かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【書評】辺見庸『瓦礫の中から言葉を――わたしの〈死者〉へ』(NHK出版、2012年)

2013年07月28日 | 読書

          

夜ふけの浜辺にあおむいて
わたしの死者よ
どうかひとりでうたえ
浜菊はまだ咲くな
畔唐菜はまだ悼むな
わたしの死者ひとりびとりの肺に
ことなるそれだけのふさわしいことばが
あてがわれるまで
   「死者にことばをあてがえ」(詩集『眼の海』毎口新聞社より)部分  (p. 11)

 著者は、「橋――あとがきの代わりに」で、本書のテーマは「言葉と言葉の間に屍がある」と「人問存在というものの根源的な無責任さ」であると述べている。この二つのフレーズは、ともに六章からなる本書の最終章で語られている。つまり、〈3・11〉を契機として、タイトルとサブタイトルに明示されている〈死者〉と〈言葉〉をめぐる思索が最終章において二つの主題に収束していくのである。辺見庸は、これまでも〈死者〉と〈言葉〉を主題として思索と著作を重ねてきて、〈3・11〉で一つの真摯な屈曲が言葉としてこの本に結実した、そんなふうに思う。

 著者は、宮城県石巻市の生れである。そこはもちろん、「わたしの感官の土台をこしらえ、触感、視感、嗅覚、予覚、発想、思考法、言葉の基本(母語の祖型)がつちかわれた大事な場所」 (p. 16) なのであったが、〈3・11〉によって「わたしが通っていた学校の三階建ての校舎(むろん昔の校舎ではありません)が、焼けただれて、校庭いっぱいに何十台もの自動車が黒焦げになって折り重なって」 (p. 49) いる写真が故郷の友人から送られてくる。

 震災当初は、カメラをむけたらいやでも屍体を撮ってしまうほどといわれた現場なのに、テレビや新聞は丹念に死と屍体のリアリティを消しました。なぜそうする必要があるのかわたしにはわかりません。あのような報道ならば、鴨長明の『方丈記』のほうが災厄というもののすさまじい実相をリアルにつたえていると言えるでしよう。
 いずれにせよ、マスコミによる死の無化と数値化、屍体の隠蔽、死の意味の希釈が、事態の解釈をかえってむつかしくしました。死を考える手がかりがないものだから、おびただしい死者が数値では存在するはずなのに、その感覚、肉感とそこからわいてくる生きた言葉がないために、悲しみと悼みが宙づりになってしまったのです。  (p. 56)


校庭の瓦礫は片付けられたが(2年後の石巻市立門脇小学校)。(2013/5/20 12:35 小野寺写)

 地震と津波、原発事故の想像を絶する破壊と災厄の規模、喪われた命の多さを前にした深い悲しみ、驚愕と恐怖、そして未来への不安に対して私たちはそれに見合う〈言葉〉を持たなかった。そのような〈言葉〉を持たないことが、いっそう不安を駆り立てる。
 しかし、テレビや新聞もまた〈言葉〉を持たないのだったが、私たちとは異なり「言葉なき報道」は溢れかえっていた。

 テレビや新聞で連日連夜、流されていたものはなにかというと、それは乾いたデータであり、死者の数、行方不明者の数、原発からでている放射線量の数値でしかない。おびただしい屍体をかき消した、薄っぺらな風景でしかありませんでした。死はそれぞれの重み、厚み、深み、リアリティを奪われ、風景はいわば漂白され除染され除菌され消臭されていました。 (p. 22)

 いずれにせよ、マスコミによる死の無化と数値化、屍体の隠蔽、死の意味の希釈が、事態の解釈をかえってむつかしくしました。死を考える手がかりがないものだから、おびただしい死者が数値では存在するはずなのに、その感覚、肉感とそこからわいてくる生きた言葉がないために、悲しみと悼みが宙づりになってしまったのです。  (p. 56)

 真なる言葉を持たない報道、言説は、悲しみやシンパシーを組織するように働き、連日、われわれの「絆」を連呼し、悲しみとシンパシーを国民の統一された感情、意識へ向かわせようと作用する。

この国が変わるべきだという意見には、どのように、という疑問がつきまといます。大体、国家や民族、文化などという巨大な言葉にはいつも警戒すべきです。3・11後、この国のありようは変わらなければならないとよく言われる。なりたちゆかなくなった経済状況ともからめて、3 ・11以降、しがない個々人の生活より国家や国防、地域共同体の利益を優先するのが当然という流れが自然にできてきている。
 「個人」は「国民」へ、「私」は「われわれ」へと、いつの間にか統合されつつあります。そして、この国は、われわれは、変わらなければならないと言われ、それが見えない強制力、統制力になって、個はますます影が薄くなっている。3・11以降、内心の表現は3 ・11以前よりさらに窮屈に、不自由になっています。そのことにわたしはとくに注目しています。 (p. 29-30)

 マスコミにおいてほとんど消えかかった「現状にたいする「否定的思惟」や根源的問題提起の情熱」を批判しつつ、著者は、「ありえないことは、もはやなにひとつない。かつてありえないとされたことも、これからはすべてありうる」 (p. 62) という世界認識を示す。

 この破壊の規模は、絶大という言葉を超えている。かぎりがないのです。とめどないと言ってもいいほどの破壊です。町全体がずれていく。ずれて山側に押し流されるなんていう風景はありえない。スライドして盛り上がる、揺れる、海鳴りと地鳴りがいっしょにする。水柱が立つ、火柱が立つ、土煙が立つ、舞い上がる。ああいう風景はありえない、impossibleとされてきた。原発はそれを前提して、事故はimpossibleだというふうに断定して成立しました。ところが、メルトダウンはprobableであったし、別の表現で言えばinevitableであったわけです。 (p. 68)

 原発溶融事故は、inevitableであった。起きてしまえば、これほど自明なことはない。これは、アドルノが「アウシュヴィッツの後」の世界を「アウシュヴィッツが可能であった世界」 [1] と評したことと共鳴している。かつて人々は、人間の本性、その倫理性に鑑みてアウシュヴィッツのような出来事を想像すらできなかったし、絶対的に不可能(impossible)だと考えていた。しかし、それがpossibleであったことに驚愕し、打ちのめされた。それが「アウシュヴィッツが可能であった世界」という哲学的認識の意味であって、事実問題からいえば実際に起きたことはprobableなのである。
 それでは、アウシュヴィッツはinevitableではなかったのか。グレゴリー・ベイトソンを引用しつつ安富歩が語ることによれば、第1次世界大戦を終結させるために開かれたヴェルサイユ会議から世界の歴史的発狂が始まったという [2] 。時のアメリカ合州国大統領ウッドロウ・ウィルソンは「領土の併合も、賠償金の徴収も、懲罰的措置も」一切含まない講和条約を提示してドイツを降伏に導いたが、実際にヴェルサイユで締結された条約にはすべてが含まれていた。「これは歴史的裏切りであり、人類の欺瞞の絶頂点であると言ってもよい」と安富は評している。過酷な経済状況が論理的必然としてナチスを生み出したと考えれば、アウシュヴィッツはinevitableであったと言えるだろう。

