクの思想は、その「地域主義」の明瞭な概念がないと解けそうにもないのだが、本人自身が「まだ毛が生えたばかりのプロジェクト」 [p. 83] と評していて、私にも明確なイメージはない。はっきりしていることは、サバルタンやディアスポラが生活している場所、場所を国家の枠組みを超えて地域として包括する。そのための多言語運動(翻訳や比較文学による分析)を志向しているということくらいである

 バトラーは、スピヴァクとの共同性、共通性に言い及ぼうとして「国民国家を超えた民主主義を打ち立てようとする」ユルゲン・ハーバーマスを引き合いに出す。

バトラー 彼はEU(欧州連合)に味方する様々な見解を発表してきましたが、そこで彼が語っているのは、このような構造が民主的に作動しうること、ナショナリズムを打ち破る自己統治モデルになりうること、ポスト国家的(ナショナル)であることです。…… 民主的プロセスが起こりうるのはヨーロッパだと彼が想像したのは、偶然ではありません。なぜなら彼にとってヨーロッパは、民主的原則を明確に表現する特有の能力を蓄積してきたのであり、その民主的原則はナショナリスト的様相ではなく、文化的様相を見せているものだからです。しかし実際のところは、あなたが言うように、ヨーロッパ中心主義的様相にすぎないのですが。だからはたしてEUを自己統治の自己と考えてよいか、わたしは訝しく思っています。その自己とは、国境と移民政策を打ち立てることで自己統治する「わたしたち」なのですから。 (p. 62-3)

 批判的にハーバーマスに言及するバトラーに対して、スピヴァクはジャック・デリダで応答する

スピヴァク ハーバーマスなどのヨーロッパの思想家はコズモボリタン的普遍主義について語るときに、カントを持ち出します。時間がないので、ここではデリダの『ならず者国家』のことだけ述べましょう。デリダはここでカントの知識体系論に目を向け、カントが世界や自由を考えたときに生み出した「あたかも……のよう」の概念や、コズモボリタン的普遍主義と戦争との関係では、来るべきグローバルな民主主義を思考したり、それにコミットすることができないと述べています。またわたしがこれまで述べてきたように、ハンナ・アーレントは無国籍を語るときに国民と国家を別物と考えていたので、彼女にもう一度目を向けることも重要でないわけではないのです。デリダはのちに『友愛のポリティクス』のなかで、生まれと市民性の連結を解体しょうとするこの試みを、系譜学の脱構築と呼んでいます。批判的地域主義が始まるのは、まさにここなのです。 (p. 66-7)

 「生まれと巿民性の連結」を解体することで「批判的地域主義が始まる」という考えと、ヨーロッパ中心主義的な思想とは明確な乖離がある。かつて、『サバルタンは語ることができるか』において、ミシェル・フーコーとジル・ドゥルーズのヨーロッパ中心主義を批判したスピヴァクとしては、ハーバーマス的ヨーロッパ中心主義もまた受け入れがたいのかもしれない。

 スピヴァクは、批判的地域主義は分析ではない、歴史的な実践の積み重ねだという。さらに、スピヴァクの言は「歴史の神話詩学的概念がもつ破壊的潜勢力」に及ぶ。

スピヴァク 歴史が神話詩学的であるという考え方は、歴史が生成途中にあるということです。歴史を神話詩学と見るのは、哲学的思索の次元だけでなく、実践的政治の次元においてです。歴史を神話詩学と見るのは、哲学的思索の次元だけでなく、実践的政治の次元においても可能だと(両者の二項対立がどんなものであれ)、わたしには思えます。両者をそのように分けて考えるのは、現在の世界では危険だと考えています。 (p. 83-4)

 二人の議論の締めくくりは次のようなものである。少なくとも、私はそう思ってピックアップして、私の締めくくりとする。

スピヴァク 世界は、哲学と実践的なものの二項対立にあまりに苦しんでおり、神話詩学としての歴史を、哲学的なもの、前政治的なものに追い遣ってしまうことに苦しんでいるのです。すべてのものが苦しんでいます。 (p. 86)

バトラー 〔アーレントの〕この論文を気に入っている理由の一つは、歴史や権力の外側の存在論的状況に置かれている人が一人もいないということだと思います。こうした人たちが集まって革命を起こすことができるなら、その理由は、その人たちが苦しんできたからであり、批判してきたからであり、さまざまな理由によって結束し、分析や歴史に基づく連帯を生み出してきたからです。 (p. 86)

 

[1] ガヤトリ・C・スピヴァク(鈴木英明訳)『ナショナリズムと想像力』(青土社、2011年)。
[2] ジュディス・バトラー(佐藤嘉幸、清水知子訳)『権力の心的な生――主体化=服従化に関する諸理論』(月曜社、2012年)。
[3] ジュディス・バトラー、エルネスト・ラクラウ、スラヴォイ・ジジェク(竹村和子、村山敏勝訳)『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』、青土社、2002年)。
[4] 大塚英志、宮台真司『愚民社会』(太田出版、2012年)。
[5] ガーヤットリー・チャクラヴォルティ・スピヴァク(上村忠男訳)『サバルタンは語ることができるか』(みすず書房、1998年)。



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