三流読書人

毎日の新聞 書物 など主に活字メディアを読んだ感想意見など書いておきたい

ドングリ小屋住人 

敗れたけれど ハンドボール

2008年01月31日 14時35分09秒 | スポーツ

 残念ながら敗れた。しかし、ハンドボールという競技の魅力がたっぷりと味わえた。
 アハマドAHF会長のあほさ加減がうきぼりにされたが、スポーツのビッグイヴェントが政治権力や資本の論理に利用され続けてきたことは枚挙にいとまがない。国威の発揚や企業イメージを高める場となっているのは自明の理である。
 だらしなく、腐りきっているのは審判である。どんな圧力があろうとスポーツマンシップを貫き通すのが審判員というスポーツマンであるはず。ここがぐらついていてはどうにもならない。別のところでやってもらうしかない。

 これで日本でもハンドボールの人気が高まればいい。
 走、跳、投というスポーツの要素、激しいタクティック、男子で173㌢の選手が2㍍の選手に互してエースになりうるというスポーツの魅力をすべて兼ね備えたスポーツは他にあまりない。

 関連して、以下の記事がぴったり来るので拝借して紹介したい。

【 試合が終わる。日韓の選手が互いに握手を交わし、笛を吹いた審判も、それに加わった。その光景を、観衆は大きな拍手で包んだ。
 スポーツでは当たり前の光景が、アジアのハンドボール界にようやく戻ってきた。
 「中東の笛」と呼ばれる、意図的な判定が問題になり、やり直しとなったアジア五輪予選。この日は国際連盟が試合を管轄し、そのもとで派遣されたデンマーク人の審判がしっかりした判定で試合を裁いた。
 破れた日本の監督バウアー監督は「今日のレフェリングはスーパーだった。何も不満はない」といい、韓国の林英監督も「正確なレフェリングに満足」と語った。
 運営も良かった。会場では、試合中ずっとプレーの中身や反則などを紹介するアナウンスが流れていた。どちらに偏ることなく、好プレーが出ると、選手名とともに「ナイスプレー」と紹介。これもアシスト役となって、この試合を気持ちのいいものにしていた。
 スポーツにとってフェアプレーは空気のようなものだ。あることが当たり前。なければスポーツそのものが、窒息してしまう。
 韓国の林監督はこう語った。「審判の故意的なレフェリングは人権じゅうりん。スポーツマンシップにもとる。スポーツはフェアプレーのもとに行われるものです。」
  本来の姿がやっとコートに戻ってきた。この試合が、アジアのハンドボール界再生の出発点になることだろう。】(1月30日付『しんぶん赤旗』スポーツ欄コラム「ハイライト」和泉民郎氏)

【 …略… 日本は90年以降、韓国に対し、1勝もできていない。背景には、個人の力の差が歴然としてあるからだ。体格差、プレーの力強さ、多くの点で日本を上回っている。
 酒巻監督は日韓の差を「シュート力に代表されるような個人の能力の差」と指摘した。選手たちも「韓国は勝負所で力を出してくる」と言う。埋めるのは容易ではない。しかし、いまから始めなくてはいけない。
やり直しとなった五輪予選。そのおかげで日本のハンドボールにやっと光が当たった。選手たちも「人々の心に残るプレーを見せよう」と心に秘めてたたかったという。
 勝つことはできなかった。しかしこの予選を通じて、選手たちの真っすぐな思いとメッセージは、多くの人々に伝わった違いない。】
(1月31日付『しんぶん赤旗』スポーツ欄コラム「ハイライト」和泉民郎氏) 

 


またまた 食うことについて

2008年01月26日 10時08分25秒 | くらし
 またまた食うことについて
 現在の食生活について昨日のブログで書いた。
 アルコール抜き、摂取カロリーの総量規制、内容の制限、かなりつらい。
 もう少し生きたいのでなんとか慣れなければと思う。
 量を制限されると今までなんとも思っていなかった食べ物がほんとに美味しく感じられる。
 煮た野菜の一切れもいとおしくさえある。
 麺に乗っている薬味のねぎもすべて食べる。
 計算された量と内容で食生活がそれほど貧しいとは思わない。
 
 しかし、突然キレる事がある。もうなんでもいいからむちゃくちゃ食いたくなることがある。まわりにあるものすべて食い尽くさないと承知できないという気持ちになる。飢餓感である。空腹感とは違う。
 空腹感は、満腹になればおさまる。飢餓感は腹一杯になってるのに口にものを入れる。飢餓感であるから、飢餓そのものとは違う。食べ物がないので飢餓におちいるというのではないのだから、心の問題だろう。
 こうして挫折する。後にやってくるのは後悔と自己嫌悪、その後は食べ物を拒否しようという状態になってくる。
 過食症、拒食症ということが何となく理解できるような気がする。