 アドルノに倣えば、私たちはすでに「原発溶融事故が可能な時代」、「放射能汚染による故郷喪失が可能な時代」、「内部被爆による子どもたちの未来喪失が可能な時代」を生きている。深い地下でプレートが複雑に交差する日本という国土にとって地震や津波が避けられない(inevitable)ことは、地震学のみならず歴史によって否定しがたく証明されている。したがって、地震や津波による原発の被害はinevitableである。そのような国土に54基もの原発を建設するという狂気ですら、さすがに人口密集地の東京や大阪、名古屋を避けて建設する。原発推進は、原発を推進する政治家も電力会社も、まぎれもなく原発事故がinevitableであることを前提にしているのだ。
 だから、今や私たちは次のように言い換えなければならない。私たちはすでに「原発溶融事故が避けられない時代」、「放射能汚染による故郷喪失が避けられない時代」、「内部被爆による子どもたちの未来喪失が避けられない時代」を生きている、と。

出来事の反復性ということでは、旧約聖書の「コヘレトの言葉」は示唆的です。

かつてあったことは、これからもあり
かつて起こったことは、これからも起こる。 (p. 70)

 そして、「起きてしまった」ことに対して、私たちの〈言葉〉はどんな風であったか。政府はどんな〈言葉〉を国民に発したか。ジャーナリズムはどのような〈言葉〉で何を伝えようとしたか。それはこんな風であった。

 福島第一原発・.原子炉建屋のまぎれもない爆発を、政府がわざわざ「爆発的事象」と呼んだり、炉心溶融の発生中に「炉心の一部損傷」「炉心溶融の可能性」などと事態の重大性を薄めて発表し、大方のマスメディアもそれに追随していった経緯にはこうした社会心理的な要因も考えられます。
 東京のある放送局につとめるわたしの若い友人は、3・11発生後の局内の雰囲気を「まるで戒厳令下です」と語りました。言うまでもなく友人は戒厳令を経験したことがありません。ですから、ただの想像でそう言ったのです。  (p. 89)

 事故から二か月もへてから、東京電力と政府はやつと燃料は三月時点でメルトダウンしていたと発表しました。マスコミは驚きあわてたかのように、一斉に東電や政府の“メルトダウン隠し”を批判しはじめます。このなりゆきにそらぞらしさを感じたのはわたしだけではないでしょう。というのも、マスメディアの科学担当記者らの多くは事故発生後ほどなくメルトダウンの事実を知りえていたというからです。 (p. 96)

 福島原発から放出された放射性セシウム137は広島に投下された原チ爆弾の百六十八個分。このセンテンスはなにかとんでもないことを表現しているようです。ところが、語り手や記事の書き手が、数値と人間の間の恐ろしい真空を、生きた言葉で埋めようとしていないために(そのような意欲もないために)、数値と人間の関係を言いえず、結果、なにごとも表現しえてはいないのです
 そうであるなら、「こんにちワンありがとウサギ魔法の言葉で楽しいなかまがぽぽぽぽーん」と、どれほどのちがいがあるでしょうか。それはもはや主体の自覚的な意味作用を超えたエクリチュールでさえなく、ただの記号にすぎません。考える人ではなく、存在をほとんど記号化された役人や記者たちが臓腑から吐いたガスのようなものです。 (p. 103)

 絶望的なほど〈言葉が〉ない、というより言葉に対する信頼がない。国民に事実を伝えようとする意志がない政府・官僚の言葉は、そのままただの嘘、虚偽にすぎない。政府・官僚あるいはスポンサーである資本の気分を忖度するためか、本質的な無能力のためか分らないが、マスコミ・ジャーナリズムの〈言葉〉にも真実はなく、腐った言葉の端々から情報をつまみ出すのに苦労する。

 しかし、著者は峠三吉や原民喜に〈ヒロシマ〉という悲惨を生きる真性の〈言葉〉を見ている。

 「スベテアッタコトカアリエタコトナノカ/パット剝ギトッテシマッタアトノセカイ」。この二行は、そのまま大震災、原発メルトダウンにあてはめてもなんら違和感がありません。 (p. 116)

 ただし、原民喜の〈言葉〉と対極に位置する言葉もある。

 原爆投下に関する昭和天皇の言葉(一九七五年十月)もまた、いまでも考察にあたいする軽みがあると言わざるをえません。「原子爆弾が投下されたことに対しては、遺憾には思っていますが、こういう戦争中であることですから、広島市民に対しては気の毒であるが、やむをえないことと私は思っています」。これでは言うまでもなく、「アカクヤケタダレタニンゲンノ死体ノキミヨウナリズム」と、釣り合うことも連なることもつながることも舫いあうこともないのです (p. 118-9)

 多くの国民が瞬時に死亡し、残された多くも被爆によって苦しみながら死につつあるときの残酷な〈言葉〉があるにも関わらず、原民喜や峠三吉がその場に存在したこと、彼らの〈言葉〉があったこと、著者はそのことに希望を見る。

 原爆投下というあの大虐殺じたい途方もない所業です。そうであるとともに、このように死のパノラマを短い詩としてあくまで言葉により黙示的に展開しえたことに、わたしはいまでも舌を巻いております。それは民喜その人とその言葉への驚きと敬意であり、また、言葉のもつ可能性への驚きでもあります。
 わたしは奈落の底で言葉がひらいた可能性について、後年いろいろと考えてみました。そして、ひとつの結論にたどりいたりました。それは、奈落の底で言葉がひらいた可能性とは、薄ら陽のような〈希望〉であり、言葉によって人である証しをたてたのだ、ということです。 (p. 113)

 〈3・11〉の後、日本の将来やその再生について著者はいくつかのマスコミにインタビューを受けるが、「この際いっそ滅びてみてもよいのではないか」「べつに再生しなくてもかまわないのではないか」 (p. 142) などとまぜかえす。もちろん、それは報道されない。

 わたしはいまさらなにも驚いてはいません。記者たちは無意識に現実の世界を、だれに命じられてもいないのに、修正しているのです。取材対象にたくさんしゃべらせて、自分の世界像に合う部分のみで、記事をつくります。新聞、テレビの「街の声」くらいいいかげんなものはありません。「日本はこの際いっそ滅びてみてもよいのではないでしょうか」。そのような声は、検閲制度がないにもかかわらず、あったとしても、ないことにされてしまいます。 (p. 142-3)

 著者は、だからこそ、民主主義を標榜する現在の日本が太平洋戦争敗戦以前の天皇制ファシズムの頃より〈言葉〉が不自由なのではないか、多様性を失っているのではないか、と疑う。「言いたい放題」のような自由な言説の例として、関東大震災に対する折口信夫の詩「砂けぶり」や、東京大空襲の焼け跡を描く川端康成の小説「空に動く灯」を挙げている。

憎い きらびやかさも、
繊細のもつたいなさも、
あ、愉快と言つてのけようか。
一擧になくなつちまった。
  (『折口信夫全集 第廿二卷』中央公論社より)  (p. 144-5)

……さうだ。都が炎上したのは、妖艶な女が天然痘で死んだやうなものだ。しかしね君、女優ナナが天然痘で死んだからと言って、彼女達の體を享樂してゐた男連の慾望は死にはしなかったらう。見給へ、古い都の屍の上に新しい都は蘇りつつある。そして人々はさかしげに言ふのだ。あたかも、ナナの情夫の一人がナナの死を見た時、色も香もない宿の妻に歸らねばならないと淚を流したやうなことをね。――
         (『川端康成全集第二巻』新潮社より)  (p. 149)

 文学的表現とはいえ、このような語り口で〈3・11〉に触れたら、「不謹慎」だと騒がれることは間違いない。いつでもtwitterなどのソーシャルメディアは、そのような弾劾で満ちあふれている。そしてなによりも、ジャーナリストにも、文学者にも、そして私たちにも「心的メカニズムが自動的に」 (p. 152) 作動して、〈言葉〉を殺しているに違いない。私たちは、自ら不寛容な社会を形成しつつ、その中へ我が身を投じているようだ。
 著者自身もまた、次のように自らを評している。

