かわたれどきの頁繰り

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『ウィーン美術史美術館所蔵 風景画の誕生』展  Bunkamura ザ・ミュージアム

2015年09月19日 | 展覧会

2015/9/19

 国外に出ることも多くなく、それほど多くの美術館を訪ねてもいないのだが、ウィーン美術史美術館だけはたまたま三回も訪ねるチャンスに恵まれた。ただ、多くの所蔵作品を見終えた後は、過剰な満腹感が記憶回路とか記憶装置を麻痺させてしまうようで、あまり記憶が鮮明とは言えない。
 ウィーンでは、美術史美術館(Kunsthistorisches Museum)が十九世紀くらいまでの絵画を、オーストリア・ギャラリー(Österreichische Galerie・Belvedere)が中世から現代までの絵画を展示していて、正直に言えば、ベルヴェデーレの方が私には馴染みがいい。

 「風景画」と気楽に呼んでいるものの、ただの観者に過ぎない私にとって、その定義はけっこういい加減である。それを教えられたのは、ドイツ・ロマン派の画家C・D・フリードリッヒを論じた小林敏明の『風景の無意識』を読んだときである。
 ギリシア(ローマ)神話やキリスト教の逸話は西洋絵画の主要な主題で多くの作品が描かれてきた。そこでは、たしかに背景としては風景がずっと描かれてきた。しかし、ヨーロッパ絵画において風景画というカテゴリーが歴史的に確立するのは、けっして古い時代ではない。小林敏明は、風景自体が主題として描かれるようになるのはニコラ・プッサンやロイスダールが現われる17世紀になってからだと指摘している [1]
 そういった意味で、ウィーン美術史美術館所蔵の「風景画」を集めた展覧会を『風景画の始まり』と名付けるのは的を得ているのだと思う。風景画というカテゴリーが歴史的に確立する以前から風景を描いた絵はたくさん存在した。主題は必ずしも風景そのものではなかったにせよ、風景に向かい合う画家の視線、風景を描く技法はずっと古くからあったのである。

 展示は大きく二つに分けられていた。前半は、「風景画の誕生」として、聖書や神話を主題とした絵画に描かれた風景や人びとの暮らしの場(農業や牧畜)を描いた絵の中の風景などが取り上げられている。後半は、「風景画の展開」として、小林敏明が指摘した風景画というカテゴリーが歴史的に確立した時期の絵、つまり風景そのものを主題とした絵が展示されている。


ヤン・ブリューゲル(子)《エジプトへの逃避途上の休息》1626年以後、
油彩・板(オーク)、61×83cm(図録[2]、p. 41)。


フランドルの画家《キリストの誘惑が描かれた風景》1550-75年頃、
油彩・キャンヴァス、51.5×50.5cm(図録、p. 53)。


ヨアヒム・パティニール《聖カタリナの車輪の奇跡》1515年以前、
油彩・板(オーク)、27×44cm(図録、p. 49)。

 聖母子像を描いた絵は無数に存在し、この会場でも多く展示されていたが、もっとも印象に残った絵としてヤン・ブリューゲル(子)の《エジプトへの逃避途上の休息》を挙げておく。ベツレヘムやその近郊の二歳以下の幼子の抹殺を命じたヘロデ王の追っ手を逃れてエジプトに向かう聖母子を描いている絵である。
 右手奥にヨセフらしい人物が小さく描かれ、左手にはエジプトへの逃避を暗示する港(入江)が描かれて、物語の素材は揃っている。しかし、聖母子像と背景のコントラストは、なによりもまず聖母子そのものを描くことが眼目であり、背景は聖母子を浮かび上がらせるためだけに描かれていることを示している。
 このような描き方は、たとえ風景が描かれていても、それが聖書や神話の物語を主題とする絵に共通しているようである。《キリストの誘拐が描かれた風景》は、風景が大きく画面を占めているものの、やはり、岩山の前のキリストと誘惑者(悪魔)の場面と遠景の景色は必ずしも強い相関があるわけではない。そこには橋や建物や家畜が描かれ、少なくとも、聖書に描かれたキリストが断食修行する「荒野」には見えない。

 上の2点とは異なり、パティニールの《聖カタリナの車輪の奇跡》では風景と物語の相関性は強いように思える。日本の物語絵巻に近いものを感じる。ただ、この絵はとても小さい画面に細々と描かれているため、実物で細部を確認することは難しかった。近眼と老眼を合わせもつ身には、図録 [2] で細部を確認するしかなかったのが残念だった。