 笑うなかれ!
 人間の生きてゆくための食という行動は、根源的な意味を持つのだ。
 すべての人類は食ということに関して高い文化を持っていると言えよう。
 日本人もまたしかり、生命を維持するだけの行動ではなく文化にまで昇華せしめた。
 しかし、その高度に発達した食文化を例の大食い見せ物馬鹿タレントと売れればいいというマスコミがずたずたに破壊しようとしてる。許せない。

 などと力んでいますが、要するに自分にかけられたプレッシャーをごまかそうとしているのです。
 高血圧症、糖尿病、高脂血症、肝疾患などの予備軍のみなさん、メタボリックシンドロームのみなさん。
 食生活の改善による病気の克服と予防というのは大変に厳しいものがあります。アルコールやタバコを断つことなどやさしいことです。
 できるだけ早く原因を取り除けばまだ間に合うかもよ。 
 

食うことについて

2008年01月25日 09時03分01秒 | くらし
  食について
 食生活が原因のメタボリックシンドロームについては、誰の責任でもなく己の責任であることは承知している。
 しかし、最近よく食育ということを言われるが、その面から考えると今日の状況はきわめて危ないというか子供のまともな成長と発達には問題が多すぎるように思う。
 毎日圧倒的な量で流される食い物に関する番組、コマーシャルもそうである。
 外国の飢餓線上をさまよう子どもたちのことが話題にもなる中でこのままでいいんだろうかと思う。
 特に、大喰いを売り物にするタレントというか喰うことしか芸(これを芸といっていいかどうか)のない連中がこれでもかと喰ってみせる。これで番組が成り立っている(あるいは成り立っていると思っている)んだからテレビ局の罪は深い。こんなものを毎日見せられて食育などできるはずがない。
 元々太った「芸人」が大食いをしてみせるというのはあったけれど、偏見かも知れないが、最近若い女の大食い見せ物タレントが目立つようになった。
 喰って喰って喰いまくる。それを見せ物にする。
 喰い方も汚らしい。
 食という行為、食べ物、に対する冒涜・退廃極まれりというべきか。
 
 いずれは、この女はあれだけ喰った結果これだけの排泄物を作り出したということも公開するだろう。 
 それを薄型デジタルハイビジョン大画面のテレビで日本中が固唾を飲んでみる。 
 喰っているものは外国から輸入されたものばかり。
 資源のむだ遣いの究極の姿と言えるかも知れない。

 薄汚い見せ物はもう結構だ。
 
 一方では飢えて死にゆく子どもたちの姿が写される。
 食育と称する番組も放映される。

 なんだろう。これは。

 喰うか 喰われるか 飲むか 飲まれるか 命がけである

2008年01月23日 17時33分22秒 | くらし
 40代前半に喫煙をやめた。理由はいろいろある。
 酒は、血液検査するたびγ-GTPがどうだとかいわれつつ無視したり、一時的に「停酒」をしたりしてごまかし続けてきた。
 しかし、定年後ひまになるし、朝から飲んだり一日中切れ目なく何らかのアルコール飲料が体内から消えないという状況が続いてきた。そのうち、これはおかしい、アルコール依存症ではないかと思うようになった。
 検査結果はアルコールによる肝障害が歴然としていた。ついに酒をやめた。以後一年数ヶ月、酒は飲めない、飲まない人間とはなった。
 そうすると今度は突然甘いものに目がなくなった。いわゆるスウイーツにはまった。
 血糖値が跳ね上がった。
 甘いものも食べてはいけないということになった。
 体重も落とさなくてはいけない。
 血圧も高い。
 そこで糖尿病対策の食事、減量のための量の制限、血圧対策として塩分控えめの食事。
 基本的にはこれが現在の食事についての私のとるべき対策である。
 生き残りがかかっている。
 アルコールはダメ、甘いものはダメ、からいものもダメ、総量の制限。
 なんとか克服して、というよりこれに慣れて70歳までにはリセットできたらいいなと考えている。
 若いみなさん、大変ですよ。あっという間に歳を取り、あっという間にメタボリックシンドローム。
 微妙なバランスの上に成り立っている人間の身体、それにストレスなど心因性の刺激もある。
 気をつけて下さい。
 