 そして、わたしが、「空に動く灯」を言いたい放題だなと感じることじたい、内面の機制がはたらいた結果だと気づくのです。 (p. 155)

 最終章で、著者の思索は濃密に〈死者〉と〈言葉〉に関わっていく。それは、著者が二十代からずっと心に思っていた〈言葉と言葉の間にカダヴルがある〉というフレーズに集約されている。そのフレーズは、堀田善衛の小説にインスパイアされて生まれたらしい。

 「フランス語でね、屍のことをカダヴルというわね。それでね、こんな言い方もあるのよ。Il y a un cadavre entre eux. っていうの。彼ラノアイダニ一ツノ屍ガアル、というのが直訳だけど、ほんとは、彼ラハグルニナッテ何カヤッテイル、って意味なのよ」
「それで……」
「それで、ってことは別にないけど」
「ワレワレデアル彼ラハグルニナッテ何カヤッテイル、ってわけか」
「まあ、ね」
「屍ってのは、つまり物でもなければ人間でもない、要するに始末におえないものなわけだ。ウサン臭いものなわけだ」
          (堀田善衛『橋上幻像』から) (p. 168)

 そして、著者は、「戦争もファシズムも、もろもろの革命も、言葉と言葉の間に屍を生むものではないのか」 (p. 166) と考える。そのような話を若い雑誌記者としていて、著者は、その記者を通して同じ堀田善衛の別の〈言葉〉に行きつく。それは堀田善衛の『方丈記私記』に出てくる「人間存在というものの根源的な無責任さ」という〈言葉〉である (p. 172) 。東京大空襲で「巨大な火炎地帯」となった本所深川に臨みつつ、作家は「大火炎の中に女の顔」をその死とともに思い浮かべながら他者の死に対する「人間存在というものの根源的な無責任さ」を思うのである。

 しかし、著者はそこにとどまらない。「人間存在」を「私」に置き換えて考えるのだ。

 「私の無責任」をただちに「人問存在の無責任」に一般化、普遍化することが、この場合、すなわち、「大火焰のなかに女の顔を思い浮べてみて」という個別主体的場面においてできるのだろうか――という一抹の疑りから、普遍化ではなく、「私」という個別存在に「無責任」の罪をいったん閉じこめるか背負わせるかしてみたわけです。
 「私の無責任」を「人間存在の無責任」に一般化し、罪を散らせたら、大火炎の中で黒こげになっているかもしれない親しい女性への体のよい“逃げ口上”みたいではないか。やはりそう思わぬでありません。このこともまた、〈言葉と言葉の間にカダヴルがある〉という謎のアフォリズムとなにかかかわりがあるような気がいたします。 (p. 177)

 さらに著者がおもむく先は、堀田善衛の恐ろしい(著者にとってではなく、私にとって恐ろしい)感慨に向かう。同じ『方丈記私記』のなかに書かれている。

……満州事変以来のすべての戦争運営の最高責任者としての天皇をはじめとして、その住居、事務所、機関、などの全部が焼け落ちて、天皇をはじめとして全部が罹災者、つまりは難民になってしまえば、それで終りだ、終りだ、ということは、つまりはもう一つの始りだ、ということだ、ということが、…(中略)…一つの啓示のようにして私にやって来たのであった。上から下まで、軍から徴用工まで、天皇から二等兵まで全部が全部、難民になってしまえば。……
 これはなんとすごいイメージでしょうか。上は昭和天皇から、下は二等兵まで、この国の全員がいっそのこと「難民」になってしまえば、それは終わりであると同時に、なにかまだ見たこともない新しい未来のはじまりなのだ――という啓示。堀田善衛にとって、それはこの国が「平べったくなる」という幻想とそこはかとない期待でもありました。
 堀田善衛は別の個所でも、「この分では日本国の一切が焼け落ちて平べったくなり、階級制度もまた焼け落ちて平べったくなる、という、無気味で、しかもなお一面においてさわやかな期待の感」について述べています。 (p. 179-80)

 〈3・11〉で流布された言葉の中に、このような圧倒的な変革へのイメージなどがあっただろうか。「未曾有の災厄」とか「言葉を失いました」とか、あるいは「絆」であり、ひたすら「復旧」、「復興」の繰り返しばかりで、「瓦礫のそのはるかむこうに新しい人と新しい社会を見たいという焼けるような渇望」 (p. 182) を感じる言説に出合うことは難しい。

 若い雑誌記者によって喚起された思考は、記者の「3・11後に読んだ文でいちばんよかったものはなんですか」という質問に答える形で結語に向かう。著者は、宮澤賢治の「眼にて云ふ」(疾中」所収)という詩にとても感動したという。〈死者〉からの〈言葉〉と〈眼差し〉である。

その詩の最後の十行はこうです。

血がでてゐるにかゝはらず
こんなにのんきで苦しくないのは
魂魄なかばからだをはなれたのですかな
たゞどうも血のために
それを云へないがひどいです
あなたの方からみたら
ずいぶんさんたんたるけしきでせうが
わたくしから見えるのは
やっぱりきれいな青ぞらと
すきとほった風ばかりです。 (p. 187-8)

 

 

[1] 渡名喜庸哲の引用、ジャン=リュック・ナンシー(渡名喜庸哲訳)『フクシマの後で――破局・技術・民主主義』(以文社、2012年)p. 176。
[2] 安富歩『幻影からの脱出』(明石書店、2012年)p. 172。

 


【書評】ジャン=リュック・ナンシー(渡名喜庸哲訳)『フクシマの後で』(以文社、2012年)

2013年07月24日 | 読書

           

 本書は、「第一章 破局の等価性――フクシマの後で」、「第二章 集積について」、「第三章 民主主義の実相」という独立した論考から成り、それぞれ2012年、2011年、2008年の発表年と逆順に掲載されている。私としては、第一章の「フクシマの後で」が主たる関心でこの本を手にしたのである。
 「序にかえて」のなかでナンシーは、「後で」の時間性についてこう述べている。

よりいっそう広い、一世紀や二世紀以上の広がりをもった「後で」があるのです。一つの文明が道を逸れたり、砕け散ったりするには、少なくともこのような期間が必要なのですし、また、それが新たな選択をすることによって――暗いものであれ、別の仕方で照らされたものであれ――新たな時代に入っていくにはこうした期間が必要なのです。 (p. 8)

 この時間性は、ナンシーの説く民主主義の本質(「来たるべき民主主義」というべきか)と深く関連していて、「民主主義の実相」は「破局の等価性――フクシマの後で」を読み解くうえでも重要で、実際に興味深く読むことができた。
 ここでは本の構成とは逆に、「民主主義の実相」と「破局の等価性――フクシマの後で」を発表順に従って取り上げてみる。

 フランスの哲学者らしく、ナンシーは〈68年〉の意味を問うことから民主主義について語り始める。そして、それは〈68年〉という時にあるのではなく、〈68年〉の「その後」の40年にあるのだという。

……六八年の「遺産」について語る理由などないということだ。遺産などないし、死去があったわけでもない。その精神は絶えず息吹き続けていたのだ。 (p. 117)

 第2次大戦の後、ファシズムやスターリニズム(全体主義)の攻撃にさらさられて、人々は民主主義を再考するようになった。民主主義を考えるうえで〈68年〉の時代的意味は次のような点にある。