ダーフィット・テニールス(父)《メルクリウスとアルゴス、イオ》1638年[年記あり]、
油彩・銅版、48.5×61.5cm(図録、p. 77)。

 《メルクリウスとアルゴス、イオ》は、聖書ではなくギリシア神話に主題を採ったものだが、物語と背景の親和性は高い。ここには、女神イオが化身した牛が描かれている。
 ウィーン美術史美術館はコレッジオ(アントニを・アレグリ)が描いた《ジュピターとイオ》という絵も所蔵していて、そこには霧に変身したユピテル(ジュピター)が女神イオを誘拐する場面が描かれている。1度だけ一緒に美術館に行った妻がとてもお気に入りの絵である。理由は簡単で、わが家の老いた牝犬の名前が「イオ」なのである。女神イオは、木星の衛星(月)の名前となり、それがわが家の子犬に継がれたのである。


フランチェスコ・アルバーニ(工房)《悔悛するマグダラのマリア》1640年頃(?)、
油彩・キャンヴァス、117×95.5cm(図録、p. 61)。


サルヴァトール・ローザ《アストライアーの再来》1642-44年頃、
油彩・キャンヴァス、138×209cm(図録、p. 79)。

 《悔悛するマグダラのマリア》では、主題の物語と背景の関係がもう少し明確に見られる。人里から遠く離れ、マグダラのマリアが悔悛する「荒野」にふさわしい風景が描かれている。その点では、《キリストの誘拐が描かれた風景》に描かれた背景とは意味が大きく異なる。にもかかわらず、風景の中の雲には多くの天使が描かれ、現実の自然の風景から天界の風景、またはマグダラのマリアが思い描くファンタスムとしての風景へと変容しつつあるように見えてしまう。
 そのような宗教性をもっと強調した(主題を強調した)のが、《アストライアーの再来》であろう。ギリシア神話の正義の女神アストライアーが「平穏な農民たちのもとで暮らしていた」(図録、p. 78)様子が描かれているが、遠方に広がっているであろう風景は女神が乗る雲の陰に隠れてしまっている。つまり、女神と天使がのる雲を除けば、風景画というよりも農家と農民の姿を描いた風俗画に近いのである。


南ネーデルランドの画家(ヒエロムニス・ボスに基づく)《聖アントニウスの誘惑》1560-70年頃、
油彩・板(オーク)、28×42cm(図録、p. 69)。


ヘイスブレヒト・リテンス《宿営する放浪の民のいる冬の風景》17世紀後半、
油彩・板(オーク)、66.5×56cm(図録、p. 133)。

 天使や神が存在する風景、あるいは強い信仰心がもたらすファンタスムとしての天界の風景もまた人間が見る風景には違いない。
 アントニウスは、その信仰深さ、敬虔さゆえに悪魔によってさまざまな誘惑が試された聖者として伝えられていて、それを描いたヒエロムニス・ボスの《聖アントニウスの誘惑》はよく知られている。それをもとに描いた南ネーデルランドの画家の絵は、幻想的な世界ではあってもその風景は物語り上必須であって、全体としては調和のとれた構成になっていると言える。

 《宿営する放浪の民のいる冬の風景》は、聖書にも神話にも主題を採らず、タイトルも冬の風景を主題としているように見える。しかし、主題は対蹠的であるものの、私には《聖アントニウスの誘惑》と同じような幻想の風景にしか思えなかった。
 第1に目を惹いたのが、大部を占める木々は白く厳冬を思わせるのに、下部から左端を通って上部半分まで額縁のように繋がる装飾的な樹木には葉が茂っていることだ。細部に目をやると、焚火にあたっているとはいえ肌脱ぎになっている人物や腰布だけで裸足のまま遊んでいる子どもまでいる。つまり、このままでは風俗画としても風景画としても自然そのものではない。
 《宿営する放浪の民のいる冬の風景》を後世に生きる私(たち)は素直に風景画としては受け入れがたいけれども、絵画の魅力はたいへんなものがあると思う。この絵は、ある瞬間で切り取った風景を描いたものではなく、放浪の民にとって厳しい寒さの冬に向かう時間軸があって、手前から奥に向かって時が進むように描かれていると考えることができるのではないか。だからこそ、その端境で焚火を囲む人びとは、半ばは温かかな秋の姿で、半ばは冬支度で描かれていると理解できよう。 