 喰うか 喰われるか 飲むか 飲まれるか 命がけである

   
 

大寒や埃の如く人死ぬる 虚子

2008年01月21日 11時00分06秒 | くらし

  


 今日は大寒。昨夜、この地方に風雪注意報が出ていた。珍しい。
 しかし、今朝の積雪はこの程度、やれやれというような、期待はずれというような気持ち。
 
 大寒の埃の如く人死ぬる     高浜虚子

 近ごろ葬式産業がさかんになってあちこちに葬祭場ができた。道ばたに葬式の案内の看板が立てられている。
 それがこのような厳しい気候の日には途切れなく続く。

「仁義なき戦い」から30数年

2008年01月16日 10時14分30秒 | 政治 


『毎日新聞』 2008年1月15日付「発信箱」
「御輿」 論説室 玉木研二氏

 「おやじさん、あんた初めからわしらが担いどる御輿(みこし)やないの。組がここまでになんのに誰が血ぃ流しとるの。御輿が勝手に歩けるゆんなら歩いてみいや。おう?」
 1973年の正月。封切られた飯干晃一原作・深作欣二監督の東映映画「仁義なき戦い」は、それまでの任侠(にんきょう)路線とは全く異なる「実録」を看板にし、空前のヒットシリーズになった。
 戦後の広島抗争が舞台で、脚本の笠原和夫は組長らから実地に取材をした。出演者は誰一人「標準語」をしゃべらない。冒頭のせりふは、強欲で計算高い組長を幹部(松方弘樹の名演)が突き上げる場面。組織の上に黙って乗っかっておれ、というのだ。
 それから35年。今年、暴力団対策法が改正され、組員が起こした事件や不始末の損害賠償責任が組織トップの組長に及ぶようにするという。御輿だ、とあぐらをかいている場合ではない。抗争でヒットマンになって服役し、刑務所から出てきた組員の「出所祝い」も禁じる。御輿のありがたみもすっかり減じよう。
 組織締め付けの効果はあるだろう。だが、もう一つの問題、取り締まっても取り締まっても、この世界に絶えず入ってくる社会で疎外された若者たち。これには抜本策がなかなか見つからない。「仁義なき戦い」の無名の登場者たちもそこから抜け出せず、悲運のうちに横死する。
 「わしらどこで道間違えたんかのう。夜中に酒飲んどると、つくづく極道がいやになっての……」と嘆息した男は白昼、街で射殺された。
 御輿を標的にするだけでは解決しない。(論説室)

 これが昨日の『毎日新聞』のコラム「発信箱」。
 「取り締まっても取り締まっても、この世界に絶えず入ってくる社会で阻害された若者たち」とあるように、彷徨う若者が沢山いる。
もちろん本人の責任もあるだろうが今日の格差社会の中で神輿の担ぎ手の予備軍は後を絶たない。
 振り込め詐欺の手先、ぼったくり風俗店の客引き、末端の覚醒剤の売人など。こういう働き手を必要とするもう一つの社会がある。
 根絶できるかどうかは、格差をなくそうという強い意志を持った社会であるかどうかということだろう。

 

 


「黒い花びら」水原弘

2008年01月14日 15時05分50秒 | くらし
 歌のこと 戦後の歌

 永六輔作詞 中村八大作曲 水原弘 歌
 
 黒い花びら

 黒い花びら 静かに散った
 あの人は 帰らぬ遠い夢
 俺は知ってる 恋の悲しさ 恋の苦しさ
 だからだから もう恋なんか
 したくない したくないのさ

 黒い花びら 涙にうかべ
 今は亡い あの人 ああ 初恋
 俺は知ってる 恋の淋しさ 恋の切なさ
 だからだから もう恋なんか
 したくないしたくないのさ

 1月11日夜11時よりNHK.FMで「真冬の夜の偉人たち」というタイトルのシリーズで、作家村松友観氏が「黒い花びら・水原弘」と題して語っていた。
 私も戦後の日本人の歌手で誰か一人と言われれば水原弘ということになる、そういう気持ちになる一人であることは間違いない。
 石原裕次郎も好きであった。が、最近CDを聞いていてもどうも鼻につく。
 加山雄三などは論外であんな気色の悪い人物はデビュー当時から大嫌いであった。
 おぼっちゃまのお遊びに付き合ってられるかということかも知れない。
 青春時代は学生というより金を稼ぐことに毎日必死だった。
 水原弘という無頼ではあったが、命がけで歌った歌手が肌に合う。
 生活は無頼でも歌は「楷書で歌う」と村松氏は言う。
 しかし、残念ながら『黒い花びら』の他に好きな歌はあまり多くない。
  