 われわれは民主主義が攻撃を受けているということは見ていたのだが、しかし、われわれは、この民主主義はこうした攻撃に対し自ら身をさらけ出していたということ、そしてこの民主主義はそのものとして擁護されることと同じくらい新たに創案されることを要求していたということ、このことは見ていなかつたのである。六八年は、このような創案の要請の最初の噴出であった。 (p. 124)

脱植民地主義の深い振動のただなかにあって――あるときには革命的社会主義の、あるときには共和的社会主義のモデルの拡張をともなって――、また、思想や表象の構造的な変異のただなかにあって、レヴィ=ストロース、フーコー、ドゥルーズないしデリダが非常に早くから診断を下していたように、われわれは「〈歴史〉」の時代から抜け出ようとしていたのだ。 (p. 126-8)

 「〈歴史〉」の時代から抜け出すということは、「コンセプション」の体制から抜け出すということで、「それとは別の思考の体制」が開かれようとしたのだ。それは、けっして別の「〈歴史〉」的与件を形作ることではない。

〔それは〕原理的に自らを乗り越えるようなかたちで、目的そのもの(「人間」ないし「人間主義」、「共同体」ないし「コミュニズム」、「意味」ないし「実現」)を提示するということである。すなわち、現勢的(en acte)な無限を働かせるがゆえに、なんらかの予見でもっては組みつくすことができないようにすることである。 (p.129)

 そうした民主主義の核心にあるのは、パスカルの「人間は無限に人間を超えている」という人間「主体」であり、ルソーの共同体の統治原理を産み出しうる知性ある人間存在である。そして、ここでいう「コミュニズム」とは、「はじめにまず、われわれは共にあるのであり、次いで、われわれは、われわれが現にあるところのものにならなければならない」という与件のことである。「この与件とは、要請としての与件であり、そしてこの要請は無限のもの」 (p.129) なのである。

 民主主義がなんらかの意味を持つとすれば、皆が共に皆各々が共に存在するということの真の可能性が表出され承認されるという欲望――意志、期待、思想――の場ないし跳躍以外に基づいているとみなしうる権威はどれも活用しない、というのがそれである。 (p. 134)

 だから、民主主義はナンシー的な概念としてのコミュニズムが必要であったし、何よりも、民主主義は制度や体制であることに先立つ「精神」そのもの、現実的で具体的な「差し迫った必要性」 (p. 135) なのである。

……六八年という時は、クロノスというよりもカイロスであった。すなわち、持続や契機というよりも機会や出会い、出来することなき、確立することなき到来(advenue)、諸々の可能なものの現前および共現前として現在を捉えることの行き来(venue et allée)であった。この可能なものとは、権利としてではなく潜勢力として規定されてきたものである。つまり、「実行可能性」という点においてではなく、存在の開けないし拡張という点において評価されるべき潜在性である。この潜在性とは、物象化とは言わずとも、無条件の現実化には従属することなく、潜勢力として、この存在の開けをもたらすものだからだ。無条件と言ったが、無条件的なものは、逆に、この営為の作品化(mise en œuvre)を受け容れるものとして、その絶対的な「実現不可能」性のうちにとどまるものであることも必要なのだ。 (p. 138)

 民主主義は、私(たち)が思いなしてきたように政治形態のひとつなのではない。あえて言えば「意味の体制の名」 (p. 165) なのである。

 民主主義は形象化できるものではない。もっと言えば、それは、本質上、形象的なものではない。……民主主義は、……われわれの欲望がとりうる諸々の声明をできるかぎり増殖させることができるような共通の空問を形成すること、これが民主主義によって課されることなのである。 (p. 154)

 民主主義は人間を(ふたたび)産み出す――ルソーはそう宣言した。民主主義が新たに開くのは、人間の行き先〔=使命(destination)〕であり、そしてそれとともに世界の行き先である。 (p.164)

 民主主義は、現在的に実現すべきものでありながら「未来への開け」であり、「世界の行き先」である。いわば、現在から未来へ張られた共に在る時空の中で次々と実現してゆくべき希求(欲望)の体制のことだ。だからこそ、民主主義は実現しつつあると同時に常に「来たるべき民主主義」であり続けるのだ。
 だから、ナンシーはフランシス・フクヤマとは対極にある。民主主義が完成し、「歴史の終焉」が来るなどということでは決してないのだ。したがって、ナンシーは、ジャック・デリダの次のような言葉と共鳴している。

 ……共産主義はつねに亡霊的であったし、今後も亡霊的であり続けるだろう。それはいつまでも来たるべきものであり続け、そして民主主義そのものと同様に、自己への現前なる充実としての、自己自身に実際に同一な現前性の全体としての、いかなる生き生きとした現在からも区別されるのである。 [1]

 共産主義の亡霊とは、ナンシーの語る「コミュニズム」と似たような概念であろう。ともに、古典的なマルクス主義(レーニン主義、スターリン主義、マオイズム)の党や政治体制ばかりでなく、アラン・バディウの言うような「古典的な闘争という図式でもって把握された政治活動によって正当化するべき政治的な仮説として押し出されるべき」 (p. 129) コミュニズムですらない。
 民主主義は、永久革命としての民主主義なのだ、と私は理解する。もちろん、これはトロツキーの永続革命とは何の関係もない。革命の手段、方法ではなく、未来へと張られた民主主義の本質的な時制によるのである。

 第三章で語られたナンシーの「コミュニズム」を基底とする「民主主義」は、「第一章 破局の等価性――フクシマの後で」の結語に結びついていく。「破局の等価性」の論考は、次のような言葉で締め括られている

 ……「民主主義」を思考するためには、通約不可能なものたちの平等性から出発しなければならないのだ。つまり、ほかのものに還元できない絶対的に特異なものたちの平等性である。それは個人でも社会集団でもなく、諸々の出現すること、到来し出立するもの、声、音である――ここでいま、その都度。
 明日のために平等性を要請すること、それはまず、今日それを肯定することであり、同じ身振りでもって破局的な等価性を告発することである。それは、共通の平等性、共に通訳不可能な平等性を肯定すること、非等価性のコミュニズムを肯定することである。 (p. 70-71)

 論考の出発は、「破局の等価性」の意味から始まる。まず、「破局はどれも、規模の点でも帰結という点でも、等価ではない」し、「原子力の破局」は、「たいていの場合とり返しのつかないもの」 (p. 21) だが、タイトルの「破局」はそれを指していない。世界の「等価性」というシステムが破局的だという意味である。

 マルクスは貨幣を「一般的等価物」と名づけた。われわれがここで語りたいのもこの等価性についてである。ただし、これをそれ自体として考察するためではなく、一般的等価性という体制が、いまや潜在的に、貨幣や金融の領域をはるかに超えて、しかしこの領域のおかげで、またその領域をめざして、人間たちの存在領域、さらには存在するものすべての領域の全体を吸収しているということを考察するためである。
 この吸収は、資本主義と、われわれが見知っている技術発展との緊密な連関を経由する。これこそがまさしく、諸々の力、生産物、作用者ないし行為者、意味ないし価値の無際限の交換可能性と等価性との連関である――というのも、あらゆる価値は等価性を価値とするからである。 (p. 25-6)