レアンドロ・バッサーノ(本名:レアンドロ・ダ・ポンテ)《5月》1580-85年頃、
油彩・キャンヴァス、145.5×164cm(図録、p. 85)。


レアンドロ・バッサーノ(本名:レアンドロ・ダ・ポンテ)《6月》1580-85年頃、
油彩・キャンヴァス、145×216cm(図録、p. 87)。

 レアンドロ・バッサーノの2点の絵は、12ヶ月を描いた中から私の好みの風景が描かれたものを選んだものだ。主題は、月々で変化する人びとの暮らしの様子であって、いわば風俗画というカテゴリーに含んでもいいものだろう。背景には季節によって変わる農地とそれに続く森や山が描かれている。
 空には12ヶ月のそれぞれを象徴する天体の黄道十二宮が描かれている。ちなみに、5月は双児宮(双子座)、6月は巨蟹宮(蟹座)である。6月のシンボルはサソリではなくザリガニということらしい。ザリガニも蟹のうちには違いない。
 この12ヶ月を描いた絵は、とても見栄えのする絵である。家の中や庭先、あるいは農地や牧場で行なう農民の月々の仕事をまとめて、あたかもすべてが農家の庭先で行なっているように構成されていて、背景としての風景もそれぞれの季節の作業と強い相関を示している。いわば、農村(庶民)の風俗を一望できる絵というのは見ていて楽しいし、飽きない。


ルーカス・ファン・ファルケンボルフ《夏の風景(7月または8月)》1585年[年記あり]、
油彩・キャンヴァス、116×198cm(図録、p. 99)。


ヤン・シベルフツ《浅瀬》1664-65年頃、油彩・キャンヴァス、
115×90cm(図録、p. 111)。

 農民の暮らしを描いた絵で有名なのはブリューゲルだが、ウィーン美術史美術館にはブリューゲルの絵だけを展示している一室がある。そこには《The Return of the Hunters(Winter)》、《The Stormy Day(Just before Spring)》、《Return of the Herd(Autumn)》などの風景のなかに配された人びとが描かれている絵が含まれていた。
 ルーカス・ファン・ファルケンボルフの《夏の風景(7月または8月)》は、そのようなブリューゲルの絵に主題も構図も似ている。
 ヤン・シベルフツの《浅瀬》は、ブリューゲルのような広大な風景を描いているわけではないが、その分だけ、荷馬車で浅瀬を渡る農民や牛に焦点が強く当てられていて、私にとってはとても好もしい絵になっている。


ニコラース・ベルヒェム《水道橋の廃墟のある風景》1675年[年記あり]、
油彩・キャンヴァス、68.5×82.5cm(図録、p. 121)。


ヘルマン・サフトレーフェン(子)《船着き場のあるライン川の風景》1666年[年記あり]、
油彩・板(オーク)、46.5×63cm(図録、p. 127)。


ヤーコブ・ファン・ロイスダール《渓流のある風景》1670-80年頃、
油彩・板で裏打ちされたキャンヴァス、52.3×66cm(図録、p. 141)。

 最後に、誰にとっても「風景画」とカテゴライズされる絵を挙げておく。
 《水道橋の廃墟のある風景》も《船着き場のあるライン川の風景》も、背景の空は輝くような明るさで描かれ、遠く彼方に見える山々も明るく、それが人間のいる近景に近づくにつれて陰影が濃くなるように描かれている。とくに、ベルヒェムの絵では、左斜め後方から廃墟の水道橋にあたる光の効果が著しい。光線の効果的な使い方がいいのか、構図がいいのか、あるいはその相乗効果なのか、いずれにせよとてもお気に入りになった絵ではある。

 風景画の代表的な画家を挙げるとすれば、その中にロイスダールも入るに違いない。有名なヨーロッパの美術館展であれば、たいていロイスダールの風景画が含まれていたように記憶している。
 私の中では、ロイスダールは風景画の古典のように思えるのである。つまり、小林敏明がニコラ・プッサンやロイスダールが現われる17世紀をもって風景画というカテゴリーが確立したと述べていることに対応するように、感覚的、経験的にではあるが、私の中では風景画はロイスダール辺りから始まると受け止めてきたらしいのである。

 

[1] 小林敏明『風景の無意識――C・D・フリードリッヒ論』(作品社、2014年) p. 73。
[2] 『ウィーン美術史美術館所蔵 風景画の誕生』(以下、図録)(Bunkamura、2015年)。