 村松氏が番組の最後に紹介していたが、晩年に再レコーディングした「黒い花びら」は鬼気迫るものがある。


 

「ないしょ話」

2008年01月13日 09時51分18秒 | 教育 
 「ないしょ話」

結城芳夫  作詞
山口保治  作曲

ないしょ ないしょ
ないしょの話は あのねのね
にこにこにっこり ね かあちゃん
お耳にこっそり あのねのね
坊やのお願い きいてよね

ないしょ ないしょ
ないしょのお願い あのねのね
あしたの日曜 ね かあちゃん
ほんとにいいでしょ あのねのね
ぼうやのお願い きいてよね

ないしょ ないしょ
ないしょの話は あのねのね
お耳へこっそり ね かあちゃん
知っているのは あのねのね
坊やとかあちゃん ふたりだけ


1939年の作、昭和14年です
昭和16年には日本は真珠湾を攻撃する
キナ臭さなど通り越した時代に作られた
いい歌です
言葉がきちんとしています
坊やと母ちゃんでないしょの世界を、二人だけで共有する世界を持つ幸せな坊やです

子育ての技術などとは無縁であるが親を殺すという発想などおこりようもない

越冬バッタ

2008年01月09日 19時20分08秒 | 地球環境



 剪定をしていると切った小枝などが大量に出る。これを始末しなければならない。燃やすしかない。小枝や葉についた害虫などを残さないためである。
 そんな作業の中、バッタを見つけた。栗の木の下、越冬バッタである。どうもツチイナゴという種であるようだ。そうでないかもしれない。よく知らない。
 バッタについてその種や生態を研究するほどの意欲はない。ただたくましい太ももは魅力的である。
 越冬するバッタ初めて出会った。

子年という年

2008年01月08日 08時52分00秒 | 読書

  子年という年(戦後)
 さて今年はどうなる。高齢者医療制度改悪ますますひどく、現在の姥捨て山政策ここに極まれりといった状況ではあるが、さらに消費税増税、狂乱物価の到来の予感等々。どうやって生き延びるか。

   『毎日新聞』1月8日付経済欄コラム「経済観測」より

   ◇戦後子(ね)年縁起

 昭和23年

 日本初の片山社会党政権。左右分裂のため破綻(はたん)。後継者指名は衆院は芦田均、参院は吉田茂と早くもねじれ。規定により芦田政権発足するも昭和電工事件で動揺。吉田内閣へ。マッカーサーは経済安定の原則を提示、ドッジ・ラインの前触れ。

 物故・ベーブ・ルース、太宰治。

 昭和35年

 日米安保の年。岸首相は訪米調印するも、その答礼のためアイゼンハワーの来日は強硬な反対デモのため延期。エスカレートしたデモは国会乱入。樺美智子さん死亡。岸内閣退陣し、高度成長を唱える池田内閣へ。石原裕次郎・北原三枝結婚。

 物故・和辻哲郎、クラーク・ゲーブル。

 昭和47年

 キッシンジャーの暗躍でニクソン訪中、米国・中国の正式国交。沖縄返還。連合赤軍浅間山荘事件。横井庄一さんグアム島より帰還。

 物故・モーリス・シュバリエ、平林たい子、東海林太郎。

 昭和59年

 民営化政策、NTT株式会社化法案成立。トヨタ、GM小型車の合弁工場をカリフォルニアへ。

 物故・長谷川一夫、有吉佐和子、リリアン・ヘルマン。

 平成8年

 第2次橋本内閣に小泉厚生大臣就任。米国の対中赤字はついに対日赤字を超える。 ペルー日本大使公邸占拠事件。クリントン米大統領来日。日本シリーズ、オリックス4勝1敗で巨人に勝つ。

 物故・遠藤周作、渥美清、金丸信、マルチェロ・マストロヤンニ、司馬遼太郎、丸山真男、マルセル・カルネ。

                              (三連星)

 

 


軍手

2008年01月05日 14時02分21秒 | くらし




軍手が好きです
洗濯をした軍手がたくさんあると安心できます
何をするにも軍手です
常に何処かに入っていないと気になります
もちろん草刈りその他の仕事をする時もそうですが
散歩の時もないと不安です
近ごろは大変安く買えます
一足20円ぐらいからあります
使い捨てと書いて売っているのもあります
ムカッときますね なぜ使い捨てにしなければならないのか
擦り切れるまで使います
それにしてもなぜ”軍”手というのかな
軍足というのもあります 
が、これはあまり使いたくない