 そして、グローバリゼーションを通じて高度資本主義は、世界のあらゆる事象を「一般的等価性」に吸収しつくし、それらは相互に密接に連関し、依存しあっている。それゆえ、フクシマの破局は一般等価性を通じて世界の事象へ重大な影響を与える。ナンシーは、「結局、この等価性が破局的なのだ」 (p. 26) として、一般等価性そのものがシステムとして不当な行き過ぎで、すでに破局的であり、克服されるべきものと考えている。それが、いわば論考の結語にいたる前提である。
 フクシマそのものは、フクシマ自体の破局性によって、「一般等価性の破局」を顕わに示したと言える。そういった意味では、フクシマは破局的な事象の範例として扱われていて、なにがしかフクシマを特別視する(したい)私(たち)にとっては、いくぶん肩透かしの印象もないではない。

 フクシマという出来事は、おそるべきかたちで範例的となった。というのもそれは、大地震、密集した人口、(管理の不十分な)原子力施設、公権力と私的な施設管理の複合的な関係――ここからさらに広がる他の諸々の関係について述べることはよそう――のあいだの緊密かつ粗雑な連関をさらけ出すものだからである。 (p. 54)

〔一般等価性のもとで〕コミュニケーション(communication)は感染(contamination)となり、伝達(transmission)は伝染(contagion)となるのである。
 この点でこそ、フクシマは範例的である。地震とそれによって生み出された津波は技術的な破局(カタストロフ)となり、こうした破局自体が社会的、経済的、政治的、そして哲学的な震動となり、同時に、これらの一連の震動が、金融的な破局、そのとりわけヨーロッパへの影響、さらには世界的ネットワーク全体に対するその余波といったものと絡みあい、交錯するのである。 (p. 59)

 ナンシーはもちろん個別的な破局も取り上げている。「文明全体のとも言うべきある変異に呼応した二つの名」 (p. 32) であるアウシュヴィッツとヒロシマである。

 その一つは、体系的に練り上げられた技術的合理性を有したさまざまな手段でもって、諸々の民族、諸々の人間集団を絶滅させるという企てであり、もう一つは、そこにいる人々のすべてを絶滅させ、その子孫までも削ごうとするくわだてである。 (p. 30-1)

 アウシュヴィッツとヒロシマという二つの名に共通するのは、境界を越えたということである。それも、道徳、政治の境界ではなく、あるいは人間の尊厳の感情という意味での人間性の境界でもない。そうではなく、存在することの境界、人間が存在している世界の境界である。言いかえれば、人間があえて意味(サンス)を素描し、意味を開始するような世界の境界である。……
 だからこそ、アウシュヴィッツとヒロシマという名は、諸々の名の極限における名となった(p. 34)

 アウシュヴィッツとヒロシマは軍事、戦争の極限としてあったが、さて、それでは原子力の平和的利用の果ての結末としてのフクシマはどうなのか。ナンシーは西谷修の「敵なき戦争」という言葉を引用し (p. 41)、原子力の「平和」利用が提起する問題はわれわれ自身に対するに戦争という究極の「敵なき戦争」だという。

 フクシマがヒロシマに付け加えるもの、それは、何にも書かれていない黙示録、黙示録自体の否定にしか開かれていない黙示録という脅威が、単に原子力の軍事利用にのみ依存しているわけではなく、またおそらくは原子力の利用全般のみに従属しているのですらないということである。実のところ、こうした利用そのものがより広範な布置のなかに書き込まれているのであり、そこにわれわれの文明の諸々の特徴が深く刻み込まれているのである。 (p. 45)

 いまや黙示録という脅威、負のメシアニズムが歴史的に書き込まれた。それでも、原子力の問題は社会全体の布置の中に組み込まれているのであり、こうしてフクシマは一般等価性の理路に取り込まれる。

 ナンシーは、アウシュヴィッツを取り上げる際に、アドルノの「アウシュヴィッツの後で、詩を書くことは野蛮である」 [2] という有名な言葉に触れている。「人間が存在している世界の境界」、人間が「意味を開始するような世界の境界」を踏み越えてしまった極限での言葉(詩)の不可能性である。
 さらに、「訳者解題」で渡名喜庸哲は、アドルノが「アウシュヴィッツの後」の世界とは「アウシュヴィッツが可能であった世界」であると述べたことを紹介している (p. 176)

 アウシュヴィッツが実際にあったことによって、初めて私たちの生きる時代が「アウシュヴィッツが可能であった時代」であることを知る。そして、知ることを基底として「アウシュヴィッツ」を超克しようとする多くの真摯な思想的営為がヨーロッパを中心になされてきた。それは、いまやきわめて重要な思想的遺産とも呼べるものである。

 私たちはフクシマによって、私たちが生きる時代が「原子炉溶融によって広大な故郷と子孫たちの未来の消滅が可能であった時代」であることを、圧倒的な事実として知る。望むと望まざるとにかかわらず、強制的に知らされた。そして、いま私たちはその時代を超克すべき思想的営為、政治的営為の前に立たされている。
 しかし、未完の近代をぐだぐだと過ごしてきた日本(日本人)の思想的営為に期待できるかどうかは疑わしい。少なくとも、政治的世界のマジョリティ(政治権力を執行する政治家たち)は「南京大虐殺が可能だった時代」とか「従軍慰安婦が可能だった時代」とか「七三一部隊(生体実験)が可能だった時代」という認識を拒否している(そういった意味ではドイツにおける「アウシュヴィッツが可能だった時代」という認識と見事な反対称性を見せている)。あの侵略戦争の時代を乗り超えようという思想的営為を彼らの中に見つけることは難しい。むしろ、そうしたことはなかったことにしたい、あるいは盲目でありたいという欲望に政治が突き動かされてさえいるのである。
 そのように、時代認識を基底にする思想的営為にはじまる政治という習性(経験)を持たない日本の政治家たちは、いまやフクシマも「なかったこと」にしたいらしいのだ。知の始発点であるべき「見ること」を拒否しているのである。であれば、知の営みとしての思想的営為など期待すべくもないのである。

 思想と政治の絶対的乖離というのは、日本の政治土壌の悲劇である。だからこそ、政治家の側から見ればただの一票に過ぎない私(たち)の側からの思想的営為としての政治的行動を立ち上げることが重要なのである。これは国民的不幸なのだが、生まれた土地で「共にある」人々と「共に未来に向かう」ことを望むのであれば避けがたいことだ。

 私たちは、これから「一世紀や二世紀以上の広がりをもった「後で」一つの文明が道を逸れたり、砕け散ったりする」であろうようなフクシマというカイロスに立ち会ってしまったのだ。

 

[1] ジャック・デリダ(増田一夫訳)『マルクスの亡霊たち』(藤原書店、2007年)p. 213。
[2] テオドール・W・アドルノ(渡辺祐邦、三原弟平訳)『プリズメン――文化批判と社会』(ちくま学芸文庫、1996年) p. 36。


【書評】ナオミ・クライン(幾島幸子、村上裕見子訳)『ショック・ドクトリン』(岩波書店、2011年)

2013年07月12日 | 読書

  

 

 読んでいてどんどん不機嫌になっていく。ノームチョムスキーの『覇権か、生存か』を読んでいたときとまったく同じ感覚だ。チョムスキーの本の副題が「アメリカの世界戦略と人類の未来」で、クラインの本書の副題が「〔アメリカの〕惨事便乗型資本主義の正体を暴く」となっていて、それぞれの本の主題がほぼ同じであることをよく示している。そして、この2冊は、アメリカ合州国という国家が世界のあらゆるところで展開したきわめて反倫理的な政治的振る舞いを詳述していて、読む者に耐え難い不快を誘発するのだ。いわゆる《帝国》の現代史なのである。
 二人の著者はともに、最終的にイラク侵攻に至るアメリカ合州国の世界戦略(といえば聞こえはいいが、陰謀と軍事侵攻と経済侵略)を、チョムスキーは「政治」に力点を置いて、クラインは新自由主義的「経済」に力点を置いて、論証し、批判している。

 チョムスキーの著書は、〈9・11〉とその後のアメリカ合州国の政治的言説、政治的行動を詳細な事実に基づいて批判的に検証している。たとえば、それはブッシュの行動に集約されて表現された政治行動である。

二〇〇二年九月、ブッシュ政権は国家安全保障戦略を発表し、アメリカの世界的な覇権に異を唱えるものを、武力に訴えて排除する権利がアメリカにはあると宣言した。アメリカの覇権は永久に不滅だというのである。この新しい壮大な戦略は、世界中を――アメリカ国内の外交政策の専門家をも――深く憂慮させた。 [2]

 このブッシュの政治思想は彼固有のものではけっしてない。アメリカ合州国が営々と築き上げてきたアメリカ的「資本主義」とアメリカ的「自由主義」の必然的帰結なのである。

それから〔17世紀イギリスの最初の近代民主主義革命で起こって以来〕ほぼ三世紀後に、ウィルソンの理想主義と一般に呼ばれるものが、似たような立場をとるようになった。海外では「少数ながら善良な者たち」の手で統治させることが米国政府の責任であり、国内ではエリ—トが意思決定をし、一般大衆がそれを承認するシステムを擁護する必要があるという考え方である。これは政治学の用語で言う「多頭政治」であって、民主主義ではない。 [3]

 もとより第28代大統領(1912~1921年)だったウッドロー・ウィルソン自身は、ハイチやドミニカを属国化し、メキシコ革命には米軍を送り込み露骨に干渉し、国内ではナショナリズムを煽って労働運動や反戦運動を弾圧したのであって、ブッシュは文字通り由緒正しいウィルソンの末裔なのである。「少数ながら善良な者たち」とはアメリカの支援によるクーデターで成立した軍事政権のことであり、独裁によって国家の経済資産を集約して(大衆から簒奪して)アメリカ資本に貢献するようなアメリカにとって「善良」な反民主主義者のことである。

 ブッシュは、「民主主義」を標榜しつつイラクに武力侵略を行うが、アメリカ合州国の政治支配層は歴史的に一貫して「民主主義」を毛嫌いしてきたのではないか。いかにハンナ・アーレントやアレクシ・ド・トクヴィルがアメリカ型デモクラシーを称揚しようとも、それはあたかもアーレントが古代ギリシャ形デモクラシーに基礎的な範を見るように、アメリカ合州国の政治支配層だけに適用されるデモクラシーであって、アメリカの「一般大衆」や他国にはけっして適用されない。

 ナオミ・クラインの著書は、いわば、アメリカ合州国(の政治支配層、ホワイト・エスタブリッシュメント)が世界中の民主主義をいかに憎悪し、陰謀と武力によってそれを壊滅せしめたうえで経済侵略、搾取を果たしてきたかということの歴史的証明なのである。

 クラインは、まず「惨事便乗型資本主義」を簡潔の次のような定義する。

 壊滅的な出来事が発生した直後、災害処理をまたとない市場チャンスと捉え、公共領域にいっせいに群がるこのような襲撃的行為を、私は「惨事便乗型資本主義(ディザスター・キャピタリズム)」と呼ぶことにした。 (上、p. 6)

 そして、2巻に及ぶ大部の著書は、惨事便乗型資本主義の数限りない悲惨な実例を歴史的な事実として次々と私たちの前に映し出して見せる。そこでは、アメリカ合州国は首尾一貫して地球上のすべての国をアメリカの周辺国化しようと意図しているようである。しかも、その手法はきわめてシステマティックであって、人事的手段、軍事的手段、経済的手段、心理的手段を過不足なく備えているのだ。

 クラインは、惨事便乗型資本主義のベーシスとなる手段・理論を開発・主張する「ふたりのショック博士」を挙げる。

 その一人は、カナダ、モントリオールのマギル大学付属アラン記念研究所・所長のユーイン•キャメロン博士である。一九五〇年代にCIAの依頼を受けて、大量の薬物投与による人格破壊の実験を行った。CIAは、彼の「科学的成果」を強力な拷問手法として、イラクのアブグレーブ刑務所やグアンタナモ基地の収容所に至るまで、世界中で「応用実践」することになる。この「人体実験」は70年代後半に明るみに出て、CIAとカナダ政府は巨額の賠償金を支払うことになるが、「科学的成果」はいまだにCIAの「知的財産」であることには変わりない。

 キャメロンは今日のアメリカの持つ拷問技術の開発に中心的役割を果たしただけではない。彼の行なった実験は、惨事便乗型資本主義の根底にある論理もユニークな形で浮き彫りにしている。大規模な災害――巨大な破壊――だけが「改革」のための下地を作るとの考えに立つ,自由市場経済学者たちと同様、キャメロンは人間の脳に一連のショックを与えることによって、欠陥のある心を消去し、白紙状態になったところに新しい人格を再形成できると考えたのである。 (上、p. 37)

 もう一人のショック博士は、シカゴ大学のミルトン・フリーマン教授である。1976年にノーベル経済学賞を受賞した自由主義的経済学者の代表的存在である。シカゴ学派と呼ばれる彼と彼の弟子たちはその新自由主義的経済理論を携えて、キャメロンの拷問手法を携えたCIAと同じ国々の同じ舞台で活躍するのである。もちろん、それはアメリカ合州国の「世界戦略」を担う戦力として、圧倒的な経済力と軍事力を背景としている。

 フリードマンはキャメロンと同様、「生まれながらの」健康状態に戻すことを夢のように思い描き、それを使命としていた。人問の介入が歪曲的なパターンを作り出す以前の、あらゆるものが調和した状態への回帰である。キャメロンは人問の精神をそうした原始的状態に戻すことを理想としたのに対し、フリードマンは社会を「デバターニング」し、政府機制や貿易障壁、既得権などのあらゆる介入を取り払って、純粋な資本主義の状態に戻すことを理想とした。またフリ—ドマンはキャメロンと同様、経済が著しく歪んだ状態にある場合、それを「堕落以前」の状態に戻すことのできる唯一の道は、意図的に激しいショックを与えることだと考えていた。そうした歪みや悪しきパターンは「荒療治」によってのみ除去できるというのだ。キャメロンがショックを与えるのに電気を使ったのに対し、フリードマンが用いた手段は政策だった。彼は苦境にある国の政治家に、政策という名のショック療法を行なうよう駆り立てた。だがキャメロンとは違って、フリードマンが抹消と創造という彼の夢を現実世界で実行に移す機会を得るまでには、二〇年の歳月といくつかの歴史の変転を要した。 (上、p. 68-9)

 「世界戦略」という名の経済侵略は、そのときどきの国の事情によって異なるが、基本はその国家が新自由主義的経済政策を採用すること(採用させること)である。たとえば、「自由」な経済活動を目的として国家事業の民営化を徹底すると、国家資産が民間資本に移る際に寡占化が進み、「富める者はより富み、貧しい者はより貧しく」という格差拡大が生じる。これは新自由主義経済政策をとれば必然的に生じる現象で、日本で小泉政権以降に顕著に格差が拡大したのはそのせいである。さらに経済の自由化は、国際資本への解放を意味していて、国際資本という名のアメリカ資本による国家資産の搾取が進むのである。