『国民の記憶として沖縄戦』を

2008年01月01日 16時35分23秒 | 平和

 『毎日新聞』は12月30日付で、社説で第二次大戦の沖縄戦での強制自決の教科書記述に関する政治的圧力による検定意見とこれを撤回させる運動や世論についての一連の問題について『毎日新聞』の受け止め、各新聞社の受け止めにについて総括、整理した。大事な資料でもあると思うので書きとめておきたいと思う。 部分であるが転載をさせていただく。
 
 各紙社説はどう受け止めたか。
 
 毎日は、軍関与をはっきりさせる記述や背景説明が増えたことに「一歩踏み込んだともいえる」と評価する。しかし「強制」表現の排除には「軍と住民との間の根底にあった強制的関係、絶対的な上下関係をきちんととらえたものとはいい難い」と、沖縄戦全体の中で選択肢を奪われた住民が置かれた立場、状況の視点が足りないことを挙げた。東京も「『強制』という言葉を用いずに悲劇の本質を伝えることはできるのか」と指摘した。

 朝日は、手投げ弾配布や壕(ごう)追い出しなどをした軍の関与が集団自決が起きた状況の主な要因とする検定審見解を「多くの人が納得できるものだろう」と評価した。しかし、「強制した」というような直接的表現を認めなかったことには「疑問がある」とした。
 読売と産経は今回の「修正」を教科書検定制度を損ねかねない問題として強く批判した。

 読売は、軍が「自決しなさい」と住民に手投げ弾を渡したという記述について「根拠となった住民の証言の信頼性を疑問視する研究者もいる」と指摘。検定済み教科書にこのような訂正申請が「なし崩し的に」認められたら「政治的思惑によって、教科書検定制度そのものが揺らいでいくことにもなりかねない」と論及した。

 産経は、異例の再審議が行われたのは沖縄県議会の撤回要求や県民集会などのためとし「事実上の“二重検定”であり、それ自体、検定制度を逸脱している疑いが強い」と主張。「これでは、検定は何だったのかとの疑問を指摘されてもやむを得まい」「検定に対する不服申し立てを一部でも認めるような誤った対応を、二度と繰り返してはならない」とした。

  ◇次代へ、どうつなぐ

  沖縄県の2大地域紙、琉球新報と沖縄タイムスも今回の結果に強く反論した。それは、読売や産経の論点とは異なり、「強制」という表現が退けられたこと、当初の検定意見が結局撤回されなかったことに対してである。

  新報は「『集団自決』の現場にいながら命拾いをした多くの体験者らがこれまで『軍の強制』を証言してきた。その事実を検定審が一つ一つ丹念に検証した形跡はない」と指摘。「そのことを抜きに『軍の直接的な命令』を示す根拠はないと断定することに、果たして正当性があるだろうか」と問いかける。そして「文科省や検定審は現地での聞き取りなど、幅広い調査を」と実証の姿勢を求め、一方で県民にも「中途半端な解決では後世に禍根を残すことにもなりかねない。史実を後世に伝えるのは県民の責務であることを再確認したい」と呼びかけて結ぶ。

  タイムスは27、28両日にわたり社説を掲載した。「この一連の経過を通して見え隠れするのは『できれば日本軍という主語を消したい』『日本軍と集団自決の関係をあいまいにしたい』という背後の意思である」。そして沖縄と本土の間に「深い溝」をみる。  「沖縄戦における『集団自決』や『日本軍による住民殺害』の体験は、沖縄の人たちにとっては琴線に触れる『土地の記憶』であるが、『国民の記憶』と呼べるものにはなっていない。広島、長崎の被爆体験は『土地の記憶』であると同時に、『国民の記憶』にもなっている。だが、沖縄の地上戦体験は『土地の記憶』にはなっているが、『国民の記憶』になっているとは言い切れない」

  「本土紙」がなかなか持てない、あるいは見落としがちな視点だ。両紙は次代への継承を大きな課題、義務として挙げた。

  やはりというべきか。『産経新聞』、『読売新聞』の立場である。 日本の政・官・財・学の右翼的・反動的潮流のプロパガンダの面目躍如か。 週刊誌も含めマスコミ各社の姿勢は絶望的な状況にあると言わざるを得ない。 テレビが意外にまともなことを言ってるるかも知れない。顔をさらした状態では国民の意向に逆らう勇気がないということであろう。