 ある国がアメリカ合州国の望む新自由主義的経済政策を採用しない、あるいは拒否する場合は、クーデターを支援することで期待される政府を樹立するというのがアメリカによって普通に採用されるシナリオである。

 クーデターの初期の例としては、1953年にCIAがイランのモサデク政権を倒しシャーによる独裁政権を作り上げたことが挙げられる。翌年には、農地改革を進めるグアテマラに農地を有するアメリカ企業の権益を守るためCIAがグスマン政権を倒した。

 1964年にはアメリカに支援された軍事政権がブラジルで成立し、大企業優先の経済政策で国民の貧困化が進むことに反軍事政権運動が起きるが、「国家による殺人は日常茶飯事」 (上、p. 92) となるような弾圧のもとでCIAの「知的財産」としての拷問手法が大いに活用されたのである。
 経済における典型としては、1965年に自国経済を守るために国際通貨基金(IMF)と世界銀行から脱退したインドネシアにおいて、CIAの支援を受けたスハルト将軍がスカルノ政権を倒すことに成功した。現在に至るまでIMFの存在意義がアメリカの世界戦略の先兵にあることは、ネグリ&ハートも指摘している。

今やIMFの基本的なプロジェクトは、対象となる国々にケインズ主義的社会政策を放棄してマネタリスト政策を採るよう強いている。IMFは、経済が疲弊した国や貧困国に対し、公共福祉支出の縮小や公的な産業と富の民営化、負債の削減などの新自由主義的な方策を採るよう指示するのだ。 [4]

 一九八三年、IMFは本格的な「構造調整」プログラムを発表する。以後二〇年間、IMFは大規模融資を求めてきたすべての国に対し、経済の徹底した改造が必要だと言い続けてきた。八〇年代を通じてラテンアメリカ、アフリカ諸国に向けた構造調整プログラムを作成してきたIMFの上級エコノミスト、ディヴィソン•ブドゥーはのちにこうふり返っている。「一九八三年以降われわれがやったことは、何がなんでも南を「民営化」させるという新たな使命に基づいていた。この目的のため、われわれは一九八三〜八八年にかけて、ラテンアメリカとアフリカに経済的混乱を引き起こすという恥ずべきことをやってきたのです」 (上、p. 229)

 もっとも典型的なアメリカ合州国の「国際戦略」が展開した例は1970年以降のチリであろう。アメリカ合州国支配層の本性としての「民主主義への憎悪」がチリで爆発するのである。

 一九七〇年、チリでは大統領選挙で人民連合のサルバドール・アジェンデが勝利し、同政権はそれまで国内外の企業が支配していた経済の主要な部分を国有化する政策を打ち出した。アジェンデはラテンアメリカの新しいタイプの革命家の一人だった。チェ・ゲバラと同じく医者だったが、アジェエンデはロマンティックなゲリラと言うより、気さくな学者といった雰囲気を漂わせていた。フィデル・カストロに勝るとも劣らない激しい調子で街頭演説を行なったが、チリにおける社会変革は武装闘争ではなく選挙によってもたらされるべきだという信念をもつ、徹底した民主主義者でもあった。アジェンデが大統領に当選したことを知ったニクソンが、リチヤード・ヘルムスC1A長官に「経済に悲鳴を上げさせろ」と命じたというのは有名な話だ。この選挙結果はシカゴ大学経済学部にも波紋を広げた。アジェンデが当選したとき、たまたまチリにいたアーノルド・ハーバーガーは本国の同僚に手紙を書き、選挙は「悲惨」な結果に終わったこと、そして「右派の間では軍事力による政権奪回も時に話題に上る」と書いている (上、p. 88-9)

 アメリカでは即刻、チリ国家の経済崩壊をもくろんで民間企業による「チリ特別委員会」が組織され、ニクソン政権にクーデターの要請まで行った。チリ国内では、CIAの経済支援を受けたシカゴ・ボーイズ(シカゴ学派の薫陶を受けた経済学者集団)がクーデター後の経済政策を軍部に提示しつつクーデターを煽ったし、多くの学生がファシスト集団「祖国と自由」に加わるなどシカゴ・ボーイズが拠点とするカトリック大学は「クーデター環境」(CIA用語)を作り出す拠点となった。
 ますますチリ国民の支持をひろげつつあるアジェンデ政権にたいして、事は急がれた。「軍はアジェンデとその支持者の壊滅を、経済学者が彼らの思想の壊滅を」 (上、p. 98) 目指して、1973年にクーデターは実行される。

 アジェンデ政権の転覆は一般に軍事クーデターと呼ばれているが、アジェンデ政権の駐米大使オルランド・レテリエルはこう書く。「チリで「シカゴ・ボーイズ」と呼ばれている連中は軍の将軍の持つ残虐性をさらに強化するとともに、軍に欠けている知的資産を補完することを確約した」
 実際に起きたチリのクーデターは、三つの明確なショックを特徴としており、これはその後近隣諸国で、そして二〇年後にイラクでくり返されることになる。クーデターによる最初のショックの直後に続く二つのショックのうち、ひとつはミルトン・フリードマンの資本主義的「ショック療法」である。今やラテンアメリカには、シカゴ大学およびその多様なフランチャイズ組織でこの技術の教えを受けた経済学者が数百人にも上がっていた。もうひとつはユーイン・キャメロンのショックで、薬物と感覚遮断を用いるこの方法はクバーク・マニュアルに拷問技術として体系化され、ラテンアメリカの警察や軍で実施されるCIAの訓練プログラムを通じて普及していた。
 この三つの形態のショックはラテンアメリカ全体およびその地域の国民に集中砲火を浴びせ、それによって破壊と再建、抹消と創造が相互に強化しあう、止めようのない嵐が吹き荒れることになった。クーデターの衝撃は経済的ショック療法を実施するための素地を作り、拷問室のショックは、経済的ショックを阻もうと考える人たちすべてを恐怖に陥れた。この生きた実験室から「シカゴ学派国家」第一号が生み出され、シカゴ学派が推進する国際的反革命に初めての勝利がもたらされたのだ。 (上、p. 99)

 後にクーデターを起こしたピノチェトは犯罪者として断罪されることになったのは当然であるが、そのことでアメリカ合州国支配層の犯罪が訴追されたということはもちろんない。

 チリのような例は枚挙に暇がない。1973年、ウルグアイで軍事クーデター。1976年、アルゼンチンでペロン政権が軍事政権に取って代わられる。二つの軍事政権も批判勢力を暴力によって弾圧し、多くの国民を葬りさった。ブラジル、チリ、ウルグアイ、アルゼンチンと続く国々での経済浄化、思想浄化はシカゴ学派とCIAの指導下で苛烈を極めたのである。それは時として「ジェノサイド」と名指された。

 その後も、シカゴ学派あるいはその流れをくむ新自由主義経済学者は陽の顔で、CIAは陰の顔で様々な国家の政変時に関与(干渉)していく。ポーランド民主革命の主体であった「連帯」政権は、革命後の国家運営のためにIMFからの資金を必要とし、そのため経済学者ジェフリー・サックスの提案する国民にとって苛烈な新自由主義政策を導入せざるをえなかった。そのため、連帯はポーランド国民の支持を失い、政権の座から降りることになる。いわば、ポーランドの民主化革命はその成果を「惨事便乗型資本主義」に盗まれたのである。

 同じように、アメリカによって支えられてアパルトヘイト政策を続けてきた南アフリカの白人(デクラーク)政権は、マンデラによる人種解放革命が不可避と見るや、新自由主義的政策とシステムを引替えに政権を引き渡したのだが、これは、人種隔離政策から黒人は解放されたが貧困化がいっそう激しくなるという歴史の指し示す経験通りになった。これもまた人種解放革命の成果が「惨事便乗型資本主義」に盗まれた例と言えよう。

 ジェフリー・サックスをはじめとする新自由主義者は、ソ連解体時のエリツィンの政変にも干渉するが、珍しくこれは成功例と言えない。民営化、自由化という名目のどさくさ紛れの国家資産の分捕り合戦でアメリカ資本はいい目を見なかった。オリガルヒというロシアの資本がその成果のほとんどを海外資本に渡すことなく独占したためである。

 ロシアの主要な国家資産をがっちりと支配下に置いたオリガルヒが、新しい会社を優良多国籍企業に向けて公開すると、たちまちその大半は先を争って買い上げられた。一九九七年、ロイヤル・ダッチ・シェルとブリティッシュ・ペトロリアム(BP)はロシアの二大石油企業ガスブロムとシダンコと提携。これらはたしかにかなりの利益を見込める投資だったが、それでも最大の利益は外国のパートナーではなく、 ロシア人の手に渡った。のちにボリビアとアルゼンチンで国営企業が民営化され、競売に出されたときには、IMFとアメリカ財務省はこの手落ちを修正することに成功している。侵攻後のイラクでは、アメリカはさらに進んで、大きな利益の見込める民営化取引にはいっさいイラク国内の資産家を参加させないよう、締め出しを図った。 (上、p. 329)

 ロシアからイラクへと、アメリカによる「惨事便乗型資本主義」は進化しているのである。世界の多くの国において、その国家資産を搾取する手段としての「惨事」そのものは、クーデターであれ政変であれ曲がりなりにもその国民が表に立って遂行されてきたのだったが、イラクではその「たてまえ」もかなぐり捨てられ、アメリカの直接的軍事侵略によって「惨事」を生み出すという事態に至った。これが未来のアメリカ型惨事便乗型資本主義のモデルになるとすれば、身の毛のよだつような世界が私たちを待ちうけているということだろう。

 惨事便乗型資本主義の顕在化した例は私たちの日常にも溢れている。クラインが描く一つの例は、2004年12月26日に起きたスマトラ沖地震による大津波で二五万人もの命が失われた。被災地の一つスリランカのアルガムベイ地区では被災地の再開発計画は例のごとく大資本による観光開発で、その土地で暮らしてきた漁民の生活を一挙に奪うことになった。
 似たようなことは東北地方太平洋沖地震、いわゆる〈3・11〉大地震後の宮城県で起きた。宮城県は被害を受けた漁業復興の名目で、県漁連・漁民の反対を押し切って漁業権を企業に売り渡すことを可能にする特区構想を強行した。被災地に限らず日本の漁民の暮らしのよりどころである漁業権が漁民から取り上げられるという事態が、未曾有の災害に便乗して生じたのである。松下政経塾出身の宮城県知事らしい新保守主義的「惨事便乗型資本主義」なのである。

 自然災害を好期の「惨事」とした例は、他にも例証されている。2005年のハリケーン・カトリーナの被災後のニューオーリーンズでも起きた。どさくさに紛れて州の公教育システムが民間に売り渡されたし、〈3・11〉後の日本と同様に復興のための膨大な資金のほとんどが被災者ではなく惨事便乗会社に流れていった。被災者はいっそう貧しく、便乗した者はいっそう豊かになる。クラインはそれを「災害アパルトヘイト」と呼ぶ。イラクと同様、被災地に豊かな地区と放置された広大な貧しい地区とが豁然と分離されて存在しているのである。 

 激しいショックを与え、気絶状態の国や国家から収奪するというアメリカ型新保守主義はイラクの現在に見るように成功し続けているかのようだ。しかし、クラインは「ショックからの覚醒」と呼ぶ新しい抵抗が生まれていることも告げている。

 まずひとつは、「ショック療法」に携わった政治家、経済学者が罪に問われ始めたことである。チリのピノチェト元大統領は,汚職と殺人の罪で裁判にかけられた。ウルグアイのボルダベリ元大統領は殺人容疑で逮捕された。アルゼンチンでも、ホルへ•ビデラ元大統領とエミリオ•マセラ元提督に終身刑、軍政下の中央銀行総裁で経済的ショック療法を導人したドミンゴ・カバーロも「行政詐欺」罪で起訴された。

 アメリカの世界経済支配の先兵であったIMFもまた救援融資元として一方的に尊重される時代は終りつつあるようだ。

膨大な債務のせいで長期にわたって米政府に縛られてきたブラジルは、IMFとの融資協定を更新しないことを決めた。ニカラグアはIMFからの脱退を交渉中で、ベネズエラはIMFと世界銀行の両方から脱退した。かつてはワシントンの「模範生」だったアルゼンチンでさえ、同じ流れに加わっている。キルチネル大統領は二〇〇七年の一般教書演説でこう述べた。海外の債権者たちは、「「負債を返済するためにはIMFと協定を結ばなければだめだ」と言ってくるが、私たちはこう答える。「わが国は主権同家だ。負債はお返ししたいが、金輪際IMFと協定を結ぶつもりはない」と」。こうして八〇〜九〇年代には絶大な力を振るったIMFは、南米ではすっかり影響力を失った。二〇〇五年、IMFの融資総額のうちラテンアメリカ諸国への融資は八〇%を,占めていたが、二〇〇七年にはわずか 一%に激減している。たった二年で潮の流れは大きく変わった。「IMFと縁を切っても生きる道があります」と、キルチネルは高らかに宣言した。「しかも、素晴らしい生き方ができるのです」  (下、p. 667-8)

  「わずか三年問で、IMFの世界各国への融資総額は八一〇億ドルから一一八億ドルに縮小し、現在の融資の大部分はトルコに対するもの」 (下、p. 668) というほどIMFの凋落は著しい。

 レバノンでも反乱が起きた。2006年のイスラエルによる侵攻後の復興に際し、「ショック・ドクトリン」として国際金融機関から押しつけられた自由主義経済「改革」をレバノン政府が飲まざるを得ない状況で、レバノン国民は激しく抵抗を始めたのである。
 あるいは、2004年3月に起きたスペインの列車爆破事件をバスク分離主義者のテロと決めつけ、テロへの戦争としてイラクへ派兵したスペイン政府を支持するよう求めたアスナールに対して、スペイン国民は爆破事件から3日後の総選挙でノーを突きつけた。「フランコ時代の恐怖を記憶する国民」は、「過去のショックに対する国民の記憶」によって「新たなショックへの抵抗をもたらした」 (下、p. 676) と言うことができよう。

 アメリカが世界中で遂行した「惨事便乗型資本主義」が、そのショック・ドクトリンが世界の人々にショックそのものを記憶させたこと自体が、反転して世界の希望になるかも知れない、いや、希望そのものでなくてはならない、ということなのだと思う。

 

[1] ノーム・チョムスキー(鈴木主税訳)『覇権か、生存か――アメリカの世界戦略と人類の未来』(集英社、2004年)。
[2] 同上、p. 7。
[3] 同上、p. 11。
[4] アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート(幾島幸子訳、水島一憲、市田良彦監修)『マルチチュード/〈帝国〉時代の戦争と民主主義(上)』(NHKブックス、2005年)p. 282。